存在 ◆dGkispvjN2
本来は人が満ちているであろう、工場地帯。しかしそこには一切の活気と光源は無く、嫌に閑静に建造物達は構えていた。
その過ぎた静けさには、一種の不気味ささえ感じざるを得ない。
……いや、これらの言葉には語弊があるかもしれない。
此所が現の世界であろうが、深夜の工業地帯は一貫して至って静かなものであり、コンクリートと鉄は黙している筈であるからだ。
しかし。しかしそれでも如何に深夜であれ、連なる工場の一切のシステム、機器が完全に停止している事実は、到底尋常とは言えなかった。
更に、虫や生物の類が居る気配が一つとしてない事も、この場に漂う非常性に拍車を掛けている。
人が造りし科学の晶、しかしそこは、幽邃境と言い換えても差し支えがない程までに、奇妙な空気に抱擁されていた。
酸性雨に晒され、朽ちた様な鉛色の壁を競う様に走る管は、細い路地の彼方、漆黒の大口へとその手を伸ばしている。
大気に晒されコールタールの様に変化してしまった潤滑油に濡れて、黒く頭を垂れる葦を一瞥し、男は―――
荒耶宗蓮は、眉間に皺を寄せた。
掘りが深く、ただでさえ不機嫌そうな顔が、より一層歪んでゆく。
荒耶は闇に沈む漆黒のコートを翻すと、険しい目線を遥か上空に移した。
頭を後ろに下げると、すう、と頭部の血液が下がる様に感じられ、荒耶は深く息を吐く。
「嫌に身体が重いな。結界を斬るあの刀でも誰かに支給されたか、もしくはそれに似た何かが此処にあるのか。
……両儀に感付かれ、横暴を赦す前に確実に破壊せねば。あれは脅威だ」
まるで列べられたドミノの如く、彼方まで連なり重なる高層工場は、碌に星空を覗かせない。
幾何学模様に切り取られた虚空は、蛍光にも及ばぬ僅かな月光を荒耶に捧げる。
月にさえ祝福を拒まれるか、と荒耶は皮肉混じりに呟くと、まるでたった今思い出したかの様に足を前に出した。
赤褐色に錆びた金網を上を踏みしめる。ぎぃと軋む音は、漂う虚しい空気も相俟って、荒耶には酷く悲痛な叫び声に聞こえた。
寂しさを紛らわす様に寄り添い群がる杉蘚を越え、主と来客を喪失した蜘蛛の巣を潜り、青錆の牢獄を抜け、荒耶はひたに進む。
口を真一文に噤み、時折何かに耽る様に立ち止まり、黙々と荒耶は黒き地平線へと足を運んでいた。
暫くはそうして迷路の様な路地裏の隙間を進んでいた荒耶だったが、橋を越え遂に満天の星空の下へと、目的地であった宇宙開発局エリアへと、その身体を晒す。
しかしそれは必然であり、あらゆる有象無象へと達観した視点でしか観測出来ない荒耶は、眉一つ動かさず足を進め続けた。
だが、如何に永久を生きる魔術師、荒耶宗蓮と言えども、その本質は紛れもなく人間である。
故に言わずもがな肉体的休息は必要であり、荒耶は適当な足場に腰を下ろし、支給されたボトルを右手に、ぼうと壁を見つめていた。
あちこちを這う金網と配管を何の気なしに目で追いつつ、荒耶は支給品袋の口を解く。
荒耶個人としては、最初は内容物にさしたる興味もなかったのだが、放置するくらいなら開けたくもなるのが人の性。
それに、荒耶は式を確実に手に入れなければならない。ならば、武器は多い方に越した事はないのだ。
そもそも、本来労力も使わず一瞬で行き来が可能な会場を、徒歩という非効率的な手段を以て徘徊しているのだ。
その上、
両儀式の元へ偶然を装いながらも、一刻も早く辿り着かなければならない。とはいえ、ストレートな行動は禁物。
焦りもあるが、しかしゆっくりと慎重に。多少遠回りでも構わないので、怪しまれずに、ごく自然に両儀式に接触する必要がある。
その為の南からの迂回だ。そして正面から莫迦みたいに正当法で攻めるのは、能力制限がある今、お世辞にも賢い選択とは言えないのが現実でもある。
荒耶は一度式に敗北している。ならば軽挙は愚の骨頂だ。
が、流石の荒耶とて、この妙な束縛感と募る焦燥感には、歯痒さを禁じ得ない。ならば余興の一つや二つ、求めたくもなるのも自然だった。
「さて」
鬼が出るか蛇が出るか……大した期待はしておらぬがな、と荒耶は支給品袋に手を突っ込み、中を弄る。
お目当ての品は直ぐに見付ける事が出来た。指先から伝わる冷たさと、つるりとした感覚。
ずっしりとした重さを持ったそれは、長年の経験から言って――そうでなくとも予想出来得る範囲内だが――、荒耶は硝子だ、と言い切る事が出来た。
まぁつまるところが、恐らくこの支給品は“殺傷能力を伴わないハズレ支給品”だという事だ。
しかし、と荒耶は思う。ハズレならハズレで、少々の興味もある。
故に荒耶はそれをむんずと掴み、支給品袋から取り出す事にした。
ぱさり、と生成色の支給品袋が布同士を擦らせ、乾燥した音を上げる。
延々と続く空に浮かぶ、欠けた銀鏡が硝子の表面を凛と照らす。ごぽり、と気泡が動く鈍い音。
飴色の土台から生えた硝子の内部には、透明な水が九割方、満たされていた。白銀に揺らめく水面の下、内容物がダンスを踊る。
それまで眉一つ動かさなかった荒耶だったが、それを目の当たりにし、初めて眉を動かした。
いや、それだけではない。伏せ目がちな双貌をかっと見開き、息をはっと飲み、その額には汗を浮かべている。
何故ならそこには、荒耶の想像を遥かに上回る極上の皮肉があったのだから。
「……そうか」
嗚呼、と荒耶は唸る。運命とは、何と皮肉なものだろう、と。これ以上の皮肉があるものか。
荒耶は額の汗を袖で拭き苦々しく笑うと、けれども肩を揺らしながら口元を歪め、大いなる喜びを露わにした。
「残念だったな。貴様の弟子や両儀式が此処に居る事も、私がこのバトルロワイアルの会場を、主催に協力し用意した事も。
そして私が今生きている事も全て、貴様が知ろうとも決して抵抗出来ない。
指を銜えてそこで見ているが良い。矛盾したこの島で起きる惨劇を、哀れな人の性を、それを疎む私の姿を」
荒耶がその様な、到底らしくはない妙な反応を見せるのも仕方がないと言える。
「貴様を持つのが私でなければ、或いは殺され、調査の為に動けたやもしれぬだろうが……いかんせん、運命は時に悪戯が過ぎるようだな」
何故ならば。
何故ならば荒耶の両手にずしりと沈むそれは、その硝子ケェスの中にあったのは、真っ赤な真っ赤な、名前と相反する髪と瞳、切断面。
ああ、それはまさに蒼穹とは相容れぬ黄昏を思わせる―――
「貴様もそう思わぬか――――――――――――――――――――――“蒼崎橙子”よ」
―――
傷んだ赤色<スカー・レッド>。胴体を喪失の彼方に置き忘れた、蒼崎橙子の無残な生首。
荒耶は安らかな表情で漂う燈子を見下し、意地悪く鼻で嘲る。
これが支給された人間が、もしも荒耶でなければ。
確かに荒耶の言う通り、燈子は会場の様子を記憶し、完全な死を以て再び蒼崎橙子として覚醒した可能性があっただろう。
しかし流石に運が悪かった。
橙子の脳がこうして荒耶に掌握されている以上は、燈子のスペアがそれまでの蒼崎橙子として記憶を継承し、覚醒する事はないのだから。
何故ならそれが荒耶個人にとって脅威になり得ると、荒耶本人が身に染みて理解しているからだ。
故に荒耶は橙子を殺さない。外部からの不確定要素介入の余地を絶対に許さない。
パラドックスの観点から言って 、此処の蒼崎橙子が脳を保持し続ける限り、如何なる世界の蒼崎橙子も此処への介入が不可能なのだ。
荒耶は、蒼崎橙子を決して過小評価していない。
スペアすらもがない追い込まれた現在の荒耶には、燈子は一つの大いなる脅威であり、また荒耶はそれを認めていた。
故に、脅威となり得る力の芽を予期せず摘んだ事を、荒耶は純粋に喜ぶ。根源へも、辿り着き易くなったというものだ。
「助かった、と素直に言っておこうか蒼崎橙子。制限が課せられた今回ばかりは、貴様に余計な水を注されては少々厄介なのでな」
荒耶はごとりと瓶を地面に置くと、水に踊る艶麗な赤髪を嘲笑した。口では言わぬものの、傷んだ赤色<スカー・レッド>と馬鹿にしつつ、だ。
一方の橙子は捻れた首をこちらに見せるだけで何も応えない。応えられない。
荒耶は暫く橙子の首を舐めるように視て遊んでいたが、やがて休息もとれ満足したのか、ゆっくりと立ち上がった。
南下して迂回するか、と荒耶は息を吸う。多少遠回りでもしないと、矢張り不自然だ。
不自然にも関わらず参加すると言った以上、主催側は荒耶をより一層強く監視している事だろう。目的を探ってくる筈だ。
しかしあちらとて、会場を用意した荒耶の死は本意ではない筈。故に膠着状態。あちらは荒耶に手を出そうにも出せず、こちらは式に直行しようにも直行出来ない。
お互いにカードを切らない、尻尾を見せない今の状況は、まさにコールド・ウォー。
荒耶が目指すは現在駅に居る両儀式、そして根源。宛もない長旅が再び、始まろうとしていた。
と、荒耶は目を細め、前方を遮る有刺鉄線へと一瞥を投げる。
式の居場所を探ろうと、会場とのシンクロを試みたのが功を奏したのだ。
……だが最初は、見間違いか何かかと思った。決して自惚れている訳ではないが、それでも荒耶は自らの腕にそれなりの自信と信頼があった。
永年生きてきた賜物、とでも言うのだろうか。故にナイフを握る荒耶には、網膜に映し出されるその映像が如何しても信じられなかった。
荒耶は、参加者の顔から能力、性格まで全てのスペックを把握している。それは主催サイドの人間である以上当然の事だった。
そう、だからこそこの言葉が今、意図せず自然に荒耶の口から零れ落ちるのだ。
「……貴様は誰だ」
見えている人間が、これといって特筆すべき要素もない、一般的な軽音楽部女学生、
中野梓だからこそ。
そう、繰り返すが梓は極めて普通の人間、即ち一般人だった。
戦闘に関して腕が立つ訳でもなければ、精神的に秀でている訳でもなく、特別、学や才があるといった訳でもない。
強いて才に近い要素を挙げるとするならば、それは努力だろう。
梓のギターの上手さ、またギターへの並々ならぬ知識は、偏に才ではなく、積み重なった努力の結晶によるものである。
しかしそれを才として認めるかと問われれば、それはほぼ確実にノゥだろう。実にナンセンスな質問だ。
彼女らの世界で才がある人間が居るとすれば、それは
平沢唯の様な、絶対音感を持つ人間である。
さて、少々話が脱線したが、つまり荒耶は何が言いたいのかというと。
周りに存在感を感じ辛くさせ、更に足音の殆どを封じるだなんて、本来の中野梓とキャラクター像が一致しなさ過ぎる、という事だ。
荒耶の持つ情報だと、バンドメンバーである中野梓はどちらかと言えば存在感が濃い方だった筈。
狂気に感染しやすいこの異常な場では、通常一般人は興奮や動揺、萎縮により目立つ筈だ。
そもそも、個が所有する存在感は簡単に変動するものではない。そう、そこに荒耶は疑問を感じた。
この変動はまるで、個の変動そのものに近い。別人の存在率周波……。
だがそれはどちらかと言えば魔的要素。尤も足音の大きさの変動は技術的要素なのだが、どちらにせよ少々不自然だ。キャパシティを越えている。
ならば仮に誰かに存在感の希薄化や足音の消し方を教授して貰ったとすれば、と一瞬の内に荒耶は左脳で思うが、直ぐに右脳が否定する。
習得スピードが時間的に有り得ない。第一、一般人に習得させる意味もないので、その推理は論外中の論外であった。
しかしと荒耶は喉を鳴らす。解せない。
現にこうして、中野梓がその存在を薄くし、更に足音をほぼ消し、歩いて来ているのだ。
それは気配絶ちや存在隠匿には遠く及ばないものの、度合いには首を傾げてしまう。
おまけにその存在感の希薄さは、荒耶の前方20メートル地点に至るまで、接近を僅かに感じ難くさせるという折り紙付き。
それは動揺を感じるものとは程遠い。が、確かな疑問を覚える。足音の制御を、殺し屋でもない一般人が可能だとでも言うのか。
気が触れた可能性を考慮しても、異常な状況の渦中の一般人としては、到底理解の許容内とは言い難い。存在と能力が矛盾している。
自らが身体でそう認識してしまっている以上、中野梓が少々異常であるという現実は決して覆せないのだ。故に疑問を口にした。
……ならば或いは、何らかの外的要因による超能力覚醒か、何者かによる肉体操作か支給品による能力か、幻術や成り済ましの類か。
孰れにせよ、現時点では特定不可能。
荒耶は身構えると、周囲を目線だけで見渡す。背後に狭い路地、右に巨大な未来的建造物、左に河川。
些か不安定なフィールドではあるが、大きな問題はないと荒耶は踏み、視線を梓へと向け直す。
覚束ない足取り、しかし何故か足音を抑制しこちらへと進む梓の表情は、深い影が落ち窺う事が出来ない。
だらりと頭を下げ、すらりと伸びる腕を振らず歩むその様と、常に漂う儚げな雰囲気は、浮浪者の様だと言っても過言ではなかった。
そして、遂に荒耶は発見してしまうのだ。
梓の右手に握られた、黒金を弾き出す、幼気な少女には分不相応過ぎる獲物を。左手に握られた、月光を禍々しく反射する凶刃を。
「一つ問おう、中野梓よ。貴様は本当に“中野梓”か」
荒耶は明確な問いの意を込めた声色を以て、10メートル程先に立つ梓に、語尾を強調しそう訊く。
梓はその声に肩をびくりと弾くと、黒髪の隙間から大きな、しかし光を亡くし虚ろな瞳を見せた。
荒耶は顔を顰める。しかし、相も変わらず己のこの油断は悪い癖だ。
能力の完成度に依存するが余り、他者への警戒を怠ってしまう。小川マンションでの時も、先の
アーチャーと御坂の時も、それが原因だ。
一般人かもしれない人間に接近を許すなど、馬鹿馬鹿しい。底が知れると笑われてしまう。
「え、ぁ、あ……い、やッ……!」
動揺に身体を震わせ、護身用であろう銃と鉈を慌ててこちらへ向けるその姿に、荒耶は半秒で目前の女学生が中野梓本人である、と確信した。
同時に、ある疑問に目尻をぴくりと動かす。
この時点で漸く梓が荒耶に気付いたならば、先程の“……貴様は誰だ”という言葉は、梓の耳に入っていなかったという事になる。
ならば、この存在感の無さは本人の意志とは無関係の可能性が高い。同時に足音の制御もだ。
何故ならばこちらの最初の問い掛けに反応出来ない程、何かを思考していたならば、当然存在希薄能力や足音軽減能力の展開も疎かになる筈であるからだ。
そして次に、今だ。現在、荒耶の目前で梓は動揺している。しかし何故か存在希薄能力の展開だけは為されている。
それはどう見ても不自然だった。そもそも、存在がバレた時点でそれを続ける意味がないのは、素人目にも明白。
以上から、荒耶はこの妙な存在感の希薄さが後天的外部作用によるもの、即ち梓に支給された何かが要因なのだと確信した。
そして同時に荒耶は、氷の様な冷徹さを取り戻す。先程から鼻孔をつく、嫌な臭い。これは間違いなく。
「……人を殺めたのか、中野梓よ。人間の性は、矢張り救いきれぬな」
ぼそりと呟かれたその言葉を聞くや否や、梓の顔はさあと血の気を失った。
蒼白い四肢をがたがたと、歯をがちがちと震わせ、梓はごくりと生唾を飲み込む。
見ず知らずの人間に名前と殺人を見破られたのだ。動揺は当然だった。
指摘されて脳裏に描かれる、フラッシュバック。忘れもしない、殺人の感覚。
ふわりと揺れる身体、驚愕と僅かな殺人衝動。少し遅れて、肉が大地に叩き付けられる、不快な音。
深紅に染まる視界、闇の誘い。目前の男が持つ刃に、足下にある瓶詰めの生首に、心臓が高鳴る。胸の内側から、警鐘の音色。
狂気が身体を浸食してゆく。腐敗させてゆく。期待が、理想が、表面から壊死してゆく。
竹井久の場合とは違う。荒耶の足下には瓶に入れられた生首がある。動揺により混乱した梓は、パニックに陥った。
目前の男は確実な、敵。ならば殺される。あの刃物で己も首を刈られる。しかし勿論、それに易々と従う訳にはいかない。
生きるには、殺されるのを防ぐには、殺してしまった人を助けるには―――そう、答えは出ているのだ。最初から。
「違っ、ち、が……な、んで……」
血色の悪い土色の顔には、べったりと恐怖と驚愕の色が張り付いている。
ふるふると頭を左右に振りつつ、梓は現実から逃げる様に二、三歩後退った。違う。軽音部の皆を探すんだ。帰るんだ、皆で。
今その選択をすると、戻れなくなる。でも、でも、でもッ!!
それでも、死ぬのは……―――
「ナンセンスな質問だ」
荒耶は呆れる様に低く唸ると、ゆっくりと足を前方に出す。
そう、ナンセンスなのだ。何もかもが。
最初から詰んでいるのだ。この、死に逃避して絶望に身を委ねる、思考矛盾者は。
荒耶には分かるのだ。殺戮の一歩手前で揺れる、消えかけの蝋燭の灯火の如く儚過ぎる存在の色彩が。
死と生の狭間で醜く蠢く、矛盾した思考の螺旋、行けども逝けども進まぬ、無限回廊が。
「幾ら隠蔽しようが、逃避しようが、現は常に影となり血塗れた足枷となり、加害者に寄り添う。
死臭は棺まで消えぬのだ、中野梓。それだけの血の臭いを漂わせながら、隠匿と忘却とは、少々虫が良すぎるのではないか?」
荒耶は淡白にそう言い放つと、梓を鳶の様に鋭い目で睨み付けた。
荒耶の威圧感に圧倒されてしまっている梓は、不規則な呼吸を繰り返し、荒耶へと呪うかの様な悪意に満ちた目で見つめている。
荒耶はナイフを強く握る。或いは駒として機能するかとも考えたが、もう人を進んで殺す事も、何かを目指し生きる事も出来ないだろう。
考えが甘かったという事か。利用価値を求めて発狂促進効果を付与したのだが……失敗作、か。
……しかし何分、この場合は起源が悪かった。半覚醒したこの状態では、どの道もう、誰が介入しようが世界の言葉に抗えはしない。運が悪かった、か。
かちかちかちり。
荒耶は溜息を一つ吐くと、汪溢していた殺気を解除する。
かちかちかちり。
そうして、梓は今にも崩れそうな笑顔で空を仰ぎ、思うのだ。
これで良いのかもしれない、と。
かちかちかちり。
しかし、矛盾した螺旋に終わりは無い。巡り巡って到達した思考にさえ、裏があるならば、それは。
かちかちかちり。
廻る廻る思考の大渦。混沌とした灰色の水底に、誰は何を見る。
かちかちかちり。
何かを思い出したかの様に、慌てて刻む午前2時58分。
―――……死ぬのは、嫌だ!
梓は自己の思考矛盾に、薄々気付いていた。
自らが殺めた者に、再び命を吹き込みたいという願い。
そして、それと相反する位置、対極にある、仲間と再会して平和な世界に戻るという願い。
これらは対極思考故に、矛盾を呼ぶ。この願いは必ずどちらかが成立しないのだ。
思考の矛盾は、葛藤を呼ぶ。確かに梓はおもし蟹により、殺害、死の呪縛から解放されたが、しかし精神へのダメージは深く、甚大だった。
短時間に蓄積された矛盾による鬱積は、梓の胸を必要以上に強く締め付けてやまなかったのだ。
死者の蘇生には、無論、優勝が必須条件である。優勝とは即ち、自分以外の存在を殺害により排斥してしまう事だ。
そしてそれは、仲間を殺害する事の必須性を示唆している。
しかし、梓には仲間と会いたいという思考もまたあった。仲間と会う、それは即ち平穏を願っての事。
だが、梓は既に殺人犯であり、梓もそれは理解している。故に平穏は、仲間と再会したところで永久に訪れないであろう事も、知っている。
ここで梓の盤は既にして詰んでいた。袋小路に入った猫が、万に一つ餌にありつける訳が無い。そこでの長考には意味が無い。
そんな飽和した梓の思考の前に現れたのが、荒耶だった。
かちかちかちり。
すう、と脳が隅から覚醒してゆく。ああ、面倒だ。もう如何でもいい。
生きるには、殺されるのを防ぐには、殺してしまった人を助けるには―――そう、殺してしまえば良いのだ。なんと単純明快な事か。
梓は荒耶への畏怖を前に、己の殺人衝動を前に、しかし何故か安心感に似た何かを覚えていた。
それが純粋に絶望なのだと気付くまでに、半秒。引き金に指を掛けるまでに、更に半秒。
矛盾の末に生まれたのは、極限の現実を甘ったるく彩るとびっきりの調味料、諦観だった。
思考を切りさえすれば良かったのだ。そうすれば不安になる事もないし、選択の底無し沼に呑まれる事もない。
かちかちかちり。
迫り来る死と殺戮の荒波は、何処か悦楽の海にも似ていた。
絶望感に身を委ねる事は、こんなにも楽で心地良い。死は解放だ。唯一無二の、絶対の解決方法なのだ。
罪も罰も、理由も口実も、理想も現実も。全ては死の前に無力であり、無価値という名の同要素だ。
かちかちかちり。
そうして、梓は今にも崩れそうな笑顔で、否、泣顔で空を仰ぎ、思うのだ。
これで本当に良いのだろうか、と。
かちかちかちり。
しかし、矛盾した螺旋に終わりは無い。巡り巡って到達した思考にさえ、裏があるならば、それは。
かちかちかちり。
廻る廻る思考の大渦。混沌とした灰色の水底に、誰は何を見る。
かちかちかちり。
何かを思い出したかの様に、慌てて刻む午前2時59分。
ぱぁん、と乾いた音。
それはまるで、世界という空間を内側から破壊した様な、酷く虚無感に満ちた音だった。
震える梓の右手は、中途半端に空へと掲げられている。その手中には、火薬の匂いを漂わせる銃。
黒光りする銃口は、最早照準が合わせられる事を諦めたかの様に、灰色の溜息を吐き続けていた。
からぁん、と空の弾奏が無機質な断末魔を上げながら地面に伏す。
荒耶は梓の手前で静止したまま、その髪を旋風に靡かせていた。
高鳴る心臓、なんで、と紡ぐ口。嫌な予感と冷たい汗。流れる鮮血。ゆらり、と揺れる梓の身体。
震える指先、交差する視線。恐る恐る、梓は視線を荒耶の左手へと向ける。かっ、と見開かれる血走った目。
終焉の弾は、確かに荒耶を捕捉した。しかし仏舎利の加護を破るには至らなかったのだ。
だからその結果、梓が死に物狂いで放った弾丸は、荒耶の左手で握り潰されるに至った。
梓は言葉を失う。この状況を最も理解していなかったのは、あろう事か発砲を行った本人、中野梓であった。
己は確実に荒耶を撃った。にもかかわらず何故荒耶は倒れないのか。いや、それよりも、だ。何故……何故、銃弾が荒耶の左手にあるのか?
この時点で梓の理解は、全く現実に追いついていなかった。魔術と無縁の梓には、埒外の超常現象にしか見えなかったのだ。
……訳が分からない。何が何だか、もう理解できない。
「……それが答えか、中野梓」
最初の段階で邪魔者を排除する考えだった荒耶にとって、梓が殺害対象になるまでに、時間はさして掛からなかった。
先程は相手が英霊だった故に引き考え直したが、今回は違う。そして敵意を示す邪魔者が疎ましい事には変わりない。
元々、邪魔をするならば
御坂美琴とアーチャーにも容赦はしないつもりだった。
ならば話は簡単だ。厄介でない者なら、邪魔者を殺す事に躊躇はない。障害は罰す。それ以上も以下もない。
……この娘は、今の様に行動の邪魔になる事はあろうとも、到底、利を呼ぶ代物には成り得ないだろう。
利用価値は一切無い。更に言うと今放置するとその起源故、余計な害を及ぼしかねない。白純里緒の場合とは異なり、自覚ある自己満足では済まないのが厄介だ。
白純里緒の起源は自己解決型の内的要因を促す、しかし中野梓の起源は外的要因と成り得る。無意識に他の運命を巻き込むのだ。
たかが一般人、されど一般人。塵も積もれば山となる。なにせ事あるごとに荒耶を阻んできた抑止力は、そんな無力な一般人の意識集合体と言っても良いのだから。
と、まあ尤もらしい事を羅列したが、要するに、中野梓はもう使い物にもならない、邪魔な死駒なのだ。
「やめておけ、時間稼ぎにもならん。銃弾の無駄だというのが分からぬ程、箍が外れた訳でもあるまい」
荒耶がずいと足を出すと、梓は奇声にも似た悲鳴を上げ、再び銃を荒耶に向けた。
何かの間違いだ、と梓は焦点の合わぬ目線を騒がしく動かす。人間が銃弾をキャッチするなんて、常識的に考えてあり得ない。
きっと何かの手品に違いない。黙っていてもあの生首になるのなら、何度でも何度でも抗って<殺して>みせるッ!!
「愚かなり。無駄と理解してもなお、こちらへと銃口を向けるか」
歯を剥き唸る荒耶を尻目に、梓は冷静な思考を完全に飛ばしてしまっていた。
自分が命を狙われているのだと、疑心暗鬼に捕われた梓には、そう考える事でしか現状を把握する事が出来なかった。
しかし、それは自分の新たな殺人を認める事になる。梓にとって、そこはもう二度と越えてはならない一線である事もまた、確かだった。
口をだらしなく開けたまま、梓は荒耶へと狂気に歪んだ目線を向ける。
「揺るがぬか。いいだろう、ならば私も動かざるを得ない」
荒耶は大きな溜息を一つ吐くと、大地を思い切り蹴り上げた。どうと大気が震撼し、瞬間、飽和する殺気に梓の全身の毛が逆立つ。
一瞬の内に梓の目前へと移動し、梓の胸倉を掴むと、荒耶は梓を粗暴に持ち上げる。
……人間として明らかに異常な軽さだった。成程これが足音のトリックか、と荒耶は一人ごちる。
「後悔は済んだか」
荒耶の左手にはナイフが鋭く構えられ、側面から梓の首筋にあてがわれていた。
梓は動かない……いや、動けない。非常としか形容出来ない現象にショートした思考回路は、巡り巡って再び絶望と死による全思考放棄を算出していた。
荒耶はそんな様子の梓に歯を軋ませる。此処で壊れるとは、絶望の波に翻弄されるとは、なんて、都合がいい混迷。
「……まぁよい。どの道貴様は死に行く無駄駒だ。場合によってはと一時は考えていたが、最早そうはいかぬ。
この落とし前は着けて貰おうぞ中野梓……だが、最期だ。私も心臓一つの一人の人間、せめてもの慈悲として、黄泉への手向けに一つ教えてやろう」
かちかちかちり。
梓は無表情で漆黒の世界を仰ぎ、小さく呟く―――――――――――――――こんな世界、いらないや。
「“翻弄”。それが貴様の起源だ」
かちかちかちり。
また一廻り。
矛盾した螺旋にも、しかし終わりが訪れる時が稀にある。それが終焉、即ち死だ。
巡り巡って到達した思考のまま逝けるならば、それは本人にとって未来永劫不変の真理となる。
故に或いは、僥倖。迷いが断ち切られるその瞬間は、本人にとって、ある意味では最も望ましい形での解放。
「場の空気に翻弄され、この会場を漂う死臭に翻弄され、叶いもせぬ理想の未来に翻弄される」
かちかちかちり。
また一廻り。
ああ、そう言えばそうだった。何時しか部活でも周りに呑まれて、此処でも殺し合いの罠に呑まれて、理想に呑まれて。
矛盾の罠に呑まれている。
「挙句、こうして私の決意をも翻弄し、狭間で蠢く迷いに翻弄され……そして最終的に、死の大渦に翻弄される。
敵味方関係なく巻き込むその起源の不安定さと、此処の特殊環境故に、私にも捨てられる無用の駒。……哀れなり、中野梓」
かちかちかちり。
また一廻り。
あれ、それってでも、私である必要、あったのかな。私に個性って、意思って、あったのかな。
何時も場に翻弄されて、弄ばれて。結局そこには私が居ない。全部、私である必要がない。
別に誰でも良かったんじゃないのかな。じゃあ私って、何処に居たのかな。
かちかちかちり。
個性という要は、最初から欠落していた。中野梓の本質は、拙いハリボテで固められた、単純な記号でしかない。
それだけでしかない。
かちかちかちり。
また一廻り。
ナイフが舌舐めずりをしながら、血液を貪らんと肉を食い破る。どくん、と血潮が身体を巡った。
此処に生きていた証なんて、この程度しかない。
梓は飛沫を上げながら自嘲する。今際の際に存在の真理に気付くだなんて、なんて虚しいのだろうか。とんだ笑い種じゃないか。
がらんどうの身体の正体だなんて、3900ml程度の酷く冷めた血潮と、脆くて汚い蛋白質の塊でしか、なかったのだ。
かちかちかちり。
また、一廻り。
「……貴様は、最初から、」
――――――――――――ああ、そっか。
―――――――――――――――最初からどこにも居なかったんだ。私。
【E-5/路上/一日目/黎明】
【荒耶宗蓮@空の境界】
[状態]:健康
[服装]:黒服
[装備]:ククリナイフ@現実
[道具]:デイパック、基本支給品、鉈@現実、不明支給品(0~1)、不明支給品(0~1)
S&W M10 “ミリタリー&ポリス”(5/6)、.38spl弾x54、不明支給品(0~2)、蒼崎橙子の瓶詰め生首@空の境界
[思考]
基本:式を手に入れ根源へ到る。
1:式の元へ行く。
2:制限が厄介なので無理はしないが、邪魔をする障害は容赦なく殺す。ただし利用出来そうな者は最大限に利用する。
【蒼崎橙子の瓶詰め生首@空の境界】
封印指定を受けた魔術師でもあり人形師でもある蒼崎橙子の生首。
脳を破壊すると、蒼崎橙子本人と寸分違わないスペア人形が、蒼崎橙子本人として、脳が破壊される寸前までの記憶を継承して行動を開始する。
【中野梓@けいおん! 死亡】
【残り57人】
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最終更新:2009年11月23日 21:10