作者:グリム
タイトル:井戸の底/Frog&bone 1/2
蛙のように井戸の中。
与えてくれたのはくすんだ色のシャレコウベ。
読みを与えられ。
書きを与えられ。
算盤を与えられ。
けれど外の光は与えてくれない。
蛙のように、井戸の底。
ほんのりと、松明の灯が見えた。まだ意識は薄らぼんやりとしていて、起きるのが億劫。まだ寝てようかの。しかしあんまり寝てるとキョウが怒る。でも最近寒いから、毛布から出たく無いのぅ。
寝返りを打つ。胸元に柔らかい感触。なんじゃ?
黒猫が一匹、布団の中に寝ていた。
「……なにをしておるのじゃ」
「おお、起きたか姫。何、この翁、僭越ながらも姫の胸元を暖めようとな」
「冗談はその口だけにせぃ、このスケベジジイが」
首根っこを掴み上げて黒猫を布団から放り出す。見事に黒猫は弧を描き、壁に激突。妙な悲鳴を上げたようじゃが、良い気味じゃ。またジワジワとやってきた睡魔に流されるように目を閉じる。やはり、寒いと毛布が気持ち良いの。
キョウが帰ってくるまで寝ていようかの。
どうせここには、“夜”も“朝”も、関係無いのじゃから。
しかし邪魔と言うモノは、これから何かを為そうとすると顔を出すものらしい。土と岩を打つ乾いた足音が耳に届く。恐らくキョウの足音じゃろう。それは戸の前でピタリと止まった。
木でできた、粗末とも呼べる戸が叩かれる。
「姫。起きておいでか」
さて、答えても良いがいささか眠い。
「……よもや殺されてはいまいな。そうとなれば無礼を承知で乗り込むほかない。間違いならば姫の愛くるしい寝顔を見るだけ。ならば役得と言うもの。姫、いざ――」
「やめいッ! 本音まで筒抜けておるぞ!?」
「チッ……ご無事でしたか、姫」
「ほんに、姫と呼ぶならば妾を少しは敬えぃ」
「お断り申します」
戸の向こうの声はそれ以降、すっぱりと途絶えた。
全く、キョウも困った奴じゃ。仕方なく毛布を剥ぎ、布団から半身を起こす。が、やはり寒い。この立地も多少影響しているのじゃが、キョウの話によれば“外”はもっと寒いらしい。恐らく嘘じゃろう。
これ以上の寒さなど、あってたまるものか。
着崩れた白装束を整えて深呼吸を一つ。肺の臓に冷たい空気が満たった。
「……時に」
「なんじゃ」
「少々“外”用事がありますゆえ。食事を済ませられたら適当に自習をして置いてくだされ。昼餉までには戻ります」
「今は起こしに来ただけか」
「二度寝などなさらぬように。では――」
足音が遠ざかっていく。どうやら本当に用事らしいの。
さて……
戸を少し開いて外を確認する。よし、確かに何処かへ行ってしまったようじゃ。戸をきちんと閉め、念を入れて椅子を使って固定する。こうすれば、キョウとて用意に進入する事はできんじゃろ。
よし、二度寝じゃ。
冷たい空気から逃れるようにして毛布の中に潜り込む。柔らかいものが胸辺りに当たる。
「……なにをしておるのじゃ」
「おなごの布団の中とはいいモノじゃの。柔らかいものが二つ当たっておる」
黒猫の首根っこを掴んで叩きつけ、二度寝をすることにした。
ほんに、人は良くぞ毛布を生んでくれたモノじゃ。
……
たまには肉を食いたいのぅ。
相変わらず寒い室内で目を覚ます。さすがにもう眠気は無い。松明の灯をボンヤリと眺めながら、妾の胸を堪能している黒猫の首根っこを引っつかんで壁に叩きつけてやった。ほんに、懲りん奴じゃ。
まだキョウは帰って来ていない。となると、昼餉の時間にはまだなっていないようじゃ。
装束を整えて木の戸を開く。
そこはむき出しの岩と土の廊下。苔と水の臭いが漂ってくる。
「……たまには苔を落とさんと、やはり臭うの」
昨日少し落としたはずじゃがすぐに苔は生えてくる。いっそのこと燃やしてしまった方が良いのではないかとキョウに提案したのだが、そんな事をすると妾が死んでしまうがそれで良いのなら、などと抜かしおった。良いわけ無いじゃろう。嬉々として外から火薬だとかガソリンだとか持ち込みおって。
近場にあった戸を開く。そこにはきっちり火薬とガソリン。あとライターがうず高く積まれていた。
どうするつもりじゃ。需要も無いじゃろうに。
そうこう考えているウチに、食堂として使っている部屋の前に辿り着いた。戸を開く。机の上にはもうすっかり冷めてしまっているであろう朝餉が置かれていた。それをそのまま備え付けてあったオンボロの電子レンジの中に突っ込む。
スイッチを押しても反応せず、怪訝に思うたが、やや遅れて低音を響かせて回り始めた。
もう少しまともなものに代えてもらいたいのぅ。
炊飯器を開く。こちらもオンボロじゃが、中身は無事のようじゃ。一合分の米が詰まっておる。それはもくもくと湯気を上げ、米独特の匂いを漂わせておる。反応するように腹の虫がなりおった。我慢できん。杓文字で米をすくい上げ、茶碗にのせる。
まだ暖めが終わって無いが、背に腹は代えられん。そのまま白米をかっ込む。
「ほぅ……美味いの」
海苔の一つでもあれば良いのじゃが――そう思って目に付いたのは、食卓の上の醤油瓶。
手に取ってみる。
「ふぅむ……いやしかし……じゃ、じゃが物は試しとも――」
結果がこの白に黒を混ぜたような飯じゃった。最初は後悔したが、中々どうして、これが美味い。残った半合分の米も醤油をかけて食べ終えてしまった。冒険と言うモノはやはり良いモノじゃ。
そしてはたと気付く。電子レンジはもう止まっておった。
今日は玉子焼きとホウレンソウのお浸しの残り。後はきんぴらごぼうと唐揚げ。米を平らげてしまった今では食うに厳しいものがある。
「おうおう、姫。これは朝食か。なんとも良き匂いが……」
振り返ってみれば、食い意地のはった老猫が一匹。三度壁に叩きつけたはずじゃが、さすが化け猫。その程度では死なぬか。意地汚くも黒猫は食卓の上に飛び乗り、更に盛られたそれらを眺める。
「ほぅ、いいモノじゃの。どれ、頂こうか」
「待て」
猫の額ほど狭い、ああ、猫の額じゃったか、それを叩いて黒猫を止める。思いのほか力が入ってしまって黒猫は食卓の下まで転がり落ちたが、また飛び乗ってきた。しぶといものじゃ。
そしてそこで名案が浮かぶ。
「……黒猫。朝餉が欲しいかの?」
「ダメかのぅ?」
「いや、今回限り許す。この姫の寛大な心を敬って獣のように喰らうが良い」
「見た目は獣じゃが心は紳士じゃよ」
「口の減らぬ獣じゃ」
「さてな?」
黒猫は嬉しそうに言うと、真っ先に唐揚げに齧り付こうとする。しかし妾はそれを横から取り上げた。
「それでは後のモノは任せたぞ。欠片ほどにも残したら承知せんからな」
取り上げた唐揚げを頬張りながら部屋を去って行く。
「それが老人にする仕打ちか!?」
背後からそんな声が聞こえたが、生憎と老猫に気を使うつもりなぞ毛先ほどもない。
食堂から出て、寒々しい土と岩の廊下を歩き、妾の部屋の前まで行く。そこの戸は、やはり粗末な木で作られた戸じゃった。松明で照らされているせいでまたおどろおどろしく、ボロッちく見える。しかし戸の、丁度妾の目線と同じ辺りに、美しい紋様が刻まれている。それは植物と花。キョウに聞いても答えてくれんかったが、隠れて少しだけ調べて分かった。“家紋”というものらしい。
黒猫なら何か知っているのじゃろうか。食堂までの道を振り返る。
いや、あの猫のことじゃ、いいようにはぐらかすに決まっておるわ。
戸を開く。
もう少し寝ても、バチは当たるまいに。
「姫」
まどろみから妾を引っ張り上げたのは、聞きなれた声。薄っすらと目を開く。そこには黒々と落ち窪んだ双眸。褪せた白色の肌。剥き出しになった歯。顎骨。つまるところ――骸骨の頭。
「……キョウ、勝手に入りおったな?」
「まさか。何度お呼びしてもお答えがなかったものですから。姫に何かあったのでは無いかと思いまして、この外から持って来たカメラで麗しい姿を納めた次第に御座います」
「そこに直れぃ!」
毛布を蹴飛ばし、妾より二周り大きい髑髏に人差指を向ける。
「ですが姫。私は申したはずです、二度寝などしないように、と。二度寝なさいましたね?」
「三度寝じゃ」
「そこに直りなさい、姫」
今度はキョウが立ち上がって指差してきおったが、返す言葉も無い。しかし、今に始まった事ではないが、妾は自習が嫌いじゃ。好き勝手に何かを調べるのは好きじゃが、定められるのは嫌いじゃ。
前にキョウに言ってみたら説教を喰らったので、思っても口には出さぬが。
人骨の説教が延々と続いている。
「――ふぅ、全く。姫。もう少し姫らしくなさってください」
「キョウ、もう少し姫のように扱い、敬え」
「お断り申します」
このやり取りも何度目か。キョウは踵を返して戸を開く。冷たい空気が足元から入り込んでくる。
「姫。夕餉までは書物に目を通してください。昼餉はサンドウイッチを持ってきますゆえ」
そう言って戸が閉まった。返事すら待っておらん。
姫と言うモノは王子に救われたり、執事とやらを従えるもう少し敬われる存在じゃと思っておったが、実際には違うようじゃ。全く、キョウが外から持ってくる本も役に立たんの。
本棚から適当に本を抜き出す。
抜き出したその一冊は手に取った途端に崩れてしまった。怪訝に思うて本棚の裏の方を凝視する。どうにも地下水が滲んでいるらしい。その本は濡れてしまって、もう本としては機能し無さそうじゃ。本の断片を掻き集め、一まとめにして部屋の隅に置いた。なに、この本なら何度も目を通しておるから、惜しくも無い。
「む……」
ただ、一枚だけ。頁を手に取った。これは、取って置くかの。
「さて、今日は何を読むかのぅ。……えー……おお、これがいいの」
本棚から『月間戦う女の子』を引き抜く。パラパラと捲って見るが、少女達の危うい写真が並んでおる。おお、このアングルは……倫理何とか、とやらは大丈夫なのじゃろうか。いや、今はハイカラな時代と言うし……これくらいが普通なのかの?
……おー。
この服は良いの。妾も白装束に限らずこのようなフリフリだとか言うのも着てみたい……
「おおう、姫。一つ前に戻してくれぃ」
「――っ!?」
本を閉じる。顔を上げると、黒猫が本を覗き込んでおった。仕方ないので首根っこを引っつかんで壁に叩き付ける。黒猫はそれで動かなくなったが、気が済まなかったので掛け布団に包めておいた。首は出してやったので死ぬ事はあるまい。
いや、何じゃ。あんまりこういうものは読まんほうが良い気がするの。黒猫の入る時には特に。
本棚に背表紙を向けないようになおす。うむ、こうすれば背表紙は見えぬし、キョウには見付かるまい。
黒猫が家に居るときにああいうのを見るのはダメじゃの。
しかし――やはり、服じゃ。こんな、井戸の中の生活じゃあキョウが外から取って来た服しか手に入らぬ。しかもキョウの奴は異形じゃからまともなところから服も変えんし……おかげで死人の着るような白装束ばかり。
外に出れば、妾もこのような服が着れるのじゃろうか。
戸が叩かれる。
「姫。サンドウイッチを持って参りました」
「待て、今開ける」
妾はずっと、このままなのじゃろうか。
「のぅ……キョウ」
戸越しに声を掛ける。キョウはそんな時、決まって戸を開けたりしない。戸の向こうで気配だけがある。次の言葉を促すでもなく、戸を開けろと言うわけでもなく。こういう所では紳士的じゃ。普段からこうじゃったらいいのにの。
さて、突発的に声を掛けてしまったので何を言えばいいのか言葉に詰まる。
「姫?」
「あ、いやな。妾はどうしてこんな所に居るのか、と。今更ながら思っての」
妾はここ十三……いや、十四年だったか。この薄暗く松明の灯だけの場所で過ごしてきた。その長い間で思うところが何もなかったわけではない。しかし、言うのは憚れた。単純に言い辛かっただけなのじゃが。
……軽い流れでいう言葉じゃなかったかの、と今更ながら思ってしまう。じゃが出てしまったモノは仕方あるまい。返答を待つ。
「姫は出たいですか?」
しばしの沈黙の後、キョウから帰ってきたのはそんな質問じゃった。
「出れるのかの?」
「出れます。しかし姫の意思次第。姫が外を欲すのならば、このキョウ、叶えましょうぞ」
少し、ほんの少しだけじゃが、妙に思った。
キョウが真面目じゃ。いや、それだけならときたま、極稀にあることじゃ。そうではない。そうではない……底知れぬ覚悟、じゃろうか、なんと言って良いか分からぬ。ただただ――妙じゃ。
戸越しに声を掛ける。気配は未だ動かぬ。
「キョウ。変なものでも喰ったか?」
「ははは、姫、ご冗談を。私は骨です、食ったものなど隙間から零れてしまいしょうぞ」
乾いた笑い声。
「姫。ここに昼餉を置いておきます。これを食し終えたら準備を済ませてくだされ。代えの服を鞄に詰めればよいでしょう。後は大切な物を一つだけ――お忘れにならぬよう、一つだけですぞ」
物を置く音が少しだけ聞こえ、気配が遠ざかっていく。
戸を開いてもそこにキョウはおらんかった。ただ昼餉であろうサンドウイッチが置いておる。それを一つ頬張って、暗く続く奥を眺める。しかし、妾には遠くまで続く闇しか見えぬ。皿を手にとって戸を閉じる。広がるのはパンとレタスとトマトとベーコンの味。相変わらずキョウの作るサンドウイッチは美味い。
皿を机の上に置く。
「大切なもの――……のぅ」
何を持っていったものか。キョウは一つだけ、と言ったが、一つだけと言われると思いつかないモノじゃ。
月間女の子……いや、こんな雑誌なら“外”にあるじゃろう。なればこの本棚の中の物を持っていく事も無い。例えば……枕? や。慣れ親しんだモノじゃが持っていくほどでもない。毛布? 確かに気持ちのいいモノじゃがこれも却下じゃ。それならばこのサンドウイッチ……は、腐るか。難しいの。
じゃが、他に浮かばぬ。ならばこれにするか。
そう思って慣れ親しんだ枕を持ち上げる。
その下から一枚の紙切れが零れた。それを拾い上げる。それを畳み、懐にしまう。
「これでいいの。後は着替えじゃな」
ピーンと来たモノはこれじゃったからな、仕方あるまいて。
光を与えられぬ蛙、光を求むる。
知るのは大海か、それとも大獄か。
知らぬ蛙は鼻歌混じり。
シャレコウベは何も言わぬ。
可愛い可愛い、蛙のお姫様、何も知らずに何処へ行く?
