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田中 麻梨亜(たなか まりあ)

  • 本のタイトル(著者名)※こんな風にamazonへのリンクを貼ると親切
    • 内容:あああああああああああああああああああああああああああああいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいうううううううううううううううううううううううううえええええええええええええええええええええおおおおおおおおおおおおおおおおおお
    • 感想:あああああああああああああああああああああああああああああいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいううううううううううううううううううううううううううううううううえええええええええええええええええええええおおおおおおおおおおおおおおおおおおお

竹鼻 翼(たけはな つばさ)


板垣 健太郎(いたがき けんたろう)

  • 憲法への招待(渋谷秀樹)
    • 内容:著者の渋谷秀樹という人は、司法試験を受ける人は読むであろう、「芦部憲法」で有名な故芦部信喜の一番若い弟子だそうです。題名のとおり、憲法学と関連づけての日本国憲法の解釈の仕方など、すごく分かりやすい解説となっています。日ごろ皆さんが憲法や政治などに対する疑問などは、大体解決できると思います。
    • 感想:非常に分かりやすいです。法学部に入る学生は必読ではないでしょうか。私が同意できたと思う一文をあとがきより引用します。「日本は今、憲法論議が過剰であり、かつ過少である、といった状況にあると思います。憲法の本質を知らないままに自分の思い込みによって憲法を論じたり、自分の主張に都合のよい憲法解釈を展開する傾向が強いという意味で過剰であり、にもかかわらず、憲法の本質を踏まえた議論がほとんどなされていないという意味で過少なのです。」前々から思っていたことですが、そう思いました。改憲派も護憲派も一度腰をすえて、落ち着いて憲法を見つめなおすべきだと思います。
  • 正義で地球は救えない(池田 清彦, 養老 孟司)  
    • 内容:あまりに無益な「CO2排出量削減」キャンペーン、ひどく不合理な「自然の生態系保護」政策…。「環境を守りましょう」という精神運動は、どこまで暴走していくのか!?「ほんとうの環境問題」とは何かを考えるための一冊。(アマゾンより引用)
    • 感想:最初は、「単なる浅はかなアンチエコ本かな」と思っていたのですが、なかなか核心に迫るものがありました。CO2を減らすくらいなら、今ある石油を使って代わりのエネルギー技術を作ったほうがいいというのは当たっていると思いました。昔の農村(江戸時代とかの社会)などを希望するという点では、これから重要な見解になるでしょう。そんな気がします。人間は都市化ばかりがいいというものではありません。「この本を読んでくれる人は、多分世間が変だと思っている人でしょう。むろん本音では、そういう人に増えてほしい。」世の中は疑って掛かる必要がありそうです。
  • 空想から科学への社会主義の発展 新訳(フリードリッヒ・エンゲルス著 寺澤恒信訳)
  • (私はたまたま国民文庫の版を手にいれることができ、それを読んだが、同じ内容のものが岩波文庫から出ており、「 空想より科学へ(大内兵衛訳)」がある。こちらのほうが入手しやすい。)
    • 内容:マルクス経済学の哲学「唯物弁証法」「唯物史観」「下部構造・上部構造」などのことが非常によく分かる名著である。かのレーニンも「非常に学ぶべきところが多い本である」と絶賛したそうである。「フォイエルバッハ論」とあわせて読めば、より理解が深まるであろう。
    • 感想:非常に感銘を受けた。かのレーニンも「学ぶべきところが非常に多い本」と絶賛したそうで。マルクス主義の哲学面である、「弁証法」「唯物論」が大体分かる。またオーウェンなどに代表される「空想的社会主義」とマルクス、エンゲルスの「科学的社会主義」の違いも分かる。弁証法や唯物論が与えられるまで、社会主義は科学ではなく夢物語に近かったのである。この本は英語版の序文が異様に長いが、イギリスを例に取り「唯物史観」が説明されている。この序文も非常に示唆に富んだものである。解説もあわせて読むことをお勧めする。一文一文が冗長で少し咀嚼に困るところも少なくないので、なるほどそうだったのかと理解する助けとなるであろう。
  • フランス史10講(柴田三千雄)
    • 内容:フランスの歴史(フランスの起源~第五共和政)までを、10に分けて解説した本である。しかし高校の世界史の教科書のような事実のみを列挙するにとどまらず、社会構造や政治家の思惑などにも渡って書かれており、社会学的な解釈や歴史学的な検討も多く含まれている。「高校の世界史が苦手だったから、無理かも知れない。」等と思っている人でも、暗記によることがないので、非常に読みやすいであろう。
    • 感想:欧州では非常に重要な国であるフランスだが、その歴史は劇場的に解釈されたり、「フランス革命」に至っては有名な少女漫画の作品に利用されたり、「救国の乙女・ジャンヌ・ダルク」も実際のところは悲劇の英雄である。などと意外とその正体は知られていないのではないだろうか。 経済学の発展段階論でも、西洋では「イギリスとドイツ、ときどきアメリカ」のみに焦点があてられ、フランスは申し合わせたように言及されない、というのが経済学を二年間学んだ学部生の私見である。これを読めば分かるが、「経済的に説明がつかないことがおおい。」のである(もちろんイギリスも典型的に封建社会が成立しなかったし、ドイツも典型的に自由主義段階が成立しなかったのではあるが)。今までは「ブルジョワ革命の典型例」とされてきた、いわゆるバスティーユ監獄襲撃に端を発する「フランス大革命」も、実際のところはブルジョワジーが革命の主体に必ずしもなりえていなかったのである。詳細はかなり込み入った事情があるのだが、近代国家への脱皮する過程での急激な変革が、結果として革命になったという了解が正しいといえる。実際、フランス大革命の後もプロレタリアートが量産されたかというと、そうでもない。実際に蒸気機関などによる産業化が達成されたのは、ナポレオン三世のころであり、フランス大革命をブルジョワ革命と解釈したとすると、時間的に一致しない。おまけに産業化が達成された後も、直ちに「ブルジョワとプロレタリア」が特徴的に生まれず、中間層が生まれたのである。その意味では、フランスは自由主義段階が典型的に生まれ出でなかったと考えるべきであろう(実際に宇野弘蔵も「資本論の経済学」で、「イギリスのあとを追うようにフランスとドイツが産業化を進めた。」と言及しているので、後進資本主義国に入ると思われる。)。ただ自由主義段階が典型的に現れなかったのはドイツも同様であるが、植民地の数でいうとフランスとドイツは雲泥の差があるではないかと思う人もいるであろうが、それは自由主義段階の前の重商主義段階(絶対王政)があったかどうかに規定されると考える。フランスはブルボン王朝期に正しく「朕は国家なり」で代表される絶対王政の栄華を極めた時期が存在し、対外的に植民地を持っていた(革命後の復古王政期にも、シャルル10世がアルジェリア遠征などを行っている。)。しかし同時期のドイツは神聖ローマ帝国であり、絶対王政とは到底呼べない、中世に見られたような封建的な制度を色濃く残しており、その意味では近代化が著しく遅れたと言える。神聖ローマ帝国が崩壊するのは、ナポレオンの東方遠征のときであり、その後にドイツ統一を果たし、1800年代後半にビスマルクがやっと中央主権化を果たし、国家の近代化に着手し、普仏戦争でナポレオン三世のフランスを破る、という流れになる。ちなみに日本も後進資本主義国の典型例である。仏独の差は、おそらくここにあると言えるであろう。また時代は下り、第五共和制のころに発生した「五月革命」という騒乱であるが、これは資本主義が爛熟し、その意味では満ち足りた生活を送っている学生であっても「フラストレーション」が溜まるのである。すなわち「生産力の矛盾」で規定される、唯物史観・唯物弁証法では説明のつかない「社会学的矛盾(=一切の拘束からの自由)」とも云うべき実態がそこにはあるのであり、それによってのみ行われるその意味での「階級闘争」であった。 むしろ資本主義が爛熟することによる矛盾とはここに存在するのではないか、とも思える。
    • というように、フランスの歴史はかなりその意味で「特徴的」である。経済的対立より政治的対立が先行した歴史である。「フランスは経済的矛盾より、政治的思惑に左右されがちな歴史を持つ。」ということは、エンゲルスも指摘していたそうである。
  • 韓国現代史(文 京洙)
    • 内容:基本的には韓国の平易な戦後の歴史を解説した本である。政治史ばかりではなく、歴史学的な観点や社会学的な検討も行われている。何かとこじれがちな日韓関係であるが、その日韓関係史を知ることで、自分の意見を持つことができると考える。
    • 感想:今でこそそれなりの先進国的な色合いを見せている韓国ではあるが(意外とすぐ通貨危機になるんだね、とも思うけど。)、ほんの20年前まで軍事政権であったことを、隣の国の国民で有る我々が、まずなにより知っておくべきである。韓流が一時期はやったが、正直韓国をそこまで深く知っている人はいないのではなかろうか。中国近代化の父である「鄧小平」を知っている人はいても、韓国近代化の父(と同時に冷酷無比な独裁者)である「パク・チョンヒ」を知っている人は中々いないのではなかろうか。韓国の近現代も、中国の過酷な人権弾圧の影に隠れて、中々どうして、血生臭いものである。「未だに韓国には、徴兵制が存在する。」それが、韓国の暗い歴史を考える契機となるであろう。
  • 不思議の国ベラルーシ―ナショナリズムから遠く離れて (服部倫卓)
    • 内容:東欧・スラブ圏にちょこんと存在する、地味な小国、ベラルーシ。その昔は「白ロシア」と呼ばれていた。しかし独立してからなお、いろんな意味でいびつな歴史を辿った。「ベラルーシとしてのナショナリズム」も、それはロシア、ウクライナとの関係を考えずには語れない。
    • 感想:ナショナリズムとは何か?国民と言語の関係は?それを歴史に翻弄された国、ベラルーシという国から考えていく本です。ベラルーシ国民は、ロシアとの緩やかな統合を望んでいる人が多い。高齢者は、昔のソ連の復活を望んでいるから、若い人は新しいリーダーであるプーチンに期待をしているから。ベラルーシ・ナショナリストは自分の国の歴史と向き合い、国民性を育てようとしている。しかし、ベラルーシは寛容と共生の国民性を持っている。その心が、ナショナリズムという思想によってかき消されるのであれば、それは果たしていいことなのだろうか?実際、独立時に過激な民族主義が勃興した時期もあったが結局は消えていった。ベラルーシ語という現地の言葉もあるものの、実際にベラルーシでベラルーシ語を話す国民は少ない。大体の国民はロシア語を使うのである。ましてやベラルーシ・ナショナリストもロシア語を用いていることもある。ベラルーシ語を使うことが、一概にベラルーシの国民性を育てることとは限らないのだ。日本においてベラルーシのことを専門に調べた人は少なく、これが本邦初のベラルーシに関する本である。日本からは遠く離れた国ではあるが、ナショナリズムを考える上で深い示唆を与えるものである。
  • 永遠平和のために(イマニュエル・カント著 宇都宮芳明訳)
    • 内容:世界の恒久的平和はいかにしてもたらされるべきか。カント(1724‐1804)は、常備軍の全廃、諸国家の民主化、国際連合の創設などの具体的提起を行ない、さらに人類の最高善=永遠平和の実現が決して空論にとどまらぬ根拠を明らかにして、人間ひとりひとりに平和への努力を厳粛に義務づける。(アマゾンより引用)
    • 感想:ヘーゲルやエンゲルスが、カントを否定していましたが、そこまでひどい内容だとは思いませんでした。むしろヘーゲルとカントは補完関係にあるような気もしました。「具体的な示唆」を与えたのがカントで、「抽象的な理論」を与えたのがヘーゲルと云った感じでしょうか。カントは政府が存在することで、人間の利己的な心に均衡をもたらす。のようなことを云ってました。これは理解ができます。ただ、国際政治の場では、その国家の代表になる人物は、利己的な心を持ち合わせているのでしょうから、「国際政治の場では、道徳的な心を持たねばならない」とするカントの言い方は、少し無理があると思いました。また「人間の理性にそぐう体制は共和制。なぜならば、国民の理性の意志を代表する国家であれば、戦争の負担をする直接背負う国民は、そのような大博打にはでない。」とするカントですが、ワイマール共和制からナチズムへ転化した事実を、どう説明するのでしょうか。国民は容易にイデオロギーに感化されてしまう存在なのかもしれません。ただ逆に言えばカントは、「国民は馬鹿じゃダメだ。(理性を獲得するために)学べ。」と示唆しているのかもしれません。民主主義ですからね。またカントは、商業を奨励しました。「平和でなければ商売はできない。」というのがカントの言い分でしたが、彼は「死の商人」や「帝国主義段階」を予見できなかったのでしょうか。そこも理性があれば克服できると考えていたのでしょうか。一見当たっているように見えて、よく考えると「?」と思えるところが少なくありませんでした。但し、「政治的な道徳家」は存在しない、や、「哲学者に耳をかたむけるべきだ。しかし哲学者が王になってはならない。」といっているところは、言い得て妙であると感じました。「自然が人間を平和に仕向ける」というのは、どうなんだろうとも・・・。
  • ヘーゲル哲学入門 (寄川条路著)
    • 内容:本書は、ヘーゲル哲学への本格的な導入を目指すコンパクトな手引きでありながらも、かなり大きなスケールを用いた少し歯ごたえのある入門書である。巻末には、読者の学習の便を図るために、ヘーゲル哲学の主要な専門用語(テクニカルターム)の解説を付録として載せた。さらに、ヘーゲル哲学に関心を寄せる大学生や一般読者のためのファーザー・リーディングとして、コメント付きの文献案内を基本文献と参考文献に分けて掲載してもいる。(アマゾンより引用)
    • 感想:入門書とは銘打ってますが、結構内容が濃いです。すぐに読み終わると思っていたのですが、実に一ヶ月掛かるという^^; 読む契機は勿論マルクス経済学の理論である「唯物弁証法」なのですが、結構違うのではないかと思いました。愛を重要視すると云う点で、ヘーゲル哲学を批判的に継承したとされるフォイエルバッハとは違います。また「啓蒙を啓蒙する」というところも非常に興味深い。カントの啓蒙思想が、最終的に宗教的支配さながらの、人間によるファシズムなどに代表される合理的支配を招いたんだそうです。「啓蒙的理性は、外部にある非啓蒙的な野蛮によってではなく、内部にある理性的な自己批判によってのみ完成されるのである。」 結局、「常識を疑え」ということなのでしょうか・・。「意識の経験とは、疑問を持ったり絶望したりという否定的な道程において、一人ひとりが経験を積み重ねて学んでいくひとつの歴史なのであり、個人にとっては、失敗と成功を繰り返しながら教養を身につけていく、人生の具体的な歩みなのである。」哲学とは決して遠い存在なんかではなく、非常に身近に存在するもののようです。読み進めていくうちに、「確かにそうだ。」と思うことは多いです。哲学は非常に抽象化されている学問なので(というか学問自体が抽象的なのだが)、身近な具体的な例に当てはめて考えることが、理解への道だと思います。
  • 資本論の経済学 (岩波新書 青版 733)(宇野弘蔵著)
    • 内容:マルクス経済学を社会主義イデオロギーから引き離し、マルクス経済学を本来の意味で「経済学」たらしめた宇野弘蔵。そしてマルクス経済学を「原理論」「発展論」「現状分析」に整理し、それぞれ「理論を整理する」「段階(重商主義・自由主義・帝国主義などの段階ごとに分析をする)」「現代の経済を分析する」というに仕分けた。元々この文章の原典は一般向けの市民講座で話された講演が元々になっており、平易な文言で書かれている。宇野経済学を知る上での、裁量の入門書である。
    • 感想:「宇野経済学」は、「社会主義的イデオロギーをマルクス経済学から分離させた。」として一種の悪評をこうむることがあるのだが、よくよく考えてみて欲しい。「マルクス経済学」は学説のひとつである。その点を明確にしえない限り(理論を正確に認識し得ない限り)、それを応用することは不可である。その意味において、「イデオロギーと分離はしたが、実践までもの目を摘んだわけではない。」のである。Ⅰ「資本論と経済学」とⅡ「マルクス経済学に特有な二つの用語「物神性」と「変態」について」は宇野弘蔵自身の資本論の解釈について講じている。見返しにも書いてあるが、資本論ばかりではなくスターリンの経済論文、レーニンの帝国主義論、ヒルファーディングの金融資本論についても参照しながら論を進めている。ここで宇野弘蔵は、商品の価値論で、少し興味深いことを云っている。商品の使用価値において、「20エレのリンネルと一着の上着は等価である。」といったところで、宇野はこれを「一着の上着になら20エレのリンネルをイツでも交換してよいといっているだけで(いわば欲望を満たすだけの基準を示しているだけ、これはつまり両者の交換行為を示しているものではない、としている。)、両者に等量の労働力が対象化されているものではない。」といっている。ただ宇野弘蔵は他のところで、「各種の産業生産物がそれがためにその生産に要した労働によって決定される価値によって売買されないからといって、それは資本家と資本家との間のことに過ぎない。しかもその生産物の生産に要した労働によって決定される価値を基準にしないでは、その剰余価値を資本の額に応じて均等に分配するということも出来ない。」とも云っている。おそらくこれは「結果的に」等価労働量によって価格が決定されるということに過ぎないと云っているのではなかろうか。だから、それ以外の要因で価値の変動するということはまず考えにくいのではあるが・・・(周りの企業が何かの要因で意図的に価格を下落させる要因、たとえば新たな技術の開発などの要員によって、ということは考えられるが。それならばまたその交換価値が下がるだけの話である。)。これはミクロ経済学が「限界革命」をなしたのと似たような感を受ける。「水とダイヤモンドのパラドックス」というものであるが、「水のほうが重要度(効用)が高いのに、重要度の低いダイヤモンドのほうが高い価格がつく。」というものである。ミクロ経済学では「全部効用」と「限界効用」を分ければ解決すると説いたが、等価労働量の額が価格を結果的に規定するといえば、納得がいくものである(まず量が少なくて取るのに手間がかかると思えば、取った業者は高い値を吹っかけると考えればよい。)。まず、効用の量などを考える必要は、少なくともマルクス経済学においては必要ない。Ⅲ「理論と実践」では、宇野自身の社会主義イデオロギーに対する考察が書かれている。ここで宇野は、唯物史観について一石投じている。まず、宇野弘蔵は唯物史観について、「資本論の説く社会主義の必然性には私は根本的な疑問を持っている。」としている。まず、「唯物史観そのもの」は「経済学」によって説かれているものであるが(ヘーゲル弁証法などの哲学を援用(準用?)している時点で、唯物史観を経済学によるものであると断言していいものなのかどうかとも、個人的には思うが。哲学は商品経済そのもののみを対象としているものではない。)、経済学とは本来資本主義的商品経済を解明しようとするものであるから、そのような学説が超歴史的な発展・転化の過程をとくことはできないとしたのである。確かに、唯物史観そのものによって、ブルジョワ革命を「ブルジョワジーが封建的桎梏を打破するための革命であると定義したにすぎない。」といえばそれまでである。ブルジョワ革命の代名詞といえばフランス革命があったが、実際のところはそうであるといえないとするのが多勢のようである。まずなにより、ヴァスティーユ監獄襲撃に端を発するフランス大革命によって自由主義段階がフランスにもたらされたかといえば、そうでもない(詳細はフランス史10講の私のレビューを参照していただきたい)。しかしながら、マルクスがフランス大革命を考察したというのは、事実のようではある。実際、イギリスで典型的に自由主義段階が形成されるときは、エンクロージャや産業革命によるものが大きく、決して革命があったというわけではないことに、留意する必要はある。むしろ、シュンペーターのいうように、「郵便馬車をいくら連続的に加えても、それによって鉄道をうることはできないであろう。」に代表される、「新結合(イノヴェーション)」によるものであると考えるが妥当であり、この新結合は原則として「単に古いものに取って代わるのではなく、一応これと並んで現れる。」し、「必要とする生産手段を何らかの旧結合から奪い取ってこなければならない。」のである(なぜにいきなりシュンペーターかと思われる人もいるであろうが、「資本主義は前資本主義社会の骨組みを破壊する際に、自己の進歩を阻止する障害物を打ち壊したのみならず、さらにその崩壊を防いでくれる支壁をも壊してしまった。(そのことについて彼は、ブルジョワジーは「幻聴と原価計算には夢中するが、政治的に無力であり、階級利益を守ることにおぼつかないからだ。」。)とした。」そしてさらに、「たとえマルクスの挙げた事実や理論付けが現在言われているものよりいっそう多くの欠点を持つものであったとしても、マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊することを主張するにとどまる限り、なおその結論は心理たるを失わないであろう。私はそう確信する。」といったことは、一向に値するのではないか。彼自身、自分の理論がマルクスのそれと重なり合うものであるとは、最初気づかなかったという。)私の、資本論を学ぶ上での疑問が、解消されたという意味でも、非常に価値あると考える。宇野弘蔵は、「イデオロギーを考える前に、まず資本論そのものをきちんと整理して体系付けることが重要である。それでこそ資本論が生きてくる。」ということを説きたかったのであろう。それでこそ、資本論を実践に移す過程までもが、整備されたものになるということに、他ならない。
  • トウ小平の遺産―離心・流動の中国
    • 内容:発火する経済。地方政府の暴走。都市に向かう民衆の奔流。現在の混乱は、改革・開放路線の必然なのか。一九七八年以来一六年間の「総設計師」鄧小平。その「思想」の何が、どのような現実を中国にもたらしたのか。「鄧以後」をめぐり、種々の憶測が飛びかうなか、北京特派員・香港支局長の経験に基づき、中国の〈いま〉を報告し、明日をよむ。(アマゾンより引用)
    • 感想:今の中国は名実ともに経済大国になりつつあるが、なぜそうなったのか、そしてどういう歴史があったのかを解説する本。ただ刊行は1995年なので、内容は古い。ただ鄧小平がどのように権力を掌握し、どのような政策を行ったのかは分かるので、多少なりとも役立つのではないだろうか。過去を知るというのも、悪いことではない。今の中国共産党の党是の一つである、「鄧小平理論」というのがあり、正しく鄧小平が作ったものである。ただ理論と云っても非常に場当たり的であり、理論と呼べるほどのものではない(毛沢東思想も、体系的ではないのだが)。ただ、「社会主義であろうと資本主義であろうと、生産力を上げるという点では矛盾していないので、社会主義が市場を活用しても問題はない。計画だろうと市場であろうと、方法である。」というなんともアクロバットな発想が鄧小平の思想である。この本の中で著者は、「中国共産党の求心力と指導力は低下している。」と述べている。今の主席の胡錦濤は「リベラリスト」と目されていたが、地味に強権的な側面ものぞかせている。これは、著者の予測が当たっているのだろうか。著者が今の中国をどう思っているのか、知りたいところである。
  • 職業としての政治(マックス・ウェーバー著 脇圭平訳)
    • 内容:あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理ではない。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して特別な倫理的要求をつきつけずにはいない。では政治に身を投ずる者のそなうべき資格と覚悟とは何か。ヴェーバー(1864‐1920)のこの痛烈な問題提起は、時代をこえて今なおあまりに生々しく深刻である。(アマゾンより引用)
    • 感想:政治とは何か。それが全部書いてある。これは1919年に、ヴェーバーが公開講義で講演した内容が収められているのであるが、かなりぶっちゃけた内容となっている。ここまで暴露されると逆にすがすがしい。「政治にタッチする人間は、権力の中に身を潜めている悪魔の力と手を結ぶもの」「全ての国家は暴力の上に基礎付けられている」←これはトロツキーも云っている。云いえて妙である。ヴェーバーは、どことなく形の変わったマルクス、エンゲルスのような気もした。ただ講演の内容をそのまま収めているので、章立てされていないので、少し読みにくいような気もした。一番後ろのあとがきとあわせて読むことで、理解が深まるであろう。
  • 職業としての学問(マックス・ウェーバー著 尾高邦彦訳)
  • 今の版は、こちらである。
    • 内容:第1次大戦後の混迷のドイツ。青年たちは事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、教師のかわりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバー(1864‐1920)はこうした風潮を鍛えらるべき弱さだと批判し、「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と彼らを叱咤する。それは聴衆に「脅かすような」印象を与えたという。(アマゾンより引用)
    • 感想:今でも問うべきところが多い本であることに、間違いはない。学生はもちろんだが、中高で教師をやっている人も是非読んで欲しい本であろう。教師は政治的指導者ではなく、学問を単純に教えるべき存在であり、自らの政治的意見や主観から自由でなければならないということは、今でこそ肝に銘じるべきではないだろうか。またインターネットでも政治的に偏向した意見が散見されるが、もし彼らが学生であるならば、本来的に学生の本分に戻るべきであろう。社会科学的事実は、道徳や政治的倫理的主観や価値から自由でなければならないということも説かれている。学問とは本来的にそういうものであるということは、云うまでもないし、むしろそうあるべきである。むやみな理想や世界観を描く前に、事実や現実を見据え、粛々と学問に携わるべきである、それが学生のあるべき姿だ。と、単純な主張で片付けることも出来るが、むしろ真っ当であるがゆえに、見落としていることもある。だからこそ説得力を持つのであり、気づかされることもある。マックス・ヴェーバーの著作は二つ目であるけども、「云われてみれば確かにそうだ。」と思わされることが多い。
  • 経済学の考え方(宇沢弘文著)
    • 内容;宇沢弘文の考える、経済学史の本であると同時に、彼の歴史上における経済思想を一つ一つ評価している本。A・スミスからミルトン・フリードマンまで解説がなされているので、なるほどそうだったのかと思わせる箇所も多い。
    • 感想:少し経済学に詳しい人でないと難解であるとも思える。経済学を初めて学ぼうとする人がこの本にとりかかると、少し難儀に思うかもしれない。多少は経済学の思想を一通りかじった人が読むべきであるといえる。今我々に課せられている使命は、ジョーン・ロビンソンの説く「経済学第二の危機」である。

今村 賢人(いまむら けんと)


内山 賢尚(うちやま けんしょう)


大信 一樹(おおのぶ かずき)

  • 豊かさのゆくえ―21世紀の日本 (佐和 隆光)
    • 内容:日本がなぜこのような豊かな国になったのか。それは高度経済成長によるものであることはもちろんのこと、日本が対米貿易などで黒字の立場にい続けたことによる。他にも日本がいかに他の国から不平等に扱われているかや、学園闘争の経緯など、初心者にもわかりやすく説明されている。これからの日本を考える上で、この本の事項は必須であると思われる。
    • 感想:「世界規模で日本を考える」なんてことは今までにしたことはありませんでした。以前私の高校に秋山仁さんが講演にいらしたとき「貧しい国に行ってごらん、それから君は変わるから。」と仰っており、精神的に貧しくなっている(?)私たちにとっては日本の立場が世界的にどのようであるかを知ってこれからどうすべきかを考えなくてはいけないと思っているところでした。この本は、バブル崩壊直前に執筆されたものなので、ある意味ハッピーエンドで終わっているところが特徴的です。
  • きみたちと朝鮮(尹 健次)
    • 内容:日本と朝鮮半島の国々の交流の深さを示し(例:飯能市とあるが、昔の朝鮮語の発音で韓国という意味であるらしい)、… (以下準備中)
    • 作成中

奥村 拓磨(おくむら たくま)


松本 友也(まつもと ともや)

  • 文化人類学の方法と歴史
    • 内容:文化人類学の学説史ですが、それなりにシンプルにまとまっています。全体像を知る入門書としては最適と思います。
    • 感想:文化人類学のパラダイムの変遷は、そのまま近代西洋の価値観の変遷と考えられます。人種差別、男女差別思想を生み出したり、またそれを否定したりするうえでの理論的根拠が文化人類学に求められていました。文化人類学にハマると物事を相対化して考える態度が身につくというか、断定への反発が条件反射で起こるようになります。そしてわりとニート的な思考になります。経験則的に。あと、現代思想のはじまりであるレヴィ=ストロースの構造主義は、元々文化人類学の方法論です。思想における構造主義は現象学や実存主義に対する反発で起こったのかもしれませんが、人類学的な構造主義は、機能主義に反発して起こりました。これは重要なことです。
  • 現代思想の冒険
    • 内容:近代哲学から現代思想までの流れを、そこそこ詳細に扱ってます。とりあえずこれ一冊読んどけばだいたいわかります。
    • 感想:カント~ヘーゲル・マルクスあたりの流れは別の本でしっかりやっといた方がわかりやすいかもです。あと現象学についての項目はちょっと微妙・・・。
  • ソシュールと言語学
    • 内容:構造主義の理論的なベースとなったソシュールの言語学について書かれています。ソシュールが打ち出した方法論は、言語学に学問としての価値を与えた超重要なものです。レヴィ=ストロースやバルトやデリダやラカン、そこらへんの構造主義、ポスト構造主義の学者は、ソシュールの生み出した言語学的な新概念(シニフィアンとシニフィエとか)を人類学、精神分析、テクスト批評など様々な分野に持ち込み自論を組み立てました。ソシュールがわからなければ現代思想はわかりません。
    • 感想:とりあえず1章だけでも読んでおけば、他の学者に引用されまくってる用語や概念、方法論についてはわかると思います。それ以降は言語学の突っ込んだ話になってくるので、興味が無いとつまらないかもしれません。

若林 諄(わかばやし じゅん)