Paradox Spiral(前編) ◆C8THitgZTg
靴底が床を叩く音を聞き、
荒耶宗蓮は瞼を開いた。
一切の光源がない暗がりも、魔術師の視界を遮るには至らない。
荒耶は目を細め、闇の向こうに佇む黒衣の来客を見据えた。
「随分と変わり果てたものだな、荒耶宗蓮。
今になって呼び出されたときは何事かと思ったが、その様を見ては納得せざるを得ん」
暗黒と静寂に満たされた空間。
ここを言い表す言葉は幾つか存在する。
敵のアジト。
小川マンション。
奉納殿六十四層。
しかし、機能と用途を端的に表現するならこう呼ぶべきだろう。
『荒耶宗蓮の工房』と。
無論、F-5エリアの地下にある工房とは存在を異にする。
あちらは他の主催達を欺くために設けた、いわば"新しい工房"だ。
一方この工房は、殺し合いを舞台を造り出すより以前から存在している。
小川マンションを太極の具現とし、
両儀式を捕えようとしたそのときから。
"新しい工房"と比較して言うなら"古い工房"とするべきか。
殺し合いの始まりより更に以前。
会場内にマンションを移設する際に、荒耶は工房ごと地下駐車場までもを移していたのだ。
尤も、当初の予定では、あくまで小川マンションを管理する場所として利用するつもりであった。
新たな工房が潰えたときの予備とする考えも僅かにあったが、実際に使うことになろうとは思ってもみなかった。
なにせ、ここは会場の管理運営には最適化されていない。
拠点として戦い抜くには不足が多すぎる。
会場に干渉する機能は乏しく、新たな工房ほど多くの場所には繋がってはいない。
そういう観点で言えば、荒耶宗蓮は追い詰められているのかもしれなかった。
「姿形など些事に過ぎぬ。目的を果たすに足る性能があれば支障はない」
「それは重畳だ。荒耶宗蓮の『救済』を見られないのでは、私も手を貸す甲斐がないからな」
低い声を暗闇に響かせながら、黒衣の男は一抱えもある大きさの物を床に落とした。
荒耶は男の言葉を無表情に聞き流し、床に転がった物に視線を向けた。
ぴくりと眦が動く。
見紛うはずなどない。
網膜に焼きついた鮮烈な光景。
脳裏に刻み込まれた生臭い状態。
荒耶をこの窮地へと追い込んだサーヴァント、
セイバー。
その亡骸が無造作に転がっていた。
「ふむ、あのときに消滅したと思っていたが」
生気もなく横たわるセイバーを一瞥し、荒耶はようやく黒衣の男に意識を向ける。
男は両手を腰の後ろで組んだまま、口元だけに笑みを浮かべた。
「開始直後にセイバーのマスターが令呪を使っている」
ふむ、と荒耶は頷いた。
たった一言だが理解するには充分過ぎる。
荒耶は男の言葉を継いで、セイバーの亡骸が在る理由を語り始めた。
「ギアスが私の魔術を封じたことで、抑えていた令呪の効力が発揮されたか。
確かに、
キャスターの亡骸が残り続けている以上、セイバーもまた消滅していないのが道理である」
荒耶は再びセイバーに視線を落とした。
教会で斃れたキャスターが消滅しなかったのは、政庁で肉体を喪う以前に確認している。
同じサーヴァントでありながら、亡骸の末路に違いが出るとは考えにくい。
「そういうことだな。私としては、消滅してもらったほうが回収の手間が省けてよかったのだが」
セイバーは絶命し、肉体はその場から消え失せた。
恐らく、居合わせた全ての者がそう思っていることだろう。
しかし現実にはそうではなかった。
ギアスの効力。
荒耶の機能喪失。
令呪が齎す強力な作用。
それらが絡み合った結果、セイバーは令呪の行使より十数時間遅れ、首輪を残して瞬間的に移動したのだ。
存命のうちに首輪が外れたのか、死体が移動したのか、それとも絶命と移動は同時だったのか。
細部は想像するしかないが、確実なことが一つだけある。
目の前の男は、令呪の行使地点に移動したセイバーを回収し、わざわざここまで持ち込んだということだ。
「荒耶。私は帝愛がやろうとしていることよりも、おまえの『救済』に興味を抱いている。
しかし、だ。奴らへの協力を怠るのでは何かと都合が悪くなる」
「要求があるのなら、明確に言え」
荒耶の眼差しに晒されてなお、男は萎縮する様子すら見せない。
堂々と、己のあるがままに振舞い続けている。
「何、些細な野暮用だ。アレに最低限の機能を与えるには、サーヴァントの魂が五体分は必要となる。
故に、今までに死んだ分を回収しておきたい。どこかの死神に魂ごと殺されてはかなわないのでな」
荒耶は表情を崩さない。
末世を想う哲学者の如く沈黙し、男の要求を吟味する。
「承諾した。おまえの要求を受け入れよう、
言峰綺礼」
◇ ◇ ◇
二人分の重みを支えた自転車が、ゆっくりと林道を進んでいく。
普段なら気にならないような微かな斜面も、今は少し大変だ。
ペダルを踏み込むたびに、士郎の身体が左右に揺れる。
坂の途中での一件から、二人の間に会話はなかった。
関係に何らかの悪影響が生じたわけではない。
ただ単に話すタイミングと内容が見つからないだけである。
「もう少しだな……」
士郎は傾斜を登ることに意識を注ぎ。
「…………」
黒子は猛烈な気恥ずかしさに俯いていた。
「……不覚ですわ」
小声でぽつりと零す。
嘘偽りのない本心だったとはいえ、駄々をこねる子供のように泣きじゃくってしまったのだ。
呆れられてはいないだろうか。
幼稚だと思われてはいないだろうか。
そんな漠然とした不安が胸を疼かせている。
黒子は、士郎の制服をきゅっと握った。
これくらいなら、荷台から落ちないためだと思ってくれるだろう。
やがて自転車は林道を抜け、一段と開けた場所に出た。
林に遮られていた風が髪を靡かせる。
乱れかけた髪を押さえながら、黒子は何気なく周囲を見渡した。
まるで公園のような広場だ。
公園といっても遊具が並ぶ児童公園ではない。
充分な自然とある程度整えられた平地からなる、休養を取るための公園である。
時が時なら、人々の憩いの場所になっていたに違いない。
士郎の肩越しに、白い教会の外壁が見えた。
『神様に祈る場所』とはそういう意味だったのか。
黒子がそんなことを考えていると、唐突に自転車が停止した。
予想もしていなかった急ブレーキで、否応なしにバランスが崩れる。
華奢な肩が背中にぶつかり、片方の頬が制服と密着した。
「何ですの、急に」
黒子は努めて冷静なリアクションを返した。
ここで少女らしい声を上げて退くなんて、自分に似合う反応ではない。
あえて身体を密接させたまま、目の前の教会を見やる。
新築というほど真新しくはないが、さほど老朽もしていない外観。
大まかなシルエットは三角形で、実に教会らしい造りをしているといえる。
「言峰教会……本当に、そうだったのか」
「士郎さん、あの教会をご存知なのですか?」
士郎の声には驚きと不安の色が混ざっていた。
言峰という名称の意味は分からずとも、あの教会が彼にとって既知であることは察せられる。
「ああ、俺の街にある教会で、言峰綺礼って奴が神父をしてる」
ハンドルを握る手に力が篭るのを、黒子は見逃さなかった。
見知った建物を見つけたというだけではあるまい。
黒子は表情を引き締め、士郎に発言の続きを促した。
「その言峰教会が、どうかしたんですの?」
「言峰は……言峰綺礼は、聖杯戦争の監督者なんだ」
聖杯戦争。
たった一つの単語によって、黒子は事の重大さを理解する。
もし教会の発見が数時間早ければ、単なる不思議として軽く流していただろう。
しかし、今となっては看過できるはずもない。
『この殺し合いは聖杯戦争の模倣では』と仮説を立てた矢先に、本物の聖杯戦争と縁あるものと遭遇する――
偶然と片付けるには余りに出来過ぎている。
二人はどちらからともなく自転車を降り、教会までの短い距離を歩き始めた。
「なっ……」
「あっ……」
風向きが変わる。
教会の方から吹き付ける風に混ざった、生臭い臭気。
そして、扉の隙間から漏れた濃赤色の痕跡。
士郎は自転車を投げるように倒し、教会へと走り出した。
だが、先に動いたはずの士郎よりも早く、黒子が扉の前に出現する。
「お姉さま……!」
濃厚な死の気配を前に、黒子の心に浮かんだ情景。
それは、扉の向こうで息絶えた、
御坂美琴の姿。
理屈もなく、根拠もなく。
ただ恐怖心のみに後押しされた衝動だった。
おぼつかない手付きで取っ手を握り、重い扉をこじ開ける。
「――――っ」
酸鼻を極めるとはこのことをいうのか。
瞼を開けば鮮烈な赤色が視覚を犯し、息を吸えば甘ったるい鉄の匂いが嗅覚を溶かす。
口腔を満たす空気に血の味を感じ、黒子は唇を閉ざした。
一歩踏み出そうとして、脚が動かないことに気付く。
そこで黒子は、自分が恐れているのだと自覚する。
死体への嫌悪感ではなく、カーテンを被せられて横たわる亡骸の正体を。
竦む両脚を引きずるように、黒子は教会の中へと進もうとした。
「待て、黒子!」
士郎に肩を掴まれ、強引に外へと引き戻される。
その力が思ったよりも強くて、黒子は抵抗することも忘れてしまった。
「士郎さん……」
「俺が見てくる。黒子はここで待っていてくれ」
そう言い残し、士郎は教会の礼拝堂へと入っていく。
ぴちゃり、と血の海を靴が踏む音。
がさり、と死体に掛けられたカーテンが擦れる音。
三枚のカーテンを一枚ずつ丁寧にめくっては、亡骸の姿を確かめていく。
黒子はその間、開きっぱなしの扉に寄りかかり、士郎をじっと見続けていた。
やがて士郎は最後の亡骸を確かめ終えて、入り口の方へと戻ってきた。
「…………あの」
黒子は言い淀み、目線を伏せる。
そんな黒子の肩を、士郎は軽く叩いた。
「たぶん……『お姉さま』はいなかった」
「そうですか……」
士郎の報告を聞いたとき、黒子の胸に奇妙な感情が湧きあがった。
あえて表現するなら――安堵。
まだ現実を直視したくないという。
せめて綺麗なカラダであってほしいという。
どうしようもない願いが叶えられた安心感だ。
「俺より少し年上の男と、高校生くらいの女の子で……」
そこで士郎は言葉を切った。
続きを言うべきか悩む素振りを見せてから、意を決したように、手にしていたものを見せる。
それは、僅かに血痕の付着した、黄色のカチューシャ。
キャスターが荷に入れなかったがために、光秀の略奪を免れた品であることは、士郎は知らない。
ただ、物陰に落ちていたそれを少女の遺品と見定め、手に取っただけだ。
「そう、ですの……」
黒子は一歩退いた。
安堵してしまった。
無残な死体が『お姉さま』ではないと知り、良しと思ってしまった。
代わりに、
秋山澪の大切な人が斃れていたというのに。
それを知って尚、胸の奥の安堵が消えないのだ。
何という醜さなのだろう。
何という身勝手さなのだろう。
自分自身へのささやかな慰めに満たされて、他者への哀悼が浮かばない。
「士郎さんは……これからどうするおつもりですか……?」
「そうだな、もう少しここを調べたいかな」
黒子は俯いたまま、唇を軽く噛んだ。
そして、士郎のデイパックに手を掛ける。
「でしたら、ペリカを預けて頂けませんか? じきに消えてしまうんですから、使い切ってしまわないと」
「お、おいっ……!」
尤もらしい事を述べながら、黒子は士郎のデイパックを奪い取った。
理由なんてどうでもよかった。
今の自分を、彼に見られないようにできるなら。
黒子はデイパックを抱え、逃げるように教会の奥へと駆け込んでいった。
◇ ◇ ◇
マンションの内部を歩き回ること十数分。
階層をひとつ登るたびに、エツァリは困惑の度合いを深めていた。
違和感を的確に表す言葉すら見つからない。
極めて高度な魔術が編み込まれていることは、おぼろげながらに理解できる。
さりげなく、それでいて確実に、人の心に干渉する。
違う、と、自身の考えを否定する。
精神に干渉する力は呪術的なものではないようだ。
マンションの構造そのものが、人を狂わせるように出来ている。
巧みな照明配置。
ぱっと見には正常としか思えない壁の色彩。
微かに傾斜し、平衡感覚を狂わせる床。
どのような発想に立てばこんな構造を考案することが可能なのか。
しかし、魔術的要素が全くないわけでもない。
幾つもの妙技が絡み合い、この異界を作り上げているのだ。
力の底が見えない。
濃霧に包まれた深淵を、手探りで進んでいるような錯覚。
蒼崎橙子は、ここに主催者への対抗手段があると言っていた。
それは半分正しく、半分誤っていたのではないか。
この建物自体が強大な魔術の体現とするなら。
対抗する術とは、この異常なマンションそのものなのでは――
エツァリはそこで思索を打ち切った。
肝心の蒼崎橙子は、肉体の調整を行うと言って地下へ降りていったきり戻ってこない。
次の行動を起こすのは、彼女の用件が済んでからだ。
せめて、対抗する術とやらについて聞き出さなければ。
あるかどうかも分からない餌に釣られて盲従するなど愚行の極みだ。
仮に、蒼崎橙子が大した力を持っていなかったとしたら。
自分は勝ち目のない反抗に付き合わされ、その結果、全てを失うことになるだろう。
確かに、このマンションを構築した物理的、魔術的な技術は凄まじい。
しかしそれが彼女の力だという保障はないのだ。
他人の成果物を自身のものと偽り、信用を得る――典型的な詐術である。
「まずは、見極める。全てはそれからだ……」
エツァリはあえて、心のうちを言葉にした。
誰かに聞かせるためではない。
己へ向けた自己確認だ。
おーーーーーーーーーーーーーーん。
不意に、そんな音が聞こえてきた。
壁を震わせ、床を揺らし、廊下の先から響いてくる振動音。
それがエレベータの駆動音であると気付くのに、そう時間は掛からなかった。
エツァリは呼吸を殺し、音のするほうへ顔を向けた。
このマンションは奇妙な構造をしている。
半月形の二つの建物が隣り合って並ぶことで、完全な円柱形を成している。
円柱の中心をエレベータが貫き、それを包むように建物があるといった感覚だ。
1階と2階はリクライゼーション用の施設として作られており、東西のロビーとエレベータが廊下で繋がっている。
住居があるのは3階以上。
エレベータから南北に廊下が伸び、外縁部で左だけに曲がることができるようになっている。
例えば、エレベータを降りて南にいけば、建物の外周を180度回り、行き止まりにぶつかる。
つまり北の廊下は西棟の外周を、南の廊下は東棟の外周をそれぞれ囲んでいるのだ。
住居としての居住性よりも、別のことを重要視した設計なのだろう。
「……」
エツァリは5階の東棟、その外周部にいる。
このなだらかな曲線の廊下を南へ辿り、角を右へ曲がれば、まっすぐな廊下の先にエレベータの乗降口がある。
逆に言えば、そこまでしなければ、エレベータを確認することができないのだ。
だからこそエツァリはエレベータに近付いていく。
廊下は完全な行き止まりだ。
隠れる場所は部屋の中しかない。
エレベータが上昇を停止する。
エツァリは曲がり角に身を隠して、南北を貫く廊下を覗き見た。
扉が、開く。
◇ ◇ ◇
「白井!」
黒子が礼拝堂の奥に消えてから、遅れること数秒。
士郎は黒子の後を追って走り出した。
乾きかけの血糊を踏み越え、中庭へ通じる通路を駆け抜ける。
ほんの数秒だった遅延は、しかし致命的なまでに長すぎた。
空間転移を使いこなす黒子と、そういった能力を持たない士郎とでは、運動性が天と地ほどに違うのだ。
「……くそっ」
己の判断の遅さに毒づく。
すぐにでも駆け出すべきだったのに、不要な迷いを挟んでしまった。
黒子が『お姉さま』のことで思い悩んでいるのなら、自分が割り込むべきではないのでは、と。
思い返せば、なんて見当違いな考えだったのだろうか。
関わるべきだとか、関わるべきではないとか、そんなことは関係ない。
たとえ何の役に立てなくても、黒子の隣にいなければならなかったのだ。
一緒に生きて帰ると約束したのだから。
薄暗い礼拝堂を抜け、太陽の下に躍り出る。
あまりの眩しさに目が眩み、一瞬だけ思考が空白になった。
やがて、網膜が過剰な光量に慣れていく。
真っ白だった視界に色彩が戻る。
白亜の壁と床。
古い木枠の窓。
緑の蔦。
青い鎧戸。
色付いていく風景の中、ただ一点だけ、闇が落ちていた。
「あ……」
最初は、目が眩んだときの残光だと思われた。
視線を動かせば一緒に動くような、見せ掛けの暗がりだと。
「な……に……?」
太陽の光を浴びていながら、そこだけ抜け落ちたような、黒い輪郭。
そこに在るのに、そこに在ると思えない異常。
超えられぬ壁のごとく立ちはだかる、黒い魔術師。
士郎は殆ど本能的に身構えていた。
――気配が、ない。
それどころか、目の前にアレが存在しているということ自体を信じられない。
知らず、カリバーンの柄を掴む手に力が入る。
世界中の苦悩を刻み込んだような面持ちを上げ、魔術師は問うた。
聞く者を魂から屈服させる声が、士郎の鼓膜を揺する。
士郎はカリバーンを強く握り、黒い魔術師を睨みつけた。
「……白井はどうした」
空間転移で中庭を通り過ぎていない限り、黒子もここを通ったはずだ。
返答によっては、あの魔術師と戦わなければならない。
魔術師が静かに一歩を踏み出す。
無造作な前進だというのに、士郎はそれに反応することが出来なかった。
「
白井黒子に用はない。私の目的は、衛宮士郎、お前だけだ」
「そうか……それならっ!」
だんっ、と石材で舗装された地面を蹴る。
相手が自分を狙っているのなら、尚更逃げるわけにはいかない。
この場を切り抜けたところで、相手は諦めてくれないだろう。
最悪、どこかにいる黒子が人質にされる危険もある。
だからこそ、ここで倒す。
半人前の士郎でも、対峙する相手の脅威は痛いほどに理解できた。
奴は間違いなく強い。
それでも、勝機を感じていないわけではなかった。
手にした得物は"勝利すべき黄金の剣(カリバーン)"
鉄パイプや角材を強化して振るうのとは比べ物になるまい。
彼我の距離を数歩で詰め、金色の刃を振り上げる。
「―――はあっ!」
「不倶、」
突然、士郎の体が停止する。
「金剛、」
振りかざした腕までも、嘘のように動かない。
「蛇蝎、」
「な―――」
士郎は言葉を失っていた。
流動の耐えた大気に。
そして、自身を戒める三重の結界に。
「―――蛮勇。力量の差も測れぬか」
固く握られた拳が、士郎の腹を殴り上げる。
衝撃が腹筋を突き抜け、柔らかな内臓をシェイクした。
立て続けにもう一方の拳が突き刺さる。
「がはっ……!」
視界がブレた。
息をつく暇など与えられない。
内臓のどこかが破れたか。
肺から追い出される呼気に血が混じる。
魔術師の拳は、一撃一撃が必殺の威力を持っている。
耐えられるとして、あと何発――それとも、既に。
「な、んで―――おまえ―――」
何故自分を殺そうとするのか。
そう問おうとしたが、発音未満の震えが口から漏れるだけだった。
「理解せぬなら、それまでだ。お前に価値はない」
魔術師が再度拳を握る。
結界の戒めが緩み、士郎の身体がぐらりと傾く。
刹那、鉄槌じみた打突が、無防備な胴体を直撃した。
「―――――――――――――がっ」
「ぬ―――――――――――――?」
鉄の塊が衝突したかの如き轟音。
骨格が軋む。
意識が断線する。
戒めから解き放たれた肉体は、拳の衝撃をもろに受けて、砲弾のように吹き飛んでいった。
◇ ◇ ◇
こつん、こつん。
階段を下る靴音が、地下の空間に響き渡る。
「地下聖堂……ですわね」
黒子は階段を最下段まで降りてから、ちょうどいい高さの段に腰掛けた。
膝と一緒に二人分のデイパックを抱き寄せる。
勢いのままに逃げ出して、こんなところにまで来てしまった。
結局、どうして自分は逃げてしまったのか。
それすらも、改めて考えなければ理解できない。
きっかけは教会の扉から漏れ出た血糊。
あれを見た瞬間、首筋から血の気がさぁっと引いて、冷静さを失った。
扉の向こうに『お姉さま』の変わり果てた姿がある――そんな錯覚に襲われたのだ。
後は負の連想ゲームの繰り返し。
勘違いに気付いて安堵を得たのは、士郎が教会の亡骸を調べてくれてからのこと。
ああ、そうだった。
身勝手な安堵感に喜んだことを自覚して、居た堪れなくなって逃げ出したのだ。
―――静かだ。
耳が痛くなりそうな静寂の中、呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
彼はどうしているのだろう。
言い残した通りに、教会を調べているのだろうか。
それとも、自分を探して歩き回っているのだろうか。
「駄目ですわ、こんなことじゃ……!」
左右の頬を軽く叩く。
こんな有様では――――に合わせる顔がない。
思えば、殺し合いの始まりから十五時間ほど経っているが、死体と間近に接したのはこれが始めてだ。
最も死が近くにあったのは、ギャンブル船で死んだカイジの件だ。
しかしそのときですら、黒子は死体を目の当たりにしていない。
カイジの死体を見つけたのはゼクスと衣で、見張りをしていたのは士郎だけ。
だから、教会で誰かが死んでいると気付いたとき、必要以上に気が動転してしまったのだろう。
黒子は地下聖堂の黴臭い空気を思いっきり吸い込んだ。
そうして、腹の底から吐き出していく。
「……よしっ」
早く彼の元へ帰ろう。
帰って、ごめんなさいと謝ろう。
黒子はそう心に決めて、階段から立ち上がった。
「おまえ一人、か」
男の声が、地下聖堂に反響する。
黒子は咄嗟に身構え、周囲を見渡した。
「どなたですの? 覗き見なんて悪趣味は止めて頂きたいですわね」
「ふむ、これは失礼した」
聖堂の奥から、革靴の音が近付いてくる。
暗闇からの一方的な攻撃すら覚悟していたのに、拍子抜けするほど正直な対応だ。
少しずつ男の輪郭が明瞭となり、黒子の目でも判別がつくようになっていく。
丈長の外套、黒い神父服、首から提げたロザリオ。
声の主は、見るからに神父然とした風貌の男であった。
黒子は警戒を絶やさずに、男をつま先から頭頂部まで観察する。
顔付きは日本人的だが、体格は非常に恵まれている。
目測だが、一九〇センチは越えているに違いない。
「こんなところに神父様がおられるなんて、場違いもいいとこですわね」
「面白いことを言う。教会に神父がいるのは当然だろう」
いいえ、と黒子は首を振る。
「地上の建物で何が起こったのか、知らないとは言わせませんわ。それに……」
抱えていたデイパックを床に落とす。
それと同時に、筆記用具のペンを三本、指に絡めて抜き取っていく。
「わたくし、だいぶ暗さに目が慣れてきましたの」
ペンの一本が手から消える。
未知なる相手と遭遇したとき、提示される選択肢は決して多くはない。
"対話"
"逃亡"
"無視"
"降伏"
そして黒子が選んだのは――"敵対"
神父の眼前にペン先が迫る。
しかし神父は最小限の動きで腕を振るい、その脅威を打ち払った。
次の瞬間、黒子の姿が階段の上から掻き消える。
一切のタイムラグもなく、黒子は黒衣の神父の死角に現れた。
黒子は神父の背中に触れながら、暗がりの向こうに視線を向けた。
接触から空間転移までの一瞬に短い思索を巡らせる。
ちょうど神父が現れた方向に、誰かの亡骸が横たえられている。
薄暗い上に距離はあるが、生きた人間でないのは間違いない。
頭と身体が切り離されれば、人は死ぬのだから。
それに、教会の死体は二つだったのに、弔った形跡は三つもあったのだ。
ここまでくれば、誰でも見当がつくというものだ。
「理由は聞きたくありませんわ」
神父を同一位置で空間転移させる。
ただし、頭を下に、脚を上にと、上下の位置をひっくり返して。
普通、人間は瞬間的な上下の反転を体感できない。
体感できないことは慣れようがなく、対処も極めて困難だ。
ジャッジメントの職務において何度もやってきた所作であり、その度に高い効果を上げてきた。
それなのに。
頭から落下するはずの神父が、空中で突然動きを止めてしまった。
「えっ?」
――違う。
神父は頭が床にぶつかるより早く、両腕を支えに突き出したのだ。
そのまま腕をバネのように折り、曲芸じみた動きで身を翻す。
距離を取れと直感が告げる。
反射的に、黒子は自身を階段まで転移させていた。
「……っ」
反撃を想定し、油断無く構える黒子。
だが、神父は漫然と黒子の方へ向き直るだけで、決してそれ以上の行動をしようとしなかった。
警戒し続ける黒子を滑稽に感じたのか、神父の口元に薄く笑みが浮かんだ。
「どうして攻撃してこないのか……そう考えているようだな」
黒子は答えない。
どうせ図星を突かれたことは見抜かれているのだ。
余計なことは頭から追い出して、次なる攻撃に備えている。
頬を冷や汗が伝う。
神父との距離は六メートル程。
黒子にすれば、走って詰めるには広すぎるが、空間転移なら精妙な制御が望める間合いだ。
この距離を相手はどうやって埋めるのか。
ダッシュ?
飛び道具?
それとも何かしらの能力を?
膠着状態が続くかと思われた矢先、神父はおもむろに襟元を緩め、黒子に己の首を見せ付けた。
そこには、本来あるはずの物――首輪が存在していなかった。
「あっ……!」
「理解して頂けたかな」
黒子の反応を見届けて、神父は襟元を正した。
「私は主催側の人間……言うならば、ギャンブル船の黒服達の同類だ。
会場運営の一部を取り仕切るが、生存者に手を出すことも、生存者同士のやり取りに介入することも認められていない。
尤も、こうして死体になった後であれば、保守管理の一環として干渉することもあり得るのだがな」
そう言って、背後の亡骸を目線で示す。
発言のうち何割が真実かは分からないが、少なくとも主催側に立つ人間だというのは信憑性がある。
事実、黒子はギャンブル船で参加者以外の存在と出会っているのだから。
「君と遭遇したのはただの事故だ。私からは一切の危害を加えないと約束しよう。
だが、君が戦闘の続行を望むというなら、こちらも必要最小限の自衛措置を取らせてもらう」
「……分かりましたわ。そういうことでしたら、こちらも矛を収めますの」
手元に残っていた二本のペンが消失する。
黒子は、神父の言葉を全て信用したわけではない。
教会で殺戮を繰り広げた者の正体は分からず、この神父が不干渉を貫く保証もない。
しかし躍起になって打ち倒そうとするほどの理由もなかった。
神父の視線を感じながら、二つのデイパックを左右の肩に掛けていく。
「ところで。貴方のお名前、お聞かせ願いません?」
立ち去る直前、黒子はさり気ない口調で問いかけた。
ふむ、と神父が口元を僅かに緩めて思案する。
その顔は、判断が難しいことを要求されて悩む後ろ向きな感情ではなく。
どちらを選択したほうが楽しいかを考えている、前向きな意思に裏打ちされているようであった。
「私の名については機密とさせてもらおう。簡単に教えてしまっては、些か面白味に欠ける」
面白味――その表現が黒子の頭の隅に引っかかった。
名前を教えられない取り決めだ、ということなら理解は早い。
黒服も個人名は分からなかったし、聞いても答えてくれなかったに違いない。
しかし、面白味に欠けるとはどういう理屈なのか。
「聖職者なのに随分と意地が悪いんですこと。高みの見物でお楽しみですか」
「否定はしない。白井黒子、おまえのこれからも楽しみにしている」
黒子は神父と向かい合ったまま、半歩だけ退いた。
――やはり、この男は黒服達とは違う。
空間転移に対処してみせた身体能力は元より、殺し合いに携わる意思が違い過ぎる。
そもそも、遭遇が事故だと主張していることすら白々しい。
声をかけたのはあちらなのだ。
何かしらの明確な意図を持って接触してきたに決まっている。
黒子は胸に警戒心を隠したまま、改めて神父の顔を見た。
せめて顔付きだけでも覚えておこうと思ったが、どうやら要らぬ心配のようだ。
「今はまだ期待したほどではないが、奴と行動を共にしているのは喜ばしい誤算だよ」
「お褒めに預かり……光栄ですわね……」
こんな胡散臭い顔―――忘れたくても忘れられない。
「では、謝礼の代わりに情報を一つ進呈しよう。
ここの換金装置と販売機は、教会内の一室に設置されている」
そう切り出して、神父は部屋の位置を詳細に告げていく。
まるで、勝手知ったる我が家を案内するかのような流暢さで。
ここに至り、黒子の仮説は確信へと傾いていた。
「察していると思うが、参加者が換金により装備を整えることは、我々にとっても望ましいことだ。
利用するか否かは君の信念に委ねよう。……それと、忘れ物だ」
神父は床に落ちていたペンを拾い、山なりに放り投げた。
それを受け取ろうとした拍子に、黒子は神父の姿を視界から外してしまった。
再び顔を上げると、神父がいたところには、濃密な闇だけが広がっていた。
床に転がされていたはずの亡骸まで見当たらない。
「あんなに分かりやすく振舞うなんて……」
まるで、あえて正体を見抜かせようとしているかのようだ。
黒子は誰もいない暗闇を―――言峰綺礼がいた場所を睨み付けた。
呆れてものが言えない、としたいところだが、却って不気味すぎる。
生存者に干渉しないなんて嘘っぱちだ。
たった数分間のやり取りで、こんなにも自分を惑わせているのだから。
黒子は視線を切り、地上へ向けて転移した。
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最終更新:2010年03月07日 10:03