ふたば系ゆっくりいじめSS@ WIKIミラー
anko1114 私の研究
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ankoss
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注:このSS内ではレイパーや、でいぶなど、まりさ意外のゲス的個体の設定を採用しておりません。悪しからず。
(私の研究)
ある夜、学校の授業が終わって帰宅すると、私の部屋の玄関の前に野良のれいむがいたので踏み潰した。
大きな悲鳴を聞いたのか隣の部屋の女が出てきて、「どうかしたんですか?」と言った。
「ゆっくりがいたので潰しました」と答えたら、女は訝しげにこちらを見て部屋に引き返した。
ドアの向こうでチェーンをかける音が聞こえた。
後日友人にこの話をすると、「そういう時はなにか理由をつけるものだ」と教えられた。
突然の暴力衝動というのが私にはある。
その矛先は大抵ゆっくりに向かい、ゆっくりを叩き潰したあとはいい気分になる。
他人はこれをゆっくり虐待とか、ゆ虐などと呼ぶ。
しかしどうやら最近は、これを許さぬという風潮があるらしい。
ゆっくりに、その人生(ゆん生というらしいが)を享受する権利などあるはずが無い。
あるはずが無いが、あるという人がおり、そのあるという人の声は大きい。
やがてゆ虐に関心のない人まで、ゆ虐は罪悪だとの主張を始める。
ある都市ではゆ虐を取り締まる条例が布かれたといい、
近々私の住む街にも、同様の条例が布かれる予定だという。
ある日、私は学校の先輩と一緒に酒を飲みに行った。
すこし酔ってくると彼は、「ゆ虐愛好者は肩身が狭い」とこぼした。
私はそれに同意し、くだんの条例の話などで盛り上がった。
「でもね、研究目的なら、ゆ虐は許されるんだよ」と、彼は言った。
彼の友人はゆっくり学科を専攻しており、しばしばそういった話を聞くのだという。
私は早速次の日に、専攻する学科の変更を学校に申し出た。
数日後、簡単な試験を経て、私はゆっくりへの転科を果たした。
ゆっくり学科に、ゆ虐愛好者は多かった。
もしかしたら、半数以上がそうなのではないかとすら思った。
彼らはゆっくりの生態の調査を主にしたが、解剖や薬物実験を行うその顔は恍惚に溢れていた。
しかし、私にとって、ここで許される虐待というのは、案外つまらないものだった。
ここにある虐待とは、ゆっくりに薬物を投与して、もがき苦しみながら死ぬ様を観察したり、
ゆっくりを長時間運動させて、過労死させたり、
数体のゆっくりを極限状態に追い遣って、共食いをさせたりといったものであった。
ところが、私が望んでいたのは、そんなに手間と金のかかる虐待ではなく、
もっとシンプルな、引きちぎったり、踏み潰したり、殴り殺したりする虐待であったのだ。
一度だけ辛抱たまらず、研究用のれいむを握り潰したら教授にひどく叱られた。
教授の叱咤は私に、研究室の連中と私とが同じ木の、同じ幹の、同じ枝にありながら、最後の最後で違う葉であることに気づかせた。
私は転科をする前に、もう少しよく考えかったことを悔いた。
仕方が無いので、私はしばしば自腹を切って、大型のペット用のゆっくりを買って帰った。
ペットショップで売られていた銀バッジのれいむは、部屋に着くなり、
「ゆゆ?ここがおにいさんのゆっくりぷれいすだね!れいむもゆっくりしていい?」と言った。
私はまるで、トムソンガゼルを捕えるライオンのように、れいむの背中に飛びついて、脳天に鉄槌を振り下ろした。
「むううううううう!!!むううううううううううう!!!!」
れいむはジタバタと両の“おさげ”を振るわせて必死で何事かを叫ぼうとしたが、
上あごが下あごにめり込んで口が開かないので、なにを言っているかはよく判らなかった。
私はさらに、れいむに向かって何発も拳を振り下ろした。
パキパキと歯の折れる音が響き、左の目玉が飛び出すと、その穴から餡子が吹き出した。
れいむがいつまで、自分の意志でおさげを振るっていたかは分からない。
ビクビクと痙攣するその姿は、めり込んだ顎といい、餡子にまみれ、潰れた身体といい、色も形もまるでアンコウだった。
この愉しみはしかし、あとの片づけが大変だった。
ゆっくりが息絶える時には必ず、部屋全体がうんざりするような甘い匂いに包まれていた。
飛び散った餡やクリームが、シミにならないように丹念に拭きとるのには、大変な労力と技術が要った。
部屋中にビニールシートを掛けようかと思ったこともあったが、
それを貼る手間を考えるとため息がでたし、なにより実生活において不便だと思って止めた。
また金銭的な問題もあった。
貧しくはなかったが学生身分の私にとって、ペット用のゆっくりというのは高価だった。
かといって、野良のゆっくりを部屋に上げるわけにもいかない。
研究用のゆっくりを安く譲ってもらえぬかと交渉したこともあったが、断られた。
結局、この愉しみは二三ヶ月に一度が限度であった。
さて、ゆっくり学科の授業は私の期待とは違ったものであった。
が、最近では、私は当初の期待とは違う楽しさを感じるようになってきた。
つまり、ゆっくりの生態研究が、純粋に楽しくなってきたのである。
特に私は、まりさの研究に没頭した。
まりさというゆっくりは、基本種と呼ばれるゆっくりの中でもれいむ種と並んで数が多く、馴染みの深い種類のゆっくりだった。
私にとって興味深かったのは、このまりさ種には、個体によって明確な性格の差異が見られるということであった。
“明確な性格の差異”というのはすなわち、いわゆる“ゲス”であるか否かである。
多くの人はゲスまりさを嫌った。
ゆっくりに関する保護条例においても、ゲスまりさが除外されていることはままあった。
同じ研究室の学生の中にも、生体実験に使うゆっくりに、わざわざゲス化した個体を選ぶ者が何人かいた。
彼彼女らは、ゲスまりさを虐待したいという嗜虐性よりむしろ、
ゲスでないゆっくりを研究に使うのは心が痛むという“優しさ”を持った者たちであった。
つまり裏を返せば、ゲス個体ならば苦しみ、もがき死んでも、さほど罪悪には感じないという事だった。
一方でゲスまりさを保護しようという運動をする人々もいた。
愛好者の中でもゲスまりさに関しては、意見が分かれていた。
しかしいずれにせよ、共通した認識として、ゲスまりさはまりさ種の中の異常種であり、
ゆっくり全体においても、異端であり邪道である―――と、いうものがあった。
それから随分と月日が経ち、私は卒業研究の論文作成に追われるようになっていた。
私はゲスまりさについての論文を書くことに決めた。
内容は、ゲスまりさがゆっくりにおける正道であることを主張するものであった。
そもそも、ゆっくりとは多産であり、多死である。
年中発情し、すぐに植物のようにツルを生やして四五匹、多ければ七八匹の子を孕む。
それらの子はすぐに産み落とされ、あっという間に成長する。
出産のリスクはほとんど無く、産後すぐ、再びの交尾が可能である。
一方で皮膚は脆く、小石に躓いただけで致命傷となり、にわか雨に見舞われただけで簡単に死ぬ。
しかも、周りにいるのは天敵ばかりである。
にもかかわらず、ハリネズミのような鋭いトゲがあるわけでもなく、牡鹿のような大きなツノがあるわけでもない。
唯一の威嚇行動は通称“ぷくー”と呼ばれる、フグのように頬を膨らませることであるが、
フグのような毒があるわけでもなく、つまりほとんど丸腰である。
私の観察した野生のゆっくりたちは、平均して一年に五十匹程度の子を産むんだものの、
その中から成体となって巣立っていったのは、僅かに五六匹であった。
このような生態の“生モノ”(こう言わねば怒る人がいるのである)が、わが子の死に際して人間のような悲しみを抱くだろうか。
ゆっくりはわが子が死ぬと「おちびちゃああああん!!ゆっくりしないでへんじをしてえええええ!!!」などと泣き叫び、
ともすれば「れいむはどうなってもいいですから、おちびちゃんをゆるしてあげてください」などと懇願する、まことしおらしい個体すらいる。
たしかに、どんな下等な生き物にも、わが子に対する多少の愛情はあるだろう。
しかし、それはあくまでわが子を守るという本能からの愛情である。
多産多死の生き物は、わが子の死に際して、思考の切り替えを行うはずである。
すなわち、助からぬわが子を見捨てて自分は生き延び、新しい子を作ろうとするはずである。
おそらく、ゆっくりがわが子の死に際して泣き叫んだり、自分を身代わりにしようとするのは、人間の行為の真似である。
ゆっくりは古来より、人間と密接な関係にあったと想像できる。
その中で、人間の言語を学び、人間の行動を模倣したのである。
それこそがゆっくりの、その生態に対して極めて不自然な行動の正体なのである。
そう考えてみると、ゲスまりさというのは、実に理にかなっている。
自分の身の危険に敏感で、わが子を見捨てることに躊躇いが無い。
なまじ人間の言葉を話せるがためにゲスなどと謗られているが、
私にはゲスまりさこそがゆっくりのあるべき姿であるように思えるのである。
―――と、私は論文の中で終始このように、ゲスまりさの正当性を主張した。
私の論文は案の定、教授たちの激しい議論を呼んだ。
そしてその結果、私の論文は研究室の代表に選ばれ、卒業論文集となって方々に配られた。
やがてある雑誌がその中から、私の論文を取り上げ、私の論文はより多くの人の目に晒された。
私にとって予期しなかったことは、その論文がゆっくり愛護団体の人々から、高く評価されたことであった。
曰く、「ゲスと呼ばれているまりさと、他のゆっくりたちの平等性を論じ、保護を訴えた素晴らしい論文」とのことであった。
これは私の意図に反していた。
私は別に、ゲスまりさの保護を訴えたわけではなかった。
しかしながら私の論文は、私が教授に提出したあの時を以て、文字通り私の手を離れ、私のものでは無くなっていたのであった。
私は遂に、そのゆっくり愛護団体のひとつから、シンポジウムでのスピーチを依頼された。
私は断ろうとしたが、学校がそれを許さなかった。
某コンサートホールを貸し切って、そのシンポジウムは行われた。
ホールは数百人のゆっくり愛好者たちと、その飼いゆっくりで埋め尽くされた。
壇上に上げられた私の背後には、「全てのゆっくりに愛を」と書かれた横断幕が掲げられていた。
演説台の前では、念入りな化粧と奇抜な色のスーツに身を包んだ中年の女性が、
この国のゆっくりに対する制度が、諸外国に比べて如何に未熟であるかを述べ、ゆっくりを保護する法律の必要性を訴えていた。
そのたびに会場は割れんばかりの拍手に包まれ、その連帯感が私を不安にさせた。
私はこれまでの二十余年の人生の中で、一度たりとも、一秒たりとも、ゆっくりの愛護を考えたことのない人間であった。
それどころか、ゆっくりを虐待し辛くする条例や法律の制定には大反対であった。
そんな私がこんなシンポジウムに出るべきでないことくらい、ゆっくりにでも分かりそうなものだった。
それでも残念ながらとうとう、私がスピーチをする時が訪れた。
私は「特定のまりさに対する、不当な差別を打ち破る救世主」と紹介された。
私は演説台に設置された、ありすのぬいぐるみの付いたマイクに底知れぬ嫌悪を覚えた
そしてその嫌悪はすぐに、私をこのシンポジウムに引きずり出した、全ての人たちへと向かった。
私が口篭っていると、一匹のまりさが私の足元にやって来た。
「おにいさんにぷれぜんとなのぜ!」と、まりさはそう言って、おさげでつかんだ花束を私に差し出した。
ゆっくり愛護団体による、サプライズ演出である。
私がその花束を受け取ると、客席からは今日一番の拍手が沸き起こった。
人々は満面の笑みで、私の言葉を待っていた。
拍手が落ち着いたのを見て、私は“ありすマイク”に向かって次のように述べた。
「この場をお借りして、申し上げます。全てのゆっくりは皆、平等だ。皆平等に価値が無い。生ごみに等しい腐れ饅頭なのです」
そう言うと私は、花束を投げ捨て、足元にいたまりさを思いっきり蹴り飛ばした。
パステルカラーの花びらが、餡子のしぶきと共に客席に降り注いだ。
例え研究者としての地位を奪われたとしても、私はゆ虐愛好者でいたかったのだ。
(終わり)
【過去に書いたもの】
nue065僕と友だちとゆっくりと
(私の研究)
ある夜、学校の授業が終わって帰宅すると、私の部屋の玄関の前に野良のれいむがいたので踏み潰した。
大きな悲鳴を聞いたのか隣の部屋の女が出てきて、「どうかしたんですか?」と言った。
「ゆっくりがいたので潰しました」と答えたら、女は訝しげにこちらを見て部屋に引き返した。
ドアの向こうでチェーンをかける音が聞こえた。
後日友人にこの話をすると、「そういう時はなにか理由をつけるものだ」と教えられた。
突然の暴力衝動というのが私にはある。
その矛先は大抵ゆっくりに向かい、ゆっくりを叩き潰したあとはいい気分になる。
他人はこれをゆっくり虐待とか、ゆ虐などと呼ぶ。
しかしどうやら最近は、これを許さぬという風潮があるらしい。
ゆっくりに、その人生(ゆん生というらしいが)を享受する権利などあるはずが無い。
あるはずが無いが、あるという人がおり、そのあるという人の声は大きい。
やがてゆ虐に関心のない人まで、ゆ虐は罪悪だとの主張を始める。
ある都市ではゆ虐を取り締まる条例が布かれたといい、
近々私の住む街にも、同様の条例が布かれる予定だという。
ある日、私は学校の先輩と一緒に酒を飲みに行った。
すこし酔ってくると彼は、「ゆ虐愛好者は肩身が狭い」とこぼした。
私はそれに同意し、くだんの条例の話などで盛り上がった。
「でもね、研究目的なら、ゆ虐は許されるんだよ」と、彼は言った。
彼の友人はゆっくり学科を専攻しており、しばしばそういった話を聞くのだという。
私は早速次の日に、専攻する学科の変更を学校に申し出た。
数日後、簡単な試験を経て、私はゆっくりへの転科を果たした。
ゆっくり学科に、ゆ虐愛好者は多かった。
もしかしたら、半数以上がそうなのではないかとすら思った。
彼らはゆっくりの生態の調査を主にしたが、解剖や薬物実験を行うその顔は恍惚に溢れていた。
しかし、私にとって、ここで許される虐待というのは、案外つまらないものだった。
ここにある虐待とは、ゆっくりに薬物を投与して、もがき苦しみながら死ぬ様を観察したり、
ゆっくりを長時間運動させて、過労死させたり、
数体のゆっくりを極限状態に追い遣って、共食いをさせたりといったものであった。
ところが、私が望んでいたのは、そんなに手間と金のかかる虐待ではなく、
もっとシンプルな、引きちぎったり、踏み潰したり、殴り殺したりする虐待であったのだ。
一度だけ辛抱たまらず、研究用のれいむを握り潰したら教授にひどく叱られた。
教授の叱咤は私に、研究室の連中と私とが同じ木の、同じ幹の、同じ枝にありながら、最後の最後で違う葉であることに気づかせた。
私は転科をする前に、もう少しよく考えかったことを悔いた。
仕方が無いので、私はしばしば自腹を切って、大型のペット用のゆっくりを買って帰った。
ペットショップで売られていた銀バッジのれいむは、部屋に着くなり、
「ゆゆ?ここがおにいさんのゆっくりぷれいすだね!れいむもゆっくりしていい?」と言った。
私はまるで、トムソンガゼルを捕えるライオンのように、れいむの背中に飛びついて、脳天に鉄槌を振り下ろした。
「むううううううう!!!むううううううううううう!!!!」
れいむはジタバタと両の“おさげ”を振るわせて必死で何事かを叫ぼうとしたが、
上あごが下あごにめり込んで口が開かないので、なにを言っているかはよく判らなかった。
私はさらに、れいむに向かって何発も拳を振り下ろした。
パキパキと歯の折れる音が響き、左の目玉が飛び出すと、その穴から餡子が吹き出した。
れいむがいつまで、自分の意志でおさげを振るっていたかは分からない。
ビクビクと痙攣するその姿は、めり込んだ顎といい、餡子にまみれ、潰れた身体といい、色も形もまるでアンコウだった。
この愉しみはしかし、あとの片づけが大変だった。
ゆっくりが息絶える時には必ず、部屋全体がうんざりするような甘い匂いに包まれていた。
飛び散った餡やクリームが、シミにならないように丹念に拭きとるのには、大変な労力と技術が要った。
部屋中にビニールシートを掛けようかと思ったこともあったが、
それを貼る手間を考えるとため息がでたし、なにより実生活において不便だと思って止めた。
また金銭的な問題もあった。
貧しくはなかったが学生身分の私にとって、ペット用のゆっくりというのは高価だった。
かといって、野良のゆっくりを部屋に上げるわけにもいかない。
研究用のゆっくりを安く譲ってもらえぬかと交渉したこともあったが、断られた。
結局、この愉しみは二三ヶ月に一度が限度であった。
さて、ゆっくり学科の授業は私の期待とは違ったものであった。
が、最近では、私は当初の期待とは違う楽しさを感じるようになってきた。
つまり、ゆっくりの生態研究が、純粋に楽しくなってきたのである。
特に私は、まりさの研究に没頭した。
まりさというゆっくりは、基本種と呼ばれるゆっくりの中でもれいむ種と並んで数が多く、馴染みの深い種類のゆっくりだった。
私にとって興味深かったのは、このまりさ種には、個体によって明確な性格の差異が見られるということであった。
“明確な性格の差異”というのはすなわち、いわゆる“ゲス”であるか否かである。
多くの人はゲスまりさを嫌った。
ゆっくりに関する保護条例においても、ゲスまりさが除外されていることはままあった。
同じ研究室の学生の中にも、生体実験に使うゆっくりに、わざわざゲス化した個体を選ぶ者が何人かいた。
彼彼女らは、ゲスまりさを虐待したいという嗜虐性よりむしろ、
ゲスでないゆっくりを研究に使うのは心が痛むという“優しさ”を持った者たちであった。
つまり裏を返せば、ゲス個体ならば苦しみ、もがき死んでも、さほど罪悪には感じないという事だった。
一方でゲスまりさを保護しようという運動をする人々もいた。
愛好者の中でもゲスまりさに関しては、意見が分かれていた。
しかしいずれにせよ、共通した認識として、ゲスまりさはまりさ種の中の異常種であり、
ゆっくり全体においても、異端であり邪道である―――と、いうものがあった。
それから随分と月日が経ち、私は卒業研究の論文作成に追われるようになっていた。
私はゲスまりさについての論文を書くことに決めた。
内容は、ゲスまりさがゆっくりにおける正道であることを主張するものであった。
そもそも、ゆっくりとは多産であり、多死である。
年中発情し、すぐに植物のようにツルを生やして四五匹、多ければ七八匹の子を孕む。
それらの子はすぐに産み落とされ、あっという間に成長する。
出産のリスクはほとんど無く、産後すぐ、再びの交尾が可能である。
一方で皮膚は脆く、小石に躓いただけで致命傷となり、にわか雨に見舞われただけで簡単に死ぬ。
しかも、周りにいるのは天敵ばかりである。
にもかかわらず、ハリネズミのような鋭いトゲがあるわけでもなく、牡鹿のような大きなツノがあるわけでもない。
唯一の威嚇行動は通称“ぷくー”と呼ばれる、フグのように頬を膨らませることであるが、
フグのような毒があるわけでもなく、つまりほとんど丸腰である。
私の観察した野生のゆっくりたちは、平均して一年に五十匹程度の子を産むんだものの、
その中から成体となって巣立っていったのは、僅かに五六匹であった。
このような生態の“生モノ”(こう言わねば怒る人がいるのである)が、わが子の死に際して人間のような悲しみを抱くだろうか。
ゆっくりはわが子が死ぬと「おちびちゃああああん!!ゆっくりしないでへんじをしてえええええ!!!」などと泣き叫び、
ともすれば「れいむはどうなってもいいですから、おちびちゃんをゆるしてあげてください」などと懇願する、まことしおらしい個体すらいる。
たしかに、どんな下等な生き物にも、わが子に対する多少の愛情はあるだろう。
しかし、それはあくまでわが子を守るという本能からの愛情である。
多産多死の生き物は、わが子の死に際して、思考の切り替えを行うはずである。
すなわち、助からぬわが子を見捨てて自分は生き延び、新しい子を作ろうとするはずである。
おそらく、ゆっくりがわが子の死に際して泣き叫んだり、自分を身代わりにしようとするのは、人間の行為の真似である。
ゆっくりは古来より、人間と密接な関係にあったと想像できる。
その中で、人間の言語を学び、人間の行動を模倣したのである。
それこそがゆっくりの、その生態に対して極めて不自然な行動の正体なのである。
そう考えてみると、ゲスまりさというのは、実に理にかなっている。
自分の身の危険に敏感で、わが子を見捨てることに躊躇いが無い。
なまじ人間の言葉を話せるがためにゲスなどと謗られているが、
私にはゲスまりさこそがゆっくりのあるべき姿であるように思えるのである。
―――と、私は論文の中で終始このように、ゲスまりさの正当性を主張した。
私の論文は案の定、教授たちの激しい議論を呼んだ。
そしてその結果、私の論文は研究室の代表に選ばれ、卒業論文集となって方々に配られた。
やがてある雑誌がその中から、私の論文を取り上げ、私の論文はより多くの人の目に晒された。
私にとって予期しなかったことは、その論文がゆっくり愛護団体の人々から、高く評価されたことであった。
曰く、「ゲスと呼ばれているまりさと、他のゆっくりたちの平等性を論じ、保護を訴えた素晴らしい論文」とのことであった。
これは私の意図に反していた。
私は別に、ゲスまりさの保護を訴えたわけではなかった。
しかしながら私の論文は、私が教授に提出したあの時を以て、文字通り私の手を離れ、私のものでは無くなっていたのであった。
私は遂に、そのゆっくり愛護団体のひとつから、シンポジウムでのスピーチを依頼された。
私は断ろうとしたが、学校がそれを許さなかった。
某コンサートホールを貸し切って、そのシンポジウムは行われた。
ホールは数百人のゆっくり愛好者たちと、その飼いゆっくりで埋め尽くされた。
壇上に上げられた私の背後には、「全てのゆっくりに愛を」と書かれた横断幕が掲げられていた。
演説台の前では、念入りな化粧と奇抜な色のスーツに身を包んだ中年の女性が、
この国のゆっくりに対する制度が、諸外国に比べて如何に未熟であるかを述べ、ゆっくりを保護する法律の必要性を訴えていた。
そのたびに会場は割れんばかりの拍手に包まれ、その連帯感が私を不安にさせた。
私はこれまでの二十余年の人生の中で、一度たりとも、一秒たりとも、ゆっくりの愛護を考えたことのない人間であった。
それどころか、ゆっくりを虐待し辛くする条例や法律の制定には大反対であった。
そんな私がこんなシンポジウムに出るべきでないことくらい、ゆっくりにでも分かりそうなものだった。
それでも残念ながらとうとう、私がスピーチをする時が訪れた。
私は「特定のまりさに対する、不当な差別を打ち破る救世主」と紹介された。
私は演説台に設置された、ありすのぬいぐるみの付いたマイクに底知れぬ嫌悪を覚えた
そしてその嫌悪はすぐに、私をこのシンポジウムに引きずり出した、全ての人たちへと向かった。
私が口篭っていると、一匹のまりさが私の足元にやって来た。
「おにいさんにぷれぜんとなのぜ!」と、まりさはそう言って、おさげでつかんだ花束を私に差し出した。
ゆっくり愛護団体による、サプライズ演出である。
私がその花束を受け取ると、客席からは今日一番の拍手が沸き起こった。
人々は満面の笑みで、私の言葉を待っていた。
拍手が落ち着いたのを見て、私は“ありすマイク”に向かって次のように述べた。
「この場をお借りして、申し上げます。全てのゆっくりは皆、平等だ。皆平等に価値が無い。生ごみに等しい腐れ饅頭なのです」
そう言うと私は、花束を投げ捨て、足元にいたまりさを思いっきり蹴り飛ばした。
パステルカラーの花びらが、餡子のしぶきと共に客席に降り注いだ。
例え研究者としての地位を奪われたとしても、私はゆ虐愛好者でいたかったのだ。
(終わり)
【過去に書いたもの】
nue065僕と友だちとゆっくりと