The Hollow Shrine(前編) ◆C8THitgZTg
最初から出会わなかったのなら
喪うことはない。
友人を作らなければ。
仲間にならなければ。
誰かを愛さなければ。
親しくなりさえしなかったなら
喪うことはない。
最期まで出会わずにいられなかったのなら
喪うしかない。
友人を作ったから。
仲間になったから。
誰かを愛したから。
親しくなってしまったなら
喪うしかない。
◇ ◇ ◇
「凄いな……」
士郎は絢爛と飾られたホールを見渡して、そう呟いた。
そこは嘆息するほどに豪華な空間であった。
呆れるほどに高い天井。
目も眩むばかりの装飾の数々。
何十人、もしくはそれ以上の人間を収容しうる広さ。
全てが浮世離れしていて、ここが船の一室であることを忘れそうになってしまう。
「……悪趣味な内装ですわ。外見ばかり取り繕って、中身は空っぽ……」
相槌を打つ黒子の声はどことなく弱々しかった。
ふらつく足取りで壁沿いに歩き、ソファーに腰を下ろす。
青ざめた顔が、黒子の不調を如実に物語っている。
乗り物の揺れと加速による平衡感覚の異常――
医学的には動揺病、もしくは加速度病と呼称される、俗に乗り物酔いと言われる症状だ。
「それにしても、なんて無茶な運転だったんでしょう……まだ頭がクラクラしますわ」
「ああ、確かにアレは凄かったな……」
ここに来るまでの間、グラハムはひたすらにジープを『操縦』し続けた。
急加速に急減速は当たり前。
他の車両が走っていないのをいいことに、車線の違いは完全に無視。
どんな不整地でも容赦なくアクセルを踏み込んでいたほどだ。
ジープの最高速度は毎時九十キロメートルから百十キロメートルにも達する。
流石に常時限界までスピードを出していたわけではないが、常識外れの走行だったのは間違いない。
「それでもあの二人は平気だったみたいだけどさ」
「あのお二方はパイロットなんでしょう? あれくらい大丈夫に決まってますわ……」
黒子は賞賛とも皮肉ともつかないことを口にして、ペットボトルを開けて少しだけ喉を潤した。
あれだけの暴走の直後だというのに、運転していたグラハムはおろかゼクスまでもが平然としていた。
尤も、二人の経歴を考えれば当然のことだと言えるだろう。
黒子には知る由も無いが、二人はそれぞれのモビルスーツ史に名を残すエースパイロットでもある。
不可能とされていたフラッグの空中変形を成し遂げ、その機動に名を冠されたグラハム。
並みのパイロットならば殺人的な加速度で命すら危ういトールギスを乗りこなしたゼクス。
どちらも常人離れした対G能力を持っている。
その点で黒子はただの人間だ。
学園都市では大能力者(レベル4)に分類されているが、耐久力は少女の域を超えはしない。
「それに比べて、わたくしときたら……」
ペットボトルを握る手に力が込められる。
肉体の丈夫さで劣っているのは深く気に病むことではない。
だが……いや、だからこそ、それ以外のところで足を引っ張ることだけは避けなければならなかった。
これは、ギャンブル船に到着してすぐのことだ。
グラハムは乗り捨て同然にジープを飛び降り、船内へと駆け込んでしまった。
利根川と真宵を手にかけた犯人が潜んでいるかもしれないのに、単独行動は危険極まりない。
ゆえに黒子は己の不調を隠して彼を追いかけようとした。
それを咎めたのは、他でもない
衛宮士郎であった。
「…………」
黒子はそこから先の口論を思い出し、苦虫を噛み潰したような顔をした。
体調が悪いなら残るべきだと言い張る士郎。
単独行動をさせるわけにはいかないと反論する黒子。
自分のことながら、振り返るだけで頭が痛くなるほど低レベルな応酬であった。
冷静になって考えれば、どっちもどっちだと評するより他にない。
独断専行を許すのは確かに危険だ。
しかし空間転移すらできないコンディションで追いかけても、足手纏いになるのが関の山だろう。
そもそも下らない口論で時間を潰すこと自体が愚の骨頂だったのだ。
ゼクスが仲裁に入り、グラハムへの追従を申し出てくれなければ、タイムロスは更に拡大していたに違いない。
「気にするなよ。白井は女の子なんだから、無理はしちゃ駄目だ」
結局、グラハムとゼクスが衣達を捜索し、黒子と士郎はこの大ホールで待機しておくことになった。
待機といえば聞こえはいいが、現実は捜索からのリタイア。
自分が具合を悪くしなければ――
せめて平静さを失くしていなければ――
そんな思いが黒子の肩に圧し掛かっていた。
「あまり慰めないでくださいませ。余計と惨めになりますわ」
黒子は囁くような声で答えた。
先ほどからの会話は全て小声で交わされている。
利根川と真宵を殺した何者かがいるかもしれない以上、このホールも安全地帯ではないのだ。
少なくとも黒子が回復するまでは、静かに身を潜めておく必要がある。
「だからそんなこと言うなよ。……はい、薬」
「……ありがとうございます……ところで、これはどこから?」
士郎が手渡したのは、どこにでも売っていそうな錠剤の酔い止めだった。
都合のいいことに酔ってから服用しても効果があるタイプである。
「ゼクスがくれたんだ。俺達と会う前に調達した道具の中にあったんだってさ」
「そうだったんですの……。何から何まで、迷惑かけっ放しですわね」
ペットボトルの水で錠剤を二つ嚥下する。
実際に酔ってから飲んでも効果は控えめだろうが、飲まないよりはいくらかマシだろう。
一息つき、蓋が開いたままのペットボトルを傍らに置く。
しかしそれがまずかった。
大ホールのソファーは、一面を飾る装飾品と同様の高級品だ。
座り心地がいい分、重みが掛かった分だけ沈んで変形してしまう。
歪んだ面に置かれたペットボトルは、当然のように安定を崩し、床に中身をぶちまけた。
「あっ……」
咄嗟に容器を押さえるも、半分以上が零れてしまった。
黒子は再度溜息をつき、スカートのポケットからハンカチを取り出した。
たかが水とはいえ痕跡を残すのは望ましくない。
第三者からすれば、ここに誰かがいた証拠となってしまうのだから。
足元の水溜りをハンカチで拭うと、あっという間に水が浸み込んで使い物にならなくなった。
布が薄すぎて零れた水を吸いきれないのだ。
「これじゃ駄目ですわね。何か別のものは……」
黒子の呟きには微かな苛立ちが込められていた。
他に使えそうなものはなかったかと考えるより先に、聞き覚えのある言葉が耳に入った。
「投影、開始――(トレース・オン)」
「え――?」
それはどこで聞いた言葉だったか。
黒子が思い出すより早く、士郎は床に膝を突いて水を拭き取りはじめていた。
その手には一枚のハンドタオル。
どこから調達したのか分からないが、汚れひとつない新品だ。
「あの、衛宮さん? 似たような質問で恐縮なのですが……それはどこから?」
「えっと……これもゼクスから貰ったんだ」
説明としては筋道が通っている。
しかし士郎が僅かに言いよどんだのを、黒子は聞き逃さなかった。
「そうですか」
大して気にしていないように振舞いながらも、隠し事の理由を考える。
動機は単なる好奇心だ。
隠し事そのものを責めるつもりは一切ない。
黒子も能力のことを殆どの相手に隠している以上、士郎に文句を言える立場ではないのだから。
「……もしかして」
そこでようやく思い至る。
先ほど士郎が呟いた言葉――
アレは首輪を解析したときに聞こえた単語ではなかったか。
――トレース・オン。
その一言が魔術を発動するキーワードになっているのだとしたら。
「衛宮さん、もしかしたらわたくしの勘違いかもしれませんけど……」
まさにその瞬間であった。
廊下へ繋がる扉の向こうから、微かな銃声が鳴り響いたのは。
「――な」
「え――」
黒子と士郎の視線が一瞬だけ交差する。
うっかりすれば聞き逃したかもしれないほど小さな音だった。
士郎は壁に立てかけてあったカリバーンを掴むと、銃声のしたほうへ駆け出していた。
「白井はそこにいてくれ!」
走り去っていく士郎の背中を、黒子はただ見送ってしまった。
あまりに急な展開に思考が追いつかない。
銃声? どこから?
そこにいて? 貴方はどこへ?
縺れた思考が一本に繋がり、ようやく成すべきことを理解する。
「ちょっと! 衛宮さん!」
士郎を追って扉を押し開ける。
しかし時既に遅く、がらんとした廊下に人影はない。
どこかの岐路で曲がったのだろうか。
黒子は悔しげに、色の薄い唇を引き結んだ。
身勝手な行動を取った士郎を責めるのは容易い。
容易いが、正しいとは限らない。
あんな強行軍でギャンブル船に戻ったのは、衣とカイジの元へ迅速に駆けつけるためだ。
更に言えば、利根川と真宵の死を伝えられたからでもある。
それらは『衣とカイジが殺されてしまう前に二人と合流する』という目的に収束する。
ならば銃声を聞いて駆けつけることに何の問題があるというのか。
勿論、単独行動を取ったのは責められるべき点だが――
「なんて――無様なんでしょう」
置き去りにしてしまうことと、置き去りにされてしまうこと。
一分一秒の違いで生死が変わりうる状況なら、悪いのはきっと後者だ。
自分が体調を崩していなければ。
あるいは、銃声が聞こえたときにすぐ動けていれば。
きっとこんなことにはならなかったに違いない。
黒子はがらんどうの廊下の向こうを見やり、静かに扉を閉めた。
どこかの誰かが言っていた。
加速度病を起こしやすい要因は、空腹、満腹、睡眠不足に物理的な圧迫感。
そして――精神的なストレス。
いつからだろうか。
こんなにも心が治まらなくなったのは。
「そんなの、分かりきってますわ……」
黒子は扉に体重を預け、ずるずると膝を曲げた。
静か過ぎる空間が固体じみた密度で圧し掛かって、黒子の胸の奥を軋ませる。
広大なホールにいるのは自分一人。
そう、どうしようもないほどに独りだから。
『あの人はもういない』という現実を、否応なしに突きつけられてしまうのだ。
「…………っ」
名前を叫ぶことすらできない。
もしもここで口にしてしまったら、抑えてきた感情を全て吐き出すまで止まらなくなる。
絶望。恐怖。孤独。喪失。不安。恐怖。後悔。慙愧。無念。
憂鬱。憎悪。空虚。諦念。憤怒。悲嘆。苦痛。怨恨。愛憎。
一度でも致命的な決壊を許してしまった堤防は、もう二度と使い物にならない。
そうなる前に穴を埋めないと、壊れた箇所から破損が広がり、溢れ尽くすまで崩れ続ける。
後に残るのは堤防を失った裸の自分だけ。
心の強い人なら、そこから新しい堤防を組み上げて立ち直ることができるだろう。
むしろ造り直すことで良い方向に転がることがあるかもしれない。
けれど黒子は、自分がそこまで強い人間だと信じることができなかった。
「…………」
ふと、思う。
これまでの自分は、この苦しみをどう耐えてきたのだろうかと。
◇ ◇ ◇
――彼女はゆったりとした手付きで、自動拳銃のグリップからマガジンを抜き取った。
焦るでもなく、焦らすでもなく、無難にマガジンの交換を終わらせる。
この程度は手順さえ分かれば誰でも出来ることだ。
撃ち尽くしたばかりの空弾装をデイパックへ放り込む。
赤みを帯びた瞳に正気の色は見られない。
衝動とは、感情ではない。
自身の外部から襲い掛かる暴力的認識――それを衝動と呼ぶ。
ならば彼女を突き動かすのは正しく衝動だ。
『日本人を殺せ』と強制する魔性の暴力。
彼女の内から湧き上がったのではない目的意識。
しかし、その凶行を実現するのは、他でもない彼女自身。
故に人々は彼女をこう呼ぶ。
虐殺皇女と――
◇ ◇ ◇
「……遅かったか」
見つけてしまったソレを前に、ゼクスは苦々しく呟いた。
二人をホールに残してグラハムを追いかけたのが五、六分前。
先行するグラハムとの時間差は一分前後といったところだった。
走れば埋まると思われた距離だったが、ゼクスは未だにグラハムとの合流を果たせていない。
この船を一時拠点にしていたグラハムと、初めてここを訪れたゼクスとでは情報量が違いすぎたのだ。
予備知識を元に動き回る相手を、土地勘のない者が捕まえるのは難しい。
いっそ自分が少女と残り、少年に捜索を任せたほうがよかったのではないか。
ゼクスは思考の片隅でそう考えながら、道なりに船内を駆け回った。
その結果、辿り着いたのがこの場所である。
「そこまで時間は経っていないようだが……」
必要最低限の情報はジープでの移動中にグラハムから聞かされている。
船に残っていたという人々については特に念入りに確かめた。
利根川幸雄。放送で名前を呼ばれた一人で、元帝愛幹部だったという中年の男。
八九寺真宵。同じく放送で名を呼ばれた、十代前半の少女。
伊藤開司。丸みのない顔付きで、頭髪を無造作に伸ばした青年。
天江衣。金色の長髪に大きな髪飾り。外見的には八九寺真宵と同年代か幼い程度。
いずれの人物とも直接出会ったことはないが、与えられた情報から、人となりの大枠は掴めたつもりだ。
それ故に確信できる。
この亡骸は伊藤開司の成れの果てであると。
無人の甲板。
船内へ通じる出入り口の傍。
陽光と船体の影との間に伊藤開司の亡骸はあった。
血だまりにうつ伏せで倒れ伏し、背中に開いた孔を晒している。
ゼクスは甲板に膝を突き、背中の銃創を検めた。
流血の様子からして、前のめりに倒れたまま動かされていないようだ。
伊藤開司に対してゼクスは特別な感情を持っていない。
だからこそ、こうして冷静に状況を検分できるのだろう。
一通り背中の創傷を観察し終えると、次は遺体を裏返して胸の傷を調べる。
銃創は様々な情報をもたらしてくれる。
ただ銃創を見るだけでも、撃たれた方向や銃の種類の見当がつく。
火薬の付着などを調べれば発砲した距離まで判別できるほどだ。
そして、伊藤開司の銃創からは以下のようなことが分かった。
胸の傷は小さく背中の傷が大きい。
これは彼が正面から胸を撃たれ、弾が背中へ貫通していったことを示している。
周囲の状況からして、犯人は船内と甲板の境界付近で発砲したようだ。
また胸の傷のサイズから、使用されたのが拳銃であると推定できる。
「やはり第三者の介入……まずいな、これは」
ゼクスの言葉には焦りと確信が込められていた。
伊藤開司の命を奪った弾丸は、心臓を水平に撃ち抜いている。
背丈の低い天江衣が発砲したにしては角度が不自然だ。
他の人物――利根川幸雄と殺しあった結果というのもありえまい。
心臓が何らかの理由で停止した場合、数秒から十数秒で脳が酸欠に陥り、死亡する。
つまり、伊藤開司が撃たれたのは早くとも放送の十数秒前。
利根川幸雄と相打ちになったと考えるには無理がある。
そして八九寺真宵に至っては両方の理由が当てはまってしまう。
この状況を説明する最適解、それが、第三者による殺害。
ゼクスはやおら立ち上がり踵を返した。
グラハムの追跡を続けるべきか、一旦ホールへ戻って、このことを二人に伝えるべきか――
「待て、これは……」
ゼクスは踏み出しかけた足を止め、足元のそれを一瞥した。
そして再び、伊藤開司の亡骸に手をかける。
「まさかとは思うが……」
偶然の出来事という可能性は充分に考えられる。
しかし、もしこれが『明確な意図の下に成された』のなら、断じて無視するわけにはいかない。
ゼクスは発見したそれを記憶に刻み、船内へ駆け戻った。
無論、伊藤開司を殺した者もそれに気付いているかもしれない。
ゼクスは脇目もふらず、甲板へ向かう際に通った道を逆走していく。
階段へ続く角を曲がろうとしたときだった。
聞き覚えのない女の声が、ゼクスを呼び止めた。
「あの! すみません」
「……っ!」
咄嗟に振り返ると、そこにはスーツ姿の女がひとり、廊下の奥で佇んでいた。
距離は十メートル程度、或いはもう少しあるだろうか。
ゼクスは己の迂闊さに表情を険しくした。
見通しが悪い場所だったとはいえ、声をかけられるまで、女の存在を悟れなかったのだ。
第三者の殺戮を想定したばかりだというのに、有り得ざる油断である。
むしろ背後から銃殺されていないのが幸運といえるだろう。
ゼクスは周囲に意識を巡らせながら、女と対峙するように向きを変えた。
「――ああ、よかった。無視されてしまったらどうしようかと思っていました」
女はほっと胸を撫で下ろしたらしかった。
あまりに気の抜けた仕種に拍子抜けを禁じえない。
高度な教養を身につけてきたのか、行動や言葉の端々に気品が見え隠れしている。
例えるなら、雰囲気は王侯貴族のそれに近い。
少なくとも戦場慣れをしているようには感じなかった。
女は観察されていることに気付いていないのか、ゆったりとした足取りでゼクスに歩み寄ってきた。
◇ ◇ ◇
――そして少女は涙を流す。
ああすればよかった。
こうすればよかった。
ああしなければよかった。
こうしなければよかった。
後悔が幾ら積もろうと、割れた鏡は戻らない。
時計の針は戻らない。
◇ ◇ ◇
グラハムは独り無人の廊下を走り続けた。
船内通路に窓はなく、白色の間接照明だけが狭い路を照らしている。
しかし不気味さすら感じる静寂も、グラハムの足を鈍らせるものではない。
船室という船室を開け、物陰という物陰を覗き、ひたすらに船内を駆け回る。
洞穴じみた薄暗さと静けさの中で、グラハムの声だけが反響する。
ギャンブル船に帰還した直後、彼は一も二もなく船内へ駆け込んだ。
その行為がどれほど危険かは自覚している。
しかし時には、無理を貫き道理をこじ開けなければならない場合もあるのだ。
かつて、民間人が勤務する軍需工場を襲った新型ガンダムを、単機で迎撃したときのように。
「聞こえたなら返事を頼む! 天江衣!」
グラハムをこうまで突き動かす動機。
それは只ならぬ焦りであった。
別行動の開始から放送までの短い間に、二人が命を落とした。
ギャンブル船で恐るべき出来事が起こったのは想像に難くない。
しかも、地獄は今も続いているのかもしれないのだ。
「……ここにもいないか」
グラハムは苦々しく言い捨て、空っぽの客室の扉を閉めた。
いくつ扉を開いても、目に映る風景はどれも同じ。
豪勢な室内灯。上等な絨毯。真新しいシーツのベッド。
代わり映えのなさに眩暈すら感じそうになる。
だが、諦めるわけにはいかない。
友達を作ることができると請け負った――
彼女の安全を保障すると約束した――
その言葉を嘘にしてたまるものか。
「更に上階、いや――」
この一区画だけとっても数十もの客室が並んでいた。
船全体の部屋の総数に至っては、幾つになるのか見当もつかない。
それらを虱潰しに探すのはあまりにも効率が悪すぎる。
想像するのだ。
衣がどのような状況に置かれているのかを。
まず、船内の異変に気付いてすらいない場合。
これはまずありえないだろう。
利根川と真宵は衣と行動を共にしていたはずであり、放送も流れた後なのだから。
次に、異変には気付いているものの、活動が制限されている場合。
殺人者に捕らわれているか、逃げ場所が限られてしまった状況。
或いは何らかのトラブルで負傷し、身動きできない状況。
いずれにせよ最悪のケースだ。
衣の居場所を予測することなどできない。
そして、異変を察知していて尚且つ自由に活動できる場合。
これは最大の希望的観測だ。
肉体が健康で、かつ行動範囲が限定されていない状態の人間は、どこへ逃げ場を求めるのか。
例えば、確実に身を隠せる空間。
例えば、破壊されにくい頑健な守りの中。
「あるいは、一度訪れて見慣れている場所……まずはあそこだ!」
グラハムは踵を返し、脳裏に浮かんだ場所を目指して駆け出した。
天江衣が無事で、なおかつ逃走先を選べるなら、訪れたことのある場所に身を寄せるはずだ。
確率は五分か六分と踏んでいたが、闇雲に探し回るよりずっといい。
昼なお暗い廊下を走り抜け、グラハムは目的の扉を勢いよく押し開けた。
「天江ころ――――!」
その瞬間、グラハムの身体を鈍い衝撃が襲った。
一歩、二歩とたたらを踏み、廊下の壁際で踏み止まる。
驚きに目を見開き、衝突してきたそれを見下ろす。
小刻みに震える、耳のような飾り。
腰に届かんばかりの金糸の頭髪。
捜し求めていた少女が、そこにいた。
「グラハム……、えぐっ、利根川が……ひぐっ……カイジが……。
麻雀をしたのに……衣が白河夜船であったばかりに……ぐすっ……とーかぁ……」
衣はグラハムにしがみ付いたまま、混乱した思考をそのまま口に出している。
言葉に脈絡がない上に、涙声でひどく聞き取りづらい。
グラハムは軍服が濡れるのも構わず、衣の身体を抱き寄せた。
何があったのかは問い詰めない。
今はただ、衣が落ち着きを取り戻すまで待っている。
一分。
五分。
十分。
「やはり衣には……ひっく……知音を得ることなど……」
「…………」
時間が経つにつれて、嗚咽が小さくなっていく。
グラハムは噛み締めた歯が軋む音を聞いた。
この少女にどんな咎があったというのか。
苦しみもがき、悲しみに暮れなければならない理由がどこにある。
自分のように修羅として生きた者が地獄に堕ちるなら、それも宿命と受け入れられよう。
ならば、天江衣がこの生き地獄に堕ちる道理とは何なのか。
「赦せんな……」
怒りの矛先は幾らでもある。
衣を殺し合いに放り込んだ帝愛。
魔法とやらを売りつけた共謀者。
目的は見当もつかないが、私利私欲が根底にあるのは間違いあるまい。
だが、最も赦しがたいのは――
「……何より、私自身を赦せそうにない」
「それは違うぞ、グラハム!」
衣がグラハムを見上げた。
涙やら他の液体やらで、顔中がひどいことになっている。
しかし眼差しはまっすぐにグラハムを捉えていた。
「グラハムは戻ってきてくれた……!
黯然銷魂としていた衣を……助けに来てくれた! だから……」
髪を振り乱し、グラハムの自責を否定する。
約束を蔑ろにした彼を怨思するどころか、肯定すらしているのだ。
「……その言葉、ありがたく受け取らせて頂こう」
グラハムはまるでガラス細工を扱うような慎重さで、衣の髪を撫でた。
ギャンブル船三階、会議室前。
かつて仲間達と集い、今生の別れとなったその場所で。
◇ ◇ ◇
――彼は死んだ。
どうしようもないほどの致命傷だ。
心臓に撃ち込まれた銃弾は、心筋に孔を穿ち、血流の中枢を潰してしまった。
胸の痛みが強過ぎて、背中が床にぶつかった衝撃すら感じない。
肉体を巡った静脈血を受け入れる右心房。
動脈血を肺から受け取って左心室へ送る左心房。
肺へ流れる静脈血が通る肺静脈。
酸素が満ちた血液を全身に届ける大動脈。
それら全てに孔が開いた。
心臓がどれだけ拍動しても、肝心の血液は溢れてしまう一方だ。
これでは絶命するより他にない。
それでも今はまだ血管を流れている血液がある。
見方を変えれば、その酸素が尽きるまでは生きていると言えるかもしれない。
しかしそれもごく僅か。
不可避の結末へ転げ落ちるこの瞬間を、死と呼ばずして何と言うのか。
最後の鼓動が動脈を駆けのぼる。
これが脳髄を通り過ぎれば、彼は終わる。
意識が消える。
記憶が消える。
肉体が潰えれば、魂までもが霧散する。
彼という人格が消えてしまう。
望みも決意も何一つ達することなく消えてしまう。
光などなく、闇さえもない、無の中へと墜ちていく。
そこではきっと、無という言葉も、墜ちていくという意味さえもないのだろう。
それでも――
ほんの数秒で終わってしまう命でも、何かできるはずだ。
小さな肩で震えていた、あの儚い少女のために。
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最終更新:2010年01月24日 23:45