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「アサシン、野球はお好きかしら?」
ストッ、と。
レイン・ポゥが展開させた虹の橋から彼女自身が降り立ち、その後で、抱かかえられていた純恋子が地面に降り立つ。
共にピッチャーマウンドの上に立っている。この言葉は、その折に純恋子がレイン・ポゥに投げかけたものであった。
「スポーツ自体がそんなに好きじゃねーから。て言うか、アンタもそんなに野球は好きじゃないっしょ? ああ言う試合時間が長いのはお気に召さなそう」
「どちらかと言うとそうですわね。ついでに言うとサッカーもそんなに好きではありません。決着がつくのに時間がかかりますもの。私の好きなスポーツは相撲ですわ」
「まぁ……すぐに決着はつくわな……」
まわしを締めた純恋子の姿を思い浮かべるレイン・ポゥ。
想像以上に似合っていたので、思わず噴出しそうになるが、こらえた。そう言う所は我慢強い。
パムの黒羽を応用した事前の走査で、この神宮球場にはサーヴァントが一人もいない事は既に判明している。
いるのは、本当に幾ばくかの従業員。そして……
黒贄礼太郎のマスターと思しき、魔術回路を保有した人間の女性。即ち、
遠坂凛である。
此処にいる事は解っている。だが、具体的に何処に隠れているのかまでは解らない。パムが近くにいるのなら、こんな球場などガラス箱も同然。
何処に隠れていようが能力の応用で追跡可能だが、彼女が此処にいない以上、レイン・ポゥ達は自分の足で凛を探さねばならない。
パムの事は、今でも気に入らない。寧ろ、嫌いであるとすら断言出来る。
だが、間違いなくあの魔法少女は、凛と言うマスターと渡り合う上で最も勘案せねばならない要素である、黒贄礼太郎を凛と合流させる事を防いでくれる。
凛単体なら、如何にでもなる。彼女と黒贄が合流してしまえば、手がつけられない。それをパムは阻止してくれるだろう。
勿論、それは善意から来る行いではない。パムが、黒贄と戦いたいと言う邪な感情を抱いているから、パムはあの殺人鬼と戦ってくれるのだ。
動機はこの際、如何でも良い。パムは、黒贄を食い止めてくれる。それについては一切の疑念も抱いてない。それについてはレイン・ポゥは信頼しているのだ。
「アサシン、手出しは無用でしてよ」
問題はこの近距離パワー型の女である。
何でも遠坂凛との決着は自分がつけるのだと、彼女、
英純恋子は随分と息巻いている。
実際、腕に覚えがあるマスターとマスターが戦って決着をつけるのは、何も間違ってはいなかろう。
サーヴァントを倒すのは、マスターの仕事ではない。これは戦闘をこなせるサーヴァントの領分である。
だから純恋子が、凛との戦いは自分に任せろと口にするのは、何も間違っている所はない。だが問題は、凛は魔術を使えるのだ。
これで、凛が当初の見立て通り、黒贄礼太郎と言う強大な暴力装置に振り回されるだけの無力の少女だったら、レイン・ポゥは純恋子と凛が戦うと言う事実に、
難色を示す事もなかった。だが実際は違った。凛は、戦える。度胸も、ある。こうなってくると話は別だ。なるべく純恋子と凛は戦わせたくない。
レイン・ポゥは純恋子も嫌いだ。こう言うイケイケで、自分の我が強いキャラクターが彼女は好きではないのだ。
だから純恋子が野垂れ死にしようが、銃で撃たれたり剣で滅多切りにされて無様な骸を晒そうが、普段ならば如何でも良い。だが今は不味い。
純恋子はレイン・ポゥのマスターだからだ。死なないように配慮するのは当然の運びであった。
「そんなに戦いたいか?」
もう答えは決まりきっているだろうが、一応訊ねる。
「彼女……遠坂凛からは、貴族の風格を感じました。並ならぬ才覚を持った上で、一日たりとも努力を怠けなかった者のみが放てる、独自の風です」
「はぁ」
「そう言うオーラを持つ者に対しては、敬意と誠意を以って接せねばなりません。お分かりですね?」
「解らない」
即答。しかも、全く返答にやる気がない。
「女王を志す者同士が相対したら、どうなるのか? 勝負でしょう」
どうやら純恋子の脳内では、凛は女王を志す候補生扱いで、純恋子自身からは好敵手として認識されているらしい。
敵ながらレイン・ポゥは同情する。自分の知らないところでドンドンドンドン訳の解らない設定を付与されて行くのは、どんな気持ちになるのだろうか。
どちらにしても純恋子は、遠坂凛との戦いに完全に燃えているらしかった。
あの魔術師の女に純恋子が何を感じ取ったのかはレイン・ポゥには解るべくもないが、魔術を使うと解ってもなおこの意気軒昂ぶりは素直に凄いと思っている。
相手が恐るべき手段を使うと解れば搦め手や抜け道、卑怯に邪道も何でも用いるレイン・ポゥとは対照的だ。真っ向から相手を叩き伏せるストロングスタイル。
肯定的に捉えるのなら、互いの足りない部分を補い合える関係なのだろうが、無論、人間関係はジグソーパズルのピース宜しく、簡単にピッタリ行く物ではない。
実際は純恋子とレイン・ポゥの関係はデコボコも良い所で、サーヴァントやマスターと出会った時の応対と言う、一番重視せねばならない部分ですら、意見の合致を見ない程である。
今回レイン・ポゥは、ある程度純恋子に譲歩する事にした。凛と戦わせるのである。
普段ならばそんな暴挙は許さないのだが、幸いにもこの神宮球場内には現状サーヴァントの類は潜伏していない事はパムの黒羽で把握済み。
つまり、この場にいるサーヴァントはレイン・ポゥ一人だけ。これならば、ある程度のマスターの逸脱は黙認出来る。
無論、マスターが死にそうな場合はフォローを入れる。凛に純恋子が殺されそうならば、それを防ぐ。当然の配慮だった。
パムの黒羽によって、凛は、この球場内を忙しなく動き回っている事が解っている。
しかし、完全なランダムで動いているのではない。球場の形状と、移動している現在位置、そして、パムが黒贄や
アレックスらと戦っている場所。
これらの要素を合算して考えれば、凛がどんな法則下で動いているのかは、一目瞭然。明らかに、パム達を意識している場所を動いている。
要するに、パム達の戦いがチラリとでも良いから確認出来るポジショニングを確保可能な所のみしか動いていないのだ。
大方、黒贄の動向が心配だから、彼の姿が最低限見る事が可能なところにいたいのだろう。判断としては、正しかろう。
しかし、一定範囲内でしかランダムに動けないと言うのであれば、それはもう、移動先を特定したに等しい。今の凛は、水に溺れた犬のようなもの。弱り目も弱り目の状態だ。叩きに行かない手はなかった。
「その場所まで赴きましょうか、アサシン」
「あいよ」
言って二名は、マウンドからダッグアウト(控え席)へと駆け出し、フィールドから球場内部へと移動。
其処から、遠坂凛がうろついているであろう場所まで一気に距離を詰め始める。
移動する事、約一分程。目当ての者は、いた。というより、鉢合わせの形になった。
二階通路へと通じる階段を純恋子らが駆け上がろうとしたそのタイミングで、凛とバッタリ遭遇したのである。
純恋子は階段の踊り場部分、凛が、二階の通路部分である。どうやら壁に取り付けられた窓から、黒贄達の様子が伺えるところであるらしい。
移動しながら、チラチラと、彼らの様相を見守っていたに相違あるまい。
「!!」
目を見開かせて凛が驚く。死んだ人間が蘇った瞬間を目の当たりにしたようなリアクションであった。
無理もない、午前中に戦ったサーヴァントの主従、その中でも特に『濃かった』人物と出会ってしまったのだ。その反応も珍しいものじゃない。
そして、凛は今この瞬間、純恋子の主従が今の状況に絡んでいた事を初めて知った。無理もない。黒贄自体はパムと競技場で出会ってはいたが、
凛は今までずっと競技場内部を移動していたが為に、競技フィールドで複数のサーヴァントらと大立ち回りを繰り広げていたパムの存在を認知出来ていなかった。
認知していれば、パムがこの場に現れ、戦っている瞬間を見て、芋づる的にレイン・ポゥもこの場にいる事を予測出来た可能性もあろうが、
パムが何者なのか知らない以上そんな推測は立てられない。結局、パムがこの場に現れた瞬間からレイン・ポゥらがこの球場に侵入した瞬間を、
良いポジショニングを探している内にうっかり見逃してしまっていた凛が、純恋子らが今回の件に絡み始めた事を知る機会は、今までなかったと言う事である。
「御機嫌よう、遠坂凛さん」
たった今より殺し合いを行おうと言う者が浮かべるとは到底思えない、洗練された淑女の笑みを浮かべて純恋子が言った。
これから茶会か、立食パーティーでも行われ、その参加者に対して向けていた笑みだと言われても、殆どの者が納得するであろう。
「女王を志す者なら、善き好敵手にはささやかながら返礼の品を用意するのが当然の礼儀。生憎と今は持ち合わせが御座いませんが、どうかご容赦――」
「邪魔」
純恋子が全てを言う前に、恐ろしさすら覚える程酷薄な声音でそう口にした凛は、向けた人差し指から赤黒いガンドを放った。
腕を此方に差し向ける動作から、何をしてくるのか見抜いた純恋子が、直立不動の姿勢をそのままに横に勢いスライド。ガンドが、彼女が先程まで直立していた場所を穿つ。
直撃していたら、間違いなく純恋子の胴体には致命の一撃が叩き込まれていただろう。
「せっかちで――」
純恋子が言葉を紡ぐ暇すら、凛は与えない。ガンドを再び狙い打つ。射線上から、純恋子の姿が消えた。
果たして誰が信じられようか。何と純恋子は、階段を駆け上がるのではなく、階段の右横にある壁を『横走り』しながら凛の元へと近づいているのだ。
――良く見ると、純恋子の靴は、脱がれていた。外行きの格好に気を使う彼女が、靴を履き忘れたと言う事は有り得ない。意図的に脱いだのだ。
今回の戦いに際し、純恋子は脚部機械の換装を行っていた。即ち、脹脛や踵部分から超高速回転するローラーの他、登山靴に着けるアイゼン等、
様々な用途を持った機能を飛び出させる脚部機械を装備しているのである。
ローラーをローラースケートの要領で用いる事で高速での移動が可能になる他、悪路や凍結した場所での安定した移動をも約束する。
先程純恋子が、直立状態のまま凛のガンドを回避したのは、ローラーを高速回転させる事で勝手に移動させる機能を活かしたからだった。
「チッ!!」
凛が、スタントアクションの達者見たく壁を走る純恋子目掛けて、ガンドを放つ。其処で、純恋子が壁を蹴って、一気に凛の下へと跳躍。
壁に真新しく刻まれた、無数の小さな穴。アイゼンの機能を用いているらしい。尤も、純恋子ならばこれに頼らずとも壁ぐらいは走って来そうな凄みは、ある。
一気に凛の下へと迫る純恋子が、胴回し回転蹴りを凛の胴体目掛けて放つ。
腕を交差させ、それを防御する凛だったが、純恋子の脚はほぼ付け根から機械である。当然、蹴りや殴りの威力はその機械の重さがモロに乗せられる形となる。
当然、生半な防御や受けの技術が通用する訳もない。防御したところで腕は折れる、胴の骨は砕ける……筈なのだが。凛の身体の骨は折れる事はない。
しかし、無傷ではやはりない。純恋子の一撃の威力に負け、数mも凛は吹っ飛ばされる。背面から床を転がる凛だったが、直ぐに立ち上がり、姿勢を整える。
純恋子もまた、空中で派手な蹴り技を披露したせいか、着地に手間取ってしまっていた。何とか凛と純恋子が体勢を整えられたのは、同じタイミングであった。
特に、自分の攻撃を受けても思った程ダメージがない事については、純恋子は驚いていない。
魔術の事は全く知らない門外漢、基礎のきの字も知らないが、解る事は一つ。応用次第では戦闘に転用させられ、簡単に人を殺せる術が魔術のカテゴリー内には、
当たり前のように存在すると言う事実。ならば、珍しくなかろう。自分の身体能力を底上げさせ、強化する術がある事位は容易に想像出来る。
それを用いているのだと、純恋子は直感的に理解し、そしてそれが正しかった。凛は純恋子の姿を認識した瞬間、強化の魔術を自分に適用していたのである。
目が据わっている。凛の瞳を見て先ず純恋子はそう思った。
香砂会の邸宅で彼女の姿を見た時は、何処か浮ついていて、目的意識も定まっていない、どちらかと言うと弱さの面が目立つ瞳をしていた。
今は違う。然るべき目的を見つけ、理解し、それを達成する事に強い意識を向けている。そんな者だけが有する、特有の光をその目に宿していた。
あの短期間の間に、何が凛を変えたのか。それは純恋子には解らないが、確かな事が一つある。彼女は以前よりも全力で、自分、英純恋子を殺しに掛かると言う事だ!!
ブンッ、と。懐に手を入れた凛が、何かを純恋子の方へと放った。
強い山なりの軌道を描きながら迫るそれの正体を認識するよりも速く、凛がガンドでこれを打ち抜いた。
すわ、魔術的な何かしらの飛び道具か!! 純恋子がそう警戒するのも無理はない。ガンドは、凛が投げた物を寸分の狂いもなく撃ち抜く。
凛が投げたものは、容器。もっと言えば、液体を溜め置く事を目的とした、本当に小さなものであったらしい。
黒い液体が、四方八方に飛散し、その一部が純恋子の顔面に引っ掛かった。拙い、と思うのも無理からぬ事。
何せ今身体に掛かったのは、正真正銘の魔術師が保有していた得体の知れない液体なのだ。酸のように皮膚が溶けるとかなら可愛い方、最悪の場合、
非常に強い毒性の液体で、一滴浴びただけで死亡と言う事にもなりかねない。そうだとしたら、短期決戦になるだろう。
即効性の毒でも、気合と根性があれば何とか延命出来るかもしれない。超高層ビルから叩き落されても生きていた時の経験を思い出し、それを賦活剤にして、
凛に食って掛かろうとするも……結論から言えば、その気持ちが一気に収縮した。何故ならば凛の投げた液体の正体を、理解したからだ。
純恋子の嗅覚が、凛の投げた物の正体をダイレクトに教える。――醤油だ。普段純恋子が口にしている特級品のそれとは格段にグレードは落ちるが、間違いなくこれは醤油だった。
何故醤油を掛けたのか、と一瞬だけ思考が漂白された瞬間、ガンドが脳天目掛けて放たれた。
そう、凛としては投げるものなど今放った、シューマイ弁当に付けられていた醤油の入れ物だろうが、酸の入った試験管だろうが、毒液の入った小瓶だろうが。
何でも良かった。ただ、純恋子の意識を一瞬だけ白紙に戻せれば良かった。そして、その意識の空隙を縫うように、ガンドを放つ。こんな算段だったのだ。
「しまっ――」
其処で腕を動かしてガンドをパリィングしようとするも、もう間に合わない。脳漿と共に、頭蓋の破片と、髪ごと付着した肉片を炸裂させるのか。
そう思った刹那、矢のような速度で自分の真正面を何かが横切るのを純恋子は見た。
――レイン・ポゥだ。
不穏な空気を感じ取った彼女が、階段の踊り場から鋭い角度で跳躍。その勢いのまま純恋子の真正面を横切り、横切りざまに、
虹の壁を自らの体の前面に一瞬展開させ、ガンドを防御、主の危機を救ったのだ。
純恋子が自体を認識するよりも速く、レイン・ポゥは行動に打って出た。
タッと着地するなり、虹を凛の下へと全方位から殺到させようとするが、それをするよりも、凛の行動の方が早かった。
レイン・ポゥの姿を見るなり、脱兎の如くその場から逃走。矜持も何も掻き捨て、背を向けて純恋子達から逃走を図った。
逃すか、と言わんばかりにレイン・ポゥが虹を、凛の頭上から一本、前後左右からそれぞれ一本。合計五本の虹を射出させ、
見るも無惨なバラバラ死体にさせてやろうとするが、これを彼女は、サッカー選手が行うような見事なスライディングで回避する。
スライディングを終えた状態から急いで立ち上がる凛。
倒けつ転びつ、蹌踉とした様子で急いで立ち上がった彼女は、危なげな様子で左手の側にあった階段目掛け猛ダッシュ。
踊り場までの十数段をジャンプ一つで飛び降りる事で、階段を降ると言う工程をショートカット。何とか純恋子達から距離を取った。
「アサシン」
普段の会話のトーンではない。静かではあるが、しかし。
母親が、お痛をした我が子を窘め、叱り付けるような声音で、純恋子はレイン・ポゥの名を呼んだ。
「謝らないから」
即答する。
「あの女はもう、アンタの知ってる浮ついた女じゃない」
純恋子ですら気付くのだ。死線と修羅場を掻い潜ってきた、歴戦の魔法少女であるレイン・ポゥが気付かぬ筈がない。
「その通り、だからこそ私は――」
「だからこそ」
純恋子が全てを言い切るよりも前に、レイン・ポゥが彼女の言葉を遮った。有無を言わさない、強い語調である。
「私はアンタを戦わせたくないのさ」
英純恋子は、レイン・ポゥから見ても優秀な女性だと思う。
機械の手足込みであるとは言え、その身体能力はとんでもなく高い上に、各界へのコネクションも豊富な上に、経済力に至っては国内でも十指は堅いレベルのそれ。
それでいて頭も良く、胆力もあると言うのだから、非の打ち所がない。性別をそのまま男に変えても、彼女は人間と言う生き物の理想系、その形の一つと言えるだろう。
だが、そんな彼女であっても、聖杯戦争では生き残れまい。これだけのスペックを有していながら、である。
何故ならば、この聖杯戦争には彼女の総合的なスペックを軽々と上回る存在が珍しくないからだ。そのスペックには無論の事、殺し合いの場に於いての適正。即ち、殺し合いについてのそれも含まれている。
単刀直入に言って、まだまだ純恋子は競技、スポーツ感覚が抜け切れていない。これが拙い。
相手を殺す、その覚悟は確かにある。だが純恋子には、『どんな手段を用いても』、と言う風な生汚さ、卑怯に禁じ手、タブーに反則を容易くして見せるような、
精神性が全く育っていないのだ。戦いは、そう言う非情さにどれだけ速く徹せられるかが大事だと思っているレイン・ポゥにとって、今の純恋子の精神性は、
ハッキリ言ってまるでお話にならない。しかし凛は、最後に自分達が出会った時から起算してほんの数時間の間に、その精神性に突入していた。
言うならば、戦争という非日常が醸す狂気の空間、それに順応し始めたのである。
――何が起こりやがった……?――
聖杯戦争の先行きなど、一寸先は闇どころの話ではない。
一刻先どころか、比喩を抜きに一分先すらその展開が予測出来ない。戦局はまるで風の強い海の模様のように、凄い速度で変わって行くのだ。
今有利な立場にいる者が、容易く次の瞬間には不利に甘んじる事などザラにあるのだ。故に、凛があのような『鬼』になる事は珍しくもないだろう。
ほんの数時間、とは言うが、その数時間は、凛を魔に変えるには十分過ぎる程の猶予があった事は容易に想像出来る。
凛が、如何なる魔手に足首を掴まれ、鬼の住む湖沼に引き擦り込まれたのかは定かじゃないが、確かな事は一つ。
今この場に於いて、最も浮ついた精神性の持ち主は他ならぬレイン・ポゥのマスターである英純恋子であり、今の彼女では逆立ちしても、凛には勝てないと言う事だ。
凛の変化に気付いたレイン・ポゥは、だからこそ純恋子の一人舞台に乱入し、自らの手で凛を抹殺しようとした。今の純恋子では、手に余る。そう考えたのである。
「今の貴女の行いは不問とします。追いますわよ」
「へーい」
と言って数歩、純恋子が駆け出した、その瞬間だった。
自分が今歩いている床のタイルを貫いて、『赤黒い弾丸』が飛翔して来たのは!!
咄嗟の事故に、純恋子は反応が遅れた。反応は出来た物の、弾丸が出てきた位置が位置の為に、虹のバリケードを展開する事がレイン・ポゥは間に合わなかった。
結果として、機械の右脚のアキレス腱……に相当する部位が赤黒の弾丸、ガンドに撃ち抜かれてしまう。
エマージェンシー・コールが、脚部機械に内蔵された音声指示機能が発しだす。アイゼンや、ローラー、バーナーなど、機械がこれら様々なギミックを駆使する為の、
言わば連絡部を破壊されたらしく、以降使用が不可能になってしまった旨。それを純恋子に告げたのだ。
瞳に怒りを宿したレイン・ポゥが、七色の剃刀を展開。三m程の長さに調整したそれを、目にも留まらぬ速さで床目掛けて振るいまくる。
一瞬にして、レイン・ポゥ達が足を付けている床部分に、縦横無尽に溝が刻まれ始め、其処からバラバラと床が崩れて行く。
無数にカットされたその瓦礫ごと、下階にレイン・ポゥと純恋子が落ちて行く。凛が下にいる、それは、間違いない。
言うまでもなく、純恋子達がいた二階と、凛がいるであろう一階は、天井――純恋子達からすれば床だ――によって遮られており、
透視能力(クレヤボンス)でも持たない限りは純恋子達が今どの地点を歩いているかなど判別不能の筈だった。
が、レイン・ポゥは、凛が何故自分達の場所をある程度特定出来たのか大体ではあるが理解していた。
――大層な脚何ざくっつけやがって……――
純恋子は当たり前のように動かして見せる為、かなり錯覚しがちだが、彼女の装備している機械の手足は、重い。
当然と言えば当然だ。人間の腕部、脚部相当の大きさの、金属の塊である。しかも純恋子の装備するそれは、戦闘に耐え得るだけの強固な金属で構成されている上に、
内部に様々な機構を備えた特別製だ。重くならない筈がない。と言うより、純恋子自体がわざと重く作ってあるのだ。
格闘戦で、パンチやキックの重さを増させる為にである。重さにして、三〇~四〇kg弱。そんな物を装備して、靴などの緩衝材なしに全力で走れば、どうなるか?
『音が生じる』。遠くからそれと解る音がだ。恐らく凛は、この音を集中して聞き分けたのだろう。その音で、純恋子の位置を天井越しに推察。
ガンドを放ち、結果、大当たりだった、と言う訳だ。成程、実によくやった。レイン・ポゥにとっては、腹が立つ程、見事なやり方だった。
着地する純恋子とレイン・ポゥ。後者の方は床を斬った張本人の為、上手く着地するのも当たり前だが、純恋子も純恋子だ。
右の脚部機械の機能を著しくダウンさせられたにもかかわらず、実に見事な着地を決めていた。やはり、素の身体能力がかなり高いらしかった。
視線の先、三m。其処に凛の姿を認めた瞬間、レイン・ポゥは矢も盾もたまらず、虹を延長させていた。
だが、行動に移るスピードは凛の方が早かった。直ぐに横っ飛びに飛び退き、すんでの所で虹を回避。
そして、この回避行動は球場内部からの逃走をも兼ねていた。虹を避けた時の勢いをそのままに、凛は右肩から窓ガラスへと衝突。
魔術によって身体能力が強化されていた凛は、この激突でガラスをぶち破り、一気に外へと転がり出た。
凛は一瞬、欲をかき、外壁越しにガンドを撃ち放って純恋子達を迎え撃とうかと考えたが、その欲を振り払った。
外で体勢を整えるなり、神宮球場には最早目もくれず、全力でその場からの退避行動を選んだ。そして、その選択が正しかった。
凛が地を蹴って移動してから、ゼロカンマ四秒程が経過した時、機関銃の如き勢いと数で、剃刀程度の幅・細さの虹が球場の外壁を突き破り、
凛が先程まで立っていた地点に群がったからである。色気を出して、ガンドを放っていたならば、凛は今頃虹の剃刀に貫かれて物言わぬ死体へと成り果てていた事だろう。
球場の外壁、その一部が砕け飛んだ。内側から、強いインパクトを与えられたかのような壊れ方。
壊れた壁のその先に、握り拳を作って右腕を伸ばしている純恋子の姿があった。あの程度の外壁など、彼女にとってはビスケット同然であるらしい。
「ッ――!!」
全力疾走を行いつつも、目線を後方に送り、純恋子達にガンドを放つ凛。距離は取る、だがそれ以上に、攻撃の手は緩めてはならない。
サーヴァントにとって今の凛の放てる攻撃などたかが知れてるが、それでも、やらないよりはずっとマシだ。
何故ならば攻撃をやめれば、此方が一方的に攻撃を叩き込まれる番になるのだから。
案の定とも言うべきか、レイン・ポゥがガンドを虹の壁で防御する。尤もこれ自体は、凛も織り込み済みである。防げて当然だからだ。
後は相手の出方、であったが、向こうの初動がやや遅い。通常ならサーヴァントであるあのアサシンが即座に攻撃を行って来そうなものだが、
それが凛の目には、やや鈍っている風に思える。恐らくは、純恋子が原因だと凛は考えた。あの淑女は本当に、自分との決着に固執しているらしく、
その我が侭さが、レイン・ポゥの動きに桎梏を課している。凛はそう推察し、それが実際その通りなのだった。
純恋子が念話でレイン・ポゥに、なるべく攻撃の手を緩めろ、と命令していない限り、凛の命運もまた違うものになっていただろう。
今のままなら、自分は逃げられる。凛はそう考え、対するレイン・ポゥは、このままだと逃げられる!! そう考えていた。
純恋子の命令を無視し、関係に亀裂が生じても良いから凛を殺そうとした、その瞬間――凛の走行ルート付近の壁が、先程純恋子が殴って壊して見せたのと同じ要領で、砕け飛んだ!!
「んなっ!?」
予想だにしない現象に驚いたのは、何も凛だけではない。
純恋子に、レイン・ポゥ。彼女らもまた、攻撃の手を一時中断せざるを得ない程動揺していた。
立ち止まるか、それともこのまま走り続けるか? 凛に与えられた選択の時間は余りにも短く、その猶予の中で凛は、大きく弧を描いて走る、と言う道を選んだ。
砕いた外壁から生じる、建材の煙を突き破り、凛の元へと機関車の如き速度で迫るのは、凛の知っている人物だった。
黒贄と同じような黒い礼服を身に纏ってはいるが、着こなし方は此方の方が、黒贄のそれよりもフォーマルで、しっかりとしている。几帳面さが服装に出ていた。
体格は黒贄に負けないほど骨太でガッシリとしていて、礼服が実に良く似合っている。格上の人間は標準の服装がマッチする、と言う言葉通りの男だった。
凛はこの紳士の名を知らない、が。彼が目下の自分の敵である、と言う事実だけは彼女は明白に認識していた。そしてそれは――彼、
ジョナサン・ジョースターにしても、同じであった。
圧倒的に、ジョナサンの走る速度の方が速かった。強化の魔術を自らに施していてなお、ジョナサンの身体能力は凛を凌駕している。
攻撃の間合いに近づくなり、ごうっ、と。風圧すら生じる程の勢いでジョナサンが右拳を突き出して来た。
その攻撃に、凛がうら若い女子だから、と言う風な紳士の遠慮が微塵にも感じられない。敵だから、殺す。
そんなシンプルで、解りやすい意思が、皮膚を裂いて筋肉の内から溢れんばかりに、ジョナサンの拳から滾っていた。
攻撃を、凛が両手で受ける。腕を交差させて、防いだ、が。腕越しに舞い込んできた衝撃もまた、機関車の如し、であった。本当に、車か何かに激突したのでは、と思わずにはいられない程の、凄まじい力だった。
「!!」
声すら、上げる間もなく凛が吹っ飛ぶ。
如何に少女と言っても、十代も半ばを過ぎた、人間の女性である。そんな彼女が、殴打を防御した時の立ち姿勢をそのままに、地面と殆ど水平に、すっ飛んでいるのだ。
人一人を、十数m程も殴り飛ばせるなど、信じ難い膂力にも程がある。あの男、ジョナサンは、どんな鍛錬を経、どんな力を身につけたと言うのか。
「っぐぅ……!!」
着地に失敗し、背面から地面に倒れこむ凛。
苦悶に顔を歪めさせながら、凛は急いで立ち上がろうとする。この動作中、右腕を柱にして立ち上がろうとした瞬間、凄まじい痛みが下腕の辺りを走った。
認識したくない現実だった、骨が折れている。いや、ヒビかもしれない。どちらでも同じ事だ、戦闘に支障が出ると言う点では、致命的なダメージである。
脚だけの力で急いで立ち上がった凛は、自身の周囲の空間を点状に歪ませ、その歪曲点からガンドをジョナサン目掛けて乱射する。
しかしこれをジョナサンは、自らのスーツの上着を冷静に脱ぎ外し、それをバサッ、と振り上げて対応。
出来る筈がない、その一瞬でこんな事を思えたのはレイン・ポゥだ。しかし――その不可能をジョナサンは可能とした。
ジョナサンが翻した上着にガンドが当たった瞬間、彼自身へと殺到する赤黒い殺意の全ては砕け散り、無害化されてしまったのだ!!
目を見開く三名。そんな三人の目線を受けつつ、ジョナサンは、ガンドを砕いた上着を纏い直し、決然とした殺意を乗せた目線を凛に浴びせかけ、叫んだ。
「魂の篭っていない攻撃で僕は倒せないぞ!! 遠坂凛!!」
衣類の翻りでジョナサンがガンドを砕けた理由は、言うまでもなく彼の操る波紋法による。
服にはじく波紋を流し込む事で、薄皮を千枚通しで刺す様にガンドで貫かれる筈だった上着の強度を底上げさせたのである。
ジョナサンを殺しきれる切り札を、凛は今持っている。
持ってはいるが、それを此処で使って良いものか、悩んでいる。十数年、一日たりとも怠らず、コツコツと、魔力を溜めさせ続けた高純度の宝石。
この切り札を今現在、凛は余り多く持ち合わせていない。元々の数が少ないと言う事も、ある。聖杯戦争での運用に耐えられる程の魔力を溜め込める宝石は、
それだけ高品質……卑近な言葉を用いれば、凄く高いものでなければ話にならない。
商才のない弟弟子に冬木のオーナーを任せた結果、苦しいにも程がある台所事情を強いられねばならなかった凛には、この宝石を揃えるのには兎に角苦労したものだ。
そんな、聖杯戦争に備えて用意してきた宝石を、事もあろうに凛は三個しか今持っていなかった。本来は十個持っていた筈なのに、これは何故か。
馬鹿で間抜けな話だが、聖杯戦争開始前に黒贄があの虐殺を起こした時、動揺して屋敷に置き忘れてしまったのだ。その時の自分を、殴り倒したくなる。
あの時多少のリスクを犯してでも、宝石を持って逃走を図っていれば良かったのだ。悔やんでも、悔やみきれない。最悪、あの宝石を他者が利用するケースだって、有り得る。
そう言った事情のせいで、凛は、宝石を使う事にはとても過敏になっている。況して、あの競技場で一度宝石を使っているのが余計その事に拍車を掛けていた。
本当に、自分が命の危機に差し迫った瞬間。その時にこそ、彼女は切り札を使うようにしているのだ。
今は果たして、その瞬間なのか。この判断に凛は、大いに迷っていた。ジョナサン・ジョースターは、強い。
マスターとしては破格の強さであろう。下手をすれば、サーヴァントとて渡り合える程の優れた人間であるかも知れない。
魔術の腕は兎も角、肝心の殺し合いでの経験値が足りていない凛にとって、ジョナサンは過ぎた相手にも程がある。
切っても、誰も凛の選択を愚かと謗らないだろう。だが、あの宝石は予備の魔力バッテリーとしても機能し得る重要なアイテムだ。此処でこの宝石を、新国立競技場での戦いからさして間も空いてない状況で使うのは――
「其処の紳士(ジェントル)、待ちなさい!!」
凛の元へと歩んで行くジョナサン……だが、そのピシャリとした強い声を聴いた瞬間、歩を止めた。
その歩みを止めさせたのは、誰ならん。英純恋子その人だった。純恋子の事を睨みつけるレイン・ポゥ。
念話でも、【止めろアイツの好きにさせろ!!】と純恋子の心に彼女は訴えかけていた。
「貴方と遠坂凛に、如何なる事情と因縁があったのかは解りません。ですが彼女は今、私と雌雄を決しているのです!! 横槍を刺すのはお止しなさい!!」
純恋子の目は節穴ではない。ジョナサンが凄まじく強い存在である事など、見抜いている。
下手をすれば、腕部・脚部機械に、純恋子が想定し得る最高の戦闘適性を持つ装備をこれでもかと積んだとしても、勝てないだろうと思わせるレベル。
ジョナサンの強さを、それ位にまで彼女は見積もっていた。それに、彼は紳士でもある事も、既に純恋子は理解している。
伊達に、英コンツェルンの令嬢として君臨していない。聖杯戦争と言う非日常から解き放たれれば純恋子は、社交界の花形として持て囃され、
所謂上流階級に属する人々が一目置く、崖の上に咲き誇る一厘の白百合のような高嶺の花として振舞う事が出来るのだ。
そんな世界で、ジェントルメンを見続けてきた彼女である。ジョナサンが、疑いようもない紳士の心根を持った人物である事など、お見通しと言う訳なのだ。
それ程までの紳士を激昂させるなど、何をやったんだと言う思いと、これ程の強さを持つ存在と因縁を持っているなど、流石は当面の私のライバル、と言う思い。
それらが純恋子の中で両立していた。ジョナサンにも事情はあるのだろうが、凛は自分と先約がある。後から出て来て因縁を譲ってくれ、と言うのは虫が良すぎる。
「もう容赦はしないと決めているッ!!」
純恋子の一喝が、生娘の精一杯の強がりにしか聞こえない程の強さと覇気で、ジョナサンが叫んだ。
「彼女は生かして置く訳には行かないんだ!!」
握り拳を作り再び歩み始めるジョナサン。決意が、固い。
何て強固な意志なのだろうと純恋子も瞠若する。それ程まで、ジョナサンが凛に対して抱く瞋恚は強いと言う事か。
目には見えぬ、『決意』と言う名の灼熱の炎をその身に纏っている様な、その覚悟。純恋子が凛に対して抱く感情と同じ強さの感情を、ジョナサンは持っている。
凛と戦い、彼女を死闘の末に打ち殺す資格を、ジョナサンは確かに有している。だが、それとこれとは話は別。凛は此方の獲物なのだ。
本気で止めねば、凛が殺される。地を蹴り、ジョナサンの元へと向かおうとした、その瞬間。
茹だる様な夏の<新宿>の暑さが、一気に下がって行くのを純恋子のみならず、ジョナサンや凛、果てはレイン・ポゥですら、感じ取った。
最初は、クーラーの設定温度を最低にまで下げ切り、そのまま何時間も放置したような寒さだった。
それが一秒経過するや、真冬を想起させるような低気温になり、また一秒経過するや――厳冬期のシベリア宛らの、極低気温へと変貌した。
【絶対喋るなよ!!】
レイン・ポゥが念話で純恋子に釘を刺す。
魔法少女は生身の人間以上に肉体が頑丈である。物理的な耐久力もそうであるし、極地環境に対する強い対応力の意味でもそうだ。
故に、この極低温の環境下でも活動が可能なのだ。逆に言えば、この状況下で平然といられるのは、彼女が魔法少女だからである。
魔法少女でなければこの環境は、命の危機に直結するレベルで極限のそれである。即ち、生身の人間に過ぎない凛や純恋子、ジョナサンに耐えられる物じゃない。
現在の気温は、マイナス四〇度程度だとレイン・ポゥは推察。エベレストの山頂付近の気温を大幅に下回る。正真正銘、死に直結する温度だ。
目を開けていれば眼球が凍り付き、不用意に口を開けば口内の粘膜が凍結し、唇をくっつき合わせていると唇どうしが凍結して口すら開けなくなる。
それが、今彼らが置かれている状況なのである。不用意な行動が、死を招く。だからレイン・ポゥは釘を刺したのである。純恋子も得心したのか、首だけを頷かせた。
真夏の<新宿>で、真冬の東北や北海道よりも遥かに寒い気温になど、通常はなりようがない。
寒さに対する耐性がある分、レイン・ポゥは冷静に物事を判断出来た。彼女から見て数十m先の、舗装されたアスファルトから立ち込める陽炎。
それを見た時、この異常な低気温が、局所的な物に過ぎないと即座に解った。恐らくは、此処神宮球場周辺程度の範囲しか、この低気温はカバー出来てないのだ。
そんなあり得ない、――魔法少女がこんな事を言うのはナンセンスだが――魔法染みた芸当が出来る存在など、レイン・ポゥには一人しか心当たりがない。パムだ。
大方、戦闘で興が乗って、黒羽を使って環境に変動が来たすレベルの攻撃を行っているのだろう。
冗談ではない、一時のテンションの乱高下に付き合わされ、こちらのマスターが死に至るなど馬鹿な話にも程がある。
今すぐ攻撃を止めるよう注意しに行かねばならない。気丈に振舞っているが、純恋子もかなり辛そうなのが見て取れる。震えを懸命に殺そうとしているが、小刻みに、彼女の身体は揺れていた。
純恋子を抱え、虹を生み出すレイン・ポゥ。
延長させた虹は、高度四十mの所まで伸びており、その虹の架け橋を彼女は猛ダッシュで駆け上がる。
パムが原因となっているだろうこの極低気温は、ごく小さい範囲内の事だとレイン・ポゥは推理している。そしてその範囲とは、『上空にも』適用される。
つまり、ある程度の高さまで跳躍するか移動すれば、気温は元のそれに戻るとレイン・ポゥは考えたのだ。
そして、その予感は的中した。高度が三十mを過ぎた、途端の事である。体中を循環する血液がシャーベットになりかねない程の低気温が、
蒸し暑い夏の気温へと一瞬で変貌したのである。急激な気温差にさしものレイン・ポゥの温感も狂いそうになる。
身体に変調を来たしかねない程の、急転直下の温度差である。ある境目を過ぎればその気温差は七十℃を超えると言えば、此処神宮球場の置かれている状況がどれ程異常なものなのか窺えよう。
名残惜しそうに、純恋子が眼下を見やる。
蟻かゴマ粒みたいな小ささの凛とジョナサンが、極寒の世界の底に取り残されていた。
凍死するのが先か、どちらかの攻撃で果てるのが先か、と言う状況になるのも時間の問題だろう。
遠坂凛とは、こんな形で幕切れになると思うと何だか遣る瀬無い。【戻ってみる気はありませんか?】、純恋子が訊ねる。【死ね】と言う言葉だけが返ってきた。
酷な話であるが、天運を掴む事もまた女王にとって重要な素質である。凛は、掴む事が能わなかった。それだけなのだ、と。純恋子は思う事にするのであった。
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パム周辺の環境は、より過酷な地獄と化していた。
ルネサンス期の爛熟に燃える中世イタリアが生んだ詩人、ダンテ・アリギエリの著作に曰く――。
地獄の最下層であるジュデッカと呼ばれる氷原に氷付けにされ、二度と地上にそのおぞましい姿を見せる事がないよう幽閉されているのだと言う。
ダンテの著作に通暁している者が、この環境に叩き込まれたのなら、寒さで薄れ行く思考の中で、こう思うだろう。此処こそが、ジュデッカなのだ、と。
この極寒の環境の原因たるパム周辺、その気温は今やマイナス百度を割っていた。サーヴァントですら、行動に著しい障害が出る寒さだ。
球場の外壁や地面には霜がビッシリと纏わりついており、本当に、此処が<新宿>の光景なのかと見る者に忘れさせる程に信じ難い光景と現象だった。
――更に信じ難い事には、気温は、『まだ下がっていると言う点』である。
パムが死冬(ニヴルヘイム)と名付けたこの技は、黒羽をナノマイクロレベルの粒子に変化させ、それを広域に散布。
この粒子はある種の化学反応――魔法で生み出された物の為、魔法反応の方が正しいか――を引き起こす性質を持ち、大気に触れた瞬間急激に温度が低下するのだ。
本気になれば、<新宿>全土を越えて東京都全域を絶対零度と同等の温度にまで叩き落す事が出来るが、戦闘の昂揚感に焼けつくされずに残った、
パムのギリギリの理性がそれを押し留めた。故に、絶対零度の範囲を、パム及びジョニィ、アレックス、黒贄達がいる此処のみに限定していた。
尤も、範囲を如何に最低限度のそれに絞ったとは言え、『余波』と言うものが勿論ある。この神宮球場周辺は、マイナス五〇度くらいにはなっているだろうが……。そこは、私がこいつらを倒すまでは我慢して欲しいと、パムは心の中で謝った。
「ううむ、寒いのは苦手ですなぁ……冬の生活苦は本当にキツくてキツくて……」
地球上で観測出来る、最も寒い場所よりも寒くなっているのだ。
生身の人間は勿論、極北の環境に生きる動物、果ては、この現象は魔力によって生み出された物である為、神秘の具象そのものたるサーヴァントも無事には済まない。
サーヴァントですら、突っ立っているだけで凍死しかねない程の気温である。そんな環境下で、無遠慮に黒贄の如く喋くっていれば如何なるか。
唇の粘膜どうしが凍結してくっ付いてしまうのに、無理に喋っている為に、唇の皮が肉ごとバリバリと。嫌な音を立てて剥がれて行くのだ。
この唇の損傷以外にも、眼球が凍り付き球状の氷みたいになっている他、鼻の穴の内部まで完全に凍結し、呼吸が出来ない状態と黒贄はなっている。
こんな状態でも、意にも介さず自分の思う所を喋ろうとする。バーサーカー、成程。そのクラスに嘘偽りはないらしいと、パムは改めて認識するのであった。
アレックスはこの寒さの中、平然としている。
いや、平然と活動出来るよう、措置を講じていると言った方が正しいか。
身体の中の魔力を内燃、己の体内を炉の様な灼熱を帯びさせる事で、この寒さを凌いでいるのだ。今のアレックスの体温は赤熱する鉄よりもなお熱い。
一方ジョニィの方は、この場に姿が見られなかった。厳密には、この場にいる。ACT3の能力を発動させ、己の身体を渦の中に潜行させているのだ。
ジョニィにとっても、パムの死冬によって齎されるこの寒さは耐えられるものでない。愛馬であるスローダンサーも、それは同様。
結局ACT3を用いた、逃げの一手しか取れなくなってしまうのだ。そしてそれは、パムにとっても計算済み。
パムの黒羽を一つ、永続的に使用不能にしたあの死神(ACT4)が、馬に乗っている時にしか発動出来ない可能性が高いと解った以上、
そもそも馬に乗せなければ良いのは誰でも考え付く事。その誰でも想到する方法をパムは実行しているに過ぎないのだが、そのやり方とスケールが、何ともパムらしかった。
――流石に隙がないな――
この場にて特に警戒するべきは、パムですら防御不能の、文字通りの『必殺』技を持つジョニィであるが、
未だに警戒のプライオリティの上位に、アレックスはかなり深く食い込んでいる。単純な身体能力と言う面だけで見るなら、自分より上だろうとパムは思っている。
まさか肉体でのスペックで、自分と渡り合える所か互角以上の存在がいるとは、パムとしても予想外だった。油断は断じて出来ない相手である。
殺すと言う意思を漲らせ、パムを睨んで構えるアレックスとは対照的に、黒贄の方はごく自然体。構えらしい構えも取らず、ボーっと突っ立っていた。
尤も、構えを取りたくても取れないのかも知れない。何せ右腕がないのであるから、構えを取ろうにもこれでは出来まい。
工夫次第でどうとでもなる、と言うのがパムの黒贄に対する評価だが、このバーサーカーもバーサーカーで全く底が知れない。
パムですら初めて目にするタイプの戦闘続行能力と、魔法少女と言うカテゴリで考えても類を見ない圧倒的な敏捷性と、腕力。
戦った所感としては、魔法少女ではないのは当然として、そもそも地球上で生まれ出でた生命と戦っていると言う感覚すらパムは覚えなかった。
まるで、外宇宙の生命体、エイリアンの類である。その表現が腑に落ちるレベルで、黒贄礼太郎と言うバーサーカーは、サーヴァントとしても生き物としても、逸脱した何かであった。
結局誰一人として気を緩められない、と言う結論な事に気づいたパムが、内心で苦笑いする。
誰もが、戦闘能力と言う点から見ても強く、そしてその誰もが、その強さのベクトルが違うのだ。強さの指針が隣接も掠りもしない、この三名。
聖杯戦争。あの美しい医師の主である男の言葉を当初パムは眉唾物の下らない催しだと思っていたが、あの新国立競技場の一件以来、その考えを急激に改めていた。
成程、面白い。様々な異なる『強さ』の持ち主が、一堂に会する。それに、自分も巻き込まれている。
血潮が、熱く滾ってくる。その熱が、己の身体を暖める。こんな寒さなど、何ともないぞとでも言う風に。
アレックスの姿が茫と霞む。水蒸気を通して向こう側を見ているかのように、身体全体が瞬間的に茫洋に映る程の高速移動である。
その気になれば、パムですらが惑う程、複雑怪奇な攪乱移動を行う事も出来るのだろう。しかしアレックスの取った移動ルートは、標的目掛けて一直線。
最短距離を超高速度で。それは、早く相手を叩き潰してやりたいと言う強固な意思の表れでもある行動だった。そして、そう言う意思を、パムは好む。
アレックスの選んだ攻撃は、右脚によるローキックだ。
ただでさえ並一通りの英霊の筋力を凌駕する、
人修羅の身体能力。それを、補助魔術――タルカジャ――によって強化された一撃だ。
直撃すれば、ヒットした脚部ごと千切れ飛ぶ。平時ならパムはこう言った攻撃は受けに回るが、放った相手が悪い。避ける事を選んだ。
垂直に、膝の力だけで十mも飛び上がったパムは、アレックスが彼女を叩き落とそうとするよりも早く、黒羽を羽ばたかせ、後方に滑空。
アレックスから三十m程距離を離した所で着地し、一呼吸置き、構えを始める。アレックスに、黒贄、そしてジョニィ。
この面子が相手では最早、今パムが纏っている、黒羽を変化させた耐寒耐熱耐衝撃を兼ね備えた、黒いライダースーツですらが当てにならない。
攻撃は徹底して回避、避けられない物については、生身で受けるのではなく羽を通して。ジョニィの放つ攻撃については、馬に騎乗しながらではないものでも、全部回避。黒羽で防御する事すらしない。パムの方針が、これであった。
浮遊する二枚の黒羽に、月面のクレーターめいた穴が生じ始め、其処から、黒色のレーザーが迸り始める。
音はなく、無反動。連発しすぎによるオーバーヒートも一切なく、この上速度は超音速を凌駕する。相手を殺す為だけに特化した、遊びのない攻撃だ。
この攻撃の殺到をアレックスは、レーザー以上の速度で拳を動かして迎撃、破壊する事で対応する。砕かれ、霧散したレーザーを、吸魔と呼ばれる魔術で体内に吸収。
己の、引いては北上がアレックスを動かす為の活動魔力へと変換させる。レーザーを悉く破壊し終えた、この上に活力をも得たアレックスが、パムを一睨みする。
然したる攻撃もしてこないから、「何だ?」、と一瞬思うパムであったが、すぐに、あのアレックスの睨みが攻撃に直結したものである事に気付き、即サイドステップを刻む。
ただの睨めつけではない。あの視線自体が、攻撃なのだ。邪眼、邪視と呼ばれるものは、人間世界に広く知れ渡っている恐るべき魔術。
それをアレックスは行ったのだ。アレックスは、視界に入れられるだけで視界内の生命体の命を、鑢で削って行くかの如く磨耗させる視線をパムに送っていたのだ。
身体に舞い込む不気味で、チクチクするような不愉快な感覚から、アレックスの攻撃に気付いたパムは、直ぐにアレックスの目線から逃れたのである。
羽の一枚を、縦幅十m、横幅二十m程の、最早一種の塀のような形状にし、アレックスの目線を遮らせるパム。邪眼の対策は単純だ。目線を、遮らせれば良いのである。
アレックスが直ぐに攻撃に移ろうとしたのも、つかの間。パムは何と、この生み出した黒壁を、先程のレーザーに勝るとも劣らぬ速度で、
魔人目掛けて飛来させたのである!! これには面食らうアレックス。しかし、驚いていて何もしなければ、重量にして数百トンを越える黒壁の衝突に見舞われるだけ。
先程ローキックを避けたパム同様、上へと跳躍し、高速でスライドする壁を回避するパム。パムは、これを読んでいた。彼女は既に上空で待機していた。
アレックスも、これを読んでいた。上に跳べば、空中での機動で自分に勝るパムが、待ち構えていない筈がない。そう考えるのも、当たり前の運びであった。
アレックス目掛けて高速で滑空、接近するパム。魔力を練り固めて作った、無骨な形状の剣を右手に握るアレックス。
羽の一枚を、刃渡り七mを越す巨剣に変えさせたパムが、それを袈裟懸けに振り下ろす。魔力の剣でアレックスは防ぐが、質量の面ではパムのそれが圧倒的に勝る。
パムが振り下ろしたその方向へと、稲妻めいた勢いでアレックスが急降下。しかし、この魔人も然るもの。
空中で即座に体勢を整えていた彼は、両手両足で地面に着地。立ち込める、砂と土煙。アレックスが衝突した地点を中心として、すり鉢上のクレーターが直径五十mにも渡り生じていた。
この機をパムは逃さない。
両手両足は、超高速度での急降下、その勢いを殺すのに用いた為、今すぐ攻撃に使う事は出来ない。
攻め時は今。パムは、先程黒い壁に変形させた黒羽を遠隔操作で霧散させる。次の攻撃に、利用する為だ。
変化させる物は、『冷気』。それを、アレックスの回りへと雲霞の如く収束させる。
自然界どころか、人為的に気温を操作出来る空間であろうともあり得ない程の、急激な温度低下。アレックスは即座に感じ取ったが、感じた頃にはもう遅い。
ゼロカンマ数秒で、アレックスの回りの気温はマイナス二五〇度を割り始めた。サーヴァントの魔力の循環にすら、影響が出る程の極低温。
「シャアッ!!」
だが、両手両足が塞がっている程度で、次手が封殺される程悪魔の身体はチープじゃない。
己のクラスを宝具でキャスターに変化させたアレックスが、裂帛の気迫と同時に、キャスタークラスの影響で補正の掛かった魔術を発動させる。
魔術の形は、炎の塊だった。心臓の脈拍めいて搏動する、橙色どころか血液の塊のような紅色の炎が、アレックスの頭上に展開された。
悪魔が持つ強大な呪力と魔力。それを以って、西洋に語られるところのゲヘナ或いはインフェルノ。東洋においては、所の焦熱地獄。
地の底に設けられた、度し難い罪人共を苛む為の場所である地獄の火炎を再現、暴走させると言う魔術である。
悪魔達の間では『地獄の業火(ヘルファイア)』と呼ばれる強力な術だ。
焔塊が、太陽表面を思わせる程の熱・光エネルギーを迸らせながら、爆発する。
爆発した焔塊は、血色の焔で構成された熱波となってアレックスの周囲を駆けて行き、パムが創造した絶対零度寸前の冷気を完全に蒸発させてしまう。
それどころか、パムの技である死冬によって下げられた、周囲の極寒の気温が、地獄の業火の余熱によって急上昇。
鉄を熱したような速度で、一瞬で外気温はマイナス一〇〇度のそれから二四度のそれへと修正されてしまった。
達者の放つ地獄の業火は、燃やす相手を正確に指定出来る。
望んだ相手には摂氏一万度の焔で灰燼すら残さず焼き尽くす事も可能である一方で、延焼・焼滅させたくないと願った相手には、
身体全体が火に包まれても熱くも痛くもない不思議な炎となって被害をゼロにする事だって可能なのだ。
つまり――これだけの業火を放って置きながら周辺環境には全く飛び火が行ってないのに、それまでボーッとしていたせいで熱波への反応が遅れ、
左脚がほぼ付け根まで消炭にされた黒贄の対比は、そう言う事になるのだ。
「あっ、ちょっと過ごしやすい気温になった」
熱波を避ける為に飛び上がっていた黒贄が、地面に着地する。
衝撃で、膨大な熱エネルギーの影響で炭化した左脚が、砂の城でも突くように崩れ、黒贄の足元で、パウダー状の黒炭の堆積となった。
「良いですね、秋の気温って感じです。食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋と言うように、殺人鬼にとっては殺人の秋と申しまして、一年通して一番凶器と身体のノリが良くなる季節なんですよ」
誰も聞いてないような嘘八百の知識を垂れ流す黒贄。事実、誰も黒贄の戯言になど耳を傾けていなかった。
黒贄の虚言など双方共に聞く耳も持っていない。だが、黒贄を意識の外に追いやると言う愚だけは、冒してはなかった。
魔人と化したアレックス、魔王とすら揶揄される程高位の魔法少女であるパム。
英霊全体を見てもトップクラスの強さを持つ、この二名のサーヴァントが繰り広げる、血腥い死の香りが漂う戦いに。混じって行けるだけの強さを黒贄は持っている。
黒贄の強さが真実のものである事は、最早アレックスもパムも、そして、ACT3に潜行しているジョニィも。一切疑っていなかった。そんな存在を相手に、一秒であっても、目線を外すと言う事が、出来る筈もなかった。
きっと黒贄は、まだまだ問題なく戦う事が出来るだろう。その、まだまだ、がどれ位のスパンなのか、アレックスもパムも判じかねている。
まだまだ根比べの時間は続くのだろうと、再び戦いの構えをアレックスとパムが取り始めた、瞬間。
空中十m弱を浮遊しているパムよりも頭上の所から、サーヴァントの気配が近づいてくるのが解る。
パムを見上げると言う姿勢の都合上、アレックスだけがその正体を判別出来る。不自然に何処かから伸びている、やけに色の濃い七色の足場。
赤橙黄緑水青紫、これら七色が揃えば、人は誰もが虹を想起する。事実、それは虹だった。光と言う実体を持たないものでなく、人が触れられる形で実体化した、質量ある虹。
その虹が、マスター同伴でパムと組んでいた、レイン・ポゥと言う名のアサシンである事を、アレックスは忘れていなかった。
パム自身も、此方に向けられるヒステリックな怒気から、頭上からやってくるサーヴァントの正体を、認識したようである。「うまくやれたから戻ってきたんだろうな」、楽観的にそう思っていた。
浮遊するパムの近辺に、虹が伸びる。勿論、パムを狙ったものではない。
どうやら足場として活用したかったらしい。何処からか伸びている虹の足場に、純恋子を抱えた状態のレイン・ポゥが落下、着地した。
「おう、戻って来たか」
「戻って来たかじゃないわこの牝ゴリラ、放つ技をもう少し弁えろや」
なるべく声を荒げず、しかし、非難する事だけは決して忘れず。
瞼から火の粉でも飛び散りそうな程の怒気を宿したレイン・ポゥが、パムの事を責め立てた。
此処で漸く、パムは、死冬の影響がレイン・ポゥ達の方にまで及んでいて、その事にレイン・ポゥが立腹しているのだと気付いた。
鍛えられた魔王塾の生徒なら、この寒さに耐え切るばかりか、寧ろ『寒さで相手の動きが鈍ってて面白くなかった、どうしてくれる!!』と抗議をしていたものだが……。
レイン・ポゥはそんな手合いじゃないのか、と内心少々パムは残念に思っていた。メンタリティ育成も課題か……、そう思っていた時である。
眼下のアレックスが魔力を瞬間的に収束させ終えていた事に、パムが気付く。気付いた時には彼女の眼前に、先程アレックスが展開させていた、血色の炎塊。
即ち、地獄の業火が出現していたのである。これを見て目を見開かせたパムが、レイン・ポゥの襟を引っ掴む動作と、
それまで自分が纏っていた黒羽のライダースーツを分離、分割させると言う動作を同時に行う。
黒羽を三枚ある状態へと戻したパムは、羽一枚をつむじ風状の風防としてパムとレイン・ポゥ、純恋子に纏わせてから、超高速で炎から退散。
神宮球場のグラウンドの真上まで移動し終えたと同時に、アレックスが出現させた地獄の業火が、熱と光を撒き散らせて、爆散。
直撃していれば、一万と七五八六度の極熱が、忽ち彼女らの霊基を焼き尽くしていた事であろう。
「アレは宝具ではない、ただの技だ」
パムはまるで、テーブルの上にコップがある、とでも言うような、全く情感の篭っていない声でレイン・ポゥに告げた。
この虹の魔法少女も、そんな事は薄々ではあるが理解していた。理解していたが、そんなの、頭では解りたくなかった。
サーヴァントの宝具に比肩し得るあの炎が、なんて事はないただの技術だとでも言うのか?
幾らなんでも、不条理にも程がある。ただの技であれだと言うのなら、実際の宝具は、如何言う風になると言うのか? それを、考えたくもないのである。
「私も今の身の上になってから多くのサーヴァントと戦って来たが、最早宝具とただの技の境目が曖昧になるような奴らばかりだった。もしかしたら、殆どがそんな輩で、この聖杯戦争は構成されているのかも知れんな?」
そんな気も、レイン・ポゥはしていた。黒贄礼太郎の戦いの時から、予兆はあったのである。
「どうせ、そう言う相手と戦う局面の方が多いのなら、いっその事戦いを楽しむ方向で行った方がお前としても気が軽いだろう? 苦しいと思うより、楽しいと思って臨んだ方が、お前としても良いだろうに」
「そうはなれないし、アンタと一緒だとまっっっったく心も休まらんよこっちは」
「修行が足りん」
苛々も限界のレイン・ポゥの言葉を軽やかに無視しながら、今後の展望を考えるパム。
黒贄とアレックスは、レイン・ポゥには荷が重い。彼女の実力が劣っていると言う意味ではなく、あの二名が異常な領域にまで足を踏み入れてる程強いのだ。
レイン・ポゥ自身に非はない。だが、今となってはジョニィの足止めをさせるのも、気が引ける。
ACT4……死神を現世に具現化させる技だと言われても、誰もが信じる程の説得力を伴った、あの攻撃を見た後では。ぶつけさせるのは勇気がいる。
……それを承知でぶつけさせる事も出来るだろうが、やってみるか? 無論、情報の共有を行った後で、だ。
そんな事をパムが考えていると、ふと、頭から降ってわいたような疑問が、彼女の頭の中を支配する。
――何故、アレックス達は攻撃を仕掛けてこない? あの魔人であれば、レイン・ポゥと一緒である為十全の機動力を発揮できない今の状態を、見過ごす筈がないのだが……?
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ACT3の回転時間がリミットを迎えた為、意を決して外界に飛び出したジョニィを迎えたのは、秋口だと言われても信じるであろう、穏やかな気温だった。
東京の茹だる様な夏の暑さとも、先程パムが人為的に変動させた極寒の環境とは、全く違う。半袖のシャツ一枚を理想とする状況に、様変わりしていたのだ。
アレックスが生み出した炎の影響で、気温が上書きされてしまったのだろうか? だとすれば、ファインプレーである。
ジョニィの肉体のスペックはサーヴァントとしては貧弱も良いところ、極端な環境の変動には耐性がない。
パムの死冬の影響下ではジョニィは勿論、彼が切り札を放つ為に必要な愛馬・スローダンサーもまるで役に立たない状況であったろう。
今度こそ、必殺の宝具であるところのACT4を、パムに叩き込もうと意を改めるが、それよりも何よりも、目を引くものが神宮球場の辺りから出てきた。
「おや、凛さん。ご壮健そうで」
相変わらず呑気に。自分の身体に叩き込まれた種々様々な重症よりも、そっちの方が大事だと見える。
サーヴァントの姿勢としては、その方が正しいのだろうが、きっと、黒贄はそんな殊勝な心がけがあるのではなかろう。
ただ、自分のダメージのプライオリティが、絶対的に低いだけ。だからこそ、自分よりも、神宮球場内部から駆け出して現れた、水でも引っ被った様に全身ずぶ濡れの遠坂凛の方に、興味があるのだろう。
黒贄の言葉に何も反応せず、凛は、彼の下まで走って駆け寄る。
駆け寄ってから半秒位が経過した後だった、凛が出てきた所から遅れて、凄い形相のジョナサンが現れたのは。
しまった、と言う様な風の顔を隠せないジョナサン。サーヴァントの所まで、逃げられてしまった。ああなっては、凛を倒す事は難しいだろう。黒贄を掻い潜って、凛を倒すのは、至難の技である。
【マスター、何があった】
ジョニィの念話。
【遠坂凛を葬ろうと追っていたのだが……球場の内部に逃げられてね。内部構造を巧みに使われて、仕留め切れずに今に至ると言う訳だ】
【遠坂の身体が濡れているのは?】
【異様何て物じゃない程、外気温が下がっただろう? アレに堪えた遠坂凛は、ボイラー室に逃げ込んで、温水が通っているパイプを破壊して、身体を暖めていたようだ。中々頭が回る】
成程、噴出した温水で、サーヴァントでも堪えるあの環境を凌ぎきったらしい。頭のキレが、違うらしい。
と言っても、凛としてもこの方法は賭けであった事を彼らは知らない。
魔術の世界とは別に、科学利器に囲まれた表の世界で、不器用ながらも生きていた経験に、凛は完全に救われた。
神宮球場程の施設なら、湯水を沸かす為のボイラー室があるだろうと踏んでいたのである。一般教養を学ぶ為、市井の学校に通っていて正解であった。
魔術一辺倒で、一般的な知識を身に付ける事を疎かにしていたのなら、そのような発想に辿り着けず、寒さに耐え切れず凍死していた事は間違いない。
更に幸運だったのは、湯水で温まっていた途中で、気温が急激に下がった事で、これを好機と見た彼女は、黒贄の元へと全力で疾走。
その最中で、運悪くジョナサンに見つかってしまい、チェイスが始まり……そうして、現在の状況に至ると言う訳だ。
黒贄の下に駆け寄るのは、凛としてもリスクの伴う行動だ。
黒贄礼太郎というバーサーカーには、マスターである凛と、その他の存在の区別がとても曖昧だ。
何が切欠で、自分がその他の側……つまり、『これから殺される側』に転落するのか解らないのである。
いや……そもそも切欠や、スイッチの類すら存在しないのかも知れない。その時の気分次第で、遠坂凛は、サーヴァントである黒贄礼太郎に殺され得るのだ。
そう言う危険性があったからこそ、今の今まで黒贄から凛は距離を取っていたし、黒贄が戦っている際も、余波を恐れて彼から距離を取っていたのだ。
サーヴァントとしては、この黒礼服のお惚け男はこれ以上とない厄介者、全く以っての外れクジであるが、もう、割り切った。
この<新宿>には、最早凛の味方はいない。
黒贄の下に近づいたのも、そんな諦観めいた割りきりがあったからだ。この場にいるサーヴァント、マスターの全員が、凛の命を狙っている。
だったらまだ、黒贄の方に向かう方が危険性は少ない。腐っても、自分のサーヴァントであるからだ。早々、黒贄も思い切らない筈だった。
黒贄に殺されるのか、それ以外の外因で殺されるのか。凛に与えられた選択肢とは要するにこの二つであり、ならば、可能性が僅かにも低い黒贄の方に向かうのは、当然の運びと言えた。
「黒贄……」
「はい」
酷い、傷であると凛は思う。黒贄でないサーヴァントなら、同情も心配も寄せていた。
だが、このバーサーカーは違う。黒贄礼太郎、と言う信じられない程近世の香りを伺わせる名が真名のこのサーヴァンとは、此処からが、強いのだ。
隻腕隻足、胴体も半ば近くを削り取られ、頭部を断たれ……。こんな状況でも尚、黒贄は強いのだ。
黒贄が動けないなど欠片も思っていない。凛の魔力が続く限り、この男は、死なない。翳のように黒く、昏い信頼が、凛と黒贄の間には結ばれていた。
「殺したりないかしら」
「いえ、全く」
きっと、何人殺しても、そう答えただろう。凛にはそんな確信があった。
「私が死ねば、貴方も連鎖して此処からいなくなるわよ」
「それは困りますな。殺したりないのもそうですが、折角の大口の依頼なのです。達成して報酬を貰わないと」
黒贄自身はまだ、聖杯戦争に勝利すると言う凛の依頼を忘れておらず、戦うと言う気勢も衰えていない。
その事を確認した、瞬間であった。凛の右手に刻まれた、狂の字を模した紅蓮の痣が、爛と光った。
すったもんだを潜り抜け、余人に表現しようにもし切れぬ程の疲労やダメージを蓄積させているとは思えぬ程の気迫を、その瞳に宿らせ、声音に乗せて、凛は言の葉を紡いだ。
「令呪を以って命じる――」
その言葉を、アレックスは、聞き逃さなかった。
黒贄と凛の後ろに広がる、まだ無傷を奇跡的に保つ<新宿>の街並みに、少なからぬ被害が及ぶ事を覚悟で、攻撃を行おうと試みる。
左腕を前に突き出し、かつ、その掌を開かせた状態で、瞬間的に体内の魔力循環を加速させる。
白色の粒子がアレックスの掌に集中するや、塊の形をとったその光が、加速、発射される。
魔力或いはそれに準じるエネルギーを実体化、有質量化させ、超高速で射出させるこの技を、悪魔達は『破邪の光弾』と呼称する。
戦艦の砲弾にも例えられる程のその攻撃を以って、黒贄諸共凛を抹殺しようとアレックスは試みる……が。
凛を庇うような立ち位置で、真正面に移動した黒贄が、残った左腕を横薙ぎに振り回す。
ドンッ、と言う爆音が生じると同時に、キラキラした光の破片が、黒贄の周囲に舞い散った。破壊された、破邪の光弾。その破片であった。
「クソ、仕留め損なったか!!」
アレックスの舌打ち。
黒贄自身、光弾を壊すのに用いた左腕、その肘より先がグシャグシャに破壊されている。断じて無傷ではなかった。
柔らかい果実に強い圧力でも加えて見せたように、皮膚は裂け、裂けたそこから赤い筋繊維が血に濡れてほの光っていた。
ただのサーヴァントなら、勿論大ダメージ。それどころか、戦闘の続行が不能になりかねない程のダメージであるが、黒贄相手では、あの程度、何の意味も持たない事にアレックスも気付いていた。
「黒贄礼太郎、『この場にいるサーヴァントと戦う時はこれから、攻撃を全部避けながら殺しなさい』」
「えー、いや、ううん……私の個性の根幹を揺るがす命令ですね……あの人が見たら何て言うか――あ、今あの人じゃないのか」
告げた命令内容に、不服の意を露にするのと、狂の字を模した凛の令呪から『けものへん』が消え失せ、王の字だけが残ったのは、全く同じタイミングなのであった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……経過の方は、どうなってるんだ?」
長い沈黙を、塞が打ち破った。実に、十分。その間、彼も鈴仙も、付き添いの北上も。一言も言葉を発する事はなかったのである。
「今のところは……全員無事、よ」
【黒贄礼太郎や、乱入して来たって言うサーヴァントも含めてか?】
塞が途中で、念話に会話を切り替えた。
【それも含めて、ね】
意図を読んだ鈴仙も、念話で返す。
【そうか】、とだけ口にし、塞は再び沈黙する。そして、再び鈴仙は集中し、己の能力を用いて、離れた所で戦うアレックスやジョニィ達の模様を探る。
三名は、聖徳記念絵画館の中にいた。
大政奉還、廃藩置県、教育勅語に日英同盟締結等。
日本史を紐解いたのなら誰もが学ぶ、近世日本の歴史の転換点となった場面を描いた、絵画展示室。其処で彼女らは、息を潜めていた。
アレックスらの戦いに、北上が巻き込まれぬよう、そして、万一危害が及んだ時には守れるよう、自分達は離れた所で待機する。
それが、塞達が此処にいる理由だ。但し、その理由は塞らにとっては建前。本音は、厄介者であるところジョナサン・ジョニィの主従に脱落して貰う事なのだ。
あの主従は塞の真の目標である、聖杯の奪還の妨げになる事が目に見えている上、サーヴァントの強さが大した物ではない為、同盟を組むにも値しないのである。
思想面で自分達の足を引っ張りかねず、共闘するにも強さが足りない。直裁に言えば、お荷物であった。穀潰しを養う余裕は、塞達にはない。
早々に、脱落して貰う必要があるのだ。黒贄礼太郎と言うバーサーカーの強さは、紺授の薬を通して見た未来で、鈴仙は痛い程良く解っていると言う。
強さについては、御墨付きと言う訳だ。ジョニィ達を殺せる可能性だって、申し分ない。仮に、ラッキーが重なって黒贄或いは凛を倒せてしまっても、しめたもの。
そうなると今度は、同盟相手と言う理由に託けて、ルーラー達から令呪を手に入れる可能性だって生まれるのだ。
ジョナサン達が死んでも、塞達にとっては旨味があり、番狂わせが起きて黒贄達を殺してしまっても、旨味がある。どちらに転んでも塞達にメリットが転がり込むこの作戦は、立案と言う概念の理想系とすら言えた。
――だが……――
理想通りに事が運んでいたのなら、塞も鈴仙も多方面のコネ作りの為、齷齪動き回る必要はない。
実際この作戦は、初っ端に等しい段階から、計算外の存在の乱入によって暗雲が立ち込め始めていた。
鈴仙は自身の持つ、『波長を操り探る能力』で以って、黒贄やジョニィ、アレックスらの安否を確かめている。
なのだが、その能力が、彼ら三人が戦う場に乱入して来た三人の存在を認めたのである。
その内一人は、この世界にしっかりとした有機体の実体を持つ存在――人間であり、内一人は、構成要素を魔力とする存在、つまりはサーヴァント。
残った最後の一人が、有機体に近い何らかの要素で構成された肉体を持ちつつも、人間にはあり得ない程の莫大な魔力量をその身に宿す、正体不明の存在。
彼らが現れ、アレックス達の戦いに闖入し始めてから、塞も北上も気が気でならなかった。尤も、塞と北上では、心配している理由が違う。
北上の方は単純に、自身のサーヴァントであるアレックスと、同盟相手のジョナサンとジョニィの安否を気遣っての物だ。
しかし塞の場合は、アレックスと言う優秀な手駒候補の喪失が気がかりなのだ。
ステータス面だけで言えば、目下最大の強敵であるセイバー・ダンテをも上回る強さを持つアレックス。そう簡単に、消滅の憂き目には合わないだろう。
そうと踏んでたからこそ、アレックスを黒贄の下へと向かわせたのであるが、正体不明のサーヴァント二名の乱入を許したとなると、話は別。
鈴仙の能力は探知こそ出来るが、『相手の姿を画像・映像化する事が出来ない』。相手の戦闘能力の強い弱いは判別出来ても、如何言った能力を使え、
そもそもどんな姿をしているのかの判別は結局の所目視に頼るしかない。だからこそ、不安が募る。アレックスらが戦っている存在は、如何程の存在なのだろうか。
「あの……モデルマンは、勝てると思いますか……ね……」
不安そうに、北上が訊ねてくる。
「一度戦った身として言わせて貰うなら、勝率は多分にあるわ。絶対に勝てる、って断じられないのが少し不安かもしれないけれど……それは割り切って」
「……はい」
北上が不安そうに、スマートフォンをいじくりだす。
実際、モデルマン……アレックスと黒贄が良い勝負をしそうだと鈴仙が口にしたのは、北上向けのリップサービスではない。
相手の能力を探る事について並ならぬ力を持つ鈴仙が真実、そう判断しているのだ。これについては嘘はない。
だが、乱入した正体不明の存在については、正直なところ何とも言えないと言うのが実情だった。理由は簡単で、先ず相手が何者で、どんなスキル・宝具を使うのかも不明。
それだけでなく、波長を操る程度の能力で大まかな強さを調べてみた所、これが並のサーヴァントでは比較にならない位強いのである。
強い事は解るが、姿も能力については一切不明。そんな存在をアレックスが戦って、『勝てる』と断言出来る筈がなかった。
……と言うより、そもそも塞も鈴仙も、『アレックス達が繰り広げている戦いに乱入者が現れた事自体を明かしていない』。
そう、北上は今現在も、自分の頼れるサーヴァントは黒贄礼太郎と『だけ』戦っていると信じているのだ。
この事実を北上に対して隠蔽する理由は簡単で、北上がその事実を知れば、北上が計算外の行動に出るかも知れないと言う不安があったからだ。
彼女は、心に不安を抱えたままの、誘導しやすく御しやすい存在で、塞はいて欲しいのである。心の均衡を失い、予想外の行動に出るような駒には、なって欲しくない。
アレックスが不利になっていると言う事を知ろう物なら、どんな行動に出るのか解らない以上、上記の事実は伏せるが吉だ。
今は、幸運に恵まれている状況だ。
ライドウとダンテと言う桁違いの強さを倒せるかもしれない鬼札の一つを抱え込み、後顧の憂いに育ち得るジョナサンとジョニィの主従の脱落を狙えて。
その上、不確定要素と番狂わせの化身の様な強さを誇る黒贄礼太郎をも葬り去れる可能性が高まるかも知れないのだ。
塞達にとっては、一石二鳥所ではない結果が転がり込み得る要素が、この戦いには内在されている。この戦いは、是が非でも落としたくない。これ以上の不確定要素は、塞も鈴仙も避けたかった。
「――?」
波長を探る。
その行為は言葉だけで判ずるのであれば、深い集中を要し、一秒たりとも気を緩められぬ精密な作業の風に聞こえるだろうが、実際はそうではない。
波長の探知は鈴仙にとっては朝飯前、自身の能力の応用の中では基礎の基礎の基礎であり、最も簡単な部類なのだ。
しかも黒贄もアレックスも、ジョニィもジョナサンも、乱入して来た三体の存在も、極めて独特かつ特徴的な波長の持ち主の為、探り損なうなど先ずあり得ない。
現に彼らの動きは正確に把握出来ているのだ――が。その鈴仙が、不安定な『揺らぎ』を感じ取った。……いや、ただ不安定なだけじゃない。
意識しなければ、其処にあるのかないのかすらも解らない。実在と、非実在の間を彷徨っているようなその波長。量子力学のそれに似ていると鈴仙は思った。
この極小さい揺らぎは、北上は勿論塞すらも気付いていないらしい。鈴仙だけが、明白に気付けている。
意識してしまえばその存在は明白で、その揺らめきは『糸』状だった。納豆に引いた糸の何万倍も細い糸の形を取っており、それが無数、二〇~三〇の数で、鈴仙達の下へと近づいて行き――。
「ッ!!!」
アレックス達の方に意識を集中させる事を取り止め、急遽、この場所に意識を向ける方向にシフトチェンジ。
蛇蝎の如く群がる糸の揺らぎ。触れれば確実に拙い自体が起こると感じた鈴仙は、自身と、塞、北上に対して、能力の応用を適用させる。
適用させた事象は、波長を操る能力を用いて、空間そのものに撓みを生じさせる――つまり、波を打たせると言う物。
空間の波は目で捉える事は出来ない上、その波に一度触れようものなら、波動の強弱次第では相手を転ばす程度から、大きく吹っ飛ばす事をも可能とする。
また、空間自体を震わせると言う現象の都合上、転ばすのも吹っ飛ばすのも、波自体がその物質や生命そのものの体積を包含するのなら、物理的な特質は一切無視される。
これもまた鈴仙の持つ能力の応用の一つだが、直接戦闘における効果は絶大極まる、認識されぬばかりか、実在と非実在の境目すら曖昧な、この糸の揺らぎをも、有らぬ方向に弾き飛ばせるのだ。
吹き飛ばされた揺らぎの糸が、北上達の両サイドに陳列している、絵画が展示されている巨大なガラスの展示ケースに触れた、その刹那であった。
音もなくガラスケースが中の絵画ごと、何百もの破片に分割され、床に落下して行くではないか!!
「何だ!?」、と塞が叫ぶ。この段階で初めて、塞も北上も異変に気付いた。周囲を見渡す、二名。
塞はすぐ、それまで自分達の周りに飾られていた、和紙に描かれた巨大な絵画、それが辿った無惨な末路を観察する。
一目見ただけで、神業と理解出来る所業だった。客観的な事実を語るのであれば、展示ケースを中に入った絵画ごと、寸断しただけに過ぎない。
だが、その切り口が最早、神の御業としか思えぬほど、美しかった。堆積するガラス片の一つにも、ヒビが生じていない。
破片のモノによっては、高さ三mを越す所から落下したものもあると言うのに、だ。皆見事に、艶やかで、滑らかな切り口を残して、床に散らばっている。
絵画即ち紙にしても、同様。定規や分度器を当てて、カッターナイフで切ったが如く、美しい直線と曲線の切り口を描いて、嘗て日本の重要文化財と持て囃されていた名画の数々が、吹雪のように宙を舞っていた。ただの、紙屑に変貌してしまった。
「警戒して!! 敵がいるわ!!」
鈴仙の言葉を受けた瞬間、塞は周囲を見渡し、警戒の度合いを最大限にまで高めさせる。
超常と不可思議の見本市であるサーヴァントだ。自分達の視界の外から、目に見えない斬撃を行って襲い掛かる事位、訳はなかろう。
それよりも問題なのが、『攻撃を行ったその瞬間まで鈴仙が相手の存在に気付かなかったと言う点』である。
鈴仙が持つサーヴァントの知覚能力は、自身が持つ波長の探知能力、その適正も合わさって、大抵のサーヴァントを凌駕して有り余る。
本気になれば、床に羽毛の落ちる音や、瞬きの際に生じた僅かな空気の振動ですら、百mを超えて離れた場所からでも、鈴仙は探り当てられる。
サーヴァントが持つ特有の魔力の波を探る事は、鈴仙にとっては朝飯前。そんな彼女の探知力を掻い潜る事は並大抵の事ではなく、
優れた暗殺力で以って英霊の座へと召し上げられた、アサシンクラスですら、彼女の不意を打つ事は困難極まる。
結果的に不意打ちを防げたとは言え、これ程までの気配探知スキルを持った鈴仙が、相手が攻撃するその瞬間まで、気配すら掴めなかった、と言うこの事実。マスターである塞としては、深刻に受け止める必要があった。
【サーヴァントの気配は感じるのか?】
【ええ、今となっては明白に】
【何処にいる】
【悔しい事に、施設の中】
当然鈴仙は、アレックス達の戦いのみに集中していた訳ではない。
アレックスらの戦いに向けていた意識は半分で、もう半分は、ここ聖徳記念絵画館に向けていた。
意識の全てを、絵画館内部に向け、虱潰しに波長を探して見た所、下手人は即座に見つかった。
波長を含めた、あらゆる気配の隠し方は見事なものだったが、鈴仙の能力を欺ける程ではなかった。
そのサーヴァントは一つ下のフロアで構えており、攻撃を防がれたせいからか? 若干の怒りめいた感情の波を感じ取る事が出来た。
どちらにしても、彼女の探知を掻い潜ってこの内部へと侵入出来るとは……只者ではない。アサシンクラスの可能性が、高まって行く。
「……如何した、嬢ちゃん。異様な震え方だぜ」
北上の異常に気付いたのは、塞が先だった。北上が、体中から冷や汗をかかせて、震えているのだ。
汗のかきようは尋常のものではなく、着ている制服の背中の部分が、コップ一杯分の水でも引っ掛けられたように、ぐっしょり濡れているのだ。
震え方も、武者震いや不安から来るそれではなく、恐怖を原因とするものである事を、塞も鈴仙も看破した。
と言うより、震えを見るまでもなく、表情が全てを物語っていた。涙に潤む両の目は泣き出すまで数秒か、と言う有様で、歯と歯がガチガチ言わせているその様子は、思い出すのも憚られるトラウマを疲れたかの如しであった。
「この、この攻撃は――だ、ダメ!! アレと戦っちゃ――!!」
北上がそう叫んだ瞬間、鈴仙と塞、北上の身体から、一切の重力が喪失した。
しかしそれは、ほんの一瞬だけの事。股間の辺りがむず痒くなりそうな浮遊感が彼らの身体を包んだのは、一秒にも満たない短い時間。
次に襲い掛かったのは、下に下にと落下する感覚。状況を、北上に塞、鈴仙が直ぐに理解した。
三人がそれまで直立していた、絵画室のウレタン樹脂製の床全体が、その下の鉄筋ごと細切れにされたのである。
崩落する床と一緒に、一階へと落ちて行く一同。鈴仙は落下運動中に空を浮遊し、着地しても支障のない速度で瓦礫の散らばる床の上に降り立つ。
塞の方は優れた運動神経で以って姿勢を整え、着地。北上の方も、流石に優れた艦娘である。艤装を装備した状態ながらも、床の上に着地して見せた。
「見事な腕前だと、先ずは褒めておこうか」
その声を聞いた瞬間、鈴仙の肌は、粟立った。
声とは、大気を通して伝わる音の漣。それ以上の物ではない。
結果としてであるが、今の言葉を発した人物は、男の物であった。しかし、ただの男の声じゃない。冠絶的に美しいと言う枕詞が、付随する。
その声を聞いた者は、美しいと言う意味を頭の中で反芻するだけのオブジェクトにし得るだけの力があった。
声の主の姿を、見るまでもなく美しいと判じられる。それだけの説得力を、漲らんばかりに内在させていたのだが、それだけじゃない。
声の波長ですらも、美しかった。波長に本来、美しいと言う概念はない。長い、短い、大きい、小さい、緩やか、激しい、整っている、不揃い。
凡そこの八パターンに該当され、それ以外の結果など本来有り得ないのだが――鈴仙は、男の声の波長を読み取った瞬間、無意識の内に思ってしまったのだ。
――波長ですらも、美しいと。
「……化物……」
そう呟いたのは、鈴仙であった。
「その呼び方は、僕を指すのに適切ではないな」
背後から、声が聞こえる。醸す波長ですら美しいのに、その美しさすらをも塗りつぶす、絶殺の気配を徒に放出し続ける、恐るべきサーヴァントの声が。
振り返るのが、怖かった。この世の終わりでも目の当たりにしたような絶望の表情の中に、天上の美を垣間見たような至悦の感情を鏤めたような、北上の表情。
彼女の目線の先にいるであろう、怪物の姿を見ると言うその行為。それは、
鈴仙・優曇華院・イナバと言うサーヴァントが、最大限の尊敬と畏怖を寄せる存在。
八意永琳と言う女性に対して、弓を引くと言う行為に並ぶか、それ以上の勇気を必要とした。――意を決し、振り返り……思考が、爆ぜた。
「人は、我が姿と業を見て、魔人と呼ぶ」
声以上の美を、黒い雲母の煌きの如くに発散させながら。
インバネスコートの魔王、
浪蘭幻十は、薄く微笑みながら、三人の事を見つめているのだった。
時系列順
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最終更新:2021年03月31日 18:20