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毛利 元就
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毛利 元就の詳細
生年 | 1497年 |
没年 | 1571年 |
幼名 | 松寿丸 |
別名 | 少輔次郎 |
実父 | 毛利 弘元 |
実母 | 祥室 妙吉 |
妻 | 妙玖、乃美大方、三吉氏、中の丸 |
子女 | 毛利 隆元、吉川 元春、小早川 隆景、穂井田 元清、毛利 元秋、末次 元康、小早川 秀包、天野 元政、出羽 元倶 |
氏族 | 大江姓毛利氏 |
官位 | 治部少輔、従五位下、右馬頭、従四位下、陸奥守、従四位上、贈従三位、贈正一位 |
神号 | 仰徳大明神 |
毛利 元就の生涯
毛利 元就は毛利 弘元の次男として誕生した。幼名、松寿丸を名乗る。だが父である弘元は酒癖が悪く、早々に病没してしまう。毛利家は当時、国人衆の一つで安芸国の郡の片隅にいた。元就の兄である毛利 興元(大内 義興から偏諱で一字貰う)も若くして酒毒によって病没。その後は尼子氏と大内氏と主君を変え、その間に次男、吉川 元春を母、妙玖の実家の吉川家の吉川 興経の養子に。三男、小早川 隆景を竹原小早川家の当主である小早川 興景の養子に入ることで彼らが死去後はその勢力が毛利家に吸収されることで合意した。毛利家はこうして力をつけていく。鏡山城の戦い、厳島の戦い、第二次月山富田城の戦いを経て織田家と宇喜多家と四国の河野家や長宗我部家や大友家と争いながら元就は死去している。後継者は孫の毛利 輝元となった。第二次月山富田城の戦いの最中、元就の嫡男、隆元が謎の死を遂げたからである。
百万一心
元就が吉田郡山城城下を散策すると町娘が生贄にされているところを見て止め、代わりに百万一心の書いた石を埋めたとされている。意味は皆で力を合わせれば何事も成し遂げられるという意味。後に日本の四熟語の一つとなった。
三矢の訓
元就は三矢の訓を隆元、元春、隆景に教えた。要約すると兄弟仲良くして折れない矢のように協力して行こうとのこと。後に元就を代表する逸話である。しかし、元就は着眼点がいい。現代で隆元は内政が、元春は軍事が、隆景は知略に特化しているので兄弟仲良くしていくのは当然のこと。また元就の子供達は比較的、おとなしい子供達で、元春でさえ戦術、戦略を大事にしていた。ちなみに戦国時代は下剋上の時代で信長と信行のように兄弟で争うことはたびたびあったとされるが毛利家にはそれがない。おそらく元就の教育も良く、おとなしい子供達が多かったため、兄弟で争うことはほとんどなかったとされている。