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#navi(魔導書が使い魔)
&setpagename(魔導書が使い魔-タバサと怪異-04)
寝ていたのは10分程度だろう。
自然とタバサの目は覚ました。
時間は短いが深く眠っていたらしい。大きく息を吸うと冷たい空気が心地よか
った。
いくら寝不足と疲労が重ったとはいえ。短時間といえど敵陣の真っ只中で熟睡
するとは。自分に呆れればいいのか、それとも叱咤すればいいのか判断が付か
ない。
ふと、先ほどから重い腕の中を見る。
そこには寝息を立てている少女がいた。
エルザの寝顔に少しタバサは微笑むと、その頭を撫でる。
くすぐったいのか、むにゃむにゃとエルザは呟いた。
タバサの笑みが深くなる。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
この心地よい重みをどう退かせようかタバサが考え始めたとき。
「っ!?」
全身が総毛立った。
ギャアギャアと頭上で異形たちが騒ぎ始める。
即座に起き上がった。
「うきゃあっ!?」
背中が痛み、エルザが転がって変な声を上げるが構う暇はない。
「なに? なにっ?」
驚き戸惑うエルザの手を引っ張り立ち上がらせると、素早く周囲を見回し。
「見ぃつけた」
その声と共に、森の奥から死の香りを引き連れて道化師は現れた。
「ひっ!」
怯えるエルザを庇うように前に出る。
その手は未だ繋がれたまま。
道化師は艶っぽい笑い声を上げながら立ち止まる。
「ずいぶんと逃げたわね。追いかけっこも中々楽しかったわよ。でも……もう
飽きてきたの」
それはいたぶる者の余裕。
意識をそちらへ向けながら、タバサは脱出する術を思考する。
少しでも、時間を稼ぐために。
そしてタバサの考えを読んだかのように。
「言っとくけど――もう逃がさないわよ?」
「――っ」
風に混じるは腐敗臭。
――あ、ぅあぁぁ……
――ぉおぉおお……
呻き声が聞こえた。
恨み、呪い、渇望する断末魔の叫び。
死してなお弄ばれる死者の集団が、2人を大きく囲うように現れた。
そしてその中には、見覚えのある姿もある。
「おじいちゃん……」
エルザが悲しげに呟いた。
繋がれた手が強く握られ、また強く握り返す。
「さて、それじゃ終わりにしましょうか。もう十分楽しんだでしょ?」
ニタリと、仮面をしていても笑みに顔を歪めているのがわかった。
「さようならお嬢ちゃんたち。いいえ、いらっしゃいかしら? ふふ、あはは
はは」
道化師の笑い声が響く。
ゾンビたちが生者を羨み、妬み、引きずり堕とそうと迫る。
暗い森の中。それは、まるで卵子へ群がる精子のごとく、醜悪で不気味な光景
であった。
――あ、ぅあぁぁ……
――ぉおぉおお……
異形たちが興奮し、身の毛がよだつ咆哮を上げる。
――クォイhgπクォアg;ツ!
敵は強大で多数、空は封鎖され、逃げ場はなく、体力精神力ともに残りわずか
な上、こちらは子連れ。
ジリジリと緊張感が奔る絶望的な状況下。
「おねえちゃん……」
見上げてくる不安げな瞳。
「さあ、恐怖と絶望で染まった声で鳴いて」
嘲笑する嘲りの仮面。
死者が迫り、異形は騒ぐこの怪異溢れる夜の森で。
「――ふぅ」
タバサは憂鬱そうなため息をついた。
「……どうしたの? せめてもの抵抗?」
道化師が呆れた風に言った。
「…………」
声にはタバサは応えずに、杖先を地面へとつけ、俯いた。
「ど、どうしたのおねえちゃんっ!」
突然の行動に焦るエルザ。
それを見て道化師は笑った。
「あはははははっ! そう! そういうこと? せめて楽に死なせて欲しいっ
てお願いなのかしら? あははは!」
タバサは応えない。
散々笑った道化師は仮面の下の視線を合わせ。
「あはははは……ふふふ……潔いわ。でもねお嬢ちゃん、私――そういうの大
嫌いなの」
凍える声で言った。
「最も惨たらしくて、死にたいけど死ねない苦痛を味あわせてあげる」
ゾンビたちが迫る。
恐怖のあまり身が竦みエルザは、涙を浮かべるが。
「……あ」
繋いでいる手に力が込められた。
手の先を見る。
「――」
そこには――戦士がいた。
危機的状態、絶望的状況、絶体絶命、断崖絶壁。
様々な言い方があるが、救いようの無い必死の状況。
10人いたら10人諦めるだろう、100人いたら100人狂うだろう、1000人いたら1000人
絶望するだろう。
たった毛先ほど。
たった一厘ほど。
0.00000001%の奇跡とも呼べる勝機があるのなら。
――その瞳は、決して諦めないと語っている。
それは誇りと魔法を振りかざす貴族ではない。
それは忠義と甲冑を鎧った騎士ではない。
それは生きるために命をかける、戦士であった。
「……ラナ……ソル……」
そこでエルザは気づいた。
俯いた顔の中。細められた瞳はただまっすぐに向けられ、口元は細かく、だが
素早く動いている。
「さあ! 蛆たちの苗床にしてあげる!」
道化師が両手を広げ、ゾンビがいよいよ迫り――
「……デル・ウィンデ」
その魔法は完成した。
渦巻く風。
微風が強風に、強風が剛風に、剛風が暴風へと変わり渦を巻き、空気を/風を
/周囲を撫ぜ回る。
嘲笑とともに、隙だらけな姿を晒す道化師。
「同じものが二度も効くと思っているのかしら?」
圧縮され荒れ狂う暴風は――氷を纏っていない。
「…………っ」
先ほどから杖は地から上げられず、かと言って不意を付くわけでもない。
どこかがおかしかった。
だが、そんな疑問さえも、タバサが放つ魔法の前に掻き消えた。
「『暴風(ストーム)』」
暴虐の風は解放され、その風の限りを杖の先――地面へと広げた。
「――!」
拡散した風が地面を――腐葉土を、かき混ぜ吹き上げる。
風の力は広く、ゾンビたちを通り抜け、道化師の足元の吹き木の葉までも吹き
上げた。
それは視界を遮り、カーテンのように周囲を隠す。
「目くらましのつもり!」
そう、道化師は叫んだが。
一面に降り注ぐ木の葉の乱舞の中。
嵐の中心で唯一木の葉を免れたエルザとタバサ。
タバサは、むき出しになった地面の上。
次の詠唱を終えた。
「イス・イーサ・アース――『錬金』」
その瞬間に舞い降りる木の葉は、降り注ぐ油へと姿を変えた。
油は、森一面に、ゾンビたちの尽くに降り、それを濡らし。
「――しまっ」
その意図に道化師が気づいたとき。
言葉も待たずに、タバサは杖を油へと向けた。
「ウル・カーノ」
発火。
紅蓮の炎が森を彩った。
――ぅ゙あ゙ぅあ゙ぁ゙ぁ゙……
――ぉ゙お゙ぉ゙お゙お゙……
燃え盛る炎の中、死体たちが踊る。
切っても潰しても動くなら、そもそも体ごと燃やせば動きようも無い。
油に引火し、火達磨となったゾンビたちを見ながら、タバサは。
「……うっ」
すとんと膝を着いた。
「だいじょうぶおねえちゃんっ!?」
多少寝て回復したとはいえ、元々の残量が少なかった精神力を使っての連続魔
法。
朦朧とする意識。虚脱した体。杖を持つ手が冷たく、この炎の前にして体温さ
え体は調節できない。
もう限界だと体は告げる。
だが、目の前に広がる炎。それは木々に燃え移り、勢いを増していく。
ここにいては確実に焼死か窒息死である。
「おねえちゃんおねえちゃんっ!」
タバサは隣を見た。
そこには必死にタバサの身を案じる少女がいる。
左手には、小さな手が未だ握られ。それが、冷たい体に熱を送り込む。
その熱を頼りに、体に残る力を最後まで、振り絞る。
「――ふ……ぅっ!」
片足で地面を踏み締めた。
「……っ」
だがふらつく体はそれを許さず、バランスを崩し。
「おねえちゃん! がんばって!」
エルザがそれを支えた。
「……うん」
タバサはそれに頷くと、エルザに支えられながら立ち上がる。
「――」
広がるは炎に彩られし森。
見上げるは騒ぐ、異形。
「掴まって」
「うん!」
エルザがしっかりとタバサに抱きつき。タバサは、静かに確実に詠唱を唱える。
――ブ……ブブ……ブブブブブブブ――
突如、不快な重低音の羽音が響いた。
燃え盛る森の一部が黒色に塗り潰され――
「舐めるな小娘!」
――吹き飛んだ。
舞い上がる火の粉。引き剥がされた炎。
爛々と目を光らせながら道化師は炎の中から現れる。
その手には独りでに捲られる鉄表紙の本が握られていた。
黒色は炎に巻かれ燃えていく。
それは無数の蝿である。
道化師の足元に□◇を組み合わせた毒々しい紅き八芒星形が浮かび上がり、手
に持つ本が薄暗い輝きを放つ。
「蝿どもよ!」
八芒星形から黒い触手が伸びた。
それは羽音の重低音を放ち。炎に焼かれ、燃えた蝿を落しながらタバサたちに
迫る。
蝿の触手がタバサへ届こうとし――
「――『フライ』!」
それは地面を叩いたに過ぎなかった。
2人は空へと飛翔する。
だが。
「馬鹿め! 忘れたの!」
道化師は頭上を仰いだ。
そこには赤き瞳を輝かせる異形どもが待ちかまえる。
「無形の落し児たちよ! 彼の者を貪れっ!!」
――アg★qvホ3gッ!
腐汁を、汚濁を、死臭を撒き散らす異形どもは、歓喜の声を上げて眼下の獲物
へと飛びかかろうと構えた。
「いやぁっ!」
それを見て、エルザは堅く目を瞑った。
そしてタバサは、この最悪の状況で――
「デル・イル……」
唱えるは詠唱。
通常のメイジは1つ目の魔法を使っている時に、2つ目の魔法を使うことは“多
くの者は”できない。
それは特殊な訓練と才能が在る者にしかできない高等な技。
だが極限まで集中した意識下で、タバサはその魔法を唱える。
タバサはぼんやりと状況を把握していた。
周囲は炎に撒かれ、上には異形、下には蝿の触手。
自分の力はもう空っぽで、今すぐ泥のように眠りたい。
杖を手放せたらどんなに楽だろうか。
……だが………だが…………だがっ!
「――怖いよ……」
腕の中の熱が、タバサの心を繋ぎとめる。
「……ソル・ラ・ウィンデ」
属性は風の2乗。
『風の槌(エア・ハンマー)』通常、風1つで足りるそれを2つも重ねる。
杖を背中へとまわす。
「――しっかりと、掴まってて」
「――え」
聞き返す声には応えなかった。
――」qアh■■wqウgッ!
異形たちが2人に向かい降り落ちる。
それが迫る瞬間。
「『エア・ハンマー』」
圧縮された空気の塊。破城槌とも言える威力が。
「――ぐっああっ!」
背後で爆発し、タバサは肺にある空気を全て吐き出した。
「――っ!?」
それは声にならない悲鳴と苦痛の声を置いて、2人を強制的に加速させる。
爆発による、急激な加速。
2人は迫っていた異形どもの予想を超える速度ですり抜け。
枝葉の天井を――突き破る。
「きゃあっ!?」
ばきばきと枝を、葉を掻き分け。
突如音が止み、エルザは目を開いた。
「――」
息を呑む。
そこに広がるのは、どこまでどこまでも暗く続く森。
いつの間に雲が晴れたのだろう。
月が少しでも闇を照らそうと夜空で輝き、その光を森は吸い込む。
先ほどの炎が燃え盛っているのだろう。眼下では茜色の光が煌々と光る。
どこまでも壮大な景色。
吹き付ける風にも注意を払わずに、エルザはそれに見入った。
エルザが呆然としている中、タバサは一切空気のない肺に無理やり息を吹き込
むと、左手を口元に当てる。
――――♪
静寂の夜森に響く澄んだ音。
その音が鳴り終わると。
遠く、なにかがこちらへ高速に接近してくる。
「――お……おぉぉねぇぇえぇぇさぁぁまぁぁぁぁああっ!!」
高速で接近する物体――シルフィードはドップラー効果を引き連れてやってき
た。
シルフィードが近づいてきたとき、タバサの魔法が切れる。
「きゅい!」
落ち行く2人をシルフィードが背で受け止める。
背に乗ったタバサにシルフィードは猛然と話し始めた。
「もうお姉さま! なにやってたの! シルフィーはとても心配したんだから
ね! 村は変なのがうようよしてたし! お姉さまが村長さんの家に行ったき
り出てこなくなるし! シルフィーはとってもとってもとっても心配したんで
すからね! あ、シルフィーって言うのはシルフィードを少し省略した呼び名
なのね。この方が可愛いでしょう、きゅいきゅい!」
「…………」
タバサは無言。
だが、それに別の者が反応した。
「竜がしゃべってる……」
エルザの呟き。
「きゅ……きゅいーっ!?」
シルフィードは驚いた。それはもう超絶的に。
「喋っちゃったのね! 喋っちゃったのね! 人前で喋っちゃったのね!」
ギャアスカと騒ぐシルフィードに、タバサは短く。
「……いいから」
「喋っちゃったの――きゅい?」
シルフィードが首を傾げた。
いつもならここで、タバサが何かしらの誤魔化しなどをするはずなのだが、そ
れがない。
どこかがおかしい、そういえばタバサが酷く疲れているようにも見える。
なにがあったのか聞こうとしたシルフィードに、タバサは指をとある方向へと
指し。
「まずは、帰る」
そう言った。
「きゅ、きゅい」
どこか納得のいかないシルフィードは首を傾げながらも従い、飛び始める。
エルザは、シルフィードとタバサを見比べ。
「……えーと」
呆然としていた。
タバサはそれを見て、少し冷たい鶏冠にもたれかかる。
少し眠りたかった。
今日という日はあまりにも長く、あまりにも濃密だった。
夜風に吹かれながら、静かにタバサは目を閉じる。
背後では、森の茜色の光が徐々に遠く離れいった。
エルザは目の前で眠り始めたタバサを見ていた。
寝入った顔は青白く、まるで死人のように見える。
それが心配になってそっと口元に耳を寄せる。
――、――、
呼吸音が聞こえ少し安心した。
安心すると、なにもすることが無いことに気がついた。
自分達を乗せて飛ぶ風竜を見る。
さっきは喋っていた風竜は、今は沈黙を守っている。
タバサがメイジだから、この風竜は使い魔なのだろう。
初めの印象ではお喋りに思えたが、疲れて寝ているタバサに配慮しているのか。
とてもいい使い魔だと思う。
エルザは初めの晩を思い出す。
自分のことを話したエルザに、タバサは自身のことも語ってくれた。
病気の母、献身的な使用人、魔法学院、そこで出来た大切な友達。
この使い魔もそうだ。
少し単純だけど、本気で自分を心配してくれる大切な存在だと言っていた。
――ああ、こんなにも彼女は恵まれている。
タバサの暖かさが、エルザの心の闇を突いた。
思い出されるはメイジに殺された両親。
猛然と立ち向かった父親が焼かれる臭い、許しを請う母親から飛ぶ血飛沫。
そう2人は『メイジ』に殺された。
ただ着実に、闇が、エルザの中で肥大化してゆく。
エルザは動けない。
今タバサを見てしまうと、なにをするかわからないからだ。
……
…………
………………
……いつまでジッとしていただろう。
かなりの時間がたった気がする。
ふいに
大きな風がエルザへと吹きつける。
「っ」
髪が顔にかかり、思わず向けた先に――寝入るタバサがいた。
「――」
エルザは息を殺す。
どくり、と心臓が跳ねた。
晒された無防備な姿。
ゆっくりとエルザはタバサへと近づく。
白く陶器のような肌。
近づくに連れて、細かい部分まで鮮明になり。エルザの本能が、黒い欲求を吹
き出してくる。
人形のように整った顔。
エルザは静かに顔を近づける。
微かな息遣い。
エルザが口を開ける。
「――っ……っっ」
するとどうだろう。僅かに尖っていた犬歯がぎちぎちと伸びてゆく。
日に弱く、先住魔法を操り、血を吸った者を1人操れる夜の狩人。
時にはその特徴である尖った歯を隠し、完全に擬態する擬態する人間の天敵。
そこにいるのは、吸血鬼であった。
伸びた歯は犬歯という表現ではなく、剣歯とでも呼ぶ方が相応しい。
風竜は静かな変化に気づく様子はない。
興奮か喜びか、息が荒くなりそうなのを出来るだけ殺す。
「……ぁ」
鼻先がタバサの首筋へと近づいた。
強風吹き抜ける中、ふわりと血と泥と柑橘系の匂いが香った気がした。
目に入るその首は細く、血管が透きでそうなほど白い。
その下に流れる血液を想像して喉が鳴る。
「……ぅ……ふぅっ」
吸血鬼の本能が叫ぶ。
吸い尽くせと。血潮を、命を、呑み貪れと。
目の前にいるのは“憎きメイジ”なのだから!
「……! ……っ」
そして歯先が首筋へと触れて――
「――ひっく」
涙が零れた。
憎しみに駆られ、本能に囁かれ、首筋に剣歯を突きたてようとしながら、エル
ザは泣いていた。
思い出されるのは、暖かい笑顔。
道化師から逃げた先で迎えられた家。
ただ利用しようとしただけなのに、与えられた優しさは本物だった。
掛けられた言葉、振舞われた料理、絶やさぬ笑み。
その全てに優しさが込められ、冷えた心の底に溜まっていった。
そして――命をかけた背中が、忘れられない。
「う……ああ……ひっく……」
まだ涙は止め処なく溢れる。
目の前で眠る者が、何度自分を助けたことか。
相手の真意を探ろうとしたことで、同じものを心に共有すると気づいた。
だが、怯え縮こまる心をほぐしたのは彼女だった。
託された少女を、傷つきながらも護り通した。
握られていた手の、なんと暖かかく、そして力強かったことか。
そして――
『大丈夫。あなたはわたしが護る』
この言葉がいかに嬉しかったことか。
「ぅあぁ……ぁああぁぁ……」
少女は静かに泣く。
何に対してかは自分にもわからない。
ただ涙が止まらなかった。
それでも2人を運ぶ風竜に気づかれぬように、タバサが起きぬように……静か
に泣く。
鋭かった犬歯は短くなっていた。
「――」
エルザは急に身を起こす。
嫌な予感を感じた。
それは最も嫌いで、最も恐ろしく、最も敵わない存在。
逃げろ、隠れろと血が騒ぐ。
だがここはなんの遮蔽物もない上空。
急激に吐き気を催し、体が震え、血の気が引く。
その様子はある意味、道化師と相対したときよりも酷い。
「っ……ぁ……」
エルザが大きく目を見開いた。
どこまでも夜闇に沈む雄大な森と空の狭間――そこに光が生まれる。
先住魔法を使い、人に完全に擬態し、人狩人とも言われる吸血鬼。
彼らが唯一の天敵――日の光。
吸血鬼は日の光に当たると肌が爛れるとも灰になるとも言われているが、エル
ザはわからない。
生まれてこの方、日の光に当たったこともなく。
日の下に出たいとも思わなかったのだ。
ただ、恐ろしいということだけは死んだ両親から、そして本能から学んでいた。
その日の光が今、地平線から顔を覗かせようとしている。
「――ぅ……ひぅ」
エルザは硬直した。
恐怖が体を支配し。
「っぁあっ!!??」
太陽が昇る瞬間、エルザは目を瞑った。
――朝日が、全てを照らす。
「――――…………………?」
だが、いつまで経っても想像した痛みや熱さは感じなかった。
恐る恐る目を開ける。
目を開けた先にあったのは暗闇。
暗闇はバサバサと音を立て、風になびく。
その暗闇からは布の感触と……薄い柑橘系の香りがする。
そして、自分の体が抱きしめられていることに今更ながらエルザは気がついた。
それは暖かく、そして優しかった。
布越しに声が聞こえた。
「――大丈夫。あなたはわたしが護るから」
「――ぅあ……ひっ……うぁああ……っ!!」
エルザは再び泣いた。
今度は大きく、風竜が驚くほどに。
ぱちぱちと燃え尽きた木々が小さな合唱をする。
薄く立ち上る白い煙が合唱に呼応するように風に揺られて踊る。
大地は黒く染まり、黒以外のものはほとんどない。
――その場を現すなら壮絶であった。
それらは炎の洗礼を、暴虐を受けた跡。
そこに一切の生命はなく、全ては灰か炭と化し転がるのみ。
だが、そんな地面にも白き斑点がぽつぽつと浮かぶ。
白は時に丸く、時に長く、形も様々ある。
それは――様々な骨であった。
さすがに切っても潰されても動くゾンビも、こうなれば動きようもない。
これで、死してなお肉体を陵辱されていた彼らも安心することができるのだろ
うか。
――否。
不意に、地面から染み出すように“黒”が広がった。
それは炭で埋め尽くされた黒を侵蝕し“より黒く”染め上げる。
黒は触れるもの全て染め、腐敗させる。
染み出した黒は、◇□を組み合わせた巨大な八芒星形となった。
それは途轍もなく邪悪な意思を込められた魔方陣。
――ブ……ブブブ……ブブブブブ――
重低音がどこからともなく響く。
そして、
――ブブ、ブブブブブブブブブブッ!
爆発するように魔方陣から、空を染めるがごとく蝿が湧き出した。
「よくもやってくれたわね、小娘ぇ」
その声は黒い本流から聞こえた。
無尽蔵に蝿の涌き出る漆黒の八芒星形の中心。そこから声は響く。
「どこに逃げたか知らないけど……誰に牙を向けたか、今すぐ思い知らせてく
れる」
――ブブブブブブブブブブッッ!!
蝿の勢いが増した。
その中心から、不快な、おぞましい何かが響く。
「――%▼$■……#――」
人の声帯で到底だすことは敵わない音。
それは精神を掻き立てるようなリズムを刻み。
とうとう完成しようとした時。
『ははははは! “子”たちから見ていたぞミューズ。してやれたな!』
楽しげな声が響いた。
「ああ、王よ!」
声を聞いた瞬間、蝿の本流は収まった。
晴れた視界の中、そこにあるのは道化師と赤き光を放つイヤリング。
さきほどまでの怒りが嘘であったかのように、恋する少女のような声を道化師
はだす。
「すみません。お借りしていた“子”たちも、集めた死体たちも失ってしまい
ました」
『なあに、気にすることはない。“子”たちは我が力を試すための遊び。お前
の集めた者たちは“副産物”にすぎんのだ』
道化師の目が光る。
「ですが、今からでもあの小娘を捻ることはできます」
その言葉に、声はあくまで陽気さを失わない。
『かまわんかまわん。それにな』
「それに?」
もったいぶる言葉。
『あれは我が姪なのだ!』
「――っ!」
道化師は息を呑んだ。
「そ、それではとんだ無礼を……」
がたがたと震えだす道化師。
だが、声はやはり楽しげに言う。
『ははは! そこまでかしこまる必要もない。死んでしまったら死んでしまっ
たで別に構わん』
あくまで声は楽しげで、愉快げだった。
「そうですか……」
『それでは我がミューズよ帰還せよ! お前にはまだまだやってもらいことが
あるからな!』
「はいっ」
深く噛み締めるように道化師が応じると、イヤリングは光を失った。
そうして道化師が会話を終えた時。
“まぁた、随分と初心なところ見せるじゃない?”
声なき声が響いた。
道化師は呻くように頭を抱えた。
「……黙れっ」
“それに禁止してるわけじゃないのに、さっさと召喚陣を引っ込めちゃって”
それは深く、道化師の脳内だけに響く。
「黙れと言っているっ」
“邪魔されたとはいえ、あいつらだって見逃しちゃうし”
「お前はっ!」
その声はねっとりと纏わりつくタールのような粘着性と、腐りかけた陽気さを
持つ。
“なぁにぃ? あんた「まだ人間やってるつもり」なの? おほほほほっ、な
にそれ? 報われない恋、悲しき恋の行く末に同情しちゃったのぉ?”
「――っ!」
それは人を嘲るではなく、嘲笑するのではなく。
“忘れないでね。あなたは「まだ生きてる」にすぎないの”
ただただ、いたぶる者が持つ愉悦。
“あなたに実る恋なんて、あなたに与えられる愛なんで――なぁんにぃもない”
「――だまれぇぇええッッ!!」
道化師の体から殺気が吹き出す。
白骨が融解し、周囲の炭が風化した。
“おほほほほ。それじゃあ、精々あがくことね”
その声は頭の奥へと響き……消えていった。
「私は……絶対に呑まれるものか……」
100年は草木1本も生えないだろう死の大地と化した場所で。
「ああ……ジョゼフ様……」
道化師は呟き、そして自らの影へと沈んだ。
ある日。ザビエル村、それを含めた近隣の村から人が消えた。
それは突然のことであり、火事や争いの跡はあったものの死体1つ無い。
また、草木が尽く枯れ、腐ることから。その村へ訪れた者は一様に不気味がり、
長居する者はいない。
そして同時期にザビエル村の近くでは山火事があった。
だが普通では考えられない早さで回る火に対して、その規模は非常に小さいも
のであった。
付近を通りかかった人の証言によれば、まるで山火事を囲うように広範囲に木
々が切られていたという。
どうしてザビエラ村を含む村人が消えたのか、誰が山火事を最小限に抑えたの
か。
未だ判っていない。
タバサが学院へと戻ったのは朝食前であった。
あまり人に見られるのは良くないと思い、窓から戻る。
自室の窓にシルフィードを近づけると、エルザを背負って入った。
エルザは泣き疲れて眠っていた。
シルフィードは去り際に。
「なにがあったのか後でちゃんと説明して欲しいのね! きゅい!」
と言っていたが。
果たして、マントを被り眠っている少女が吸血鬼だと知ったらどんなに驚くだ
ろうか。
その慌てふためく様を想像し、軽くタバサは笑う。
想像するのはいいが、いつまでこうしているわけにもいかない。
静かにエルザをベッドへ下ろすと、窓を閉めカーテンで日を遮る。
この学院の寮は貴族の子供が集まるだけあって、有名な建築士が立てたらしい。
つまりは、寮の部屋は日当たりがいい。
この寮は吸血鬼にとって優しくないのだ。
……吸血鬼に優しい学院寮などありはしないだろうが。
タバサが指を振ると明かりがつく。
「ん……むにゃ……」
照らされる室内。息苦しかったのか、エルザは早々に被せていたマントを剥ぎ
寝言を呟いていた。
その姿は微笑ましく、誰も少女が吸血鬼だとは思わないだろう。
エルザを見て、タバサも微笑もうと口元を動かそうとし。
「――こふっ、こふっ!」
咳き込んだ。
とっさに覆った手から血が流れ落ちる。
「ごほっ……ごほっ……」
タバサはくの字に体を折る。
咳き込むたびに血が手から溢れていく。
その顔は青を通りすごし、真っ白であった。
エルザを庇って背中から墜落。碌な休息もない徹夜の強行軍。そして加速する
ために自身への攻撃魔法の使用。
必要だったとはいえ、それは確実に彼女の体を痛めつけた。
ふらつきながらタバサは棚へと歩く。
棚を空けると、そこには液体を入れた瓶――水の秘薬がある。
その瓶を取ると、蓋を開けた。
タバサは躊躇なくそれに口をつける。
「んくっ……んくっ……っごほごほごほ!」
こみ上げる血ごと秘薬を飲み、口を離すと再び咳き込んだ。
そして息を整えると、杖を手に持ち。
「イル・ウォータル・デル……」
ぼんやりとした光がタバサを包む。
『癒し(ヒーリング)』である。
水専門のメイジではないタバサの魔法では、全快はしないだろうが無いよりも
ましである。
そして、取り返しのつかないことになっても、タバサは自分から助けを求めよ
うとも思わない。
唱えていくと次第に顔に、ほのかに赤みが差す。
「――」
『ヒーリング』唱え終えたタバサは別の意味でふらついた。
元々空っぽだった精神力。わずかに回復した分だけ、これで使い切ってしまっ
たのだ。
このまま倒れこみ眠りにつくことさえも甘美なことと思える。
だが、タバサは少し考えた。
このままエルザをどうするか。
あのゾンビはなんだったのか。
あの道化師はどうなったのか。
そして最後に見た異様な空気を放つ本は。
あれの魔法は一体――
「んみゃん……」
エルザが寝返りをうった。
その拍子にバタリとなにかが落ちる。
それにタバサは目を向けた。
落ちた物の正体は、出かける前に開いたままにしていた『失われし秘蹟』。
その開かれたページには章のタイトルが目に入った。
“魔導書と契約した外道の魔術師”
「――」
タバサが無言でその本を拾うと。
コンコン――
扉がノックされた。
『タバサ、あなた帰ってきてるの?』
それは今、一番信頼する友人の声。
『帰ってきてるなら一緒に朝食に行きましょ。今日はなんか、あなたの好きな
苦い系のサラダが出るらしいわよ』
無言のままタバサは本を閉じると、そっと本棚へ戻す。
『えーと、なんだっけ。ムラサキだか、アオだかヨモギとか言うらしいけど』
そして扉越しに話す友人へ会うために手を伸ばす。
ガチャリ――
「はあい、2日ぶりね」
そこにはいつもと変わらぬ友人(キュルケ)がいた。
「あなた酷い顔してるわよ」
キュルケはタバサを見るなりそう言った。
たぶん寝不足と疲労、そして癒え切らぬ傷によりタバサの顔色はあまりよくな
いだろう。
だがそれでも。
「あなたも似たようなもの」
化粧で隠しているが、キュルケの目の下に薄っすらと隈があった。
「あー……これはね」
なにか言いにくそうにするキュルケに、タバサは質問した。
「彼女は?」
「ルイズのこと? ルイズなら今朝目覚めたわよ」
それにキュルケは不満そうに応えた。
「あの子ったら2日間ずっと寝てたのよ」
ぶつくさと言うキュルケにタバサはポツリと言う。
「それで、なんでさっき目覚めたのを知っているの?」
「――え」
キュルケが固まった。
「ええっとそれはね……たまたま朝に様子を見入ったら、たまたま起きてて……」
しどろもどろになるキュルケに追い討ちを掛けた。
「2日間、心配で、寝ずに看病?」
「――っな」
図星を突かれたように硬直するキュルケを、タバサは置いて先に行く。
課された課題はまだあり、新しき同居人もいる。
抱える問題と悲しみは増えた。
「ち、違うわよ! なんであんなのを――」
だが、後ろでは自分の使い魔とは別の意味で騒がしい存在がいる。
今それがタバサには心地よく。
キュルケには見えないように、こっそりと笑った。
『はあ……足りない分のムラキヨモギを貰いに来ただけなのに』
それが、ミーシャが聞いた第一声であった。
時間は前日へと巻き戻る。
ゾンビに囲まれ、道化師が迫る中。
絶望した私が見たのは、飛翔する黒い影であった。
それは、視認ができないほどの速度で道化師と2人の間へと割り込むと。一瞬
にして2人を覆った。
驚きを顕にする道化師は、結局なにもせず。
覆ったと思った影に、実は小脇に抱えられたと気が付いた時には。
影は来た時と同じように高速で飛翔し、その場を離れていた。
しばらく飛んだだろうか、村から遠く離れ小高い丘へと降ろされる。
黒き影――いや、漆黒の甲冑(?)を着込んだ人は片手で抱えていたアレキサ
ンドルも下ろすと。
『はあ……足りない分のムラキヨモギを貰いに来ただけなのに』
そう言った。
絶体絶命からいきなり正体不明の人に助けられ、しかも助けられてから初めて
聞いた言葉がそれである。私は目を白黒させた。
その時、私は混乱していたのだろう。
「あ、あの」
『ん?』
どこかエコーがかかった声が聞き返す。
「ムラサキヨモギなら。あの赤みがかかった木の傍、野苺が生えている辺りに
群生しています」
私は丘から遠くにある森を指差し、そんな間抜けなことを言った。
本来ならお礼を言うなり、名前を聞くなりするべきなのだろう。
だが、とんちんかんなことをいう私に。
『そうか、ありがとう』
エコーがかかった声がお礼を言った。
そこでようやく、自分がお礼を言わなければいけないと気づいたときには。
『ここからなら街も近い。暗くならないうちに行くといい』
背中の羽が開き、黒き光を発してその人は、あっという間に飛び立っていった。
「「…………」」
呆然と見送る私とアレキサンドル。
そんな時に、ぽつりとアレキサンドルは言った。
「なあ、ミーシャ。必死に生きるって……これからどうすればいいんだ」
私は精一杯考えた。
村は焼け、人が死に、多分両親も死んだ。
これからどうするか。
そして答えは、簡単に出た。
「まずは、暗くなる前に街に行きましょ。それからよ」
私はそう言い、アレキサンドルはまた呆然とした後、薄く笑った。
#navi(魔導書が使い魔)
#navi(魔導書が使い魔)
&setpagename(魔導書が使い魔-タバサと怪異-04)
寝ていたのは10分程度だろう。
自然とタバサの目は覚ました。
時間は短いが深く眠っていたらしい。大きく息を吸うと冷たい空気が心地よか
った。
いくら寝不足と疲労が重ったとはいえ。短時間といえど敵陣の真っ只中で熟睡
するとは。自分に呆れればいいのか、それとも叱咤すればいいのか判断が付か
ない。
ふと、先ほどから重い腕の中を見る。
そこには寝息を立てている少女がいた。
エルザの寝顔に少しタバサは微笑むと、その頭を撫でる。
くすぐったいのか、むにゃむにゃとエルザは呟いた。
タバサの笑みが深くなる。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
この心地よい重みをどう退かせようかタバサが考え始めたとき。
「っ!?」
全身が総毛立った。
ギャアギャアと頭上で異形たちが騒ぎ始める。
即座に起き上がった。
「うきゃあっ!?」
背中が痛み、エルザが転がって変な声を上げるが構う暇はない。
「なに? なにっ?」
驚き戸惑うエルザの手を引っ張り立ち上がらせると、素早く周囲を見回し。
「見ぃつけた」
その声と共に、森の奥から死の香りを引き連れて道化師は現れた。
「ひっ!」
怯えるエルザを庇うように前に出る。
その手は未だ繋がれたまま。
道化師は艶っぽい笑い声を上げながら立ち止まる。
「ずいぶんと逃げたわね。追いかけっこも中々楽しかったわよ。でも……もう
飽きてきたの」
それはいたぶる者の余裕。
意識をそちらへ向けながら、タバサは脱出する術を思考する。
少しでも、時間を稼ぐために。
そしてタバサの考えを読んだかのように。
「言っとくけど――もう逃がさないわよ?」
「――っ」
風に混じるは腐敗臭。
――あ、ぅあぁぁ……
――ぉおぉおお……
呻き声が聞こえた。
恨み、呪い、渇望する断末魔の叫び。
死してなお弄ばれる死者の集団が、2人を大きく囲うように現れた。
そしてその中には、見覚えのある姿もある。
「おじいちゃん……」
エルザが悲しげに呟いた。
繋がれた手が強く握られ、また強く握り返す。
「さて、それじゃ終わりにしましょうか。もう十分楽しんだでしょ?」
ニタリと、仮面をしていても笑みに顔を歪めているのがわかった。
「さようならお嬢ちゃんたち。いいえ、いらっしゃいかしら? ふふ、あはは
はは」
道化師の笑い声が響く。
ゾンビたちが生者を羨み、妬み、引きずり堕とそうと迫る。
暗い森の中。それは、まるで卵子へ群がる精子のごとく、醜悪で不気味な光景
であった。
――あ、ぅあぁぁ……
――ぉおぉおお……
異形たちが興奮し、身の毛がよだつ咆哮を上げる。
――クォイhgπクォアg;ツ!
敵は強大で多数、空は封鎖され、逃げ場はなく、体力精神力ともに残りわずか
な上、こちらは子連れ。
ジリジリと緊張感が奔る絶望的な状況下。
「おねえちゃん……」
見上げてくる不安げな瞳。
「さあ、恐怖と絶望で染まった声で鳴いて」
嘲笑する嘲りの仮面。
死者が迫り、異形は騒ぐこの怪異溢れる夜の森で。
「――ふぅ」
タバサは憂鬱そうなため息をついた。
「……どうしたの? せめてもの抵抗?」
道化師が呆れた風に言った。
「…………」
声にはタバサは応えずに、杖先を地面へとつけ、俯いた。
「ど、どうしたのおねえちゃんっ!」
突然の行動に焦るエルザ。
それを見て道化師は笑った。
「あはははははっ! そう! そういうこと? せめて楽に死なせて欲しいっ
てお願いなのかしら? あははは!」
タバサは応えない。
散々笑った道化師は仮面の下の視線を合わせ。
「あはははは……ふふふ……潔いわ。でもねお嬢ちゃん、私――そういうの大
嫌いなの」
凍える声で言った。
「最も惨たらしくて、死にたいけど死ねない苦痛を味あわせてあげる」
ゾンビたちが迫る。
恐怖のあまり身が竦みエルザは、涙を浮かべるが。
「……あ」
繋いでいる手に力が込められた。
手の先を見る。
「――」
そこには――戦士がいた。
危機的状態、絶望的状況、絶体絶命、断崖絶壁。
様々な言い方があるが、救いようの無い必死の状況。
10人いたら10人諦めるだろう、100人いたら100人狂うだろう、1000人いたら1000人
絶望するだろう。
たった毛先ほど。
たった一厘ほど。
0.00000001%の奇跡とも呼べる勝機があるのなら。
――その瞳は、決して諦めないと語っている。
それは誇りと魔法を振りかざす貴族ではない。
それは忠義と甲冑を鎧った騎士ではない。
それは生きるために命をかける、戦士であった。
「……ラナ……ソル……」
そこでエルザは気づいた。
俯いた顔の中。細められた瞳はただまっすぐに向けられ、口元は細かく、だが
素早く動いている。
「さあ! 蛆たちの苗床にしてあげる!」
道化師が両手を広げ、ゾンビがいよいよ迫り――
「……デル・ウィンデ」
その魔法は完成した。
渦巻く風。
微風が強風に、強風が剛風に、剛風が暴風へと変わり渦を巻き、空気を/風を
/周囲を撫ぜ回る。
嘲笑とともに、隙だらけな姿を晒す道化師。
「同じものが二度も効くと思っているのかしら?」
圧縮され荒れ狂う暴風は――氷を纏っていない。
「…………っ」
先ほどから杖は地から上げられず、かと言って不意を付くわけでもない。
どこかがおかしかった。
だが、そんな疑問さえも、タバサが放つ魔法の前に掻き消えた。
「『暴風(ストーム)』」
暴虐の風は解放され、その風の限りを杖の先――地面へと広げた。
「――!」
拡散した風が地面を――腐葉土を、かき混ぜ吹き上げる。
風の力は広く、ゾンビたちを通り抜け、道化師の足元の吹き木の葉までも吹き
上げた。
それは視界を遮り、カーテンのように周囲を隠す。
「目くらましのつもり!」
そう、道化師は叫んだが。
一面に降り注ぐ木の葉の乱舞の中。
嵐の中心で唯一木の葉を免れたエルザとタバサ。
タバサは、むき出しになった地面の上。
次の詠唱を終えた。
「イス・イーサ・アース――『錬金』」
その瞬間に舞い降りる木の葉は、降り注ぐ油へと姿を変えた。
油は、森一面に、ゾンビたちの尽くに降り、それを濡らし。
「――しまっ」
その意図に道化師が気づいたとき。
言葉も待たずに、タバサは杖を油へと向けた。
「ウル・カーノ」
発火。
紅蓮の炎が森を彩った。
――ぅ゙あ゙ぅあ゙ぁ゙ぁ゙……
――ぉ゙お゙ぉ゙お゙お゙……
燃え盛る炎の中、死体たちが踊る。
切っても潰しても動くなら、そもそも体ごと燃やせば動きようも無い。
油に引火し、火達磨となったゾンビたちを見ながら、タバサは。
「……うっ」
すとんと膝を着いた。
「だいじょうぶおねえちゃんっ!?」
多少寝て回復したとはいえ、元々の残量が少なかった精神力を使っての連続魔
法。
朦朧とする意識。虚脱した体。杖を持つ手が冷たく、この炎の前にして体温さ
え体は調節できない。
もう限界だと体は告げる。
だが、目の前に広がる炎。それは木々に燃え移り、勢いを増していく。
ここにいては確実に焼死か窒息死である。
「おねえちゃんおねえちゃんっ!」
タバサは隣を見た。
そこには必死にタバサの身を案じる少女がいる。
左手には、小さな手が未だ握られ。それが、冷たい体に熱を送り込む。
その熱を頼りに、体に残る力を最後まで、振り絞る。
「――ふ……ぅっ!」
片足で地面を踏み締めた。
「……っ」
だがふらつく体はそれを許さず、バランスを崩し。
「おねえちゃん! がんばって!」
エルザがそれを支えた。
「……うん」
タバサはそれに頷くと、エルザに支えられながら立ち上がる。
「――」
広がるは炎に彩られし森。
見上げるは騒ぐ、異形。
「掴まって」
「うん!」
エルザがしっかりとタバサに抱きつき。タバサは、静かに確実に詠唱を唱える。
――ブ……ブブ……ブブブブブブブ――
突如、不快な重低音の羽音が響いた。
燃え盛る森の一部が黒色に塗り潰され――
「舐めるな小娘!」
――吹き飛んだ。
舞い上がる火の粉。引き剥がされた炎。
爛々と目を光らせながら道化師は炎の中から現れる。
その手には独りでに捲られる鉄表紙の本が握られていた。
黒色は炎に巻かれ燃えていく。
それは無数の蝿である。
道化師の足元に□◇を組み合わせた毒々しい紅き八芒星形が浮かび上がり、手
に持つ本が薄暗い輝きを放つ。
「蝿どもよ!」
八芒星形から黒い触手が伸びた。
それは羽音の重低音を放ち。炎に焼かれ、燃えた蝿を落しながらタバサたちに
迫る。
蝿の触手がタバサへ届こうとし――
「――『フライ』!」
それは地面を叩いたに過ぎなかった。
2人は空へと飛翔する。
だが。
「馬鹿め! 忘れたの!」
道化師は頭上を仰いだ。
そこには赤き瞳を輝かせる異形どもが待ちかまえる。
「無形の落し児たちよ! 彼の者を貪れっ!!」
――アg★qvホ3gッ!
腐汁を、汚濁を、死臭を撒き散らす異形どもは、歓喜の声を上げて眼下の獲物
へと飛びかかろうと構えた。
「いやぁっ!」
それを見て、エルザは堅く目を瞑った。
そしてタバサは、この最悪の状況で――
「デル・イル……」
唱えるは詠唱。
通常のメイジは1つ目の魔法を使っている時に、2つ目の魔法を使うことは“多
くの者は”できない。
それは特殊な訓練と才能が在る者にしかできない高等な技。
だが極限まで集中した意識下で、タバサはその魔法を唱える。
タバサはぼんやりと状況を把握していた。
周囲は炎に撒かれ、上には異形、下には蝿の触手。
自分の力はもう空っぽで、今すぐ泥のように眠りたい。
杖を手放せたらどんなに楽だろうか。
……だが………だが…………だがっ!
「――怖いよ……」
腕の中の熱が、タバサの心を繋ぎとめる。
「……ソル・ラ・ウィンデ」
属性は風の2乗。
『風の槌(エア・ハンマー)』通常、風1つで足りるそれを2つも重ねる。
杖を背中へとまわす。
「――しっかりと、掴まってて」
「――え」
聞き返す声には応えなかった。
――」qアh■■wqウgッ!
異形たちが2人に向かい降り落ちる。
それが迫る瞬間。
「『エア・ハンマー』」
圧縮された空気の塊。破城槌とも言える威力が。
「――ぐっああっ!」
背後で爆発し、タバサは肺にある空気を全て吐き出した。
「――っ!?」
それは声にならない悲鳴と苦痛の声を置いて、2人を強制的に加速させる。
爆発による、急激な加速。
2人は迫っていた異形どもの予想を超える速度ですり抜け。
枝葉の天井を――突き破る。
「きゃあっ!?」
ばきばきと枝を、葉を掻き分け。
突如音が止み、エルザは目を開いた。
「――」
息を呑む。
そこに広がるのは、どこまでどこまでも暗く続く森。
いつの間に雲が晴れたのだろう。
月が少しでも闇を照らそうと夜空で輝き、その光を森は吸い込む。
先ほどの炎が燃え盛っているのだろう。眼下では茜色の光が煌々と光る。
どこまでも壮大な景色。
吹き付ける風にも注意を払わずに、エルザはそれに見入った。
エルザが呆然としている中、タバサは一切空気のない肺に無理やり息を吹き込
むと、左手を口元に当てる。
――――♪
静寂の夜森に響く澄んだ音。
その音が鳴り終わると。
遠く、なにかがこちらへ高速に接近してくる。
「――お……おぉぉねぇぇえぇぇさぁぁまぁぁぁぁああっ!!」
高速で接近する物体――シルフィードはドップラー効果を引き連れてやってき
た。
シルフィードが近づいてきたとき、タバサの魔法が切れる。
「きゅい!」
落ち行く2人をシルフィードが背で受け止める。
背に乗ったタバサにシルフィードは猛然と話し始めた。
「もうお姉さま! なにやってたの! シルフィーはとても心配したんだから
ね! 村は変なのがうようよしてたし! お姉さまが村長さんの家に行ったき
り出てこなくなるし! シルフィーはとってもとってもとっても心配したんで
すからね! あ、シルフィーって言うのはシルフィードを少し省略した呼び名
なのね。この方が可愛いでしょう、きゅいきゅい!」
「…………」
タバサは無言。
だが、それに別の者が反応した。
「竜がしゃべってる……」
エルザの呟き。
「きゅ……きゅいーっ!?」
シルフィードは驚いた。それはもう超絶的に。
「喋っちゃったのね! 喋っちゃったのね! 人前で喋っちゃったのね!」
ギャアスカと騒ぐシルフィードに、タバサは短く。
「……いいから」
「喋っちゃったの――きゅい?」
シルフィードが首を傾げた。
いつもならここで、タバサが何かしらの誤魔化しなどをするはずなのだが、そ
れがない。
どこかがおかしい、そういえばタバサが酷く疲れているようにも見える。
なにがあったのか聞こうとしたシルフィードに、タバサは指をとある方向へと
指し。
「まずは、帰る」
そう言った。
「きゅ、きゅい」
どこか納得のいかないシルフィードは首を傾げながらも従い、飛び始める。
エルザは、シルフィードとタバサを見比べ。
「……えーと」
呆然としていた。
タバサはそれを見て、少し冷たい鶏冠にもたれかかる。
少し眠りたかった。
今日という日はあまりにも長く、あまりにも濃密だった。
夜風に吹かれながら、静かにタバサは目を閉じる。
背後では、森の茜色の光が徐々に遠く離れいった。
エルザは目の前で眠り始めたタバサを見ていた。
寝入った顔は青白く、まるで死人のように見える。
それが心配になってそっと口元に耳を寄せる。
――、――、
呼吸音が聞こえ少し安心した。
安心すると、なにもすることが無いことに気がついた。
自分達を乗せて飛ぶ風竜を見る。
さっきは喋っていた風竜は、今は沈黙を守っている。
タバサがメイジだから、この風竜は使い魔なのだろう。
初めの印象ではお喋りに思えたが、疲れて寝ているタバサに配慮しているのか。
とてもいい使い魔だと思う。
エルザは初めの晩を思い出す。
自分のことを話したエルザに、タバサは自身のことも語ってくれた。
病気の母、献身的な使用人、魔法学院、そこで出来た大切な友達。
この使い魔もそうだ。
少し単純だけど、本気で自分を心配してくれる大切な存在だと言っていた。
――ああ、こんなにも彼女は恵まれている。
タバサの暖かさが、エルザの心の闇を突いた。
思い出されるはメイジに殺された両親。
猛然と立ち向かった父親が焼かれる臭い、許しを請う母親から飛ぶ血飛沫。
そう2人は『メイジ』に殺された。
ただ着実に、闇が、エルザの中で肥大化してゆく。
エルザは動けない。
今タバサを見てしまうと、なにをするかわからないからだ。
……
…………
………………
……いつまでジッとしていただろう。
かなりの時間がたった気がする。
ふいに
大きな風がエルザへと吹きつける。
「っ」
髪が顔にかかり、思わず向けた先に――寝入るタバサがいた。
「――」
エルザは息を殺す。
どくり、と心臓が跳ねた。
晒された無防備な姿。
ゆっくりとエルザはタバサへと近づく。
白く陶器のような肌。
近づくに連れて、細かい部分まで鮮明になり。エルザの本能が、黒い欲求を吹
き出してくる。
人形のように整った顔。
エルザは静かに顔を近づける。
微かな息遣い。
エルザが口を開ける。
「――っ……っっ」
するとどうだろう。僅かに尖っていた犬歯がぎちぎちと伸びてゆく。
日に弱く、先住魔法を操り、血を吸った者を1人操れる夜の狩人。
時にはその特徴である尖った歯を隠し、完全に擬態する擬態する人間の天敵。
そこにいるのは、吸血鬼であった。
伸びた歯は犬歯という表現ではなく、剣歯とでも呼ぶ方が相応しい。
風竜は静かな変化に気づく様子はない。
興奮か喜びか、息が荒くなりそうなのを出来るだけ殺す。
「……ぁ」
鼻先がタバサの首筋へと近づいた。
強風吹き抜ける中、ふわりと血と泥と柑橘系の匂いが香った気がした。
目に入るその首は細く、血管が透きでそうなほど白い。
その下に流れる血液を想像して喉が鳴る。
「……ぅ……ふぅっ」
吸血鬼の本能が叫ぶ。
吸い尽くせと。血潮を、命を、呑み貪れと。
目の前にいるのは“憎きメイジ”なのだから!
「……! ……っ」
そして歯先が首筋へと触れて――
「――ひっく」
涙が零れた。
憎しみに駆られ、本能に囁かれ、首筋に剣歯を突きたてようとしながら、エル
ザは泣いていた。
思い出されるのは、暖かい笑顔。
道化師から逃げた先で迎えられた家。
ただ利用しようとしただけなのに、与えられた優しさは本物だった。
掛けられた言葉、振舞われた料理、絶やさぬ笑み。
その全てに優しさが込められ、冷えた心の底に溜まっていった。
そして――命をかけた背中が、忘れられない。
「う……ああ……ひっく……」
まだ涙は止め処なく溢れる。
目の前で眠る者が、何度自分を助けたことか。
相手の真意を探ろうとしたことで、同じものを心に共有すると気づいた。
だが、怯え縮こまる心をほぐしたのは彼女だった。
託された少女を、傷つきながらも護り通した。
握られていた手の、なんと暖かかく、そして力強かったことか。
そして――
『大丈夫。あなたはわたしが護る』
この言葉がいかに嬉しかったことか。
「ぅあぁ……ぁああぁぁ……」
少女は静かに泣く。
何に対してかは自分にもわからない。
ただ涙が止まらなかった。
それでも2人を運ぶ風竜に気づかれぬように、タバサが起きぬように……静か
に泣く。
鋭かった犬歯は短くなっていた。
「――」
エルザは急に身を起こす。
嫌な予感を感じた。
それは最も嫌いで、最も恐ろしく、最も敵わない存在。
逃げろ、隠れろと血が騒ぐ。
だがここはなんの遮蔽物もない上空。
急激に吐き気を催し、体が震え、血の気が引く。
その様子はある意味、道化師と相対したときよりも酷い。
「っ……ぁ……」
エルザが大きく目を見開いた。
どこまでも夜闇に沈む雄大な森と空の狭間――そこに光が生まれる。
先住魔法を使い、人に完全に擬態し、人狩人とも言われる吸血鬼。
彼らが唯一の天敵――日の光。
吸血鬼は日の光に当たると肌が爛れるとも灰になるとも言われているが、エル
ザはわからない。
生まれてこの方、日の光に当たったこともなく。
日の下に出たいとも思わなかったのだ。
ただ、恐ろしいということだけは死んだ両親から、そして本能から学んでいた。
その日の光が今、地平線から顔を覗かせようとしている。
「――ぅ……ひぅ」
エルザは硬直した。
恐怖が体を支配し。
「っぁあっ!!??」
太陽が昇る瞬間、エルザは目を瞑った。
――朝日が、全てを照らす。
「――――…………………?」
だが、いつまで経っても想像した痛みや熱さは感じなかった。
恐る恐る目を開ける。
目を開けた先にあったのは暗闇。
暗闇はバサバサと音を立て、風になびく。
その暗闇からは布の感触と……薄い柑橘系の香りがする。
そして、自分の体が抱きしめられていることに今更ながらエルザは気がついた。
それは暖かく、そして優しかった。
布越しに声が聞こえた。
「――大丈夫。あなたはわたしが護るから」
「――ぅあ……ひっ……うぁああ……っ!!」
エルザは再び泣いた。
今度は大きく、風竜が驚くほどに。
ぱちぱちと燃え尽きた木々が小さな合唱をする。
薄く立ち上る白い煙が合唱に呼応するように風に揺られて踊る。
大地は黒く染まり、黒以外のものはほとんどない。
――その場を現すなら壮絶であった。
それらは炎の洗礼を、暴虐を受けた跡。
そこに一切の生命はなく、全ては灰か炭と化し転がるのみ。
だが、そんな地面にも白き斑点がぽつぽつと浮かぶ。
白は時に丸く、時に長く、形も様々ある。
それは――様々な骨であった。
さすがに切っても潰されても動くゾンビも、こうなれば動きようもない。
これで、死してなお肉体を陵辱されていた彼らも安心することができるのだろ
うか。
――否。
不意に、地面から染み出すように“黒”が広がった。
それは炭で埋め尽くされた黒を侵蝕し“より黒く”染め上げる。
黒は触れるもの全て染め、腐敗させる。
染み出した黒は、◇□を組み合わせた巨大な八芒星形となった。
それは途轍もなく邪悪な意思を込められた魔方陣。
――ブ……ブブブ……ブブブブブ――
重低音がどこからともなく響く。
そして、
――ブブ、ブブブブブブブブブブッ!
爆発するように魔方陣から、空を染めるがごとく蝿が湧き出した。
「よくもやってくれたわね、小娘ぇ」
その声は黒い本流から聞こえた。
無尽蔵に蝿の涌き出る漆黒の八芒星形の中心。そこから声は響く。
「どこに逃げたか知らないけど……誰に牙を向けたか、今すぐ思い知らせてく
れる」
――ブブブブブブブブブブッッ!!
蝿の勢いが増した。
その中心から、不快な、おぞましい何かが響く。
「――%▼$■……#――」
人の声帯で到底だすことは敵わない音。
それは精神を掻き立てるようなリズムを刻み。
とうとう完成しようとした時。
『ははははは! “子”たちから見ていたぞミューズ。してやれたな!』
楽しげな声が響いた。
「ああ、王よ!」
声を聞いた瞬間、蝿の本流は収まった。
晴れた視界の中、そこにあるのは道化師と赤き光を放つイヤリング。
さきほどまでの怒りが嘘であったかのように、恋する少女のような声を道化師
はだす。
「すみません。お借りしていた“子”たちも、集めた死体たちも失ってしまい
ました」
『なあに、気にすることはない。“子”たちは我が力を試すための遊び。お前
の集めた者たちは“副産物”にすぎんのだ』
道化師の目が光る。
「ですが、今からでもあの小娘を捻ることはできます」
その言葉に、声はあくまで陽気さを失わない。
『かまわんかまわん。それにな』
「それに?」
もったいぶる言葉。
『あれは我が姪なのだ!』
「――っ!」
道化師は息を呑んだ。
「そ、それではとんだ無礼を……」
がたがたと震えだす道化師。
だが、声はやはり楽しげに言う。
『ははは! そこまでかしこまる必要もない。死んでしまったら死んでしまっ
たで別に構わん』
あくまで声は楽しげで、愉快げだった。
「そうですか……」
『それでは我がミューズよ帰還せよ! お前にはまだまだやってもらいことが
あるからな!』
「はいっ」
深く噛み締めるように道化師が応じると、イヤリングは光を失った。
そうして道化師が会話を終えた時。
“まぁた、随分と初心なところ見せるじゃない?”
声なき声が響いた。
道化師は呻くように頭を抱えた。
「……黙れっ」
“それに禁止してるわけじゃないのに、さっさと召喚陣を引っ込めちゃって”
それは深く、道化師の脳内だけに響く。
「黙れと言っているっ」
“邪魔されたとはいえ、あいつらだって見逃しちゃうし”
「お前はっ!」
その声はねっとりと纏わりつくタールのような粘着性と、腐りかけた陽気さを
持つ。
“なぁにぃ? あんた「まだ人間やってるつもり」なの? おほほほほっ、な
にそれ? 報われない恋、悲しき恋の行く末に同情しちゃったのぉ?”
「――っ!」
それは人を嘲るではなく、嘲笑するのではなく。
“忘れないでね。あなたは「まだ生きてる」にすぎないの”
ただただ、いたぶる者が持つ愉悦。
“あなたに実る恋なんて、あなたに与えられる愛なんで――なぁんにぃもない”
「――だまれぇぇええッッ!!」
道化師の体から殺気が吹き出す。
白骨が融解し、周囲の炭が風化した。
“おほほほほ。それじゃあ、精々あがくことね”
その声は頭の奥へと響き……消えていった。
「私は……絶対に呑まれるものか……」
100年は草木1本も生えないだろう死の大地と化した場所で。
「ああ……ジョゼフ様……」
道化師は呟き、そして自らの影へと沈んだ。
ある日。ザビエル村、それを含めた近隣の村から人が消えた。
それは突然のことであり、火事や争いの跡はあったものの死体1つ無い。
また、草木が尽く枯れ、腐ることから。その村へ訪れた者は一様に不気味がり、
長居する者はいない。
そして同時期にザビエル村の近くでは山火事があった。
だが普通では考えられない早さで回る火に対して、その規模は非常に小さいも
のであった。
付近を通りかかった人の証言によれば、まるで山火事を囲うように広範囲に木
々が切られていたという。
どうしてザビエラ村を含む村人が消えたのか、誰が山火事を最小限に抑えたの
か。
未だ判っていない。
タバサが学院へと戻ったのは朝食前であった。
あまり人に見られるのは良くないと思い、窓から戻る。
自室の窓にシルフィードを近づけると、エルザを背負って入った。
エルザは泣き疲れて眠っていた。
シルフィードは去り際に。
「なにがあったのか後でちゃんと説明して欲しいのね! きゅい!」
と言っていたが。
果たして、マントを被り眠っている少女が吸血鬼だと知ったらどんなに驚くだ
ろうか。
その慌てふためく様を想像し、軽くタバサは笑う。
想像するのはいいが、いつまでこうしているわけにもいかない。
静かにエルザをベッドへ下ろすと、窓を閉めカーテンで日を遮る。
この学院の寮は貴族の子供が集まるだけあって、有名な建築士が立てたらしい。
つまりは、寮の部屋は日当たりがいい。
この寮は吸血鬼にとって優しくないのだ。
……吸血鬼に優しい学院寮などありはしないだろうが。
タバサが指を振ると明かりがつく。
「ん……むにゃ……」
照らされる室内。息苦しかったのか、エルザは早々に被せていたマントを剥ぎ
寝言を呟いていた。
その姿は微笑ましく、誰も少女が吸血鬼だとは思わないだろう。
エルザを見て、タバサも微笑もうと口元を動かそうとし。
「――こふっ、こふっ!」
咳き込んだ。
とっさに覆った手から血が流れ落ちる。
「ごほっ……ごほっ……」
タバサはくの字に体を折る。
咳き込むたびに血が手から溢れていく。
その顔は青を通りすごし、真っ白であった。
エルザを庇って背中から墜落。碌な休息もない徹夜の強行軍。そして加速する
ために自身への攻撃魔法の使用。
必要だったとはいえ、それは確実に彼女の体を痛めつけた。
ふらつきながらタバサは棚へと歩く。
棚を空けると、そこには液体を入れた瓶――水の秘薬がある。
その瓶を取ると、蓋を開けた。
タバサは躊躇なくそれに口をつける。
「んくっ……んくっ……っごほごほごほ!」
こみ上げる血ごと秘薬を飲み、口を離すと再び咳き込んだ。
そして息を整えると、杖を手に持ち。
「イル・ウォータル・デル……」
ぼんやりとした光がタバサを包む。
『癒し(ヒーリング)』である。
水専門のメイジではないタバサの魔法では、全快はしないだろうが無いよりも
ましである。
そして、取り返しのつかないことになっても、タバサは自分から助けを求めよ
うとも思わない。
唱えていくと次第に顔に、ほのかに赤みが差す。
「――」
『ヒーリング』唱え終えたタバサは別の意味でふらついた。
元々空っぽだった精神力。わずかに回復した分だけ、これで使い切ってしまっ
たのだ。
このまま倒れこみ眠りにつくことさえも甘美なことと思える。
だが、タバサは少し考えた。
このままエルザをどうするか。
あのゾンビはなんだったのか。
あの道化師はどうなったのか。
そして最後に見た異様な空気を放つ本は。
あれの魔法は一体――
「んみゃん……」
エルザが寝返りをうった。
その拍子にバタリとなにかが落ちる。
それにタバサは目を向けた。
落ちた物の正体は、出かける前に開いたままにしていた『失われし秘蹟』。
その開かれたページには章のタイトルが目に入った。
“魔導書と契約した外道の魔術師”
「――」
タバサが無言でその本を拾うと。
コンコン――
扉がノックされた。
『タバサ、あなた帰ってきてるの?』
それは今、一番信頼する友人の声。
『帰ってきてるなら一緒に朝食に行きましょ。今日はなんか、あなたの好きな
苦い系のサラダが出るらしいわよ』
無言のままタバサは本を閉じると、そっと本棚へ戻す。
『えーと、なんだっけ。ムラサキだか、アオだかヨモギとか言うらしいけど』
そして扉越しに話す友人へ会うために手を伸ばす。
ガチャリ――
「はあい、2日ぶりね」
そこにはいつもと変わらぬ友人(キュルケ)がいた。
「あなた酷い顔してるわよ」
キュルケはタバサを見るなりそう言った。
たぶん寝不足と疲労、そして癒え切らぬ傷によりタバサの顔色はあまりよくな
いだろう。
だがそれでも。
「あなたも似たようなもの」
化粧で隠しているが、キュルケの目の下に薄っすらと隈があった。
「あー……これはね」
なにか言いにくそうにするキュルケに、タバサは質問した。
「彼女は?」
「ルイズのこと? ルイズなら今朝目覚めたわよ」
それにキュルケは不満そうに応えた。
「あの子ったら2日間ずっと寝てたのよ」
ぶつくさと言うキュルケにタバサはポツリと言う。
「それで、なんでさっき目覚めたのを知っているの?」
「――え」
キュルケが固まった。
「ええっとそれはね……たまたま朝に様子を見入ったら、たまたま起きてて……」
しどろもどろになるキュルケに追い討ちを掛けた。
「2日間、心配で、寝ずに看病?」
「――っな」
図星を突かれたように硬直するキュルケを、タバサは置いて先に行く。
課された課題はまだあり、新しき同居人もいる。
抱える問題と悲しみは増えた。
「ち、違うわよ! なんであんなのを――」
だが、後ろでは自分の使い魔とは別の意味で騒がしい存在がいる。
今それがタバサには心地よく。
キュルケには見えないように、こっそりと笑った。
『はあ……足りない分のムラキヨモギを貰いに来ただけなのに』
それが、ミーシャが聞いた第一声であった。
時間は前日へと巻き戻る。
ゾンビに囲まれ、道化師が迫る中。
絶望した私が見たのは、飛翔する黒い影であった。
それは、視認ができないほどの速度で道化師と2人の間へと割り込むと。一瞬
にして2人を覆った。
驚きを顕にする道化師は、結局なにもせず。
覆ったと思った影に、実は小脇に抱えられたと気が付いた時には。
影は来た時と同じように高速で飛翔し、その場を離れていた。
しばらく飛んだだろうか、村から遠く離れ小高い丘へと降ろされる。
黒き影――いや、漆黒の甲冑(?)を着込んだ人は片手で抱えていたアレキサ
ンドルも下ろすと。
『はあ……足りない分のムラキヨモギを貰いに来ただけなのに』
そう言った。
絶体絶命からいきなり正体不明の人に助けられ、しかも助けられてから初めて
聞いた言葉がそれである。私は目を白黒させた。
その時、私は混乱していたのだろう。
「あ、あの」
『ん?』
どこかエコーがかかった声が聞き返す。
「ムラサキヨモギなら。あの赤みがかかった木の傍、野苺が生えている辺りに
群生しています」
私は丘から遠くにある森を指差し、そんな間抜けなことを言った。
本来ならお礼を言うなり、名前を聞くなりするべきなのだろう。
だが、とんちんかんなことをいう私に。
『そうか、ありがとう』
エコーがかかった声がお礼を言った。
そこでようやく、自分がお礼を言わなければいけないと気づいたときには。
『ここからなら街も近い。暗くならないうちに行くといい』
背中の羽が開き、黒き光を発してその人は、あっという間に飛び立っていった。
「「…………」」
呆然と見送る私とアレキサンドル。
そんな時に、ぽつりとアレキサンドルは言った。
「なあ、ミーシャ。必死に生きるって……これからどうすればいいんだ」
私は精一杯考えた。
村は焼け、人が死に、多分両親も死んだ。
これからどうするか。
そして答えは、簡単に出た。
「まずは、暗くなる前に街に行きましょ。それからよ」
私はそう言い、アレキサンドルはまた呆然とした後、薄く笑った。
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