耳という機構を成り立たせている蝸牛と三半規管を、ズタズタに引き裂かれた。ゲバル
の冷酷な絶技によって。これでもう、柳が天地の区別をつけることは不可能になった。
「勝負あり」
柳の耳を破壊したこよりを捨て、ゲバルはボッシュを担ぐレッセンに向き直る。
「さすがです、ボス」微笑みを返すレッセン。
「うぅ……」もしかしたらという希望を絶たれ、うなだれるボッシュ。
──直後、ゲバルは背後からにじり寄る殺気を感知した。
ゲバルの延髄に突き刺さる一本拳。意識を一瞬断ち切られたが、すぐさま後ろ蹴りで反
撃するゲバル。これを十字受けで阻止する柳。
柳はまだ終わってはいなかった。
「信じられん……ッ! ボスのアレを受けて、立つことが──ましてや戦うことなどでき
るはずがないッ!」
驚きを禁じえないレッセン。無理もなかった。内耳を破壊されて戦闘を続行できた人間
を、彼は知らない。
一方、柳とて不死身ではない。
ただでさえダメージがあるところに、三半規管を失ったことで、固形であるはずの大地
が、まるで時化のように激しく波打っている。
しかし、柳が生きた数十年──空道に身も心も捧げた歴史。人を倒し、人に倒され、こ
んなことばかりを飽きもせずずっと繰り返してきた。
天地の区別はつかないが、「立っている柳龍光」と「倒れている柳龍光」の区別は骨髄
まで染み渡っている。
──ならば三半規管などなくとも立てる、戦えるに決まっている。
経験が、柳の両足を支えていた。
「ここからだよ、ゲバルさん」
虚勢である。
脱力し、独特のリズムで踏み込む柳だが、いつもの切れはない。広い平面に立つ敵に対
し、柳一人だけ細い平均台の上で戦うようなものだ。格下相手ならばともかく、対等以上
を相手取るには大きすぎるハンディであった。
バランスを保つことに意識の大部分を割かねばならない柳にとっては、軽いフェイント
でも絶大な効力を及ぼす。
ゲバルの寸止め左ジャブに、普段ではありえぬほど反応してしまう。
──右アッパー、炸裂。
完璧に捉えた一撃は、柳の顎を粉砕し、下の前歯をもへし折った。
だが、下顎をグシャグシャにされても柳は立ち向かってくる。
まともな精神の持ち主なら、ここで柳に気圧されてしまうことだろう。だがゲバルは冷
静に柳の真意に気づいていた。
「柳よ……。アンタ、勝利を諦めているな?」
「ふふふ……バレてしまったか」
「ならばなぜ戦う……? 武術家として戦いに殉じたいってところか」
「少しちがうな」一歩を踏み出すたび、柳の正中線が傾いていく。「私が見苦しく足掻け
ば、足掻くほど……後に続く彼の勝率が高まる」
「彼──?」
柳は答えず、ゲバルの心臓部に渾身の掌打を叩き込んだ。
「ごァ……ッ!」
そしてこれが最後の一撃となった。
発射されたゲバルの右足甲は、美しい弧を描き、柳の左顔面に高速で命中した。この瞬
間、柳の眼球は裏返り、かろうじて維持されていた平衡は跡形もなく崩壊した。
の冷酷な絶技によって。これでもう、柳が天地の区別をつけることは不可能になった。
「勝負あり」
柳の耳を破壊したこよりを捨て、ゲバルはボッシュを担ぐレッセンに向き直る。
「さすがです、ボス」微笑みを返すレッセン。
「うぅ……」もしかしたらという希望を絶たれ、うなだれるボッシュ。
──直後、ゲバルは背後からにじり寄る殺気を感知した。
ゲバルの延髄に突き刺さる一本拳。意識を一瞬断ち切られたが、すぐさま後ろ蹴りで反
撃するゲバル。これを十字受けで阻止する柳。
柳はまだ終わってはいなかった。
「信じられん……ッ! ボスのアレを受けて、立つことが──ましてや戦うことなどでき
るはずがないッ!」
驚きを禁じえないレッセン。無理もなかった。内耳を破壊されて戦闘を続行できた人間
を、彼は知らない。
一方、柳とて不死身ではない。
ただでさえダメージがあるところに、三半規管を失ったことで、固形であるはずの大地
が、まるで時化のように激しく波打っている。
しかし、柳が生きた数十年──空道に身も心も捧げた歴史。人を倒し、人に倒され、こ
んなことばかりを飽きもせずずっと繰り返してきた。
天地の区別はつかないが、「立っている柳龍光」と「倒れている柳龍光」の区別は骨髄
まで染み渡っている。
──ならば三半規管などなくとも立てる、戦えるに決まっている。
経験が、柳の両足を支えていた。
「ここからだよ、ゲバルさん」
虚勢である。
脱力し、独特のリズムで踏み込む柳だが、いつもの切れはない。広い平面に立つ敵に対
し、柳一人だけ細い平均台の上で戦うようなものだ。格下相手ならばともかく、対等以上
を相手取るには大きすぎるハンディであった。
バランスを保つことに意識の大部分を割かねばならない柳にとっては、軽いフェイント
でも絶大な効力を及ぼす。
ゲバルの寸止め左ジャブに、普段ではありえぬほど反応してしまう。
──右アッパー、炸裂。
完璧に捉えた一撃は、柳の顎を粉砕し、下の前歯をもへし折った。
だが、下顎をグシャグシャにされても柳は立ち向かってくる。
まともな精神の持ち主なら、ここで柳に気圧されてしまうことだろう。だがゲバルは冷
静に柳の真意に気づいていた。
「柳よ……。アンタ、勝利を諦めているな?」
「ふふふ……バレてしまったか」
「ならばなぜ戦う……? 武術家として戦いに殉じたいってところか」
「少しちがうな」一歩を踏み出すたび、柳の正中線が傾いていく。「私が見苦しく足掻け
ば、足掻くほど……後に続く彼の勝率が高まる」
「彼──?」
柳は答えず、ゲバルの心臓部に渾身の掌打を叩き込んだ。
「ごァ……ッ!」
そしてこれが最後の一撃となった。
発射されたゲバルの右足甲は、美しい弧を描き、柳の左顔面に高速で命中した。この瞬
間、柳の眼球は裏返り、かろうじて維持されていた平衡は跡形もなく崩壊した。
「柳ィィィィィッ!」
ゲバルの鼓膜を震えさせる、悲痛な叫び声。だれかはすぐに分かった。ゲバルと部屋を
同じくする者、シコルスキーである。
天内から受けたダメージは多少快復しているものの、重傷には変わりない。
「せっかくガーレンを食い止めたってのに、まさかこんなことになるなんてな……」
シコルスキーの横には、同じく対テロリスト戦争を生き抜いたドイルが立っていた。シ
コルスキーほどではないが、やはり深い傷を負っている。
沈痛な面持ちで、ルームメイトの名を呼ぶシコルスキー。
「ゲバル……」
「よォ、よく天内を倒せたなシコルスキー。ドイルも無事でなによりだ。いやァ~実は柳
と目玉焼きにはソースか醤油かで口論になって、大喧嘩しちまってな。ま、どうにか俺が
勝っ──」
「ゲバルッ!」
日常の調子で飛ばされるゲバルのジョークを、シコルスキーが断ち切る。ゲバルの眼が
真剣(マジ)になる。
「なぜ、ここが分かった?」
「天内はボッシュにビタミン剤と偽って、発信機を飲ませていた。気絶した奴の懐を探っ
たら、案の定探知機を忍ばせていたよ」
電子辞書にも似た探知機を、地面に投げ捨てるシコルスキー。液晶らしき画面が砕け散
った。
「なるほど……。で、ドイルと一緒にボッシュを捜しにやって来たってワケか。どうせな
ら他の連中も呼んでくればよかったのに」
「スペックとドリアンは病院らしい。大家さんは……巻き込みたくなかった」
「へェ……どういう心境かな」
「ゲバル。アンタとの決着(ケリ)は──俺がつけるッ!」
役者は揃った。彼らを迎える舞台は丑三つ時を少し過ぎた、人気のない駐車場──。
シコルスキー、ゲバル、ドイル、レッセン、ボッシュ。濁り曇った闇夜に渦巻く五人五
色の念が、否が応にも戦争を最終局面へと導く。
同じくする者、シコルスキーである。
天内から受けたダメージは多少快復しているものの、重傷には変わりない。
「せっかくガーレンを食い止めたってのに、まさかこんなことになるなんてな……」
シコルスキーの横には、同じく対テロリスト戦争を生き抜いたドイルが立っていた。シ
コルスキーほどではないが、やはり深い傷を負っている。
沈痛な面持ちで、ルームメイトの名を呼ぶシコルスキー。
「ゲバル……」
「よォ、よく天内を倒せたなシコルスキー。ドイルも無事でなによりだ。いやァ~実は柳
と目玉焼きにはソースか醤油かで口論になって、大喧嘩しちまってな。ま、どうにか俺が
勝っ──」
「ゲバルッ!」
日常の調子で飛ばされるゲバルのジョークを、シコルスキーが断ち切る。ゲバルの眼が
真剣(マジ)になる。
「なぜ、ここが分かった?」
「天内はボッシュにビタミン剤と偽って、発信機を飲ませていた。気絶した奴の懐を探っ
たら、案の定探知機を忍ばせていたよ」
電子辞書にも似た探知機を、地面に投げ捨てるシコルスキー。液晶らしき画面が砕け散
った。
「なるほど……。で、ドイルと一緒にボッシュを捜しにやって来たってワケか。どうせな
ら他の連中も呼んでくればよかったのに」
「スペックとドリアンは病院らしい。大家さんは……巻き込みたくなかった」
「へェ……どういう心境かな」
「ゲバル。アンタとの決着(ケリ)は──俺がつけるッ!」
役者は揃った。彼らを迎える舞台は丑三つ時を少し過ぎた、人気のない駐車場──。
シコルスキー、ゲバル、ドイル、レッセン、ボッシュ。濁り曇った闇夜に渦巻く五人五
色の念が、否が応にも戦争を最終局面へと導く。