SF百科図鑑

Christopher Priest "The Separation"

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October 09, 2004

Christopher Priest "The Separation"

セパレーション英国協会賞受賞長編完読まで、マジック2となった。短編は多数残っているが、入手自体困難なものが大半だから、やむを得ない。後は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞の短編残り5編と、今年のヒューゴー賞受賞長編(ビジョルド)を読めば一気に視界が開ける。奴隷から普通人に格上げされるのだ。遮二無二頑張ろう。
というわけで、本書は、去年のプリーストの受賞作である。

粗筋メモを追記(ネタバレ注意)
 第二部まで 2004.10.13
 最後まで  2004.10.16
セパレーション クリストファー・プリースト
ポール・キンケイドに
第一部 1999年

三月のある木曜の午後、憂鬱に低く流れる灰色の雲に覆われたバクストンの町に、ひたすら雨が降っていた。スチュアート・グラトンは、背中を通りに向けて、明るく照明された本屋の窓辺の小さなテーブルに座っていた。だが、ときどき外をゆっくり走る乗用車やトラックを、あるいは、顔をそむけ、肩の上ひくく傘をさして水をはねながら歩きすぎる人々を、振り向いて見た。
目の前のテーブルに、ほとんど飲み終えたワイングラスがあった。その横に半分空いた、白ワインのハーフボトル。ワイングラスの脇に、頚の短いフルート。水に差して立てた赤い薔薇の枝一本。右側のテーブルには、グラトンの最新のハードカバー、『疲れ果てた憤怒』の売れ残り数冊。1941年、ドイツがソ連に侵攻したバーバロッサ作戦の体験者数人による口承の歴史である。左側のテーブルの端に、ハードカバーの新刊と合わせて再刊された二種のミニサイズのペーパーバックの売れ残り。一方のタイトルは、『終戦の日』。1981年に発行され、グラトンに名声をもたらし、以後多少なりとも再刊されている本だ。もう一方は、『銀の龍』という口承歴史書。1940年代中期、中・米戦争に参加した兵士や飛行士の語りだ。
グラトンのボールペンはテーブルの上、彼の手の横に転がっている。

グラトンは、サイン会を行っている。書店主のレイナーはPCだかレジのトラブルで手間取っている。出版社のエリアマネジャーは交通事故で遅れていた。サイン会を始めたころは上々だったが、今日はあいにくの天気で、わざわざ来るファンはいなかった。
残り20分というところで、女性が本を買いに来る。父親が亡くなる前、グラトンの業績を評価していた。父親自身が戦争体験を手記にしているらしい。その手記をグラトンに見てほしいというのだ。父のことはグラトンも想像がついた。爆撃作戦に参加したソウヤーという人物だった。この娘は、グラトンの広告を見た父の知人から手紙をもらい、ここへきたという。そして、分厚い封筒を差しだした。原稿のコピーらしい。女の名はアンジェラ・チッパートン。アンジェラは、もし本になった場合の印税のことや、父が重要な作戦に関与していた見込みなどを語るが、グラトンは後者は否定する。だが、ともかく読んでみることになった。


チッパートンの渡したコピーは300ページ以上あった。グラトンは、それまでにドイツに対するRAF爆撃の複数の参加者に取材を試みてきたが、大半のものは手記らしいものをほとんど残さず死亡していた。ほとんど諦めていたところへきた手記であったが、今度は逆にあまりの量にうんざりした。今度の周遊旅行から帰ったばかりで大量の仕事が待っていた。コロン、フランクフルト、ライプチヒ、ベラルーシ、ウクライナ(ブレスト、キエフ、オデッサ)、スウェーデン、米国10日間(ワシントン、シカゴ、セントルイス)ときて、米国では携帯が使えなかったため、留守電メッセージも怒っていた。二日かけて残務処理をし、テープを転記会社に送付。更に、チッパートンの手記を転記してもらおうと思い、娘にオリジナルを送れと手紙を書き、ついでに引用権を彼に認めさせるための書類を同封。
チッパートンはようやくソウヤー問題を真剣に考える気になり、過去の取材記録を検討するためコンピュータに向かった。


サミュエル・D・レヴィ大尉殿(マサダ共和国 アンタナナリヴォ)あて、グラトンが書き送った手紙。グラトンはこの人物に、1942-3年のマンチュリアン作戦の体験等について八年前にインタビューしていた。彼が参加した日本軍南京基地他への爆撃作戦について。それは〈銀の龍〉作戦と呼ばれていた。
で、本題は、航空副官ソウヤーに関すること。ウィンストン・チャーチルを通じて彼について知った。チャーチルの著書「ドイツ戦争 第二巻 最良の時間」にソウヤーという人物への言及があったが、レヴィの部隊にいなかったかどうかと問い合わせる内容だ。レヴィのインタビューにもソウヤーの名前が出てきたが、同一人かどうか判然としないので確認したい。グラトンとしては、もしソウヤーという人物に関して十分な情報が集まれば本を出すつもりがあるから、何か情報があれば教えて欲しい、マダガスカルくんだりまで行くよ、と書き記す。


グラトンは1941年五月生まれ。 両親はドイツ戦争に多大な影響を受けた。英独戦争は1939年9月英仏が宣戦し、1940・5ー1941・5本格的に相互に空襲が行われ、1941・5・10、ロンドン大空襲、ハンブルグ、ベルリン大空襲などで終戦を向かえた。そのときまでに独仏連合は欧州の大半を支配し、イタリアもこれを支持、ブルガリア、ユーゴ、ギリシアの大半を含むバルカンを支配、ポーランドのユダヤ第一党は包囲されワルシャワに避難した。米国が英国、ソ連がドイツを支持。日本はドイツを支持し中国、満州で戦ったか、米国の石油制裁で弱化した。1940・5・10英国ネヴィル・チェンバーレインが辞め、チャーチルが首相就任。
グラトンは終戦の1941・5・10生まれ。歴史教師となり、1969同僚ウェンディと結婚。1970年代に二子。歴史書を書き始める。特に戦時体験を。米中戦争で米国が毛政権に連勝にもかかわらず米国不況の原因となった状況を本に書いた。1981、養父ハリー死亡。そして「終戦の日々」がベストセラー。


レオナルド・チェシャ- 1941・5・10、ノルウェーの貨物船に搭乗。北大西洋をリバプールからモントリオールへ向かう。米国の爆弾を英国に輸送する任務。その夏の終わりまで米国滞在。その後英国に戻り、マカベス作戦(ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカルに移す)に参加。1949、退役後、軍人リハビリ施設経営。
ジョン・ヒッチェンス 北イングランド郵便局電報担当員。5・10、ロンドンにフットボール見に行く。アーセナル対プレストンノースエンド。一対一の引き分け。ユーストン駅の最終列車で帰る。サイレンをきく。1942ー45、バーバロッサ作戦の跡の東欧電話線再生事業に従事。1945英国帰還、1967郵便局退職。
ジョセフ・ゲーベルス ドイツの公衆教化宣伝担当大臣。ベルリン在住。BBC放送受信の禁止を担当。四月中に英国海軍の船が50万トン失われたとの報告を受ける。宣伝放送をイラクから更に南アフリカまで行き渡らせる。5月10日、ランクに戻り、映画関係者とともに英国映画を見て、駄作だと安心する。更にドイツ、米国を映画を見て議論中に空襲。1943年退任。44年日記出版。ドキュメント映画監督、新聞コラムニストになる。1972年引退。
ガイ・ギブソン EFC航空次官。ケントのRAF西部基地に滞在。当夜はリチャード・ジェイムズ軍曹とロンドンを飛行機で巡回中。ドイツ戦闘機の大空襲目撃。二機のハインケル三号爆撃機。攻撃するも打ち損じる。いったん戻り点検後再出動。その後は何もなし。戦後、マカベウス計画に参加、ユダヤ人移動に活躍。ツールーズ事件に遭遇、ユダヤ人移送中にフランス前線軍に発砲された。これによって受勲。のち電気工学の道に。1951年、政界に入り、トーリー入党。バトラー政権下で官房大臣に。1968、ナイト称号。70年代、EU参加反対運動。1976年、実業に復帰。
ピエール・シャリア ロンドンのフランス解放軍に参加。ジャンヌダルク祭りに参加している最中、空襲に遭遇。ウェストボーン通りの下宿に戻る。1941年暮れパリに戻り、戦後処理委員会に就職。のち、ヨーロッパ参事官に。
フィリップ・ハリスン 重慶英国大使の下級秘書官。日本軍の空襲遭遇。アーチバルド・クラーク・カーらが負傷。1965年まで勤務。1957-60、アダリ・スティ-ヴンスン大統領時に英国駐米大使。1966没。娘からグラトンが事情聴取。
カート・ホフマン 東ドイツメッサーシュミット社のテストパイロット。5・10、革新的新機種のテスト飛行行う。ジェットタービンエンジン搭載。1943暮れからロシア前線で使用。のち戦闘機に戻るが44年に負傷。ウラル条約後、ドイツに戻り、ルフトハンザのテクニカルディレクターに。
マイク・ジャクソン 海軍HMSブルドッグ号の準副官。リバプールへエニグマコードのマシンを輸送中。ブロードウェイ号と共にUボート襲撃し奪った。マイクはその場を目撃。1960まで海軍勤務。
RAFは10-11、ヨーロッパに展開。五機のブリストル・ブレンハイムが西フランス襲撃。アンディ・マーティン軍曹が一機を指揮。ハンブルクの基地は大攻撃を受けた。英国機四機失う。ウォルフガング・メルック消防士が目撃。残る23機はベルリン攻撃。女学生ハナ・ウェンク証言。
テリー・コリンズ 警察軍曹。イギリス議会の防火巡回中。空前のロンドン大空襲で1400人死亡、多くの建物が燃えた。消火活動に従事。その後マダガスカルに勤務。62年マサダ共和国独立で英国に戻る。
ルドルフ・ヘス ヒトラーの任務代行。ヒトラーの和平文書をチャーチルに渡すため飛行機で出発。途中、ドイツ軍に妨害されるが、うまく逃げて目的達成。
ソウヤー 空軍副官。RAF爆撃部隊。チャーチルによると空軍パイロットでありながら良心的反戦論者であったというのだが、その具体的な行動についての言及は全くなかった。平和主義の家系であるグラトンは興味を抱き、調べ始めた。

第二部 1936-1945
1 過去
おれは第2次大戦中、RAF爆撃部隊の士官だった。おれの軍役はオックスフォード空軍士官学校にいたことに始まる。おれは戦争には興味がなく、単にボートと飛行機に興味があっただけだが、国際情勢のめぐりあわせで従軍する羽目になった。
おれの父は第一時大戦(大戦争)中、公認の良心的兵役拒否者だった。だが子供にそれを強要することはなかった。おれとジョーの兄弟は1935-36の間、スポーツでオリンピックに出ることを目指して必死だった。おれの物語は1936年7月に始まる。おれたちはベルリンオリンピックに出場したのだ。おれは19歳だった。

2 過去
おれはその時点で、将来ベルリンに再び空爆に訪れることになるとは夢にも思わなかった。おれたちはその一年以上前から、テュークスベリの実家を離れて暮していた。おれは運転免許を取ったばかりだった。ジョーは既に持っていた。おれたちは毎週実家と車で往復していたが、おれはある日ジョーを乗せて、初めてロンドンの下町をド-ヴァ-海峡の方角に進んだ。
当時、政治という誰もが認める汚いものから頭をそらすのは、容易だった。テレビはなく、ラジオも普及しておらず、情報源は新聞しかなかったからだ。おれたちははっきりいってスポーツ面しか読まなかった。英国はヒトラーのナチス政権を見て見ぬふりをし、早く自然消滅すればよいのにと思っていた。だが、おれたちは大学生で、学校にはインテリどもが多数いたから、ヨーロッパにおけるナチスの脅威、オリンピックに参加すればナチスに荷担するに等しいことも痛感していた。
わかっていたが、おれにはどうでもよかった。世界のトップクラスのアスリートの祭典に参加できる唯一のチャンス、これを逃す手はないと。おれたちは必死でボートの訓練を重ねた。ボートは英国のお家芸で、俺たちはコックスレスのベストコンビと期待されていた。LAオリンピックの前回金メダルコンビも英国人だった。
おれたちは7月まで練習を重ねた後、ヴァンに荷物を積んで出発した。当時はナショナルチームが集団で移動することはなく、選手が各自自費で現地まで行くことになっていたのだ。

3 過去
おれたちはヴァンで船に乗り、フランスに渡った。そしてベリギー、オランダを経てドイツに入った。

4 過去
ドイツに入ったときおれは複雑な気持ちだった、ナチスへの恐怖と共に、母親がドイツ人だったことからドイツへの贔屓感情もあった。おれたちは、ドイツに入るとき、ドイツの役人に「ハイル・ヒトラー!」と言わされた。英国政府からも気をつけるように言われていた。前もってナチスの映像を見て「こいつら馬鹿じゃん」とみんなで笑い者にしていたのだが、いざ入国するとなるとしゃれにならない。挨拶を怠ると、逮捕や強制送還もありうるのだ。
役人は俺たちのパスポートを見て、名前が同じJだと言いだした。おれたちはイニシャルがたまたま同じなだけで兄弟だと説明した。おれはジャックだが、たいていはJLと言われていた。
役人はボートが2つもいらないだろうなどと難癖をつけ、パスポートを返さず小屋の中に入っていった。やがて戻ってきてなぜそんなにドイツ語がうまいのかときくので、ジョーが母はドイツ生まれだというと急に愛想がよくなり、パスポートを返して通してくれた。
だがドイツ内の異様な雰囲気に俺たちは沈黙した。オリンピックの表示などどこにもなく、鉤十字のマークと国旗だらけだ。ベルリンに着いたころには疲れ果て、世話になる知人の家に直行しようかとも思ったが、とりあえず英国チームの本部に行き、練習場所などを教えてもらった上で、練習を全くせずに宿泊先に向かった。

5 今
五年後、1941年初夏。おれとサム・レヴィの飛行機はブリドリントン近郊の沿岸で撃墜され、おれたちは小舟で脱出し救出され、おれはウォーウィックシャー郊外の病院にいた。おれは意識が朦朧として記憶喪失状態だった。おれの体の傷は次第に癒え、意識も徐々にはっきりし、飛行機に他の仲間といたことや母の顔などを思いだしてきたが、すぐに記憶が薄れたりした。おれはいろいろ質問されたが、おれが質問しても答えてはもらえなかった。

6 過去
ベルリンのシャーロッテンバーグでおれらはゲーテストラスの大マンションに滞在した。スタジアムから近かった。オーナーは母の友人、フレデリック・ハットマン、ハナ、娘のバージットだった。かれらは楽器が得意でよくホームコンサートを開いた。娘のバージットはアレクサンダー・ウェイブル教授の下でバイオリンを習っていた。バージットは国外に行きたがっていた。おれは、美人のこの娘に惚れた。だがバージットは謎めいた微笑みを浮かべ、おれたちとは距離を置いていた。
そのころからおれとジョーの生活に食い違いが生じていた。練習以外のときに彼が何をしているのか分からなかった。彼は長時間の散歩に出、見聞きしたことを話し、ハットマンと政治を議論した。俺たちのコンビは危機だと思った。
以後、ジョーは趣味も思想も変わり、おれの理解できない本を読み、糞まじめなクラシック音楽ばかりきくようになった。おれとはぜんぜん気が合わなくなり、交流が薄くなった。もっとも双子というのはある年齢になると自然と独自性を求めるものだ。おれたちも練習のとき以外はばらばらだったが、ジミー・ノートンの下で練習するときは八分三〇秒の壁を破るように頑張り、試合直前には8分19秒をマークしていた。

7 今
五年後。病院にいる。おれの事故の記憶は順番がごちゃごちゃになっていた。おれは最初に事故の最後の部分から思いだしていた。爆撃の破片で胴体部分が爆発し、おれは海へ出て英国に向かいながらパラシュート脱出を命じ、飛び降りて、ディンギーにサムと乗ったのだ。サムによると飛行機は沈んだというが、おれの記憶は飛んでいた。サムも墜落の原因についてはほとんど覚えていなかった。俺たちはしばらく漂流し、救命艇に発見された。
以上は記憶の断片を少しずつ組み合わせて再構成したものだ。
母が来た記憶もあったが、両親のところへ行きたいというと戦時中で危ないと否定された。
おれには救急車で運ばれた記憶もある。ケン・ウィルソンという男が付き添いだった。古い病院からどこかへ移されようとしているのか? おれは田舎の大きな建物に移され、二日目に両親が来た。
おれの 病院はイブシャムの谷にあった。六月に入り、独ソ開戦のニュースにおれは驚いた。前夜RAFはキール、ジュッセルドルフ、ブレーメンに爆撃していた。フィンランド、アルバニア、ハンガリーもロシアに宣戦。ルーズベルトがソ連支援宣言。米国も参戦するのか? 
BBCによるとルドルフ・ヘスという人物がスコットランドに和平案を持って飛んだらしいが、おれはベルリンであったことがあるはずだ。その和平案はどうなったのか?

8 過去
予選でおれたちはフランスに次いで二位となり、フィンランドとギリシアに先着した。準決勝も二位で、決勝戦に進んだ。相手は、アルゼンチン、デンマーク、オランダ、フランス、ドイツだった。
決勝戦の朝、ジョーはおれをおいてマンションに戻った。おれは試合まで時間を一人でつぶした。おれは湖のほとりで二日前バージットを試合観戦に誘ったことを思いだした。だが危険なので、と断られた。
いよいよ試合間近となるが、ジョーは今日中にドイツを出る、危険だからという。試合には出るがその後はいる理由がないと。おれは閉会式までいようというが、だめだという。
スタジアムにヒットラーが入ってきて、会場は熱気に包まれた。俺たちは気を取られているうちに、ウォーミングアップの時間に遅れてしまった。俺たちは慌てて試合場に行き、数分後の試合に備えて準備運動を始めた。

9 今
おれは負傷の日付から、ハンブルク爆撃に行ったことを思いだした。ハンブルクは二日前に夜襲をかけたが、対空砲部隊はなかなか侮れなかった。おれたちは他の場所へ向かう途中であることを装いながらウェリントン号で機会を窺っていた。爆撃担当はテッド・バレージだった。中心地に到着し、敵の対空砲火が開始、俺たちも爆撃開始。数発投下しておれは退却を指示。みなが渋っているうちに、当機は機首に爆撃を食らった。おれは焦った。機はバランスを崩したがおれは何とか体勢を立て直した。機体やエンジンのチェックをし機能低下しているものの発火はしていないことを確認し、乗員の状態を見た。テッド・バレージ、ロフティ・スキナー、サムは応答なし。コル・アンダースンは無事。ロフティは二回目にOKと返信。サムと共に大怪我をしたクリスを介抱しているらしい。その後飛行機は北海に出て、次第に降下し海に落下。最後までおれとサムはいたが、他の乗員は逃げ出したようだ。そしておれは救出されここにいる。
医者は治りつつあるというがおれは必死で記憶を取り戻そうとしていた。長いパイプの中に詰めこまれ、水に流される夢から覚めると、ヒトラーがソ連に侵攻したとのニュースをきいた。片腕を失い脚を折った海軍補佐官がかつぎこまれ、おれのとなりに入院した。彼は巡洋艦グルチェスター号に乗っていたらしい。彼は肺に損傷があり話しにくそうだったので、回復するまで待ったほうがいいと言ってやったが、彼は話したがった。クレテ近郊に停泊し、敗走した軍をサポートしていたが、Uボートの襲撃を受け、防戦の最中に恐らく魚雷を食らい、船を捨ててボートで逃げたとのことだった。クレタ陥落におれは驚愕した。つまりギリシアを失うということか? チャーチルはエジプトから自軍を差し向けていたはずだが、被害はいかほどかと心配になった。彼によると、ターピッツかビスマルク号(実際は後者)を沈めたが、代わりにフッド号を失ったらしい。
おれはショックを受けた。おれがやられる前は形勢は有利だったはずなのに、この数ヶ月で形勢逆転し、どんどんイギリスに不利になりつつあった。おれは早く軍務に戻りたかったが、全身の骨折や焼けどで治療に専念せざるを得なかった。おれは他の乗員に興味があったが、サムについては同じ病院にいて治りつつあるという以外、わからなかった。他の乗員は行方不明とされていた。おれの脱出命令に従ったのかそうでないのかは分からないが、沈黙していたのが気になった。戦局はどんどん悪くなり、従軍すれば戦死は避けられない状況だった。おれはもともと戦争はやむをえないと考えていたのに、今やルドルフ・ヘスの和平案はどうなったのだろうと考えずにいられなかった。
BBCからヘスの消息に関する情報は途絶えた。彼はどこへ行ったのか? おれはヘスと会った時のことを思いださずにいられなかった。

10 過去
レースで俺たちは三位に入り、銅メダルを得た。一位がドイツ、八分十六秒。二位がオランダ、19秒。おれたちが23秒だった。向かい風でタイムは悪かった。おれたちはコーチに祝福され、授賞式に臨んだ。ドイツの役人がメダルを授与し、おれたちに「一卵性双生児か? 友達をだましやすくていいな!」と言った。その後、ドイツ国家が流れヒトラーが立ちあがると観衆が総立ちとなり熱狂した。おれは圧倒されながらジョーを見た、ジョーは不快そうだった。国歌が終わり俺たちのオリンピックは終わった。

11 過去
俺たちはアーサー・セルウィン・タクステッド(文化担当外交官)に祝福され祝勝会に招待されたが、ゲームをドイツの国のパフォーマンスに利用されたジョーは怒っており、部屋に戻るとすぐ荷造りを始めた。おれは祝勝会に出席するつもりだったので、ジョーと言い争いの上、ジョーがおれの戻るまで待ち、一緒にドイツを出ることになった。おれが遅れたらジョーは一人で出発する。ジョーによるとメダルを授与したのはナチスの大物、ルドルフ・ヘスだったそうだ。ジョーが怒っているのはそのせいもあった。

12 今
おれは病院で治療を受けながら、ようやく空襲に出かけた当日のことを思いだした。七日ぶりの出陣だった。7日前俺たちはブレストのドックでドイツ戦艦を攻撃した。おれたちはテルビー湿原の空軍基地にいた。おれはその日Aエイブルのテスト飛行を行った。それからクリス・ガラシュクヤをウィックンビーのRAF基地に送った。昼食をして二人でテルビーに戻った。夜になって俺たちは出発した。複数のウェリントン機で。ドイツに向かう途中、はるか下方にドイツ軍機を見つけた。俺たちは見つからなかった。彼らのうちのME110の一部はME109に撃墜された。更にドイツ軍旗の後続が東から来た。そして109と110のドイツ軍機同士の戦闘を俺たちは見続けた。おれたちはそのままドイツ上空に侵入した。そしてハンブルグに向かった。俺たちは反撃を交わしながら爆弾を投下し、引き返した。その後弾を食らい、テッドは破片で鼻を失った(恐らく死亡)。折れも頭に破片を食らった。飛行機はきりもみ飛行を始めた。サミーも破片を食らった。ロフティ、コリン、クリスは無事だった。その後は既に説明した通りだ。おれとサミーは別々の病院に引き取られた。
おれは病院の階下に三人の訪問を受けた。院長が一人の市民とRAFのグループキャプテンを連れていた。院長が私を紹介した。キャプテンはおれが148部隊のウェリントン乗りだと知っていた。名前はトーマス・ドドマン、DSO DFC。もう一人の市民はギルバート・スタラシー。おれは二人の車に乗せられロンドンに向かった。

13 過去
おれは祝勝会に行った。他の選手も多数出席していた。ジョーはいないのかと何度もきかれた。セルウィンはおれをヘスに紹介した。ヘスは飲み物をふるまい、ジョーのいないのを残念がった。そして瓜二つの双子であることに強い興味を示し、スピーアという人物にボートを教えて欲しい、今から招待するなどというが、おれは何とか切りぬけて、ジョーとの待ち合わせに向かった。そして車で出発した。

14 今
車は進み、おれはうつらうつらした。他の二人が話しているのが夢うつつに聞こえた。おれはロンドンのノートホルトのメスという士官のところに滞在することになるようだ。やがて起きると、おれはPMつまりチャーチル首相に会うのだといわれた。ちょっと会った後、ノートホルトのRAFに行き当分そこに配置される。明日、首相から詳しい説明がある。以前と同じ階級に戻ることはない、との説明。これを書いている今は戦後であるが、当時のチャーチルといえば、ドイツに反撃して勝利を勝ち取ろうという国の気運とあいまってカリスマ的な存在だった。車は到着し、グループ・キャプテンのドッドマンが迎えてくれた。おれはチャーチルの部屋に通された。チャーチルは書類チェックを中断して、おれに話しかけ、任務の内容を語った。おれをRAFから副官に抜擢するということだった。最初は後をついて歩くだけだが、そのうち面白い仕事を与えるという。とりあえず明日海軍本部に出頭せよ、と。また、ジョーが空襲で死んだ話も話題になった。ヘスを知っているかときくので、オリンピックで会った、顔もわかる、というと、ここ数日ヘスのことが問題になっているということだった。
会談が終わり、おれは車に戻った。

15 過去
ジョーはベルリンを出て夜になると車を止めた。荷台にはバージットがいた。彼女たちはユダヤ人で、迫害がひどくなっており、ジョーがベルリンに来た目的もむしろバージットを助けることだった。俺たちはハンブルクからデンマークのイギリス行きの船で逃げる予定とのことだった。もし乗り遅れれば陸路になるが非常に厳しいだろう。
おれはジョーと運転を代わり、バージットと二人きりならよいのにと思いながらハンブルクに向かった。

16 今
翌朝おれは六時半に目覚め、WAAFの車でロンドン市内に向かった。目的地につくとチャーチルが現れ、俺たちは車に乗って東に向かった。
ジョーとバージットは1936年暮れに結婚した。そしてペニーヒルのチェシャ側に家を借りたのだ。おれは大学を出て以来、彼らとほとんど会っていなかった。最後に会ったのは戦争が始まった年のクリスマスに、実家でだったが、おれたちは溝を埋められずに終わった。その後、ジョーは良心的兵役拒否者として登録し、赤十字活動に参加した。
おれは車中、チャーチルとジョーの話をした。街中に差しかかると群集が口々に打倒ナチスを叫んだ。チャーチルは戦災の病院や学校を回り、パフォーマンスを行った。その日の仕事は午前中に終わった。
次におれが呼ばれたのは二日後だった。今度は南部。その二日後に北部。そうやっておれはチャーチルの護衛を二週間続けた。
その間に、おれはチャーチルについて二つのことに気づいていた。
1つは、チャーチルのカリスマ性の凄さ。ドイツがソ連に侵攻し優勢に戦局を進めているにもかかわらず、ナチスに勝てると国民を信じさせる力を持っている。
2つは、こいつはチャーチルではないということだ。本人そっくりの影武者に過ぎない。

17 過去
おれは、オックスフォードに戻った。最初のうちはメダリストとしてもてはやされたが、所詮スポーツの名声など、水物である。ましてや銅メダルではたかが知れている。おれはすぐに普通の人になった。兄貴はそれがわかっていたから、大学に戻らなかったのだろう。
兄貴はボートもやめた。おれは代わりの相棒を探したが長続きせず、ソロに転向しようとしたものの勝手が違い、そのうち練習自体を止めてしまった。おれは、小さいころから憧れていた2つのもののうち、ボートに隠れていたもう一つのほう、つまり、航空へと興味を移していった。おれは大学に戻ると同時に航空士官大学に所属し、オックスフォードの正規の学業そっちのけで熱中していたが、ボートの代わりにはならなかったし、「ボートの成績だけで、勉強はできないけどオックスフォードに入れたやつ」と陰で思われているのも自覚していた。おれは仕方なく、学業に戻り、ドイツ史とドイツ文学で学位を取って1938年7月、卒業し、士官学校に専念することになった。
士官学校でおれは戦闘機のパイロットになりたかった。しかし、最初の身体検査で、体格がよすぎてコクピットに入りきらないために戦闘機パイロットには向かないと言われてしまった。おれは、爆撃機を薦められた。
クランウェルの空軍士官カレッジを終えた時点で、おれは105部隊の航空士官の資格を得ていた。そして、1939年9月開戦の時点で、おれはブレンハイム機に配属されていた。
ロンドン空襲の時点で、おれは148部隊に所属し、ウェリントン機を割り当てられていた。当初は、ドイツに報復の空襲を行うという意見が強かった。1940年の終わりからおれは戦闘に参加したが、結局、当初は、ドイツ本土でなくフランスに展開するドイツ軍艦を狙うことになった。だが次第に戦局が進むにつれて、おれたちはドイツ本土への爆撃を命じられるようになった。
そして、5月10日のハンブルク空襲に至った。
そもそも、戦局が本格化したころの時点で、おれは兄貴と全く連絡がなくなっていた。兄貴が死んだときも全く連絡のない状態だった。1939年のクリスマス以来、完全に袂を分かっていた。
1936年のドイツ脱出行は、イギリスに着くまでは安心できなかった。両親は港まで迎えに来ていた。おれがバンを運転し、兄貴とバージットが両親の車に乗った。おれはバージットが来たことに有頂天になったが、結局、バージットは兄貴と結婚し、バージットを取られたおれは、失意のうちに大学に戻ることになった。
そして戦争が始まった。戦争は確実に、国民の生活を変えていった。

18 ある「再会」
しばらくして、おれに特殊任務の電話がかかってきた。おれはRAFの他の隊員と一緒に過ごしていたが、所属は全く別だった。六時に車が来るから、2泊分以上の荷物を準備するようにとのことだった。おれを拾った車はロンドンを出て、チェッカースの方向に向かい、大きな田舎の家に着いた。ディナーが用意されるといわれた。チャーチルも参加していた。その影武者も。まさにそっくりであった。しかし、おれはその違いを見分けた。本物のほうが少し背が低く、首が短く、腰が太かった。おれはその席で、首相官邸で働く女性と話した。やがて「レディ・イブ」という映画が上演された。終了後、チャーチルがおれのところへやってきて、来週おれを元の部隊に戻すと告げた。ドイツ戦線は厳しさを増しているが、おれならやれるだろうし、それが望みでもあろうとのことだった。ただし、おれの希望を尊重するから、気が変わったらいつでも言ってくれ、と。
そしてチャーチルは付け加えた、部隊に戻る前にやって欲しい仕事が一つあると。前もって内容は教えられないが、明日朝食後に車が来る。その後起こる出来事について、自分の頭で対処し、報告書を出してほしいというものだった。遅くとも週末までには報告を読みたい、と。
翌朝、おれは車に乗せられ、「キャンプZ」のIDカードを持たされて、「ミチェット・プレース」という村に入った。
そして、アリステア・パークス大佐に迎えられた。ドイツ語を話せるかとおれはドイツ語できかれた。中では英語が使われるが、囚人の中にドイツ語しかできないという者がいるため、ドイツ語が出来るのが望ましいということだ。おれは、おふくろがドイツ出身だからペラペラだと請け合った。
ここは戦争捕虜、戦犯の収容所だそうだ。ドイツ語を話す囚人とは誰だろう? 部屋は盗聴され録音されているらしい。おれが会う予定の男から、引き出せるだけの情報を引き出すのが目的だという。なぜこのパークスという男ではなく、おれでなければならないのだろう、と思った。お前は周囲の状況に鈍いと兄貴に言われたことがあったが、そうかも知れない。なぜなら&&
おれは数人の役人に挨拶した後、問題の部屋に通された。そして、相手を見て驚いた。ルドルフ・ヘスだったのだ!

19 バージットの手紙
1940年8月初旬、おれはバージットから手紙をもらった。5月に、ジョーが暴漢に襲われて入院したという内容のものを受けとって以来だった。彼女の生活環境や三年も便りのない両親への不安などが綴られていた。しかも、ドイツ生まれということで当局に拘禁されるおそれがあるらしい。二度も官憲がやってきて、ジョーの説得で何とか事なきを得たそうだ。ところがここのところ、ジョーはロンドンの赤十字に働きに出ており週末しか戻らず、規制のため交通の便も悪くなっており、いつ何時何が起こるか分からず、周囲の環境に不安を覚えているという。
おれは、バージットへの想い、兄の妻であるという事実を、それを無視することで乗り越えてきた。最後のクリスマスでの兄貴との喧嘩でも、バージットはおれにかかりあわなかったし、おれも兄貴の妻としか見なかった。
ところが、今、バージットはおれに初めて、まともな長い手紙を書いてきたのだ。
おれは、早速その日のうちに返事を書いた。できるだけ心を込めて、しかし、干渉しないように気をつけて。そして、もし必要があれば短期の休暇を取ってもよいと付け加えた。
二日後、短い返事が来た。「できるだけ早く来て」
おれは早速48時間の休暇を申し出た。その一方で、自分の中に変な下心が起こらないよう戒めることも怠らなかった。
おれは短い返事を書いた。「おれが戻ったら、兄貴に会えるかな?」
返事はなかった。おれは準備ができ次第、ともかく行くことにした。

20 報告書
おれのルドルフ・ヘスとの会談は三日に及んだ。最初、ヘスはおれを見分けられず、敵意を示していた。この5年でヘスの環境は大きく変わっていた。ナチスの要人の地位から、虜囚の地位へと。彼はあの人をからかうような話し方や、軽口も陰をひそめ、待遇について愚痴をいう以外、辛気臭く押し黙っていた。
二日目に進歩があった。ようやくおれがチャーチルの代理できているという事実を疑いつつも認めてくれたようで、少しずつ口を開き始めた。三日目の会談が終わった段階で、ようやくチャーチルに報告するに足る話を引きだせたように思った。
四日目におれは海軍本部に戻った。そして報告書の作成に取り組んだ。その日から数日、通い詰めて頑張った。時間が大事だといわれたことも頭にあった。おれの最初の報告書は、長ったらしくまとまりのないものだった。ヘスとの会談の内容をそのまま引用したり、外務省の書庫で調べたことを載せたりした。
おれの担当秘書のミス・ヴィクトリア・マクタイアがそれを清書した。手分けして数日かかるほどだった。秘書業務の傍ら内容を読んだマクタイアは、今まで読んだ中でいちばん面白かったといいながらも、問題点もあると評した。
「チャーチル首相は読まないと思います」
「それはないだろう。自分でおれに頼み、でき次第持って来いと言ったんだぞ?」
「でもこの報告書では、一目見て突き返すだけですわ」
「なぜだ?」
「長すぎるからです。中身はとても充実しているのですが、首相にはこれを読む時間はありませんわ」
「おれは状況がこんなに複雑だとは思っても見なかった。一部でもはしょったりすれば、この問題を正しく扱ったことにならないんだよ」
「首相が必要とするのは簡にして要を得た抜粋なのです。決断を下すに十分な簡潔さが重要。詳しいことは必要に応じて付け加えるだけでよいのです」
おれは、おれにとっては全てが重要である報告書の中身をざっと読みながら、そのエキスを抽出しようと考えた。
しばらくしてマクタイアは模範例を貸してくれた。たった四ページの報告書だった。それは500枚の報告書から三ヶ月かけて抽出した抜粋だった。首相はその四枚を読み、実務を行う部下が必要に応じ詳細を読むという。
その要約は簡潔な問答形式になっていた。その方法はおれ自身全く思いつかなかったものだった。
マクタイアは、おれの報告を読んで疑問に思ったことを書き出したものを見せた。
キャンプZにつくまで、自分の会う囚人が誰だかまったく予測しなかったのか?
彼と会ってすぐに誰か分かったか
なぜ彼と分かったか
第一印象はどうだったか
適宜加除してもいいとマクタイアはいった。おれはありがとうといい、作業に取りかかった。

21 バージットを訪ねる
おれは、同僚パイロットのロビー・フィンチからバイクを借り、ペニーヒルズの兄貴の家に向かった。バージットは、かしこまっておれを出迎えた。
「ジョーはいるの?」
「いいえ。どこにいるか分からないわ」
バージットは、あくまでもおれを親しい友人として、距離を置いて遇した。おれはバージットとたくさんの話をしたが、彼女への渇望はもはやなく、彼女は相変わらず美しかったが、客観的に美しいという以上の感情にはならなかった。彼女がおれに距離を置いていたことの故だろう。とはいえ、おれは彼女といて幸せだった。
バージットは手紙に書いていたさまざまな不安を語った。特に、ドイツ出身者の強制拘禁への恐怖を。一回目はイギリス人との結婚と国籍取得で免れたが、二ヵ月後の二回目の大規模拘禁ではどうなるか分からなかった。
バージットは様々な恐怖を語り、スパイ容疑を免れるために、おれにジョーになり済まして一緒に近所を歩いて欲しい、と頼んだ。
おれはそうした。家の中でも私服で、夫のごとく振舞った。バージットと、ジョーのことを語りあった。
翌日の夜遅くまでいて、おれはジョーの家を去り、門限ぎりぎりに基地に戻った。
おれは翌週も48時間の休暇を取り、バージットに会いに行った。家の修理が大変そうなので、管理会社に行くと大家がカナダに疎開しているから当分何もしてやれないと言われた。仕方なしに、修理用品を買って帰り、間に合わせ程度の修理をしてやった。といってもドアの鍵を修理するといった程度なのだが。
おれは、ヨーロッパへの空襲を待ち焦がれていた。戻った次の週に、おれは新しいウェリントン機を割り当てられた。そして仲間と早速飛行訓練を始めた。おれたちはドイツ本土への空襲に行くようになった。一方で敵機による英国本土への奇襲も激化していた。そんなこんなで、バージットに会いに行く暇は少なくなっていった。ジョーの帰省でドタキャンになったこともあった。
やがて、連日の空中戦を続けていては疲労がたまると当局も理解したらしく、できるだけきちんとローテーションを考えてくれるようになった。そのおかげでバージットに会いに行く暇を作りやすくなった。
おれたちは次第に親密な気分になっていった。そして、とうとうある夜、9月のことだったが、いつものように居間の肘掛椅子で眠っていると、バージットがおれを起こした。「眠れないの。二階は寂しいわ」
おれは立ち上がって、衝動的に彼女を抱きしめていた。そして、情熱的なキス。バージットは激しく体を押しつけてきた。夢想することと現実とは全く別のことだ。まさか現実になるとは。しかしともかくそれは起こったのだ。
その週末、おれたちはほとんどベッドにこもりきりだった。バージットとの別れはとてもつらかった。
9月が過ぎ、10月になると、敵は方針を空軍基地から都市の爆撃へと次第に切り替えた。特にロンドンがその標的だった。ジョーは相変わらずロンドンで赤十字活動をしており、バージットの心配は募った。だが、おれたちの情熱的な関係は続いた。おれは、訪問中にジョーが戻ったらと冷や冷していた。
しかし、そんな日々も終わりを告げた。1940年11月。バージットからおれに長距離電話が入った。おれがおり返し電話すると、彼女は告げた、ジョーが死んだ、と。
ジョーは、赤十字の救急車を運転中に、ドイツ軍の爆撃を食らったのだ。

22
おれたちはジョーの葬儀に出席した。バージットはおれに話しかけず、目をそらしていた。おれとバージットが兄貴の陰で情事にふけっている間に、こんなことになってしまって、とおれは後ろめたい思いに駆られていた。
軍はおれに弔慰休暇をくれたので、両親はずっと一緒にいたいといったが、おれはいたたまれず早々にバイクで基地に戻った。
おれがジョーの死から立ち直ろうとしている間に、戦局はどんどん悪化し、死は身近なものとなっていった。おれはバージットとの関係を懐かしみつつも、激しい戦線に飲みこまれていった。1940年から41年にかけての冬、おれたちは連日夜襲に駆りだされた。とはいえ、命の保証はなかった。確実なものは何もなかった。
そして、ついに1941年5月10日、ハンブルグ空襲の後、最後に残ったおれのAエイブル機は撃墜され、最も身近な仲間たちが負傷し、行方不明になったのだった。

23
おれが要約の問答をつけた報告は提出された。その後どうなったかは分からないが、あれが戦時中におれがした最大の貢献だろう。もっとも、あの報告書の行く末はどうなったか分からないし、それが戦争の大局に影響したとはとても思えないのだが。
マスコミや様々な政府文書でヘスに関する言及は多数あるが、そのどれも違っていることは、おれの報告書に書いた通りだ。おれはあの報告書を今でもほぼ再現できる。以下は、その再現文書だ。少なくとも結論は間違っていない。
1941年8月26日 囚人「ジョナサン」
・おれは前もって情報を与えられていなかった。ただ「ジョナサン」というコードネームだけ。
・おれは1936年ベルリンで会ったことがあったから、彼の身体的特徴ですぐにわかった。
・彼の第一印象はその外貌の変わりようだった。数週間の拘禁ではありえないほどやせこけていた。
・彼はおれのことを思いださなかった。
・おれたちは英語とドイツ語、主にドイツ語で話した。彼はババリアで育ち、南部訛りが酷い。だが外務省の文書に全く言及はない。
・彼によると、和平案を携えてきたということだった。ハミルトン公爵への手紙を持ってきていたが、なくした、彼に首相との仲介を頼むつもりだったと。彼は最初、おれが首相の代理だという話を信じなかったが、二日目から話し始めた(詳細後記)。
・彼は手書きのメモを時々見ていた。ナチスの理想や歴史に関することが長々書かれていた。
・今回の件が公的なものか個人的行動かは明確でない。来たのは彼自身の決定だが、英国との個別和平はヒトラーの希望だといっていた。
・和平案の要旨は、英国が無条件で敗戦を認める、英国が独立及び植民地を確保する、英国がヨーロッパへの不干渉を誓う、英国とドイツが25年間同盟を結ぶ、ドイツと他国の戦争に英国はドイツに有利な中立の態度を保つ、というものだった。
・おれはその提案を首相に伝えるとだけ答えた。
・おれは彼の正気を判断する知識も能力もないが、印象をいえば、おかしいか、おかしくなりつつある、又はそういうふりをしている感じがした。彼は食べ物に毒が入っていると信じているようだった。暗に、拘禁への不満を伝えようとしているのかとも思った。おれは被害妄想を解こうと努めた。彼は時々記憶が不確かになるとも主張した。
・彼の待遇はあらゆる面で恵まれていた。多くの食事と運動の機会を与えられていた。
・和平案は、彼の本心ではあるが、ヒトラーの後援はないと考える。けだし、彼の出発から間もなくのソ連侵攻への言及がなく、そのような計画の存在を彼が知らなかったこと、つまり彼がヒトラーの計画遂行から疎外されていたことを示すからである。
・彼の態度、仕草、菜食主義であるのに肉を食べること、などの違和感から判断して、彼はルドルフ・ヘスではなく、その偽者である、と結論する。

報告書提出後、おれは部隊の通常役務に戻ったが、首相秘書から感謝状が届いた。詳細な分析の上、それに従って進行しているとの内容だった。当面秘密にしてほしいということ。その後に、おれの兄に関して無神経な発言をしたと詫びるチャーチルの文言。
ヘスは戦後、戦犯として終身刑に服した。彼はのちドイツのスパンダー刑務所に移されそこで死んだ。家族との面会も拒みつづけた。28年ぶりに妻と会ったが既に75歳の高齢だった。1973年の健康診断で、あるべき傷がないことが分かったがこれがおれの偽者説を支える数少ない公式の証拠だった。1987年8月、獄中で死去。だいぶ前の遺書が見つかったが、検死で死因は分からず、他殺説が流れた。例の傷はやはり見つからなかった。ネオナチの台頭を防ぐべく、スパンダー刑務所は取り壊された。彼が本物だったのか偽者だったのか、公式には明らかにされていない。

24
おれは、チャーチルの最後の任務を終えた後、空軍勤務に戻った。マンハイム空襲の後、1942年5月30日には、コロン空襲に参加した。大規模な攻撃だった。翌日はエッセンだった。そして、エムデン。おれは経験を重ね、着実にベテランに近づいていった。もちろん、たくさんの仲間が死んでいく。
だが、おれは市民を殺しながら、こんな疑問にとらわれていた。これはドイツがやっていることと同じだ。ロンドン市民をいくら殺して脅したところで、かえって彼らの士気を、怒りを高めるだけなのと同じ。おれたちのやっていることは、単に戦争を長引かせているだけではないか?

25
おれたちは都市への攻撃を続けたが、作戦は次第に苛烈になっていった。
シュツットガルト空爆の日、おれたちのランカスター機は反撃の砲火を食らった。おれはパラシュート脱出し、風で火事の町の上空を逃れた。おれは市内のどこかに落ち、救出され病院に運ばれた、1942年のことだった。それから45年、米軍に解放されるまで三年間、おれは戦争捕虜だった。
おれは両親に手紙を書き、バージットによろしくと書いたが、返事があったのは一年後で、しかも再婚し子供がいるという内容だった。
絶望の日々の後、おれは少しずつそれを乗り越えた。バージットは永遠におれのものにはならない。しかし、おれが二度と会わなければ、バージットの幸せを願うだけで済む。
おれの仲間が盗んだ部品でラジオを組み立て、BBCが辛うじて聴けるようになった。どうやら、連合軍が勝利しそうな動向だった。

26
1945年一月空襲警報があり、停電があった。連合軍の空襲だった。
おれはヘスのことを思いだしていた。ヘスは戦後、和平提案を持って来たということで唯一死刑を免れたが終身刑で忘れ去られることとなる。
おれは米軍に解放され英国に戻ったが、父母が相次いで亡くなった。
おれは空軍の仕事を志願したが、あぶれた。おれはオーストラリア行きを志願し、出発の前に、バージットが最後の手紙の時点でまだいたジョーの家に寄ってみた。バージットと娘が出てきた。娘は庭の砂場で遊び始めた。その顔を見て驚いた、おれの家系の顔だ。年は5歳ぐらい、40年後半に身ごもった子だ。おれの子だ! バージットは出てきておれを見もせずに娘を連れかえった。バージットの声で、名前がアンジェラだと分かった。バージットは夫らしき男に「ハリー、変な男がいる!」と言い、40がらみの髭の男が出てきておれを見たので、おれは慌てて車で走り去った。
おれはオーストラリアに渡り、新しい生活をスタートした。パイロットをはじめいろいろな職につき、1982年英国に戻った。そして旧友を訪ね歩いたが、軽い心臓発作に襲われてから節制するようになった。
今ふりかえってみても、あの戦時体験は特別なものだったと言える。おれが捕虜になった後も、おれは夜空を見上げ、連合軍の飛行機部隊が飛ぶのを見ては、空襲を想像していたのだ。ドイツで燃えている町があることを。

(以上で、ジャックの手記は終わる。)

第三部 1999年
1 次の取材計画
アンジェラ・チッパートンと会った5ヵ月後、グラトンは「東部のうつろな都市」を書き上げた。1942年から48年にかけて、ナチスの政策でウクライナにドイツ人都市を建設に行った男女の談話を収録した本だった。それから留守電とメールのメッセージをたよりに、息子のエドマンド、ケルヴィンを歴訪した。10日の取材から帰ってみると、ちょうど原稿を編集者が読んでいる最中だった。
グラトンは例によって早速次の本に取りかかった。二つの予定があったが、どちらにしようか? 
1つは、1960-61年の米国の歴史。リチャード・ニクソンが大統領に選ばれた。ニクソンは神経症的にシベリア派兵の兵を倍増させ、大不況を後押しした。それを関係者へのインタビューで現在の経済状況の分析と関連付けながら分析しようとする本で、取材費を出すというオファーが多数あった。グラトンはエージェントにいちばんいい条件の会社を選ばせ、着手するだけでよい。
だが、米国への長期滞在はあまり気が進まなかった。というのも、「うつろな都市」の取材で、53年ウクライナ蜂起以来の米国への避難民にインタビューを行ったばかりだったからだ。米国も悪い国ではないが、欧州から行く者は嫌が応でも第三戦争の爪跡を見て、憂鬱な気分になる。1980年初めて米国に行ったときは、孤立主義的で排外主義的な気風、物価高や燃料不足に30年代の大不況にトリップしたような屈折したレトロ感を楽しんだ。あれから20年たつが事態は全く変わっていない。もはや新鮮さは失われている。
もう一つのプランは、ソウヤーに関するレポートである。まだほとんど着手していない。だが、ちょうどアンジェラの住む町のそばを通ったことだし、米国の歴史書よりも短くて済みそうだ。
ただ、問題は、情報募集広告への反応の悪さもさることながら、アンジェラがその後連絡をよこさないことだった。オリジナル原稿も送ってこないので、グラトンは仕方なく手持ちのコピーを転書屋に送っていた。分かっているのは住所だけだった。
マサダのレヴィからも返事はなかった。レヴィは既に死亡している可能性も高く、あまり期待はしていなかったのだが。レヴィの話に出てきたソウヤーがチャーチルの本のソウヤーと同じという保証もないのだが、偶然にしては似過ぎていた。
結局、ソウヤーの本は無駄な取材を重ねた挙句、本にすらならない可能性が高いと思った。苦労して調べた挙句が、チャーチルの勘違いでした、ミスプリでしたという結論でもおかしくない。そんな例は今までにも枚挙に暇がないのだ。

2 決断
ところが、家に戻ってすぐ、決断が下った。隣人がマサダのレヴィからの手紙を渡したのだ。グラトンは、米国歴史の本を保留にしろとエージェントに指示し、車でベイクウェルに向かった。

3 ベイクウェル
ベイクウェルは妻のウェンディが生きていたころ、車でよく通ったものの、そこで停まったことは一度もない町だった。グラトンは、何とかチッパートンの住所を探りだした。ところが着いてみると、チッパートンという女性は一度も住んだことがないという。インフォーメーションセンターで検索したが、この町にはチッパートン、ソウヤーあるいはグラトンという名のものは誰も住んでいなかった。似た名前、似た都市に広げて検索してもダメだった。
車に戻って封筒を調べたが、見間違いではなかった。結局、時間の無駄だったのか。
家に戻ってから、グラトンは仕方なく、レヴィの送ってきたものを読むことにした。

4 レヴィの手紙
レヴィの手紙にはこう書いてあった。
手紙を受け取ってから返事が遅くなって申し訳ない。同封したレポートをずっと書いていたからです。81歳という高齢、戦争負傷の後遺症にもかかわらず元気です。妻は去年亡くなりましたが。今は引っ越して姪家族と暮しています。
チャーチルの本は私も読みました。私も手紙であなたが考えたとの同様のことを考えていました。私のまとめた年表を同封しています。私の同僚のソウヤーと、チャーチルの本のソウヤーはほぼ確実に同一人物だと思います。が、不思議なところもあるのです。
戦時中、ソウヤーの奇妙な行動は私たちを悩ませていました。未だにあれは謎です。私の考えがあなたの役に立てばいいと思います。
この手紙に同封してある一人称の文書は、私のジャックにあった第一印象と、戦時中の出来事です。残りは私のレポートです。インターネット検索すれば驚くべきことが多数分かります。私のレポートはむしろ答よりも多くの疑問を生むでしょう。またその内容は必ずしも快いものではありません。
取材にいつでもおいでください。政情不安はもう大丈夫です。なかなか快適な国ですよ、マサダは。

第四部 1940年ー41年 レヴィの手記

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