See visionS / Fragments 8 :『あめあがり』- last supper -◆ANI3oprwOY
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/あめあがり - last supper -
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「ん、なんだこの良い匂いは!?」
揚陸艇を回収するという、枢木の当初の目的は滞りなく達成した。
波も安定せず、瓦礫も漂う海を、枢木は予め用意していた水泳用具で海に飛び込み、数分も経たない内に揚陸艇まで独力でたどり着いてしまった。
損害状況をチェックしてみれば、外装と内装こそ酷いがエンジン、動作環境に異常はなく、
運行にはいちおうの支障がないという良好な状態だったらしい。
正直、僕は必要だったのかと自問するぐらいの働きぶりだった。
そうして回収を完了させた揚陸艇を都市部の方の岸に寄せ一旦後にし、
市街地に帰ってきた僕が気付いたのは、鼻を揺らすかぐわしい香り。
ジープで帰還する途中で漂ってきた煙と、磯とは趣を異とする匂い。
ここが人のいない街、殺し合いの舞台である事を忘れさせてしまうような、
洗浄された無味無臭の世界を染め上げる温かさがあった。
「誰かが料理してるって事だよな、これ」
思わず分泌される唾液を飲み込みつつ、僕は匂いの出処を視線で追おうとする。
走る車から、通り過ぎていく建物へ丹念に目を配らせていく。
すると、見覚えのある学生服に身を包んだ少女が、古い喫茶店から出てきたのが視界に入った。
「枢木、止まってくれ。平沢が来てる」
返事はなく、枢木は静かにジープを停止させる。
程なくして近づいてきた平沢の手には、丸めて畳んだ何かの衣服があった。
そしてもう片方の手には、これまた何故か、おたまを持っていた。
ちょっと不安だったけど、大丈夫そうで何よりだ。
でも正直、置いて行ったという負い目が今更のように湧いてきて、なんだか彼女の方を見づらい。
それでも無視するわけには行かないので、助手席から彼女と視線を合わせた。
すると以外なことに、平沢の方から口を開いて。
「おかえりなさい」
「あ、うん、ただいま」
何気ない迎えの挨拶。僕も反射的に言葉を返してしまう。
場所や過去、今まで積み重なった経歴を置いて傍目に見れば、なんだか家に帰宅した家族を出迎えるようなやりとりで。
なんだ……どうしてか僕は、家にいる二人の妹の姿を頭に浮かべてしまって。
彼女が出てきた場所や、その装いなど、気になるものが多くて、一度に言い出せず詰まってしまう。
しかし何事かを僕が言おうとするよりも先に、意を決したように平沢が話を切り出してくれた。
「えっと……ご飯、作ってたんです。いま出来たので一緒に食べませんか」
相変わらず弱々しい声だったけれど、さっきまでより力が篭っているように聞こえた。
「ご飯か」
匂いは今も僕の鼻孔を擽って、長らく機能を忘れていた胃腸が、食事という単語を聞いて騒がしくなる。
作業に没頭していた頃は気にも留めていなかったが、朝に学校を出て以降、何も口にしていなかったのを思い出す。
疲労が蓄積して体が栄養を求めていても口に入らなかったのが、大分時間が経過して傷が癒えてきたおかげで食欲が戻ってきたという事か。
思い出すと益々空腹感が強まった気がする。
「ご飯かぁ」
武士は食わねど高楊枝。されど見栄を張るのはここでは無意味。
何より全員分まで作ってくれた行為を断るのも無粋だ。
「腹が減っては戦はできぬっていうけど、正にそのままだよな」
誘いを快く受ける。とにかく空腹であるのは隠せない事実。
願ったり叶ったりだ。
「それじゃ頂こうかな。枢木もさ、一緒に行こうぜ」
隣の枢木にも来てくれるよう促すと、特に異論もなく同意してくれた。
栄養補給が取れる事に越したことはないと考えているのだろう。
整備の段取りは最低限のものとはいえ済んでいる。
最後の晩餐だなんてのは演技でもないけど。
そもそもまだ昼だけど。
大準備の前に蓄えるべきだという判断は間違ってはいないだろう。
「はい。じゃあ、店の中にどうぞ」
平沢の相変わらずか細い、だけどどこか嬉しそうな声に導かれるように。
僕らは喫茶店の中に入っていった。
遺跡と名付けられた薄暗い店の中は、陰鬱さを感じさせない丁度いい雰囲気を保っていた。
平沢は最後の下準備をするといって、エプロンを結び直しカウンターへと消えていく。
白い大きめのテーブルに、枢木と向かい席について料理を待つ。
「……」
「……」
なにか、とても、気まずい空気に包まれる。
詰問室にいるでもないのに、奇妙な緊張感が胸に刺さる。
仕方のない状況であるとはいえ、食前の和やかな雰囲気とはいかないのが少し寂しい。
腹も萎縮して鳴り喚くのも治まる中で。
ぐう。
きゅるるるるう。
くうううううくうううう。
じゅるり。だら
極限まで飢えた肉食獣の唸りの如き蠕動音が、部屋中に広がった。
「……」
一刻も早く餌を催促している威嚇のような怪音。
音源は、僕たちが入る前よりいち早く椅子に座っていた、白い先客の腹から出ていた。
いつの間に
インデックスがここに来ていたのかは知らない。
平沢が言うには料理が終わる頃にふらりと扉を開いてやってきたという。
勝手に厨房へ入り込もうとしたところを式に阻まれ、大人しくしていれば食わせてやるという条件を聞いて
それにしたがってこうしてじっとしているらしい。
「……それで、何しにきたんだ、おまえ?」
「栄養摂取が目的ですが、何か」
隣り合う席でみじろぎひとつしないインデックスへ声をかける。
話に聞く限りは単に飯を食べに来ただけのようだが、ひょっとしたらそれ以外にも何か意図しているものがあるのではないか。
主催の端末。懐疑の念は無いとはいえ気になるものがないわけではない。
そう勘ぐった僕の視線を受けて、インデックスは口を開き出した。
「このインデックス――十万三千冊の魔導書を収めている私は、人の体を資本として活動しています。
現状、生命活動に必要な栄養素、タンパク質等が不足しており、
このままではやがて栄養失調に陥り魔導書としての機能を落とす危険性があります。
栄養補給以外での生命活動の補完手段は複数保有していますが、
いずれも消費を必要とする行為であるため総合的な差し引きはゼロ。
よって生命として基本的かつ原初的な補給方法を取る事が最も消耗を抑えられる選択肢であり、」
「もういい、わかった。つまり腹が減ったんだな」
「簡略的に示せばその通りです」
要するに飯を食べに来ただけのようだった。肩の荷が下りる。
言い訳せず認める辺りは無駄に素直だ。
椅子にかけた小さな膝の上には、いつ入り込んだのか一匹の三毛猫。
中を見渡せば、もう二匹の同胞がめいめいに動き回っている。
窓際には変な亀も歩いているし。
気づけば生き残りの半数とプラスアルファが集合して、なんだか賑やかな事になっていた。
「まぁ、人数が多いに越した事はないよな……」
大勢で食卓を囲む姿はいつだって暖かなものだ。
現実ではままならない事も多々あるが、その光景に憧れない者はいない。
空いた席が埋まってくれるのはむしろ歓迎したい気分だった。
ややあって、巨大な土鍋を持って式が現れた。後ろでは平沢が小皿を持って運んでくる。
テーブルの真ん中に置かれ、大部分を占拠する鍋。
それを中心にして囲うように小皿が置かれていく。
ふたを開けた瞬間に、大量の湯気が辺り一面に飛び出していく。
中に入っていたのは、卵とじにされ、人参や葱などの野菜で彩られている雑炊だった。
一度に大量に作れ、お腹に優しく、栄養価も高い。今食べるにはぴったりといえるだろう。
小皿に盛られているのはは、梅干しや野沢菜などの漬物だ。
味に飽きた時のためのつけ合わせだと、平沢が教えてくれた。
それと最後にお味噌汁もついて、豪華な食事になる。聞けばデザートまであるというから驚きだ。
大ぶりの茶碗に順次中身が注がれていく。
目の前に置かれた料理。
沸き立つ湯気に昂揚して生唾が止まらなくなり、思わず喉を鳴らしてしまう。
今すぐにでもかきこみたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。最低限のマナーは守る。
「それじゃ――」
人数分に注ぎ終えた時、誰が示し合わせたわけでもないのに全員が両手を合わせていた。
インデックスだけは、重ねた指を握りしめ額の前に添えた。
「いただきます」
唱和が重なった。
インデックスを除き、今ここにいるのがみな日本人だったのは何の因果か。
それどころかインデックスも声を揃えるという、不思議な統一感だ。
レンゲでだしを吸った米をすくい、口に近づける。
あまりの熱さに唇が離れてしまうので、息で入念に冷ましてから再度口に含んだ。
「お……おおぉ……美味い!」
知らず、賛美の声が口を突いて出てきた。
下に触れた瞬間、肉でもないのに味が一気に染みこんでくる。
喉を通り、胃に落ちる過程に生じる熱すらも甘美に感じる。
そこから全身に行き渡る温かみ。血流に乗り毛細血管を押し広げていく栄養素。
冷えていた手足が燃え上がる。萎えていた脳細胞が活性化する。
凍りついていた肉が溶けていく。死にかけていた体が再生する。
まさに生き返るような心地だった。
空腹だったというだけじゃない。
これは本当に美味い。
味の秘訣は素材か? だしか? 炊いた時間か?
感嘆を言葉にしようとするが、すぐさま舌が乾いていく。思考の暇すらもが惜しかった。
もはやただ食すのみだ。飽きるまでこの上手さを味わい尽くす。
レンゲを握る手は止まらず、口は放り込まれた食物を飲み込むだけの装置に変わる。
栄養などという名分は次第に薄れ、食べる為だけに食べる。
果てなく、限りなくかきこみ続けていく。
「おかわり、まだありますよ」
かかってきた声に顔を上げると、目の前に差し出された平沢の掌が広がっていた。
ところどころに、細い指に似合わない出来立てのまめがある。
そこでようやく、レンゲが空になった器の底を叩いているのに気付いた。
「……ありがとう」
発汗で赤くなっていた顔で茶碗を差し出す。
受け取った平沢は、一端椀を置いて、別の方向へ手を前に出した。
「あなたも」
思わず、僕は息を飲んでいた。
手の先には、同じく完食していた枢木。
平沢のその手が、僕の時と違って、震えているように見えたのはきっと見間違いじゃない。
「………」
枢木は何も反応を見せず黙々と食べていたけれど、
少しだけ硬直し、だが無言で、茶碗を差し出していた。
平沢もまた無言で、おたまで雑炊を注いでいった。
「いやほんと美味しいよこれ。料理上手いんだな平沢」
都合三杯目のおかわりが渡される束の間に感想を漏らす。
空腹は最高の調味料であるというが、やはり格別の美味さだった。
「料理を食べる」という行為にかつてこれほど心を動かされたことがあったろうか。
大げさかもしれないが感動すら覚えていた。
一々大仰なリアクションを取る料理評論家の心情が今なら分かる気がする。
「私は後から手伝っただけですから。ほとんど式さんが作っちゃいました」
謙遜するように語る平沢。
どうしたことか、そこには少し式への対する敬意が込められているように感じる。
式が料理出来るというのも驚きだが、それ以上に、彼女が二人でエプロンをつけて隣に並び、
料理に勤しむ姿というのも、些か以上に奇妙な光景ではないだろうか。
「そうなのか、凄いんだな、式。
あ、おかわり頼んでいいか」
孤立ぎみな式が誰かと関わった事。それと平沢が誰かと歩み寄れた事。
これから続く死闘にすればほんのちっぽけな、雨粒ほどの出来事だけど僕にとっては、喜ばしいものだった。
「いいけど、また味噌汁か。そればっかり、やたらと食べるな」
「ん……いやー、なんていうのかな。これだけ他と違うっていうか」
相変わらず表情の読めない式に対しても、だから僕は少し上機嫌で話せていた。
「雑炊や漬物と違って、食べたこと無いくらい美味いッってワケじゃなくて。
でも、なんだか懐かしくなる味っていうか。日常の味っていうか。家に帰ったみたいで、好きなんだよ、これ。
式はそういうツボのおさえ方もできるんだなっていうか、隙無しかよっていう……か……」
「…………」
「…………」
だけど瞬間、微妙に変わった空気に、僕は少し戸惑う。
ピクリと、ほんの一瞬だけ居心地悪そうな表情をした式。
そして彼女の背後で、ピタリと固まっている平沢。
なんだ、まずいこと言ったのか、僕は。
「……それ、作ったのはオレじゃないよ。
味噌汁だけは時間がなかったから、ぜんぶ平沢に任せてた」
「……あ、そう、だったのか」
式の視線を追うようにして、視線を平沢に移せば、彼女は目を逸らしてしまう。
ひょっとして照れている?
のとは、少し違ったようだけど。
「あの、式さん、私がやります」
「好きにしろ」
式からおたまを受け取った平沢が、僕の手におかわりをくれる。
何かを思い出すような。
とても、とても、『痛そうな』表情で、だけど。
「おかわり。まだ、残ってますから。たくさん、食べてくださいね」
その痛みに、僕はまた食べることで応えようと思う。
永遠などないと知っている。
これから先、ここに集っている者が生きてまた会える保証など、一切もない。
さっきは否定したけど、やはりこれは最後の晩餐、ならぬ最後のランチタイムだ。
全員が生き残る。全滅し力尽きる。数人か、一人だけが生還する。
結末はどうあれ、
皆ががこうして囲める日が二度と訪れないのは、確実なのだから。
せめて、後になってこの時に悔いが生まれないように。
忘れられない味を、僕は噛み締めた。
「おい、もう少しゆっくり食え。どれだけ食べるつもりだ」
そんな感慨を抱くのを他所に、本日の調理師である式が文句を告げてきた。
口調には呆れたような韻が踏まれている。
「え? まだ僕、雑炊は三杯だけど」
「おまえらじゃない、そっちのやつだ」
式の指す方向には、同じく三杯目に入っている枢木……ではなく。
一心不乱に大口で料理を頬張る白いシスターだった。
掬っては口に入れ、味わう間もなく飲み込んだかと思えばすぐ新たに掬った雑炊を飲み、嚥下する。
もはや両手で抱えて口に流しこんでいるかの如き早さだった。
何故そうも食べるのか。何故そうまでして急ぐのか。
誰にも渡すまいと鍋本体を抱え込まんとしそうな勢いは、最早執念の域に踏み込んでいる。
「もう八杯目だ」
「早え!?」
実に僕の四倍速はあろうかという加速度だ。
この小さな体躯のどこにそんな許容量があったのか。
居候三杯目にはそっと出しという格言もなんのその。
傍若無人のはらぺこぶりは留まるところを知らず、早送りで回している映像のように中身は減っていく。
眺める観衆の反応はは驚きよりも呆れの方が大きいようだった。
「けど……ちょっとお行儀が悪くても、おいしくご飯を食べてくれるのは……嬉しいです」
誰もが口を閉ざす中で、憂だけは優しい声を出した。
その目には、どこか懐かしいものを見るような、郷愁の念が込められていた。
「あ……すみません、おかわりどうぞ」
目の前に置かれる新たに山盛りになった雑炊とお味噌汁。
落ち着いていた食欲が再び奮い立つ。
今度はつけ合わせを試してみようと、僕は組み合わせを考えつつ丼を持ち上げた。
晩餐は、ものの十数分とかからず完食となった。
あれだけあった雑炊は食い尽くされ、大きな土鍋の中身は全員の胃の中に消えた。
ちなみにデザートは白玉ぜんざい。
無論、今まで食べた事のないぐらいの美味だった。
「それじゃあ――」
手を合わせて、
「ごちそうさまでした」
腹が満たされた心地のまま、最後の休息として体を休めた。
雨は止み、地面は固まりつつあり、前へと歩き出す準備は整われる。
日は頂点を越え、後はなだらかに降るのみ。
斜陽の終わりを待つ僕達は、安息を微睡むように抱きしめていた。
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◆ ◆ ◆
滅びの大地の内海で、男もまた昇る白煙を眺めていた。
説明の余地がないだけの大破壊がもたらされたショッピングセンター周辺。
砕け散った街塔に仰臥するのは、機能を断たれた鋼の騎士。
主なきガンダムエピオンは沈黙を貫き、その威容を木偶に貶めたまま晒されている。
命は意志も宿らない機械は物言わず、ただ己の姿を以ってその心を表す。
地上で膝を折る主、
グラハム・エーカーの砕けた有り様を。
痛みは感じない。
苦しみを思わない。
行動を止め思考を捨て、あらゆる選択肢を放棄し、唾棄し、投棄している。
生命活動の上では生きていてもそれでは死んだ同じ。
今のグラハム・エーカーは正に死に体だった。
その死んだ心とは裏腹に、生理的な体反応は敏感な空気の変化を察知する。
鼻孔に香る仄かな匂い。昇る小さな煙。
誰かが厨房に立ち、料理を作っているのは一目瞭然だった。
宣戦を謳う狼煙のように上がる白煙は空高くまで上がる事なく、霧散して消えていく。
風に流され、為す術なく世界に飲み込まれても己の存在を誇示しようとたゆたう。
虚しさと儚さを共有させた空気の固まりは、ここで費やされてきた数々の命を象徴してるようだった。
傍らで、ずっと置物のように佇んでいたインデックスはこの場から姿を消している。
生存者の観察は完了したのか、一言も語らないままおもむろに立ち上がり、煙の上がる場所へと去っていった。
数時間ぶりの完全なる孤独。
交わす言葉はなくとも常にそこにいた小柄な影は、最初に現れた時と同様に陽炎のように消えた。
「――――」
薄く、口元が釣り上がる。
隣で座っていた体躯がいなくなったのに、今更心が揺れ動いた事への自嘲だ。
それすらも空虚に散り、また感情は振り出しに戻る。
今度こそ停止しそうでいた意識は、こちらに近づいてくる足音に呼び覚まされた。
インデックスが戻ってきたのかと思えば、予想は的を外れていた。
目の前にいたのは、どこかで見たような顔。
街中を歩く途中で、ふと目に入ったかもしれない姿。
世界中にありふれて溢れた日常の象徴。
普遍的な学生服を装った、亜麻色の髪の少女がグラハムの前に居た。
「……」
平沢憂という、彼女の顔と名前だけは、グラハムは知っていた。
阿良々木暦から聞かされた情報と今ここに立つ人物とが一致して、ただそうと認識する。
直接目にしたのは、まだ降り止まないでいた雨の中。
生傷だらけの少年手を引かれ、雨に混じらぬ涙を目に浮かべていた顔。
いつ無慈悲に踏みにじられ潰れてもおかしくない弱々しさ、
自らの足で立ち、歩みを止めず宿す生命を示す力強さ。
相反する要素を両立した少女の格好は、野に咲く花を連想させた。
一歩、憂はグラハムに近づいた。
腰を僅かに落とし、雨で冷えた肌に触れよるように手が伸ばされる。
払いのけるだけの気力も絞り出せず、無視をするだけで拒否の姿勢を取る。
何を言われ、どう慰撫されようとも、無反応でしか応えられない我が身を呪い……
しかしいつまで経っても、掌の感触はやってこないままでいた。
「どうぞ」
何かを促す声がかけられる。
言葉の意図が読めずに、落ちていた視線を上げる。
差し出された手に乗せられていたのは、中身を出来る限りいっぱいに詰め込まれた四角いタッパーだった。
それは、どうやら食事のようだった。
透明の箱から見える形と、ユニオン出身のグラハムには嗅ぎ慣れない香りからすると、和風の米料理のように見える。
「お腹、空いてますよね。雑炊です。
外国でいうと……リゾット、みたいなものと思ってください」
髪の色や顔つきから日本人ではないと判断したのか、料理の説明を補足する憂。
顔の前で止まっているタッパーは、触れるまでもなく温かな気配が漂っている。
活力の源を前に、グラハムの体は確かに反応を見せた。
「……だ」
「え?」
僅かに解けたグラハムの脳内に浮かんだ感情は、疑問の一点だった。
「何故……ここに来た。
君と私に、何の縁があってこの場に現れるというんだ」
他の誰かならまだ理由が考えられた。
阿良々木暦にしろ、
枢木スザクにしろ。
要件はともかくとして、彼らが姿を表わすのなら理解は出来る。
個人の関係性をある程度は育むだけの時間は過ごしていた。
なのに今グラハムの前にいるのは、知り合って禄に間もない女子高生。
先のは道を偶然すれ違うようなもの。まともな邂逅はこれで初めてだ。
グラハムとの繋がりが皆無である筈の彼女がこうして現れたのが疑問であり、謎であった。
「私は――単に、貴方にご飯を持ってきただけです。
他には何もありません。
……私は貴方の事を、あまり知りません。
どうしてここにいるのか。何を思って戦っていたのか。
何を失って、そんなボロボロな姿になっているのか。
どれも私には判らない事です。聞いてもいけないと……思います」
平沢憂はここに来る際、集まっていた誰にもグラハムの事情を聞かなかった。
彼が奈落に落ちた根本の問題に、陥った無間に、半端な気持ちで踏み込んではならないと思ったのか。
もっとも、今の彼女に他人を慮る余裕がないというのも、大きな理由ではなったが。
「でも皆とご飯を食べてて、貴方の事を思い出して……
雨が降ってる時からずっとあそこにいたらお腹が減ってるんだろうなって考えたら頭から離れなくて、
そしたらここに、来ちゃいました」
同情することも、激励することも、憂には決して勤まらない。
その役目はもっと別の、彼をより知る人から贈られるべきだから。
憂にとっての誰かが、憂に与えてくれたように。
「冷めないうちに、どうぞ」
膝を上げてそれだけを言い残し、憂は後ろを向いて元の道を歩き出した。
呆然としていたグラハムは見送るしか出来なかった。
残されたのは、未だ熱を持った一個のタッパーのみ。
だけど―――
「まて」
知らず引き止める声は、紛れも無くグラハム自身が発していた。
「君は何故……まだ、続けている……?」
そして続けられる言葉も。
「どうして……止まる事ができないんだ……?」
静止する、平沢憂の背。
それは僅かに、けれど断続的に、震えていた。
何かを堪えるように。
「どうして……って……」
激痛に耐えるように。
本当はもう、止まってしまいたいと、願うように。
「どうしてって……そんなの……そんなの分かりませんよ……」
振り向かぬまま、溢れだしたものは言葉。
最愛を失って、何もかもが壊れてしまって、状況は絶望的で、それでも尚、少女は生きている。
生き続けてしまう、理由なんて。
「私には分からない。分からないんですよ。
辛いのに。苦しいのに。もう私には何もないのに……どうして……。
だけど……だけど止まれないから、終われない、から」
このまま止まってしまうこと、死んでしまうという、楽な道を選ぶこと。
そうすることを誰よりも、平沢憂自身が、己に許すことが出来ないから。
理由なんて、何も、分からないけど。
死ねないから、生きていくしかないのだと。
少女は誰でもなく、自分自身に言っていた。
遠ざかる影は、やがて完全にその輪郭を消す。
足音が聞こえなくなった途端、周囲は元の墓場と同等の静謐さに逆戻りした。
しかし生ける屍だったグラハムの体には、他所からもたらされた熱が灯っている。
生きていた。生きようと続けていた。
あのような力なき少女でも。
どれだけ傷を負っても、どれだけ勝ち目のない、絶望的な未来しか待っていなくても、
生きようと必死に足掻き続けている。
無駄でしかない、地上から星を掴むような無謀な真似でも、彼らは諦めていない。
何故という疑問は、もう湧いては来ない。
理屈を求めない姿勢。
愚行と罵られても貫き通そうとする意志。
決めた事は、確定した道理であっても己の無理でこじ開けようとする執念。
信念と呼ばれるものを――――彼は、とてもよく、知っていたから。
それを思った途端。
言い難い痛みが、グラハムの胸の真中で鈍く疼いた。
焼け付いた鉄が熱を上げるように辛い、懐かしい軋みを。
――――雨はもう、上がっている。
【Fragments 8 :『あめあがり』 -End- 】
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最終更新:2014年09月01日 01:16