♪Falling reinforced concrete ◆MAKO.0z9p.
びゅうびゅうと強い風が吹いていた。
黒い海を間近に、黒い空の下で黒い風が吹き、そして少女の同じく真っ黒な髪の毛を激しく揺らしている。
少女――
中野梓はただ虚ろな表情で風に髪を乱されるままに立ち尽くしている。
その瞳の色もまた空虚な黒に満ちていた。
少女は足元を見下ろす。
ビルの屋上の端。そこから更に柵を越えたその先の先。端っこ。一歩先はもう空でしかないそこから下を覗き見る。
視線のずっと先。これもまた黒い地面の上に何かが落ちているのが見えた。
それが何なのか、少女はよく知っている。
少女が落としたものだ。少女が落としてしまったものが、そこで壊れて転がっているのだ。
拾い上げることはできない。そこはとても遠くて、少女の手はそこまで届かない。
ただ、失われたという事実だけが、落としてしまったという真実だけがそこに、そして少女の中に残るだけでしかない。
びゅうびゅうと強い風が吹いている。
少女の身体はふわりと浮いて、そして黒い空へと投げ出された。
ただ、落下する。自分が落として壊してしまったものと同じ場所へ、ただそのままに、
落下する――……。
そして、ゆうらりと空を舞い落ちた少女はそのまま地面に、当たり前のように――着地した。
「……………………はぁ」
無音のゆっくりとした時間が過ぎてから、梓はようやく止めていた息を大きく吐き出しその焦点を現実と合わせなおした。
控え目な胸に手を当てて、何度か深呼吸をしてどこか浮き上がっていた心を落ち着かせる。
それはつい先ほどまでならとても難しくてできないことであったが、しかし今の彼女にとってはそうではなかった。
着地した位置よりすぐそこには先に落ちた――いや、落とした彼女が無残な遺体を曝している。
殺してしまったという事実は消えてはいない。
生気を失った目はあらぬ方を向いており、手足は普通ではない方へと曲がっている。
お腹が破れてしまったのだろうか、伏した身体の下からはおびただしい量の血が流れ出ていた。
それらを見ても、梓の心はもう強くは動かない。
ただ、起きたことを事実として認識するだけ。想いは揺れない。彼女には揺れる想いがもうない。
なぜならば、彼女は自身の重さと一緒に、その想いを――辛くて辛くて重く身を苛む想いを他に預けてしまったのだから。
梓は自分が飛び降りてきたビルの屋上を見上げ、そしてそこで起こった不思議なことを思い出す。
少女は、蟹に行き遭ったのだ。
■
人を殺してしまった。
その事実は少女にとってあまりにも重たいものであった。
重たすぎて心が、いやそれどころか何もかもが根こそぎに引きづられ地面に押し潰されるかとそう錯覚してしまうぐらいに。
いや、錯覚ではなく、もしもこの後のことがなければ少女は確実に地面に墜落した彼女と同じ末路を辿っていただろう。
現実を割り切れるほどのクレバーさは持ち合わせておらず、圧し掛かる事実を支えられるほどの強さも持たず、
何より真実から目をそらせるほど不誠実ではなかった。
卵の殻のように華奢な心は、なすすべもなくグシャリと潰れてしまっていたに違いない。
しかし、そうはならなかった。幸か不幸か、彼女は蟹に行き遭ってしまったから。
少女がそれに気付いたのは空の拳銃を抱いてただ縮こまり震えている時のことであった。
ぐるぐるとぐるぐると己の中で罪悪感と後悔とを循環させ、練り上げられた絶望で自身を押し潰そうとしたその時、
彼女は目の前に大きな蟹が一匹いることに気付いた。
『おもし蟹』
それの名前がそうだということを彼女は知らない。
それが最初からそこにいて、またどこにでもいること、彼女が口を開いたデイパックから出てきていたことも知らない。
それを知らないから、それがただの蟹でなく怪異であること。神と等しい異常であることもまた知りようがなかった。
とあるアロハシャツの男がいれば必要な分も不必要な分も合わせて説明してくれたであろうが、そんな人物はここにはいない。
だがしかし、知る必要はなく、行き遭った少女はただそれだけでこの蟹が何をしてくれるのかだけは理解していた。
そう思ったからこそ、そう想ったからこそ……それが重たかったからこそ、蟹はそこにいるのだと。
お願いします。私を助けてください。
少女から重みが消えたのはその直後だった。
■
あの不思議な蟹はもういない。
正しくは、いつでも梓の傍にいるのだが、今の彼女にはもう見えない。遭いたいと強く欲さなければ行き遭えないからだ。
「ごめんなさい」
少女は墜落死した彼女の遺体に向かい深く頭を下げる。
長い黒髪の、ツインテールにしたその先っぽが微かに血溜まりに触れ少しだけ色がついた。
「どうすればいいのかはわかりません。でも、なんとかして助けます。だから……ごめんなさい」
そうして、少女は踵を返して夜の中を歩き出した。その足取りはとても、まるで浮くように軽い。
トントンと、靴の底で音を立ててその場を後にしてゆく。
足を止めもしなければ後ろを振り返ることもしなかった。
引きずられるような想いは、自身の重さと一緒にあの大きな蟹へと預けてしまったのだ。
故に彼女をそこに縛り付けるものはもう何もない。遺体を見ても、感慨はTVの画面ごしに見る程度にしかもう感じない。
だけど、
中野梓が彼女を殺してしまった事実は消えない。想いは軽くなっても、記憶がゼロに達することは決してない。
だから、一粒だけ涙。
とても重たい一粒だけの涙を頬に垂らし、彼女は黒い世界の中を往く。
想わないことの罪。重さはないけど重たいその罪を背負って、存在を儚きものとした少女はどこかへと歩いてゆく。
【G-3/路上/一日目/深夜】
【中野梓@けいおん!】
[状態]:健康、体重1/10、存在感(薄)
[服装]:桜が丘高校女子制服(冬服)
[装備]:
[道具]:デイパック、基本支給品、鉈、おもし蟹、不明支給品(0~1)
:デイパック、基本支給品、S&W M10 “ミリタリー&ポリス”(0/6)、.38spl弾x60、不明支給品(0~2)
[思考]
基本:死にたくない。殺してしまった
竹井久を救いたい。
1:軽音部のみんなを探す。
[備考]
※本編終了後から登場。
※おもし蟹がすぐ傍にいます。ですが、姿を消したのでいなくなったと思っています。
【おもし蟹@化物語】
人ひとりほどの大きさのある蟹の怪異。想い蟹、重石蟹とも呼び、土着の神様の一種でもある。
見えないし触れることもない。重く苦しい想いを持った人の目の前に現れ、想いを引き受け、一緒に体重を奪う。
想いを捧げた者からは、その想いに関する心の重さが失われ気が楽になる。
ただし記憶は消えないので、想っていたこととそれを失ったことによる新しい罪悪感が生じる場合もある。
体重はおおよそ1/10まで軽減するが、筋力など重さ以外に関してはまったく変化しない。衣服等は軽くならない。
また、蟹に重さを奪われたものはその分存在感も希薄になり、儚げな印象を他に与えることになる。
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最終更新:2009年11月05日 00:13