ふたば系ゆっくりいじめSS@ WIKIミラー
anko1324 2・先輩
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ankoss
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【先輩、デタラメなゆっくりと出会うのこと】
※久方ぶりのSSです。今度は現代イメージに挑戦。
現代社会に、ゆっくりが奇妙な新種として実在する世界……という感じです。
※設定に違和感を憶える場合もあるかと思いますが
「ああ、こういう世界なのね」と大らかな気持ちで見てくだされば幸いです。
※またも、虐分薄めというより、前置きが長いです。
※18禁かもしんないです。エロくないくせに。
ピュアな てぃーんねーじゃー にはピンと来ない箇所もあるかと思いますが
汚れた大人の戯言とスルーしてください。
「どうにも最近のは……何かというと、電マだねぇ」
気怠い休日、日差しも温かくなって来た昼前。
一人暮らしの気ままな生活。彼女がいるわけでもなし、野郎の友人宅へ押しかけるのも
面倒なだけだ。
なにより外出するほどの馬力も湧き出さなかったので、溜まっていた洗濯物を洗濯機へ
放り込み、その全自動な行程が終わるまでの時間を潰そうと、先日レンタルしてきたAV
を見始めた。
ちなみに、さんざん話題になったのに見ないままだった映画も併せて借りてきたのだが、
映画一本はちょっとした時間潰しに見るものでもないだろう。見るための気合いと気持ち
を盛り上げてからでなくては、名作を見終わった時の感動も、肩すかしを食らった時の憤
りも、中途半端で終わってしまう。
それはともかく、AVだ。もちろん、この略はアダルトビデオの方。モザイクも、薄消
しと表記してあったが、ちゃんとかけられている。清く正しいレンタル対象作品だ。
細身でプロポーションも良く、顔もなかなかで乳房も大きく形が良い、そんな女優さん
がイカされまくるという、割と好みの内容らしかったので借りてきたのだが……
プレイの進行は、昨今よく見かけますねといった感じの流れだ。いや、それはいい。流
行結構、定番万歳。それらが悪いわけではない。
男優が喋らないというのも良い。男優の台詞の代わりにか、場面転換やプレイが一段落
したときに、画面が暗転して一言だけ字幕が差し込まれるのは、好みが別れるところかも
しれない。まぁ、個人的には問題ない。
女優さんの声より男優の声ばかりが目立つと、自分としては萎えてしまうから。「お前
ばっか喋んなや」と思わず画面の男優にツッコミを入れてしまったこともあるくらいだ。
電マやバイブを使うのも、駄目とは言わない。それどころか、割と好みだ。だが、挿入
するバイブはともかく……電マって、振動するだけのものなんじゃないのか? 女性器は、
気持ちいいと感じる神経が表層部や入り口付近にも集中していると聞いたことがあるけど、
撫でたりするわけでもなく、振動だけであれほど気持ち良くなるものだろうか?
なるのだとしたら、全くもって女体の神秘。
少なくとも、オナホについてる振動ローターの効果がさっぱりわからない身としては、
電マの効果にも、つい懐疑的になってしまう。あ、でも、すっごい超振動だと、やはり違
うのか? そんな超振動は経験ないし。
というか、女体じゃないし、俺の体。
ともあれ、初めて見たときはインパクトもあって興奮したものだが、電マも今やすっか
りお馴染みのアイテムになったものだ。
そういえば、工事で使うロータリーハンマドリルの先端に、ハンマーでもドリルでもな
く、バイブを付けたもので女優さんを責めているのを見たことがあったけど……あれはイ
ンパクトと説得力の両方を兼ね備えていたな。
あれは凄かった。
でも、ちょっと迫力がありすぎて不安にもなったが。
俺も、模型や工作で使う小振りなハンディドリルを持っているが、改造して試してみる
気にはならない。
そもそも、試す相手がいない。
自分で試すなんて、冗談にもならない。
男優が自分の手で、あるいは電マやバイブ等の道具でと、その責めを激しくしていくと
女優さんが所謂“潮吹き”をする。これも、また結構なものだ。
まさしく女体の神秘。
合間合間に水分補給しているのだろうか? この女優さん、実によく潮を吹く。「これ
だけ大量だと、もうこれ、ただの小便でしょ」とか、そんな野暮なことも言わない。
お漏らし?
いいじゃない!
ただ、問題なのは……
「なに、それ? なんなの? 『この顔は色っぽいでしょう』とでも言いたいんですか?」
どうも先ほどから、女優さんのカメラ目線が気になるのだ。
しかも、上目遣いで。
シチュエーションが違ったら「それ、ただのガン付けだから」という目つきで。
せっかくの美人さんが台無しですよ。
時間潰しのための、いわば味見のようなつもりだったためナニは出してないが、もしも
レッツビギン体勢だったら、この目線一つで萎えるだろう。見ること自体をやめてしまう
くらいだ。
どうにも芝居臭くていけない。
「演技するなら、芝居ってバレちゃ駄目だろ。やっぱ、自然が一番だな」
「しぜん?」
「そう。嘘くさいのは、良くないね」
「嘘は良くないです! ゆっくり出来ないんだよ!」
「いや、ゆっくりするために見るものじゃないけどね、AVって。まぁ……抜いた後は、
ゆっくりというか、まったりというか。虚脱状態というか……」
「抜いたら、ゆっくり出来るんですか? なにを抜けばいいの?」
「さっきからお前、何を“ゆっくり”みたいなことをって言うか誰だぁああああっ!?」
「ゅわぁあああああっ!?」
「って……本当に、ゆっくりじゃねぇか!」
「ゆ……ゆっくりしていってね!?」
「「「「ゆっくぃしていっちぇね!」」」」
なんだかんだで、画面の女優さんに集中していたのか。
突然の問いかけに対しても、当たり前に返事をしてしまったが……俺は一人暮らしだ。
客も来てないのに、話しかけてくる者がいるわけもない。
真昼の心霊現象かと一瞬肝を冷やしたが、振り返ってみればそこには“ゆっくり”がい
た。大きいのが一匹。やたらと小さいのが四匹。
この生ける不思議饅頭は、いくら駆除をされても、その姿を消すことがない。
外見は下ぶくれの生首。その造りは、主に皮と餡で成り立つ饅頭そのもの。中身の餡は
その種類によって、小倉だカスタードだ生クリームだチョコだと色々あるらしい。そんな
ものが、なぜ動くのか……そもそも「生きている」と言っていいのかすら謎だが、メシを
食い、糞を垂れ、交尾して、子を為す。つまり、生き物として振る舞っている。挙げ句の
果てが、人語を解するときた。
発見されたときは、大騒ぎになった。新種発見で大いに盛り上がったことは、ゆっくり
以前にもあったそうだが、それとは比べものにならないほどだという。
まぁ、当然だろう。
繁殖の容易さや、その特異な性質、しかも人語を解するというのだから、それはもう、
様々な利用法が模索され、ペットとしての価値を計られと、ともかく一時期は大変な人気
だった。
だが、野生動物の習性パターンと現代人の思考パターンを混ぜ合わせて3で割り損ねた
ような行動様式を持つゆっくりは、有効活用や利用価値よりも、存在することでの問題点
の方が多く目立つことになった。
山から下りてくれば畑荒らしなどの問題を起こし、街へとやってくれば商店の営業妨害
や路地の不法占拠と問題を起こし、ペットにされれば捨てゆっくりを中心とする飼い主の
マナー系問題や、鳴き声を初めとする近所迷惑に器物破損と問題を起こし、食品にされて
さえモグリ業者による食中毒と問題を起こす。
愉快と不愉快の境界線上で、迷惑と問題を撒き散らかす謎存在だ。
「まぁ、人間の方に問題がある例もいくつかあるけど……」
「ゆゆ?」
そして、我が家へと突然に闖入してきたゆっくり共も、謎な存在だ。まぁ、湧くように
突然現れた段階で、十分すぎるほど奇妙なのだが。
まず大きいのは、黒く大きなとんがり帽子に、その下から金髪が覗いている。“まりさ
種”ってやつだ。
小さいのは……やたらと小さいので、少々判別が難しいが、一匹は同じ“まりさ種”の
ようだ。ならば親子かというと、残り三匹が別々で、二匹が短めの金髪にカチューシャと
いう“ありす種”。そして残る一匹が、黒髪に後頭部を飾る赤いリボンがトレードマーク
の“れいむ種”。
よほどの例外でもない限り、両親以外の種が産まれることはないという。
ならば、小さい方が三種類もいる段階で、親子とはちょっと考えにくい。
首を傾げている俺と向き合った状態で、ゆっくり達も、その生首のような体を傾ける。
こちらのマネをして、首を傾げているつもりなのだろうか?
バッジや名札など、飼われていることを示すものは見当たらないから、おそらくは野良
なんだろうが、たいして薄汚れてもいない。
その点も、奇妙だ。
手足のないゆっくりは、互いの頬を擦り合わせるか、舌によるグルーミングくらいしか
身嗜みを整える術がないらしい。水浴びもするそうだが、なにせ饅頭。長時間水に浸かる
と、その皮が水を含んで脆くなり、最後には溶けるように崩れてしまうとか。だとすれば、
しっかりと汚れが落ちるまで水に浸かり続けるなんて出来ないだろうし、ほとんどのゆっ
くりが本能的に水を怖がるとも聞いた。
さすがに接地面……人間で言えば足の裏に当たる部分は、いくらか汚れているようだが。
それでもパッと見た感じでは、土や埃に汚れているわけでもない。捨てられて間もない
のだろうか?
だとしたら、どうして大きい方のまりさは、やつれているのだろう?
一匹だけ大きなまりさは、酷くやつれて、目の下にクマが出来ているし、頬もこけて影
を入れたように黒ずんでいる。よほどに飢えて、栄養失調とでも言うべき状態のようだ。
だとしたら、野良生活が長いのか……それとも、飼い主が飼育放棄して餌もくれないか
ら、逃げてきたのか?
あれこれ考えながら、すぐ傍らにほったらかしてあった袋を手に取る。なんの変哲もな
い、ビニール製の買い物袋──近所のスーパーで買い物をした際に、一緒にもらえるもの
だ。かなりの容量が入り、十キロ入りの米を買ったときも、これに入れて持って帰ってき
たし。手に、紐状となった取っ手部分が食い込んで痛かったけど。
「なんで、いきなり……ゆっくりが俺んちに湧くんだ?」
「ゆ? まりさ達は湧いたんじゃゆぁあああああっ!?」
「「「「おか~しゃぁあああああああああん!?」」」」
最後まで聞かずに、大きなまりさを引っ掴んでビニール袋へ放り込む。その拍子に、袋
には収まりきらなかった大きなとんがり帽子が転げ落ちた。
「お、お帽子さんがぁあ!? ゆああ!? お兄さん! やめてね! がさーは駄目だよ!
袋さんはゆっくり出来ないです! やめてください!」
これまた無視して、ガサーッとまりさを完全に袋へと収めてしまい、取っ手部分を縛っ
てしまう。吊せる場所でもあれば、縛らずに引っかけておくのもいいが、生憎と手頃な場
所はない。
「……“お母さん”って言ったか? てことは、まさか親子なのか?」
「お兄さん!? まりさが悪いことをしたのなら、きちんと謝ります! だから出してね!」
「おかーしゃんに ひどいこと しゅゆにゃぁああ!」
「こんなの とかいは じゃないわっ! やみぇなさいっ!」
「おかあしゃんを いじめりゅと りぇいみゅ おこりゅよ!!」
「おかぁさんを いじめる いなかものな じじぃは しになさいっ!」
「駄目だよ、おチビちゃん達! お兄さんにそんなことを言う子は、悪い子だよ! 悪い
子は、ゆっくり出来なくなるよ!」
「ゆゆっ!? で、でもでも! おかあしゃんが……!」
「ありす、わるいこに なるの、いやよ……ゆっくりできないのも、いや……」
「あぃすだっちぇ……でも、おかあさんが……」
「まぃしゃ、おかーしゃんを たしゅけたいよぉ!」
また、首を傾げてしまう。
どうも、このゆっくり達、母と子ではあるらしい。血の繋がり……餡の繋がり? が、
有るのか無いのかは、ともかくとして。
そして、母親であるまりさは、ずいぶんと賢いようだ。それも、人間から見て、人間に
都合良く、賢い。
「やっぱり、元飼いゆっくりで……しかも、ブリーダーにきちんと育てられたってところ
か?」
ゆっくりを、ペット用に繁殖・飼育・調教する職業も、きちんとあるらしい。
ペットどころか、つい最近“盲導犬補助ゆっくり”なるものの教育に成功し、その第一
号がパートナーの盲導犬と共に、視覚障害者に引き取られたとニュースで言っていた。
近々、ゆっくりのみでも介助を行えるものが育ってくるかもしれない、と、ゆっくりが
好きらしいレポーターがニコニコしながら言っていたっけ。
「ゆゆ? ブリーダーのお父さんなら、まりさ知ってるよ?」
案の定の答えが、袋の中から聞こえてくる。ただビニール越しなので、モゴモゴごそご
そと、ちょっと聞き取りづらい。
「まりさのお母さんも、そのお母さんも、とってもお世話になって、いろんなことを教わ
ったんだよ。まりさも、たくさんのことを教えてもらったんです!」
「そして、まりさはブリーダーさんの所から、飼い主のところへと貰われていったってわ
けだ?」
「そうです! それでね! それで……それで、まりさは……まりさは……捨てられたん
だよ……まりさの可愛いおチビちゃん達と、一緒に……」
子供達の嘆きが、一度に高まる。少々聞き取りにくいが、お母さん泣かないで、お母さ
ん元気出して、お母さんごめんね自分のせいで、などと言っているようだ。
泣く子供達に袋の中から、おチビちゃん達のせいじゃない、笑って、ゆっくりして、と
母親が宥める。
また、首を傾げてしまった。
ゆっくりは、とにもかくにも自分勝手な存在だと聞いている。人間の醜い部分ばかりを
際だたせたような性格をしている、なんて評した者もいた。自分の窮地を忘れて、泣く子
をあやす親。親の苦難を、自らが生まれた故だと詫びる子供。
ちょっと綺麗すぎないか?
そうだ、思い出した。自分勝手の代表的な例として、“お家宣言”ってのがあったか。
人間の家へ上がり込んで、今日からここを自分の家にすると言い張るというものだ。
居直り強盗も呆れて言葉を失うであろう馬鹿げた宣言だが、ゆっくりにとってはごく当
たり前のことなのだという。
そのお家宣言も、コイツらはしてこなかった。そもそも、あまり派手に動き回ってもい
ないし、部屋の中を荒らされたわけでもない。
妙に大人しい連中だ。まぁ、親のまりさは衰弱しているだけなのかもしれないが……
「お母さんは大丈夫だよ。だから、おチビちゃん達はゆっくりしてね? それと、お兄さ
んを怒らせるようなことをしちゃ、駄目だよ?」
「でもぉ……でも、おかあしゃんは ゆっくりしてないよ?」
「おかーしゃん、きゅゆしきゅにゃいの?」
「大丈夫、お母さんは平気だよ。お母さん、強いんだから!」
『ぁひぃっ!!』
清らかな親子のやりとりを、湿り気を帯びた喘ぎ声が台無しにする。
ああ、AVが再生されっぱなしでしたね。女優さん、また派手に追い詰められ始めまし
たね。
とりあえず停止しようかとリモコンに手を伸ばしながら、なによりも奇妙であるはずの
問題点を再び口にしてみる。
「にしたって、なんでまた部屋の中へいきなり、ゆっくりが湧くんだ?」
「ゆゆゆ? まりさ達は、湧いたんじゃないよ? 大変なことが起きてるみたいだから、
怖かったけど助けに来たんだよ」
「……助けに?」
予想もしてなかった奇妙な返答に、リモコンへと伸ばしかけた手が止まる。
「女の人が、大変なことになってると思ったんだよ。まりさじゃ、どうにも出来ないかも
しれないけど、でも、放っておけなくて……」
「女の人が? 大変なこと?」
「だって、まりさも……まりさも……ゆわわぁああああんっ!!」
「……ああっ!!?」
はたと気が付いて慌てて立ち上がり、開けっ放しだった襖から隣の部屋へ駆け込む。
東京23区内の2DKと一人暮らしには過ぎた物件のこのアパート。だが、駅から遠く
て築年数もそれなりに過ぎており、さらには大通りに面していて車の音がうるさいからか、
家賃はちょっと頑張ればなんとかなる価格。
寝室として利用している隣の部屋には大きな窓があり、そこからごく小さな庭へと出ら
れ、洗濯機はその庭にしつらえてある。
「ああ……窓……全開のままだ……」
そういや洗濯をしようと庭へ出たときに、ついでに換気もしようとこの窓を開け放った
のだった。
「にも関わらず……大音量で、AVを……イキまくり女優の、大きな喘ぎ声が……」
一人暮らしが長かったための、油断というやつだろう。きっと誰だって、こういうミス
をやったことがあるんじゃないだろうか? あるに違いない。あると思いたい。
虚ろに、無為な思索に囚われていると、先ほどまでいた居間として使っている部屋から、
女優さんの声が大音量で響き始める。
「またイッちゃう」とのことだ。そうね。俺も、どこか遠くへ行ってしまいたいよ。
「もう駄目になっちゃう」とのことだ。そうね。ご近所さんの俺に対する評価は、もう
駄目かもしれないよ。
ノロノロと窓を閉め、他の戸締まりも確認し、居間へ戻ってAVを消して、ガックリと
座り込む。
体勢は、先ほどまでAVを味見視聴していたものと大差なく。ただ心情は、甚だ落差激
しく。
車の音に紛れていれば、大丈夫だろうか。少なくとも、俺の部屋が音源だと限定されな
ければ、なんとか……しかしこのアパート、ご家族持ちが多いのだ。独身男性は、確か俺
ともう一人くらいしかいないんじゃなかったか。
世知辛い都会には近所付き合いもほとんど無いのだから、ご近所の評判なんて気にする
ことはないだろう……と言えば、言える。だが、悪評なんてものは、無いに越したことは
ないのだ。
この近くで、妙な事件でも起こってみろ。
そして、あの部屋の住人は、女性を責め立てるようなAVを喜んで見る種類の人間だ、
と、警察やら報道やらに言われてみろ。
なんか、そんなこんなで見事な冤罪が出来上がった例が、過去にあった気がする。
「はぁ……」
「お、お兄さん? お兄さん! なんだか息苦しくなってきたよ! まりさのこと、そろ
そろゆっくり許してください!」
「おかあしゃんが しんじゃうよ! たしゅけてね!」
「あぃすも おにぇがいするわ! おにぇがいぃます!」
「おにーしゃん、おにぇがい!」
「おかぁさんを たすけてあげてね!」
また、溜め息をつく。
なんにせよ、済んだことだ。終わったことだ。過ぎた事柄をウダウダ考え込んでいても、
取り返しがつくわけでもない。
ノロノロと袋を持ち上げ、結び目をほどいていく。ほどいた取っ手部分を持ち、ぶら下
げたまま袋の中を覗き込むと、中のまりさと目があった。
「ゆゆっ! ありがとう、お兄さん! 苦しかったけど、これでゆっくりたくさん息が出
来るよ! このまま出してくれると、まりさとっても嬉しいです! それから、まりさの
お帽子さんは無事? あれは、まりさの大切なお帽子さんなんです! お願いしますから、
返してください! まりさのおチビちゃん達は悪いことしてないので、袋さんに入れない
であげてください! たくさんお願いしてごめんなさい!」
一気に捲し立ててきた。
この状況でも、そこそこ丁寧に「ですます」口調を使い続けてるあたり、よほどしっか
りとしたブリーダーから教育を受けたのだろうか。
少なくとも、安易に捨てるような飼い主が教育するとは思えない。最後まで責任を持て
ないなら、一切関わるなと厳しく教えられた身としては、ペットを捨てるという行為は許
せないのだ。
たとえ、ゆっくりと言えども、だ。
一度ペットとしたものを捨てるような人間は「ろくでなし」に違いない。見ず知らずの
相手だが、勝手にレッテル貼りをさせて貰う。
駄目飼い主の悪影響を受けなくて、良かったな。そういう意味でも、なかなか賢いヤツ
なのかもしれない。
ところで、饅頭と大差ない造りのゆっくりも、やっぱり呼吸の必要があるのか? と、
コイツらに聞いてもわからないだろうなぁ……
「おかーしゃん! おかーしゃんの おぼうししゃんは ここだよ!」
「ゆゆ!? どこなの、おチビちゃん!? お母さんは袋さんの中だから、見えないよ!」
ぼすっ! がさっ! と、二度ほど袋が鳴った。中のまりさが、跳ねようとしたらしい。
「とりあえず、大人しくしなさい」
「ゆっ! ゆっくり理解したよ、お兄さん! まりさ、大人しくします!」
やたらと聞き分けがいい。
「捨てられたって言ってたよな? 何があったんだ?」
「ゆ……? ど、どうしてお兄さんは、そのことを聞きたいの?」
「ん~……なんとなく、な」
捨てられたペット、ということなら、やはり保健所へ連絡だろうか。
これだけ賢いゆっくりだと、飼い主のことを何か憶えているかもしれない。だとすれば、
安易に捨てた飼い主にも、なんらかの法的な罰が与えられるべきだ。
捨てゆっくりが問題になって、都条例で何か制定されたはずだ。それでも、野良ゆっく
りは今もチラホラ見かけるんだが……あれ? 制定されたのって、鳩のように、餌を与え
ちゃ駄目ってだけだったか?
あるいは、引き取り手を探してやっても良いかもしれない。本当に賢い個体なら、飼い
たいという物好きも見つかるかもしれない。駅前のペットショップで、引き取り手探しの
仲介とかやってくれないだろうか? 頼んでみるのも良いな。
なんにせよ、こいつらをどうするか、今は俺が決めるしかないのだ。決めやすいように、
なんでも良いから情報が欲しい。
あと、どうせ暇だし。
「ゆう~……あんまりお話ししたくないけど、でも、ちゃんとお話しするよ……」
「聞こうじゃないか」
「お兄さん……」
「うん?」
「その前に出してください」
「ちゃんとお話し出来てからです」
「ゆっ! ゆっくり理解したよ!」
*** *** *** ***
まりさは、たくさんの姉妹と共に、この世へ生まれ落ちた。文字通り、親の頭から伸び
た茎から、産まれるときにポトリと落ちたのだ。
まりさの産まれた大きなお家は、「ブリーダーのお父さん」のお家だった。
そのお父さんに育ててもらったお母さん達から、まりさは赤ちゃんの頃からたくさんの
ことを教えられた。いや、未だ茎についたままの時から、語りかけられていた。
「人間さんの言うことを、ちゃんと守りなさい」
これが、教えられたことの中心であり、柱のようなものだった。
人間さんが、どれほど強いか。どれほど恐ろしいか。どれほど残酷か。どれほど賢いか。
そして、どれほど優しいか。どれほど、ゆっくりをゆっくりさせてくれるか。
人間さんの言うことをきちんと聞いていれば、ゆっくりは狩りをしなくてもゴハンを食
べさせてもらえる。寒い冬に凍えることなく、暑い夏に苦しむことなく、いつも快適に過
ごせる。ぺ~ろぺ~ろよりもずっと上手に、綺麗にしてもらえる。温かい寝床を用意して
もらえる。たくさんたくさん、遊んでもらえる。
ずっと、赤ちゃんのままでいられるのと同じだと言われた。それが、ゆっくりにとって
どれほど素晴らしいことか。どれほどゆっくりしていることか。まりさにも、よく理解で
きた。
まりさの二人のお母さんも、まりさ種だった。姉妹全員が、まりさ種だった。二人の母
は、ゆっくりと、優しく、自分達のこれまでの生活を、ゆっくりした毎日を話して聞かせ
てくれた。
同じくまりさ種のお祖母ちゃん達も、話してくれた。まりさにはお祖母ちゃんがいたの
だ。それも、四人とも。これが、どれほど珍しいことかも聞かせてもらった。世の中には
危険がいっぱいで、その危険達は容易く、ゆっくりを殺す。
人間さんは、その危険からも守ってくれるのだという。
ブリーダーのお父さんも、優しくいろんなことを教えてくれた。お行儀良くすることと
は、どういうことかを。人間さんに嫌われないための、お話の仕方を。世の中にある、危
険なことの一つ一つを。
まりさ達がきちんと理解できるまで、何度も何度も話してくれた。
そして、いつかみんなとお別れの日が来ることも。
まりさのことを大事にしてくれる人が、いつか現れて、その人に連れられて、まりさの
ゆっくりプレイスへ行くことを。
そのゆっくりプレイスは、まりさだけのものじゃなくて、まりさを大事にしてくれる人
達と一緒にゆっくりする、ゆっくりプレイスなのだと言うことも。
たくさんのことを教えてもらい、まりさから赤ちゃん言葉が抜けた頃。
まだまだ体は小さいし、早く喋ることも出来ないが、ゆっくりとなら上手にお話が出来
るようになった頃。
まりさのことを大事にしてくれるという、お兄さんがやってきた。
お母さん達やお祖母ちゃん達や、姉妹達、そしてブリーダーのお父さんとお別れするこ
とが悲しくて仕方なかった。それでも、まりさはきちんとお別れをして、お兄さんと一緒
に、お兄さんの家へ行くことにした。
お兄さんが「これからは、お兄さんの家で一緒にゆっくりしていってね」と優しく笑っ
てくれたからだ。
お兄さんの家で、まりさは本当にゆっくり出来たと思う。
広いお庭のある、立派なお家だった。
お兄さんには奥さんがいて、子供もいた。まりさは、奥さんのことを「お姉さん」と呼
び、お兄さんとお姉さんの子供のことは「坊ちゃん」と呼んだ。
言いつけをきちんと守り、坊ちゃんと一緒に遊んでいるだけで、まりさは美味しいゴハ
ンが食べられ、温かいお布団で眠ることが出来た。まりさのための、小さなお家まで用意
してもらえた。
お庭にある草さんが、まりさの柔らかい足にはチクチクと刺さるような気がして、小さ
なまりさは、お庭で遊ぶのは好きじゃなかった。その短くチクチクする草さんは、“芝生”
ということを、まりさは後で教えてもらった。
お家の中が柔らかで気持ちいいのは、“カーペット”があるからだとも教えてもらった。
まりさの足が丈夫になってきて、芝生にも慣れた頃。
坊ちゃんとお庭で、思う存分遊べるようになった頃。
「ゆっふっふっふ♪ ここは、なかなか とかいはな おうちね!」
「ゆゆ~んっ! きめたよ、ありす! ここを、れいむたちの ゆっくりプレイスにするよ!」
「いい かんがえだわ、れいむ! きょうから ここが、ありすたちの ゆっくりプレイスよ!」
れいむと、ありす。薄汚い格好のその二人が、人間さんに嫌われる野良だということは
すぐにわかった。二人が平然と、人間さんを怒らせる“お家宣言”をしたことに、まりさ
は恐怖さえ憶えた。
一緒に遊んでいた坊ちゃんに逃げるように言って、まりさは二人の前に立ちはだかった。
坊ちゃんはまだ子供で、あまり早く走れない。一緒に駆けっこをすると、まりさの方が
早いくらいだ。しかも時々、転んでしまうことも多い。
今はまりさが、坊ちゃんを守らなくてはいけないと思った。坊ちゃんのことをお願いね、
と、お姉さんに言われていたから。それに人間さんもゆっくり達と同じで、子供の頃はと
ても弱くて、みんなで守ってあげなくてはいけないから。
「ゆふへへへぇ♪ れいむたちをみて、ぐずなにんげんの こどもが にげていったよ!」
「とうぜんだわ! ありすたちにくらべたら、にんげんなんて いなかものなんだから!」
何も理解してない二人が勝ち誇りながら、まりさに近づいてくる。まりさにも、さっさ
と出て行けと言って。ここは自分達のゆっくりプレイスだから、邪魔なヤツは出て行けと。
違う。
ここは、お兄さんとお姉さんと坊ちゃんの、大切な大切なお家なのだ。ここは、人間さ
ん達のゆっくりプレイスなのだ。お兄さんは、それはそれはたくさん頑張って、このお家
を手に入れたのだ。そこへ、まりさも迎え入れてくれた。ここは、まりさのゆっくりプレ
イスでもあると、お兄さん達は言ってくれたのだ。
そう言っても、二人は笑うだけだった。きっと二人には、大事なことを教えてくれる人
が居なかったに違いない。そう思うと、二人が可哀想にさえ思えた。
でも、そんな同情もすぐに吹き飛ぶ。
二人は何も理解しないまま、お兄さん達を嘲笑ったのだ。
愚図な人間がどうしたなんて関係ない。この場所はもう自分達のものだ。自分達は、簡
単にここを手に入れた。人間なんかよりずっと強いのだ。
そう言って、二人はお兄さん達とまりさを嘲笑ったのだ。
何もわかっていない。
「なんにも知らない野良ゆっくりは、さっさと出て行ってね! 人間さんが本気で怒ると、
ゆっくりなんてあっという間に殺されるんだよ!」
「とかいはな ありすに、しつれいなことをいわないでね!」
「ばかなにんげんなんか、れいむにかかれば いちころだよ!」
「馬鹿はれいむだよ! ありすも馬鹿だよ!」
「れ゛い゛む゛は゛! ば゛か゛じ゛ゃ゛な゛い゛ぃ゛い゛い゛い゛!」
「あ゛り゛す゛は゛! と゛か゛い゛は゛よ゛ぉ゛お゛お゛お゛お゛!」
「じゃあ、どうして、こんなに大きなお家が建てられるの!?」
「ゆ、ゆゆ!?」
「道路さんを走る車さんは、どこで作るの!? その道路さんは、どうしてあんなに硬く
て平らなの!? “お金”と“お店”と“働く”って、どういうことかわかるの!?」
「「ゆ? ゆ、ゆゆゆ!?」」
知っているわけがない。
そのどれもが、まりさもお兄さんのところへ来てから、坊ちゃんと一緒にお勉強したこ
となのだ。
「こんなに綺麗に刈り揃えられた草さんのこと、知ってるの? 名前は、なんて言うの?
どうやって、こんなに綺麗に揃うの?」
「く、くささんは かってにはえて……」
「勝手に生えて、こんな綺麗に揃うわけないでしょう? 刈り揃えたって言ったでしょう?
刈り揃えるって言葉の意味も知らないの?」
馬鹿なの? 死ぬの? と、続けそうになった。でも、さすがにその言葉だけはきちん
と呑みこむ。これは、言っちゃいけない言葉。お母さん達も、お祖母ちゃん達も、お父さ
んも教えてくれたこと。
「ばかは まりさのほうだよ!!」
「ばかな まりさは ゆっくりしないで さっさとしんでね!!」
「ゆぎゃっ!?」
いきなり二人が、まりさに襲いかかってきた。二人の体当たりに、まりさの体は吹き飛
ばされ、息が詰まり目が回った。
「ゆふ~っ、ゆふ~っ、ゆふ~っ……このまりさ、ばかで しつれいだけど、よくみれば
なかなか みりょくてきね」
「ゆへ~っ……ゆへ~っ……ありす、わるいくせが でてきたみたいだね」
「ゆふふふふ、れいむだって きらいじゃないんでしょう?」
「ゆへへへ、れいむは ありすとちがって、てーそーかんねんが ゆっくりしっかりしてる
から、ありすが いっしょにしましょうって さそわないと、だめだよ」
「そうやって、ありすだけが わるいみたいにいうのね。うふふ、わるい れいむ」
「れいむのこと、ゆっくりできないと おもう?」
「いいえ、とてもゆっくりできるわ。だから……おねがいよ、れいむ。いっしょに……」
「ゆふへふへ……うん、いっしょに……」
「「すっきりしましょう」」
すっきりが何を意味するのかは、まりさも知っていた。だから、今のうちだと思った。
二人がすっきりに夢中になっている間に、自分も逃げてお姉さんを呼んでこよう。お兄さ
んは今、お仕事に出かけていていないけど、お姉さんはいる。もしかしたら、もう坊ちゃ
んが呼んできてくれてるかもしれない。
ともかく、今のうちだ。そう思った。
「んほぉおおおおおおおっ! まりさったら、おはだが もちもちで すべすべねぇええ!」
「ゆぇええええっ!? なんで、まりさなのぉおおお!?」
「ずるいよ、ありすぅう! れいむもぉお! れいむも、まりさで……ゆふぅうううん!」
「ゆぎゃぁああああっ!? やめてぇええええええっ!? まりさ、“すっきり”なんて
したくないよぉおお!」
二人がまりさに、のし掛かるようにして体を擦りつけてきた。長年の野良暮らしのせい
か酷く臭い。早くも分泌され始めたヌメヌメとした気持ちの悪い粘液が、余計にその臭さ
を酷くする。
「ゆげぇええええっ! ゆげっ! ゆげぇえええ! 気持ち悪いよぉおおお!!」
「かわいぃいいいっ! まりさ、ばーじんだったんだねぇえええ! だいじょうぶだよ!
ゆっくり きもちよくして あげるからねぇえええ!」
「んほぉおおおおおおお! わたしたちの とかいはな てくにっくで てんごくへ つれて
いってあげるわぁああ!」
地獄としか思えない状況なのに、それでもまりさの中で何かが熱くなり、まりさの意志
を無視したまま「すっきり」へと向かって高まり続けた。
嫌だった。
死んでしまいたいほどに、嫌だった。
お兄さんが、そろそろまりさにもパートナーが必要かなと言ってくれた。つい、昨日の
ことだ。生涯の伴侶を得て、家庭を築き、子供を作る。そうしても良い頃だろうと、言っ
てくれたのだ。そのために、ブリーダーのお父さんに相談したり、たくさんのブリーダー
さん達にお見合いのことをお願いしたり、なにより、子供を育てることを勉強しなくては
ならないと。
なんて素晴らしいことだろう。
もうじき始まる、これまで知らなかった新しいことに、まりさは胸を高鳴らせていた。
お見合いというもので、どんな素敵なゆっくりと巡り会えるだろうかと、そう考えるだけ
で頬が熱くなった。子供達も幸せになれるように、たくさん勉強しよう。お母さん達やお
祖母ちゃん達のようになるために、たくさん勉強しようと。
なのに最悪の形で、地獄のような状況で、まりさは初すっきりをしてしまいそうだ。
「嫌ぁあああっ! 嫌だよぉおお! こんなのいやぁああ! 助けてぇええええ!」
「まりさぁあああ! こわくないからねぇえ! こわくないの、それが きもちいいって
ことだよ! きもち、い、ゆふぅううんっ! れいむも きもちいぃいいよぉおお!」
「はじめての ぜっちょうにとまどう まりさ、かわいいわぁああああああっ! ほらぁ!
ほらぁ、どうなのぉおお! んほぉお! んほぉおおおお! いいでしょぉ、まりさぁ!
いっちゃうわよぉおおお!」
「ありすぅううう! れいむもぉおお! れいむも いっちゃいそうだよぉおおお!」
「いいわよぉおおおおおお! いっしょに いきましょう、れいむぅうううう!」
「いやぁああああああああああああっ!!!」
「「すっきりぃいいいいっ!!!!」」
ありすとれいむが高らかと、それでもどこか濁った声を上げる。それに、掠れて途切れ
途切れなまりさの「すっきり」の声は、完全に掻き消された。
それでも、すっきりしてしまった。無理矢理、させられてしまった。
乱暴に二人から擦られたために、帽子は脱げ落ちてしまい、強引なすっきりで体力も尽
きかけていて、力が出ない。
ぐったりと横たわったままのまりさを見て、ありすがまた息を荒くし始めた。
「はぁっはぁっはぁっ! いいわぁあ! ぐったりした まりさってば、そそるわぁああ!
んほぉおおお! ありす、また したくなってきちゃったわぁああああああ!」
「ゆあっ! まって、ありす!」
「おあずけなのぉおおお!? おあずけなんて、とかいはじゃないわぁあああ!!!」
「だって、まりさに もう あかちゃんが できてるんだよ!」
「ゆゆゆ!!? あかちゃんですって!? こんなに はやく!?」
信じられないという感じで、れいむとありすが目を剥いてこちらを見つめている。
まりさも、信じられなかった。
まりさ自身には、よく見えない。それでも、はっきりと感じることが出来た。自分の頭
……額の少し上から、力強すぎるほど力強く、数本の茎が伸びていくことを。そこに小さ
な命が、いくつも宿っていくことを。そして自分の体力が、命そのものが、その茎へと、
小さな命達へと吸い取られていくことを。
それと同時に、強烈な感情が湧き上がってくる。
無理矢理すっきりをされた衝撃も、命を吸い取られていく恐ろしい感覚も、その強烈な
感情によって遠くへと押しやられていく。
子供達を、自分に宿った新しい命を、なんとしても守らなくてはならない。
苦痛と疲労に支配された体は、ひたすらにゆっくりとした休息を求めていたが、赤ちゃ
んを守るため、無理矢理に力を入れる。
「ゆゆ! あかちゃんたち、どんどん おおきくなっていくよ! すごいすごい!」
「なんてこと! これじゃあ まるで、れいぱーに おそわれたみたいじゃないの!」
「そうなの?」
「しらないの、れいむ? れいぱーに おそわれたときは、あかちゃんが おおいそぎで
おおきくなるのよ」
「ゆあ? じゃあ、これはゆっくりしてない あかちゃんなの? それに、まるで れいむ
とありすが、れいぱーみたいだね?」
「そうよ! そのことなの! まったく、しつれいな まりさだわ! あんなに あいして
あげて、あんなに よろこばせてあげたのに!」
まりさは“れいぱー”とは何かを、どういうことかを、知らなかった。知らないことが
あると、どうしても気になってゆっくり出来ないのだが、今はそれに拘っている場合では
ない。
ありすの「喜ばせてあげた」という言い草に怒りを覚えたが、それも今は噛み殺してお
く。
今はただ、自分の中で大きくなり続ける「赤ちゃんを守らなくては」という思いに従い、
懸命に体を動かすべきなのだ。無理矢理のすっきりで力を失い、今まさに命を吸い取られ
ている最中の体は、思うようには動かなかった。跳ねること一つ出来ない。それでもゆっ
くりと、ズリズリ這いながら、れいむとありすの二人から距離を取ろうとした。
「まったく! この とかいはな ありすを れいぱーあつかいだなんて、ほんとうに しつ
れいな まりさだわ!!」
「ゆべっ!!」
「そうだよ! ありすはともかく、れいむは れいぱーなんかじゃないんだからね!」
「ゆぎゃっ!!」
「ありすだって れいぱーじゃないわよぉおお!!」
「ゆぎぃい!!」
「ことばのあやって いうんだよ! ゆっくり りかいしてね!」
「ゆがぁあ!!」
「れいむったら、ほんとうに いじわるなんだから!」
「ゆびぃい!!」
なんとか体を起こし這いずっていたまりさは、ありすとれいむの体当たりで再び転がっ
てしまった。頭の茎を痛めないよう、とっさに体を捻り、横向きに倒れたまりさへ、二人
はさらに何度も何度も体をぶつけてくる。
その衝撃のためか、まりさの頭の茎から、ぽとぽとと小さな小さな……あまりに小さく
脆い命達が、地に落ち始めた。
まりさが横になっていたために、たいした高さもなかったことが幸いしたのか、未成熟
な赤ちゃん達は柔らかな敷物が無かったにもかかわらず、衝撃で大きな傷を負うようなこ
とはなかったようだ。
「あ、赤ちゃん……!」
「ゆぴぃ……! いっ……! いひゃぁっ……! ゆぁあ……!」
それでも、短く刈り揃えられた芝生が、柔な赤ちゃんの肌には刺さるような痛みを与え
るのだろう。いや、実際に刺さっているのかもしれない。“最初のご挨拶”など出来るは
ずもなく、ただただ痛みに震えている。
「ゆ、ゆっくりしてね! 赤ちゃん達、ゆっくり我慢してね? 今、お母さんが助けるか
らね!」
だが、どうすればいいだろうか? 今の自分には体力がない。助けを呼ぶか? 助けが
来るまで、赤ちゃん達は耐えられるだろうか?
そうだ、お帽子! お帽子さんの上に、赤ちゃん達を避難させよう!
まりさは、赤ちゃん達に気を取られて、れいむとありすのことをすっかり忘れていた。
だからその二人が、まりさの目の前にいる赤ちゃん達を挟み込むようにして立ったとき、
恐怖で全身に鳥肌が立った。
「れいむ、しってるよ! ゆっくりのなかでも まりさな こは、しょうらい“げす”に
なっちゃうんだよ!」
「それじゃあ よのため ゆっくりのため、いまのうちに たいじしちゃいましょうか!」
*** *** *** ***
「……食ったのか? その、二匹が?」
「はい……まりさの赤ちゃんを……まりさと同じ姿の、赤ちゃんを……二人も……」
「ゆぁあ……! ゆぇ……ゆぇえええんっ!! こぁかったよぉ!」
「なかないで、まりさ! だいじょぶだよ! みんな いるよ!」
「げんぃだぃちぇ、まぃさ! ほら、あぃす おにぇーちゃんが。す~ぃす~ぃ ぃちぇあ
げるから!」
「ないちゃ だめよ! ないたりゃ、おかあしゃんまで かなしくなりゅのよ!」
その時の恐怖を思い出したのか、小さなまりさがわんわんと泣き出した。他のチビ達も
もらい泣きの涙を浮かべてはいるが、なんとか宥めようと声をかけたり体をすり寄せたり
している。
ちなみに、今は大きなまりさも床に降ろしている。長い話を聞いているうちに、腕が疲
れたからだ。降ろされても、まりさは大人しくしたまま話し続けた。なので、今の格好は
床に据えられた生首に、ビニールの襟巻きを顎にまで巻いたような……ただでさえ珍妙な
外見のゆっくりが、ますます滑稽な状態になっている。
「それにしても……」
「……ゆ?」
ゆっくりって、鳥肌が立つのか?
いや、それはどうでもいいか? 大きなまりさが、これまでの学習で知った表現だとい
うだけなのかもしれないし。
そういや、「はい」って返事したよな。どれだけお利口さんなんだ、このまりさ。
いや、これもどうでもいいか? このまりさが、俺の知っている情報や町中で見かける
野良ゆっくり共とは比べものにならないほど賢く、教育が行き届いているのは、先ほどか
ら何度も見てきているし。
「お前達ゆっくりも、同族を殺したり……ましてや食ったりってのは、嫌なことで悪いこ
とだって思ってるんじゃないのか?」
「もちろんだよ! そんなの、悪いことだって知ってます! それに、気持ち悪いんだよ!
で、でも……あの二人は……!」
食ったのだという。美味しいと言って。久々の甘々だから、ゆっくり時間をかけて味わ
おうと言って。「しあわせ~」とまで言って。れいむとありすが、一匹ずつ、産まれたば
かりの小さな小さなまりさを。
ゆっくりは、甘味を好むらしい。そして産まれたてのゆっくりは、全てが柔らかく美味
なのだという。皮や餡が柔らかいというのもそうだが、甘みもトゲがなくまろやかで、柔
らかいと表現するのが一番ぴったりとくる味わいなのだとか。
まぁ、俺は食ったこと無いし、さして食いたいとも思わないけど。
「てことは、元々は六匹姉妹の赤ちゃんだったのか」
「ゆ? お兄さん、違うよ? まりさの赤ちゃんは、最初は27人いたんだよ」
「多いなっ!?」
聞いてみると、ありす種が14で最多、れいむ種が次いで10、そしてまりさ種が3だ
ったらしい。
数もきっちり数えられるのか。ゆっくりって3までしか数えられないって聞いたことが
あるんだけど。このまりさは、いくつまで数えられるんだろう?
いや、それはともかく、だ。
圧倒的に、ありす種とれいむ種が多い。確か、レイパーに襲われた時の出産では、極端
に早熟な点も特徴だが、レイパー側の種が多くなるのも特徴だとか。
早産の理由は、おそらく種の保存に関する本能的なメカニズムなのだろうという意見を
聞いた。襲った側が多くなることに関しては、レイパーになるほど自己の子孫を望んでい
るから、それだけ遺伝子的なものに力があるためだろうとか……
まぁ、どちらも推測らしい。当然だろう。なんで動くかもわからない、饅頭と生き物の
中間が相手なんだから。
それにしたって、多いだろう。ゆっくりの平均出産数なんて知らないし、ましてやレイ
パーに襲われたときの出産増加数など知りはしないが。
さらに、いくらなんでも早産すぎるんじゃないのか?
交尾が終わって、即座に赤ん坊が出来て、すぐさま誕生……このチビ達がやたらと小さ
いのは、未熟児のためだろうか? それにしたって、この世にそんなスピードで次世代を
産み落とす生命は存在しないんじゃないだろうか?
ああ、生命かどうかは未だ不明瞭なんだっけか、ゆっくりは。
「どっちにしたって、立派なレイプ魔だよな、そいつら」
「ゆ? れいぷまって、なんですか、お兄さん?」
「あ~……うん。気が向いたら、後で教えてやる。あんまり良くないことだ」
「良くないこと……! それじゃあ、ちゃんとお勉強しなくちゃ駄目だね!」
「ああ、うん、そうね。それより、だ」
「ゆゆ?」
ありす種とれいむ種が極端に減っている点が気になる。実に12匹と9匹、合わせれば
21匹も減っているのだ。
最後のまりさ種を守っている間に、レイプ魔のありすとれいむが食い殺してしまったの
だろうか?
「他の子達は……ほ、他の子達はね……」
「ゆ、ゆぇ……ゆぇえ……」
「「「「ゅゆわわぁあああああんっ!!!」」」」
今度は、赤ん坊四匹が揃って泣き始めた。小さいとはいえ、なかなかに、うるさい。
「お姉さんに、殺されちゃったんです……」
「……はぁ?」
「まりさ、お姉さんが来たとき……助かったって思ったのに……だけど、お姉さんが……」
駆けつけたその家の奥さんは、持ってきた箒で、まりさを襲ったれいむとありすを殴り
飛ばし、さらに何度も何度も叩いたのだという。
気持ち悪い、気持ち悪いと繰り返しながら。
まりさとしては当然、自分を助けに来てくれたと思ったのだろう。これで助かったと思
うのも、当たり前のことだ。
レイプ魔に食われないようにと、自分の側へ引き寄せていた赤ちゃんまりさと頬擦りを
しながら、もう大丈夫だと安堵の涙を流したという。
だが“お姉さん”は、まりさの側へ戻ってくると、小さな赤ちゃん達を箒で叩き潰し始
めたそうだ。逃げようと身悶える赤ちゃんを確実に、しかし決して踏みつぶさず、直接触
れることなく、箒を使って。何度も何度も叩いて潰した。
気持ち悪い、気持ち悪いと繰り返しながら。
半狂乱と言って良い状態だったのだろう。だが、まりさには、そこまでわからなかった
ようだ。やめてくれと、ただ叫んだという。自分が守るべき大切な赤ちゃんだから、どう
か殺さないでくれと、大きな声で請い願ったのだと。
「でも、まりさの方を向いたお姉さんは……と、とっても……あの……」
「……怖かったか?」
「ゆっ……!」
「おっかなくて、気持ち悪くて、不気味な表情をしていたんだろう?」
「ゆあっ!? そ、そんな……そんなこと、まりさは……」
「思ったわけだ」
「ゆ……ゆぅ~……」
「お前、もしかして『人間のことを悪く言っちゃいけない』って、教えられたのか?」
「だ、だって、人間さんを怒らせたら……」
「まぁ、正しいけどな、その教えは」
「ゆゆ! そうだよね! お父さんも、お母さん達もお祖母ちゃん達も、まりさに良いこ
とをたくさん教えてくれたんだよ! だからまりさも、まりさのおチビちゃん達にたくさ
ん良いことを教えてあげたいんです!」
「わかったわかった」
その“おチビちゃん達”は泣き疲れたのか、いつの間にか寄り集まって眠ってしまった
ようだ。まぁ、静かになったお陰で、まりさの話も聞きやすくなった。
まりさに話の続きを促すと、ゆっくりと言葉を選びながら話し始める。つらそうな表情
で。
全身生首、前面全てこれ顔面なだけあって、表情が見事に出るなぁ。
まりさは、そのお姉さんから「それなら出て行け」と言われたらしい。気持ち悪いから
出て行けと。
自分は、汚い野良の二人に無理矢理な“すっきり”をされたために、粘液で、泥や埃で、
汚くなっていたと思うから、お姉さんが「気持ち悪い」と思ったのも無理はない。
まりさは、そう思って納得したのだという。
「気持ち悪い」という言葉が、はたして汚れだけのせいなのか……俺としては、大いに
疑問が残るところだが、とりあえず黙っておいた。
お姉さんは、まりさが被り直した帽子から、バッジを引きちぎるようにして取ると、庭
の出口を指さして、もう一度「出て行きなさい」と繰り返した。
まりさは言われるままに生き残った赤ちゃんを帽子に乗せて、弱り切った体を引き摺り
ながら“お家”を後にしたのだそうだ。
「バッジか」
「ゆ……まりさの、大切な宝物だったんだよ」
「ふ~ん……ああ、ここか」
すぐそこに転がっていた帽子を手に取り、仔細に眺め回すと、ごくごく小さな、破れ目
が見つかった。
「あのバッジ、まりさがブリーダーのお父さんに貰った物なの……」
「……そうか」
帽子を、まりさの頭に被せてやる。嬉しそうに笑いながら、礼を言ってきた。礼は良い
からと、話の先を促す。
ずいぶんと長いこと話を聞いている気がするが、なんとまだ家を追い出されたところま
でだ。これから、俺の家へと辿り着くまでに、いったいどれだけの時間がかかるのか。
その後、赤ちゃん達が少しでもゆっくり出来る場所を探したらしい。
硬い道路ではゆっくり出来ないので、せめてどこかに土が剥き出しのところはないか。
慣れないことだが、なんとか臭いを探って、土がある場所を見つけた。そこでは、ゆっ
くり出来ない音を立てて洗濯機が動いていた。きっと知らない人の家の庭なんだろうとは
思ったが、それでも一休みだけはさせてもらおうと考えたのだとか。いつ車が、自転車が
来るか分からない道路よりもマシだと思ったのだという。
そして、そこで初めて、赤ちゃん達に茎を食べさせてあげた。母にして貰ったように柔
らかく噛み砕いて。限界まで疲労し、空腹にさいなまれた赤ちゃん達は息も絶え絶えだっ
たが、茎を食べてなんとか元気を取り戻した。次は自分のゴハンと、赤ちゃん達の次のゴ
ハン。それに、寝る場所──これから暮らす、自分達のお家。だが、まりさにはそれらを
どうやって手に入れればいいのか、わからない。
「どうしたらいいか考えていたら、女の人のつらそうな声が聞こえてきたの!」
「え? あれ? ……もしかして、その『土がある場所』って俺んちの庭? すぐそこ?」
「はい! そうです、お兄さん!」
「あら、良いお返事」
「ゆゆ~、ありがとうございますぅ♪」
「って、そうじゃなくて!!」
「ゆあっ!?」
「それじゃ、お前が追い出されたのって、いつだ? もしかして、ついさっきか?」
「ゆゆ? ゅう~んとぉ……ちゃんとは、わかんないです」
「今日のうちなんだろ? 今朝とかか?」
「ゆ、まだ夜にはなってないから、今日だね! 今日です!!」
呆れた。
それでなくても、出産はほとんどの生き物にとっちゃ、体力を使う命がけの営みだ。
ゆっくりの場合、意に染まぬ出産での急速な赤ん坊の成長は、夥しく母体の生命力を奪
うと聞いた。赤ん坊に生命力を奪われて母体が死に、赤ん坊も供給されるべき栄養が途絶
えて死にと、母子ともに死んでしまうケースが多いのだという。
まりさの酷いやつれは、そのためなのだろう。
それはいいが、それでも生きているというのは、呆れるほどとんでもないことなんじゃ
ないのか? 恵まれた環境で、普段からたっぷりと栄養を貯め込んでいたのだろうか?
それとも、生まれた赤ん坊が未成熟のまま茎から切り離されたから、多少はマシだった
ということか?
赤ん坊達も、呆れたタフさだ。
茎から産まれたゆっくりは、産まれてすぐにその茎を食べるのだという。それが一番の
栄養で、そしてその後の味覚を決定する、重要な食事でもあるとか。人間の赤ん坊も、産
まれてすぐに飲ませる初乳は、栄養価が高く抗体も多めのものが出ると聞いたことがある。
馬の赤ん坊だって、産まれてすぐに母の乳を飲むため必死に立ち上がり、立てばすぐに飲
み始める。立てなければ、衰弱して死んでいくだけだとか。
それがこのチビ達は、落ち着ける場所へ着くまで、お預けだったという。この赤ん坊達
は、産まれた直後に殺されかけて、心身共に疲弊していただろうに。
もしも未熟児だったというのなら、なおさらだ。生まれ落ちてすぐに衰弱死していても
不思議はなかっただろうに。
「って、ちょっと待て!」
「ゆあっ!? またぁ!? どうしたの、お兄さん!?」
大人しく静かにしている赤ん坊ゆっくり達に顔を寄せ、よく観察する。が、ゆっくりを
飼ったこともないし、赤ん坊のゆっくりなんて現物は今始めて見るのだから、よくわから
ない。
とりあえず、生きてはいる……のかな?
「なぁ、まりさ」
「ゆゆ? なんですか、お兄さん?」
「こいつら……ちゃんと生きてる?」
「ゅええっ!?」
「生きてたとしても、今にも死にそうで、ぐったりしてるとか……」
「おっ、おチビちゃん達!? 大丈夫!?」
ズリズリと途中までビニール袋を引き摺りながら、這って赤ん坊達へと近づくまりさを
見て、ふと「ああ、そういやコイツらは外を裸足で歩いていたようなもんなんだな」と、
また関係のないことに思い至ってしまった。このままだと、動かれる度にあちこち汚れる
なぁとか。
それに、慌てていても跳ねないのは、疲労がかさんでいるからか、それとも赤ん坊を驚
かさないように気を使っているのか。一度跳ねれば、ビニール袋を引き摺ることもなかっ
ただろうに。
どうも、俺は余計なことばかりが気になる質で、自分でも困ってしまう。AVを見てい
るときだって、どうでもいいことが気にかかり、ちんちんしゅっしゅに集中できないし。
て、それこそ今はどうでも良い。
さすがに部屋の中で、ゆっくりとは言え「死ぬ」なんてことをされるのは、気分の良い
ものじゃない。
だいたい、死体の始末とか面倒くさいし。
甘い物は好きだが、個人的にはゆっくりに食欲をそそられないし。
「お、お兄さん、どうしよう!?」
頬擦りしたり舌で舐めたりと、すべての赤ん坊に触れて確認していたまりさが、こちら
へと向き直り、泣きそうな顔で言ってきた。
「死んでるのか?」
「生きてるよぉおお! 怖いこと言わないでっ! ……ください!」
慌てて丁寧な語尾を付ける。お前、本当に幸せな環境で優しく教育されたのか?
「おチビちゃん達が、弱ってるよ! ゆっくりしてないの! ぐったりしちゃってるよ!
病気になっちゃったの!?」
「う~ん……多分、腹が減って弱っているのと似たようなものじゃないか?」
「お腹……? お腹空いてるの? おチビちゃん達、さっき食べたよ?」
「その前は、ず~っと食うのを我慢してたんだろ? それに赤ん坊ってのは、大人と同じ
ような食事の回数じゃ駄目なんだよ」
「そうなの!?」
「らしいぞ。まぁ、俺はゆっくりの子育てを知ってるわけじゃないけどな」
赤ん坊が手の放せない存在なのは、あらゆる意味でデリケートだからなのだろう。内臓
だって、そりゃあデリケートに違いない。食い溜めなんて出来ないし、そもそもやろうと
しないだろう。
人間の赤ん坊は、ミルクを飲んで、寝て、ミルクを飲んで、寝て、と何度も何度もその
繰り返しだ。夜中だろうがお構いなしに。未婚の俺は子供を持ったことはないが、子育て
の大変さくらいは話に聞いている。
「未婚どころか、今現在恋人もいないんだよなぁ……まぁ、どうでもいいけどさ」
「お、お兄さん? 急に『ずど~~ん』して、どうしたの? お兄さんも、お腹空いちゃ
ってフラフラなの?」
「ああ……そういや、そろそろ昼メシ時だなぁ……でも、本当に飢えているのは、心なん
だよ……」
「ゆ……ごめんね? まりさ、難しいことはわかんないです」
「いいよ……お前に言っても、仕方ないことだし……」
「お兄さんには、元気を出して欲しいよ! まりさじゃ、おチビちゃん達を助けられない
し……どうしたらいいか、お兄さん、わかりますか?」
「ん? いや……ゆっくりの場合はどうなのか、俺にもわからないけど」
「まりさ、子育てのお勉強がまだだったんです! まりさが赤ちゃんの時のこと、少し憶
えてるけど、でもちゃんと出来るかわからないです! だから……!」
「とりあえず、落ち着け。目を覚ました赤ん坊が、不安そうだぞ」
「ゆゆ! ゆっくり理解したよ、お兄さん! まりさ、落ち着きます!」
あんまり、落ち着いているようには見えない。
何度も何度も「ゆっくりしてね」と呼びかけ、赤ん坊達を順々に舐めてやっている。
赤ん坊達は、母親に優しくかまってもらえるのがとにかく嬉しいのか、微笑んではいる
が、やはり元気はない。
「お前も腹が減ってるだろ」
「ゆ? ま、まりさもお腹空いてるけど……でも、おチビちゃん達の方が先だよ! おチ
ビちゃん達を、先になんとかしてあげたいです!」
「だからってお前が死んだら、誰が赤ん坊の世話をするんだよ」
「ゆゆ? ゆ…………ほ、本当だっ!? どうしたら良いですか!?」
もう一度落ち着くように言って、とりあえずメシを作ってやることにする。ゆっくり用
の餌など、当然ながら我が家にはない。作ると言っても、手の込んだものは面倒だ。
電子ジャーに残っていたご飯をボールへ移し、牛乳を入れる。
簡易のミルク粥っぽいものを作ろうかと思ったのだが、牛乳がいくらか少ない。ご飯が
ヒタヒタに浸かるくらいはと考えていたのだが、その半分もなかった。
昨日、風呂上がりにかなり飲んだからなぁ。
まぁ、いいかと、ニッチャニッチャぐっちゃぐっちゃと、しゃもじで掻き回す。
「こういうとき、古新聞でもあれば良いんだけどなぁ……」
生憎と、新聞は取っていない。レジャーシートなんて物もない。
「まぁ、すでに土埃で汚れてるんだ。あとで掃除することには変わらないし……」
ブツブツ言いながら、ミルクで柔らかく捏ねたご飯を平皿へ移して、まりさ達のところ
へ持って行く。
「ゆゆ!? お米のご飯さんだね! 牛乳の匂いもするよ!」
「用意できるのは、これだけだ。贅沢は言うなよ」
「ゆっくり理解したよ! まりさ、贅沢は言いません!」
まりさが言うには、人間と同じ食べ物は、そのほとんどが自分達にとってのご馳走なの
だという。だが、たくさん食べ過ぎてはいけないのだそうだ。栄養バランスとかの問題だ
ろうか? 犬や猫も、人間と同じ食べ物よりも、専用のペットフードの方が健康に良いら
しいし。
「だからって、ゆっくり専用のペットフードなんて、俺んちにはないぞ?」
「ゆあ!? ま、まりさ、贅沢言っちゃったの!? ごめんなさい!」
「いや、まぁ、いいけどさ」
「これだけあれば、まりさもお腹いっぱいになるし、おチビちゃん達も元気になるよね!
ありがとう、お兄さん!」
「どういたしまして」
「まりさ、何をすればいいですか?」
「……は?」
「お礼は、きちんとしなくちゃいけないんだよね! まりさに、ゆっくり恩返しさせてね!
……させてください!」
ゆっくりには、「お礼」や「恩」という概念はないのだろうと思っていた。そういう、
ろくでなしっぷりの情報や逸話なら、腐るほどあるからだ。
だが、なるほどと合点がいった。
何事も教育次第というのなら、飼いゆっくりが消えて無くならないのもわかる気がする。
「後で良いから、食え。赤ん坊も死なせるなよ」
「ゆっ! ゆっくり理解したよ!」
皿から舌を使って少量を口に納めると、何度かモグモグと噛み解し、赤ん坊にこれまた
少しずつ含ませていく。えらく時間がかかりそうだが、零しすことなく行っていく。赤ん
坊の口から垂れた分も、粥を口に含んだまま舌を突き出して綺麗に舐め取り、床を汚さな
い。
子育ての勉強をしていないと言っていたが、それにしては器用なものだ。
「ゆっくりって、がつがつと汚く食い散らかすイメージがあったんだが……」
「ゆゆ?」
「あ~、なんでもない。その調子で、あんまり汚さないでくれよ」
「ゆっ!」
口に物を含んでいるから、喋らずに体を前へと何度か曲げる。頷いているのだろうか。
なんにしても、この調子なら問題ないかもしれない。まりさが口の中の物を空にした時
を見計らい、声をかける。
「しばらく、大人しくしていられるか?」
「ゆゆ? おとなしく?」
「お前らの、え~と……足? 汚れてるから、動き回られると掃除の範囲が広がる」
「ゆっ! そうだね! まりさ、お掃除を手伝います!」
「出来んのかよ……」
「出来るよ、ゆっくりだけど」
「へ、へぇ……まぁ、それは後で頼むよ」
「後でだね! ゆっくり理解したよ!」
「俺は、ちょっと出かけてくるから」
「お出かけ?」
「買い物だよ。俺も、そろそろ昼メシの時間だし、晩メシの用意も買っておきたいし……」
「まりさ、お留守番なら得意です! ゆっくり任せてね!」
「いや、特になんにもせんでいいから。赤ん坊にメシ食わせて、お前も食って、赤ん坊を
大人しくさせとけ。家の中、散らかしたら承知しねぇからな?」
「ゆゆっ! ゆっくり理解したよ! いってらっしゃい!」
「へいへい、いってきますよ」
財布を持ち、上着を引っかけて家を出る。
一人暮らしを初めて以来の、久方ぶりの「いってらっしゃい」が、まさかゆっくりから
とは、昨日まで夢にも思っていなかった。
ゆっくりを飼いたいと思ったことは、これまでに一度もないし、今も特に飼うつもりは
ないが、それでも今更になって、あいつらを放り出すことは「捨てる」ことと一緒だ。そ
んなマネをすれば、余所に迷惑がかかるだろうし、一度餌をやった以上はきちんと責任を
持たざるを得ない。
そういうものだ。
祖父にゲンコツ付きで教わった。
となると、今日中にカタを付けるなんて無理だろうから、自分の食材だけじゃなく、あ
いつらの餌も買ってきた方が良いのだろう。
まぁ、今は幸いにも貧乏をしているわけでもないし、それくらいはいいか。
「今日のうちに捨てられて、疲れ果てたゆっくりが、俺んちに辿り着けたわけだよな……」
まりさの話によれば、そういうことになる。だとすれば、捨てたヤツが住んでいる家は
意外なほど近いのかもしれない。大通りを渡ったとも思えないから、こちら側の住宅地の
どこかに……
「……って、簡単に見つかるとも思えんけどね」
ブツブツ言いながら、近所のスーパーへと向かう。
少しばかりの寄り道をしながら。
*** *** *** ***
「落ち着きなさい! 何をしているんだ!」
どうしても片付けておきたいことがあったので休日出勤をしたというのに、会社へと着
くなり妻から電話で帰ってくるように頼み込まれてしまった。
説明は要領を得ないし、声を荒げていて泣いているようにも聞こえるしと、とにかく尋
常な様子ではなかったので、大急ぎで戻ってきたのだ。
休日出勤を急遽取りやめて戻ってきた私を、最初に迎えたのは息子の泣き顔だった。
涙と鼻水に汚れ、目も真っ赤に泣き腫らしたその顔を見て、胸が締め付けられた。仕事
を優先した結果、家族を不幸な目に遭わせる。そんな父親に、夫にはなるまいと思ってい
たのに……と。
事情を聞こうとしても、まだ幼い息子は泣くばかりで、「お母さんが」とか「まりさが」
とか、繰り返すばかりだった。
そこに、庭から何かを叩くような音と、濁った声も微かに聞こえてきたので、息子には
家の中で待っているように言い含め、庭へと急いでみれば……
「ゆっ! ゆぶべっ!」
「ゆびっ! ゆげっ!」
常態ならざる表情をした妻が、見たこともない野良のゆっくり二匹に暴行を加えていた
というわけだ。庭には囲いもあるが、簡単に外から見られる。現に今も、一人の若者が呆
れた様な顔でこちらを見ているではないか。
私と目が合うと、その若者は軽く肩をすくめて歩み去っていった。
何が相手であれ、虐待しているところなど他聞を憚るどころの騒ぎじゃない。どんな事
情があったにせよ、軽率なマネをしてくれたものだ。
「もう、よすんだ。ほら、これも離して」
ゆっくりを殴り続けていた箒を取り上げ、妻には家の中へ戻っているように言う。まだ
いくらか取り乱しているようだが、背中を押すようにして玄関へと向かわせた。
しゃがみ込み、酷い有様のゆっくりを観察する。二匹とも、ずいぶんと長い間、何度も
何度も妻に殴打されていたのだろう。ボコボコに歪んでいる。それでも力なく空けられた
ままの口からは、ゆ、ゆ、と掠れ掠れの声が漏れているから、どうやらまだ生きているら
しい。
「手当てをすれば、命は助かりそうだが……」
野良のゆっくりに、世間はことのほか冷たい。自分も、そうだ。そこらにいる野良を見
かけても、手を差し伸べる気にはならない。もちろん、多少は同情の念も湧くが、それで
も無視を決め込む。
条例でも、野良ゆっくりには餌を与えてはいけないと定められている。与えた者は罰金
の上、そのゆっくりに対しての責任を負うことになるのだ。飼えというのではなく、処分
のための費用を払えと言うことだが。言ってみれば、罰金の二重取りだろうか。
この野良を死ぬまで放っておいても、文句は言われまい。家の敷地内に入り込んだ野良
に、取り乱した妻が追い出そうと箒を振り回しただけ。そういうことにすればいい。
だが、あまり気分の良いものではない。
助けられる命なら助けてやりたいと思うのは、何もおかしくはないだろう。それに、ゆ
っくりの遺骸は、たいていの場合は「ゴミ」として処理される。少なくとも私には、生き
ていたものの亡骸を「ゴミ」として処理することには抵抗がある。
この野良二匹が死んだとして、その亡骸を我が家の庭先に埋めたりすることは、妻が認
めまい。先ほどの様子を見れば、考えるまでもないことだ。
思いながらも庭を見渡し、ようやくに気付いた。やけに汚れている。あちらこちらに、
餡やクリームが、染みのように転々と散らばっていた。この野良ゆっくり二匹を相手に、
取り乱した妻が追いかけ回したのだろうか?
いずれにせよ、常ならぬ有様だ。いずれにせよ、平静を欠いていたのだろう。
ならばやはり、この二匹には治療を施した上で、保健所なりに連絡をして事情を話して
引き取ってもらうのが、私の心情的な面でも、妻の精神的な面でも、一番の選択だろう。
たとえこの二匹にとって、大差のない結末へと繋がっていようと。
家では、まりさを飼っているから、ゆっくりのための治療セットは一通り用意してある。
出来る範囲での治療を施せば、十分な延命にはなるはずだ。
だが、快癒するかは難しいところだろう。これだけ殴られ傷を負っていると、障害も残
りそうだ。少しばかり、心が痛む。
だが、それも仕方のないことだろう。野良ゆっくりが人間の家へと入り込み問題を起こ
した段階で、やむを得ないことなのだから。
「そうだ、まりさは……? 家の中なのか?」
息子は、玄関口で泣いていた。あの賢いまりさが、仲の良い息子が泣いているのを放っ
ておくとも思えない。
数代に渡って教育を続けてきたと言うだけあって、あのブリーダーから買ったまりさは
実に聞き分けが良く、賢く、人の心を汲もうと努力し続ける良い子だった。
今現在は、ゆっくりには犬や猫のような血統書というものはない。
ないが代わりに、一代限りの表彰の様なものはある。
季節ごとに一度、試験が開催され、そこで優秀な成績を収めたゆっくりに贈られるとい
うもので、金・銀・銅と、スポーツ大会のメダルのような段階分けで表彰されるのだ。
それはメダルではなく、ゆっくりが大切にしている飾りに付けられるバッジとなってい
るので、バッジシステムと呼ぶ人もいる。
まりさなら、十分に金を狙えただろうが、参加させたことはない。
たいした理由もないが、私自身がバッジシステムのことを、なんとなく気に入らないと
思っているせいもあるが……まりさ自身が、別にいらないと言ったからだ。
まりさには、ブリーダーから貰ったバッジがすでにある。
まりさが私の飼いゆっくりだということを証明し、その住所などの情報が、携帯でも簡
単に読み出せるようにQRコードが付けられているというものだ。野良ゆっくりが問題視
されるようになってからは、このバッジを用意することは、ゆっくりを飼う者の義務とも
なっている。
だが、まりさにとっては、故郷から唯一ここへと持ってきた思い出の宝物なのだ。
その思い出の宝物以外、自分の帽子には付けなくてもいいと言った。他のバッジがある
と、せっかくの宝物が目立てないと思ったのだろうか?
庭の芝生の上に、そのまりさの宝物が、無造作に放置されていた。
*** *** *** ***
「1階の方に売ってるとはなぁ……ゆっくりも、今じゃ当たり前のペットってことか?」
うちの近所のスーパーには、1階と2階がある。
1階には食料品を中心に、生活によく使うもの……各種洗剤に台所用品、入浴用品、掃
除用品や防虫剤、ちょっとした日用雑貨と……まぁ、よくあるスーパーマーケットな品揃
えだ。
2階は、カラーボックスや組み立て棚、日曜大工のアレコレなどの大きめの雑貨と、ガ
ーデニング用品に各種植物、さらには熱帯魚も売られていて、その飼育用品や他のペット
用品なども売っている。
1階で自分の食い物を買って、2階でゆっくり達の餌を買わないとと考えていたのだが、
1階だけで済んでしまった。犬や猫のペットフードに並んで、ゆっくり用のペットフード
があったのだ。ハムスター用とか、鳥の餌は2階にしかないのに。
今や、ゆっくり達は犬猫についで、ありふれたペットの地位を獲得しているらしい。
しかも、ゆっくり用の高級ペットフードまであった。ちょっとお高いそっちは、まりさ
種用、れいむ種用等々、種別によってそれぞれある上に、ダイエット用だとか、室内買い
用だとか、運動をたくさんする子に!とか……まぁ、種類も豊富だ。
俺が買ったのは汎用の、お手頃価格でお徳用のものだが。
「……ゆっくりって、案外タフなのかねぇ」
スーパーへと来る前に見た光景を思い出し、なんとなく独りごちる。
多少は粗雑に扱っても元気でいてくれるのだとしたら、飼育に知識と設備が必要で、気
も配らなければならないという熱帯魚やハムスターより、ポピュラーになりやすいかもし
れない。犬猫のように、動物の匂いもなさそうだし。なにせ饅頭だから。
まぁ、だからこそ余計に騒音の方が目立ち、問題視されるのだろうけど。
「キャンキャン鳴くだけじゃなく、言葉を喋るんだもんなぁ」
それにしても、一人言が多くなった。一人暮らしで寂しさを感じていると、一人言は多
くなるらしい。
寂しいのか、俺は。
寂しいよな、彼女もいないんだもん。
両手に買い物袋を提げて、出口へと向かう。思ったより多くの量を買うことになってし
まった。
「ゆっくりしていってね!」
スーパーを出るなり、野良ゆっくりに声をかけられた。入るときには見かけなかったの
だが……どこかに隠れていたのだろうか?
まぁ、スーパーの入り口あたりをウロウロしていれば、すぐに店員に見つかって始末さ
れるか、保健所に連絡されて所員の方々にしかるべく処理されるのがオチだろう。隠れて
いたのだとしたら、そこそこ賢明な野良……ということか。
「ゆ! おまえは まりささまの こえが、ちゃんと きこえるんだね!」
ほとんどの人が、野良ゆっくりとは関わらないようにしている。面倒くさい目に遭うか
らだ。俺も普段なら、声をかけられても無視を決め込んで、さっさと歩み去ってしまうだ
ろう。だが今は、俺の家にもゆっくりがいる。この野良ゆっくりと同じ、まりさ種の。そ
れでつい、目を向けてしまったのだ。
それにしても今、自分に「様」付けしたのか、コイツ?
「まりささまに、ごはんをもってくる えいよを あたえるんだぜ!」
何を言っているのか、非常に聞き取りにくい。口の動きはモタモタとしているくせに、
早く喋ろうと声を出し続けているせいか、滑舌も悪く発音もなっていない様に聞こえる。
薄汚れ、髪も乱れ放題、帽子もクシャクシャで、実にみっともない。当然、ペットとし
ての身分証明が出来そうなものも付けていない。
「なにを ぼーっとしてるんだぜ!? さっさと ごはんをださないと、いたいめをみるん
だぜ!」
俺んちに迷い込んできた、あのまりさと同じとはとても思えない。まぁ、あいつの方が
変わってるんだろうけど。
それにしても、“ゆっくり”という存在で自分達も「ゆっくりして」とか言うんだから、
もっと落ち着いて、ゆっくりと喋ればいいのに。そうすれば、もうちょっと聞き取りやす
いだろう。
一つ溜め息をついて、野良まりさから目を背けて歩き始める。最初から無視を決め込ん
でいれば良かった。
「ゆあっ! ま、まつんだぜ!」
ぼてっ、ぼてっと、気の抜けたような音をたてて跳ねながら、野良まりさが追いかけて
きたようだ。
「とぼけたって、そのなかみが おいしいごはんだってこと、まりささまには おみとおし
なんだぜ!」
面倒くさいことになりそうだ。これだから、誰もが野良ゆっくりとは目も合わせないの
だ。
「ゆっ、ほっ! ゆっ、ほっ! こ、こら! まつんだぜ ったら まつんだぜ!」
ゆっくりは、跳ねたり這いずったりで移動する。さほど素早く動けるものでもないだろ
う。捕まえようと思えば、簡単に捕まえられるんじゃないだろうか。
なのに、野良がいつまで経っても姿を消さないのは、繁殖の容易さというやつで、モリ
モリ増えているからか。あるいは、いつまで経っても“無責任な飼い主”というヤツが減
らないからか。
直接捕まえようとする人間以外にだって、危険な存在はいくらでもあるだろう。野良犬
はすっかり見なくなったが、住宅街じゃ、野良だか飼いだかよくわからない猫は、よく闊
歩している。カラスは人間相手にだって怪我させるほどの実力者だし、鳩や雀も群れれば
小さなゆっくりくらいなら簡単に食っちまいそうだし。
「やっぱり、案外にタフなのかね」
「ゆへぇ、ゆへぇ……な、なんだか わからないけど! まりささまは つかれたんだぜ!」
家に迷い込んできた、あのまりさ親子が飼われていたであろう家は、意外なほど簡単に
見つかった。
何かを叩く音が聞こえてきて、近づいていくと、妙に濁った悲鳴と、息を乱して箒を振
り回す女性……覗き込んでみれば、二匹のゆっくりらしきものが、ボコボコにされていた
のだ。
呆れて見ていたら、旦那さんらしき人がやってきて、睨まれちゃったけど……まぁ、睨
むよな。人の家の庭を覗き込むって段階で、失礼で不審なんだ。そして見られているのは、
妻がゆっくりに暴行を振るっているシーンとくれば。
まりさ親子が襲われてから、どれほどの時間が過ぎていたのかはわからないが、分単位
の短い時間でもないだろう。2~3時間か……朝早くの出来事なら、すでに4~5時間は
経っているのか。細かいところはわからないが、それでも短くない時間を、殴られ続けて
も生きていられるだけのタフさが、ゆっくりにはあるらしい。
「本当に脆い存在なら、野良生活なんてやってられないだろうしなぁ……」
「ゆ……!? まりささまは、のらなんかじゃないんだぜ!!」
「いや、野良だろ」
つい、答えてしまった。
野良まりさの言葉には、ムキになったかのような激しさがあったから、思わず引き込ま
れてしまったのだ。
「ちがうんだぜ!! みがってな にんげんさんが、かってに まりささまを つれてきて、
そして かってに ほうりだしたんだぜ!」
「……まさか、元は野生か?」
ブリーダーが育てたものばかりではなく、野生のゆっくりを捕まえてきたものも、ペッ
トとして売られていることは聞いている。だが、その気性は人に馴染まず身勝手なままで、
育てるのが難しいからと、格安の割には人気も薄く、最近ではほとんど見られないという
話だ。
「やせい? なんのことか わからないけど……って、おはなし するときくらい、ゆっく
りしていってね!」
「断る」
「ゆぁああ! にんげんさんは、いつもそうだ! みがってなんだぜ!」
跳ねながら喋るというのは、大変なことのようだ。だが成人した人間にとっちゃ、のん
びり歩きながら喋ることくらい、なんでもない。
「あいつも! せっかく、まりささまの めしつかいにしてやったのに、かってに おこっ
て、『すてる』とか いって、まりささまの おうちを うばったんだぜ!」
聞き取りにくいが……「召使い」と言ったのか? 飼い主のことだろうか? ならば、
飼い主が怒るのもわかる。
そんなことを言われりゃ、躾だ教育だというのも馬鹿らしくなるだろう。
「だからって、捨てるなよ……迷惑な」
「まったくだぜ! だから にんげんさんは、せきにんをとるんだぜ!」
「……責任?」
「みがってな にんげんさんのせいで、まりささまは たいへんなんだぜ! だから、せき
にんをとって、そのごはんをよこすんだぜ!」
それほど、理に合わない意見でもない。野良と言われ嫌われるのも、元は人間のせいだ
と言われれば、その通りだろう。
人間の都合で、街へと連れてこられた。その街は、あっちもこっちも人間が自分のテリ
トリーとしているから、ゆっくりが落ち着ける場所もない。大変な毎日には違いないだろ
う。さらに街には、山のように季節ごとの自然の恵みなど期待は出来ない。山には山の危
険があるだろうが、街にだって危険はてんこ盛りなのだ。
「確かに、身勝手な人間のせいで大変だな」
「ゆゆっ!? おまえは、なかなか ものわかりが いいんだぜ! みどころがあるから、
まりささまの めしつかいにしてやってもいいんだぜ?」
「断る」
「まりささまの、めしつかいに なれる ちゃんすなんだぜ?」
「なりたくもない」
「やっぱり おまえも、ばかな にんげんさん なんだぜ。それじゃ、ごはんをおいて とっ
とと きえるんだぜ」
「断る」
「なんでなんだぜ!? みがってな にんげんさんの せきにんは、にんげんさんが……」
「ちゃんと考えろ」
「ゆゆ?」
「身勝手な人間が、責任なんて取ると思うか?」
後ろをついてきていた、ぼてっぼてっという間の抜けた音が途絶えた。振り返ってみる
と野良まりさは、跳ねもせずに歩道でボンヤリとしたままだ。
ついてこないからと言って、待っていてやる義理もない。
そのまま歩き続けていると「ぼんよぼんよ」と、大きな音を立てて野良が追いかけてき
た。
なんだ、多少はスピードアップ出来るんじゃないか。
「そんなのは、ゆるされないのぜ!!」
なんだよ、「のぜ」って。
「にんげんさんが わるいんだから、にんげんさんが……」
「それは、お前の飼い主に言え」
「まりささまには、かいぬしなんて いないんだぜ!」
「じゃあ、全部お前のせいだろう」
「なに いってるんだぜ! にんげんさんが……」
「人間が、飼うためにゆっくりを山から連れてくることはある。飼うためにだ」
「わけ わからないこと、いってんなのぜ! いいから、ゆっくりしないで ごはんをよこ
すんだぜ!」
「断る」
「ことわるとか きいてないんだぜ!! まりささまが ほんきをだしたら、おまえなんか
ぎったぎたなのぜ!」
さて、面倒なことになった。
言葉を交わしたが、餌をやったわけでもないし、こいつを飼わないままにしても、祖父
は怒ったりしないだろう。
だが、どうすればいいか。
保健所に連絡するのも、面倒だ。なにせ、連絡した以上は所員の方々が駆けつけてくれ
るまで、コイツが逃げないように捕まえておかないといけないだろうし。
なるほど。
みんなこんなふうに考えて、積極的に保健所へ連絡などもしないから、逃れ続けている
野良もいるのだろうか。
「ゆへ~っ! ゆへ~っ! ゆへ~っ! いっぱい あるいたから まりささまは、つかれ
たんだぜ! おまえのせいなんだぜ! これは、ごはんを ばい もらわないとならないん
だぜ! ゆへへへへ」
ちょっと行ったところにある用水にでも叩き込んで、流されるなり、水にふやけて崩れ
るなりしてもらおうか? いや、駄目か。誰かが見ていたら、ゴミを不法投棄したと問題
視されるかもしれない。
用水沿いは桜並木が美しいので、美化に五月蝿いおばさんがいるからなぁ。
ふと、思いつく。
「……そうするか」
「ゆゆ! あきらめて、ごはんを よこすきに なったのぜ!?」
「食い物は持ち合わせてない。代わりに、良い場所を教えてやる」
「いい ばしょ? ゆっくりプレイスってことなのぜ?」
「のぜ」が多くなってきた。もしかして「なんだぜ」と言っていたのは、こいつなりに
丁寧な喋り方をしていたということだろうか?
それに「ゆっくりプレイス」という言葉だけは、聞き取りやすかった。「ゆっくりして
いってね」という挨拶も聞き取りやすかったし……コイツらゆっくり達にとって特別で、
言い慣れた単語だってことなのか?
「ああ、そうそう。ゆっくりプレイス、ゆっくりプレイス」
「ごはんは!? ごはんは どうしたのぜ!?」
「ゆっくりプレイスに着いてから、なんとかしたらどうだ?」
「そうするんだぜ! それじゃ、ゆっくりしないで さっさと あんないするのぜ!」
「はいはい」
帰りも、寄り道することになる。まぁ、急ぐわけでも無し。
来たときと同じ道を辿り、住宅街へと足を向けた。
*** *** *** ***
「おかえんにゃしゃい、おにーしゃん!」
「おかえぃなさい!」
「ぷゆ~……おかえりなしゃ~い……」
「ぷんぷんっ!」
「おっ、お兄さっ……おかっ、おかえりなざいぃぃ……」
「……何をしてるんだ、お前ら?」
家へと戻ってくれば、「いってらっしゃい」に続いて、久方ぶりの「おかえりなさい」
もゆっくりからで、またも微妙な気分にさせられた。
いや、この際それはどうでもいい。
赤ん坊のうち二匹はなにやら怒っていて、うち一匹は「おかえりなさい」を言ってこな
かったが……ともあれ具合の方も、多少は回復したようだ。
家の中で死なれるという、気分の悪い結果にはならなさそうで、なによりだ。
しかし、ゆっくり共の様子が、なんというか……気まずげな点が、ひっかかる。
親のまりさの方はというと、泣き濡れてしゃくり上げ、挨拶も上手くできない様子だ。
帽子は脱いで床におかれ、それを見下ろして涙を流し続けている。そしてその帽子には、
いくらかくすんだ茶色と黄色の物体が、点々と。さらにはあちこちに、濡れたような小さ
なシミがいくつかある。
「おかーしゃんがにぇ、おぼうししゃんが よごえたかや、にゃいてゆの」
「……帽子が汚れたから、泣いてる?」
「しょうにゃの!」
「確かに、そうみたいだな。あの茶色いのと黄色いのは、何だ?」
「ゆぅ~……そんな はずかぃいこと、ぃかないでよぉ」
「ちゃんと答えろ」
「ゆあっ!? あ、あのにぇ! あ、あのっ……あの……!」
あの野良もそうだったが、赤ん坊ゆっくりが言うことも、かなり聞き取りにくい。落ち
着いて、ゆっくり喋るように言ってると、泣いていた親まりさ自身が口を開いた。
「おチビちゃん達の、うんうんだよぉ……」
「うんうん? ……糞か」
なるほど。
食ったら出す。赤ん坊達は、欲求に対して正直に行動しようとしたのだろう。親である
まりさは、家の中を汚してはいけないと考え、悩んだ末に自らの帽子に排泄させた……と
いったところか。
「トイレのこと、すっかり忘れてたなぁ……どうしたもんだか」
庭でさせる……のは、よくないか。
確か、ゆっくりの糞も中身の餡と同じようなものだとか。ゆっくりの体に不要なものも
排泄されるから、餡そのものとは違うし、安易に食べるのも良くないらしいが、それでも
糖分を含み、特殊なものを食わせない限りは有機物で構成されているのだとか。
だとすれば、蟻も集るだろうし、腐ったら臭いも酷いかもしれない。
そういえば以前、ゆっくりの糞を小豆餡として使用していた和菓子業者が、逮捕される
という事件があった。食中毒患者まで出たのだとか。
そういう「騙して食わせる」のならともかく、餡と大差ないと言っても、排泄物だ。普
通なら、注意されなくても食いたくはならないと思う。
思うのだが……世の中は広い。
ゆっくりの糞を、好き好んで食う人もいるらしい。
その手の趣味の方だろうか?
俺は、ゆっくりはもちろん、飛びきり美人で好みの女性が出したものだとしても、排泄
物を口にするのはゴメンだ。
「見る」までならOKだけど……それだって、排泄物そのものが見たいわけじゃなく、
普通ならば他人には見せない恥ずかしいところを見られているという、その羞恥に身悶え
るところをこそ……
「お兄さぁん……」
「ん? な、なんだ?」
また、関係のないことを考えていた。
「お願いしても……い、いいですか?」
「言ってみろ」
「まりさの、お帽子を綺麗にしたいんです……だから……」
「おかーしゃんっ! たいへんだよ!」
話の途中で、チビのまりさが慌てた声で遮ってきた。
「ゆあ!? ど、どうしたの、おチビちゃん?」
「りぇーみゅ おにぇーちゃんが ぷゆぷゆしてゆの! ちゅあしょうだよ!」
「つらそうなの? れいむ、大丈夫? ゆっくりしてね!?」
「ゆ……う~~……ぷんっ! だ!」
「れいむぅううっ!? まだ怒ってるのぉお!? 仕方なかったのよぉお! お母さんを
許してよぉお!」
「なんだかわからんが……おい、え~と……れいむ?」
「ゆゆ? う……な、なぁに、おにいしゃん……?」
「確かに、つらそうだな……どうしたんだ?」
「あ、あのね……りぇ、りぇいみゅね……う、うんうん がまんしてりゅの……」
「……したんじゃないのか? まりさの帽子に」
「ゆゆ? まぃしゃの?」
チビの方のまりさが、自分のことかと反応を示す。違う、母親の方だと言って、糞に汚
れた帽子を指さすと、チビのまりさもションボリと俯いた。
「ちょっと でちゃったけど……でも、やっぱり できないよ! だって、おかあしゃんの
おぼうししゃんが よごりぇたりゃ、おかあしゃん ゆっくりできなくなっちゃうよ!」
「そ、そうだったの……!? れいむは優しい子だね! でも我慢してたら、体に悪いん
だよ! ちゃんとうんうんして、すっきりしてね!」
「すまん、まりさ」
「ゆぅ? にゃーに? おにーしゃん?」
「いや、お前じゃなくて」
「まりさの方? なぁに、お兄さん? まりさは、今感動して、泣いちゃいそうです!」
「いや、うん、すでに泣いてるけどな。そうじゃなくて」
チビのれいむが、なんと言ったのかよく聞き取れなかった。母親まりさの反応も込みで
判断すれば、親想いの意見だったようだが……
ただでさえ状況がつかめていないから、話も見えにくいし。
「だから、ちょっと何があったのか、説明してくれ」
「ゆゆ! ゆっくり理解したよ!」
まりさが自分の帽子をトイレ代わりにして、部屋が汚れることを避けようとしたところ
までは、俺が想像した通りだったようだ。
食ったら、出す。食事の後の排泄欲求は、ゆっくりの場合は人間以上に短い時間で訪れ
るものらしい。しかも、チビ達は最初のゴハンである茎を食べてから、うんうんをしてい
なかったので、我慢しろと言うのも無理そうだったとか。
「でも……おかあしゃんの おぼうししゃんを よごしたりゃ……」
「そうよ! おかぁさんが ゆっくりできなくなっちゃうわ! そんなこと、ありすたちに
しろなんて いう おかぁさんは、まちがってるわよ!」
「おかーしゃんに、ひどいこと ゆぁにゃいでにぇ!」
「おかあさんの いうことを ちゃんと ぃきぇないこは、わるいこなのよ!」
母を想い、母の大切な帽子を汚したくないと主張する二匹と、つらいことでも母の言う
ことにはきちんと従うべきだという二匹が対立し、険悪な雰囲気になったらしい。
そして、当の母はというと、そんな我が子達の喧嘩を収めたいものの、やはり大事な帽
子が汚れたことがショックで、泣いてばかりだった……と。
「……駄目だろ」
「ゆっ……まりさは駄目なお母さんだよ……」
自分のどこが駄目なのか、はたして本当にわかっているのかどうか微妙なところだが、
ともかくトイレをなんとかしなければならないようだ。
親まりさの説明を聞いている間に、排泄を我慢した方の二匹──チビれいむとチビあり
すが、ぶるぶるビクビクと震え始め、脂汗を浮かべている。
というか、脂汗なのか? ゆっくりも、汗とかかくのか。元が饅頭みたいな連中だから、
汗なんかも甘いのかな?
「二人とも、大丈夫!? ゆっくりしてね? お母さんは平気だから、うんうんをちゃん
として! すっきり~して! お帽子さんは、後で綺麗にすれば良いんだよ!」
「ゆぐぅ~……ぷ、ぷんだ!」
「ゆひぃ……! ゆひぃ……! いっ、いやよ……!」
なんだか、チビ二匹は意地になっているみたいだ。一方の、排泄を済ませたチビまりさ
とチビありすは、ただハラハラと見守っているだけ。
「なんか、適当な空き箱で良いか……」
「ゆゆ? 空き箱? 空き箱さんは、ゆっくり出来るよ!」
「そうなのか?」
「ゆん♪ そうです! 中に入って、ゆっくり出来て、とってもゆっくりしてるんです!」
よくわからないが……子供が、狭いところに入って喜んだりするような感じだろうか?
そういえば、俺もガキの頃は段ボールに収まったり、綿の代わりにスポンジクッション
の入った来客用の座布団で組み立てた箱の中に潜り込んで遊んだりしてたな。押し入れの
中も、わくわくしたし。
「ゆひっ……! ゆひっ……!」
「あ……また余計なことを考えてるうちに、チビ達がピンチだな」
「ゆああ!? ど、どうしよう!? ごめんね! 駄目なお母さんでゴメンね!」
「もうちょっと辛抱しろ」
言い置いて、台所へ向かう。以前に買った、一杯用簡易ドリップコーヒーセットの箱が
あった。まだ2つほど残っているが、それは棚にでも入れておき、下箱の方を持って部屋
へと戻る。
チビのゆっくり達が出入りできるように、箱の壁の一面を切り取っておく。
切り開いたビニール袋をまず敷いて、その上に箱を置く。箱の中にティッシュを適当に
敷き詰めて……これで、多少の水気も大丈夫だろう。
といっても、今日一日保てばいい方か。トイレも買ってこないとなぁ……
「これを、とりあえずのトイレ代わりに使え」
「ゆゆ! ありがとう、お兄さん! これで、チビちゃん達もゆっくり出来るよ!」
「お前も我慢してるんだろ? お手本の意味でも、先にやっておけ」
「ゆっくり理解したよ!」
「お……おといりぇ?」
「お……おかぁさんの……おぼぉしさん……よごさなくても、いいのね?」
「そうだよ、おチビちゃん達!」
ゆっくり共がトイレを済ませている間に、俺は親まりさの帽子を綺麗にしてやろうか。
そう思って帽子を手に取ったが……糞の方はともかく、小便らしきシミの方は……
どうしたら良いんだ、これ?
ゆっくりの帽子って、洗濯できるのか?
あ……そういえば俺、洗濯機を回したっきりで、取り込んでなかった気がする。
いい加減、俺自身の腹が減ってきたが……先に洗濯物を干しておかないと。
「いい、おチビちゃん達? おトイレは、ちゃんとこうやって奥まで入って……」
親まりさの、トイレレクチャーが始まったようだ。
どうせ暇だし。そう思って、こいつらを受け入れたが……なんだか、いろいろと忙しく
なってきたものだ。
*** *** *** ***
「なんなんだ……いったい……?」
妻が暴行を加えていた、ゆっくり二匹の手当てを済ませた。二匹は、れいむ種とありす
種で、正直に言えば私は、れいむ種もありす種も、あまり好きではない。
それでも治療の手は抜かなかったし、妻の目にはつかないように自分の書斎にケージを
持ち込んで、二匹を休ませておくことにした。
まりさを探し始めたのは、それからだったためか……結局は、見つからなかった。
妻に問い質すと、出て行くように言ってしまった、と言うではないか。本当に出て行く
とは思わなかったと言って泣いて見せたが、あの子が私達の言うことに逆らうわけがない
のだ。
それでも、あの子には他に行く当ても無いのだからと探したのだが、見つからなかった。
もしかして妻は、ゆっくりが嫌いだったのだろうか?
聞き分けのいいまりさ相手には我慢出来たことも、今度の件ではその限界を超えてしま
ったのでは……
考えすぎだろうか。
妻の話では、まりさが出て行ったと思われる時間から、かれこれ4時間近く経っている
という。あの賢い子は、言われたとおりに出て行き、遠くへ行ってしまったのか。だとす
れば、もう見つけることは難しいかもしれない。
庭から拾ってきたあの子の宝物が、ただリビングのテーブルの上に空しく転がっている
だけ。
これを見て、まりさを思い出し、気持ちが沈み込むという毎日を繰り返すのだろうか。
そう思っていたときに、ちらりと視界の隅を、黒い帽子がかすめた。
庭へと通じる窓。その向こうに、帽子が見えた。
まりさが、いる。
急いで駆け寄り窓を開けると、そこには確かに、まりさがいた。
「ゆゆっ!? ここは、まりささまの ゆっくりプレイスなんだぜ!? にんげんさんは、
ゆっくりしないで さっさと でていくんだぜ!!」
勝ち誇った表情で「お家宣言」をして、不躾な要求をしてきたのは、確かにまりさ種の
ゆっくりだった。
「ゆ? ここは、なかなか いいおうち なんだぜ! きょうから、ここを まりささまの
いえとして つかってやるんだぜ!」
やはりもう、賢く可愛かったまりさはいないのだろうか。
この薄汚い野良が、代わりだとでも言うのだろうか。
「なんなんだ、いったい……!」
*** *** *** ***
「ゆんせっ……! ゆんせっ……!」
帽子をかぶっていない母親まりさが、固く絞ったタオルを床において、それに顔を押し
つけるようにしている。そしてそのまま、ずり、ずり、と体を前後にズリ動かしている。
拭き掃除のつもりらしい。
まりさの帽子は、糞を取って軽くティッシュで拭いたものの、水洗いして良いものかど
うかわからなかったので、そのままにしてある。
どうも、人間にはわからない臭いの差でもあるのか、まりさはまだ臭いと感じるらしい。
一度、糞尿に塗れたTシャツを、とりあえず糞をはたき落として絞っただけのものを、
着られるかと考えれば……正直、触るのも嫌だ。
「あとで、洗濯の仕方も調べておかないとな……」
次から次へ、やることが増える。まぁ、これも手を出した責任の範疇だろう。
「ゆんせっ……! ゆんせっ……!」
「……」
赤ん坊達は、母親の姿を感心したように見ているものや、頑張れ頑張れと応援するもの、
マネをしようとしてテーブルの上をコロコロと転がるものなど、様々だ。
それにしても、どれだけ時間がかかるんだ、これ。
ほとんど前のめりに倒れている状態だから、上手く動けないだろう。手早くやれという
のは、この場合ゆっくりの身体的構造からしても不可能だろうし。
お湯につけ固く絞ったタオルで、トイレを済ませたゆっくり達の足を拭いてテーブルの
上へと載せておき、さて汚れた床を掃除するかと言うところで、まりさが手伝うと言い出
したのだ。そういえば、買い物へ出かける前にそんなことを言っていた。
どうやって手伝うのかを聞くと、どうやらゆっくりにも使えるお手伝い用の道具が、世
の中にはあるらしい。
だが、あいにくと俺の家には無い。そんなものを買う予定もない。
しばらくの間、まりさは残念そうな顔をしていたが、良いことを思いついたとばかりに
明るい表情を取り戻して、それじゃあ拭き掃除をするから、そのタオルを貸してくれと言
ってきたのだ。
渡してやると、タオルを咥えて汚れた床の上に置き、そのタオル目掛けて倒れ込んだ。
そして、ずりっ、ずり……ずりっ、ずり……と。
「いや、うん。もういい」
「ゆ? ゅんっ……しょっと! まだ全然終わってないよ?」
返事するにも、起き上がるっていう一手間かかってるじゃないか。
「いつまで経っても終わらないだろ、それじゃ。俺がやるよ」
「ゆう……で、でも! まりさはお母さんとして、おチビちゃん達にきちんとお手本を見
せてあげたいんです!」
「気持ちだけは褒めてやる。けどな、その調子だと途中で腹が減って動けなくなるぞ」
「動けなくなっちゃうの!?」
「最初の所から、ちっとも進んでないじゃないか」
「ゆゆ? …………ほ、本当だっ!? いつ終わるんですか!?」
「俺に聞くな」
とりあえず、まりさにはもっと他のことを赤ん坊達に教えるように言ってタオルを取り
上げ、赤ん坊達と同じようにテーブルの上に退けておく。
それでは早速、と、まりさが赤ん坊達にまず話し始めたことは、人間に関することだっ
た。人間の世話になればゆっくり出来るんだから、人間を怒らせちゃいけない、と。
まぁ、飼いゆっくりとして安全に暮らすためには、第一に憶えておくべき事柄だろうな。
拭き掃除の前に荒い土埃は取ってしまおうと、コロコロを用意する。雑誌の方じゃなく
て、粘着シートの、コロコロと転がし抜け毛や埃を取る掃除用具だ。これが出始めた頃は
カーペット用しかなく、畳には使ってはいけないと言われていたが、今はフローリングや
畳に対して使えるものも存在している。箒を出したり掃除機を使ったりが面倒なので、実
にありがたいことだ。
「ゆゆ! それ、コロコロだね!」
「知ってんのか?」
これ、正式名称はなんだったかなと思いつつスーパーで探したら、まんま「コロコロ」
という商品名だったときには、ちょっと驚いたな。
「知ってます! それなら、まりさにもお手伝いできるよ! まりさに貸してね!」
「……まぁ、いいけど。気をつけろよ」
まりさに渡してやると、取っ手の部分を口にくわえて、ころころコロコロと動かし始め
た。合間合間に、こうやってお掃除をするんだと赤ん坊達に説明している。
赤ん坊達は、理解しているのかどうかはわからないが、興味深そうにコロコロを見つめ、
母の言うことの一つ一つに頷き、歓声を上げている。
俺も子供の頃、このコロコロが面白くて、無駄にころころコロコロとやって母を苦笑さ
せたことがある。ゆっくりから見ても、面白そうに思えるのだろうか。
けど、テーブルの上でコロコロされても、あんまり意味はないんだけど。
「しゅごいね~っ♪」
「ころころ、ころころ! おもしろいわ!」
チビれいむが感に堪えたような声を出すのと、ほぼ同時にチビありすのうちの一匹が、
ぴょこんと跳ねた。
前に出ようとしていたチビれいむに、飛び跳ねたチビありすがぶつかり、その衝撃でチ
ビありすはころりと転がって、コロコロにぶつかってしまう。
何かを言う間も、どうする暇もなかった。
「ゆぅ~……なにしゅりゅの、ありしゅ おねえちゃん!」
「ゆゆ、わ、わざとじゃないの。ごめんなさいね、れいむ……う? ゆゆゆ?」
チビありすは、仰向けに寝た状態でくねくねと身じろぎした。底部が粘着シートにしっ
かりとくっついてしまっているので、起き上がることも出来ないらしい。
「ゆ!? ゆゆぁあ!? うごけないわぁああ!?」
「ゆわっ! 大変!」
「ぃぎっ!? いたぃいいいっ!?」
動けないことに気付いたチビありすがパニックを起こし、慌てた母まりさがコロコロの
取っ手を口から離した。
取っ手が落ちた衝撃が伝わったか、わずかに動いたコロコロに底部の皮を引っ張られた
か、チビありすが痛みを訴え始める。
「いたいぃい!? いたいのぉお! なに、これ!? なんなの!? おかぁさんっ!?
おかぁさん、たすけてぇえ!」
「お、落ち着いてね、ありす! 今、お母さんが助けてあげるからね」
他のチビ達にぶつからないよう、気をつけながら回り込むと、まりさがチビありすの髪
を咥えて引っ張り出した。
「いだい! いだいいぢゃぢゅぢゃゆぎゅうぅうううんっ!!」
「ゆあああ!? ま、まだ、そんなに強く引っ張ってないよ!?」
「あ~あ~……待て待て、落ち着け」
「ゆあ!? 落ち着けばいいの? 落ち着いたら、おチビちゃんは助かるの!? じゃあ、
まりさ落ち着きます!」
とりあえず、チビありすの様子を確認するために、まりさを下がらせる。他のチビ達は
コロコロが怖いものらしいと思ったのか、テーブルの隅へと待避し、一塊になって震えて
いた。
チビありすの底部は、べったりと粘着シートにくっついてしまっている。赤ん坊のゆっ
くりは皮が柔らかいのか、引っ張られている部分は今にも破れそうだ。
引き剥がすのはもちろん、シールのようにめくろうとしても、曲面であるゆっくりの皮
が引っ張られて、破れてしまうかもしれない。
水で濡らせば、粘着力が落ちるだろうか?
いや……粘着シートが駄目になる前に、ゆっくりの皮の方が先に駄目になるかもしれな
い。赤ん坊ゆっくりの皮は、そう思わせるほど薄く脆そうだ。
「さて……これは困ったな」
「お……お兄さんでも、無理なの!? ありすは助からないの!?」
「いやよぉおおお! たすけぃだいいだいいだいっ!!」
「あ~、もう、だから動くな。暴れるな」
繰り返し動かないように注意して、パソコンを操作する。困ったときは、調べてみる。
今はネットで大概のことは調べられる良いご時世だ。鵜呑みにばかりは出来ないだろうが、
それでも便利なモノには違いない。
ゆっくり、産まれたばかり、粘着シート、水、等々の検索ワードを追加したり変更した
りで調べると、案の定な結果が出て来た。
ゆっくりは水に弱く、外皮は水分を多く含むとすぐに脆くなること。産まれたばかりの
赤ん坊は脆いので、お風呂を初めとする水洗いはしないこと。濡れたガーゼなどで拭くと
きも、良く搾ること……などなどなど。
粘着シートに関しては、ゆっくりを捕獲するための罠の類がボロボロ検索に引っかかっ
た。いろいろな意味で、ゴキブリやネズミと同列らしい。
「こりゃ、かなり絶望的みたいだなぁ……」
「ゆぁああああ!? そ、そうなの!? そうなんですか!? なんとかしてください、
お兄さん!」
「なんとかと言われても……ん? ちょっと待て。赤ん坊を引っ張ったりするなよ?」
「ゆ!? わ、わかりました、待ちます!」
ゆっくりと水分に関しての検索結果の中に、「……汗や涙、よだれ等、ゆっくり自身が
分泌する水分……」という文脈が検索に引っかかってるものがあった。クリックして、開
いてみる。
どうやら、水に弱いとされるゆっくりが、なぜ自らの分泌液で脆く崩れたりしないのか
を考察しているらしい。実験までしてみたようで、様々な条件下での実験結果も併せて記
載されていた。
交尾の際、ゆっくりは大量の汗のようにして全身から分泌液を滲ませるのだという。そ
れは、ゆっくりの通常の生活において最も水分量が多いらしい。にもかかわらず、自らの
分泌液で、外皮に異常が出ることはない……正確には、脆くなってはいるのだが、内側か
らどんどん再生しているのだとか。
しかし涙のように、分泌されたあと、表面を流れ落ちるモノに関しては、また事情が異
なるとか。たとえば、延々と泣き続け涙を流し続けると、流れた涙の跡が脆くなり、水に
流される土砂のように表皮が削れて、窪んだ“涙の道”が出来上がるそうだ。
ざっと斜め読み程度だが、そのサイトのページにはゆっくりの感情を暴走させる手段、
二種類ある交尾に関して、交尾可能の状態──興奮状態への持っていき方、そして実験後
の回復のさせ方まで、微に入り細にわたり記載されている。それぞれ詳しく検証している
ページが他にあるのか、所々がリンク形式にもなっていた。
「東京特定生物研究所……? なんか、お堅いところのサイトみたいだし、信用してもい
いのかな……って、この文責んとこの名前……」
「お、お兄さん? まりさのおチビちゃん、助かるの? どうすればいいんですか?」
「ん? あ、ああ……どうしたもんかな。ちょっと試してみるか……」
水を掛けるのは良くない、母親の唾液や涙でも駄目だし、本人の涙などでも駄目。可能
性があるとしたら、交尾の際の分泌液をシートの粘着力が弱まるほど出させる……という
のが、ごく短い時間でややいい加減にネット検索した結果だ。
「自分にも影響があるけど、同時に再生するから大丈夫……って、なんかあったなぁ……
昔、読んだような……」
確か……手の平から酸を出して、なんでも溶かすとかいう攻撃だったか。自分の手も溶
けちゃうんだけど、酸を作るときに出るカスで皮膚を再生しているから大丈夫とか……
なんだったっけ?
「ゆぴぃいい! もういやよぉおお! げんかいだわぁあああ!」
「お兄さぁああん!! お願いします! まりさ、なんでもしますから、おチビちゃんを
助けてあげてくださいぃいい!」
「わかったわかった。一か八かだが、やってみよう」
棚の引き出しを開け、適当に詰め込まれた雑貨をガサガサと漁る。ピンク色をした小さ
なローターを選び出し、リモコン部分に電池をセットする。これは、単体で買ったもので
は──つまり、女性とのプレイで使用する目的で購入したわけでは──なく、オナホに付
属品としてついていたものだ。そのことを思い出し、ちょっと気分が落ち込んでしまう。
「お兄さん、それ? それなの? それで、おチビちゃんを助けられるんですか?」
「ん? ん~……わからん。わからんけど、やってみるしかないだろ」
「はやくぅううううっ! いっ、いだっ! いだいのぉおおおお!」
動けば皮が引っ張られて痛むだろうに、チビありすは大口を開けて叫びながら身をよじ
り続けている。その大きく開かれた口に、ローターを突っ込む。
「ふぐゆぅうううう!?」
「静かにしてろ。動いたり暴れたりしたら、余計に痛いんだから」
「我慢だよ! おチビちゃん、ゆっくり我慢してね!」
「あ……思い出した」
「ゆ!? なっ、なんですか、お兄さん! おチビちゃんは助かりますか!?」
唐突に、なんの脈絡もなく、作品名からそのシーンの絵、そしてその現象の名称まで、
スラスラと頭の中で再生された。
どうしてこう、俺は余計なことを考えるのが得意なのだろう?
「お、お兄さん? あの、何度もすみません! でも、早くおチビちゃんを助けてあげて
欲しいんです! まりさ、なんでもしますから……!」
「礼に期待はしていない。ついでに、上手く行くかはわからん。そっちも期待するな」
「そ、そんなぁ……!」
「頑張るのは、たぶん……チビ、お前自身だ」
「ゆぶぶ……?」
「見せてみろ! ゆオー・メルテッディン・パルム現象(フェノメノン)!!」
「ゆ……ゆおー!?」
「ゆっくり生態現象の一つ! 体表から出る特殊な液体で、交尾を行う! この液体は、
ゆっくり自身の皮膚も溶かしてしまうが、液を作るときに出るカスで皮膚を再生している
ので、ゆっくり自身はなんともない!」
我ながらノリノリだ。こいつらにとっては、我が身の激痛、我が子の命の危機なのだろ
うが、俺の方にはそこまでの切迫感はない。やっぱり、ゆっくりのことを生物と思い切れ
てないからかな?
「よ……よくわかりません!」
「そうか」
「でも、これでおチビちゃんは助かるんですね!?」
「わからん」
「あれぇええええっ!? お兄さぁあああんっ!?」
「だから、チビ次第だって言っただろ」
「ゆ……? …………ほ、本当だっ!? お兄さん、そう言ってましたっ!」
「あとは……そうだな。お前らゆっくりの、デタラメさ加減か」
「ゆひゅっ? ゆびぶ!? ゆぶぶぶぶぶぶぶ?」
ローターの振動で、チビありすがブルブルと震え始める。
このチビ共が未熟児だというのは、そう間違っちゃいない推測のはずだ。その上、つい
今朝方に産まれ、直後に命の危機に見舞われ、それから何時間か栄養補給もしなかった…
…つまり、いつ死んでいても不思議じゃない状態だったのだろう。
赤ん坊が、発情状態になるのか──まともな生き物なら、まず有り得ないだろう。複数
段階の性徴ってものを経て、生き物は子を為せるようになるものだと、俺の少ない知識は
言っている。
死にかけていた生き物が、子を産む準備を始めるだろうか──これは、どちらとも言い
切れない。緊急時には、生存本能から生殖への欲求が高まるのは、俺も知っている。でも、
それに耐えられないほど、体力が限界まできていたら……どうなるのか。
「どちらにしろ、お前ら“ゆっくり”が、どれだけデタラメかに懸ってるよ」
「ゆびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅ!?」
「おチビちゃん!? おチビちゃん、頑張ってね! ゆっくり頑張ってね!」
「ゆふひゅふひゅふひゅふひゅふひゅふ!!」
「おチビちゃん!? おチビちゃぁああああん!?」
「取り乱すな。上手く行きそうだぞ」
「ゆゆ!? ほ、ホントですか!?」
チビありすの目が、焦点を失ったかのようにトロンとしてくる。それを敏感に察した母
親まりさは、もう駄目かと勘違いしたようだが……チビありすの全身から、じわりと液体
が滲み出し始めた。
交尾後……つまり液体をたっぷりと滲ませ、その状態から肉体を守るために、急速な再
生を繰り返した後は、たっぷりの食事と水分補給を欲するのだと、あのサイトに書いてあ
った。買ってきた餌を早速にも食わせることになるかと、袋を開けて、ふとゆっくり達を
見やる。
母親もチビ共も、チビありすの様子を食い入るように見つめている。一様に心配そうな
表情だ。
ザラザラと餌の音を立ててみるが、どれもこれもこちらには見向きもしない。ネットな
どの情報では、家族が危険にさらされていようと、餌を見つけたら夢中で食い始める……
なんて浅ましいゆっくりの話を良く聞くが……
「つくづく、変わり者の家族だな」
「お兄さん!? おチビちゃんが……! おチビちゃんが、どろどろです!」
「ん?」
「ゆぴゅぷぴゅるふるゆぴゅるふるゆぴゅぷぴゅるふるゆぴゅるふるぅ!」
自らが分泌した液体に濡れ、涎も溢れさせたチビありすは、ローターの振動に逢わせて
ブクブクと口周りに泡を出している。
汚い。気色悪い。どうにも触ることを躊躇ってしまうが……ここは、我慢すべきだろう。
そっと、チビありすの髪を掴み、軽く引っ張ってみる。たいした抵抗もなく、持ち上げら
れた。
「ゆはぁあっ! とりぇたよぉ!」
「とりぇた! とりぇたぁ!」
「やったわ、あぃす! たすかったのにぇ!」
「よかった……! よかったよ、おチビちゃん! 無事だったんだね!!」
ゆっくりの家族達から、次々に歓声が上がった。もう十分だろうと、ローターをチビあ
りすの口から引っこ抜く。
「んゆふぉおおおおおおおおおおおおおっ!?」
「……あん?」
摘み上げたチビありすが、目の前でクネクネと身をくねらせて、踊る。ダラダラと、粘
液と涎を止めどなく溢れさせたまま、髪を引っ張られ宙づりにされていることなど、まる
で気にもしていない……いや、気付いてすらいないように。
目はトロンと焦点を失ったままだが、何かを捜しているのか、ぎょろぎょろと動き続け
ている。
かなり……気持ちが悪い。
「あ~~~……えっと……なんか、変じゃないか、コレ?」
「ゆあ?」
明らかに様子のおかしいチビありすを、母親まりさの方へと向けて突き出す。二匹の目
が合ったであろう瞬間……
「ゆほぉおおおおおおおおおおおっ!!」
「ゆぎゃぁああああああああああっ!?」
「ぁゆんっ!?」
「ゆびびゅっ!?」
「ゆぉ……? おっ、おにぇーちゃぁああああああん!?」
いきなり、大惨事だ。
宙づりのチビありすは、くねらせていた横運動から急激な縦運動へ──下膨れの体の下
側をビクビクと前に突き出す動きへと変え、奇っ怪な叫びを上げた。
母親まりさの方は、顔を恐怖に歪ませて、引きつった悲鳴を上げると、我が子から逃げ
るようにしてテーブルの上を猛スピードで後ずさった。
そして、その拍子に母親まりさは別の我が子を──もう一匹のチビありすを跳ね飛ばし、
チビれいむを、踏んづけた。
「いたたた……おかあさん、ど……どうぃたのよぉ?」
「ご、ごめんね、ありす? れいむも、だいじょ……ゆぁああああ!? れいむがぁあ!」
「あ~……もう、次から次へ……」
チビれいむの様子を見るために、妙な状態でほーほー言ってるチビありすをテーブルに
置き……
「ゆほぉおおおおおおおおおっ!!」
「ゆぎゃぁああああああああっ!? 助けてぇえええええ!!」
「にゃに!? にゃんにゃのぉおお!? おかーしゃん!? おかーしゃぁあああん!?」
「やっ、やみぇなさい! やみぇるのよ、あぃすぅうう!」
「ゆぁあああっ!? ゆぁあああ、怖いよぉおおおっ!!」
「だぁ~っ! なんなんだ、一体全体!?」
テーブルに置いた途端、ほーほー言ってたチビありすが、チビまりさに襲い掛かった。
慌ててそのヌルヌルのチビありす──面倒だから、ヌルありすでいいか──の髪を引っ掴
んで、他のゆっくり達から離す。
ヌルありすを持った右手をテーブルから離しつつ、顔はテーブルへと寄せて、チビ達の
様子を確認する。
襲われたチビまりさは、粘液を多少擦り付けられたようだが、特に問題はなさそうだ。
空いた左手でティッシュを摘み出して、チビまりさの体を拭ってやる。チビまりさも粘液
が気持ち悪かったのか、自ら体をくねらせてティッシュに擦りつけてきた。
ぶつかった拍子に転がっただけのチビありすも、たいした怪我はないようだ。
……だが、チビれいむは、かなり酷いことになっている。右側が潰れた様になっていて、
口から餡らしきものを溢れさせているし……白いのは、右目の眼球だろうか? それらし
きものも零れ落ちていた。
「おっ、おに……おにいさ……! お兄さぁああん!!」
そして母親まりさは、誰よりも取り乱していた。ひたすら怯えて、涙を止めどなく流し
て……俺に頬ずりをしてきた。
「怖いぃいい! お兄さん、まりさ怖いですぅううううう!」
「……やめろ。離れろ」
「ぅえぇええええ……ごめんなさいぃいい……」
「おにーしゃん! りぇーみゅ おにぇーちゃんが……りぇーみゅ おにぇーちゃんがぁ!」
「おぃーさん! りぇいむ おにぇーちゃんをたすきぇちぇあげちぇ!」
「助けろ……って、言ってるのか? そう言われてもなぁ……」
よくよく見れば、まだチビれいむは生きているのか、小さく体を震わせている。いや、
もしかしたら断末魔状態なのかもしれないが……
「おい、チビれいむ。聞こえていたら、動こうとするな。落ち着いて、ジッとしていろ」
「りぇーみゅ おにぇーちゃん! ゆっきゅぃ! ゆっきゅぃして いってにぇ!」
「おにぇがいよ、りぇいむ おにぇーちゃん! ゆっくぃぃちぇいっちぇにぇ!」
「お前らは、騒ぐな」
無事なチビ共が騒ぐたびに、チビれいむがビクビクと体を震わせる。周りが落ち着かな
いことには、その恐怖や不安が怪我してる方にも伝染するのだろう。
「おい、まりさ。母親なんだから、お前が……」
「ゆぁああ……ゆひ……! ゆぁあああ……!」
母親まりさは、テーブルの上に居なかった。いつの間にか部屋の隅まで移動し、そこに
身を寄せるようにしてガタガタと震えている。
「……母親のお前が! しっかりしなくて、どうするんだ!」
「ゆぇあぁあぁ……で、でもぉ……! でもぉ……! まりさはぁ……!」
「何を泣いてやがる! お前のガキどもは、ちゃんと兄弟の心配をしてんだぞっ!!」
「ゆぴぃいいい!? お、おにーしゃん!? ごめんにぇ? おこりゃにゃいでにぇ?」
「お、おぃーさんっ!? おぃついちぇにぇ!? りぇいむ おにぇーちゃん、びっくぃ
ぃちぇるよ!」
「あ、ああ……そっか、そうだな。大声を出しちゃ、駄目だよな」
「ご、ごめんにゃしゃい! まぃしゃ、あやまゆよ? だかりゃ、りぇーみゅ おにぇー
ちゃんを……」
一気に頭へと上がった血を沈めるため、何度か深呼吸をして、改めて母親まりさの方を
向く。自分でも、どうにも睨んでいるような目つきになっているだろうことは感じられた
が……どうしようもない。
なんとか声だけは穏やかに、落ち着いて話しかける。
「母親なら、こっちに来い。子供達を、安心させてやれ」
「お、おんなじなのぉ……同じなんですぅ……」
「あん?」
「あ、あの……あの、れいむとありすと……あの、野良二匹と、同じ顔なんですぅ……!」
「…………同じ?」
「ゆふんほぉおおおおおおおおおおおおおおっ!」
ヌルありすの様子を、改めて確認する。焦点が察せられない目は、今は横を向いている。
テーブルの上の、チビまりさかチビありすか、どちらかを見ているのだろう。全身からは
相変わらずダラダラと正体不明の液体を滲み出させ、口から漏れる鳴き声は奇妙に間延び
したものばかりだ。
未成熟なゆっくりを興奮させると、こうなるのか……それとも、母親まりさが言うよう
に、こいつの片親であるレイプ魔の“何か”を受け継いでいて、それが目覚めてしまった
のか……
どちらにせよ、このヌルありすが、母親まりさのトラウマを刺激したのだろう。
「まぁ……片手じゃ、何をするにも困るしな」
空いてる方の手で、チビありすとチビまりさをテーブルから下ろし、母親まりさの方へ
と向かわせる。そして、大人しくしているように言い含めて、自分は台所へと向かった。
忙しない。
かといって、モタモタしているとチビれいむは、すぐにでも死んでしまうだろうし……
……死?
そういえば、何度か「死なれるのは困る」「寝覚めが悪い」と考えていたか……俺の中
の、ゆっくりに対するイメージも、生物なのか饅頭なのか、どうにもハッキリしない。
都合の良いところを適当にチョイスして、生物・非生物と扱いを変えているような……
「今の場合は、“都合の悪い”って方が正しいか。まったく……」
もう一度、ゆっくりのデタラメさに賭けることとなりそうだ。どうか“意外とタフ”な
連中でありますように。
*** *** *** ***
気持ち悪い。
気持ち悪い……気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
元々あんなモノは、気持ち悪くて仕方のない存在だったのだ。それを、上手く誤魔化し
忘れたふりをしていた。していられたのに……
だいたいからして、生首なのだ。見た目は生首で、でも中身はお饅頭だという。デタラ
メだ。そんなものが、あるはずがない。いや、そういうお饅頭を作れば、あり得るのだろ
うけれど、だとしても動いたりはしない。ましてや、話したりするものか。
気持ち悪い。
夫が、その気持ち悪いモノを“飼う”などと言い出したときは、正気を疑った。だが理
知的な夫が相手では、軽々しく否定も出来なかった。言い合いになれば、自分が負けるこ
とは目に見えている。
それに、夫のことを疑いたくなかった。いや、何よりも信じていたのだ。愛いしている
だけではなく、心から尊敬もしている夫が、愚かな間違いをしでかすわけがないのだから。
だから、まずは夫の説明を聞くことにした。子供のためにも良いとか、ゆっくりは言わ
れているほど不気味ではないとか、他の生き物に比べて飼いやすいとか……良質なものを
選んで飼うことにするとか。
私の不安をしっかりと理解した上で、優しく教えてくれた。ゆっくりのことを、不気味
な生首だと、気持ち悪い何かだとだけ思い、偏見に満ちていた私に、丁寧にわかりやすく
説明してくれたのだ。
そして、夫はゆっくりの“愛らしさ”とやらを説明するために、インターネット上から
いろいろな写真を見せてくれた。
確かに様々な写真をよく見れば、生首と言っても人間のそれとは、かなり違っていた。
知らなかったのだ。それまではろくに、ゆっくりの顔など観察したことはなかったから。
気持ち悪かったから。
まず、目が大きい。人間と比べれば驚く程の大きさだ。顔に対してのその比率は大きす
ぎるほどで、「人形のような」どころではない。何かの冗談のような、写真のはずなのに、
マンガの絵に思えるほど、大きい。ぱっちりとして可愛いと、言えば言えるが……なにか
不安になる大きさだった。
口もまた、大きかった。閉じているときと開いているときの差が激しく、大きく開くと
顔の半分以上が口なのではないかと思えるほどだ。だが、目の大きさほどに不安感は憶え
なかった。むしろ滑稽味を感じた。口が大きい分だけ、目の大きさの不気味さも緩和され
ている気がしたのだ。
そして、鼻はあるのかないのかわからないほど、低い。それもまた、奇妙な愛らしさを
醸し出しているのだと言われれば、なんとなく理解できた。
顔全体の造作も下膨れで、頬の曲線は柔らかそうだった。
夫に説明されながら見ているうちに、“生首のような”という印象は、いつしか消えて
いた。
代わりに、妖怪か何か……それも、コミカルにリライトされた、マンガやアニメに出て
くるユニークなキャラクターに思えてきた。
そう思えるようになって、いくらか気持ち悪さは薄れた。
いや、忘れたふりをすることが出来た。
初めて、直接にゆっくりと会った時。
写真での印象よりも、ずっと小さかった。片手に乗るほどで、まだ子供なのだという。
たどたどしい口調やぎこちない仕草で、精一杯お利口に挨拶しているらしい“それ”を
見て、「マンガやアニメに出てくるユニークなキャラクター」という印象は、さらに強ま
った。
しかもこのキャラクターは、自分達に害をなさないどころか、自分達に気に入られよう
と媚びを売るのに必死なのだ。
フィクションから抜け出してきた存在が、そこにいると思うことはなかなかに愉快であ
り、しかも自分が圧倒的に優位な立場だという点も、また愉快だった。
聞き分けもよく、何より自分が要求する前に、そのキャラクターが聞いてくるのだ。
「なにをすればいいですか?」
「お手伝いできること、言ってください!」
相手に言われて、こちらから提示する。自分が無理に命じているのではないのだから、
心に負担はまるでかからない。
慣れてくれば、その艶やかな金髪も大きく潤みがちな瞳も、確かに愛らしく見えてくる。
黒く大きな、魔女が被るような帽子も、素直な気持ちで立派だ、似合っていると褒めてや
ることも出来た。
だが、あの瞬間。
あの時に庭で見た、あの光景。
生々しく、おぞましく、汚らしく、穢らわしいモノだった。全てが嫌だった。気持ちが
悪かった。
ぬらぬらと粘液に濡れ、埃塗れの、見たこともない二匹はもちろん、うぞうぞと蠢いて
いる、たくさんの小さな塊達も、そして──
まりさも。
フィクションのキャラクターだったはずのモノ達が、生々しい息づかいと汚らしい湿り
気を伴って、「生き物」であることを主張していた。
あってはならないことだ。
こんな生き物が居るわけがないのだから。こんなデタラメなモノが、生き物のわけがな
いのだから。
やはり、自分は正常なのだ。自分こそが正常なのだ。あんなモノは気色の悪い、不気味
なだけの存在なのだ。
まったくもって気持ち悪い。
「なんなんだ、いったい!!」
泣き疲れた息子を寝室に寝かしつけてきてリビングへ戻ると、夫が庭へ向けて叫び声を
上げたところだった。
そっと覗くと、リビングの窓の外──庭に、まりさが居た。出て行けと言ったのに、戻
ってきたのだろうか? チラッと見ただけでもわかるほどに汚れていたが……あの大きな
魔女の帽子は、まりさだ。
戻ってきたのなら、夫はしばらく、まりさに係り切りになるだろう。
夫は、あの気持ちの悪いモノを溺愛している。あの気色の悪いモノは、やはり妖怪か何
かの不気味なモノで、その悪い影響を受けて、夫は本来の理性も知性も曇らされているの
だ。
けれど何かあれば、その曇りも晴れる。あの聡明な夫が、いつまでも目を眩まされてい
るわけがないのだ。
あの気持ち悪いモノ達に関しては、多少は学んでいる。夫に勧められ、飼うからにはと
いう責任感もあり、なにより息子に悪影響がないようにという想いもあって。
そっとキッチンへ回り、手早く用意する。
使い捨てにしていい、プラスチック製のフォーク。
100%果汁の、オレンジジュース。
チューブ入りの、練り辛子。
何かあれば、夫はきっと目を覚ますのだ。
自分が、目を覚まさせてやらなくてはならないのだ。
*** *** *** ***
深めの金網笊を出し、キッチンペーパーを引いて、そこへヌルありすを放り込んでおい
た。蓋代わりに大きめの皿をかぶせ、さらにその上へ重しとして皿を2枚にどんぶり一つ
を乗っける。
あれなら、余程の衝撃でもない限り、ひっくり返ったり蓋が外れることもないだろうし、
キッチンペーパーを引いておけば、金網でヌルありすの皮が傷つくことも少ないだろう。
あのヌルありすに関しては、放っておいて興奮が冷めるのを待つしかない。
「れいむぅう! ごめんね! お母さんを許してね! お願いだから、ゆっくりしてね!」
「おにぇーちゃん! りぇーみゅ おにぇーちゃん! ゆっきゅぃしてにぇ!」
「ゆっくぃするのよ、りぇいむ おにぇえぃゃん! ゆっくぃぃちぇにぇ!」
部屋に戻ると、ゆっくり達が大騒ぎをしていた。無事な母子はテーブルの下から大声で
呼びかけ、テーブルの上ではチビれいむがビクビクと痙攣を繰り返している。
どうやら、ゆっくりってのは本当にタフなのかもしれない。
とにかく騒ぐなと、きつめの声で母親まりさ達に再度釘を刺し、チビれいむにそっと触
れる。
両手の指先を使って、慎重に、チビれいむの姿勢を仰向けに……口が上を向くように、
ひっくり返す。
吐き出した餡は、人間で言えば血なのだろうか。それとも、内臓……だとしたら、あま
り愉快ではない想像だが……どちらだろうと、中へ戻してどうにかなるものなのだろうか?
わからないことだらけだ。
「ゆ、ゆぶ……!」
「喋ろうとするな。ゆっくりと、そーっと息をするんだ」
「…………」
人間なら、とっくに救急車を呼んでいるところだろう。しかし、ゆっくりの場合は病院
へと連れて行っても、どうにかなるわけもないだろう。ペットだからと言って、獣医に診
せても、相手は饅頭もどきだ。ゆっくり専門の医者が居るのかどうかは、生憎と俺は知ら
ない。少なくとも、近所はもちろん俺の行動範囲では見かけたこともない。
「お、お兄さん……!」
「騒ぐな」
「ゆっ……!」
今の俺は、余程怖い顔をしているのだろう。下からこちらを見上げているゆっくりの母
子は、揃って怯えた表情を浮かべている。自分自身でも、顔の筋肉があちこち引きつって
いるのが感じられた。
祖父の顔が、思い起こされる。怒っている顔だ。よく怒鳴られたが、その記憶の中でも
飛びきりに怖い顔だ。
責任持てねぇくせして、手ぇ出すな。
命をオモチャにしていいほど、偉ぇ孫は持った憶えはねぇ。
お前みてぇのが、こいつらぁ殺すんだ。
猫を拾ったときだ。親と暮らしていたアパートでは飼えなくて、祖父の家に泣きついて、
そして叱られて……
付けっぱなしの、パソコンを見やる。
あの猫が生きている間、毎日学校帰りに祖父の家へと立ち寄った。初めて貰った小遣い
が、猫の餌代だった。俺が猫に餌を飼っていかない限り、何も食えずに飢えて死ぬのだと
脅されて……
子猫が育って成猫となり、年老いてふっつりと姿を消したときに、祖父は良く面倒を見
続けたと褒めてくれた。それでようやく、あの猫はきっと死んだのだと俺は理解したんだ。
命に手を出すというのは、そういうことだ。ペットを飼うってのは、そういうものだ。
饅頭が『命』かは微妙なところだけど……祖父の怖い顔がちらついてるんだから、無責
任なマネは避けるべきだろう。
「……他に、アテもねぇしなぁ」
パソコンモニターに映っている、開きっぱなしだったページに“文責”として表記され
ている名前をもう一度確認し、携帯を手に取る。
「間に合うかはわからんが……ここは一番、学者に頼るしかねぇな」
「ゆ……? が、がくしゃさん? それって、誰なの?」
「知り合いだよ。学者ってのは、あだ名……だったんだが、どうやら本当に学者になった
らしい」
東京特定生物研究所。耳慣れない名前だが、察するに“特定生物”ってのには、ゆっく
りも含まれるのだろう。
「だったら、大怪我したゆっくりを助ける方法も……ああ、ついでにあの帽子を綺麗にす
る方法も聞いた方が良いか」
「い、今は! まりさのお帽子よりも……!」
「わかってるから、でけぇ声を出すな」
「ゆあっ……! ご、ごめんなさい……!」
わかってるんだ、今は帽子どころじゃない。だが、どうにも些細なことが頭に思い浮か
ぶ。
あの、高校の頃から妙に細かいことを突き詰めて考えがちで、言うことやることが学者
然としていた後輩殿は、この面倒な状況をなんとかしてくれるだろうか?
『……先輩、ですか?』
無愛想な声。電話越しだが、すぐにそれと知れる、懐かしい声だ。
「そうだよ。番号登録くらいしてあるんだろ?」
『ええ。ですが……先輩から電話なんて、珍しいですから』
「困ってるんだ。慌ててもいる。大変なことになってる。助けてくれ、学者」
『はぁ……もう春だというのに、また雪でも降らせる気ですか?』
「あん?」
『先輩が、取り乱しているなんて、珍しい』
「……うるせぇ。いいから助けろ」
『なにがあったのか、まず説明してください』
たかが、ゆっくり。生き物かどうかもわからない、半生物の不思議饅頭。
それでも、ここしばらくは俺が責任を取らなくちゃならない。死なれるなんて、寝覚め
が悪いのだけは……やっぱり、勘弁願いたい。
*** *** *** ***
「はなせぇえ! はなすのぜ! まりささまに こんなことして、ただですむと おもって
るのぜ!?」
「煩い! 黙れ!」
なんなのだろう、いったい。
傍若無人な、おそらく野良のまりさを鷲掴みにして、廊下を足早に書斎へと向かう。
今日は、なんと最悪な休日だろう。
片付けたかった仕事は、後回しのままだ。妻は取り乱し、息子は泣いてしまった。可愛
がっていた、まりさが消えてしまった。おまけに穢らわしい野良が、三匹も家に入り込ん
できた。
そう、穢らわしい野良だ。
私の中から、すっかり野良に対する同情の念は消えていた。
こいつらのせいで、私のまりさは家を出て行ったのだ。あの賢いまりさは、それでも人
と共に暮らすための賢さしか持っていない。当てもなく街中を彷徨い、そこらの躾もなっ
ていない野良同然に落ちぶれるのか。
いや、その前に生きてはいけないだろう。
いっそ、誰かに捕まって保健所なりに……いや、それでも私の元へ帰ってくることは、
絶望的か。身元を示すバッジを、身につけていないのだから。
妻も、余計なところで気を回してくれたものだ。せめてバッジを付けたままだったら、
希望が持てたのに。管理不行き届きで咎められることになっても、構うものか。あの賢い
まりさが、それほど人に対して迷惑を掛けるわけがないのだ。多少の罰金や謝罪金など、
痛くも痒くもない。
だが、全てはもう遅い。妻にあたっても仕方ないだろう。彼女も、あの時はずいぶんと
取り乱していたのだから。
さんざんな目に遭わせてくれた野良共に、私は治療をしてやったり、保健所へ連絡する
ためにも捕まえておこうと、追いかけ回したり……
さらにはこの後も、勝手に死なないように様子を見たり餌をやったりしなければならな
いのだろう。
なんなのだ、いったい。
「じじぃいい! いいかげんに するのぜ! いますぐ はなすのぜ! かくごするのぜ?
まりささまを おこらせた いじょうは、“すぺしゃる せいさい こーす”で、ぎったぎた
なのぜ!」
喧しい野良を無視したまま、書斎のドアを開け──
「ゆぎやぁあああああああああああああああああああ! どっでどっでどっでぇえええ!」
「いだいぃいいいい! いだいいだいいだいいだいいだいいだい! なんなのごれぇえ!」
「なっ……!?」
「やかましいのぜ……なんなのぜ、いったい?」
それはこっちの台詞だ。なんなのだ、これは。なんなのだ、いったい。
ケージに入れておいたはずの、二匹の野良が、信じられないほどの勢いで書斎内を駆け
ずり回っている。
何を壊そうが、どのように散らかそうが、どこにぶつかろうが、自分の体が傷つこうが、
一切お構いなしで。
駆け回り、暴れ回り、体を打ち付け、涙涎糞尿を撒き散らし、物を壊し、本を散らかし
ている。
「くっ……! なんなんだ、いったいっ!!」
「のぜっ……? ゆぶべらあ!!」
「ゆびゃぁああああああああ!?」
「喧しい! 黙れ!!」
「「ゆぶばびゅぅううううっ! ぶっ! ぶがっ!」」
掴んでいた野良を、駆け回っている野良の一匹に叩き付け、さらにその衝撃で目を回し
痙攣している二匹を、まとめて思い切り蹴り飛ばす。
未だ駆け回っている残りの野良を踏みつけて止め、持ち上げて確認をする。
「いだいぃいいいい! あ゛り゛す゛の゛! あ゛り゛す゛の゛ と゛か゛い゛は゛な゛
お゛つ゛む゛が゛ い゛た゛い゛の゛ぉ゛お゛お゛お゛お゛」
「な……なにが、とかいはな おつむ なのぜ……そんな くずより、まりささまの ほうが
おおけが なのぜ!」
「ゆぐぁあああああっ! でいぶの! れ゛い゛む゛の゛ ちゃ゛ー゛み゛ん゛く゛な゛
お゛か゛お゛が゛ あ゛つ゛い゛い゛! こ゛れ゛ と゛っ゛て゛ぇ゛え゛え゛!」
「みみもとで どなるなっ! なにが ちゃーみんぐ なのぜ、この ぶさいく れいむ!」
掴み上げた黄色の野良からは、饐えた埃と腐った生ゴミのような臭いに混じって、柑橘
系の香りが強く放たれている。オレンジジュースの香りだ。だが私は、これほどまでに匂
うほど、オレンジジュースを投与してはいない。
それに後頭部は割れていて、その奥にくすんだ黄色いものが、微かに見て取れる。味見
をしてみる気にはならないが……症状を見れば、おそらくは和辛子だろう。
「……彼女が?」
妻が、やったとしか考えられない。他には誰もいないのだから。だが、何故ここまでの
ことをするのか。それほどまでに、ゆっくりが憎かったのだろうか。
それとも……いや、まさか。
だが……
惨憺たる有様となっているのは、私の書斎なのだ。私が愛した書籍が、私が好んだ映画
のDVDが、私が大切にしていたアルバムが、写真が、滅茶苦茶になっている。
「もしかして……私のことを……」
「じじい! ぼさっとしてないで、あまあまをもってくるのぜ! いしゃりょうなのぜ!」
「黙れ……」
「ただの たくさんじゃ しょうちしないのぜ! たくさんを たくさんなのぜ!」
「黙れっ!」
「「ゆぶばぁあああああ!」」
掴み上げ、症状を確認していた野良を、不遜な口の利き方ばかりの、出来損ないの野良
へとぶつける。
耳障りで不快感しか与えてこない悲鳴を上げて、二匹は吹っ飛び、転げ回った。
そうだ。やはり妻は、ゆっくりを憎んでいたのだ。
いや、違う。野良をこそ、憎んでいたのだ。
あの賢いまりさのことは、あんなにも可愛がっていたのだ。私と、息子と、一緒に睦ま
じく穏やかな……そう、ゆっくりとした毎日を、まりさも交えて送っていたのだから。
笑顔で。
何よりも私が愛した、あの笑顔で。何よりも私が好んだ、あの笑顔で。何よりも私が大
切にしていた、あの笑顔で。
だから、妻が私に対する悪意で、こんなマネをしたわけがない。まりさのことも、嫌っ
ていたとは考えられない。
野良だ。
野良が悪い。
こいつらが悪いのだ。
こいつらが現れなければ、妻が取り乱すこともなかった。息子が泣くこともなかった。
そして、賢いまりさが居なくなることもなかったのだ。
「野良のゆっくりに……世間はことのほか、冷たい」
「ゆべべ……この、くそじじい! なんてことをするのぜ! それに! まりささまは、
のら なんかじゃないのぜ!」
「野良ゆっくりが、人間の家へと入り込み問題を起こした段階で、どのように扱われよう
と、やむを得ないことなのだ」
「なんだか わからないけど、まりささまは のら なんかじゃないのぜ!」
「その名を……使うなぁあああ!」
「ゆびゅっ!? ゆぁ……! ゅぎゃぁあああああああ!!」
落ちていた、薄いハードカバー──幼い頃に母から贈られた、アメリカのコミカルな絵
本──を手に取って、手斧のように出来損ないの野良へ叩き付けた。
頭の真上に叩き降ろすつもりが、少し距離感を誤ったためか、本の端が野良の顔を抉る
ような軌跡で床にぶち当たる。
「ま゛、ま゛り゛さ゛さ゛ま゛の゛ こ゛う゛き゛な゛ お゛か゛お゛が゛ぁ゛あ゛!」
「……かえって、良い案配だったか」
「いだいぃいいいいいい! お゛か゛お゛が゛ い゛た゛い゛よ゛ぉ゛お゛お゛お゛!」
「黙れ」
同じ距離感をイメージし、本を振り上げ、振り下ろす。
「べびゅぅううううううう!?」
振り上げ、振り下ろす。
「ひぎゅばばばばばばばば!!」
振り上げ、振り下ろす。
「べびゅるるるるるるるる!!」
「野良が立てる音なんて、耳障りで不愉快なだけだな」
「ばっ、ばでぃざば……! ど……! の゛ら゛な゛ん゛か゛ずぶばばばばばばっ!!」
「黙れ、と……何度も言ったはずだ」
「ぶびゅ……! ぶひゅっ……! ふひゅは……!」
言葉を遮るように、本を振り上げ、振り下ろした。繰り返し、顔面を縦に削られた野良
は、口から奇っ怪な音を漏らして震えるだけになった。
唇は幾重にも割け、頬にも額にも幾条もの縦筋が刻まれ、目蓋もズタズタになっている。
だが、その濁った眼球は眼窩に収まったままだ。まだ視力は失われていないのか、私が本
を振り上げると、奇っ怪な音を高くして、震えもガタガタと大きくした。
本を放り捨て、ケースから飛び出したのか、剥き出しになって転がっているDVDを手
に取る。野良二匹がさんざん暴れ回ったためか、傷だらけだ。これでは、再生は覚束ない
だろう。
悲しさのあまり、溜め息が漏れる。この映画は劇場へも二度、足を運んだ。DVDを購
入して以来、妻と息子も一緒に、何度も見た。あの賢いまりさも、見るたびに歓声を上げ、
私達以上に心を揺さぶられ、大粒の涙を零していたものだ。
台無しにしてくれた野良二匹は、今は声もなく痙攣している。悲しみがすっと冷たい塊
となって沈み、ユラユラと熱の無い炎のようなものが、心の中に立ち上がる。
DVDを両手で掴み、力を込める。何度か曲げている打ちに、高いような鈍いような音
を立てて、二つに割れた。
「暢気に寝ているんじゃあない」
「ゆぎゃぁああああああっ!?」
「ゴミ以下の、害悪でしかない野良が、なにを人の家で暢気に……」
「あがっ! あでぃず! あ゛り゛す゛ し゛ん゛じゃ゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛!」
「死ぬ……? ゴミ以下の分際でか?」
「びぎゃぁあがぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
「お前もだ」
「ゆぎゅああああああ!? れ゛い゛む゛の゛! れ゛い゛む゛の゛ お゛か゛お゛が゛
わ゛れ゛ちゃ゛う゛う゛う゛う゛!?」
「ゴミ以下なのだから、当然“生きてなどいない”。ただ単に、動くことが出来るという
だけだ」
「びびゅぁあばぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
二つに割れたDVDの一片を、薄汚れた黄色い野良の、その後頭部で口を開けていた割
れ目に突き刺し、もう一片を、煤けて黒茶けた野良の、額に刻まれた裂け目へと突き立て
る。
狂ったように駆けずり回ることはしなかったが、びたびたと音を立てて跳ね回り、自ら
その傷口を開き、中身を撒き散らしていく。
ああ、部屋が汚く汚されていく。
だが、もう構うのもか。
こいつらが、さんざん荒らしたのだ。
出来ることなら、この部屋をこいつらごとコンクリか何かで埋め潰したい気分だ。
「ぼうっ! も゛う゛ い゛や゛ な゛の゛ぜ゛え゛え゛! ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛
お゛う゛ち゛ か゛え゛る゛の゛ぜ゛え゛え゛え゛!!」
顔面に縦筋を刻まれた野良が、何かを喚きながら小刻みに跳ね出した。フラフラと右へ
左へ振れながら、それでも書斎の出口へと向かっている。
ああ、顔に傷を負っただけなのだから、まだ逃げる力が残っているのかと、ボンヤリと
考えながら、後を追う。
先ほど追いかけた時のように、走る必要もない。大股で、数歩。それで追いつく。
「ゆぎゃぁあああ!? ばなぜ! ばなしでぇ! も゛う゛、ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛
お゛う゛ち゛に゛ か゛え゛る゛の゛ぜ゛え゛え゛え゛!!」
「野良に帰る場所など、あるものか」
「ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛、の゛ら゛な゛ん゛か゛じゃ゛……!」
「人に害をなして、ただで済むものか」
「ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛、し゛ら゛な゛い゛の゛ぜ゛!!」
「知る必要もない。期待もしていない」
「だ゛っ゛た゛ら゛、は゛な゛す゛の゛ぜ゛!」
「報いは受けてもらう」
顔を上げる。
扉の向こう……廊下から覗くようにして、最も愛した女性が、何よりも愛した笑顔を消
したまま、こちらを見ている。
「そうだろう? 薄汚い野良には、報いを受けてもらわなくては」
「あ……あ、あなた……」
「すぐに済む。君は嫌いなのだろうから、見ない方が良い。聞かなくても良い」
「あ、あの……わ、私、こんな……」
「なぁに、すぐに済むさ。しばらくの間……そうだな。一時間ほど、リビングでお茶でも
していてくれ」
野良を後ろへと放り投げて、ドアノブに手を掛ける。ゆっくりとドアを閉めながら……
「君の嫌いなものは、私が片付けておくから」
……微笑みかける。
だが、あの笑顔は見られなかった。
ドアが閉まる。
「やはり、綺麗に片付けなくてはならないか……」
「あ! ああ! あでぃずを……! どかいばな あでぃずを ゆるじでぇえええええ!」
「どぼじで……! どぼじで、がばいい でいぶが ごんな べに あうのぉおおおおお!」
「ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛、わ゛る゛く゛な゛い゛ん゛だ゛ぜ゛え゛え゛え゛え゛!」
「悪いさ。野良なのだから」
─ 先輩、デタラメなゆっくりと出会うのこと 了 ─
※久方ぶりのSSです。今度は現代イメージに挑戦。
現代社会に、ゆっくりが奇妙な新種として実在する世界……という感じです。
※設定に違和感を憶える場合もあるかと思いますが
「ああ、こういう世界なのね」と大らかな気持ちで見てくだされば幸いです。
※またも、虐分薄めというより、前置きが長いです。
※18禁かもしんないです。エロくないくせに。
ピュアな てぃーんねーじゃー にはピンと来ない箇所もあるかと思いますが
汚れた大人の戯言とスルーしてください。
「どうにも最近のは……何かというと、電マだねぇ」
気怠い休日、日差しも温かくなって来た昼前。
一人暮らしの気ままな生活。彼女がいるわけでもなし、野郎の友人宅へ押しかけるのも
面倒なだけだ。
なにより外出するほどの馬力も湧き出さなかったので、溜まっていた洗濯物を洗濯機へ
放り込み、その全自動な行程が終わるまでの時間を潰そうと、先日レンタルしてきたAV
を見始めた。
ちなみに、さんざん話題になったのに見ないままだった映画も併せて借りてきたのだが、
映画一本はちょっとした時間潰しに見るものでもないだろう。見るための気合いと気持ち
を盛り上げてからでなくては、名作を見終わった時の感動も、肩すかしを食らった時の憤
りも、中途半端で終わってしまう。
それはともかく、AVだ。もちろん、この略はアダルトビデオの方。モザイクも、薄消
しと表記してあったが、ちゃんとかけられている。清く正しいレンタル対象作品だ。
細身でプロポーションも良く、顔もなかなかで乳房も大きく形が良い、そんな女優さん
がイカされまくるという、割と好みの内容らしかったので借りてきたのだが……
プレイの進行は、昨今よく見かけますねといった感じの流れだ。いや、それはいい。流
行結構、定番万歳。それらが悪いわけではない。
男優が喋らないというのも良い。男優の台詞の代わりにか、場面転換やプレイが一段落
したときに、画面が暗転して一言だけ字幕が差し込まれるのは、好みが別れるところかも
しれない。まぁ、個人的には問題ない。
女優さんの声より男優の声ばかりが目立つと、自分としては萎えてしまうから。「お前
ばっか喋んなや」と思わず画面の男優にツッコミを入れてしまったこともあるくらいだ。
電マやバイブを使うのも、駄目とは言わない。それどころか、割と好みだ。だが、挿入
するバイブはともかく……電マって、振動するだけのものなんじゃないのか? 女性器は、
気持ちいいと感じる神経が表層部や入り口付近にも集中していると聞いたことがあるけど、
撫でたりするわけでもなく、振動だけであれほど気持ち良くなるものだろうか?
なるのだとしたら、全くもって女体の神秘。
少なくとも、オナホについてる振動ローターの効果がさっぱりわからない身としては、
電マの効果にも、つい懐疑的になってしまう。あ、でも、すっごい超振動だと、やはり違
うのか? そんな超振動は経験ないし。
というか、女体じゃないし、俺の体。
ともあれ、初めて見たときはインパクトもあって興奮したものだが、電マも今やすっか
りお馴染みのアイテムになったものだ。
そういえば、工事で使うロータリーハンマドリルの先端に、ハンマーでもドリルでもな
く、バイブを付けたもので女優さんを責めているのを見たことがあったけど……あれはイ
ンパクトと説得力の両方を兼ね備えていたな。
あれは凄かった。
でも、ちょっと迫力がありすぎて不安にもなったが。
俺も、模型や工作で使う小振りなハンディドリルを持っているが、改造して試してみる
気にはならない。
そもそも、試す相手がいない。
自分で試すなんて、冗談にもならない。
男優が自分の手で、あるいは電マやバイブ等の道具でと、その責めを激しくしていくと
女優さんが所謂“潮吹き”をする。これも、また結構なものだ。
まさしく女体の神秘。
合間合間に水分補給しているのだろうか? この女優さん、実によく潮を吹く。「これ
だけ大量だと、もうこれ、ただの小便でしょ」とか、そんな野暮なことも言わない。
お漏らし?
いいじゃない!
ただ、問題なのは……
「なに、それ? なんなの? 『この顔は色っぽいでしょう』とでも言いたいんですか?」
どうも先ほどから、女優さんのカメラ目線が気になるのだ。
しかも、上目遣いで。
シチュエーションが違ったら「それ、ただのガン付けだから」という目つきで。
せっかくの美人さんが台無しですよ。
時間潰しのための、いわば味見のようなつもりだったためナニは出してないが、もしも
レッツビギン体勢だったら、この目線一つで萎えるだろう。見ること自体をやめてしまう
くらいだ。
どうにも芝居臭くていけない。
「演技するなら、芝居ってバレちゃ駄目だろ。やっぱ、自然が一番だな」
「しぜん?」
「そう。嘘くさいのは、良くないね」
「嘘は良くないです! ゆっくり出来ないんだよ!」
「いや、ゆっくりするために見るものじゃないけどね、AVって。まぁ……抜いた後は、
ゆっくりというか、まったりというか。虚脱状態というか……」
「抜いたら、ゆっくり出来るんですか? なにを抜けばいいの?」
「さっきからお前、何を“ゆっくり”みたいなことをって言うか誰だぁああああっ!?」
「ゅわぁあああああっ!?」
「って……本当に、ゆっくりじゃねぇか!」
「ゆ……ゆっくりしていってね!?」
「「「「ゆっくぃしていっちぇね!」」」」
なんだかんだで、画面の女優さんに集中していたのか。
突然の問いかけに対しても、当たり前に返事をしてしまったが……俺は一人暮らしだ。
客も来てないのに、話しかけてくる者がいるわけもない。
真昼の心霊現象かと一瞬肝を冷やしたが、振り返ってみればそこには“ゆっくり”がい
た。大きいのが一匹。やたらと小さいのが四匹。
この生ける不思議饅頭は、いくら駆除をされても、その姿を消すことがない。
外見は下ぶくれの生首。その造りは、主に皮と餡で成り立つ饅頭そのもの。中身の餡は
その種類によって、小倉だカスタードだ生クリームだチョコだと色々あるらしい。そんな
ものが、なぜ動くのか……そもそも「生きている」と言っていいのかすら謎だが、メシを
食い、糞を垂れ、交尾して、子を為す。つまり、生き物として振る舞っている。挙げ句の
果てが、人語を解するときた。
発見されたときは、大騒ぎになった。新種発見で大いに盛り上がったことは、ゆっくり
以前にもあったそうだが、それとは比べものにならないほどだという。
まぁ、当然だろう。
繁殖の容易さや、その特異な性質、しかも人語を解するというのだから、それはもう、
様々な利用法が模索され、ペットとしての価値を計られと、ともかく一時期は大変な人気
だった。
だが、野生動物の習性パターンと現代人の思考パターンを混ぜ合わせて3で割り損ねた
ような行動様式を持つゆっくりは、有効活用や利用価値よりも、存在することでの問題点
の方が多く目立つことになった。
山から下りてくれば畑荒らしなどの問題を起こし、街へとやってくれば商店の営業妨害
や路地の不法占拠と問題を起こし、ペットにされれば捨てゆっくりを中心とする飼い主の
マナー系問題や、鳴き声を初めとする近所迷惑に器物破損と問題を起こし、食品にされて
さえモグリ業者による食中毒と問題を起こす。
愉快と不愉快の境界線上で、迷惑と問題を撒き散らかす謎存在だ。
「まぁ、人間の方に問題がある例もいくつかあるけど……」
「ゆゆ?」
そして、我が家へと突然に闖入してきたゆっくり共も、謎な存在だ。まぁ、湧くように
突然現れた段階で、十分すぎるほど奇妙なのだが。
まず大きいのは、黒く大きなとんがり帽子に、その下から金髪が覗いている。“まりさ
種”ってやつだ。
小さいのは……やたらと小さいので、少々判別が難しいが、一匹は同じ“まりさ種”の
ようだ。ならば親子かというと、残り三匹が別々で、二匹が短めの金髪にカチューシャと
いう“ありす種”。そして残る一匹が、黒髪に後頭部を飾る赤いリボンがトレードマーク
の“れいむ種”。
よほどの例外でもない限り、両親以外の種が産まれることはないという。
ならば、小さい方が三種類もいる段階で、親子とはちょっと考えにくい。
首を傾げている俺と向き合った状態で、ゆっくり達も、その生首のような体を傾ける。
こちらのマネをして、首を傾げているつもりなのだろうか?
バッジや名札など、飼われていることを示すものは見当たらないから、おそらくは野良
なんだろうが、たいして薄汚れてもいない。
その点も、奇妙だ。
手足のないゆっくりは、互いの頬を擦り合わせるか、舌によるグルーミングくらいしか
身嗜みを整える術がないらしい。水浴びもするそうだが、なにせ饅頭。長時間水に浸かる
と、その皮が水を含んで脆くなり、最後には溶けるように崩れてしまうとか。だとすれば、
しっかりと汚れが落ちるまで水に浸かり続けるなんて出来ないだろうし、ほとんどのゆっ
くりが本能的に水を怖がるとも聞いた。
さすがに接地面……人間で言えば足の裏に当たる部分は、いくらか汚れているようだが。
それでもパッと見た感じでは、土や埃に汚れているわけでもない。捨てられて間もない
のだろうか?
だとしたら、どうして大きい方のまりさは、やつれているのだろう?
一匹だけ大きなまりさは、酷くやつれて、目の下にクマが出来ているし、頬もこけて影
を入れたように黒ずんでいる。よほどに飢えて、栄養失調とでも言うべき状態のようだ。
だとしたら、野良生活が長いのか……それとも、飼い主が飼育放棄して餌もくれないか
ら、逃げてきたのか?
あれこれ考えながら、すぐ傍らにほったらかしてあった袋を手に取る。なんの変哲もな
い、ビニール製の買い物袋──近所のスーパーで買い物をした際に、一緒にもらえるもの
だ。かなりの容量が入り、十キロ入りの米を買ったときも、これに入れて持って帰ってき
たし。手に、紐状となった取っ手部分が食い込んで痛かったけど。
「なんで、いきなり……ゆっくりが俺んちに湧くんだ?」
「ゆ? まりさ達は湧いたんじゃゆぁあああああっ!?」
「「「「おか~しゃぁあああああああああん!?」」」」
最後まで聞かずに、大きなまりさを引っ掴んでビニール袋へ放り込む。その拍子に、袋
には収まりきらなかった大きなとんがり帽子が転げ落ちた。
「お、お帽子さんがぁあ!? ゆああ!? お兄さん! やめてね! がさーは駄目だよ!
袋さんはゆっくり出来ないです! やめてください!」
これまた無視して、ガサーッとまりさを完全に袋へと収めてしまい、取っ手部分を縛っ
てしまう。吊せる場所でもあれば、縛らずに引っかけておくのもいいが、生憎と手頃な場
所はない。
「……“お母さん”って言ったか? てことは、まさか親子なのか?」
「お兄さん!? まりさが悪いことをしたのなら、きちんと謝ります! だから出してね!」
「おかーしゃんに ひどいこと しゅゆにゃぁああ!」
「こんなの とかいは じゃないわっ! やみぇなさいっ!」
「おかあしゃんを いじめりゅと りぇいみゅ おこりゅよ!!」
「おかぁさんを いじめる いなかものな じじぃは しになさいっ!」
「駄目だよ、おチビちゃん達! お兄さんにそんなことを言う子は、悪い子だよ! 悪い
子は、ゆっくり出来なくなるよ!」
「ゆゆっ!? で、でもでも! おかあしゃんが……!」
「ありす、わるいこに なるの、いやよ……ゆっくりできないのも、いや……」
「あぃすだっちぇ……でも、おかあさんが……」
「まぃしゃ、おかーしゃんを たしゅけたいよぉ!」
また、首を傾げてしまう。
どうも、このゆっくり達、母と子ではあるらしい。血の繋がり……餡の繋がり? が、
有るのか無いのかは、ともかくとして。
そして、母親であるまりさは、ずいぶんと賢いようだ。それも、人間から見て、人間に
都合良く、賢い。
「やっぱり、元飼いゆっくりで……しかも、ブリーダーにきちんと育てられたってところ
か?」
ゆっくりを、ペット用に繁殖・飼育・調教する職業も、きちんとあるらしい。
ペットどころか、つい最近“盲導犬補助ゆっくり”なるものの教育に成功し、その第一
号がパートナーの盲導犬と共に、視覚障害者に引き取られたとニュースで言っていた。
近々、ゆっくりのみでも介助を行えるものが育ってくるかもしれない、と、ゆっくりが
好きらしいレポーターがニコニコしながら言っていたっけ。
「ゆゆ? ブリーダーのお父さんなら、まりさ知ってるよ?」
案の定の答えが、袋の中から聞こえてくる。ただビニール越しなので、モゴモゴごそご
そと、ちょっと聞き取りづらい。
「まりさのお母さんも、そのお母さんも、とってもお世話になって、いろんなことを教わ
ったんだよ。まりさも、たくさんのことを教えてもらったんです!」
「そして、まりさはブリーダーさんの所から、飼い主のところへと貰われていったってわ
けだ?」
「そうです! それでね! それで……それで、まりさは……まりさは……捨てられたん
だよ……まりさの可愛いおチビちゃん達と、一緒に……」
子供達の嘆きが、一度に高まる。少々聞き取りにくいが、お母さん泣かないで、お母さ
ん元気出して、お母さんごめんね自分のせいで、などと言っているようだ。
泣く子供達に袋の中から、おチビちゃん達のせいじゃない、笑って、ゆっくりして、と
母親が宥める。
また、首を傾げてしまった。
ゆっくりは、とにもかくにも自分勝手な存在だと聞いている。人間の醜い部分ばかりを
際だたせたような性格をしている、なんて評した者もいた。自分の窮地を忘れて、泣く子
をあやす親。親の苦難を、自らが生まれた故だと詫びる子供。
ちょっと綺麗すぎないか?
そうだ、思い出した。自分勝手の代表的な例として、“お家宣言”ってのがあったか。
人間の家へ上がり込んで、今日からここを自分の家にすると言い張るというものだ。
居直り強盗も呆れて言葉を失うであろう馬鹿げた宣言だが、ゆっくりにとってはごく当
たり前のことなのだという。
そのお家宣言も、コイツらはしてこなかった。そもそも、あまり派手に動き回ってもい
ないし、部屋の中を荒らされたわけでもない。
妙に大人しい連中だ。まぁ、親のまりさは衰弱しているだけなのかもしれないが……
「お母さんは大丈夫だよ。だから、おチビちゃん達はゆっくりしてね? それと、お兄さ
んを怒らせるようなことをしちゃ、駄目だよ?」
「でもぉ……でも、おかあしゃんは ゆっくりしてないよ?」
「おかーしゃん、きゅゆしきゅにゃいの?」
「大丈夫、お母さんは平気だよ。お母さん、強いんだから!」
『ぁひぃっ!!』
清らかな親子のやりとりを、湿り気を帯びた喘ぎ声が台無しにする。
ああ、AVが再生されっぱなしでしたね。女優さん、また派手に追い詰められ始めまし
たね。
とりあえず停止しようかとリモコンに手を伸ばしながら、なによりも奇妙であるはずの
問題点を再び口にしてみる。
「にしたって、なんでまた部屋の中へいきなり、ゆっくりが湧くんだ?」
「ゆゆゆ? まりさ達は、湧いたんじゃないよ? 大変なことが起きてるみたいだから、
怖かったけど助けに来たんだよ」
「……助けに?」
予想もしてなかった奇妙な返答に、リモコンへと伸ばしかけた手が止まる。
「女の人が、大変なことになってると思ったんだよ。まりさじゃ、どうにも出来ないかも
しれないけど、でも、放っておけなくて……」
「女の人が? 大変なこと?」
「だって、まりさも……まりさも……ゆわわぁああああんっ!!」
「……ああっ!!?」
はたと気が付いて慌てて立ち上がり、開けっ放しだった襖から隣の部屋へ駆け込む。
東京23区内の2DKと一人暮らしには過ぎた物件のこのアパート。だが、駅から遠く
て築年数もそれなりに過ぎており、さらには大通りに面していて車の音がうるさいからか、
家賃はちょっと頑張ればなんとかなる価格。
寝室として利用している隣の部屋には大きな窓があり、そこからごく小さな庭へと出ら
れ、洗濯機はその庭にしつらえてある。
「ああ……窓……全開のままだ……」
そういや洗濯をしようと庭へ出たときに、ついでに換気もしようとこの窓を開け放った
のだった。
「にも関わらず……大音量で、AVを……イキまくり女優の、大きな喘ぎ声が……」
一人暮らしが長かったための、油断というやつだろう。きっと誰だって、こういうミス
をやったことがあるんじゃないだろうか? あるに違いない。あると思いたい。
虚ろに、無為な思索に囚われていると、先ほどまでいた居間として使っている部屋から、
女優さんの声が大音量で響き始める。
「またイッちゃう」とのことだ。そうね。俺も、どこか遠くへ行ってしまいたいよ。
「もう駄目になっちゃう」とのことだ。そうね。ご近所さんの俺に対する評価は、もう
駄目かもしれないよ。
ノロノロと窓を閉め、他の戸締まりも確認し、居間へ戻ってAVを消して、ガックリと
座り込む。
体勢は、先ほどまでAVを味見視聴していたものと大差なく。ただ心情は、甚だ落差激
しく。
車の音に紛れていれば、大丈夫だろうか。少なくとも、俺の部屋が音源だと限定されな
ければ、なんとか……しかしこのアパート、ご家族持ちが多いのだ。独身男性は、確か俺
ともう一人くらいしかいないんじゃなかったか。
世知辛い都会には近所付き合いもほとんど無いのだから、ご近所の評判なんて気にする
ことはないだろう……と言えば、言える。だが、悪評なんてものは、無いに越したことは
ないのだ。
この近くで、妙な事件でも起こってみろ。
そして、あの部屋の住人は、女性を責め立てるようなAVを喜んで見る種類の人間だ、
と、警察やら報道やらに言われてみろ。
なんか、そんなこんなで見事な冤罪が出来上がった例が、過去にあった気がする。
「はぁ……」
「お、お兄さん? お兄さん! なんだか息苦しくなってきたよ! まりさのこと、そろ
そろゆっくり許してください!」
「おかあしゃんが しんじゃうよ! たしゅけてね!」
「あぃすも おにぇがいするわ! おにぇがいぃます!」
「おにーしゃん、おにぇがい!」
「おかぁさんを たすけてあげてね!」
また、溜め息をつく。
なんにせよ、済んだことだ。終わったことだ。過ぎた事柄をウダウダ考え込んでいても、
取り返しがつくわけでもない。
ノロノロと袋を持ち上げ、結び目をほどいていく。ほどいた取っ手部分を持ち、ぶら下
げたまま袋の中を覗き込むと、中のまりさと目があった。
「ゆゆっ! ありがとう、お兄さん! 苦しかったけど、これでゆっくりたくさん息が出
来るよ! このまま出してくれると、まりさとっても嬉しいです! それから、まりさの
お帽子さんは無事? あれは、まりさの大切なお帽子さんなんです! お願いしますから、
返してください! まりさのおチビちゃん達は悪いことしてないので、袋さんに入れない
であげてください! たくさんお願いしてごめんなさい!」
一気に捲し立ててきた。
この状況でも、そこそこ丁寧に「ですます」口調を使い続けてるあたり、よほどしっか
りとしたブリーダーから教育を受けたのだろうか。
少なくとも、安易に捨てるような飼い主が教育するとは思えない。最後まで責任を持て
ないなら、一切関わるなと厳しく教えられた身としては、ペットを捨てるという行為は許
せないのだ。
たとえ、ゆっくりと言えども、だ。
一度ペットとしたものを捨てるような人間は「ろくでなし」に違いない。見ず知らずの
相手だが、勝手にレッテル貼りをさせて貰う。
駄目飼い主の悪影響を受けなくて、良かったな。そういう意味でも、なかなか賢いヤツ
なのかもしれない。
ところで、饅頭と大差ない造りのゆっくりも、やっぱり呼吸の必要があるのか? と、
コイツらに聞いてもわからないだろうなぁ……
「おかーしゃん! おかーしゃんの おぼうししゃんは ここだよ!」
「ゆゆ!? どこなの、おチビちゃん!? お母さんは袋さんの中だから、見えないよ!」
ぼすっ! がさっ! と、二度ほど袋が鳴った。中のまりさが、跳ねようとしたらしい。
「とりあえず、大人しくしなさい」
「ゆっ! ゆっくり理解したよ、お兄さん! まりさ、大人しくします!」
やたらと聞き分けがいい。
「捨てられたって言ってたよな? 何があったんだ?」
「ゆ……? ど、どうしてお兄さんは、そのことを聞きたいの?」
「ん~……なんとなく、な」
捨てられたペット、ということなら、やはり保健所へ連絡だろうか。
これだけ賢いゆっくりだと、飼い主のことを何か憶えているかもしれない。だとすれば、
安易に捨てた飼い主にも、なんらかの法的な罰が与えられるべきだ。
捨てゆっくりが問題になって、都条例で何か制定されたはずだ。それでも、野良ゆっく
りは今もチラホラ見かけるんだが……あれ? 制定されたのって、鳩のように、餌を与え
ちゃ駄目ってだけだったか?
あるいは、引き取り手を探してやっても良いかもしれない。本当に賢い個体なら、飼い
たいという物好きも見つかるかもしれない。駅前のペットショップで、引き取り手探しの
仲介とかやってくれないだろうか? 頼んでみるのも良いな。
なんにせよ、こいつらをどうするか、今は俺が決めるしかないのだ。決めやすいように、
なんでも良いから情報が欲しい。
あと、どうせ暇だし。
「ゆう~……あんまりお話ししたくないけど、でも、ちゃんとお話しするよ……」
「聞こうじゃないか」
「お兄さん……」
「うん?」
「その前に出してください」
「ちゃんとお話し出来てからです」
「ゆっ! ゆっくり理解したよ!」
*** *** *** ***
まりさは、たくさんの姉妹と共に、この世へ生まれ落ちた。文字通り、親の頭から伸び
た茎から、産まれるときにポトリと落ちたのだ。
まりさの産まれた大きなお家は、「ブリーダーのお父さん」のお家だった。
そのお父さんに育ててもらったお母さん達から、まりさは赤ちゃんの頃からたくさんの
ことを教えられた。いや、未だ茎についたままの時から、語りかけられていた。
「人間さんの言うことを、ちゃんと守りなさい」
これが、教えられたことの中心であり、柱のようなものだった。
人間さんが、どれほど強いか。どれほど恐ろしいか。どれほど残酷か。どれほど賢いか。
そして、どれほど優しいか。どれほど、ゆっくりをゆっくりさせてくれるか。
人間さんの言うことをきちんと聞いていれば、ゆっくりは狩りをしなくてもゴハンを食
べさせてもらえる。寒い冬に凍えることなく、暑い夏に苦しむことなく、いつも快適に過
ごせる。ぺ~ろぺ~ろよりもずっと上手に、綺麗にしてもらえる。温かい寝床を用意して
もらえる。たくさんたくさん、遊んでもらえる。
ずっと、赤ちゃんのままでいられるのと同じだと言われた。それが、ゆっくりにとって
どれほど素晴らしいことか。どれほどゆっくりしていることか。まりさにも、よく理解で
きた。
まりさの二人のお母さんも、まりさ種だった。姉妹全員が、まりさ種だった。二人の母
は、ゆっくりと、優しく、自分達のこれまでの生活を、ゆっくりした毎日を話して聞かせ
てくれた。
同じくまりさ種のお祖母ちゃん達も、話してくれた。まりさにはお祖母ちゃんがいたの
だ。それも、四人とも。これが、どれほど珍しいことかも聞かせてもらった。世の中には
危険がいっぱいで、その危険達は容易く、ゆっくりを殺す。
人間さんは、その危険からも守ってくれるのだという。
ブリーダーのお父さんも、優しくいろんなことを教えてくれた。お行儀良くすることと
は、どういうことかを。人間さんに嫌われないための、お話の仕方を。世の中にある、危
険なことの一つ一つを。
まりさ達がきちんと理解できるまで、何度も何度も話してくれた。
そして、いつかみんなとお別れの日が来ることも。
まりさのことを大事にしてくれる人が、いつか現れて、その人に連れられて、まりさの
ゆっくりプレイスへ行くことを。
そのゆっくりプレイスは、まりさだけのものじゃなくて、まりさを大事にしてくれる人
達と一緒にゆっくりする、ゆっくりプレイスなのだと言うことも。
たくさんのことを教えてもらい、まりさから赤ちゃん言葉が抜けた頃。
まだまだ体は小さいし、早く喋ることも出来ないが、ゆっくりとなら上手にお話が出来
るようになった頃。
まりさのことを大事にしてくれるという、お兄さんがやってきた。
お母さん達やお祖母ちゃん達や、姉妹達、そしてブリーダーのお父さんとお別れするこ
とが悲しくて仕方なかった。それでも、まりさはきちんとお別れをして、お兄さんと一緒
に、お兄さんの家へ行くことにした。
お兄さんが「これからは、お兄さんの家で一緒にゆっくりしていってね」と優しく笑っ
てくれたからだ。
お兄さんの家で、まりさは本当にゆっくり出来たと思う。
広いお庭のある、立派なお家だった。
お兄さんには奥さんがいて、子供もいた。まりさは、奥さんのことを「お姉さん」と呼
び、お兄さんとお姉さんの子供のことは「坊ちゃん」と呼んだ。
言いつけをきちんと守り、坊ちゃんと一緒に遊んでいるだけで、まりさは美味しいゴハ
ンが食べられ、温かいお布団で眠ることが出来た。まりさのための、小さなお家まで用意
してもらえた。
お庭にある草さんが、まりさの柔らかい足にはチクチクと刺さるような気がして、小さ
なまりさは、お庭で遊ぶのは好きじゃなかった。その短くチクチクする草さんは、“芝生”
ということを、まりさは後で教えてもらった。
お家の中が柔らかで気持ちいいのは、“カーペット”があるからだとも教えてもらった。
まりさの足が丈夫になってきて、芝生にも慣れた頃。
坊ちゃんとお庭で、思う存分遊べるようになった頃。
「ゆっふっふっふ♪ ここは、なかなか とかいはな おうちね!」
「ゆゆ~んっ! きめたよ、ありす! ここを、れいむたちの ゆっくりプレイスにするよ!」
「いい かんがえだわ、れいむ! きょうから ここが、ありすたちの ゆっくりプレイスよ!」
れいむと、ありす。薄汚い格好のその二人が、人間さんに嫌われる野良だということは
すぐにわかった。二人が平然と、人間さんを怒らせる“お家宣言”をしたことに、まりさ
は恐怖さえ憶えた。
一緒に遊んでいた坊ちゃんに逃げるように言って、まりさは二人の前に立ちはだかった。
坊ちゃんはまだ子供で、あまり早く走れない。一緒に駆けっこをすると、まりさの方が
早いくらいだ。しかも時々、転んでしまうことも多い。
今はまりさが、坊ちゃんを守らなくてはいけないと思った。坊ちゃんのことをお願いね、
と、お姉さんに言われていたから。それに人間さんもゆっくり達と同じで、子供の頃はと
ても弱くて、みんなで守ってあげなくてはいけないから。
「ゆふへへへぇ♪ れいむたちをみて、ぐずなにんげんの こどもが にげていったよ!」
「とうぜんだわ! ありすたちにくらべたら、にんげんなんて いなかものなんだから!」
何も理解してない二人が勝ち誇りながら、まりさに近づいてくる。まりさにも、さっさ
と出て行けと言って。ここは自分達のゆっくりプレイスだから、邪魔なヤツは出て行けと。
違う。
ここは、お兄さんとお姉さんと坊ちゃんの、大切な大切なお家なのだ。ここは、人間さ
ん達のゆっくりプレイスなのだ。お兄さんは、それはそれはたくさん頑張って、このお家
を手に入れたのだ。そこへ、まりさも迎え入れてくれた。ここは、まりさのゆっくりプレ
イスでもあると、お兄さん達は言ってくれたのだ。
そう言っても、二人は笑うだけだった。きっと二人には、大事なことを教えてくれる人
が居なかったに違いない。そう思うと、二人が可哀想にさえ思えた。
でも、そんな同情もすぐに吹き飛ぶ。
二人は何も理解しないまま、お兄さん達を嘲笑ったのだ。
愚図な人間がどうしたなんて関係ない。この場所はもう自分達のものだ。自分達は、簡
単にここを手に入れた。人間なんかよりずっと強いのだ。
そう言って、二人はお兄さん達とまりさを嘲笑ったのだ。
何もわかっていない。
「なんにも知らない野良ゆっくりは、さっさと出て行ってね! 人間さんが本気で怒ると、
ゆっくりなんてあっという間に殺されるんだよ!」
「とかいはな ありすに、しつれいなことをいわないでね!」
「ばかなにんげんなんか、れいむにかかれば いちころだよ!」
「馬鹿はれいむだよ! ありすも馬鹿だよ!」
「れ゛い゛む゛は゛! ば゛か゛じ゛ゃ゛な゛い゛ぃ゛い゛い゛い゛!」
「あ゛り゛す゛は゛! と゛か゛い゛は゛よ゛ぉ゛お゛お゛お゛お゛!」
「じゃあ、どうして、こんなに大きなお家が建てられるの!?」
「ゆ、ゆゆ!?」
「道路さんを走る車さんは、どこで作るの!? その道路さんは、どうしてあんなに硬く
て平らなの!? “お金”と“お店”と“働く”って、どういうことかわかるの!?」
「「ゆ? ゆ、ゆゆゆ!?」」
知っているわけがない。
そのどれもが、まりさもお兄さんのところへ来てから、坊ちゃんと一緒にお勉強したこ
となのだ。
「こんなに綺麗に刈り揃えられた草さんのこと、知ってるの? 名前は、なんて言うの?
どうやって、こんなに綺麗に揃うの?」
「く、くささんは かってにはえて……」
「勝手に生えて、こんな綺麗に揃うわけないでしょう? 刈り揃えたって言ったでしょう?
刈り揃えるって言葉の意味も知らないの?」
馬鹿なの? 死ぬの? と、続けそうになった。でも、さすがにその言葉だけはきちん
と呑みこむ。これは、言っちゃいけない言葉。お母さん達も、お祖母ちゃん達も、お父さ
んも教えてくれたこと。
「ばかは まりさのほうだよ!!」
「ばかな まりさは ゆっくりしないで さっさとしんでね!!」
「ゆぎゃっ!?」
いきなり二人が、まりさに襲いかかってきた。二人の体当たりに、まりさの体は吹き飛
ばされ、息が詰まり目が回った。
「ゆふ~っ、ゆふ~っ、ゆふ~っ……このまりさ、ばかで しつれいだけど、よくみれば
なかなか みりょくてきね」
「ゆへ~っ……ゆへ~っ……ありす、わるいくせが でてきたみたいだね」
「ゆふふふふ、れいむだって きらいじゃないんでしょう?」
「ゆへへへ、れいむは ありすとちがって、てーそーかんねんが ゆっくりしっかりしてる
から、ありすが いっしょにしましょうって さそわないと、だめだよ」
「そうやって、ありすだけが わるいみたいにいうのね。うふふ、わるい れいむ」
「れいむのこと、ゆっくりできないと おもう?」
「いいえ、とてもゆっくりできるわ。だから……おねがいよ、れいむ。いっしょに……」
「ゆふへふへ……うん、いっしょに……」
「「すっきりしましょう」」
すっきりが何を意味するのかは、まりさも知っていた。だから、今のうちだと思った。
二人がすっきりに夢中になっている間に、自分も逃げてお姉さんを呼んでこよう。お兄さ
んは今、お仕事に出かけていていないけど、お姉さんはいる。もしかしたら、もう坊ちゃ
んが呼んできてくれてるかもしれない。
ともかく、今のうちだ。そう思った。
「んほぉおおおおおおおっ! まりさったら、おはだが もちもちで すべすべねぇええ!」
「ゆぇええええっ!? なんで、まりさなのぉおおお!?」
「ずるいよ、ありすぅう! れいむもぉお! れいむも、まりさで……ゆふぅうううん!」
「ゆぎゃぁああああっ!? やめてぇええええええっ!? まりさ、“すっきり”なんて
したくないよぉおお!」
二人がまりさに、のし掛かるようにして体を擦りつけてきた。長年の野良暮らしのせい
か酷く臭い。早くも分泌され始めたヌメヌメとした気持ちの悪い粘液が、余計にその臭さ
を酷くする。
「ゆげぇええええっ! ゆげっ! ゆげぇえええ! 気持ち悪いよぉおおお!!」
「かわいぃいいいっ! まりさ、ばーじんだったんだねぇえええ! だいじょうぶだよ!
ゆっくり きもちよくして あげるからねぇえええ!」
「んほぉおおおおおおお! わたしたちの とかいはな てくにっくで てんごくへ つれて
いってあげるわぁああ!」
地獄としか思えない状況なのに、それでもまりさの中で何かが熱くなり、まりさの意志
を無視したまま「すっきり」へと向かって高まり続けた。
嫌だった。
死んでしまいたいほどに、嫌だった。
お兄さんが、そろそろまりさにもパートナーが必要かなと言ってくれた。つい、昨日の
ことだ。生涯の伴侶を得て、家庭を築き、子供を作る。そうしても良い頃だろうと、言っ
てくれたのだ。そのために、ブリーダーのお父さんに相談したり、たくさんのブリーダー
さん達にお見合いのことをお願いしたり、なにより、子供を育てることを勉強しなくては
ならないと。
なんて素晴らしいことだろう。
もうじき始まる、これまで知らなかった新しいことに、まりさは胸を高鳴らせていた。
お見合いというもので、どんな素敵なゆっくりと巡り会えるだろうかと、そう考えるだけ
で頬が熱くなった。子供達も幸せになれるように、たくさん勉強しよう。お母さん達やお
祖母ちゃん達のようになるために、たくさん勉強しようと。
なのに最悪の形で、地獄のような状況で、まりさは初すっきりをしてしまいそうだ。
「嫌ぁあああっ! 嫌だよぉおお! こんなのいやぁああ! 助けてぇええええ!」
「まりさぁあああ! こわくないからねぇえ! こわくないの、それが きもちいいって
ことだよ! きもち、い、ゆふぅううんっ! れいむも きもちいぃいいよぉおお!」
「はじめての ぜっちょうにとまどう まりさ、かわいいわぁああああああっ! ほらぁ!
ほらぁ、どうなのぉおお! んほぉお! んほぉおおおお! いいでしょぉ、まりさぁ!
いっちゃうわよぉおおお!」
「ありすぅううう! れいむもぉおお! れいむも いっちゃいそうだよぉおおお!」
「いいわよぉおおおおおお! いっしょに いきましょう、れいむぅうううう!」
「いやぁああああああああああああっ!!!」
「「すっきりぃいいいいっ!!!!」」
ありすとれいむが高らかと、それでもどこか濁った声を上げる。それに、掠れて途切れ
途切れなまりさの「すっきり」の声は、完全に掻き消された。
それでも、すっきりしてしまった。無理矢理、させられてしまった。
乱暴に二人から擦られたために、帽子は脱げ落ちてしまい、強引なすっきりで体力も尽
きかけていて、力が出ない。
ぐったりと横たわったままのまりさを見て、ありすがまた息を荒くし始めた。
「はぁっはぁっはぁっ! いいわぁあ! ぐったりした まりさってば、そそるわぁああ!
んほぉおおお! ありす、また したくなってきちゃったわぁああああああ!」
「ゆあっ! まって、ありす!」
「おあずけなのぉおおお!? おあずけなんて、とかいはじゃないわぁあああ!!!」
「だって、まりさに もう あかちゃんが できてるんだよ!」
「ゆゆゆ!!? あかちゃんですって!? こんなに はやく!?」
信じられないという感じで、れいむとありすが目を剥いてこちらを見つめている。
まりさも、信じられなかった。
まりさ自身には、よく見えない。それでも、はっきりと感じることが出来た。自分の頭
……額の少し上から、力強すぎるほど力強く、数本の茎が伸びていくことを。そこに小さ
な命が、いくつも宿っていくことを。そして自分の体力が、命そのものが、その茎へと、
小さな命達へと吸い取られていくことを。
それと同時に、強烈な感情が湧き上がってくる。
無理矢理すっきりをされた衝撃も、命を吸い取られていく恐ろしい感覚も、その強烈な
感情によって遠くへと押しやられていく。
子供達を、自分に宿った新しい命を、なんとしても守らなくてはならない。
苦痛と疲労に支配された体は、ひたすらにゆっくりとした休息を求めていたが、赤ちゃ
んを守るため、無理矢理に力を入れる。
「ゆゆ! あかちゃんたち、どんどん おおきくなっていくよ! すごいすごい!」
「なんてこと! これじゃあ まるで、れいぱーに おそわれたみたいじゃないの!」
「そうなの?」
「しらないの、れいむ? れいぱーに おそわれたときは、あかちゃんが おおいそぎで
おおきくなるのよ」
「ゆあ? じゃあ、これはゆっくりしてない あかちゃんなの? それに、まるで れいむ
とありすが、れいぱーみたいだね?」
「そうよ! そのことなの! まったく、しつれいな まりさだわ! あんなに あいして
あげて、あんなに よろこばせてあげたのに!」
まりさは“れいぱー”とは何かを、どういうことかを、知らなかった。知らないことが
あると、どうしても気になってゆっくり出来ないのだが、今はそれに拘っている場合では
ない。
ありすの「喜ばせてあげた」という言い草に怒りを覚えたが、それも今は噛み殺してお
く。
今はただ、自分の中で大きくなり続ける「赤ちゃんを守らなくては」という思いに従い、
懸命に体を動かすべきなのだ。無理矢理のすっきりで力を失い、今まさに命を吸い取られ
ている最中の体は、思うようには動かなかった。跳ねること一つ出来ない。それでもゆっ
くりと、ズリズリ這いながら、れいむとありすの二人から距離を取ろうとした。
「まったく! この とかいはな ありすを れいぱーあつかいだなんて、ほんとうに しつ
れいな まりさだわ!!」
「ゆべっ!!」
「そうだよ! ありすはともかく、れいむは れいぱーなんかじゃないんだからね!」
「ゆぎゃっ!!」
「ありすだって れいぱーじゃないわよぉおお!!」
「ゆぎぃい!!」
「ことばのあやって いうんだよ! ゆっくり りかいしてね!」
「ゆがぁあ!!」
「れいむったら、ほんとうに いじわるなんだから!」
「ゆびぃい!!」
なんとか体を起こし這いずっていたまりさは、ありすとれいむの体当たりで再び転がっ
てしまった。頭の茎を痛めないよう、とっさに体を捻り、横向きに倒れたまりさへ、二人
はさらに何度も何度も体をぶつけてくる。
その衝撃のためか、まりさの頭の茎から、ぽとぽとと小さな小さな……あまりに小さく
脆い命達が、地に落ち始めた。
まりさが横になっていたために、たいした高さもなかったことが幸いしたのか、未成熟
な赤ちゃん達は柔らかな敷物が無かったにもかかわらず、衝撃で大きな傷を負うようなこ
とはなかったようだ。
「あ、赤ちゃん……!」
「ゆぴぃ……! いっ……! いひゃぁっ……! ゆぁあ……!」
それでも、短く刈り揃えられた芝生が、柔な赤ちゃんの肌には刺さるような痛みを与え
るのだろう。いや、実際に刺さっているのかもしれない。“最初のご挨拶”など出来るは
ずもなく、ただただ痛みに震えている。
「ゆ、ゆっくりしてね! 赤ちゃん達、ゆっくり我慢してね? 今、お母さんが助けるか
らね!」
だが、どうすればいいだろうか? 今の自分には体力がない。助けを呼ぶか? 助けが
来るまで、赤ちゃん達は耐えられるだろうか?
そうだ、お帽子! お帽子さんの上に、赤ちゃん達を避難させよう!
まりさは、赤ちゃん達に気を取られて、れいむとありすのことをすっかり忘れていた。
だからその二人が、まりさの目の前にいる赤ちゃん達を挟み込むようにして立ったとき、
恐怖で全身に鳥肌が立った。
「れいむ、しってるよ! ゆっくりのなかでも まりさな こは、しょうらい“げす”に
なっちゃうんだよ!」
「それじゃあ よのため ゆっくりのため、いまのうちに たいじしちゃいましょうか!」
*** *** *** ***
「……食ったのか? その、二匹が?」
「はい……まりさの赤ちゃんを……まりさと同じ姿の、赤ちゃんを……二人も……」
「ゆぁあ……! ゆぇ……ゆぇえええんっ!! こぁかったよぉ!」
「なかないで、まりさ! だいじょぶだよ! みんな いるよ!」
「げんぃだぃちぇ、まぃさ! ほら、あぃす おにぇーちゃんが。す~ぃす~ぃ ぃちぇあ
げるから!」
「ないちゃ だめよ! ないたりゃ、おかあしゃんまで かなしくなりゅのよ!」
その時の恐怖を思い出したのか、小さなまりさがわんわんと泣き出した。他のチビ達も
もらい泣きの涙を浮かべてはいるが、なんとか宥めようと声をかけたり体をすり寄せたり
している。
ちなみに、今は大きなまりさも床に降ろしている。長い話を聞いているうちに、腕が疲
れたからだ。降ろされても、まりさは大人しくしたまま話し続けた。なので、今の格好は
床に据えられた生首に、ビニールの襟巻きを顎にまで巻いたような……ただでさえ珍妙な
外見のゆっくりが、ますます滑稽な状態になっている。
「それにしても……」
「……ゆ?」
ゆっくりって、鳥肌が立つのか?
いや、それはどうでもいいか? 大きなまりさが、これまでの学習で知った表現だとい
うだけなのかもしれないし。
そういや、「はい」って返事したよな。どれだけお利口さんなんだ、このまりさ。
いや、これもどうでもいいか? このまりさが、俺の知っている情報や町中で見かける
野良ゆっくり共とは比べものにならないほど賢く、教育が行き届いているのは、先ほどか
ら何度も見てきているし。
「お前達ゆっくりも、同族を殺したり……ましてや食ったりってのは、嫌なことで悪いこ
とだって思ってるんじゃないのか?」
「もちろんだよ! そんなの、悪いことだって知ってます! それに、気持ち悪いんだよ!
で、でも……あの二人は……!」
食ったのだという。美味しいと言って。久々の甘々だから、ゆっくり時間をかけて味わ
おうと言って。「しあわせ~」とまで言って。れいむとありすが、一匹ずつ、産まれたば
かりの小さな小さなまりさを。
ゆっくりは、甘味を好むらしい。そして産まれたてのゆっくりは、全てが柔らかく美味
なのだという。皮や餡が柔らかいというのもそうだが、甘みもトゲがなくまろやかで、柔
らかいと表現するのが一番ぴったりとくる味わいなのだとか。
まぁ、俺は食ったこと無いし、さして食いたいとも思わないけど。
「てことは、元々は六匹姉妹の赤ちゃんだったのか」
「ゆ? お兄さん、違うよ? まりさの赤ちゃんは、最初は27人いたんだよ」
「多いなっ!?」
聞いてみると、ありす種が14で最多、れいむ種が次いで10、そしてまりさ種が3だ
ったらしい。
数もきっちり数えられるのか。ゆっくりって3までしか数えられないって聞いたことが
あるんだけど。このまりさは、いくつまで数えられるんだろう?
いや、それはともかく、だ。
圧倒的に、ありす種とれいむ種が多い。確か、レイパーに襲われた時の出産では、極端
に早熟な点も特徴だが、レイパー側の種が多くなるのも特徴だとか。
早産の理由は、おそらく種の保存に関する本能的なメカニズムなのだろうという意見を
聞いた。襲った側が多くなることに関しては、レイパーになるほど自己の子孫を望んでい
るから、それだけ遺伝子的なものに力があるためだろうとか……
まぁ、どちらも推測らしい。当然だろう。なんで動くかもわからない、饅頭と生き物の
中間が相手なんだから。
それにしたって、多いだろう。ゆっくりの平均出産数なんて知らないし、ましてやレイ
パーに襲われたときの出産増加数など知りはしないが。
さらに、いくらなんでも早産すぎるんじゃないのか?
交尾が終わって、即座に赤ん坊が出来て、すぐさま誕生……このチビ達がやたらと小さ
いのは、未熟児のためだろうか? それにしたって、この世にそんなスピードで次世代を
産み落とす生命は存在しないんじゃないだろうか?
ああ、生命かどうかは未だ不明瞭なんだっけか、ゆっくりは。
「どっちにしたって、立派なレイプ魔だよな、そいつら」
「ゆ? れいぷまって、なんですか、お兄さん?」
「あ~……うん。気が向いたら、後で教えてやる。あんまり良くないことだ」
「良くないこと……! それじゃあ、ちゃんとお勉強しなくちゃ駄目だね!」
「ああ、うん、そうね。それより、だ」
「ゆゆ?」
ありす種とれいむ種が極端に減っている点が気になる。実に12匹と9匹、合わせれば
21匹も減っているのだ。
最後のまりさ種を守っている間に、レイプ魔のありすとれいむが食い殺してしまったの
だろうか?
「他の子達は……ほ、他の子達はね……」
「ゆ、ゆぇ……ゆぇえ……」
「「「「ゅゆわわぁあああああんっ!!!」」」」
今度は、赤ん坊四匹が揃って泣き始めた。小さいとはいえ、なかなかに、うるさい。
「お姉さんに、殺されちゃったんです……」
「……はぁ?」
「まりさ、お姉さんが来たとき……助かったって思ったのに……だけど、お姉さんが……」
駆けつけたその家の奥さんは、持ってきた箒で、まりさを襲ったれいむとありすを殴り
飛ばし、さらに何度も何度も叩いたのだという。
気持ち悪い、気持ち悪いと繰り返しながら。
まりさとしては当然、自分を助けに来てくれたと思ったのだろう。これで助かったと思
うのも、当たり前のことだ。
レイプ魔に食われないようにと、自分の側へ引き寄せていた赤ちゃんまりさと頬擦りを
しながら、もう大丈夫だと安堵の涙を流したという。
だが“お姉さん”は、まりさの側へ戻ってくると、小さな赤ちゃん達を箒で叩き潰し始
めたそうだ。逃げようと身悶える赤ちゃんを確実に、しかし決して踏みつぶさず、直接触
れることなく、箒を使って。何度も何度も叩いて潰した。
気持ち悪い、気持ち悪いと繰り返しながら。
半狂乱と言って良い状態だったのだろう。だが、まりさには、そこまでわからなかった
ようだ。やめてくれと、ただ叫んだという。自分が守るべき大切な赤ちゃんだから、どう
か殺さないでくれと、大きな声で請い願ったのだと。
「でも、まりさの方を向いたお姉さんは……と、とっても……あの……」
「……怖かったか?」
「ゆっ……!」
「おっかなくて、気持ち悪くて、不気味な表情をしていたんだろう?」
「ゆあっ!? そ、そんな……そんなこと、まりさは……」
「思ったわけだ」
「ゆ……ゆぅ~……」
「お前、もしかして『人間のことを悪く言っちゃいけない』って、教えられたのか?」
「だ、だって、人間さんを怒らせたら……」
「まぁ、正しいけどな、その教えは」
「ゆゆ! そうだよね! お父さんも、お母さん達もお祖母ちゃん達も、まりさに良いこ
とをたくさん教えてくれたんだよ! だからまりさも、まりさのおチビちゃん達にたくさ
ん良いことを教えてあげたいんです!」
「わかったわかった」
その“おチビちゃん達”は泣き疲れたのか、いつの間にか寄り集まって眠ってしまった
ようだ。まぁ、静かになったお陰で、まりさの話も聞きやすくなった。
まりさに話の続きを促すと、ゆっくりと言葉を選びながら話し始める。つらそうな表情
で。
全身生首、前面全てこれ顔面なだけあって、表情が見事に出るなぁ。
まりさは、そのお姉さんから「それなら出て行け」と言われたらしい。気持ち悪いから
出て行けと。
自分は、汚い野良の二人に無理矢理な“すっきり”をされたために、粘液で、泥や埃で、
汚くなっていたと思うから、お姉さんが「気持ち悪い」と思ったのも無理はない。
まりさは、そう思って納得したのだという。
「気持ち悪い」という言葉が、はたして汚れだけのせいなのか……俺としては、大いに
疑問が残るところだが、とりあえず黙っておいた。
お姉さんは、まりさが被り直した帽子から、バッジを引きちぎるようにして取ると、庭
の出口を指さして、もう一度「出て行きなさい」と繰り返した。
まりさは言われるままに生き残った赤ちゃんを帽子に乗せて、弱り切った体を引き摺り
ながら“お家”を後にしたのだそうだ。
「バッジか」
「ゆ……まりさの、大切な宝物だったんだよ」
「ふ~ん……ああ、ここか」
すぐそこに転がっていた帽子を手に取り、仔細に眺め回すと、ごくごく小さな、破れ目
が見つかった。
「あのバッジ、まりさがブリーダーのお父さんに貰った物なの……」
「……そうか」
帽子を、まりさの頭に被せてやる。嬉しそうに笑いながら、礼を言ってきた。礼は良い
からと、話の先を促す。
ずいぶんと長いこと話を聞いている気がするが、なんとまだ家を追い出されたところま
でだ。これから、俺の家へと辿り着くまでに、いったいどれだけの時間がかかるのか。
その後、赤ちゃん達が少しでもゆっくり出来る場所を探したらしい。
硬い道路ではゆっくり出来ないので、せめてどこかに土が剥き出しのところはないか。
慣れないことだが、なんとか臭いを探って、土がある場所を見つけた。そこでは、ゆっ
くり出来ない音を立てて洗濯機が動いていた。きっと知らない人の家の庭なんだろうとは
思ったが、それでも一休みだけはさせてもらおうと考えたのだとか。いつ車が、自転車が
来るか分からない道路よりもマシだと思ったのだという。
そして、そこで初めて、赤ちゃん達に茎を食べさせてあげた。母にして貰ったように柔
らかく噛み砕いて。限界まで疲労し、空腹にさいなまれた赤ちゃん達は息も絶え絶えだっ
たが、茎を食べてなんとか元気を取り戻した。次は自分のゴハンと、赤ちゃん達の次のゴ
ハン。それに、寝る場所──これから暮らす、自分達のお家。だが、まりさにはそれらを
どうやって手に入れればいいのか、わからない。
「どうしたらいいか考えていたら、女の人のつらそうな声が聞こえてきたの!」
「え? あれ? ……もしかして、その『土がある場所』って俺んちの庭? すぐそこ?」
「はい! そうです、お兄さん!」
「あら、良いお返事」
「ゆゆ~、ありがとうございますぅ♪」
「って、そうじゃなくて!!」
「ゆあっ!?」
「それじゃ、お前が追い出されたのって、いつだ? もしかして、ついさっきか?」
「ゆゆ? ゅう~んとぉ……ちゃんとは、わかんないです」
「今日のうちなんだろ? 今朝とかか?」
「ゆ、まだ夜にはなってないから、今日だね! 今日です!!」
呆れた。
それでなくても、出産はほとんどの生き物にとっちゃ、体力を使う命がけの営みだ。
ゆっくりの場合、意に染まぬ出産での急速な赤ん坊の成長は、夥しく母体の生命力を奪
うと聞いた。赤ん坊に生命力を奪われて母体が死に、赤ん坊も供給されるべき栄養が途絶
えて死にと、母子ともに死んでしまうケースが多いのだという。
まりさの酷いやつれは、そのためなのだろう。
それはいいが、それでも生きているというのは、呆れるほどとんでもないことなんじゃ
ないのか? 恵まれた環境で、普段からたっぷりと栄養を貯め込んでいたのだろうか?
それとも、生まれた赤ん坊が未成熟のまま茎から切り離されたから、多少はマシだった
ということか?
赤ん坊達も、呆れたタフさだ。
茎から産まれたゆっくりは、産まれてすぐにその茎を食べるのだという。それが一番の
栄養で、そしてその後の味覚を決定する、重要な食事でもあるとか。人間の赤ん坊も、産
まれてすぐに飲ませる初乳は、栄養価が高く抗体も多めのものが出ると聞いたことがある。
馬の赤ん坊だって、産まれてすぐに母の乳を飲むため必死に立ち上がり、立てばすぐに飲
み始める。立てなければ、衰弱して死んでいくだけだとか。
それがこのチビ達は、落ち着ける場所へ着くまで、お預けだったという。この赤ん坊達
は、産まれた直後に殺されかけて、心身共に疲弊していただろうに。
もしも未熟児だったというのなら、なおさらだ。生まれ落ちてすぐに衰弱死していても
不思議はなかっただろうに。
「って、ちょっと待て!」
「ゆあっ!? またぁ!? どうしたの、お兄さん!?」
大人しく静かにしている赤ん坊ゆっくり達に顔を寄せ、よく観察する。が、ゆっくりを
飼ったこともないし、赤ん坊のゆっくりなんて現物は今始めて見るのだから、よくわから
ない。
とりあえず、生きてはいる……のかな?
「なぁ、まりさ」
「ゆゆ? なんですか、お兄さん?」
「こいつら……ちゃんと生きてる?」
「ゅええっ!?」
「生きてたとしても、今にも死にそうで、ぐったりしてるとか……」
「おっ、おチビちゃん達!? 大丈夫!?」
ズリズリと途中までビニール袋を引き摺りながら、這って赤ん坊達へと近づくまりさを
見て、ふと「ああ、そういやコイツらは外を裸足で歩いていたようなもんなんだな」と、
また関係のないことに思い至ってしまった。このままだと、動かれる度にあちこち汚れる
なぁとか。
それに、慌てていても跳ねないのは、疲労がかさんでいるからか、それとも赤ん坊を驚
かさないように気を使っているのか。一度跳ねれば、ビニール袋を引き摺ることもなかっ
ただろうに。
どうも、俺は余計なことばかりが気になる質で、自分でも困ってしまう。AVを見てい
るときだって、どうでもいいことが気にかかり、ちんちんしゅっしゅに集中できないし。
て、それこそ今はどうでも良い。
さすがに部屋の中で、ゆっくりとは言え「死ぬ」なんてことをされるのは、気分の良い
ものじゃない。
だいたい、死体の始末とか面倒くさいし。
甘い物は好きだが、個人的にはゆっくりに食欲をそそられないし。
「お、お兄さん、どうしよう!?」
頬擦りしたり舌で舐めたりと、すべての赤ん坊に触れて確認していたまりさが、こちら
へと向き直り、泣きそうな顔で言ってきた。
「死んでるのか?」
「生きてるよぉおお! 怖いこと言わないでっ! ……ください!」
慌てて丁寧な語尾を付ける。お前、本当に幸せな環境で優しく教育されたのか?
「おチビちゃん達が、弱ってるよ! ゆっくりしてないの! ぐったりしちゃってるよ!
病気になっちゃったの!?」
「う~ん……多分、腹が減って弱っているのと似たようなものじゃないか?」
「お腹……? お腹空いてるの? おチビちゃん達、さっき食べたよ?」
「その前は、ず~っと食うのを我慢してたんだろ? それに赤ん坊ってのは、大人と同じ
ような食事の回数じゃ駄目なんだよ」
「そうなの!?」
「らしいぞ。まぁ、俺はゆっくりの子育てを知ってるわけじゃないけどな」
赤ん坊が手の放せない存在なのは、あらゆる意味でデリケートだからなのだろう。内臓
だって、そりゃあデリケートに違いない。食い溜めなんて出来ないし、そもそもやろうと
しないだろう。
人間の赤ん坊は、ミルクを飲んで、寝て、ミルクを飲んで、寝て、と何度も何度もその
繰り返しだ。夜中だろうがお構いなしに。未婚の俺は子供を持ったことはないが、子育て
の大変さくらいは話に聞いている。
「未婚どころか、今現在恋人もいないんだよなぁ……まぁ、どうでもいいけどさ」
「お、お兄さん? 急に『ずど~~ん』して、どうしたの? お兄さんも、お腹空いちゃ
ってフラフラなの?」
「ああ……そういや、そろそろ昼メシ時だなぁ……でも、本当に飢えているのは、心なん
だよ……」
「ゆ……ごめんね? まりさ、難しいことはわかんないです」
「いいよ……お前に言っても、仕方ないことだし……」
「お兄さんには、元気を出して欲しいよ! まりさじゃ、おチビちゃん達を助けられない
し……どうしたらいいか、お兄さん、わかりますか?」
「ん? いや……ゆっくりの場合はどうなのか、俺にもわからないけど」
「まりさ、子育てのお勉強がまだだったんです! まりさが赤ちゃんの時のこと、少し憶
えてるけど、でもちゃんと出来るかわからないです! だから……!」
「とりあえず、落ち着け。目を覚ました赤ん坊が、不安そうだぞ」
「ゆゆ! ゆっくり理解したよ、お兄さん! まりさ、落ち着きます!」
あんまり、落ち着いているようには見えない。
何度も何度も「ゆっくりしてね」と呼びかけ、赤ん坊達を順々に舐めてやっている。
赤ん坊達は、母親に優しくかまってもらえるのがとにかく嬉しいのか、微笑んではいる
が、やはり元気はない。
「お前も腹が減ってるだろ」
「ゆ? ま、まりさもお腹空いてるけど……でも、おチビちゃん達の方が先だよ! おチ
ビちゃん達を、先になんとかしてあげたいです!」
「だからってお前が死んだら、誰が赤ん坊の世話をするんだよ」
「ゆゆ? ゆ…………ほ、本当だっ!? どうしたら良いですか!?」
もう一度落ち着くように言って、とりあえずメシを作ってやることにする。ゆっくり用
の餌など、当然ながら我が家にはない。作ると言っても、手の込んだものは面倒だ。
電子ジャーに残っていたご飯をボールへ移し、牛乳を入れる。
簡易のミルク粥っぽいものを作ろうかと思ったのだが、牛乳がいくらか少ない。ご飯が
ヒタヒタに浸かるくらいはと考えていたのだが、その半分もなかった。
昨日、風呂上がりにかなり飲んだからなぁ。
まぁ、いいかと、ニッチャニッチャぐっちゃぐっちゃと、しゃもじで掻き回す。
「こういうとき、古新聞でもあれば良いんだけどなぁ……」
生憎と、新聞は取っていない。レジャーシートなんて物もない。
「まぁ、すでに土埃で汚れてるんだ。あとで掃除することには変わらないし……」
ブツブツ言いながら、ミルクで柔らかく捏ねたご飯を平皿へ移して、まりさ達のところ
へ持って行く。
「ゆゆ!? お米のご飯さんだね! 牛乳の匂いもするよ!」
「用意できるのは、これだけだ。贅沢は言うなよ」
「ゆっくり理解したよ! まりさ、贅沢は言いません!」
まりさが言うには、人間と同じ食べ物は、そのほとんどが自分達にとってのご馳走なの
だという。だが、たくさん食べ過ぎてはいけないのだそうだ。栄養バランスとかの問題だ
ろうか? 犬や猫も、人間と同じ食べ物よりも、専用のペットフードの方が健康に良いら
しいし。
「だからって、ゆっくり専用のペットフードなんて、俺んちにはないぞ?」
「ゆあ!? ま、まりさ、贅沢言っちゃったの!? ごめんなさい!」
「いや、まぁ、いいけどさ」
「これだけあれば、まりさもお腹いっぱいになるし、おチビちゃん達も元気になるよね!
ありがとう、お兄さん!」
「どういたしまして」
「まりさ、何をすればいいですか?」
「……は?」
「お礼は、きちんとしなくちゃいけないんだよね! まりさに、ゆっくり恩返しさせてね!
……させてください!」
ゆっくりには、「お礼」や「恩」という概念はないのだろうと思っていた。そういう、
ろくでなしっぷりの情報や逸話なら、腐るほどあるからだ。
だが、なるほどと合点がいった。
何事も教育次第というのなら、飼いゆっくりが消えて無くならないのもわかる気がする。
「後で良いから、食え。赤ん坊も死なせるなよ」
「ゆっ! ゆっくり理解したよ!」
皿から舌を使って少量を口に納めると、何度かモグモグと噛み解し、赤ん坊にこれまた
少しずつ含ませていく。えらく時間がかかりそうだが、零しすことなく行っていく。赤ん
坊の口から垂れた分も、粥を口に含んだまま舌を突き出して綺麗に舐め取り、床を汚さな
い。
子育ての勉強をしていないと言っていたが、それにしては器用なものだ。
「ゆっくりって、がつがつと汚く食い散らかすイメージがあったんだが……」
「ゆゆ?」
「あ~、なんでもない。その調子で、あんまり汚さないでくれよ」
「ゆっ!」
口に物を含んでいるから、喋らずに体を前へと何度か曲げる。頷いているのだろうか。
なんにしても、この調子なら問題ないかもしれない。まりさが口の中の物を空にした時
を見計らい、声をかける。
「しばらく、大人しくしていられるか?」
「ゆゆ? おとなしく?」
「お前らの、え~と……足? 汚れてるから、動き回られると掃除の範囲が広がる」
「ゆっ! そうだね! まりさ、お掃除を手伝います!」
「出来んのかよ……」
「出来るよ、ゆっくりだけど」
「へ、へぇ……まぁ、それは後で頼むよ」
「後でだね! ゆっくり理解したよ!」
「俺は、ちょっと出かけてくるから」
「お出かけ?」
「買い物だよ。俺も、そろそろ昼メシの時間だし、晩メシの用意も買っておきたいし……」
「まりさ、お留守番なら得意です! ゆっくり任せてね!」
「いや、特になんにもせんでいいから。赤ん坊にメシ食わせて、お前も食って、赤ん坊を
大人しくさせとけ。家の中、散らかしたら承知しねぇからな?」
「ゆゆっ! ゆっくり理解したよ! いってらっしゃい!」
「へいへい、いってきますよ」
財布を持ち、上着を引っかけて家を出る。
一人暮らしを初めて以来の、久方ぶりの「いってらっしゃい」が、まさかゆっくりから
とは、昨日まで夢にも思っていなかった。
ゆっくりを飼いたいと思ったことは、これまでに一度もないし、今も特に飼うつもりは
ないが、それでも今更になって、あいつらを放り出すことは「捨てる」ことと一緒だ。そ
んなマネをすれば、余所に迷惑がかかるだろうし、一度餌をやった以上はきちんと責任を
持たざるを得ない。
そういうものだ。
祖父にゲンコツ付きで教わった。
となると、今日中にカタを付けるなんて無理だろうから、自分の食材だけじゃなく、あ
いつらの餌も買ってきた方が良いのだろう。
まぁ、今は幸いにも貧乏をしているわけでもないし、それくらいはいいか。
「今日のうちに捨てられて、疲れ果てたゆっくりが、俺んちに辿り着けたわけだよな……」
まりさの話によれば、そういうことになる。だとすれば、捨てたヤツが住んでいる家は
意外なほど近いのかもしれない。大通りを渡ったとも思えないから、こちら側の住宅地の
どこかに……
「……って、簡単に見つかるとも思えんけどね」
ブツブツ言いながら、近所のスーパーへと向かう。
少しばかりの寄り道をしながら。
*** *** *** ***
「落ち着きなさい! 何をしているんだ!」
どうしても片付けておきたいことがあったので休日出勤をしたというのに、会社へと着
くなり妻から電話で帰ってくるように頼み込まれてしまった。
説明は要領を得ないし、声を荒げていて泣いているようにも聞こえるしと、とにかく尋
常な様子ではなかったので、大急ぎで戻ってきたのだ。
休日出勤を急遽取りやめて戻ってきた私を、最初に迎えたのは息子の泣き顔だった。
涙と鼻水に汚れ、目も真っ赤に泣き腫らしたその顔を見て、胸が締め付けられた。仕事
を優先した結果、家族を不幸な目に遭わせる。そんな父親に、夫にはなるまいと思ってい
たのに……と。
事情を聞こうとしても、まだ幼い息子は泣くばかりで、「お母さんが」とか「まりさが」
とか、繰り返すばかりだった。
そこに、庭から何かを叩くような音と、濁った声も微かに聞こえてきたので、息子には
家の中で待っているように言い含め、庭へと急いでみれば……
「ゆっ! ゆぶべっ!」
「ゆびっ! ゆげっ!」
常態ならざる表情をした妻が、見たこともない野良のゆっくり二匹に暴行を加えていた
というわけだ。庭には囲いもあるが、簡単に外から見られる。現に今も、一人の若者が呆
れた様な顔でこちらを見ているではないか。
私と目が合うと、その若者は軽く肩をすくめて歩み去っていった。
何が相手であれ、虐待しているところなど他聞を憚るどころの騒ぎじゃない。どんな事
情があったにせよ、軽率なマネをしてくれたものだ。
「もう、よすんだ。ほら、これも離して」
ゆっくりを殴り続けていた箒を取り上げ、妻には家の中へ戻っているように言う。まだ
いくらか取り乱しているようだが、背中を押すようにして玄関へと向かわせた。
しゃがみ込み、酷い有様のゆっくりを観察する。二匹とも、ずいぶんと長い間、何度も
何度も妻に殴打されていたのだろう。ボコボコに歪んでいる。それでも力なく空けられた
ままの口からは、ゆ、ゆ、と掠れ掠れの声が漏れているから、どうやらまだ生きているら
しい。
「手当てをすれば、命は助かりそうだが……」
野良のゆっくりに、世間はことのほか冷たい。自分も、そうだ。そこらにいる野良を見
かけても、手を差し伸べる気にはならない。もちろん、多少は同情の念も湧くが、それで
も無視を決め込む。
条例でも、野良ゆっくりには餌を与えてはいけないと定められている。与えた者は罰金
の上、そのゆっくりに対しての責任を負うことになるのだ。飼えというのではなく、処分
のための費用を払えと言うことだが。言ってみれば、罰金の二重取りだろうか。
この野良を死ぬまで放っておいても、文句は言われまい。家の敷地内に入り込んだ野良
に、取り乱した妻が追い出そうと箒を振り回しただけ。そういうことにすればいい。
だが、あまり気分の良いものではない。
助けられる命なら助けてやりたいと思うのは、何もおかしくはないだろう。それに、ゆ
っくりの遺骸は、たいていの場合は「ゴミ」として処理される。少なくとも私には、生き
ていたものの亡骸を「ゴミ」として処理することには抵抗がある。
この野良二匹が死んだとして、その亡骸を我が家の庭先に埋めたりすることは、妻が認
めまい。先ほどの様子を見れば、考えるまでもないことだ。
思いながらも庭を見渡し、ようやくに気付いた。やけに汚れている。あちらこちらに、
餡やクリームが、染みのように転々と散らばっていた。この野良ゆっくり二匹を相手に、
取り乱した妻が追いかけ回したのだろうか?
いずれにせよ、常ならぬ有様だ。いずれにせよ、平静を欠いていたのだろう。
ならばやはり、この二匹には治療を施した上で、保健所なりに連絡をして事情を話して
引き取ってもらうのが、私の心情的な面でも、妻の精神的な面でも、一番の選択だろう。
たとえこの二匹にとって、大差のない結末へと繋がっていようと。
家では、まりさを飼っているから、ゆっくりのための治療セットは一通り用意してある。
出来る範囲での治療を施せば、十分な延命にはなるはずだ。
だが、快癒するかは難しいところだろう。これだけ殴られ傷を負っていると、障害も残
りそうだ。少しばかり、心が痛む。
だが、それも仕方のないことだろう。野良ゆっくりが人間の家へと入り込み問題を起こ
した段階で、やむを得ないことなのだから。
「そうだ、まりさは……? 家の中なのか?」
息子は、玄関口で泣いていた。あの賢いまりさが、仲の良い息子が泣いているのを放っ
ておくとも思えない。
数代に渡って教育を続けてきたと言うだけあって、あのブリーダーから買ったまりさは
実に聞き分けが良く、賢く、人の心を汲もうと努力し続ける良い子だった。
今現在は、ゆっくりには犬や猫のような血統書というものはない。
ないが代わりに、一代限りの表彰の様なものはある。
季節ごとに一度、試験が開催され、そこで優秀な成績を収めたゆっくりに贈られるとい
うもので、金・銀・銅と、スポーツ大会のメダルのような段階分けで表彰されるのだ。
それはメダルではなく、ゆっくりが大切にしている飾りに付けられるバッジとなってい
るので、バッジシステムと呼ぶ人もいる。
まりさなら、十分に金を狙えただろうが、参加させたことはない。
たいした理由もないが、私自身がバッジシステムのことを、なんとなく気に入らないと
思っているせいもあるが……まりさ自身が、別にいらないと言ったからだ。
まりさには、ブリーダーから貰ったバッジがすでにある。
まりさが私の飼いゆっくりだということを証明し、その住所などの情報が、携帯でも簡
単に読み出せるようにQRコードが付けられているというものだ。野良ゆっくりが問題視
されるようになってからは、このバッジを用意することは、ゆっくりを飼う者の義務とも
なっている。
だが、まりさにとっては、故郷から唯一ここへと持ってきた思い出の宝物なのだ。
その思い出の宝物以外、自分の帽子には付けなくてもいいと言った。他のバッジがある
と、せっかくの宝物が目立てないと思ったのだろうか?
庭の芝生の上に、そのまりさの宝物が、無造作に放置されていた。
*** *** *** ***
「1階の方に売ってるとはなぁ……ゆっくりも、今じゃ当たり前のペットってことか?」
うちの近所のスーパーには、1階と2階がある。
1階には食料品を中心に、生活によく使うもの……各種洗剤に台所用品、入浴用品、掃
除用品や防虫剤、ちょっとした日用雑貨と……まぁ、よくあるスーパーマーケットな品揃
えだ。
2階は、カラーボックスや組み立て棚、日曜大工のアレコレなどの大きめの雑貨と、ガ
ーデニング用品に各種植物、さらには熱帯魚も売られていて、その飼育用品や他のペット
用品なども売っている。
1階で自分の食い物を買って、2階でゆっくり達の餌を買わないとと考えていたのだが、
1階だけで済んでしまった。犬や猫のペットフードに並んで、ゆっくり用のペットフード
があったのだ。ハムスター用とか、鳥の餌は2階にしかないのに。
今や、ゆっくり達は犬猫についで、ありふれたペットの地位を獲得しているらしい。
しかも、ゆっくり用の高級ペットフードまであった。ちょっとお高いそっちは、まりさ
種用、れいむ種用等々、種別によってそれぞれある上に、ダイエット用だとか、室内買い
用だとか、運動をたくさんする子に!とか……まぁ、種類も豊富だ。
俺が買ったのは汎用の、お手頃価格でお徳用のものだが。
「……ゆっくりって、案外タフなのかねぇ」
スーパーへと来る前に見た光景を思い出し、なんとなく独りごちる。
多少は粗雑に扱っても元気でいてくれるのだとしたら、飼育に知識と設備が必要で、気
も配らなければならないという熱帯魚やハムスターより、ポピュラーになりやすいかもし
れない。犬猫のように、動物の匂いもなさそうだし。なにせ饅頭だから。
まぁ、だからこそ余計に騒音の方が目立ち、問題視されるのだろうけど。
「キャンキャン鳴くだけじゃなく、言葉を喋るんだもんなぁ」
それにしても、一人言が多くなった。一人暮らしで寂しさを感じていると、一人言は多
くなるらしい。
寂しいのか、俺は。
寂しいよな、彼女もいないんだもん。
両手に買い物袋を提げて、出口へと向かう。思ったより多くの量を買うことになってし
まった。
「ゆっくりしていってね!」
スーパーを出るなり、野良ゆっくりに声をかけられた。入るときには見かけなかったの
だが……どこかに隠れていたのだろうか?
まぁ、スーパーの入り口あたりをウロウロしていれば、すぐに店員に見つかって始末さ
れるか、保健所に連絡されて所員の方々にしかるべく処理されるのがオチだろう。隠れて
いたのだとしたら、そこそこ賢明な野良……ということか。
「ゆ! おまえは まりささまの こえが、ちゃんと きこえるんだね!」
ほとんどの人が、野良ゆっくりとは関わらないようにしている。面倒くさい目に遭うか
らだ。俺も普段なら、声をかけられても無視を決め込んで、さっさと歩み去ってしまうだ
ろう。だが今は、俺の家にもゆっくりがいる。この野良ゆっくりと同じ、まりさ種の。そ
れでつい、目を向けてしまったのだ。
それにしても今、自分に「様」付けしたのか、コイツ?
「まりささまに、ごはんをもってくる えいよを あたえるんだぜ!」
何を言っているのか、非常に聞き取りにくい。口の動きはモタモタとしているくせに、
早く喋ろうと声を出し続けているせいか、滑舌も悪く発音もなっていない様に聞こえる。
薄汚れ、髪も乱れ放題、帽子もクシャクシャで、実にみっともない。当然、ペットとし
ての身分証明が出来そうなものも付けていない。
「なにを ぼーっとしてるんだぜ!? さっさと ごはんをださないと、いたいめをみるん
だぜ!」
俺んちに迷い込んできた、あのまりさと同じとはとても思えない。まぁ、あいつの方が
変わってるんだろうけど。
それにしても、“ゆっくり”という存在で自分達も「ゆっくりして」とか言うんだから、
もっと落ち着いて、ゆっくりと喋ればいいのに。そうすれば、もうちょっと聞き取りやす
いだろう。
一つ溜め息をついて、野良まりさから目を背けて歩き始める。最初から無視を決め込ん
でいれば良かった。
「ゆあっ! ま、まつんだぜ!」
ぼてっ、ぼてっと、気の抜けたような音をたてて跳ねながら、野良まりさが追いかけて
きたようだ。
「とぼけたって、そのなかみが おいしいごはんだってこと、まりささまには おみとおし
なんだぜ!」
面倒くさいことになりそうだ。これだから、誰もが野良ゆっくりとは目も合わせないの
だ。
「ゆっ、ほっ! ゆっ、ほっ! こ、こら! まつんだぜ ったら まつんだぜ!」
ゆっくりは、跳ねたり這いずったりで移動する。さほど素早く動けるものでもないだろ
う。捕まえようと思えば、簡単に捕まえられるんじゃないだろうか。
なのに、野良がいつまで経っても姿を消さないのは、繁殖の容易さというやつで、モリ
モリ増えているからか。あるいは、いつまで経っても“無責任な飼い主”というヤツが減
らないからか。
直接捕まえようとする人間以外にだって、危険な存在はいくらでもあるだろう。野良犬
はすっかり見なくなったが、住宅街じゃ、野良だか飼いだかよくわからない猫は、よく闊
歩している。カラスは人間相手にだって怪我させるほどの実力者だし、鳩や雀も群れれば
小さなゆっくりくらいなら簡単に食っちまいそうだし。
「やっぱり、案外にタフなのかね」
「ゆへぇ、ゆへぇ……な、なんだか わからないけど! まりささまは つかれたんだぜ!」
家に迷い込んできた、あのまりさ親子が飼われていたであろう家は、意外なほど簡単に
見つかった。
何かを叩く音が聞こえてきて、近づいていくと、妙に濁った悲鳴と、息を乱して箒を振
り回す女性……覗き込んでみれば、二匹のゆっくりらしきものが、ボコボコにされていた
のだ。
呆れて見ていたら、旦那さんらしき人がやってきて、睨まれちゃったけど……まぁ、睨
むよな。人の家の庭を覗き込むって段階で、失礼で不審なんだ。そして見られているのは、
妻がゆっくりに暴行を振るっているシーンとくれば。
まりさ親子が襲われてから、どれほどの時間が過ぎていたのかはわからないが、分単位
の短い時間でもないだろう。2~3時間か……朝早くの出来事なら、すでに4~5時間は
経っているのか。細かいところはわからないが、それでも短くない時間を、殴られ続けて
も生きていられるだけのタフさが、ゆっくりにはあるらしい。
「本当に脆い存在なら、野良生活なんてやってられないだろうしなぁ……」
「ゆ……!? まりささまは、のらなんかじゃないんだぜ!!」
「いや、野良だろ」
つい、答えてしまった。
野良まりさの言葉には、ムキになったかのような激しさがあったから、思わず引き込ま
れてしまったのだ。
「ちがうんだぜ!! みがってな にんげんさんが、かってに まりささまを つれてきて、
そして かってに ほうりだしたんだぜ!」
「……まさか、元は野生か?」
ブリーダーが育てたものばかりではなく、野生のゆっくりを捕まえてきたものも、ペッ
トとして売られていることは聞いている。だが、その気性は人に馴染まず身勝手なままで、
育てるのが難しいからと、格安の割には人気も薄く、最近ではほとんど見られないという
話だ。
「やせい? なんのことか わからないけど……って、おはなし するときくらい、ゆっく
りしていってね!」
「断る」
「ゆぁああ! にんげんさんは、いつもそうだ! みがってなんだぜ!」
跳ねながら喋るというのは、大変なことのようだ。だが成人した人間にとっちゃ、のん
びり歩きながら喋ることくらい、なんでもない。
「あいつも! せっかく、まりささまの めしつかいにしてやったのに、かってに おこっ
て、『すてる』とか いって、まりささまの おうちを うばったんだぜ!」
聞き取りにくいが……「召使い」と言ったのか? 飼い主のことだろうか? ならば、
飼い主が怒るのもわかる。
そんなことを言われりゃ、躾だ教育だというのも馬鹿らしくなるだろう。
「だからって、捨てるなよ……迷惑な」
「まったくだぜ! だから にんげんさんは、せきにんをとるんだぜ!」
「……責任?」
「みがってな にんげんさんのせいで、まりささまは たいへんなんだぜ! だから、せき
にんをとって、そのごはんをよこすんだぜ!」
それほど、理に合わない意見でもない。野良と言われ嫌われるのも、元は人間のせいだ
と言われれば、その通りだろう。
人間の都合で、街へと連れてこられた。その街は、あっちもこっちも人間が自分のテリ
トリーとしているから、ゆっくりが落ち着ける場所もない。大変な毎日には違いないだろ
う。さらに街には、山のように季節ごとの自然の恵みなど期待は出来ない。山には山の危
険があるだろうが、街にだって危険はてんこ盛りなのだ。
「確かに、身勝手な人間のせいで大変だな」
「ゆゆっ!? おまえは、なかなか ものわかりが いいんだぜ! みどころがあるから、
まりささまの めしつかいにしてやってもいいんだぜ?」
「断る」
「まりささまの、めしつかいに なれる ちゃんすなんだぜ?」
「なりたくもない」
「やっぱり おまえも、ばかな にんげんさん なんだぜ。それじゃ、ごはんをおいて とっ
とと きえるんだぜ」
「断る」
「なんでなんだぜ!? みがってな にんげんさんの せきにんは、にんげんさんが……」
「ちゃんと考えろ」
「ゆゆ?」
「身勝手な人間が、責任なんて取ると思うか?」
後ろをついてきていた、ぼてっぼてっという間の抜けた音が途絶えた。振り返ってみる
と野良まりさは、跳ねもせずに歩道でボンヤリとしたままだ。
ついてこないからと言って、待っていてやる義理もない。
そのまま歩き続けていると「ぼんよぼんよ」と、大きな音を立てて野良が追いかけてき
た。
なんだ、多少はスピードアップ出来るんじゃないか。
「そんなのは、ゆるされないのぜ!!」
なんだよ、「のぜ」って。
「にんげんさんが わるいんだから、にんげんさんが……」
「それは、お前の飼い主に言え」
「まりささまには、かいぬしなんて いないんだぜ!」
「じゃあ、全部お前のせいだろう」
「なに いってるんだぜ! にんげんさんが……」
「人間が、飼うためにゆっくりを山から連れてくることはある。飼うためにだ」
「わけ わからないこと、いってんなのぜ! いいから、ゆっくりしないで ごはんをよこ
すんだぜ!」
「断る」
「ことわるとか きいてないんだぜ!! まりささまが ほんきをだしたら、おまえなんか
ぎったぎたなのぜ!」
さて、面倒なことになった。
言葉を交わしたが、餌をやったわけでもないし、こいつを飼わないままにしても、祖父
は怒ったりしないだろう。
だが、どうすればいいか。
保健所に連絡するのも、面倒だ。なにせ、連絡した以上は所員の方々が駆けつけてくれ
るまで、コイツが逃げないように捕まえておかないといけないだろうし。
なるほど。
みんなこんなふうに考えて、積極的に保健所へ連絡などもしないから、逃れ続けている
野良もいるのだろうか。
「ゆへ~っ! ゆへ~っ! ゆへ~っ! いっぱい あるいたから まりささまは、つかれ
たんだぜ! おまえのせいなんだぜ! これは、ごはんを ばい もらわないとならないん
だぜ! ゆへへへへ」
ちょっと行ったところにある用水にでも叩き込んで、流されるなり、水にふやけて崩れ
るなりしてもらおうか? いや、駄目か。誰かが見ていたら、ゴミを不法投棄したと問題
視されるかもしれない。
用水沿いは桜並木が美しいので、美化に五月蝿いおばさんがいるからなぁ。
ふと、思いつく。
「……そうするか」
「ゆゆ! あきらめて、ごはんを よこすきに なったのぜ!?」
「食い物は持ち合わせてない。代わりに、良い場所を教えてやる」
「いい ばしょ? ゆっくりプレイスってことなのぜ?」
「のぜ」が多くなってきた。もしかして「なんだぜ」と言っていたのは、こいつなりに
丁寧な喋り方をしていたということだろうか?
それに「ゆっくりプレイス」という言葉だけは、聞き取りやすかった。「ゆっくりして
いってね」という挨拶も聞き取りやすかったし……コイツらゆっくり達にとって特別で、
言い慣れた単語だってことなのか?
「ああ、そうそう。ゆっくりプレイス、ゆっくりプレイス」
「ごはんは!? ごはんは どうしたのぜ!?」
「ゆっくりプレイスに着いてから、なんとかしたらどうだ?」
「そうするんだぜ! それじゃ、ゆっくりしないで さっさと あんないするのぜ!」
「はいはい」
帰りも、寄り道することになる。まぁ、急ぐわけでも無し。
来たときと同じ道を辿り、住宅街へと足を向けた。
*** *** *** ***
「おかえんにゃしゃい、おにーしゃん!」
「おかえぃなさい!」
「ぷゆ~……おかえりなしゃ~い……」
「ぷんぷんっ!」
「おっ、お兄さっ……おかっ、おかえりなざいぃぃ……」
「……何をしてるんだ、お前ら?」
家へと戻ってくれば、「いってらっしゃい」に続いて、久方ぶりの「おかえりなさい」
もゆっくりからで、またも微妙な気分にさせられた。
いや、この際それはどうでもいい。
赤ん坊のうち二匹はなにやら怒っていて、うち一匹は「おかえりなさい」を言ってこな
かったが……ともあれ具合の方も、多少は回復したようだ。
家の中で死なれるという、気分の悪い結果にはならなさそうで、なによりだ。
しかし、ゆっくり共の様子が、なんというか……気まずげな点が、ひっかかる。
親のまりさの方はというと、泣き濡れてしゃくり上げ、挨拶も上手くできない様子だ。
帽子は脱いで床におかれ、それを見下ろして涙を流し続けている。そしてその帽子には、
いくらかくすんだ茶色と黄色の物体が、点々と。さらにはあちこちに、濡れたような小さ
なシミがいくつかある。
「おかーしゃんがにぇ、おぼうししゃんが よごえたかや、にゃいてゆの」
「……帽子が汚れたから、泣いてる?」
「しょうにゃの!」
「確かに、そうみたいだな。あの茶色いのと黄色いのは、何だ?」
「ゆぅ~……そんな はずかぃいこと、ぃかないでよぉ」
「ちゃんと答えろ」
「ゆあっ!? あ、あのにぇ! あ、あのっ……あの……!」
あの野良もそうだったが、赤ん坊ゆっくりが言うことも、かなり聞き取りにくい。落ち
着いて、ゆっくり喋るように言ってると、泣いていた親まりさ自身が口を開いた。
「おチビちゃん達の、うんうんだよぉ……」
「うんうん? ……糞か」
なるほど。
食ったら出す。赤ん坊達は、欲求に対して正直に行動しようとしたのだろう。親である
まりさは、家の中を汚してはいけないと考え、悩んだ末に自らの帽子に排泄させた……と
いったところか。
「トイレのこと、すっかり忘れてたなぁ……どうしたもんだか」
庭でさせる……のは、よくないか。
確か、ゆっくりの糞も中身の餡と同じようなものだとか。ゆっくりの体に不要なものも
排泄されるから、餡そのものとは違うし、安易に食べるのも良くないらしいが、それでも
糖分を含み、特殊なものを食わせない限りは有機物で構成されているのだとか。
だとすれば、蟻も集るだろうし、腐ったら臭いも酷いかもしれない。
そういえば以前、ゆっくりの糞を小豆餡として使用していた和菓子業者が、逮捕される
という事件があった。食中毒患者まで出たのだとか。
そういう「騙して食わせる」のならともかく、餡と大差ないと言っても、排泄物だ。普
通なら、注意されなくても食いたくはならないと思う。
思うのだが……世の中は広い。
ゆっくりの糞を、好き好んで食う人もいるらしい。
その手の趣味の方だろうか?
俺は、ゆっくりはもちろん、飛びきり美人で好みの女性が出したものだとしても、排泄
物を口にするのはゴメンだ。
「見る」までならOKだけど……それだって、排泄物そのものが見たいわけじゃなく、
普通ならば他人には見せない恥ずかしいところを見られているという、その羞恥に身悶え
るところをこそ……
「お兄さぁん……」
「ん? な、なんだ?」
また、関係のないことを考えていた。
「お願いしても……い、いいですか?」
「言ってみろ」
「まりさの、お帽子を綺麗にしたいんです……だから……」
「おかーしゃんっ! たいへんだよ!」
話の途中で、チビのまりさが慌てた声で遮ってきた。
「ゆあ!? ど、どうしたの、おチビちゃん?」
「りぇーみゅ おにぇーちゃんが ぷゆぷゆしてゆの! ちゅあしょうだよ!」
「つらそうなの? れいむ、大丈夫? ゆっくりしてね!?」
「ゆ……う~~……ぷんっ! だ!」
「れいむぅううっ!? まだ怒ってるのぉお!? 仕方なかったのよぉお! お母さんを
許してよぉお!」
「なんだかわからんが……おい、え~と……れいむ?」
「ゆゆ? う……な、なぁに、おにいしゃん……?」
「確かに、つらそうだな……どうしたんだ?」
「あ、あのね……りぇ、りぇいみゅね……う、うんうん がまんしてりゅの……」
「……したんじゃないのか? まりさの帽子に」
「ゆゆ? まぃしゃの?」
チビの方のまりさが、自分のことかと反応を示す。違う、母親の方だと言って、糞に汚
れた帽子を指さすと、チビのまりさもションボリと俯いた。
「ちょっと でちゃったけど……でも、やっぱり できないよ! だって、おかあしゃんの
おぼうししゃんが よごりぇたりゃ、おかあしゃん ゆっくりできなくなっちゃうよ!」
「そ、そうだったの……!? れいむは優しい子だね! でも我慢してたら、体に悪いん
だよ! ちゃんとうんうんして、すっきりしてね!」
「すまん、まりさ」
「ゆぅ? にゃーに? おにーしゃん?」
「いや、お前じゃなくて」
「まりさの方? なぁに、お兄さん? まりさは、今感動して、泣いちゃいそうです!」
「いや、うん、すでに泣いてるけどな。そうじゃなくて」
チビのれいむが、なんと言ったのかよく聞き取れなかった。母親まりさの反応も込みで
判断すれば、親想いの意見だったようだが……
ただでさえ状況がつかめていないから、話も見えにくいし。
「だから、ちょっと何があったのか、説明してくれ」
「ゆゆ! ゆっくり理解したよ!」
まりさが自分の帽子をトイレ代わりにして、部屋が汚れることを避けようとしたところ
までは、俺が想像した通りだったようだ。
食ったら、出す。食事の後の排泄欲求は、ゆっくりの場合は人間以上に短い時間で訪れ
るものらしい。しかも、チビ達は最初のゴハンである茎を食べてから、うんうんをしてい
なかったので、我慢しろと言うのも無理そうだったとか。
「でも……おかあしゃんの おぼうししゃんを よごしたりゃ……」
「そうよ! おかぁさんが ゆっくりできなくなっちゃうわ! そんなこと、ありすたちに
しろなんて いう おかぁさんは、まちがってるわよ!」
「おかーしゃんに、ひどいこと ゆぁにゃいでにぇ!」
「おかあさんの いうことを ちゃんと ぃきぇないこは、わるいこなのよ!」
母を想い、母の大切な帽子を汚したくないと主張する二匹と、つらいことでも母の言う
ことにはきちんと従うべきだという二匹が対立し、険悪な雰囲気になったらしい。
そして、当の母はというと、そんな我が子達の喧嘩を収めたいものの、やはり大事な帽
子が汚れたことがショックで、泣いてばかりだった……と。
「……駄目だろ」
「ゆっ……まりさは駄目なお母さんだよ……」
自分のどこが駄目なのか、はたして本当にわかっているのかどうか微妙なところだが、
ともかくトイレをなんとかしなければならないようだ。
親まりさの説明を聞いている間に、排泄を我慢した方の二匹──チビれいむとチビあり
すが、ぶるぶるビクビクと震え始め、脂汗を浮かべている。
というか、脂汗なのか? ゆっくりも、汗とかかくのか。元が饅頭みたいな連中だから、
汗なんかも甘いのかな?
「二人とも、大丈夫!? ゆっくりしてね? お母さんは平気だから、うんうんをちゃん
として! すっきり~して! お帽子さんは、後で綺麗にすれば良いんだよ!」
「ゆぐぅ~……ぷ、ぷんだ!」
「ゆひぃ……! ゆひぃ……! いっ、いやよ……!」
なんだか、チビ二匹は意地になっているみたいだ。一方の、排泄を済ませたチビまりさ
とチビありすは、ただハラハラと見守っているだけ。
「なんか、適当な空き箱で良いか……」
「ゆゆ? 空き箱? 空き箱さんは、ゆっくり出来るよ!」
「そうなのか?」
「ゆん♪ そうです! 中に入って、ゆっくり出来て、とってもゆっくりしてるんです!」
よくわからないが……子供が、狭いところに入って喜んだりするような感じだろうか?
そういえば、俺もガキの頃は段ボールに収まったり、綿の代わりにスポンジクッション
の入った来客用の座布団で組み立てた箱の中に潜り込んで遊んだりしてたな。押し入れの
中も、わくわくしたし。
「ゆひっ……! ゆひっ……!」
「あ……また余計なことを考えてるうちに、チビ達がピンチだな」
「ゆああ!? ど、どうしよう!? ごめんね! 駄目なお母さんでゴメンね!」
「もうちょっと辛抱しろ」
言い置いて、台所へ向かう。以前に買った、一杯用簡易ドリップコーヒーセットの箱が
あった。まだ2つほど残っているが、それは棚にでも入れておき、下箱の方を持って部屋
へと戻る。
チビのゆっくり達が出入りできるように、箱の壁の一面を切り取っておく。
切り開いたビニール袋をまず敷いて、その上に箱を置く。箱の中にティッシュを適当に
敷き詰めて……これで、多少の水気も大丈夫だろう。
といっても、今日一日保てばいい方か。トイレも買ってこないとなぁ……
「これを、とりあえずのトイレ代わりに使え」
「ゆゆ! ありがとう、お兄さん! これで、チビちゃん達もゆっくり出来るよ!」
「お前も我慢してるんだろ? お手本の意味でも、先にやっておけ」
「ゆっくり理解したよ!」
「お……おといりぇ?」
「お……おかぁさんの……おぼぉしさん……よごさなくても、いいのね?」
「そうだよ、おチビちゃん達!」
ゆっくり共がトイレを済ませている間に、俺は親まりさの帽子を綺麗にしてやろうか。
そう思って帽子を手に取ったが……糞の方はともかく、小便らしきシミの方は……
どうしたら良いんだ、これ?
ゆっくりの帽子って、洗濯できるのか?
あ……そういえば俺、洗濯機を回したっきりで、取り込んでなかった気がする。
いい加減、俺自身の腹が減ってきたが……先に洗濯物を干しておかないと。
「いい、おチビちゃん達? おトイレは、ちゃんとこうやって奥まで入って……」
親まりさの、トイレレクチャーが始まったようだ。
どうせ暇だし。そう思って、こいつらを受け入れたが……なんだか、いろいろと忙しく
なってきたものだ。
*** *** *** ***
「なんなんだ……いったい……?」
妻が暴行を加えていた、ゆっくり二匹の手当てを済ませた。二匹は、れいむ種とありす
種で、正直に言えば私は、れいむ種もありす種も、あまり好きではない。
それでも治療の手は抜かなかったし、妻の目にはつかないように自分の書斎にケージを
持ち込んで、二匹を休ませておくことにした。
まりさを探し始めたのは、それからだったためか……結局は、見つからなかった。
妻に問い質すと、出て行くように言ってしまった、と言うではないか。本当に出て行く
とは思わなかったと言って泣いて見せたが、あの子が私達の言うことに逆らうわけがない
のだ。
それでも、あの子には他に行く当ても無いのだからと探したのだが、見つからなかった。
もしかして妻は、ゆっくりが嫌いだったのだろうか?
聞き分けのいいまりさ相手には我慢出来たことも、今度の件ではその限界を超えてしま
ったのでは……
考えすぎだろうか。
妻の話では、まりさが出て行ったと思われる時間から、かれこれ4時間近く経っている
という。あの賢い子は、言われたとおりに出て行き、遠くへ行ってしまったのか。だとす
れば、もう見つけることは難しいかもしれない。
庭から拾ってきたあの子の宝物が、ただリビングのテーブルの上に空しく転がっている
だけ。
これを見て、まりさを思い出し、気持ちが沈み込むという毎日を繰り返すのだろうか。
そう思っていたときに、ちらりと視界の隅を、黒い帽子がかすめた。
庭へと通じる窓。その向こうに、帽子が見えた。
まりさが、いる。
急いで駆け寄り窓を開けると、そこには確かに、まりさがいた。
「ゆゆっ!? ここは、まりささまの ゆっくりプレイスなんだぜ!? にんげんさんは、
ゆっくりしないで さっさと でていくんだぜ!!」
勝ち誇った表情で「お家宣言」をして、不躾な要求をしてきたのは、確かにまりさ種の
ゆっくりだった。
「ゆ? ここは、なかなか いいおうち なんだぜ! きょうから、ここを まりささまの
いえとして つかってやるんだぜ!」
やはりもう、賢く可愛かったまりさはいないのだろうか。
この薄汚い野良が、代わりだとでも言うのだろうか。
「なんなんだ、いったい……!」
*** *** *** ***
「ゆんせっ……! ゆんせっ……!」
帽子をかぶっていない母親まりさが、固く絞ったタオルを床において、それに顔を押し
つけるようにしている。そしてそのまま、ずり、ずり、と体を前後にズリ動かしている。
拭き掃除のつもりらしい。
まりさの帽子は、糞を取って軽くティッシュで拭いたものの、水洗いして良いものかど
うかわからなかったので、そのままにしてある。
どうも、人間にはわからない臭いの差でもあるのか、まりさはまだ臭いと感じるらしい。
一度、糞尿に塗れたTシャツを、とりあえず糞をはたき落として絞っただけのものを、
着られるかと考えれば……正直、触るのも嫌だ。
「あとで、洗濯の仕方も調べておかないとな……」
次から次へ、やることが増える。まぁ、これも手を出した責任の範疇だろう。
「ゆんせっ……! ゆんせっ……!」
「……」
赤ん坊達は、母親の姿を感心したように見ているものや、頑張れ頑張れと応援するもの、
マネをしようとしてテーブルの上をコロコロと転がるものなど、様々だ。
それにしても、どれだけ時間がかかるんだ、これ。
ほとんど前のめりに倒れている状態だから、上手く動けないだろう。手早くやれという
のは、この場合ゆっくりの身体的構造からしても不可能だろうし。
お湯につけ固く絞ったタオルで、トイレを済ませたゆっくり達の足を拭いてテーブルの
上へと載せておき、さて汚れた床を掃除するかと言うところで、まりさが手伝うと言い出
したのだ。そういえば、買い物へ出かける前にそんなことを言っていた。
どうやって手伝うのかを聞くと、どうやらゆっくりにも使えるお手伝い用の道具が、世
の中にはあるらしい。
だが、あいにくと俺の家には無い。そんなものを買う予定もない。
しばらくの間、まりさは残念そうな顔をしていたが、良いことを思いついたとばかりに
明るい表情を取り戻して、それじゃあ拭き掃除をするから、そのタオルを貸してくれと言
ってきたのだ。
渡してやると、タオルを咥えて汚れた床の上に置き、そのタオル目掛けて倒れ込んだ。
そして、ずりっ、ずり……ずりっ、ずり……と。
「いや、うん。もういい」
「ゆ? ゅんっ……しょっと! まだ全然終わってないよ?」
返事するにも、起き上がるっていう一手間かかってるじゃないか。
「いつまで経っても終わらないだろ、それじゃ。俺がやるよ」
「ゆう……で、でも! まりさはお母さんとして、おチビちゃん達にきちんとお手本を見
せてあげたいんです!」
「気持ちだけは褒めてやる。けどな、その調子だと途中で腹が減って動けなくなるぞ」
「動けなくなっちゃうの!?」
「最初の所から、ちっとも進んでないじゃないか」
「ゆゆ? …………ほ、本当だっ!? いつ終わるんですか!?」
「俺に聞くな」
とりあえず、まりさにはもっと他のことを赤ん坊達に教えるように言ってタオルを取り
上げ、赤ん坊達と同じようにテーブルの上に退けておく。
それでは早速、と、まりさが赤ん坊達にまず話し始めたことは、人間に関することだっ
た。人間の世話になればゆっくり出来るんだから、人間を怒らせちゃいけない、と。
まぁ、飼いゆっくりとして安全に暮らすためには、第一に憶えておくべき事柄だろうな。
拭き掃除の前に荒い土埃は取ってしまおうと、コロコロを用意する。雑誌の方じゃなく
て、粘着シートの、コロコロと転がし抜け毛や埃を取る掃除用具だ。これが出始めた頃は
カーペット用しかなく、畳には使ってはいけないと言われていたが、今はフローリングや
畳に対して使えるものも存在している。箒を出したり掃除機を使ったりが面倒なので、実
にありがたいことだ。
「ゆゆ! それ、コロコロだね!」
「知ってんのか?」
これ、正式名称はなんだったかなと思いつつスーパーで探したら、まんま「コロコロ」
という商品名だったときには、ちょっと驚いたな。
「知ってます! それなら、まりさにもお手伝いできるよ! まりさに貸してね!」
「……まぁ、いいけど。気をつけろよ」
まりさに渡してやると、取っ手の部分を口にくわえて、ころころコロコロと動かし始め
た。合間合間に、こうやってお掃除をするんだと赤ん坊達に説明している。
赤ん坊達は、理解しているのかどうかはわからないが、興味深そうにコロコロを見つめ、
母の言うことの一つ一つに頷き、歓声を上げている。
俺も子供の頃、このコロコロが面白くて、無駄にころころコロコロとやって母を苦笑さ
せたことがある。ゆっくりから見ても、面白そうに思えるのだろうか。
けど、テーブルの上でコロコロされても、あんまり意味はないんだけど。
「しゅごいね~っ♪」
「ころころ、ころころ! おもしろいわ!」
チビれいむが感に堪えたような声を出すのと、ほぼ同時にチビありすのうちの一匹が、
ぴょこんと跳ねた。
前に出ようとしていたチビれいむに、飛び跳ねたチビありすがぶつかり、その衝撃でチ
ビありすはころりと転がって、コロコロにぶつかってしまう。
何かを言う間も、どうする暇もなかった。
「ゆぅ~……なにしゅりゅの、ありしゅ おねえちゃん!」
「ゆゆ、わ、わざとじゃないの。ごめんなさいね、れいむ……う? ゆゆゆ?」
チビありすは、仰向けに寝た状態でくねくねと身じろぎした。底部が粘着シートにしっ
かりとくっついてしまっているので、起き上がることも出来ないらしい。
「ゆ!? ゆゆぁあ!? うごけないわぁああ!?」
「ゆわっ! 大変!」
「ぃぎっ!? いたぃいいいっ!?」
動けないことに気付いたチビありすがパニックを起こし、慌てた母まりさがコロコロの
取っ手を口から離した。
取っ手が落ちた衝撃が伝わったか、わずかに動いたコロコロに底部の皮を引っ張られた
か、チビありすが痛みを訴え始める。
「いたいぃい!? いたいのぉお! なに、これ!? なんなの!? おかぁさんっ!?
おかぁさん、たすけてぇえ!」
「お、落ち着いてね、ありす! 今、お母さんが助けてあげるからね」
他のチビ達にぶつからないよう、気をつけながら回り込むと、まりさがチビありすの髪
を咥えて引っ張り出した。
「いだい! いだいいぢゃぢゅぢゃゆぎゅうぅうううんっ!!」
「ゆあああ!? ま、まだ、そんなに強く引っ張ってないよ!?」
「あ~あ~……待て待て、落ち着け」
「ゆあ!? 落ち着けばいいの? 落ち着いたら、おチビちゃんは助かるの!? じゃあ、
まりさ落ち着きます!」
とりあえず、チビありすの様子を確認するために、まりさを下がらせる。他のチビ達は
コロコロが怖いものらしいと思ったのか、テーブルの隅へと待避し、一塊になって震えて
いた。
チビありすの底部は、べったりと粘着シートにくっついてしまっている。赤ん坊のゆっ
くりは皮が柔らかいのか、引っ張られている部分は今にも破れそうだ。
引き剥がすのはもちろん、シールのようにめくろうとしても、曲面であるゆっくりの皮
が引っ張られて、破れてしまうかもしれない。
水で濡らせば、粘着力が落ちるだろうか?
いや……粘着シートが駄目になる前に、ゆっくりの皮の方が先に駄目になるかもしれな
い。赤ん坊ゆっくりの皮は、そう思わせるほど薄く脆そうだ。
「さて……これは困ったな」
「お……お兄さんでも、無理なの!? ありすは助からないの!?」
「いやよぉおおお! たすけぃだいいだいいだいっ!!」
「あ~、もう、だから動くな。暴れるな」
繰り返し動かないように注意して、パソコンを操作する。困ったときは、調べてみる。
今はネットで大概のことは調べられる良いご時世だ。鵜呑みにばかりは出来ないだろうが、
それでも便利なモノには違いない。
ゆっくり、産まれたばかり、粘着シート、水、等々の検索ワードを追加したり変更した
りで調べると、案の定な結果が出て来た。
ゆっくりは水に弱く、外皮は水分を多く含むとすぐに脆くなること。産まれたばかりの
赤ん坊は脆いので、お風呂を初めとする水洗いはしないこと。濡れたガーゼなどで拭くと
きも、良く搾ること……などなどなど。
粘着シートに関しては、ゆっくりを捕獲するための罠の類がボロボロ検索に引っかかっ
た。いろいろな意味で、ゴキブリやネズミと同列らしい。
「こりゃ、かなり絶望的みたいだなぁ……」
「ゆぁああああ!? そ、そうなの!? そうなんですか!? なんとかしてください、
お兄さん!」
「なんとかと言われても……ん? ちょっと待て。赤ん坊を引っ張ったりするなよ?」
「ゆ!? わ、わかりました、待ちます!」
ゆっくりと水分に関しての検索結果の中に、「……汗や涙、よだれ等、ゆっくり自身が
分泌する水分……」という文脈が検索に引っかかってるものがあった。クリックして、開
いてみる。
どうやら、水に弱いとされるゆっくりが、なぜ自らの分泌液で脆く崩れたりしないのか
を考察しているらしい。実験までしてみたようで、様々な条件下での実験結果も併せて記
載されていた。
交尾の際、ゆっくりは大量の汗のようにして全身から分泌液を滲ませるのだという。そ
れは、ゆっくりの通常の生活において最も水分量が多いらしい。にもかかわらず、自らの
分泌液で、外皮に異常が出ることはない……正確には、脆くなってはいるのだが、内側か
らどんどん再生しているのだとか。
しかし涙のように、分泌されたあと、表面を流れ落ちるモノに関しては、また事情が異
なるとか。たとえば、延々と泣き続け涙を流し続けると、流れた涙の跡が脆くなり、水に
流される土砂のように表皮が削れて、窪んだ“涙の道”が出来上がるそうだ。
ざっと斜め読み程度だが、そのサイトのページにはゆっくりの感情を暴走させる手段、
二種類ある交尾に関して、交尾可能の状態──興奮状態への持っていき方、そして実験後
の回復のさせ方まで、微に入り細にわたり記載されている。それぞれ詳しく検証している
ページが他にあるのか、所々がリンク形式にもなっていた。
「東京特定生物研究所……? なんか、お堅いところのサイトみたいだし、信用してもい
いのかな……って、この文責んとこの名前……」
「お、お兄さん? まりさのおチビちゃん、助かるの? どうすればいいんですか?」
「ん? あ、ああ……どうしたもんかな。ちょっと試してみるか……」
水を掛けるのは良くない、母親の唾液や涙でも駄目だし、本人の涙などでも駄目。可能
性があるとしたら、交尾の際の分泌液をシートの粘着力が弱まるほど出させる……という
のが、ごく短い時間でややいい加減にネット検索した結果だ。
「自分にも影響があるけど、同時に再生するから大丈夫……って、なんかあったなぁ……
昔、読んだような……」
確か……手の平から酸を出して、なんでも溶かすとかいう攻撃だったか。自分の手も溶
けちゃうんだけど、酸を作るときに出るカスで皮膚を再生しているから大丈夫とか……
なんだったっけ?
「ゆぴぃいい! もういやよぉおお! げんかいだわぁあああ!」
「お兄さぁああん!! お願いします! まりさ、なんでもしますから、おチビちゃんを
助けてあげてくださいぃいい!」
「わかったわかった。一か八かだが、やってみよう」
棚の引き出しを開け、適当に詰め込まれた雑貨をガサガサと漁る。ピンク色をした小さ
なローターを選び出し、リモコン部分に電池をセットする。これは、単体で買ったもので
は──つまり、女性とのプレイで使用する目的で購入したわけでは──なく、オナホに付
属品としてついていたものだ。そのことを思い出し、ちょっと気分が落ち込んでしまう。
「お兄さん、それ? それなの? それで、おチビちゃんを助けられるんですか?」
「ん? ん~……わからん。わからんけど、やってみるしかないだろ」
「はやくぅううううっ! いっ、いだっ! いだいのぉおおおお!」
動けば皮が引っ張られて痛むだろうに、チビありすは大口を開けて叫びながら身をよじ
り続けている。その大きく開かれた口に、ローターを突っ込む。
「ふぐゆぅうううう!?」
「静かにしてろ。動いたり暴れたりしたら、余計に痛いんだから」
「我慢だよ! おチビちゃん、ゆっくり我慢してね!」
「あ……思い出した」
「ゆ!? なっ、なんですか、お兄さん! おチビちゃんは助かりますか!?」
唐突に、なんの脈絡もなく、作品名からそのシーンの絵、そしてその現象の名称まで、
スラスラと頭の中で再生された。
どうしてこう、俺は余計なことを考えるのが得意なのだろう?
「お、お兄さん? あの、何度もすみません! でも、早くおチビちゃんを助けてあげて
欲しいんです! まりさ、なんでもしますから……!」
「礼に期待はしていない。ついでに、上手く行くかはわからん。そっちも期待するな」
「そ、そんなぁ……!」
「頑張るのは、たぶん……チビ、お前自身だ」
「ゆぶぶ……?」
「見せてみろ! ゆオー・メルテッディン・パルム現象(フェノメノン)!!」
「ゆ……ゆおー!?」
「ゆっくり生態現象の一つ! 体表から出る特殊な液体で、交尾を行う! この液体は、
ゆっくり自身の皮膚も溶かしてしまうが、液を作るときに出るカスで皮膚を再生している
ので、ゆっくり自身はなんともない!」
我ながらノリノリだ。こいつらにとっては、我が身の激痛、我が子の命の危機なのだろ
うが、俺の方にはそこまでの切迫感はない。やっぱり、ゆっくりのことを生物と思い切れ
てないからかな?
「よ……よくわかりません!」
「そうか」
「でも、これでおチビちゃんは助かるんですね!?」
「わからん」
「あれぇええええっ!? お兄さぁあああんっ!?」
「だから、チビ次第だって言っただろ」
「ゆ……? …………ほ、本当だっ!? お兄さん、そう言ってましたっ!」
「あとは……そうだな。お前らゆっくりの、デタラメさ加減か」
「ゆひゅっ? ゆびぶ!? ゆぶぶぶぶぶぶぶ?」
ローターの振動で、チビありすがブルブルと震え始める。
このチビ共が未熟児だというのは、そう間違っちゃいない推測のはずだ。その上、つい
今朝方に産まれ、直後に命の危機に見舞われ、それから何時間か栄養補給もしなかった…
…つまり、いつ死んでいても不思議じゃない状態だったのだろう。
赤ん坊が、発情状態になるのか──まともな生き物なら、まず有り得ないだろう。複数
段階の性徴ってものを経て、生き物は子を為せるようになるものだと、俺の少ない知識は
言っている。
死にかけていた生き物が、子を産む準備を始めるだろうか──これは、どちらとも言い
切れない。緊急時には、生存本能から生殖への欲求が高まるのは、俺も知っている。でも、
それに耐えられないほど、体力が限界まできていたら……どうなるのか。
「どちらにしろ、お前ら“ゆっくり”が、どれだけデタラメかに懸ってるよ」
「ゆびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅ!?」
「おチビちゃん!? おチビちゃん、頑張ってね! ゆっくり頑張ってね!」
「ゆふひゅふひゅふひゅふひゅふひゅふ!!」
「おチビちゃん!? おチビちゃぁああああん!?」
「取り乱すな。上手く行きそうだぞ」
「ゆゆ!? ほ、ホントですか!?」
チビありすの目が、焦点を失ったかのようにトロンとしてくる。それを敏感に察した母
親まりさは、もう駄目かと勘違いしたようだが……チビありすの全身から、じわりと液体
が滲み出し始めた。
交尾後……つまり液体をたっぷりと滲ませ、その状態から肉体を守るために、急速な再
生を繰り返した後は、たっぷりの食事と水分補給を欲するのだと、あのサイトに書いてあ
った。買ってきた餌を早速にも食わせることになるかと、袋を開けて、ふとゆっくり達を
見やる。
母親もチビ共も、チビありすの様子を食い入るように見つめている。一様に心配そうな
表情だ。
ザラザラと餌の音を立ててみるが、どれもこれもこちらには見向きもしない。ネットな
どの情報では、家族が危険にさらされていようと、餌を見つけたら夢中で食い始める……
なんて浅ましいゆっくりの話を良く聞くが……
「つくづく、変わり者の家族だな」
「お兄さん!? おチビちゃんが……! おチビちゃんが、どろどろです!」
「ん?」
「ゆぴゅぷぴゅるふるゆぴゅるふるゆぴゅぷぴゅるふるゆぴゅるふるぅ!」
自らが分泌した液体に濡れ、涎も溢れさせたチビありすは、ローターの振動に逢わせて
ブクブクと口周りに泡を出している。
汚い。気色悪い。どうにも触ることを躊躇ってしまうが……ここは、我慢すべきだろう。
そっと、チビありすの髪を掴み、軽く引っ張ってみる。たいした抵抗もなく、持ち上げら
れた。
「ゆはぁあっ! とりぇたよぉ!」
「とりぇた! とりぇたぁ!」
「やったわ、あぃす! たすかったのにぇ!」
「よかった……! よかったよ、おチビちゃん! 無事だったんだね!!」
ゆっくりの家族達から、次々に歓声が上がった。もう十分だろうと、ローターをチビあ
りすの口から引っこ抜く。
「んゆふぉおおおおおおおおおおおおおっ!?」
「……あん?」
摘み上げたチビありすが、目の前でクネクネと身をくねらせて、踊る。ダラダラと、粘
液と涎を止めどなく溢れさせたまま、髪を引っ張られ宙づりにされていることなど、まる
で気にもしていない……いや、気付いてすらいないように。
目はトロンと焦点を失ったままだが、何かを捜しているのか、ぎょろぎょろと動き続け
ている。
かなり……気持ちが悪い。
「あ~~~……えっと……なんか、変じゃないか、コレ?」
「ゆあ?」
明らかに様子のおかしいチビありすを、母親まりさの方へと向けて突き出す。二匹の目
が合ったであろう瞬間……
「ゆほぉおおおおおおおおおおおっ!!」
「ゆぎゃぁああああああああああっ!?」
「ぁゆんっ!?」
「ゆびびゅっ!?」
「ゆぉ……? おっ、おにぇーちゃぁああああああん!?」
いきなり、大惨事だ。
宙づりのチビありすは、くねらせていた横運動から急激な縦運動へ──下膨れの体の下
側をビクビクと前に突き出す動きへと変え、奇っ怪な叫びを上げた。
母親まりさの方は、顔を恐怖に歪ませて、引きつった悲鳴を上げると、我が子から逃げ
るようにしてテーブルの上を猛スピードで後ずさった。
そして、その拍子に母親まりさは別の我が子を──もう一匹のチビありすを跳ね飛ばし、
チビれいむを、踏んづけた。
「いたたた……おかあさん、ど……どうぃたのよぉ?」
「ご、ごめんね、ありす? れいむも、だいじょ……ゆぁああああ!? れいむがぁあ!」
「あ~……もう、次から次へ……」
チビれいむの様子を見るために、妙な状態でほーほー言ってるチビありすをテーブルに
置き……
「ゆほぉおおおおおおおおおっ!!」
「ゆぎゃぁああああああああっ!? 助けてぇえええええ!!」
「にゃに!? にゃんにゃのぉおお!? おかーしゃん!? おかーしゃぁあああん!?」
「やっ、やみぇなさい! やみぇるのよ、あぃすぅうう!」
「ゆぁあああっ!? ゆぁあああ、怖いよぉおおおっ!!」
「だぁ~っ! なんなんだ、一体全体!?」
テーブルに置いた途端、ほーほー言ってたチビありすが、チビまりさに襲い掛かった。
慌ててそのヌルヌルのチビありす──面倒だから、ヌルありすでいいか──の髪を引っ掴
んで、他のゆっくり達から離す。
ヌルありすを持った右手をテーブルから離しつつ、顔はテーブルへと寄せて、チビ達の
様子を確認する。
襲われたチビまりさは、粘液を多少擦り付けられたようだが、特に問題はなさそうだ。
空いた左手でティッシュを摘み出して、チビまりさの体を拭ってやる。チビまりさも粘液
が気持ち悪かったのか、自ら体をくねらせてティッシュに擦りつけてきた。
ぶつかった拍子に転がっただけのチビありすも、たいした怪我はないようだ。
……だが、チビれいむは、かなり酷いことになっている。右側が潰れた様になっていて、
口から餡らしきものを溢れさせているし……白いのは、右目の眼球だろうか? それらし
きものも零れ落ちていた。
「おっ、おに……おにいさ……! お兄さぁああん!!」
そして母親まりさは、誰よりも取り乱していた。ひたすら怯えて、涙を止めどなく流し
て……俺に頬ずりをしてきた。
「怖いぃいい! お兄さん、まりさ怖いですぅううううう!」
「……やめろ。離れろ」
「ぅえぇええええ……ごめんなさいぃいい……」
「おにーしゃん! りぇーみゅ おにぇーちゃんが……りぇーみゅ おにぇーちゃんがぁ!」
「おぃーさん! りぇいむ おにぇーちゃんをたすきぇちぇあげちぇ!」
「助けろ……って、言ってるのか? そう言われてもなぁ……」
よくよく見れば、まだチビれいむは生きているのか、小さく体を震わせている。いや、
もしかしたら断末魔状態なのかもしれないが……
「おい、チビれいむ。聞こえていたら、動こうとするな。落ち着いて、ジッとしていろ」
「りぇーみゅ おにぇーちゃん! ゆっきゅぃ! ゆっきゅぃして いってにぇ!」
「おにぇがいよ、りぇいむ おにぇーちゃん! ゆっくぃぃちぇいっちぇにぇ!」
「お前らは、騒ぐな」
無事なチビ共が騒ぐたびに、チビれいむがビクビクと体を震わせる。周りが落ち着かな
いことには、その恐怖や不安が怪我してる方にも伝染するのだろう。
「おい、まりさ。母親なんだから、お前が……」
「ゆぁああ……ゆひ……! ゆぁあああ……!」
母親まりさは、テーブルの上に居なかった。いつの間にか部屋の隅まで移動し、そこに
身を寄せるようにしてガタガタと震えている。
「……母親のお前が! しっかりしなくて、どうするんだ!」
「ゆぇあぁあぁ……で、でもぉ……! でもぉ……! まりさはぁ……!」
「何を泣いてやがる! お前のガキどもは、ちゃんと兄弟の心配をしてんだぞっ!!」
「ゆぴぃいいい!? お、おにーしゃん!? ごめんにぇ? おこりゃにゃいでにぇ?」
「お、おぃーさんっ!? おぃついちぇにぇ!? りぇいむ おにぇーちゃん、びっくぃ
ぃちぇるよ!」
「あ、ああ……そっか、そうだな。大声を出しちゃ、駄目だよな」
「ご、ごめんにゃしゃい! まぃしゃ、あやまゆよ? だかりゃ、りぇーみゅ おにぇー
ちゃんを……」
一気に頭へと上がった血を沈めるため、何度か深呼吸をして、改めて母親まりさの方を
向く。自分でも、どうにも睨んでいるような目つきになっているだろうことは感じられた
が……どうしようもない。
なんとか声だけは穏やかに、落ち着いて話しかける。
「母親なら、こっちに来い。子供達を、安心させてやれ」
「お、おんなじなのぉ……同じなんですぅ……」
「あん?」
「あ、あの……あの、れいむとありすと……あの、野良二匹と、同じ顔なんですぅ……!」
「…………同じ?」
「ゆふんほぉおおおおおおおおおおおおおおっ!」
ヌルありすの様子を、改めて確認する。焦点が察せられない目は、今は横を向いている。
テーブルの上の、チビまりさかチビありすか、どちらかを見ているのだろう。全身からは
相変わらずダラダラと正体不明の液体を滲み出させ、口から漏れる鳴き声は奇妙に間延び
したものばかりだ。
未成熟なゆっくりを興奮させると、こうなるのか……それとも、母親まりさが言うよう
に、こいつの片親であるレイプ魔の“何か”を受け継いでいて、それが目覚めてしまった
のか……
どちらにせよ、このヌルありすが、母親まりさのトラウマを刺激したのだろう。
「まぁ……片手じゃ、何をするにも困るしな」
空いてる方の手で、チビありすとチビまりさをテーブルから下ろし、母親まりさの方へ
と向かわせる。そして、大人しくしているように言い含めて、自分は台所へと向かった。
忙しない。
かといって、モタモタしているとチビれいむは、すぐにでも死んでしまうだろうし……
……死?
そういえば、何度か「死なれるのは困る」「寝覚めが悪い」と考えていたか……俺の中
の、ゆっくりに対するイメージも、生物なのか饅頭なのか、どうにもハッキリしない。
都合の良いところを適当にチョイスして、生物・非生物と扱いを変えているような……
「今の場合は、“都合の悪い”って方が正しいか。まったく……」
もう一度、ゆっくりのデタラメさに賭けることとなりそうだ。どうか“意外とタフ”な
連中でありますように。
*** *** *** ***
気持ち悪い。
気持ち悪い……気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
元々あんなモノは、気持ち悪くて仕方のない存在だったのだ。それを、上手く誤魔化し
忘れたふりをしていた。していられたのに……
だいたいからして、生首なのだ。見た目は生首で、でも中身はお饅頭だという。デタラ
メだ。そんなものが、あるはずがない。いや、そういうお饅頭を作れば、あり得るのだろ
うけれど、だとしても動いたりはしない。ましてや、話したりするものか。
気持ち悪い。
夫が、その気持ち悪いモノを“飼う”などと言い出したときは、正気を疑った。だが理
知的な夫が相手では、軽々しく否定も出来なかった。言い合いになれば、自分が負けるこ
とは目に見えている。
それに、夫のことを疑いたくなかった。いや、何よりも信じていたのだ。愛いしている
だけではなく、心から尊敬もしている夫が、愚かな間違いをしでかすわけがないのだから。
だから、まずは夫の説明を聞くことにした。子供のためにも良いとか、ゆっくりは言わ
れているほど不気味ではないとか、他の生き物に比べて飼いやすいとか……良質なものを
選んで飼うことにするとか。
私の不安をしっかりと理解した上で、優しく教えてくれた。ゆっくりのことを、不気味
な生首だと、気持ち悪い何かだとだけ思い、偏見に満ちていた私に、丁寧にわかりやすく
説明してくれたのだ。
そして、夫はゆっくりの“愛らしさ”とやらを説明するために、インターネット上から
いろいろな写真を見せてくれた。
確かに様々な写真をよく見れば、生首と言っても人間のそれとは、かなり違っていた。
知らなかったのだ。それまではろくに、ゆっくりの顔など観察したことはなかったから。
気持ち悪かったから。
まず、目が大きい。人間と比べれば驚く程の大きさだ。顔に対してのその比率は大きす
ぎるほどで、「人形のような」どころではない。何かの冗談のような、写真のはずなのに、
マンガの絵に思えるほど、大きい。ぱっちりとして可愛いと、言えば言えるが……なにか
不安になる大きさだった。
口もまた、大きかった。閉じているときと開いているときの差が激しく、大きく開くと
顔の半分以上が口なのではないかと思えるほどだ。だが、目の大きさほどに不安感は憶え
なかった。むしろ滑稽味を感じた。口が大きい分だけ、目の大きさの不気味さも緩和され
ている気がしたのだ。
そして、鼻はあるのかないのかわからないほど、低い。それもまた、奇妙な愛らしさを
醸し出しているのだと言われれば、なんとなく理解できた。
顔全体の造作も下膨れで、頬の曲線は柔らかそうだった。
夫に説明されながら見ているうちに、“生首のような”という印象は、いつしか消えて
いた。
代わりに、妖怪か何か……それも、コミカルにリライトされた、マンガやアニメに出て
くるユニークなキャラクターに思えてきた。
そう思えるようになって、いくらか気持ち悪さは薄れた。
いや、忘れたふりをすることが出来た。
初めて、直接にゆっくりと会った時。
写真での印象よりも、ずっと小さかった。片手に乗るほどで、まだ子供なのだという。
たどたどしい口調やぎこちない仕草で、精一杯お利口に挨拶しているらしい“それ”を
見て、「マンガやアニメに出てくるユニークなキャラクター」という印象は、さらに強ま
った。
しかもこのキャラクターは、自分達に害をなさないどころか、自分達に気に入られよう
と媚びを売るのに必死なのだ。
フィクションから抜け出してきた存在が、そこにいると思うことはなかなかに愉快であ
り、しかも自分が圧倒的に優位な立場だという点も、また愉快だった。
聞き分けもよく、何より自分が要求する前に、そのキャラクターが聞いてくるのだ。
「なにをすればいいですか?」
「お手伝いできること、言ってください!」
相手に言われて、こちらから提示する。自分が無理に命じているのではないのだから、
心に負担はまるでかからない。
慣れてくれば、その艶やかな金髪も大きく潤みがちな瞳も、確かに愛らしく見えてくる。
黒く大きな、魔女が被るような帽子も、素直な気持ちで立派だ、似合っていると褒めてや
ることも出来た。
だが、あの瞬間。
あの時に庭で見た、あの光景。
生々しく、おぞましく、汚らしく、穢らわしいモノだった。全てが嫌だった。気持ちが
悪かった。
ぬらぬらと粘液に濡れ、埃塗れの、見たこともない二匹はもちろん、うぞうぞと蠢いて
いる、たくさんの小さな塊達も、そして──
まりさも。
フィクションのキャラクターだったはずのモノ達が、生々しい息づかいと汚らしい湿り
気を伴って、「生き物」であることを主張していた。
あってはならないことだ。
こんな生き物が居るわけがないのだから。こんなデタラメなモノが、生き物のわけがな
いのだから。
やはり、自分は正常なのだ。自分こそが正常なのだ。あんなモノは気色の悪い、不気味
なだけの存在なのだ。
まったくもって気持ち悪い。
「なんなんだ、いったい!!」
泣き疲れた息子を寝室に寝かしつけてきてリビングへ戻ると、夫が庭へ向けて叫び声を
上げたところだった。
そっと覗くと、リビングの窓の外──庭に、まりさが居た。出て行けと言ったのに、戻
ってきたのだろうか? チラッと見ただけでもわかるほどに汚れていたが……あの大きな
魔女の帽子は、まりさだ。
戻ってきたのなら、夫はしばらく、まりさに係り切りになるだろう。
夫は、あの気持ちの悪いモノを溺愛している。あの気色の悪いモノは、やはり妖怪か何
かの不気味なモノで、その悪い影響を受けて、夫は本来の理性も知性も曇らされているの
だ。
けれど何かあれば、その曇りも晴れる。あの聡明な夫が、いつまでも目を眩まされてい
るわけがないのだ。
あの気持ち悪いモノ達に関しては、多少は学んでいる。夫に勧められ、飼うからにはと
いう責任感もあり、なにより息子に悪影響がないようにという想いもあって。
そっとキッチンへ回り、手早く用意する。
使い捨てにしていい、プラスチック製のフォーク。
100%果汁の、オレンジジュース。
チューブ入りの、練り辛子。
何かあれば、夫はきっと目を覚ますのだ。
自分が、目を覚まさせてやらなくてはならないのだ。
*** *** *** ***
深めの金網笊を出し、キッチンペーパーを引いて、そこへヌルありすを放り込んでおい
た。蓋代わりに大きめの皿をかぶせ、さらにその上へ重しとして皿を2枚にどんぶり一つ
を乗っける。
あれなら、余程の衝撃でもない限り、ひっくり返ったり蓋が外れることもないだろうし、
キッチンペーパーを引いておけば、金網でヌルありすの皮が傷つくことも少ないだろう。
あのヌルありすに関しては、放っておいて興奮が冷めるのを待つしかない。
「れいむぅう! ごめんね! お母さんを許してね! お願いだから、ゆっくりしてね!」
「おにぇーちゃん! りぇーみゅ おにぇーちゃん! ゆっきゅぃしてにぇ!」
「ゆっくぃするのよ、りぇいむ おにぇえぃゃん! ゆっくぃぃちぇにぇ!」
部屋に戻ると、ゆっくり達が大騒ぎをしていた。無事な母子はテーブルの下から大声で
呼びかけ、テーブルの上ではチビれいむがビクビクと痙攣を繰り返している。
どうやら、ゆっくりってのは本当にタフなのかもしれない。
とにかく騒ぐなと、きつめの声で母親まりさ達に再度釘を刺し、チビれいむにそっと触
れる。
両手の指先を使って、慎重に、チビれいむの姿勢を仰向けに……口が上を向くように、
ひっくり返す。
吐き出した餡は、人間で言えば血なのだろうか。それとも、内臓……だとしたら、あま
り愉快ではない想像だが……どちらだろうと、中へ戻してどうにかなるものなのだろうか?
わからないことだらけだ。
「ゆ、ゆぶ……!」
「喋ろうとするな。ゆっくりと、そーっと息をするんだ」
「…………」
人間なら、とっくに救急車を呼んでいるところだろう。しかし、ゆっくりの場合は病院
へと連れて行っても、どうにかなるわけもないだろう。ペットだからと言って、獣医に診
せても、相手は饅頭もどきだ。ゆっくり専門の医者が居るのかどうかは、生憎と俺は知ら
ない。少なくとも、近所はもちろん俺の行動範囲では見かけたこともない。
「お、お兄さん……!」
「騒ぐな」
「ゆっ……!」
今の俺は、余程怖い顔をしているのだろう。下からこちらを見上げているゆっくりの母
子は、揃って怯えた表情を浮かべている。自分自身でも、顔の筋肉があちこち引きつって
いるのが感じられた。
祖父の顔が、思い起こされる。怒っている顔だ。よく怒鳴られたが、その記憶の中でも
飛びきりに怖い顔だ。
責任持てねぇくせして、手ぇ出すな。
命をオモチャにしていいほど、偉ぇ孫は持った憶えはねぇ。
お前みてぇのが、こいつらぁ殺すんだ。
猫を拾ったときだ。親と暮らしていたアパートでは飼えなくて、祖父の家に泣きついて、
そして叱られて……
付けっぱなしの、パソコンを見やる。
あの猫が生きている間、毎日学校帰りに祖父の家へと立ち寄った。初めて貰った小遣い
が、猫の餌代だった。俺が猫に餌を飼っていかない限り、何も食えずに飢えて死ぬのだと
脅されて……
子猫が育って成猫となり、年老いてふっつりと姿を消したときに、祖父は良く面倒を見
続けたと褒めてくれた。それでようやく、あの猫はきっと死んだのだと俺は理解したんだ。
命に手を出すというのは、そういうことだ。ペットを飼うってのは、そういうものだ。
饅頭が『命』かは微妙なところだけど……祖父の怖い顔がちらついてるんだから、無責
任なマネは避けるべきだろう。
「……他に、アテもねぇしなぁ」
パソコンモニターに映っている、開きっぱなしだったページに“文責”として表記され
ている名前をもう一度確認し、携帯を手に取る。
「間に合うかはわからんが……ここは一番、学者に頼るしかねぇな」
「ゆ……? が、がくしゃさん? それって、誰なの?」
「知り合いだよ。学者ってのは、あだ名……だったんだが、どうやら本当に学者になった
らしい」
東京特定生物研究所。耳慣れない名前だが、察するに“特定生物”ってのには、ゆっく
りも含まれるのだろう。
「だったら、大怪我したゆっくりを助ける方法も……ああ、ついでにあの帽子を綺麗にす
る方法も聞いた方が良いか」
「い、今は! まりさのお帽子よりも……!」
「わかってるから、でけぇ声を出すな」
「ゆあっ……! ご、ごめんなさい……!」
わかってるんだ、今は帽子どころじゃない。だが、どうにも些細なことが頭に思い浮か
ぶ。
あの、高校の頃から妙に細かいことを突き詰めて考えがちで、言うことやることが学者
然としていた後輩殿は、この面倒な状況をなんとかしてくれるだろうか?
『……先輩、ですか?』
無愛想な声。電話越しだが、すぐにそれと知れる、懐かしい声だ。
「そうだよ。番号登録くらいしてあるんだろ?」
『ええ。ですが……先輩から電話なんて、珍しいですから』
「困ってるんだ。慌ててもいる。大変なことになってる。助けてくれ、学者」
『はぁ……もう春だというのに、また雪でも降らせる気ですか?』
「あん?」
『先輩が、取り乱しているなんて、珍しい』
「……うるせぇ。いいから助けろ」
『なにがあったのか、まず説明してください』
たかが、ゆっくり。生き物かどうかもわからない、半生物の不思議饅頭。
それでも、ここしばらくは俺が責任を取らなくちゃならない。死なれるなんて、寝覚め
が悪いのだけは……やっぱり、勘弁願いたい。
*** *** *** ***
「はなせぇえ! はなすのぜ! まりささまに こんなことして、ただですむと おもって
るのぜ!?」
「煩い! 黙れ!」
なんなのだろう、いったい。
傍若無人な、おそらく野良のまりさを鷲掴みにして、廊下を足早に書斎へと向かう。
今日は、なんと最悪な休日だろう。
片付けたかった仕事は、後回しのままだ。妻は取り乱し、息子は泣いてしまった。可愛
がっていた、まりさが消えてしまった。おまけに穢らわしい野良が、三匹も家に入り込ん
できた。
そう、穢らわしい野良だ。
私の中から、すっかり野良に対する同情の念は消えていた。
こいつらのせいで、私のまりさは家を出て行ったのだ。あの賢いまりさは、それでも人
と共に暮らすための賢さしか持っていない。当てもなく街中を彷徨い、そこらの躾もなっ
ていない野良同然に落ちぶれるのか。
いや、その前に生きてはいけないだろう。
いっそ、誰かに捕まって保健所なりに……いや、それでも私の元へ帰ってくることは、
絶望的か。身元を示すバッジを、身につけていないのだから。
妻も、余計なところで気を回してくれたものだ。せめてバッジを付けたままだったら、
希望が持てたのに。管理不行き届きで咎められることになっても、構うものか。あの賢い
まりさが、それほど人に対して迷惑を掛けるわけがないのだ。多少の罰金や謝罪金など、
痛くも痒くもない。
だが、全てはもう遅い。妻にあたっても仕方ないだろう。彼女も、あの時はずいぶんと
取り乱していたのだから。
さんざんな目に遭わせてくれた野良共に、私は治療をしてやったり、保健所へ連絡する
ためにも捕まえておこうと、追いかけ回したり……
さらにはこの後も、勝手に死なないように様子を見たり餌をやったりしなければならな
いのだろう。
なんなのだ、いったい。
「じじぃいい! いいかげんに するのぜ! いますぐ はなすのぜ! かくごするのぜ?
まりささまを おこらせた いじょうは、“すぺしゃる せいさい こーす”で、ぎったぎた
なのぜ!」
喧しい野良を無視したまま、書斎のドアを開け──
「ゆぎやぁあああああああああああああああああああ! どっでどっでどっでぇえええ!」
「いだいぃいいいい! いだいいだいいだいいだいいだいいだい! なんなのごれぇえ!」
「なっ……!?」
「やかましいのぜ……なんなのぜ、いったい?」
それはこっちの台詞だ。なんなのだ、これは。なんなのだ、いったい。
ケージに入れておいたはずの、二匹の野良が、信じられないほどの勢いで書斎内を駆け
ずり回っている。
何を壊そうが、どのように散らかそうが、どこにぶつかろうが、自分の体が傷つこうが、
一切お構いなしで。
駆け回り、暴れ回り、体を打ち付け、涙涎糞尿を撒き散らし、物を壊し、本を散らかし
ている。
「くっ……! なんなんだ、いったいっ!!」
「のぜっ……? ゆぶべらあ!!」
「ゆびゃぁああああああああ!?」
「喧しい! 黙れ!!」
「「ゆぶばびゅぅううううっ! ぶっ! ぶがっ!」」
掴んでいた野良を、駆け回っている野良の一匹に叩き付け、さらにその衝撃で目を回し
痙攣している二匹を、まとめて思い切り蹴り飛ばす。
未だ駆け回っている残りの野良を踏みつけて止め、持ち上げて確認をする。
「いだいぃいいいい! あ゛り゛す゛の゛! あ゛り゛す゛の゛ と゛か゛い゛は゛な゛
お゛つ゛む゛が゛ い゛た゛い゛の゛ぉ゛お゛お゛お゛お゛」
「な……なにが、とかいはな おつむ なのぜ……そんな くずより、まりささまの ほうが
おおけが なのぜ!」
「ゆぐぁあああああっ! でいぶの! れ゛い゛む゛の゛ ちゃ゛ー゛み゛ん゛く゛な゛
お゛か゛お゛が゛ あ゛つ゛い゛い゛! こ゛れ゛ と゛っ゛て゛ぇ゛え゛え゛!」
「みみもとで どなるなっ! なにが ちゃーみんぐ なのぜ、この ぶさいく れいむ!」
掴み上げた黄色の野良からは、饐えた埃と腐った生ゴミのような臭いに混じって、柑橘
系の香りが強く放たれている。オレンジジュースの香りだ。だが私は、これほどまでに匂
うほど、オレンジジュースを投与してはいない。
それに後頭部は割れていて、その奥にくすんだ黄色いものが、微かに見て取れる。味見
をしてみる気にはならないが……症状を見れば、おそらくは和辛子だろう。
「……彼女が?」
妻が、やったとしか考えられない。他には誰もいないのだから。だが、何故ここまでの
ことをするのか。それほどまでに、ゆっくりが憎かったのだろうか。
それとも……いや、まさか。
だが……
惨憺たる有様となっているのは、私の書斎なのだ。私が愛した書籍が、私が好んだ映画
のDVDが、私が大切にしていたアルバムが、写真が、滅茶苦茶になっている。
「もしかして……私のことを……」
「じじい! ぼさっとしてないで、あまあまをもってくるのぜ! いしゃりょうなのぜ!」
「黙れ……」
「ただの たくさんじゃ しょうちしないのぜ! たくさんを たくさんなのぜ!」
「黙れっ!」
「「ゆぶばぁあああああ!」」
掴み上げ、症状を確認していた野良を、不遜な口の利き方ばかりの、出来損ないの野良
へとぶつける。
耳障りで不快感しか与えてこない悲鳴を上げて、二匹は吹っ飛び、転げ回った。
そうだ。やはり妻は、ゆっくりを憎んでいたのだ。
いや、違う。野良をこそ、憎んでいたのだ。
あの賢いまりさのことは、あんなにも可愛がっていたのだ。私と、息子と、一緒に睦ま
じく穏やかな……そう、ゆっくりとした毎日を、まりさも交えて送っていたのだから。
笑顔で。
何よりも私が愛した、あの笑顔で。何よりも私が好んだ、あの笑顔で。何よりも私が大
切にしていた、あの笑顔で。
だから、妻が私に対する悪意で、こんなマネをしたわけがない。まりさのことも、嫌っ
ていたとは考えられない。
野良だ。
野良が悪い。
こいつらが悪いのだ。
こいつらが現れなければ、妻が取り乱すこともなかった。息子が泣くこともなかった。
そして、賢いまりさが居なくなることもなかったのだ。
「野良のゆっくりに……世間はことのほか、冷たい」
「ゆべべ……この、くそじじい! なんてことをするのぜ! それに! まりささまは、
のら なんかじゃないのぜ!」
「野良ゆっくりが、人間の家へと入り込み問題を起こした段階で、どのように扱われよう
と、やむを得ないことなのだ」
「なんだか わからないけど、まりささまは のら なんかじゃないのぜ!」
「その名を……使うなぁあああ!」
「ゆびゅっ!? ゆぁ……! ゅぎゃぁあああああああ!!」
落ちていた、薄いハードカバー──幼い頃に母から贈られた、アメリカのコミカルな絵
本──を手に取って、手斧のように出来損ないの野良へ叩き付けた。
頭の真上に叩き降ろすつもりが、少し距離感を誤ったためか、本の端が野良の顔を抉る
ような軌跡で床にぶち当たる。
「ま゛、ま゛り゛さ゛さ゛ま゛の゛ こ゛う゛き゛な゛ お゛か゛お゛が゛ぁ゛あ゛!」
「……かえって、良い案配だったか」
「いだいぃいいいいいい! お゛か゛お゛が゛ い゛た゛い゛よ゛ぉ゛お゛お゛お゛!」
「黙れ」
同じ距離感をイメージし、本を振り上げ、振り下ろす。
「べびゅぅううううううう!?」
振り上げ、振り下ろす。
「ひぎゅばばばばばばばば!!」
振り上げ、振り下ろす。
「べびゅるるるるるるるる!!」
「野良が立てる音なんて、耳障りで不愉快なだけだな」
「ばっ、ばでぃざば……! ど……! の゛ら゛な゛ん゛か゛ずぶばばばばばばっ!!」
「黙れ、と……何度も言ったはずだ」
「ぶびゅ……! ぶひゅっ……! ふひゅは……!」
言葉を遮るように、本を振り上げ、振り下ろした。繰り返し、顔面を縦に削られた野良
は、口から奇っ怪な音を漏らして震えるだけになった。
唇は幾重にも割け、頬にも額にも幾条もの縦筋が刻まれ、目蓋もズタズタになっている。
だが、その濁った眼球は眼窩に収まったままだ。まだ視力は失われていないのか、私が本
を振り上げると、奇っ怪な音を高くして、震えもガタガタと大きくした。
本を放り捨て、ケースから飛び出したのか、剥き出しになって転がっているDVDを手
に取る。野良二匹がさんざん暴れ回ったためか、傷だらけだ。これでは、再生は覚束ない
だろう。
悲しさのあまり、溜め息が漏れる。この映画は劇場へも二度、足を運んだ。DVDを購
入して以来、妻と息子も一緒に、何度も見た。あの賢いまりさも、見るたびに歓声を上げ、
私達以上に心を揺さぶられ、大粒の涙を零していたものだ。
台無しにしてくれた野良二匹は、今は声もなく痙攣している。悲しみがすっと冷たい塊
となって沈み、ユラユラと熱の無い炎のようなものが、心の中に立ち上がる。
DVDを両手で掴み、力を込める。何度か曲げている打ちに、高いような鈍いような音
を立てて、二つに割れた。
「暢気に寝ているんじゃあない」
「ゆぎゃぁああああああっ!?」
「ゴミ以下の、害悪でしかない野良が、なにを人の家で暢気に……」
「あがっ! あでぃず! あ゛り゛す゛ し゛ん゛じゃ゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛!」
「死ぬ……? ゴミ以下の分際でか?」
「びぎゃぁあがぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
「お前もだ」
「ゆぎゅああああああ!? れ゛い゛む゛の゛! れ゛い゛む゛の゛ お゛か゛お゛が゛
わ゛れ゛ちゃ゛う゛う゛う゛う゛!?」
「ゴミ以下なのだから、当然“生きてなどいない”。ただ単に、動くことが出来るという
だけだ」
「びびゅぁあばぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
二つに割れたDVDの一片を、薄汚れた黄色い野良の、その後頭部で口を開けていた割
れ目に突き刺し、もう一片を、煤けて黒茶けた野良の、額に刻まれた裂け目へと突き立て
る。
狂ったように駆けずり回ることはしなかったが、びたびたと音を立てて跳ね回り、自ら
その傷口を開き、中身を撒き散らしていく。
ああ、部屋が汚く汚されていく。
だが、もう構うのもか。
こいつらが、さんざん荒らしたのだ。
出来ることなら、この部屋をこいつらごとコンクリか何かで埋め潰したい気分だ。
「ぼうっ! も゛う゛ い゛や゛ な゛の゛ぜ゛え゛え゛! ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛
お゛う゛ち゛ か゛え゛る゛の゛ぜ゛え゛え゛え゛!!」
顔面に縦筋を刻まれた野良が、何かを喚きながら小刻みに跳ね出した。フラフラと右へ
左へ振れながら、それでも書斎の出口へと向かっている。
ああ、顔に傷を負っただけなのだから、まだ逃げる力が残っているのかと、ボンヤリと
考えながら、後を追う。
先ほど追いかけた時のように、走る必要もない。大股で、数歩。それで追いつく。
「ゆぎゃぁあああ!? ばなぜ! ばなしでぇ! も゛う゛、ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛
お゛う゛ち゛に゛ か゛え゛る゛の゛ぜ゛え゛え゛え゛!!」
「野良に帰る場所など、あるものか」
「ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛、の゛ら゛な゛ん゛か゛じゃ゛……!」
「人に害をなして、ただで済むものか」
「ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛、し゛ら゛な゛い゛の゛ぜ゛!!」
「知る必要もない。期待もしていない」
「だ゛っ゛た゛ら゛、は゛な゛す゛の゛ぜ゛!」
「報いは受けてもらう」
顔を上げる。
扉の向こう……廊下から覗くようにして、最も愛した女性が、何よりも愛した笑顔を消
したまま、こちらを見ている。
「そうだろう? 薄汚い野良には、報いを受けてもらわなくては」
「あ……あ、あなた……」
「すぐに済む。君は嫌いなのだろうから、見ない方が良い。聞かなくても良い」
「あ、あの……わ、私、こんな……」
「なぁに、すぐに済むさ。しばらくの間……そうだな。一時間ほど、リビングでお茶でも
していてくれ」
野良を後ろへと放り投げて、ドアノブに手を掛ける。ゆっくりとドアを閉めながら……
「君の嫌いなものは、私が片付けておくから」
……微笑みかける。
だが、あの笑顔は見られなかった。
ドアが閉まる。
「やはり、綺麗に片付けなくてはならないか……」
「あ! ああ! あでぃずを……! どかいばな あでぃずを ゆるじでぇえええええ!」
「どぼじで……! どぼじで、がばいい でいぶが ごんな べに あうのぉおおおおお!」
「ま゛り゛さ゛さ゛ま゛は゛、わ゛る゛く゛な゛い゛ん゛だ゛ぜ゛え゛え゛え゛え゛!」
「悪いさ。野良なのだから」
─ 先輩、デタラメなゆっくりと出会うのこと 了 ─