それは、美しいと言う、美を表す上で最も基本的な語彙が、咄嗟に浮かんで来ない程の美貌だった。
人は相手の姿形、仕草や動作、声音等を、視覚や聴覚と言うフィルターを通して初めて、それが美しいのか否かの判別を行う。
前提として美があるのではない、諸々の要素を加味した上で、美しさがあるのだ。
浪蘭幻十は、違った。判じた上での美ではない。考慮するまでもなく、この魔人は、美しいのだ。
纏うインバネスは、周辺宙域に星一つない宇宙の闇を裁って誂えたが如く、艶やかで深い黒。
きっと、この黒色を汚せる白は、この宇宙の何処にもない。余人に、そんな確信を抱かせる程、深く吸い込まれるみたいな黒だった。
そんなコートに腕を通す幻十の様は、夜の帝王と言う風情を余す事無く発散させていた。
インバネスの両ポケットに手を入れて、此方を眺める幻十を見れば、人は思うだろう。ああ、月なる星は、天にではなく、地に在ったのだ、と。
「模倣された魔界都市だと馬鹿にしていたが……成程な。それなりの者を集めるだけの魅力は、この街にはあるようだ」
笑みに、陰惨なものを浮かばせて、幻十が言った。
「我が友より授けられた、殺戮の術。これを防ぐとは、ただならぬ英霊であるとお見受けする」
「お生憎様ね……。私の身体を害したいのであれば、操るその糸の細さ……、須臾(フェムト)のそれにまで削って来なさい」
「見た目とは裏腹に、恐ろしいサーヴァントだ。その兎の耳、男に媚びる為の物ではない、か。ならば僕がこの後何を言うつもりか、解る筈じゃないかな?」
怖いものが――張り詰めて行く。
「……まさか、生かしては返さないとでも言うつもりじゃないでしょうね? そう言う台詞は、やられ役の小物が口にする言葉よ」
「言うのも恥ずかしい台詞だったが、僕の変わりに代弁してくれてありがたい事だ。礼として、痛みもなく、この<新宿>から座へと還す事を約束しよう」
敵意に溢れた言葉を聴き、鈴仙の身体が、克服したはずの怯懦で強張りそうになるが、すぐに。
緊張と恐怖でゆらついている己の心、その振動を中和する精神の波を、自身の持つ能力で生み出して相殺。平常心を何とか保つ。常にこうしていないと、幻十との対峙は、厳しいものがあった。
【オイ、アーチャー……コイツぁ……】
塞が、鈴仙に対して漸く言葉を投げかけられた。
それにしても、言葉が途切れ途切れだ。鈴仙が塞に、精神を安定させる波動を打ち込ませてもこの様子であった。
その様を見て、果たして誰が笑えようか。人界の規矩を逸脱する美貌を目の当たりにした時、人も畜生も、皆、忘我の域に誘われる。それが、美界から迷い出でた者に対する礼儀であるように。
【覚悟を決めた方が良いわよ、マスター。もう……逃げられないわ】
鈴仙としては三人でこの場から、正に脱兎の如く逃げ去る算段でいた。
だが、それは途方もない絵空事である事を彼女は既に理解している。簡単な話である。此処聖徳記念絵画館全域に、幻十の糸が張り巡らされているのだ。
糸が展開されていないのは、今鈴仙達と幻十が一緒にいる、この部屋だけ。その部屋から一歩、他のフロアや部屋に移動してしまえば最後。
細さにして1/1000マイクロメートルの、チタン製の金属糸。それが床のみならず天井やドアノブ・展示物など、
凡そ人が触れる事の出来る物全てに付着しているばかりか、何の支えも巻きつける所もないのに空中に固定化されているのだ。
ワイヤートラップと言語化するのも、最早おこがましい。相手を確実に、塵となるまで切り刻む為の、確殺・絶殺の布陣であった。
一歩この部屋から出てしまえば、幻十の意思一つで忽ち、無数のチタン妖糸は、必殺の魔線となりて、鈴仙達を切り刻むのだろう。
「随分と細い糸を操るようだけれど……貴方の技は私には効かないわよ」
「君の操るものは、波動だろ?」
強気な態度で、幻十の動揺を誘おうと言う算段でいた鈴仙だったが――逆に、彼女の方が動揺させられてしまった。
彼女の能力は、一目で、その本質を悟らせないと言う所に多大な利点がある。
相手の攻撃を無効化する、精神を不安定にさせる、光や音を意のままに操る、不可視になる、分身する。
そのどれもが、スキル、ないし宝具によって賄われて当たり前の、強力な能力。だが実際には、彼女は上の能力の全てを、波長を操ると言う一つの能力でカバー出来るのだ。
初見で、それを見抜く事など、絶対に出来ない。なのにまさか、能力の真髄を目の当たりにする事もないまま、看破してしまうとは……。
「君に僕の技が解るように、僕にも君の技は良く解る。糸を弾いたのは、空間に波を打たせたから。<新宿>で起きた諸々の事件の影響で、本来だったら閉館してた筈のこの建物に侵入出来たのも、君自身の能力を応用して、透明化を施していたから。違うかい?」
沈黙する鈴仙。幻十の指摘が、全部正鵠を射たものであるからだ。
「君は僕の技を見切ったつもりなのだろうが、強がりは止した方が良い。お見通しさ、君が僕の攻撃を防げたのは、かなり危ないところだった位はね」
これも、痛い所を突かれている。
正直、鈴仙が幻十の妖糸を防げたのは、経験から『そう言う攻撃がある事を知っていた』事が大きい。
月の都の超技術で開発された、フェムトファイバー。フェムト(須臾)の名が指し示す通り、小ささだけを言えば、幻十の操るナノマイクロのチタン妖糸を遥かに超える。
触れている事を認知する事は勿論、地上の如何なる妖怪・技術で以っても認識が出来ないその糸は、切断も破壊も不可能で、
時の劣化をも受け付けぬ最強の強度を誇る神糸であった。そう言う糸の存在を知っていて、かつ、この糸を用いた捕縛術を用いる上司がいたと言う事実。この二つのファクターがあったからこそ、幻十の糸を防ぐ事が出来た。
但し――それだけ。
糸の細さ・強度の面では、月の都の産物であるフェムトファイバーの方が遥かに勝る。
だが、その糸を操る技量の面で、嘗ての上司であった綿月豊姫を幻十は大幅に上回る。比較する事自体が、最早間違いと言うレベルであった。
人類が絶滅するまでに到達し得る技術水準を超越するテクノロジーを持つ月の都の神糸に、単純な技術力で追い縋る。その事実は、鈴仙にとっては驚嘆を超えて戦慄に値する事実だった。
「君達の命は最早、僕の糸に包まれて在る」
ポケットからゆらり、と幻十が手を引き抜く。
純白どころか、透明にすら見える程に、白く輝く美しい手であった。この手に操られる糸は、この宇宙を探しても稀に見る、幸福なものである事だろう。
「魂だけで故郷に帰りたまえ」
幻十の中指が、クッ、と動いたその瞬間、チタン妖糸が五十本程、三人目掛けて群がって行く。
サーヴァントである鈴仙には、三十本。北上と塞には、十本づつと言う配分である。
触れれば人体どころか、同質量の鋼塊すら容易く割る程の威力を誇るそれに、鈴仙は対応。
自分と、塞と北上の存在する位相を、能力の応用で一つ隣の別位相にスライド。目で見ただけなら、その場にいる風に見えるだろう。
だが、現実に於いて確認出来る三人の姿は其処にはなく、実体は、言い換えるならば別の次元に移動してしまっている。
剣で斬ろうが弾を放とうが、水に攻撃しているのと同じである。全ての攻撃はすり抜け、鈴仙達に干渉が出来なくなってしまうのだ。
「もう少し、工夫を凝らすのだな」
鈴仙は、脊髄が凍るような恐怖を本当に覚えた。
鈴仙らの存在する位相が一つズレたのと同じように、『幻十の操る糸もまた、存在する位相が一つズレた』。
寸分の狂いなく、鈴仙達が現在いる位相に移動したのである。位相がズレると言う事は、次元の壁を越えると言う事に等しい。
人の身体で行える技術であるだとか、気合や根性と言った精神論だとかでは、次元を超える事は出来はしないのだ。
その芸当を、指先の技術一つで達成してしまう。げに恐るべき幻十の技量であった。
判断をしくじれば、三者共に身体を細切れにされて即死する。糸の速度は、音に数倍する超音速。
しくじるどころか、手落ち一つ許されない。最速で、正解の選択肢を選び取らねばならないのだ。
鈴仙の選択は速かった、と言うよりは、殆ど反射に近いものだった。
糸が、三人の身体に触れる寸前で、『元の位相に修正させた』のである。スルッ、と。腕が水を通り抜けるみたいに、殺意の断線は三名の身体をすり抜けて行く。
位相をズラした事による、全干渉の素通りとは、相手の攻撃やアクションだけではない。『ズラされた当人の攻撃やアクションも修正される』のだ。
どんなに幻十の技量が優れていても、糸のみ相がズレた状態では、結果的にその妖糸は何も斬れないままに終わってしまう。今の素通りのロジックが、これであった。
不愉快そうに眉を吊り上げる幻十。
世の女が見れば、不興を買ってしまったと即座に恐れを抱き、何を貢いででもご機嫌を取り直そうとするだけの、罪な魔力が其処にはあった。
それに、胸を焦がしている時間は千分の一秒だって、鈴仙にはなかった。即座に懐から、拡声器に似た形状をした不思議の銃、ルナティックガンを取り出し、
魔力によって構成された弾丸を発射。ライフル弾に似た鋭い流線状の弾丸が、百を越える勢いで幻十に向かって殺到する。
その彼を庇うように、目に見えないナノマイクロのチタン妖糸が、凄いスピードで彼のインバネスの裏地から表れて行き、彼の身体を急速に包んで行く。
当然、先述の通りの小ささであるが為、余人には、幻十が今チタン製の糸に覆い隠れている状態である事を認識出来ない。
但し、波長を操れる鈴仙には、見て取れるよう。今の幻十の様子は、繭。絹糸で己の身体を包む蚕の幼虫宛らであった。
弾丸が、妖糸の繭に直撃する。あられの菓子見たいにそれは砕かれて行き、魔力の粒子が、幻十の人外を美を彩るみたいに舞い散って行く。
幻十に、攻勢のバトンを絶対に手渡してはならない。そう考えている鈴仙は、彼に反撃の機会を与えなかった。
ルナティックガンから弾丸を一発だけ放つ鈴仙。弾丸を一発だけに絞ったのは、この弾が速度と貫通力、そして威力を重点的に底上げさせたものであるからだ。
本来無数の弾を拡散して放つ、無数の弾を構築する魔力を、一つの弾丸に収束させ、上のリソースに当てたと言う事である。
弾が妖糸の繭に直撃する、と言う寸前になって、鈴仙は弾丸の位相だけをズラさせる。弾が、チタン妖糸をすり抜けて行く。
幻十の表情が別のものに転ずるよりも早く、繭の内部で弾丸を実体化、そのまま彼の身体を貫こうとする。
――果たして、目の前に起こった現実を、誰が信じ得ようか?
幻十の目の前に突如として『棺』が現れ、その棺の表面に弾丸が直撃、砂糖菓子宛らに弾の方が砕け飛んでしまったなど!!
「んなっ……!?」
糸で防がれる。それはまだ解る。避けられる、これも理解出来る。
美貌によって弾が逸れる。……苦しいが、幻十の美しさなら、それも已む無しと思ってしまえる説得力がある。
しかし、この防がれ方は、鈴仙としても予測も理解も出来ない。彼の麗貌を損なう事を防いだものの正体、それは真実、生者が死者の為に築く寝台であるところの、棺であったのだ。
「修行不足にも程がある。この程度の攻撃に、糸を用いず対応してしまうとは……」
棺の向こうから、幻十の声が聞こえて来る。
棺自体の大きさが、彼の姿よりも大きい為に、どのようなリアクションを取っているのかは鈴仙には解らない。
確かなのは、声が孕んでいる苛立ちの感情通りの態度であろうと言う事だった。
その棺は、死者に安らかなる眠りを約束する為のものと言うよりは、地獄に君臨する悪逆無道の魔王を封印する為の楔であるように、鈴仙には見えるのだ。
表面にあしらわれている、純金で出来た山羊の頭の紋章(クレスト)。その山羊の角には、顎髭の下で結ばれたマンドラゴラの蔓が纏わっていた。
何処にも、嘗て現世を精一杯生きていた死者に対する敬意も、冥府の国の主君に対する礼賛の心持ちも感じない。
見る者に伝わるのは底なしの不気味さ、言語不能の邪悪さだけだった。そしてその不気味さと邪悪さが、幻十の雰囲気に、初めから統合されているかの如くにマッチしていた。
【すまねぇ、アーチャー……やっと落ち着いた】
煙みたいに、鈴仙の正面から棺が消えて行くのと同じタイミングであった。
精神を安定させる波長が漸く効いてきたか、念話を出来る位にまで塞の精神が復調した。
【あのサーヴァントのクラスとかステータス……解る?】
【クラスはアサシンで……】
クラスの予想が外れた。鈴仙としては、糸を飛ばしている風にも見えた事から、アーチャーのクラスを予想していたのだ。
とは言え、アサシンのクラスでもさして驚きはしない。ナノマイクロに相当する小ささの、目に見えぬ糸。成程、暗殺向けの道具ではないか。
それよりも鈴仙が注目したのはそのステータスである。アサシンのクラスと言う事実から予測は出来ていたが、鈴仙が身を以って体験した恐ろしさからは、
想像も出来ない位平凡な値だ。勿論、アサシンと言うクラスの常識に当てはめて考えれば、幻十のステータスは法外一歩手前のレベルで高い。
しかし、
黒贄礼太郎や
ダンテ、紺授の薬で垣間見た未来で観測された、<新宿>の聖杯戦争を管理運営するルーラーなど。
鈴仙がこの聖杯戦争に参加しているサーヴァントの中で、明白に『強い』と断言出来る者達は皆、その強さを裏打ちするだけのステータスの高さをしっかりと持っていた。
確信を持って言える。幻十の強さは、黒贄や
ダンテ、<新宿>のルーラーなど。名立たるサーヴァント達に、全く引けを取らない。
それだけの強さを持ちながら、幻十のステータスは平凡なそれ。サーヴァントの出力に相当するステータスを、彼は、純粋な妖糸の技量でカバーしている。
いや、し過ぎているというべきか。貴重なデータである。この聖杯戦争において、ステータス上の強さは然したる重みを持たない。
それが鈴仙が知れたと言う点で、この戦いは、重要な転換点のようにも思えるのだ。……問題は、だ。
――生きて帰れるのかしら、これ――
それであった。データを得られた、と言っても、生きてこの場から帰る事が出来ねば、何らの意味も持たないのである。
データを抱いて死亡した、と言う死に方は誰も評価しない。次に繋げられないデータなど、散文以下の意味しか持たないからだ。
鈴仙だけなら、この場から逃げ果せる事も出来たかも知れない。塞に、北上。この二人も無事でとなると、鈴仙の処理能力の限界を超える。
今戦っている部屋から一歩、別の室内に移動しようものなら、千を越え万にも届く本数の殺線が忽ち塞と北上を血色の塵へと還してしまう。
この場で幻十を倒すか、そのマスターを葬るしか手立てはもうない。そのマスターも探したい所であるが、自身の能力を敵マスター捜索に充てる余裕すら鈴仙にはない。
全霊を以って、幻十の対応に当たらねば、死ぬからである。己の能力の全リソースを、この戦いに集中させねば、本当に拙い相手なのだった。
幻十と目を合わせる鈴仙。彼女の瞳が妖しく、紅色に爛と光った。
瞬間、強烈な精神の振幅が、幻十の心に叩き込まれる。波長を操る能力の、応用の一つだ。感情とは精神と言う水面に沸き起こる『波』である。
その長短大小を意のままに操る鈴仙は、相手の精神を狂気に蝕ませる事や、躁鬱状態に叩き落す事をも得意とする。
今幻十に叩き込んだ振幅は、ずば抜けて短いリズムのそれ。波長が長いと暢気になり、短いと短気になる。
鈴仙が放ったこの振幅に直撃して、正気を保てる者はいない。些細な事で相手は怒るようになる。
缶のプルタブを開ける音で激昂し、炭酸が弾ける音に目くじらを立て、床に落ちている髪の毛一本にすら正気を保てなくなる、等。
日常生活を送る事が不可能なレベルで、怒気に心が支配され、まともな判断力を失う――狂気に魅入られた状態となる。今の幻十が、正しくそうなのだ。
光の波長を操作し、自分と全く同じ似姿と服装の分身を数十体、展開させる鈴仙。
ある個体は空に浮かび、ある個体は床の上に膝立ちや立ち姿勢のまま配置され、それら分身が全員、指先から紅色の弾丸を幻十目掛けて集中砲火する。
分身は実際に質量を伴った存在ではなく、光の屈折率や音波などを操って生み出した幻覚であり、これら幻覚が実際に弾丸を放っている訳ではない。
鈴仙が弾丸を、分身が佇んでいる位置と重ね合わせるように配置させ、それを放っているだけに過ぎない。分身による波状攻撃ですらない、が。
今の幻十の精神状況ならこの状況でもう、脳の処理能力の限界を迎える筈である。ほんの些細な音ですら激怒するレベルの精神状況なのだ。今のこの状況では激怒を通り越して、怒るという精神の発露すら忘れる状況である。棒立ちの状態から、弾丸がサンドバッグみたいに叩き込まれる……手筈だったのだ。
「悪いが、つまらないよ」
幻十が片腕を指揮者宛らに上げたその時、鈴仙が展開させていた全ての分身が、平均して八九〇〇~一二〇〇〇程の破片へと分割され、煙を立てて消えて行く。
妖糸である。幻十の操る魔糸が、彼の殺意を乗せて鈴仙の弄したトリックを、放った弾丸ごと全て切り裂き破壊して見せたのだ。
「うそっ――」
鈴仙がそう口にしたのと同じタイミングで、熱いものが彼女の左脇腹を駆け抜けた。
何が、と思い波長を以って熱さの源泉を探った瞬間、その感覚はただの熱から、熱と湿り気を帯びた極限域の激痛へと変化した。
見るまでもない、妖糸で、脇腹を斬られた。鈴仙の纏う制服が、褪紅色に濡れる。激しく動けば、内臓が零れ落ちんばかりの深さであった。
痛みを伝える電気信号を、能力でシャットアウトさせ、行動する上で支障となる激痛を無効化させる鈴仙。
その後で、傷口に微細な振動を流し込み、内臓が、外へと零れ落ちる事を防いだ。傷口はこれで開くまい。
冷たい脂汗を流しながら、幻十の方を睨みつける鈴仙。涼しい顔をして、幻十は微笑みを浮べていた。
女の胸を恋慕に焦がす魅力を秘めたその笑みにはしかし、隠しても隠し切れぬ悪魔の喜悦が混じっている。或いは、足を挫いて動けなくなった草食獣でも、目の当たりにした肉食獣の笑みか。
鈴仙の放った精神攻撃に、幻十は直撃した。受けながらも、通用しなかったのだ。
塵になった状態から復活出来る再生力や、砲弾すら弾き返す防御力を誇ろうが、身体ではなく心に作用する精神攻撃の都合上、それらの肉体的長所は何の意味も持たない。
しかし逆に言えば、精神攻撃は、その攻撃対象の心が達していれば意味がない。しかも肉体を全く害さない攻撃である為、相手の行動力にも影響が出ないので、
状況次第では何の役にも立たない手法に成り下がってしまうのだ。正しく、今の幻十のようにだ。
「魔界都市の魔人に、心を掻き乱す術は通用しない」
幻十の生きた、真なる魔界都市である<新宿>は、この宇宙を貫く、既存の如何なる摂理もが通用しないカオスの坩堝であった。
滅びた筈の生物が、跳梁する。剪定された筈の世界の一部が、息を吹き返す。隠れた筈の神々や獣が、顔を出す。
<新宿>に於いて常識は砂の白のように脆く儚い概念だ。そして、絶対と呼べるものがなに一つとして存在しない街だ。
<新宿>に於いて絶対であるものを唯一上げるとするならば、法も摂理もこの街では絶対足りえないと言う事実と、自由こそがこの街の全てだと言う点であろう。
自由と混沌、そして悪徳と狂気。それらが高い次元で融合したあの街で、人の精神を保ったまま生きて行く事など出来はしない。
あの街に生きる者は皆、人としての心を捨ててなければならない。それこそが、魔界で生きる上で最も肝要な事であったのだ。
魔界都市が孕む狂気と、魔。その具現とも言うべき魔人・
浪蘭幻十が。腱や筋の一本に至るまで、魔界の精髄とも言うべきこの男の、
悪逆と言う概念そのものであるその性根の波長を操る事など、例え鈴仙であっても不可能であったのだ。何故ならば、幻十の心は――鈴仙が波長を操るまでもなく、既に狂っていたのであるから。
「さて、今一度、言っておこうかな」
右腕を、鈴仙達の方に伸ばして、幻十は言った。
「君達の命は、僕の糸に絡まれて在る」
「――いやぁ、そう言う事もないんじゃない?」
カッ、と。突如として響き渡ったその声に、誰よりも反応したのは、
浪蘭幻十その人であった。
声がした方向を、幻十が振り返ると同時に、今まで鈴仙達の行動の自由を著しく阻害していた、部屋の外に張り巡らされていたチタン妖糸の全てが、
糸としての体裁を保てなくなるレベルにまで分割され、無害化されてしまったのだ!!
これ幸いと言わんばかりに、鈴仙は精神を安定させる強烈な波動を塞と北上に叩き込み、この部屋からの脱出を促す。
幻十と今の状況で戦うのは極めて危険だ、この場から無様にでも良いから逃走する、と言う選択を鈴仙は選んだのだ。
その意を汲んだ塞が、急いで部屋の外へと駆け出す。やや遅れて北上も、鈴仙の先導に従って走り去ろうとする塞の後を追った。
幻十の意識を引いた声の聞こえてきた方向に、鈴仙は意識を向けなかった。向ける事が、怖かったからだ。
何故ならば――その声もまた、幻十と同じように、波長ですらも美しい声であったからだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
幻十の美を、人々を誘惑する為に億万年の月日を費やして来た悪魔が得た、魔性の精髄たる美とするのなら。
幻十の後ろに佇んでいた、黒いロングコートの男の美は、人々を導き癒す為に神が生み出した、天使の美と言えるだろう。
互いに、人界には存在し得ない、異界の美の持ち主であるが、その美には明白な違いがあるのだ。
幻十の美は女のみならず男すらも蟲惑する危険な色香を纏っているのに対し、ロングコートの男の方は、春風駘蕩。春の日差しのような柔らかい美を感じ取る事が出来た。
「おひさ」
微笑みを浮かべ、手を振る男。人界外の美の持ち主とは思えない、その気さくな態度に、幻十は怒りや不快さに顔を歪ませるでもなく。困ったような笑みを零した。
「月並みな挨拶だが……久しぶりだな。せつら」
「いやぁ、何年振りだ? 僕がお前を殺してから結構経った気がするが」
さも当たり前の風に、男は、とんでもない事を口にした。
幻十を、殺した? この、魔界都市を象徴する魔人の一人を、この男が?
ぽーっ、とした態度を隠しもせず、草原に寝転がれば空を流れる雲の動きを何時間でも眺めていそうな、この暢気そうな美男子が、幻十を殺したと言うのか?
「俺にも正確な時間は解らん。流れた時間の長短も、もしかしたら意味がないのかもな。ただ、久しいと言う感覚だけが、俺の中にあるだけだ」
そして、幻十は目の前の男の言った事を、一切否定しない。暗に事実と認めている。
その通り。知己とでも接するが如き、砕けた様子で話をしているこの男こそが、幻十が終生のライバルと認める男。
自分に妖糸の技を教えた男であり、やがては斬り合い殺しあう関係に至る者。そして、その関係に終止符を打ち、幻十の首を断った、魔界都市その物の魔人。
――
秋せつら。
あらゆる失せ物を探し当てる、西新宿のシャーロック・ホームズ。<新宿>に舞い降りた、死を齎す天使。敵対する者全てを切り裂く、破壊神。その麗しの姿を今、幻十は目の当たりにしている。
「地獄はどうだった? 楽しい?」
旅行先から帰ってきた友人に、その場所の感想を求める風な態度で、せつらが言った。
幻十の命を奪った男は、この魔人が天国には断じて向かえず、向かう先は地獄以外に存在しないと思い込んでいる事の証左でもある。
失礼を通り越して無礼極まる発言であったが、幻十は、やはり笑みを浮べるだけだった。
「面白みの欠片もない」
肩を竦めて、幻十が返す。
「VIP待遇か何かは知らないが、向こうも俺の扱いには困るみたいでね。針山だろうが血の池だろうが受けて立とうとは思っていたが……結局やられた事は、退屈責めさ」
「ははぁ、それは困るな。僕も何れは厄介になる所だと思ったが、この様子じゃ<新宿>の方がマシみてーだな」
「正しすぎるな。魔界都市の住民に責め苦を与えるには、設備投資が足りなさ過ぎる」
そこで両者とも、意味深な微笑みを浮べた後、やはり、示し合わせたようなタイミングで、ほう、と一息吐く。
「聖杯戦争は上手くやってるか?」
切り出したのは、幻十だった。
「散々だね」
間をそれ程置かず、せつらが言った。
その言葉を終えたのと、この部屋まで来るのに用いたルートを、辿るように戻り始めたのは同じタイミングの事だった。
せつらの背中を、幻十が追う。せつらの艶やかな歩みと同じような、ゆっくりとした速度で。
「見知った藪は相変わらず捻くれてるし、お前はいるし、敵には一人逃げられるし、良くない事だらけだ」
「幼馴染には相変わらず手厳しいなお前は。……それよりも、逃げられた? お前が、か」
「まぁな。勝ち星なしの、惨めな負け犬さ」
絵画がまだ残っている回廊を歩きながら、僅かな驚きに彩られた表情で幻十が言った。
せつらが、敵を逃した。その事実は幻十に驚きを与えるのに十分過ぎる程の威力を持っていた。
冗談でも何でもなく、幻十はせつらであるのならば、本戦が始まってから現在まで数体のサーヴァントを葬っているのだと、本気で思っていたのだ。
サーヴァントとの戦いに直面したら、せつらはきっと、『あの人格』になって戦っているだろう事は想像に難くない。
“私”のせつらを相手に、五体無事でいられる可能性があるサーヴァントなど、この<新宿>に於いては、自分か、魔界医師。そして、あのルーラーのサーヴァントだけ。
幻十はそんな確信を持っていたのだが……まさか現実には、一体も倒せていなかったとは。
――聖杯戦争……か――
魔界都市を嘯く<新宿>に集う、サーヴァント達。
成程、如何な次元時空から寄せ集めたのかは知らないが、粒は揃っているらしい。幻十は事ここに至って考えを改めた。
聖杯戦争の舞台となっているこの<新宿>に於いて、最強の座に在ると幻十が信じているサーヴァントですら、苦戦する相手がいる。
その事実を認識出来た事は、非常に大きな収穫であった。
「んで、お前の方は如何なんだ? 幻十」
「実は俺の方も芳しいとは言えなくてな。逃がした魚の数ならば、お前の四倍以上だ」
「おいおい、僕の教えた糸の技は何だったんだ? これじゃ、あやとりからやり直しだぜ幻十」
「耳が痛いな」
これについては、返す言葉も幻十にはない。
浪蘭棺による教育がまだまだ不十分であるとは言え、敵を幻十は余りにもリリースし過ぎていた。
これはせつらのみならず、マスターである
マーガレットからも指摘されている点だ。……勿論、このまま終わるつもりは、幻十には毛頭ないのだが。
「聖杯戦争に対する意識の低さが、そのまま表れているのかもな。俺も聖杯に対して意欲を見せれば、少しは変われるかな」
「欲しいの? 聖杯」
幻十が、少しだけ黙った。
「お前の命に比べれば、大した価値はない。せつら」
「僕の命を奪った後なら?」
笑みを零した。邪悪な、笑みだった。
「事物にするのも考えてやっても良い、って所さ」
「はぁ」
気の抜ける、せつらの返事だった。
「『封印』の時と言い、今回の聖杯と言い。お前も胡散臭い品を欲しがるな。よくそれで、怪しい投資信託のセミナーには引っ掛かんなかったよ」
「興味がない訳じゃない。何でも願いが叶う、と言う部分が本当ならな。お前は如何なんだ、せつら」
「僕は興味はない」
やはりな、と幻十は思う。
聖杯の所在よりも、せんべいを焼く為の質の良いうるち米を安く仕入れられるルートの方が、興味のある男だ。聖杯なんて目もくれない事は、解っていた。
「但し――マスターの方が興味があるな」
……せつらの、マスター。
考えて見れば、当たり前の話だった。『サーヴァントである以上、それを御す為のマスター』がいる。
今の今までずっと、せつらのみを警戒してきた幻十であったが、そのせつらを操るマスターについては、全く興味を抱いていなかった。
これは失念と言う言葉では足りない、失態とも言うべきミスである。幻十を御すマスターは、あらゆる意味で規格外の怪物である。
その幻十以上の強さを持つせつらを御すマスターが、桁外れの存在である事は、容易に想像出来る。俄然、興味が湧いてきた。
「お前のマスターは何者だ、せつら」
「おーっと守秘義務。クライアントのプライバシーは第三者に明かさないものだよ、幻十」
予測出来た返事。
「――人間か? そのマスターは」
「人間さ」
この短いやり取りで幻十は、せつらのマスターが人間を逸脱した何かを持つ存在である事は理解した。
人間か? 幻十がそう問うたのならば、常のせつらであれば『当たり前だろ』とか、『解りきった事を言うなよ』、とか。
何かしらの小言を付け加える。それが、今回はなかった。その微妙な機微が、くさい。間違いなく、せつらのマスターには、守秘義務を貫くだけの秘密があるのだ。
「ま、これはちょっとした愚痴だが、聖杯に縋ると言うのも、溺れる者は何やら掴む、って感じで僕は好きじゃない。弱みに付け込むみたいじゃないか」
「それでも、求める価値はある」
「しょうもない品だったら如何するよ? 犬の鳴き声がワンからツーになったりするだけかも知れんぜ?」
「それでも、俺は構わない」
声音は、いつもの調子だった。
しかし、今回の言葉には、『美しい』と言う響きだけがあったのではない。聞く者が聞けば、解るだろう。
今の幻十の言葉に、僅かながらの殺意が含まれていたと言う事実に。
気付いた時には、せつらと幻十。二人の美魔人は、絵画館内部の、中央大広間に出ていた。
この大広間もまた、この聖徳記念絵画館の目玉となる名所の一つである。
大理石とモザイクタイルを敷き詰めて幾何学的な文様を表した綺麗な床や、壁面に取り付けられた色変わりした見事な大理石。
そして、同じく壁面と、遥か頭上の天井部分にも、西欧風のモティーフを施した石膏彫刻が、この部屋の広さと美観とに、絶妙な和を保って施されていた。
大広間の中央付近にまで歩いて行く魔人二人。採光ガラスから溢れる、夏の<新宿>の日差しが、せつらと幻十の白貌を麗爛に染め上げる。
陽の光ですら、二名の従者であるかのようだ。この聖徳記念絵画館の大広間の見事な内装は勿論、星々の君主たる太陽ですら。
この世ならざる美の持ち主であるところの、せつらと幻十の存在感を美しいと言う形で浮き彫りにするだけの、付随物でしかなかった。
「俺が求めた魔界都市のデッドコピーの如きこの<新宿>で、聖杯戦争が開かれている以上……せつら。お前が招かれているだろう事は考えないでも解った」
「お前が思っているよりもずっと、この街は魔界だよ幻十。根っこのところから、まともな都市じゃあない」
「そんな事は解っている。コピーである、と言う点が気に食わん」
「それ言われちゃどうしようもないな」
振り返るせつら。いつものように、のほほんとした表情であった。
「<亀裂>の刻まれた<新宿>がある以上、せつらよ。お前の姿がこの街にないのは、嘘だ」
「熱いアプローチだな。僕にお熱な厄介者なんて一人でも嫌だってのに、二人になんて増えられたら困るってもんじゃない」
はぁ、と本気の溜息を吐いてから、せつらは幻十を見据えた。惚けた表情とは裏腹に――瞳だけが、異様に冷たい輝きを秘めていた。
「地獄の底で、お前の得た結論を聞かせて貰おうか」
「お前の首が欲しい」
再び、溜息。せつらだった。
「暇が過ぎると人間はロクな事を考えないらしいな。面白い返事を期待した僕が馬鹿だった」
「お前の首以上に価値のあるものがこの街にあるのか? せつら。お前の首……星一つを天秤にかけてもなお、足りないぞ」
インバネスの両ポケットに入れていた繊手を抜きながら、幻十は言葉を続ける。
「先程の、聖杯に価値を見出していないと言う俺の言葉は真実だと誓おう。お前の首だけが、今は欲しいのだ」
「へえ」
せつらは今も、ポケットに手を入れたままだった。
「……お前が。他の有象無象共に敗れると言う結果だけは、俺には許容出来ん。せつら、お前は俺の獲物だ」
「その言葉は、僕との腐れ縁としてかい? それとも、糸の師匠としてか?」
「双方共に正しい。そして其処に……嘗てあの街で育った者として、と言う言葉も絡む」
押し黙る二人。陽が翳り、大広間から陽光が消えた。
施設内に設置された照明器具の、人工的な光だけが二人を照らす。その光ですらも、何処か薄暗く、褪せて見える。
せつらと、幻十。美の閾値の究極点たる二名がその場にいるのだ。光ですらも、恥じて闇の彼方へと消え失せようと言う物だった。
「“私”になれ、せつら」
有無を言わさぬ強い語調で、幻十が言った。
鉄のように重い言葉である。幻十の、万斛たる強い思念が一句一句に篭っていた。
「『僕』何て甘っちょろい人格で俺に勝てると思うな。せつら。俺に糸を教えた、あの恐るべき魔人の人格を出せ」
「――もうなっている」
その言葉を聞いた瞬間、凄い速度で幻十は腕を交差して構えた。
対するせつらの方は、両の腕を水平に伸ばす、と言う独特の構えを取っていた。
せつらの姿は、何も変わっていない。
相手の容姿を褒め称える為に、この世に用意された遍く言葉。
それらの言葉全ての容量を集めても尚、せつらと幻十の美の奔騰の前では、コップに大海の水を注ぎ込むようなもの。
せつらの服装も、その美貌も。先刻と全く変わっていない――筈なのに。幻十は勿論、誰もが一つの事実を認識出来る事だろう。
せつらが、変わった。
人格のみならず、魂までもがそっくりそのまま別のものに置換されたのではないかと、思う程に、今のせつらは人が違っていた。
放つ気風が、違う。それまでの、ともすれば聖杯戦争の舞台からは浮いているとしか思えない程暢気な雰囲気が、刃の如く鋭く冷たい殺意で漲っているのだ。
表情もまた、死その物のように冷たい。人間的な感情の起伏を、まるで感じないのだ。ただ、目の前の存在を葬る。
その強い意思だけで、今のせつらの感情は構成されており、その意思が表情に如実に表れている。やろう、なろう。そう思って、至れる境地ではない。
せつらに、死神が宿った。そうと言われても、誰もが納得するところであろう。事実、今のせつらは死神だった。幻十も、強くそう思っている。
そうだ、このせつらを倒してこそ、なのだ。幻十が掛け値なしの最強と認める、魔界都市の魔人の一人。この聖杯戦争において、幻十が最も価値の重きを置く仇敵。その男の中に眠る、死の具現が今目覚めたのである。
「“私”と会ったな、幻十」
「会いたかったのだよ、せつら」
双方共に、互いの武器の事は知り尽くしている。
勝敗を決するのは単純に、妖糸を操るその技量。たったそれだけだ。
「修行の程を見てやろう。来い」
「ああ」
其処で、両名の腕は、黒色の風となって消滅し始めたのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
それは、達者の手によって見事な舞踊を披露する影絵のようであった。
それは、春の野の花畑を中睦まじく飛び回る黒いアゲハの戯れのようでもあった。
それは――墨を吸わせたローブを纏った、世にも恐るべき悪魔か死神の舞踏会のようでもあった。
せつらと幻十の動きを見て、それが『戦い』にカテゴライズされるものであるなど、果たして誰が思えようか?
影ですらが美しい男達が軽やかなステップを刻み、時に虚空目掛けて腕を素早く動かしたり、ピアノの奏者のイメージトレーニングのように指を空中に滑らせたり。
ともすれば二人は、一つの踊りの演目を協力して披露しているようにしか見えないのだ。
動きは出鱈目なそれではない。これもまた素人が見ても解る事だが、何かしらの法則によって身体を動かしているのだと、一目で理解出来てしまうのだ。この点も、二人が奇妙な舞踏に励んでいる風に見える原因になっていた。
だが、せつらと幻十の動きを、戦闘行為のそれだと結び付ける事は、かなり困難な事であった。
両者が何を用いて、互いの身体を害そうとしているのか? その要となる得物が見えないからだ。
その通り、両名の操る武器は、正しく『見えない』事にこそ、その本懐がある。
大きさにして1/1000マイクロメートル、つまりナノの領域に在るチタン妖糸は、目で見る事は勿論肌に直に触れていても、そうと解らない程些細な物なのだ。
素人が操った所で、この糸は屑糸である。妖糸という大層な名前で呼ばれるにも値しない、過ぎた玩具にしかならない。
せつらと、幻十。異界から現世に零れ落ちたとしか思えない、絢美の象徴たるこの二名によって操られて初めて、見る事も操る事もかなわないこの糸は、『妖糸』と呼ばわれるに相応しい必殺の線条と化すのである。
そして、二人が用いる武器の姿が見えてしまえば、人は思うだろう。彼らの戦いには、断じて首を突っ込んではならないと。
彼らとやがて戦う運命に在る戦士達は、自ら命を果てる道を躊躇いなく選ぶだろう。何を考えても、勝てる展望が浮かばないからだ。
圧縮された鋼の塊ですら、熱した泥の如く切断する致死の魔糸が、せつらと幻十の周囲をめまぐるしく旋回する。
糸は一本だけ動いている訳ではなく、無数。それも百や千ではない。万にも届こうかと言う数の糸が、つむじ風か荒波のように、二名の美しい体を切り刻まんと迫るのだ。
上下左右からは勿論、床下からバネ仕掛けみたいに跳ね上がって襲い掛かる糸もある。しかし、その全てが、せつらと幻十の身体から逸れて行く。
彼らの身体を傷物にすると言う事は、美の神の不興を買う事も同義。それを恐れてか、糸が自らの意思で逸れているのだ。そうと説明されても、万民は納得しよう。
しかし、実際チタンの殺糸が二人の身体を逸れるのは、迫る糸以上の技量で、せつらと幻十が妖糸を動かして対応しているからに他ならない。
無数の糸を、同じく、無数の糸であやし、躱す。行う事は、不可能に等しい程の神技だ。何せ糸は、ナノメートル。見えないのだ。
見えず、しかし、触れれば忽ち死を与える数万の断線に、せつらと幻十は一部の狂いもなく対応し、それを回避するのだ。これ以上の神技が、果たしてこの地に在ろうか。
数万の妖糸で構成された、糸の壁が、大理石の床からグワリと起き上がり、幻十を包み込もうとする。
勿論、常人には糸の一本を視認する事だって出来ないし、そもそもその糸が無数にこより合わさって壁を構成している事すら認識出来ない。
不可視に近い小ささの糸で出来ている以上、それによって編まれた壁だって、目に見えない。当然の話だった。
しかし、幼年からナノの魔糸と付き合ってきた幻十には、壁が見えていた。それは、自分に迫る命の危機を理解している事とイコールであった。
何故なら、その壁に触れようものなら、霊基が粉微塵に斬り刻まれるからだ。靴先に力を込め、キッ、と。床との摩擦音を生じさせる幻十。
それと同時に、幻十の足元に蜘蛛の巣状に展開されていた糸がうねり、竜巻みたいに彼と糸壁の間に立ち昇った。何も、糸を操る為の部位は手指だけじゃない。
幻十とせつら。彼ら程の術者ともなれば、足の指やコートの裾、果ては舌や睫の動きでも、糸を操る事が出来るのだ。靴先でこのような芸当を起こす事は、幻十にとって造作もない。
糸の竜巻に、壁が巻き取られる。如何に壁を編んだと言っても、それを形作っているのは糸だ。
絡め取られもするし、巻き取られもする。当然、それには尋常ならざる技術が必要になるのだが。幻十は、その技術の要諦を満たしていた。
だから出来る。殺戮の妖糸を、己の妖糸で絡め、無効化するこの技が。
幻十の目が驚愕に見開かれたのは、次の瞬間だった。
彼自身が生み出した糸の竜巻から、一本の不自然な妖糸が幻十向かって伸びて来たのだ。糸竜巻によって勢いを殺がれた糸の一本が、だらしなく飛来して来た……訳ではない。
それは、音速の数倍と言う、殺意に余りにも満ち満ちた速度で幻十の首へと一直線に、迷いもなく伸びてきているのだ。
小指を動かす幻十。小指の爪に巻きついた一本の糸が、こちらに向かって飛来する妖糸と全く同じ速度で、伸び始めた。
チンッ、と。微かな金属音が響いたと同時に、確かに、橙色の小さい火花が空中に弾けた。誰が、信じられよう。それは、幻十の糸と、竜巻から伸びて来た殺意の妖糸が、糸の先端どうしで衝突した際に起こった現象だったのだ。
「――ほう」
せつらが、嘆息したような声を漏らす。この防がれ方は、想像してなかったらしい。
「今の一撃で、お前を仕留めるつもりだったが、そうはならなかった。腕を上げたな、幻十」
「お褒めに与り光栄だ。地獄で退屈していた甲斐があった。お前も学んで来ると良い、せつら」
右小指を微かに動かす幻十。幻十の技を知らぬ者が見れば、疲労で指が痙攣しているようにしか見えなかったろう。
しかし、その引き攣りとしか誤解されかねないようなかすかな動きにすら、技術の精髄が詰まっている。
その精髄を証明するものが、せつらの足元でだらしなく弛緩し、散乱していたチタン妖糸の糸くずである。
見るが良い、最早殺意も、幻十の持つ超常の技量を必殺の威力と言う形で対象に伝えるべくもないその糸くずが、意思を持ったバネ人形の如くに跳ね上がり、
せつらの下へと殺到して行くのだ!! 幻十の小指の動きに呼応するように、その指の爪先に巻きつけられた一本のチタン妖糸。それが地面に超高速で叩き付けられた事によって、メンコの要領で糸屑共は巻き上がったのだ。鋼を斬り断つ威力をそのままに、せつらの身体にそれらは迫る。
「その程度の腕では地獄に逝ってやれん」
言ってせつらは、纏う黒いコートをはためかせ、迫る糸片を全て跳ね除けてしまう。
この世に、幻十の操る魔糸を防ぐ衣類はない。況や、せつらの羽織る、
メフィストの手によりて作られた特注の黒コートをおいておや。
糸の技に通ずる者が見れば、悟るだろう。せつらのコートの上に葉脈めいて走る、幾本ものチタン妖糸が。これが、防御の役割を果たしているのだ。この状態のせつらのコートは、近接戦闘に通暁したサーヴァントの攻撃ですら無効化する程の堅牢さを得ている。
「ふむ……」
佇むせつらを見て、幻十が思案する。
顎に手を当て、遠くを見るような目で何かを眺めるその姿は、どんな風景に在っても幻十自身の美を浮き彫りにし、
浪蘭幻十と言うキャラクターを浮かせてしまう異質さに溢れていた。
「せつら、此処はどうも空気が悪い。換気をして良いか?」
「止めはしない」
「それじゃ――遠慮なく」
刹那、大広間全体に、溝が生じた。
ただの溝ではない。ナノマイクロの細さの溝だ。それが、四方全ての大理石の壁や、天井部全域に至るまで。瞬きよりも遥かに早い速度で、縦横無尽に刻まれ始めたのだ。
そして、その溝から壁や天井がズレて行き――壁は礫に、天井は瓦礫となって、幻十とせつら目掛けて雨の如く、崩れて降り注ぐ。
いや、崩れているのはこの大広間だけじゃない。この建物だ。此処、聖徳記念絵画館と言う建造物全てを、幻十の魔線が細切れに切り刻んだのである。
両名とも、腕を動かすタイミングが、示し合わせたように同じだった。
腕の動きが、滑らかで美しい曲線を描く。そして、その行為に追随するように、幾千本ものチタン妖糸が艶かしく動く。
主の敵を、斬り殺す。糸の持つ動きの意味とは、正しくそれであった。
空中に火花が散る。触れれば海すら割る威力の妖糸どうしが、ぶつかり合った時に生じたものだ。
何もない空間で明滅する、橙や青、白い色の火花は、それ自体が幻想的な風情を持ち、見る者に妖精の世界の産物を想起させる力があった。
しかし一方で、破滅的なイメージを想起させる現象が起こっているのも、事実である。何故ならば今、幻十の妖糸によって現在進行形でこの絵画館は崩落しているのだから。
重さにして数百kgにもなろうかと言う、建材の瓦礫や鉄筋が、凄い速度でせつらと幻十目掛けて落下して来ているのだ。
尤も、この程度の瓦礫で命を奪われる魔人ではない。直ぐに彼らは、回避行動に移った。
せつらは右、幻十は左に、ステップを刻む。
それは、脳天目掛けて落下している瓦礫を躱す意味もあったが、同時に、攻撃の意味もあった。
ステップを刻む為に、靴で地面を蹴ると、その動きを契機に、糸が音速を超過する速度で互いに迫って行く。
迫らせた妖糸の数は、両名共に同じ、二〇〇本。直撃すれば体中の急所を貫かれ、即死へと至る。
しかし、現実にはそうはならなかった。チンッ、と言う音が鳴り響くと同時に、せつらと幻十。両者から見て数m前方の空間で、火花が散ったのである。
互いに放った妖糸が、敵対者を貫くと言う所残り数mで、せつらと幻十が攻撃に用いた糸とは別に展開させていた妖糸。それらが、自分を害する攻撃を跳ね除けた時に生じた火花であった。
雨か霰か、と言う勢いで降り注ぐ雨を、まるで幽霊の舞踊の様に、スルリスルリと避けて行くせつら、幻十。
避けながらも、彼らは相手を攻撃する事を忘れない。瓦礫を避けながら、指や腕、足を動かす事で妖糸を操り、必殺の魔糸を殺到させる。
体の動きを契機に、妖糸を動かす。それだけならば、不思議はない。だが、真に驚くべきなのは、『地上に落ちた瓦礫の衝撃をも利用している事』。
重量にして、数百kgは下るまい瓦礫を、幻十は後ろにステップを刻んで回避する。当然、地上に瓦礫がぶつかり、砕け散る。その時の衝撃が、トリガーとなった。
地上に張り巡らせていた糸が、瓦礫の激突と同時に、激流の如き勢いでせつら目掛けて四方八方のあらゆる方向から向かい始めたのである!!
しかし、せつらは、幻十がそうやって糸を動かすであろう事を読んでいた。せつらは、今まさに自分の右肩へと落ちるであろう瓦礫を糸で四分割させ、危難を回避する。
いや……危機を避ける為に、瓦礫を壊したのではない。その瓦礫には、糸が無数に巻き付いていた。
その糸は、瓦礫が割断されたのと同時に、手榴弾の様にありとあらゆる方向へと伸びて行ったのだ。そして、その糸の向かう先には、幻十が放った殺戮の糸があった。
神技の何たるかを、軌道と切れ味を以って証明している互いの妖糸が、衝突する。チンッ、と言う音と同時に、青白い火花が方々で幾度も舞った。
あちらこちらで生じていた、青白い、点状の明滅が終わった頃には、既に記念絵画館は消滅していた。
そしてこれと同時に、激しく繰り広げられていた妖糸どうしの攻防もまた、終わりを告げる。チタン妖糸の衝突によって弾ける火花が、なりを潜めたのだ。
換気と称して行った、幻十が妖糸操り。それによって、一個の巨大な建造物は微塵と刻まれ尽くされ、瓦礫の堆積となった。
広がる夏の青空の下、蒸篭の中の様に蒸し暑い空気の最中で、せつらはうんざりとした様子で口を開いた。
「やる事が雑すぎる」
地面に散らばる瓦礫を一瞥してから、せつらが言う。瓦礫は、外部から強い衝撃を与えた事で生まれたと言うものではなかった。
例えて言うなら、柔らかい果物を、よく研いだナイフで切ったように、鮮やかな切り口。
例えて言うなら、ざらざらとした木目や金属を、目の粗いヤスリから細かいヤスリで削り、滑らかな切断面。
一切の例外なく、せつらと幻十の足元に散らばる、嘗て記念絵画館であった物の成れの果ては、そんな風であったのだ。
幻十が斬ったものは、コンニャクでは断じてないのだ。岩石にも似た堅牢さの、建材なのだ。それを、斯様にして切断せしめる。
これを見て、雑な仕事だと判断出来るのは世にせつらだけであろう。只人が見ても、実に見事な、神技であるとしか認識出来まい。
「お前の糸には繊細さが見られない。サーヴァントにでもなって腕が鈍ったかは知らないが、そんな技を教えた覚えは私にはない」
「行儀に気を配りながらでも勝てる相手なら、俺だってそうするさ」
互いの動向に気を配り、牽制しながら、せつらと幻十は睨みあう。
現状の実力は、せつらの方に分配がある。幻十自身が、そう認めていた。
サーヴァントになった事による、せつらの実力の劣化は、幻十の目で見てもそうである、と認識が出来る程だ。
“私”の人格が操る妖糸であっても、その桎梏から逃れられていなかった。しかし、実力の劣化が生じているのは、幻十にしても同じ事。
元々の実力に差がある二人が、同じだけの数値分実力を差っ引かれれば、どちらが最終的に高い実力を持つ事になるかなど、言うまでもなく明らかだろう。
差っ引く前の実力が上だった方に、決まっている。サーヴァントになった事による実力の低下の度合いが、せつらも幻十も同じ位であると言うのなら、せつらの方が強い。当たり前の話だった。
――自分は此処で、死ぬか。
それだけの覚悟を、幻十は胸中に抱いていた。殺されたとて、無念を抱く相手ではない。
殺されたとしても、それを事実として受け入れられるだけの男、それが
浪蘭幻十にとっての
秋せつらだ。
生前のあの、ジョーカー染みた殺され方をされた瞬間ですら、幻十は『是非もなし』として死を受け入れていた程だ。
サーヴァントとしての今生でも、それは変わりない。変わりはしないが、むざむざ殺される事もしない。
来るか。そう幻十が心中で構えた瞬間。
せつらの意識が、幻十の方から、他方に向いた。神宮球場。幻十が正真正銘の『魔界都市』として認識する<新宿>においては、特筆すべき所はなかった場所だ。
「……成程。お前を呼んだマスターは……そう言う事か」
その言葉を認識した瞬間、幻十は目を見開いた。
幻十はせつらとの戦いに完全に集中する為、マスターである
マーガレットの動向を探り、監視する為の妖糸を伸ばしていなかった。
彼女の監視は、妖糸のたった一本で事足りる。その一本を、他者に割くのも惜しいと感じる程、せつらを認めている事の証だった。
しかし、せつらは違った。幻十との戦いに集中していながらも、他方に糸を伸ばすだけの余裕はしっかりと用意しており――そのゆとりを持っていながらなお、幻十と互角以上に渡り合えていたのだ。
幻十を無視し、せつらは、球場の方に地を蹴って駆け出した。
追い縋ろうと幻十も走り出すが、せつらが小指を動かしたその瞬間、幻十が生み出した絵画館の瓦礫を、また更に細かく割断しながら。
瓦礫の下に埋もれていた――埋もれさせていた――せつらの妖糸が跳ね上がり、幻十を包み込もうと迫る。無論、包み込まれてしまえば、幻十はその時点で挽肉だ。
邪魔だ、と言わんばかりに幻十は妖糸を操り、迫るせつらの糸の全てを逆に切断し返し、無力化させる。
ノーダメージであるがしかし、それを終えた頃には、宿敵の姿は何十mも先にまで遠ざかっていた。
幻十はせつらの事を倒すべき宿敵であると認識しているが、せつら自体には、幻十のプライオリティは低いらしい。此処まであっさり、自分をターゲットから外すとは幻十自身も思ってなかった。
その事自体に怒りは覚えないが――
マーガレットを狙われるのは拙い。
如何にサーヴァントに迫る強さを持っていたとしても、せつらに狙われては……。
このような決着は幻十としても望むべく物じゃない。幻十もまた、せつらの背を追った。
世にも美しい魔人の二人が消え去り、絵画館の在った跡地から、急激に光が褪せて、陰って行く。太陽の光を、厚い積乱雲が遮る様に、それは似ていた。
或いは世界は、安堵していたのかもしれない。二人の魔人を留め置くには、余りにも気を揉むからと。彼らの美しい姿が在ったと言う事実を名残惜しみつつも。本当は、安心していたのかもしれなかった。
攻撃を、避ける。
一対一、一対他を問わず。相手から与えられる害意であるところの、攻撃と言う危難を回避する為の行動は、基本中の基本である。
それはそうだ。命を賭した殺し合いに於いて、相手からの攻撃とは即ち、肉体の損壊は勿論、生命活動の終わり……死に直結するのだ。
好んで、受けるものではあり得ない。基本は、防ぎ、避けるものである。そしてこれは、戦士や武士であろうがなかろうが、想到出来るであろう、戦闘に於ける基本中の基本であろう。
――その基本に忠実になるだけで、強さの格が何ランクも跳ね上がる、デタラメなサーヴァント。
彼らは、そんな規格外極まる存在と、改めて剣を交えていた。
「うむぅ、攻撃が身体に当たってないと殺人鬼として落ち着かないですね……」
上空から、壁に例えられる密度で降り注いで来る針の雨を、左腕で握った、引っこ抜いた十m長の電信柱を小枝の様に振るい、悉く砕いて行く黒贄。
……戯画的にも程がある光景であろうが、全て、事実のままの姿だった。高度数百m上空から、一秒の絶え間なく降り注ぐものは、パムが黒羽を変化させて作り上げた、
鯨髭の様に細い黒色の針であった。高度にして七〇〇m地点から落下している事による位置エネルギーも脅威だが、落下速度は音の十五倍。
数mの鉄壁ですら、超高速度で落下するこの針の前では豆腐も同然。人の身体で受ければその結果は語るに及ばず。
この恐るべき魔雨を、殺人鬼・
黒贄礼太郎は、真実、電信柱を振るう事で防いでいた。
黒贄自身優れた体躯の持ち主だが、電柱とどちらの方が背丈が大きいかと聞かれれば、悩む時間は一秒と掛かるまい。
自身の何倍も大きい上に、数トンにも達そうかと言う重さをしたその得物をブン回し、針の雨を砕いて回っている。
そして、その防御の為の行動がそっくりそのまま、攻撃にもなっていた。
音の速度で降り注ぐ針の雨。それに対応するには必然、防御に必要な反射神経も、それを行う行動の速度も。音速の世界に足を踏み入れてなければならない。
勿論、黒針のスコールを防ぎ切っている以上、黒贄の反射神経も、その神経から伝わる命令を受け取って実際に身体を動かす速度も、音速を超過する速度である。
その通り、黒贄は現在、重さ数トンを容易く越える電信柱を、音の速度で滅茶苦茶に振り回しているのだ。
質量あるものが、超音速で移動する。必然的に衝撃波が発生する。サーヴァントですら、おいそれと近付けぬ程の威力を内包した衝撃波が。
地面が抉れる、どころの話ではない。
遠坂凛が令呪を用いて命令を下してから、まだ十秒しか経過していない。
その余りにも短い時間で、神宮球場の九割九分が壊滅。瓦礫と建材の堆積しか残っていないのだ。
ソニックブームの威力と、勢い余った電柱の命中。それによる副産物が、あの球場の残骸、成れの果てなのだ。
衝撃波と、これを生む電信柱が、
アレックスの接近を阻んでいる。
アレックスは幾度も黒贄への接近を試みていたが、攻めあぐねているのは目で見ても明らかだ。
接近すれば衝撃波によって甚大なダメージを負う。衝撃波を生む電信柱に直撃すれば、末路は最早言うまでもない事だった。
近付けない。
アレックスの抱いた感想だ。
パムが行っている針の雨による攻撃は、黒贄のみを狙った攻撃ではない。
アレックスと、ジョニィ。彼らもその攻撃の範囲内だ。
黒針の攻撃はご丁寧にも、パムの同盟相手である
レイン・ポゥと
英純恋子は言うまでもなく、ジョニィのマスターであるジョナサンも正確に外している。
マスターを狙わないのは、強者の余裕か、それとも矜持か――或いは、制限を自らに課す事で戦いの楽しさを上げさせているのか。全てだろう、
アレックスはそう考えた。
針自体は、容易く対処出来る。防御力を上昇させる魔術、悪魔の間ではラクカジャと呼ばれる魔術を重ね掛けし、身体に力を入れる事で、
アレックスは防御の構えを取らずともノーダメージで攻撃を防ぎきっていた。ジョニィの方はと言えば、ACT3による潜行を用い、針の驟雨から逃れている。
普段であれば、ACT3の爪弾によって発生する渦から腕を伸ばし、爪を放つところであるが、それすら出来ない程、針は絶え間なく降り注いでいる。逃げの一手しか、取れなかった。
「そりゃ」
一際強い勢いで電信柱を振るう黒贄。生じた
ソニックブームが、針の雨を悉く砕いて行く――と、同時の事だった。
電柱が、粉微塵に、砕け散ったのである。成り行きとしては、自然なものだった。超音速を遥かに超える速度で飛来する物体を、受け続けていたのだ。
当然の話、防いだものにもダメージは蓄積する。要は、電柱は、柱としての形状を保てる限界の閾値を越えてしまったのだ。
「ありゃりゃ」
気の抜けた声だった。現状を認識しているのか、していないのか、解らない声音。
振るっていた得物がなくなったのと同時に、パムと
アレックスが、全く同じタイミングで地を蹴り、黒贄目掛けて特攻する。
アレックスは空手で向かって行き、パムの方は、今まで黒贄の頭上に展開させていた黒針を降り注がせる暗雲を解除・変形、元の羽に千分の一秒で戻してから特攻した。
このバーサーカーの危険性の高さは、両名共に共有するところであるらしい。排除のプライオリティを、今此処にいるサーヴァントの誰よりも高く設定していた。
黒贄の方へと真っ先に接近したのは、
アレックスだった。
悪魔の膂力に、攻撃能力を上昇させる魔術であるタルカジャを乗せ、ミドルキックを黒贄目掛けて放つ。
ガシッ、と脛の辺りに圧迫感を感じる
アレックス。防がれた――そうと認識したのと、切断されてない左手で
アレックスの脛を掴んでいた光景を見たのは同時の事。
グンッ、と。
アレックスの視界が回転し、浮遊感をではなく、圧迫感、とも言うべき感覚が身体に叩き込まれた。
振り回されている。掴まれている右の脛を支点として、
アレックスは、黒贄の手によって生きた武器と化させられていた。
先程の電柱の役割を、
アレックスと言うサーヴァントで黒贄は果たしているのだ。滅茶苦茶な速度で
アレックスを振り回し、接近するパムを彼でブン殴ろうとする。
「チッ!!」
ブレーキを掛けて急停止を掛けるパム。寸でのところで、
アレックスと激突する事だけは防いだ。
体感した事のない速度と、それによって肉体に掛かるGが、
アレックスの身体を苛ませる。
ロケット花火の先端に括りつけられた、哀れな虫の気分を、彼はその身で味わっていた。
いい加減にしろ、と言わんばかりに
アレックスは魔力を集中させ、金属すら消滅させる程の威力を内包した放電を行おうとする、が。
凄い勢いで、自分の身体が重力に逆らって上へ、上へと向かって行く感覚を今度は味わう事になった。黒贄に、放擲されたのだ。
黒贄は不穏な気配を察知したのか、
アレックスを放り投げ、これから自分の身体に叩き込まれる筈だった放電を回避したのである。
――んの野郎……!!――
と、
アレックスが目を血走らせ、攻撃を放とうとする、が。
信じられない速度で地上にいる黒贄と自分の距離が、遠ざかっているのだ。
一秒立つ頃には、黒贄達の姿はもう見えなくなり、逆に崩壊した神宮球場と、サーヴァントの交戦によって跡形もなく消滅したと言う新国立競技場が、
よく見える――と言うより、鳥瞰出来るように、が正しい言い方か――ようになり……。
もう一秒経過する頃には、境界線をなぞるように<亀裂>が走っていると言う<新宿>の全貌が、一望出来る程の高さにまで放り出されていた。
怒りの感情が、驚愕に変わった瞬間だ。「あの野郎、どんな力で――!!」そう悪態を吐きながら、対策を急いで講ずる
アレックス。
このまま行けば、大気圏外にまで放り出されかねない程の勢いとスピードであったからだ。
一方、遥か数千m下の地上においては、パムと黒贄が激戦を繰り広げていた。
羽の一本を、底面の直径が二〇m程もある巨大ドリルに変形させ、それを黒贄目掛けて突き出すパム。
これを彼は、一分間で十万にも達するレベルの速度で回転するドリル目掛けて左手を伸ばし、回転するそれに力尽くで触れ――
指と手、手首の力だけで、回転を無理やり止める事で難なきを得た。回転が、完全に止まっている。
円錐状の形が、誰の目にも明らか――な話ではない。ドリルをドリル足らしめる、掘削の為の『ねじれ』の形すらつぶさに観察が出来るレベルであった。
猛速で回転するドリルに片腕で触れている上に、その回転に晒されていながら、黒贄の腕の筋繊維や、手首や肘・肩関節には、まるでダメージがない。
筋肉は断裂一つ起こしておらず、関節や骨格にはまるで破壊されている様子がない。リアリズムを徹底して無視した、埒外の腕力だった。
グッとドリルを握る黒贄。
ムシャリ、と言う音を立てて、円錐状のドリルの先端部が、まるで食パンみたいにちぎり取られる。
むう、と唸るのはパムだ。当然の話、相手を確実に殺す為に、黒羽を変形させてパムが用意したものだ。生半な強度で設定している筈がない。
現に、この地球の中心角を包み込む、分厚い岩石で以って構成された多数の層(レイヤー)、その全てを紙みたいに貫けるだけの掘削力があった筈なのだ。
それが、これである。驚愕とか戦慄とか、そう言った感情を飛び越えて、苦笑いしか浮かばないパムだった。
パムの視界から、黒贄の姿が消えた。否、消えたのではない。
先端をちぎり取られるも、未だ円錐状のドリルとしての形を保っているそれの真下を、掻い潜れる程の低姿勢を維持し、突進してきているのだ。
自ら黒羽を変形させて作り上げた産物によって視界を遮られてしまっている事もそうだが、純粋に、黒贄の移動速度が速すぎる。
ただ左脚で地を蹴るだけで、易々音の速度を突破してくるのだ。二つの要因が重なった結果パムは、黒贄の姿を捉える事が遅れてしまった。
黒贄がタックルを仕掛けてきた、と気付いた時には、彼はもう間合いに入っていた。タックルは通常、突進時の姿勢が低ければ低い程上等なものになる。
相手の足に腕や身体を絡めさせ、バランスを崩し、寝技(グラウンド)に持って行く事が目的であるからだ。
だが黒贄の場合は、寝技に持ち込まれる前に、音の速度で足に突進を仕掛けられるだけでも、もう既に脅威である。
それどころか、足を取られた瞬間、今度は足の方が先程のドリル同様ちぎり取られてもおかしくないだろう。無論、彼を相手にマウントを取られる事など論外。
パムですら、黒贄に馬乗りの状態にされたら生きているかどうか、と弱気になる位には、彼我の近接戦闘の脅威の度合いで水を空けられていた。
そう考えれば、普通は避けるなり、逃げるなりの手段を選ぶ筈だ。彼女は、選ばなかった。しかしそれは、無謀な勇気、つまり、蛮勇から来た選択ではなかった。
漂わせていた黒羽を一枚、パムの胸部までを覆える程度の大きさの壁に変形させる。
但し、ただの壁じゃない。外側、つまり、黒贄と面する側に、乳児の腕ほどもあろう大きさの鋭い棘を携えた、いかにも、な壁である。
それを黒贄が認識した瞬間、逆に彼の方が、目にも留まらぬ速さで、飛びのいたのである。
「やはり、か」
タッ、と。地に足つけた黒贄を見て、得心したようにパムが言う。
思った通りだ。絶対に、針を攻撃しないとパムは推察していたが、真実その通りになった。
パムも、そして
アレックスやジョニィ、
レイン・ポゥも。
黒贄礼太郎というサーヴァントがある日突然攻撃を、何の気なしに避ける事を選ぶようになった……。
などとは、断じて思っていない。パムよりも寧ろ、
レイン・ポゥの方が、その実感を強く抱いている事だろう。
凛が令呪を用いて下した命令。
『この場にいるサーヴァントの攻撃を避けながら戦え』、が生きているせいだ。
令呪を用いた命令は、そのサーヴァントにとって不可能事或いは、命令の内容が余りにも抽象的なものであればあるほど、効力が低下すると言う。
黒贄に下された命令は、実に単純。攻撃を避けると言うとても具体的な命令。その上に、令呪で下された命令は
黒贄礼太郎にとって不可能でもなんでもない。
故に容易く、攻撃を回避する事が出来る。と言うより、アレだけの敏捷性と反射神経の持ち主で、攻撃を避け、受けに回らなかったのがパムにとっては不思議なぐらいだった。
恐らくだが、生半な攻撃は全部、黒贄には回避されてしまうだろう。
速度を前面にだした、真っ直ぐで素直な軌道の攻撃は、簡単に避けられよう。十重二十重に工夫を凝らしたフェイントを織り交ぜた攻撃も、同じ結果を辿ろう。
当たり前の話だが、これは脅威である。此方の攻撃が当たらない、換言すれば、ダメージを与えられないのであるから、殺し合いを制する事が出来る筈がない。
確かに勝つのは難しくなった。しかし――『生きて此処から退散出来る可能性は、倍以上に跳ね上がった』。
今までの黒贄は、パムから見ても不気味だった。この世の生き物と、戦っている。そんな実感が湧かない程、気味の悪い生き物だった。
戦いの常識、理の一切から、黒贄が外れた戦いをするからだった。命にダイレクトに関わる部位、急所目掛けての攻撃を、避けない。
結果、戦いの趨勢に直に直結する部位を欠損する。それでも、戦う。五体満足だった時と同等、いやそれどころか、その時以上の動きで、此方を殺しに来る。
およそ、あり得ない戦い方であった。様々な戦い方をする魔法少女を目の当たりにしてきたが、この黒贄以上に、奇異な戦い方をする者を、パムは知らなかった。
だが、今は違う。黒贄は今、攻撃を避け、防ぐ方向に舵を切っている。つまり、戦闘に於ける原則に則った戦い方をするようになったのだ。
こうなると、パムの常識で測れる存在になる。今までの黒贄であったのなら、壁に携えさせた棘で掌など貫かれても、お構いなし。
腕に棘のダメージを受けたまま、壁を攻撃し続け、破壊していた事だろう。現実には、黒贄は飛びのいて、ダメージを受ける事を避けた。
厄介さで言えば、今の黒贄の方が遥かに上だ。
だが、戦っていて安心感を覚えるのも、今の黒贄だ。遥かにやりやすいからである。
何故なら、撤退を余儀なくされた時の逃走ルートが、確保されたも同然だからだ。
今の様に、繰り出された攻撃を悉く避けて、防ぐ姿勢にある黒贄であるのならば、その避けて受けている間の時間で、パムはこの戦闘から離脱する事が出来る。
同盟相手の
レイン・ポゥ達を抱えたままでも、きっと余裕であろう。自身の黒羽は、それを可能とする。
黒贄が避け続けるしか選択出来ない程、矢継ぎ早に攻撃を繰り出し続ける事が出来るのだ。
いつでもこの戦いからは離脱出来る、と言う確信は心にゆとりを生む。勿論、この戦いからは絶対に逃げられない、と言う気負いも重要だし、
どちらかと言えばパムはそちらのような背水の心構えの方を好むのだが、時と場合にもよる。離脱する為のルートを確保する事も、また戦いだ。重要な要素だ。
黒贄の姿が、朧に霞んだ。
黒贄の姿が残像として残っていた所を、ライフル弾もかくや、と言う速度で、何らかの飛翔体が行過ぎた。
パムの優れた動体視力は、それが、人間の爪であった事を認めた。ジョニィである。
ACT3に潜行出来る時間の限界を迎えたジョニィが、渦の中の次元から、現実世界へと出現。その姿を露にしていた。
ACT4は、撃たない。いや、撃てないと言うべきか。
こと聖杯戦争における、ACT4の最大の弱点は、自然物を認識していないと撃てない事でもなければ、馬に乗っていなければ撃てない事でもない。
より、もっと。根源的な弱点がある。それは、馬の反射神経を凌駕する相手では、ACT4を撃つよりも前に馬を叩き殺されて発動出来なくなる点だ。
生前は、そんな弱点考えもつかなかった。SBRのレースの際は、馬に乗っている時間の方が長かったし、ACT4の能力に目覚めてからの、
スタンド使いどうしの戦いの大抵は騎乗している時が多かった。そして何よりも、人間の反射神経よりも馬の反射神経の方が優れている為、
彼らの判断に任せても問題ない部分が往々にして存在したのである。聖杯戦争では、それが出来ない。
馬よりも判断が速いどころか、馬よりも速く動ける存在が当たり前の様に跋扈している。この場にいる面子の殆どが、馬より速く移動出来る。
気軽に出せる筈がない。文字通りの必殺の宝具を有していながら、出す事が叶わない。内心でジョニィは、切歯扼腕の思いを燻らせていた。
黒贄に回避されたACT2の爪弾を放ちながら、ジョニィは地面に仰向けに、自らの意思で倒れ込んでいた。
撃つと同時に、その動作は実行されていた。確かな予感がしたからだ。攻撃を放てば、今度は、黒贄は自分の方に攻撃を仕掛けてくるであろうと言う予感が。
それは的中した。気付いた時には黒贄が、ジョニィの目の前に現れ、無造作に、左腕を振るっていたからだ。
凄い、速度だった。仰向けに倒れているジョニィの身体に、猛烈な風が叩きつけられる程の、振り抜きのスピード。残像が、目で捉えられない。
技術の体系が欠片も感じられない、乱雑な攻撃。なのに、達人の妙技の如く、何時振られ、何時腕を振りぬき終えていたのか。それが全く解らない。滅茶苦茶な速度だった。
黒贄の背後から、凄まじい速度でパムが飛び掛ってきた。
一mと半分程の高さまで飛び上がった彼女は、黒羽を変化させて作り上げた脚甲を纏った状態であり、足首から膝下までを覆ったそれを以って、
右のソバットを黒贄のこめかみに叩き込もうとする。こめかみに、彼女の足が触れた、その瞬間だった。
彼女の放ったソバット以上の速度で、黒贄は、蹴り足が回転している方向に、身体全体をグルリとターンさせる。
当然、蹴り以上の速さで身体を捻ったのだ。パムのソバットはスカを食う形となった。
ゾワッ、と。戦慄が、背骨の底から頚椎まで走りぬける感覚をパムは覚えた。
殆ど反射的に、羽の一枚を彼女の身体全体にフィットするような薄い皮膜状に変形させ、それを自らの身体に包み込ませた。
衝撃が、パムの左脛に叩き込まれた。隕石の直撃を思わせる、信じられないインパクトである。
横方向にグルグルグルグル、風車みたいに回転しながら、パムが数百m上空まで吹っ飛んだ。
三半規管がバカになりかねない程の回転を経ながら、パムは、左脚の激痛について分析していた。
折れている、脛の骨が折れ、赤い血で滑った骨が、肉と皮膚を突き破って外部に露出しているのが、よく見える。
殴られたのは解る。黒贄が、ソバットを回避するのに用いた回転、その力を利用し、パムの左脚をブン殴ったのは解る。
超至近距離で放たれる戦艦の主砲ですら、そのダメージの九割九分以上を無効化させる、あの黒い皮膜を以ってしてすら、これである。
纏ってなかったら今頃は、左脚が千切れ飛んでいたばかりか、衝撃波が身体全体を伝って行き、身体を断裂させて即死していた事だろう。
羽の一枚を、十m近い直径と、五m以上の厚みを持った、巨大なエアバッグに変化させたパムは、吹っ飛ばされている軌道上にこれを配置。
ボフッ、と言う音を立てて、パムは背中からそのエアバッグに衝突した。柔らかい感覚だった。ハイクラスのソファに使われているスポンジよりも、ずっと柔らかだ。
これ以上、上空に吹っ飛ばされる事はなくなったパムは、エアバッグを元の黒羽に戻させる。
折れた左脚を見る。派手にやられたな、と思いながら、黒羽を用いた治療に当たろうとしたその時、稲妻のような速度で、自分の真横を、
何かが急降下して行ったのを彼女は感じた。風圧が、彼女を叩く。黒羽を気流に変化させてその風圧を受け流させてから、パムはそれが通り過ぎていった下を見る。
その頃には既に、通り過ぎたものは黒いゴマ粒みたいな点でしかなかったが、アレはきっと、先程まで自分と戦っていた、
アレックスであった事だろう。
「急がねばな」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
猫の着地の様な柔らかさで、
アレックスは、ひび割れた地面の上に降り立った。
最初に足から着地し、次に膝、そして、手。この身体の部位の順番で接地させ、衝撃を六等分に分散してみせたのだ。
ある程度の高さからなら、ただの人間でも出来るだろう。だが
アレックスがこれを行って見せた高さは、高度一万と二五六一mなのである。
魔力を放出し、ブレーキとする事で、黒贄に投げられた勢いを殺させ、今度はその魔力をブースターとして用い、推進力を得た彼は、そのまま地上へと急降下。
音の六倍の加速を得て、地上へと降り立った。それだけのスピードで着地しながら、接地に用いた部位には傷もなにもなく。
いやそれどころか、着地した地面には土煙一つ立っておらず、ヒビの一つも刻まれていない。およそ人間には到底到達し得ない、体重操作の次元をも遥かに超えた、信じられぬ体術の冴えだった。
見た時には黒贄が、余裕そうにジョニィの爪弾を回避していた。
ジョニィはACT3を用い渦の中に潜行、黒贄目掛けてライフル弾めいた勢いの爪弾を放っていた。が、どれもこれも、かすりもしない。
黒贄は最低限度の動きだけで、これを回避しているのだ。身体を軽く半身にしたりなどして、だ。
攻撃こそ当たりもしていないが、ジョニィが出来る事としては、これが正しかった。ジョニィの身体では、黒贄の一撃など、掠っただけでももう死ぬレベル。
安全圏からの攻撃を保障する、ACT3に入ってからの攻撃は、余りにも理に叶ってる。それに――この怪物を迎え撃つのは、同じ怪物である
アレックスの仕事だった。
四つん這いに近い状態から
アレックスは、一瞬で、短距離走におけるクラウチングスタートの姿勢をとり始める。
その姿勢から、放たれた銃弾の如き勢いで、黒贄目掛けて突進をし始めた。振り向く黒贄、それと同時に、隻腕の左腕が、霞んでいた。
ドッ、と。肉と肉とがぶつかり合って生じた音とは思えない程、響くような重低音が轟いた。土ぼこりが、音の駆け抜けた方向に、波の様に走り抜ける。
アレックスの右ハイキックと、黒贄の左肘が、ぶつかった音だ。攻め手は
アレックス、受け手は黒贄。キックは、物の見事に、ブロックされていた。
黒贄が飛び退くのと全く同じタイミングで、
アレックスの身体から、青白い稲光が、蛇みたいに伸び始めた。
その稲光の触れる所、無事では済まない。大気は灼け、コンクリートは赤くドロドロに融解している。その電熱の故である。
アレックスの生身に触れていれば、黒贄の身体はその電流に焼かれていたろうが、見ての通り、予兆を読んでいた黒贄はこれを回避。三十m程離れた所に着地していた。
全くの無詠唱で
アレックスは、黒贄の頭頂部目掛けて、稲妻を叩き落とす。
悪魔の間ではジオダイン、と呼ばれる魔法である。それは真実、自然現象であるところの落雷そのもの。威力だけではない、その、速度ですらも。
黒贄はそれを、全く頭上を見ずして、
アレックスですら視認出来ないレベルのスピードで、雷の落下点から十m程左にズレた所に移動する事で交わして見せた。
雷すら避けるのか、と愕然とする
アレックス。
アレックスも、愚鈍じゃない。それまで攻撃を避けたり防いだりする事の意識が、余りも低かった黒贄が、
此処にきて人が変わったように回避を選ぶようになったのが、凛の令呪のせいである事は百も承知である。
令呪で下した命令の効力は、その命令内容が具体的であるかどうか、そしてそれが、そのサーヴァントにとって可能な事柄なのかどうかに比例する。
それを思えば、黒贄に対して凛が令呪を用いて下知した、相手の攻撃を避けろ、とは、具体的で黒贄にとって行う事など造作もない事だろう。
――だが。だが。
幾らなんでも、稲妻の速度を、しかも、全くそれが閃いている頭上を仰ぐ事すらせず回避するなど、令呪の効力の強弱と言う観点を既に超えている。
今、黒贄が稲妻を回避したのは、令呪によるものではないだろう。令呪はあくまでも、黒贄の行動の指針を固定化させただけに過ぎない。
つまり黒贄は――そもそも、光に限りなく近いスピードの攻撃や現象を、回避出来るだけのスペックがあったのだ。
あってなお、今まで実行に移さなかったのである。つまり今まで、わざとらしく攻撃を喰らってやると言うのは、黒贄にとっての制限……縛りのようなもの。
その枷・縛りを、黒贄自身が疎ましく思っているのか、それとも、楽しんでやっていたのかは、
アレックスには解るべくもない。
確かなのは、相手を撃滅すると言う観点から見れば、今の
黒贄礼太郎は間違いなく厄介であると言うことだった。
黒贄の姿が、大気と同化でもするかの如く消えてなくなった。そして同時に、
アレックスの姿も。
黒贄が先程まで佇んでいた場所の地面に、七色の薄い板のようなものが、高速で突き刺さった。
レイン・ポゥの放った虹である。
アレックスに対して敵ではないと言うアピールをするのと同時に、彼に恩を売るべく、漸く動き出した。その一環がこれだ。
アレックスと一緒に黒贄を攻撃し、追い詰める、と言う物なのだが、全く以って、攻撃が当たらない。
香砂会で戦った時よりも、格段に黒贄は強くなっている。確信に変わる、黒贄は、時間をおけばおく程、強くなる。
それが、一戦一戦と言う、戦闘一回と言うスパンなのか、それとも、召喚されてから現在までの、リアルタイムと言うスパンなのか。これは解らない。
どちらにしても確かなのは、あの恐るべきバーサーカーは、時を置かせれば置かせる程、厄介になると言う事であった。
レイン・ポゥが、黒贄達の姿を目で追い始めたのと全く同一のタイミングで。
巨大な質量を内包した、岩の塊どうしがぶつかりあうような、凄い音が響き渡って来た。音源の方に、
レイン・ポゥと純恋子が目を向ける。
影すらも追いつかぬ、と錯覚する程の速度で、
アレックスが右のストレートを放っている。
素人が放つような、予備動作が丸わかりの、テレフォン・パンチではない。
しっかりとした技術の体系に則った、無駄な動作と隙の削除を念頭に置いた動き。今で言う、ボクシングのそれに似た、弾丸どころかミサイルのような速度のパンチ。
これを黒贄は、
アレックスとは正反対、予備動作だらけで、かつ無造作に、左腕を動かして迎撃。音は、そのストレートと腕の一振りがぶつかった時のもの。
前までなら、自身の攻撃と黒贄の攻撃がぶつかっても、
アレックスは持ち堪える事が出来た。今回は、出来なかった。
腕が振るわれた方角に、
アレックスは、矢のような速度で吹っ飛んでいった。叩き込まれた力と言う面で、黒贄は
アレックスの上を行っていたのだ。
――クソ……!!――
アレックスがストレートを放つのに用いた右腕が、痺れている。無数の昆虫が這い回っている様な、厭な痺れであった。
吹っ飛んでいった
アレックス目掛け、黒贄が突進して来た。数千分の一秒遅れて、
アレックスは地面に足を付け、その状態でグッと脚に力を込める。
摩擦が、吹っ飛ばされた勢いを急激に殺して行き、そのまま、一気に急停止。これ以上吹っ飛ばされる事を防いだ。
が、その急停止した頃にはもう、黒贄が近づいていた。黒贄が攻撃を仕掛けよう、と言うタイミングで、
アレックスに助け舟が入った。
レイン・ポゥの虹と、ジョニィの爪弾である。異なる方角から離れたそれぞれの攻撃を、黒贄は、いとも容易く、身体を逸らす事で交わしてみせる。
余人には隙とも見えぬ程の短時間、しかも、最小限度の動きで以って行われたこの動作はしかし、魔人・
アレックスにとっては隙であった。必殺・致死の一撃を叩き込むには、十分過ぎる程の。
魔力で固めた剣を産み出し、それを右手で握った後、黒贄の脳天目掛けて突き出す
アレックス。
肉体で受けに回ろうが、剣を構成する魔力が内包する超高熱が、それによるダメージを与える。
回避に回ろうにも、その瞬間、
アレックスはその剣の魔力を爆発させる。爆風によるダメージを、当然相手は負う。どちらに転んでも、
アレックスとしては問題ない。
――予想外だったとすれば、だ
「!!」
右手で握る、魔力剣の感覚が、消失する。空気を握っている感覚しか、
アレックスにはない。
真実、剣が消えていた。いや、砕かれていた。黒贄が振るった左腕によって、だ。
そう、
アレックスでも予想外だった事があるとすれば、最早黒贄の腕力は、
アレックスが巻き起こす魔力の爆発すら超越した威力を叩き出すと言う事。
その通り、黒贄は、
アレックスが引き起こす筈だった、魔力剣の爆発を、その爆発以上の衝撃エネルギーを内包した、腕力による一撃で叩き潰したのだ。
無論、中途半端に衝撃を加えた程度では、剣は、爆発する。その爆発現象を、一方的に封じ込める程、最早、黒贄の腕力は達していたのだ。
「ヤバいッ」
そう認識した瞬間、両の腕は動いていた。
罰印に腕を交差させ、下腹部へと持って行く。十字受けだ。その瞬間、
アレックスの腹部に、戦車砲か、と思わせる程の衝撃が叩き込まれた。
黒贄の、右脚だった。左脚を軸にした前蹴り。やっている事は、それだけだ。
それ自体は宝具でもなければ、況して、魔力放出等の推進力を得た上で行われた一撃でもない。ただ、本当に、自前の筋力のよってのみ行われた蹴りだ。
にも拘らず、その蹴りの威力は、
人修羅と化した
アレックスにとってですら、必殺のものだった。
受けに用いた両腕が、折れた。折れた尺骨が肉を突き破って外部に露出、その痛みと事実を認識するよりも早く、
アレックスは蹴り足の伸びた方向に、亜音速で吹っ飛んで行く。ジョニィと
レイン・ポゥが気付いた時には、
アレックスの姿はこの場から消えていた。何百m、吹っ飛んで行ったと言うのか。
――え、コレマズくね……――
冷や汗をかくのは、
レイン・ポゥである。
その戦闘スタイルの特質上、強いサーヴァントや、話の解るサーヴァントとコネクションを持っていた方が、彼女は最大限の実力を発揮出来る。
要はコバンザメなのだが、実際には強い動物の腹にくっ付いているだけの彼らとは違い、
レイン・ポゥはサーヴァントと関わりを持つ為に、
常にその為のそろばんを脳内で弾いているのである。そしてその行為は、選択肢一つ誤れば即、死が待ち受けているこの戦いに於いても行われている。
そのそろばんの計算が、狂った。
この時、
レイン・ポゥがナシをつけようとしていたのは、
アレックスであった。
正直に言えば、胡散臭さのようなものは感じていた。彼女の卓越した人間観察能力と、今まで小狡く生きてきた事で培われて来た第六感が告げていたのだ。
アレックスは、ヤバいと。何を以って危険なのかと言われれば、何処か精神性に危うい所があるからだ、としか言いようがない。
人間以上の強度と、鉄の如き硬度を保有していながら、何処か砂岩のような脆さを窺わせる、そんなメンタル。
それが、
レイン・ポゥから見た
アレックスの心だ。だが、それが何だと言うのか。誰彼構わず喧嘩を吹っかける血の気の多い魔王だとかお嬢様に比べれば全然マシ。
戦略・戦術について多少の造詣があり、合理を優先出来る程度の理性を保有した、恐ろしく強いサーヴァント。
レイン・ポゥがお近づきになりたい。そう思うのも無理からぬ話だった。
その
アレックスが、コンディションのメーターが一気に死亡のそれにまで振り切れるレベルの一撃を貰い、ふっとばされた。
そうなればこの場に残されたものとは、誰か?
レイン・ポゥと、アーチャーのサーヴァント、
ジョニィ・ジョースター。
弱いサーヴァント達である。勿論、本当に荒事の心得のない、喰われるだけの餌でしかないサーヴァントと言う訳ではない。黒贄と比較すれば、余りにも無力なだけである。
レイン・ポゥは今回を含めれば三度に渡り黒贄の暴れぶりを目の当たりにしている。
その三度のケースから抽出されたデータを纏め、そのデータから導き出した結論としては、自分では黒贄には絶対に勝てないと言う事だった。
元々
レイン・ポゥの魔法少女としての能力は、癖がない。真っ直ぐな能力だ。その真っ直ぐな能力を、
レイン・ポゥは努力と、人間性を偽る演技で今までカバーして来たのだ。
黒贄にはその全部が通用しない。猫被ってもあの狂人は、知らぬと言わんばかりにこっちを叩き殺そうとしてくるし、それに抵抗しようにも、
黒贄の身体能力はパムをも優に上回るのだ。極め付けに、何をしようとも死なないと来ている。勝てる展望が、何一つとして浮かんでこなかった。
ではその勝率を底上げする為に、この場にいるジョニィと共闘して勝ちの目を拾えるのか、と言えば、
レイン・ポゥは出来ないと判断した。
単純な話で、ジョニィが、自分より弱いと思っているからだ。人間観察で推察出来るのは、何もその人物の性格だけじゃない。
身体能力も、普段の立ち居振る舞いから推測可能である。で、推測した結果は、到底黒贄と渡り合える存在ではないと言う事だ。
誰が見ても、普通人よりも少しマシ程度のスペックしかない。これでは共闘するだけ無駄である。どころか、足を引っ張る可能性すら危惧される。恐らくジョニィは、
アレックスに対して寄生して勝利を拾おうとした、漁夫の利狙いだったのだろうと
レイン・ポゥは考えた。やろうとしていた事は、自分と同じ、か。
「……この期に及んで、策を弄せる、と言うのなら大した肝の大きさですってよ、アサシン」
純恋子だって馬鹿じゃない、この状況が何を意味するのか、解っている筈である。
解っていてこの発言なのだから、やはり大物と思わざるを得ない。万策尽きた事は、誰の目から見ても明らかである。
ならば普通は尻尾巻いて逃げ出すと言うような考えに至ろうと思おうが、純恋子にはその考えはなかった。考えるだけ無駄であったからだ。
背を見せずに戦え。暗に彼女はそう言っているのだろう。実際この瞬間に限って言えば、
レイン・ポゥは、純恋子の考えに同調出来る。
逃げ切れると思えないからだ。背を見せたその瞬間、叩き潰されると言う確信が、今の
レイン・ポゥにはあった。それだけ、彼我の間の戦闘力の差は絶対的なのである。
ならば、真正面から戦うか、凛を探して彼女を殺すかをした方が余程生き残れる可能性がある。……尤も、逃げた時の生存確率と、逃げずに立ち向かった時の確率の差など、小数点程度の違いでしかなかろうが……。
「腹括るのは慣れてんだよ、メカゴリラ」
全てを諦め、そして覚悟を決めた声音でそう言ってから、腰を低く落として構える
レイン・ポゥ。
ゆらり、と。陽炎めいたゆっくりとした動きで、しかし、知っている者には途方もない威圧感を与える、不気味な雰囲気を醸しだしながら。
黒贄礼太郎は、
レイン・ポゥの方を見つめ始めた。背骨が、凍るような恐怖を、
レイン・ポゥは覚える。
「良く生きておいでで」
魔法少女の観点から見ても、生きてはいられない程のダメージを負っていながら、やはり、黒贄は何が面白いのか解らない微笑みを浮べている。
だが、笑みに反して、瞳は全く笑っていない。まるで瞳だけが、有機物で構成された肉体の中にあって、唯一、安っぽいガラス球に置換されているような、
無機的な光を宿した瞳だ。冷気に当てられ曇ったような黒瞳は、数時間前に殺し損ねた虹の魔法少女をジッと見つめていた。今度こそは、今度こそは。そんな意思が、見て取れるかのようだった。
「……」
レイン・ポゥは答えない。答えるだけ無駄だと思っていたからだ。
此方の望むような、まともなやり取りが返ってくるわけでもなし、そもそも、どうせ答えたところで、黒贄の場合は最終的に彼女を殺す事、この一点に帰結する。
なら、今更会話などして、何の意味があるのだろうか。
「貴女程の魅力的な方です、私以外の殺人鬼がもう殺してしまっているんじゃ、と不安でしたが……。いやはや、流石は『馬鹿じゃないのアンタ? 言う訳ないっしょ』さん。生き残っていてくれて、何よりです」
残った左の片腕に、黒贄は力を溜めて行く。
彼の場合は、腕一本どころか、四肢を全部切除してもなお、脅威の度合いが低下しないのではないのか。
レイン・ポゥはそう思う他ない。
両腕を失ってなお、黒贄の恐ろしさは、自らのそれを容易く上回るだろう、と。本気で推測していた。
「ああ、嬉し――――」
其処まで黒贄が言いかけた瞬間、彼の姿が、朧と霞んだ。
何処に移動したのか、
レイン・ポゥは目で追える。移動したのではない、『吹っ飛ばされた』からである。
レイン・ポゥから見て左方向に、弾丸もかくやと言う勢いで、直立した姿勢を維持したままに、凄い速度で彼女から遠ざかって行く。
「なっ……!?」
先程黒贄が
アレックスにして見せた、蹴りを行い相手を高速で吹っ飛ばす、と言うその行為。
まさかそれを、今度は黒贄がやられる羽目になった。しかも、その吹っ飛ばされた方法と言うのが、彼自身がやって見せたのと同じものである事。つまり、『蹴り』であったと言うのだから、奇妙な縁であった。
「……」
黒贄が先程まで佇んでいた地点には、バトンタッチと言わんばかりに、一人の女性が立ち尽くしていた。
蹴り足として使った右脚を戻しながら、
黒贄礼太郎をフロントキックでこの場から蹴り飛ばした女性は、静かに。
レイン・ポゥと
ジョニィ・ジョースター達を一瞥するのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その女性を見た時
レイン・ポゥとジョニィは、彼女が人間である等と欠片も思わなかった。
姿形だけを言うならば、成程、確かに人間である。緩くウェーブの掛かったプラチナブロンドの髪を後ろで縛った、余りにも整いすぎた顔立ちの美女。
パムと同じで、可愛いと言うよりは美人と言うか、麗しいと言うカテゴリに該当する手合いの女性だった。
身に纏う青いスーツのデザインに、遊びがない。肌の露出も抑えられ、フォーマルな場に出て行く事を想定した、TPOを徹底的に遵守する為のデザイン。
カッチリとしたお固い印象を受けるが、その固さがまた、生来のものである女性の美しさを、上手く引き締めさせていた。
絵師に美女を描けと命令すれば、モデルに選ばれるのはこの女だろう。何を着ても似合おうか、そんな、ズルい女性が、其処にいた。
――人間じゃねぇ……――
レイン・ポゥの体からドッと冷や汗が噴き出て来る。
何だ、目の前のあの女は。今しがた純恋子が念話で、【ステータスが目視出来ない】と告げた事から、高確率でサーヴァントでない事が予測される。
無論、ステータスの見える見えないと言う事実は、サーヴァントやマスターの推察材料足り得ない。
ステータスなど、用意に隠蔽も改竄も可能であるからだ。だからステータスの目視は、一種の基準にこそなりはすれど、絶対の信頼を置けるものではない。
レイン・ポゥが目の前の美女を、サーヴァント以外の存在だと思った理由は単純明快。霊核を魔力が覆う事で肉体と成す、つまり、
身体の構成要素が全て魔力で編まれているのがサーヴァントであるのに、目の前の女性は、完全に、生身。真実本当の肉体を持っているのである。
だから彼女は、サーヴァントではあり得ない。何故ならば、この世界に物質的に確かな実在性を持っているのだから。
だからこそ、恐ろしいのだ。
サーヴァントが強いのであるのなら、それは、納得が出来る。サーヴァントとは、強くて当たり前だからだ。
この世に招聘された、過去或いは未来に存在している、するとされる英霊達。それがサーヴァントであるのだから、程度の大小こそあれ、強いのは当然の話。
目の前の女は、何だ? サーヴァントこそが強者としてのヒエラルキーを独占するこの<新宿>の中にあって、サーヴァントに非ずして、『
レイン・ポゥの遥か上を行く強さを持った』この女性は。
自身以上の怪物が跋扈する魔法少女の世界で、伊達に綱渡りを続けていない。相対した存在が、自分より強いのか弱いのか。その嗅覚に、
レイン・ポゥは優れる。
目の前の存在は、桁違いに強い。単純な身体能力は、どんなに低く見積もってもパムと同等。つまり、真正面からの戦いでは先ず負ける。
それだけでも恐ろしいのに、真に驚愕すべきはその魔力量だ。桁違い、と言うか、底なし、と言う単語が頭を過ぎった位だ。
サーヴァントが元々保有している、活動が最低限保障している程度の魔力量。これは、人間換算で言えば、凄まじい量に該当するのだが、
平然と、あのプラチナブロンドの美女はそれ以上の魔力を保有している。コレに比べれば、
レイン・ポゥのマスターである純恋子の魔力量など、コップ一杯分程度。
あの女――
マーガレットの魔力量は、まさに、『大海』。どんなトップサーヴァントを何体同時に使役しても、問題がない。最早そのレベルの量であった。
「……素晴らしい」
心の琴線に触れた、名画にでも目の当たりにしたような、感動に打ち震える声音で、純恋子が呟いた。
……この後に続きそうな言葉が、嫌でも思い描ける。そして、それを実行に移させたら、ダメだ。純恋子が、死んでしまう。
「……君、は……」
呆然とした様子でジョナサンが言った。
彼もまた、
マーガレットがサーヴァントでなく、マスターである事を見抜いた。
彼の場合は、位置関係上目視する事が出来る、彼女の左手甲に刻まれた令呪によるところが大きいが。
死線を幾つも掻い潜ってきた、歴戦の波紋戦士であるジョナサンもまた、戦慄を隠せない。
屍生人などとは格が違う。吸血鬼などとはワケが違う!! サーヴァントをも、超越する!! ジョナサンは確信し、同時に恐れ戦いている。
マーガレットが醸す、計り知れぬ程の、戦闘能力に。
「……この程度の強さのサーヴァントに、掻き乱されていたのね」
ややあってから
マーガレットの口から放たれたのは、見下すような言葉だった。
込められた感情は、ゾッとする程に冷たい。いや、冷たさだけではない。落胆の感もまた、其処には秘められていた。
「如何やら……此処にいるマスター達には、サーヴァントは過ぎたおもちゃのようね」
トッ、と。音を立てて、右の爪先で軽く地面を小突いた瞬間、
マーガレットの身体が、バネ仕掛けの様に跳ね上がった。
この、力学的な作用など一切見込んではいないであろう動作一つで、彼女の体は三m程も浮き上がっただけでなく、
重力をも超越し、その高度で浮遊をし始めたのである。
レイン・ポゥは気付いた。その浮遊の動作に、魔力が一切絡んでいないと言う事実に。つまりこの能力は、
マーガレットにとっては、素で行える芸当に過ぎないのだ。
「そのおもちゃ、取り上げて上げるわ」
「聞き捨てなりませんわね」
そう言ったのは、純恋子であった。「またコイツは……」、と言う様な顔で彼女を睨めつける
レイン・ポゥ。
しかし純恋子は、その目線を一切無視し、ズイ、と。従えている虹の魔法少女の前を往き、決然たる輝きをその双眸に込めて、口を開いた。
「そちらは、サーヴァントの事をおもちゃか、サーヴァントと言う名が指し示している通り、文字通りの奴隷扱いをしているのかも知れない。ですが、私は違いますわ」
「何が、かしら?」
「私は、アサシンの事を相棒であり、従者であり、パートナーであると見ておりますの。物扱いした事などは、一度たりとてありません」
「ですので――」、と純恋子が言った瞬間だった。
純恋子は、右の義腕の上に被せていた、人間の腕と誤認させるスキンを剥ぎ取り始めた。
スキンで隠して装備させていた、ライフル状の銃口。これを
マーガレットに合わせてから、彼女は言葉を紡いで行く。
「撤回なさい。おもちゃ、と言う物言いを」
その言を、
マーガレットは何事もないような態度で受け止めていたが……。何故かその後で、皮肉気な笑みを浮べ、その表情のままにこう言った。
「羨ましい限りね。そう言う、素敵なサーヴァントと契約出来ていて」
純恋子達の方と、ジョナサンの方。交互に一瞥する
マーガレット。
ジョナサンの前に立っているジョニィは、油断なく
マーガレットの頭部に人差し指を向けている。爪の弾丸は、いつでも放てる体勢にあった。
「どうやら、双方共に手放す気はないようね」
「淑女の頼みには応えて上げたい所ではあるが……限度と言うものがある」
ジョナサンの答えも、無論、否。
彼としても、ジョニィの事をおもちゃ呼ばわりされた事には、思うところがあったようだ。瞳に、冷たく鋭い光が宿っていた。
「なら仕方がないわね。実力行使、とさせて貰うわ」
その言葉と同時に、
マーガレットの姿が、神速、とも形容出来る程の速度で掻き消えた。
目で、誰も追えなかった。気付いた時には
マーガレットは、パンチやキックが届く間合いにまで、純恋子の所まで急接近。
ライフルを取り付けた彼女の右義腕の肘を掴み、単純な握力で、義腕の軌道部分や導線配置の要となる部分を握り潰して破壊した。
人の身では、最早あり得ない握力だった。銃の発射機構を備えていると言う都合上、純恋子の義腕は、通常の倍以上の高耐久力と高硬度を誇っていると言うのに。それを、麩菓子か何かの様に、砕いて見せるなど。
レイン・ポゥが驚愕と同時に、動いた。いつの間に接近を許してしまった……?
我が身の不覚を叱責しながら、虹の魔法少女は、純恋子の右義腕を上腕部分から、虹のギロチンを落下させる事で切断。
義腕を掴んで純恋子を拘束する
マーガレットと切り離させた後で、純恋子を突き飛ばし、目の前にいる恐るべき危険人物から距離を取らせる。
それと同時に、
マーガレット目掛けて、一m程の長さに延長させた虹の剃刀を、高速で振り回す。此処までに掛かった時間、凡そ一秒と半ば。
この間、
レイン・ポゥは虹の刃を五度、振るっていた。頚椎、胴体――特に心臓や肺等が集中している部位――、肩と脚の付け根。
その部分を狙って振るい、その全てが、
マーガレットの身体に吸い込まれるように、見事に命中した。そしてその全てが――すり抜けた。
「!!」
目を見開かせる
レイン・ポゥ。
すり抜けた、と言う言葉は比喩でも何でもない。本当に、攻撃が透過するのだ。
人の意思を持った水か何かでも、相手をしているかのようだ。いや、水ですらない。水だとて、斬れば、液体を斬ったと言う感触が伝わるからだ。
マーガレットにはそれがない。本当に、空気や霞を斬ったような手応えしか、伝わってこないのである。
マーガレットの左腕が、霞んだ。
重力が反転し、身体の中身が全て浮つくような恐怖感を覚える
レイン・ポゥ。
それと同時に、彼女の鳩尾に、砲弾を思わせるような重い一撃が叩き込まれた。
ゴゥンッ、重く響くような音が、
レイン・ポゥの腹部から生じ、それと同時に凄い勢いで彼女は吹っ飛ばされた。
優に四十、五十m。とても、人間の膂力で殴り飛ばせる距離じゃない。
マーガレットが人間でない事の証であった。
「かっは……!!」
よろめきながら立ち上がる
レイン・ポゥ。
サーヴァントと言う存在の絶対則として、彼らは、神秘を保有しない攻撃では絶対に身体を害せないという物がある。
この<新宿>に於いて、マスター達が最も接する機会の多い神秘とは、魔力になろう。
その通り、魔力を内在、或いは介さない干渉手段では、サーヴァントの身体に傷を付ける事など不可能である。
極端な話、銃弾は勿論の事、戦闘機の機銃の乱射や、果てはミサイルだとて、其処に魔力(≒神秘)が無ければ、サーヴァントを殺せないのだ。
この特性があるが故に、サーヴァントはマスターに対して有利な位置に立てるのだ。マジックアイテムの類でもなければ、ナイフや弾丸を用意しても、
ダメージなど与えられず、よしんばそう言う類の武器を所持し、魔術に覚えがあったとしても、対魔力を備えたサーヴァントならそれらの利きも目に見えて悪くなる。
マスターがサーヴァント相手に勝てないと言うのはこう言うカラクリがあるからなのだが、それなのに、
マーガレットが
レイン・ポゥにダメージを与えられたのは、何故か?
無論、答えとしては、
マーガレットがサーヴァントに干渉出来る措置を施していたから、殴り飛ばせた。これが大きいのだろう。
実際問題として、魔術に覚えのあるマスターは、如何やらこの聖杯戦争において珍しくもなさそうなのだ。なら、この点については、驚く所はない。
問題なのは――『
レイン・ポゥがコスチュームの下に忍ばせていた、アンダーシャツ代わりの虹の板を、
マーガレットが殴打で真っ二つにした』、と言う点だ。
レイン・ポゥの持つ固有の魔法であり、サーヴァントの身の上では宝具扱いにもなっている、虹を生み出すこの能力。
特筆する点は切れ味の凄さだけでなく、その耐久力も含まれる。その通り、通常は、破壊されない筈なのだ。
石畳を煎餅の様に真っ二つに出来る魔法少女の脚力で地団駄ふんでもビクともせず、戦車の砲弾は勿論、ミサイルの直撃を受けても、問題ない。
それが、
レイン・ポゥの持つ虹の耐久性能なのだ。彼女が全幅の信頼を置く、この耐久力を持った虹を……何故、
マーガレットは壊せたのだ?
サーヴァントが砕くのであれば、まだ納得が行く。黒贄などは現に、容易く破壊して見せたのだから。だが、マスターに壊されるとなると、話は別だ。
「冗談だろ……ッ!!」
胃が裏返るような恐怖を覚える。
マスターサイドの人間でありながら、自らの生み出した虹を破壊する膂力。其処から演繹出来るモノは、一つ。
あの女性……
マーガレットは、単純に、
黒贄礼太郎に匹敵するレベルの膂力を持った怪物であると言う事。
そしてこの攻撃に、彼女は神秘を纏わせられる。つまり、サーヴァントに直接攻撃を仕掛けられるのだ。これ程、恐ろしい話もない。
現に
レイン・ポゥは、防弾チョッキ代わりとして仕込ませていた虹の板がなかったら、殴られた箇所から胴体をちぎり飛ばされ、即死していたのだ。
しかも、マスターでこれなのだ。令呪が刻まれていると言う事はつまり、従えるサーヴァントも健在である事を意味する。
重ねて言う、マスターがこの強さなのだ。一体、どんな怪物を、
マーガレットは従えていると言うのか……。レイン・ポゥは、頭が痛くなり、気が遠くなる程の思いで、
マーガレットの事を睨みつけていた。
レイン・ポゥの方に冷たい目線を向ける
マーガレット。彼女のマスターである純恋子など、眼中にもない。
御前だけを必ず殺す、そんな意思が、青いスーツの美女の瞳から横溢していた。
空に浮き、
レイン・ポゥを見下ろす
マーガレットの胸部を、何かがスルリと。高速で通り抜けた。爪の、弾丸。
弾道から予測するに、間違いなくそれは、ジョニィの放った爪弾であった。やはり、偶然ではない。
マーガレットは、攻撃を素通りさせられる何かを持っている。
サーヴァントレベルの攻撃ですら、一方的に無効化させられる手段。
マーガレットは、最強の矛と盾を、同時に持っていると言う事なのか。
「どう言う事だ……」
ジョニィが呟く。釈然としない様子だ。
放った爪弾は、ACT2。如何な物理的な頑強さを伴っていても、それが物理的に接触可能であるのならば、接触部に弾痕を刻み込め、
其処から、銃弾が貫通したのと何ら変わりない程のダメージを負わせる、強力なスタンド能力である。
この能力は、物理的な干渉力をもったもの、つまり、物理的にこの世に存在するものであるのなら、等しく弾丸の損傷と損壊を与える事を意味する。
――幽霊か?――
ナンセンスな話すぎて、笑えない。
そもそも、サーヴァントこそが幽霊の延長線上の存在ではないか。ジョニィは今も、自分がサーヴァントであるという意識が薄い。
それでも、事実は事実だ。サーヴァントが幽霊の存在を疑うなど、馬鹿馬鹿し過ぎるにも程がある。
「手の内は尽きたようね」
少なくとも
レイン・ポゥについてはそうだ。
ジョニィについては、殺せる、と言う確信を、他ならぬ彼自身が抱いている。そのメソッドを、今此処で実行出来るのか、と言う事は抜きにしてだが。
人の形をした『死』そのものみたいな女が、
レイン・ポゥに目線の照準を合わせる。
「死ぬ」、頭にそんな考えが過ぎったのと同時に、
マーガレットの重心が移動を始めた。攻める為に、ではない。逃げる為に、だ。
トッ、と軽やかにバックステップを刻んだのと同時に、凄い勢いで上空から、無数の剣が降り注いで来たのだ。
剣の形は画一的で、柄のデザイン剣身の長さまで全て同じ。色に至っては皆、墨に浸して置いておいたような、黒一色。
黒塗りのロングソードは三十本程、地面に墓標めいて突き刺さっていたが、本命の
マーガレットが串刺しになってない事に気付いたか。
自分の意思でそうしたかのように、剣その物がパリンと軽い音を立てて砕け散った。
剣そのもののカラーリングを見れば、この攻撃が誰の手によるものなのかは、一目瞭然。
レイン・ポゥは勿論、ジョニィやジョナサンですら、攻撃した者の正体を理解していた。
「……人か? 貴様」
パムにしては、その声には覇気がなく、疑問気な様子がありありと見て取れる。
彼女程の見識を以ってしてすら断定するのが難しい程に、
マーガレットと言う女性は、その在り方の根底から混沌(カオス)を極めているのだ。
人でない、と言われても納得出来る。では、だったら何なのかと問われたら、全く解らない。
マーガレットはそう言う人物だった。
「それはこっちの台詞よ。貴女、本当にサーヴァントなの?」
一〇m上空を浮遊するパムに対して鋭い目線を送りながら
マーガレットが言った。
パムが
マーガレットの力量を瞬時に見抜いたように、
マーガレットもまた、パムの正体を見抜いていた。
マーガレットから見たサーヴァントと言う存在は、朧げだ。根本的に霊の属性を宿した存在である為、実在性があやふやな為である。
しかしパムは違う。パムは明白に、この世界に正しい意味で形と質量を伴って君臨している存在なのだ。存在が、余りにも確固とし過ぎている。
受肉している事を、
マーガレットは即座に理解した。だが、どうやって?
マグネタイトを寄代として物質世界に君臨する悪魔。術者の精神力や心のチカラを糧とし、ヴィジョンとして一時的にこの世に降臨させられるペルソナ。
こう言った、強力な存在であるが故に、物質世界に来臨するには制約が多すぎる存在は、その制約の故に、物質世界に完全な形で留め置かせる事は困難を極める。
サーヴァントであっても、その原則は変わらない筈。なのに、パムは今明白に受肉している。これが、妙だ。この<新宿>に於いて、サーヴァントを受肉させ得る手段など、聖杯の奇跡以外にあり得ないと言うのに……。
「サーヴァント、と言う事になっているらしいぞ」
「答える気はない、と解釈して良い訳ね?」
「問題はない」
「そう。じゃあこの世から消えなさい」
マーガレットが、まるで死刑の宣告か何かを想起させるような、冷たい声音でそう告げたその刹那。
光と見紛う程の速度で、
マーガレットが立っている場所のすぐ傍に、青白い光の本流をたばしらせながら、人型のヴィジョンがその姿を現した。
白く光り輝く鎧を着込んだ、顔自体が光り輝いていると見える程の美青年。しかも単なる優男と言う訳ではない。
キリリとしたその顔つきと、鎧の下からでも解る程の筋肉の量、何よりもその手に握った、白銀に輝く長槍が。
戦士の威圧と説得力を見る者に与えるのだ。名を、クーフーリン。凡そ無限に等しい総数のペルソナを操る
マーガレットが特に好んで使うペルソナの一体だった。
「スタンド――」
ジョニィが何かを叫びかけたのと同時に、
マーガレットが呼び出した若武者が、その手に握った槍を、魔王を気取るが如く此方を見下ろすパム目掛けて、放った。
それが果たして、人の形をした『もの』の手によって放擲されたスピードであると、果たして誰が信じられようか。
得手、クーフーリンの手から離れた瞬間、その槍は弾丸の速度を越え、音のスピードを抜き去り、地球の引力圏の井戸を振り切る速度に至る。その速度に到達するまで、十分の一秒も、掛かってない。
さしものパムの顔からも、余裕が失せた。
槍の速度に驚いたのではない。内包しているであろう威力にも、戦慄の念はない。パムなら実際、再現は容易だ。
但し――これがマスター、サーヴァント以外の存在の手によるものとなれば、話は別だった。
「――!!」
黒羽が棍棒に似た形に瞬時に変形、それが猛然と振るわれ、クーフーリンの投げた槍に衝突。
槍の穂先には無数の小さな槍が収められており、戦場では穂先が炸裂しその無数の小さな槍が相手を刺し貫いた、そんな伝説を知っていれば、
パムのような対処方法は通常取らないだろう。知っていたとて、パムはこんな手段に出たろう。単純な理由だ、その程度の攻撃では、自分の命は取れないと思っているからだ。
槍と棍棒が衝突。
明後日の方角に槍は、中頃から圧し折れながら吹っ飛ばされて行く。それを認識した瞬間、パムは
マーガレット目掛けて急降下する。
パムも多人数を相手取る時に行うメソッドだが、黒羽に自律性と簡易的な意思を持たせて、取るに足らない雑兵を相手させると言う手段がある。
マーガレットが呼び出したあのクーフーリン――ペルソナは、とどのつまり、そう言うものだろうと彼女は認識していた。
そう言う自律兵器を創造する時、パムはなるべく凝った形にしない事にしている。すぐに形成出来る位には適当なデザインでありながら、
戦闘に明白に特化しているであろう事が伺えるレベルの機能性を両立させたものを創造する。
マーガレットのペルソナにはそれがない。
あの美貌、あの鎧の装飾の細かさ。どれも息遣いすら感じられる程にリアルだ。
マーガレットは凝り性なのだろう。
だが、そういった凝った物を動かすには、労力が要る。無論、
マーガレットレベルの実力なら、その労力など誤差などと言う言葉すら使う事が憚られる、
そのレベルで僅差なのだろう。だが、その僅差に、付け入る隙がある。その僅差の間隙を押し広げる手段を、パムは、圧倒的な速度と攻撃力が生む暴力によって抉じ開けると言うやり方に見出した。
羽の一枚が泡の様に弾けて消える。掛かった時間は、千分の一秒。
黒羽は形のない、しかし、指向性を伴った『気流』に変化していた。その気流に乗って、パムが
マーガレットの下まで急降下。
音の速度を容易く越える程の速度で
マーガレットの下に迫るパムは、右脚を伸ばし、伸ばした足で
マーガレットの麗貌に蹴りを叩き込もうとしていた。
左脚は使えない、黒贄に折られた傷が癒えてない。直撃すれば、その蹴りは人間の首を胴体から離れさせるだけの威力がある。いや、離れると言うよりは……粉々にする威力、と言うべきか。
マーガレットは眉一つ動かす事無く、パムの蹴り足に右掌を伸ばした。
伸びきった
マーガレットの腕と、同じく伸ばしきったパムの右脚が、激突。
空間その物が、波打った。そうとしか認識出来ない程に、大気が揺れた。人体と人体の衝突の際に生じたものとは思えぬ程の大音が、
マーガレットの掌とパムの脚部の接合点から生じだし、その音に追随する形で、衝撃波が二名の周囲を駆け抜けた。
「このバカッ!!」
一喝する
レイン・ポゥ。最強の魔法少女の一角であるパムと、
レイン・ポゥの虹すら破壊する
マーガレット。
両名の膂力による一撃が衝突した事による衝撃波は、サーヴァントを軽く吹っ飛ばして余りある威力を内包する。
そんなもの、マスターが食らってしまえば一溜まりもない。少なくとも、今の純恋子では冗談抜きで死にかねない。
虹のバリケードを純恋子と自分の前に展開し、迫る衝撃波を防御しようと試みる。試みは、コンマ十分の一秒の差で成功した。
台風の前の雨戸か何かみたいに、ガタガタとバリケードは震えだす。判断がもう少し遅れていたら、人の体の骨格を全て粉砕するだけの威力のショックウェーブが、
叩き込まれていたのだと思うと、ゾッとしない話だった。
一方、防ぐ術に恵まれなかったのは、ジョナサンとジョニィの方だった。
ジョニィは、あのSBRを走破した事による天性の勘で、反射的にACT3を発動、爪弾を自らに叩き込み、渦の中に潜行する事で衝撃波をやり過ごした。
ジョナサンの方はと言えば、弾く波紋を身体に纏わせ、防御の姿勢を行う事で衝撃に備える事しか、出来なかった。
「ぐぅっ!?」
結果が、これだ。
身長一九五cm、体重一〇五kg。それが、
ジョナサン・ジョースターの身体つきである。異の挟みようがない巨漢である。
肥満体ではない。寧ろ、ウィル・A・ツェペリの下で血の滲むような波紋の鍛錬を積んだせいか、脂肪分など同年代に比べてずっと少ない方なのだ。殆どが筋肉の重さだ。
その、大男のジョナサンの身体が、風に吹かれる木の葉か、或いは、子供が無造作に投げたゴムボールかの如くに、吹っ飛んでいる。
弾く波紋の効果の威力は、絶大であった。ジョナサンの現況を見る限り、波紋が全く意味を成していないと思おうが、実際はこれ以上となく機能している。
大地に踏ん張り衝撃波をやり過ごすなど絶対に不可能と考えたジョナサンは、逆に、弾く波紋を纏わせて、衝撃波と衝突。
逆に、『自分が勢い良く弾かれる事によって、本来舞い込まれる筈だったダメージを大幅に減退させる事』に成功したのだ。
弾く波紋は使い方によっては、弾かれる波紋にもなると言う訳だ。そうしていなければジョナサンの命運は此処で潰えていた。恐ろしく、正しい判断なのだった。
「お前……」
そしてパムの方は、
レイン・ポゥの一喝も、ジョナサンとジョニィの行方すらも気にならない程驚いていた。
防がれている。
マーガレットは、パムの放った裂帛の蹴撃を、腕の一本で容易く受け止めて見せた。
パムの能力の汎用性と出力を考えれば、彼女が放っていた一撃など、最奥どころか序の口のものである。が、間違ってもそれは、余人に受け止められる物ではない。況して、魔法少女ですらない存在になど……。
蹴りを防ぐのに使っていた
マーガレットの右掌が、這いずり回る蛇の如く、滑らかに動き始めた。
マーガレットの右腕は正しく、獲物を狙う大蛇の如くに、そのターゲットを定めたのだ。パムの足首。其処に巻き付く為に。
パムの右足首を、
マーガレットの右手が捕えた。圧し折るも良し、単純な握力で握り潰すも良し。
マーガレットの手には、それを可能とする力があった。
「っ……」
ヌルッ、と、パムの足首を掴んだその瞬間の事だった。
上手く、掴めない。滑るのだ。指、掌。そのグリップ力が全く上手く働かない。まるで、潤滑油か何かでもパムの身体に塗られているかのような――。
トリックを認識した瞬間、
マーガレットの姿が、まるで初めからその場になど存在していなかったかのように消滅する。
その、
マーガレットが消滅した地点を、巨大な剣身が超高速で横切った。サーベルの様に湾曲した曲刀で、吸い込まれるような黒一色の剣身。
パムが黒羽で変形させた、刃渡り二mにもなる魔剣である。
マーガレットの姿が消えてなければ、彼女の首を胴体から分離させられたのだが、ままならないものだった。
「お前、本当に何者だ?」
パムがそう告げた瞬間、
マーガレットが姿を現す。パムの真正面一〇m先で、スッと背筋を伸ばして直立している。
「力を管理する者」
短くそう告げた
マーガレットに対して、パムは、失笑を以って返した。
「驕るなよ。何を、管理する者だと? 神か何かにでもなったつもりか?」
「事実を語ったまでなのだけれど……。それに、そう言う反応を取るには、無様な姿をしてるって 自覚はないの? 貴女」
居丈高な態度をするには、パムの今の様子は説得力に欠けていた。
これまでの戦いで負った手傷がある。ジョニィのACT4により黒羽は永久的に一枚欠けた状態になり、更には黒贄によって折られた左脚。
脚の方は黒羽の影響で回復傾向にあるとは言え、それでも、普通であれば戦うと言う選択肢が脳内からオミットされる程度の重症なのだ。
それでも戦おうとするのが、魔王が魔王が足る所以なのだが……。
極め付けに、パムの身体はズブ濡れだった。水を被ったのでもなく、況して汗でもない。そもそもパムは水で濡れているのではない。油で濡れているのだ。
パムが
マーガレットの頭を蹴り飛ばそうとした時、彼女は黒羽を、一方向のみに吹きすさぶ高速の気流に変化させていた。それに乗って、彼女は蹴りを放った。
そしてその蹴りが防がれた時、パムは即座に、体に纏わせていた気流を、『高潤滑性の油に変化させ、これで自らを覆っていた』のである。
だから、
マーガレットは上手く掴めなかったのだ。機転が良いと言えばその通りではある。だが、逆に言えば、それだけパムは必死だったと言う事でもある。
そうでもしなければパムの運命は途絶えていたのだ。発言の内容と、今の彼女の状態。てんで、バランスが取れていない。
マーガレットの目にはパムは、生汚い女、としか映ってなかった。
「此処に来てから、魔王の威厳も渾名も形無しでな。泥臭い姿が性に合ってしまった」
マーガレットの挑発に意外にも、パムは肯定する。
否定したところで、かえって情けないと考えたからだ。<新宿>の街に蔓延るサーヴァントは誰も彼もが紛れもない強敵ばかり。
パムが戦ったチトセも永琳、
アレックスやジョニィも。魔法少女であるパムに授けられた、魔王と言う通り名から威厳と説得力を奪うだけの実力を秘めた戦士だった。
余裕を持って立ち回れた相手が、一人たりともいない。気を抜けばこっちの命が刈り取られる、油断もなにもない強敵ばかり。そして彼ら相手に、勝ち星をパムは未だ上げられていない。多少の謙虚は覚えると言うものだ。少なくとも、
マーガレットの安い挑発に乗らない程度の分別は、大分前には心得ていた。
――もう良いだろ、とっとと退くぞ!!――
言外するでもなく、目線だけで
レイン・ポゥはパムに主張する。これ以上此処に留まり続けるメリットがない。
当初の目的である
黒贄礼太郎の討伐は失敗に終わっただけでなく、
レイン・ポゥやパム、純恋子ですら、看過出来ぬダメージを負ってしまった。
加えて、結果的に三組ものサーヴァント達に自分達の存在が露呈してしまったとあっては、痛み分けと言う言葉を使う事すら苦しいであろう。
戦略的に見れば、一方的に彼女らは負けたのだ。ならば、こう言う時どうするのか? 早急に場を切り上げて、傷口が広がるのを抑える事しかあるまい。
パムは考える。自分と、
レイン・ポゥが、苦境に陥るのならばまだ良い。サーヴァントとは、魔法少女とは、そう言う生き物だからだ。
だが、純恋子は違う。魔王塾の入門の予約を承っているとは言え、まだ彼女は人間なのだ。サーヴァントでも、況して魔法少女でもない。タフな女性に過ぎないのだ。
それに、純恋子の死は、
レイン・ポゥの消滅と連動している。純恋子の身を案じるのも勿論だが、まだまだ
レイン・ポゥには消えて欲しくない。
教えてやりたい事、やって欲しい事が山ほどあるのだ。
レイン・ポゥが不服を主張しても無理やりにでもやらせる事が。
素直に、此処は退散するべきだろうとパムは考える。
傷の手当など、黒羽さえ無事なら如何とでもなる。失った魔力すらも、黒羽ならば補填可能だ。
後は、パムの意思一つ。それ次第で、
レイン・ポゥは全速力でこの場から退散するつもりでいた。
そう、本当に意思一つなのだ。パムは気分が高揚すると、何をするか解らない。
パムはこの<新宿>に於いて、全力を出した事はない。パムの全力とは、黒羽に課してある汎用性の枷を解除する事に他ならない。
それを外せばどうなるか? 地図を書き換えねばならぬ程地形は変わる、山が消える、海が煮え立つ、都市からまともな形をした建造物が一つ残らず消え失せる。
それだけの規模と威力の攻撃を、本来ならパムは行使出来るのだ。それをしないのは、パム自身の強靭な自律力の賜物なのだ。
この自律する意思を解除せねば、
アレックスにも、目の前の
マーガレットにも、勝てない。そしてそれをやるべき時では、今はない。
「業腹だが……」
退くのが、賢明か。これ以上この場に留まるのは、
レイン・ポゥや純恋子の命が危険と言う以上に。
パムの自律心と言う意味で危険だ。神宮球場が跡形もなく破壊されている現状を見て、何処が自分を律しているのだ、と言われるだろうが、これでも相当我慢していた。
本気になれば、この球場の数百倍どころか、数千倍の規模の破壊を振りまけた事、そしてそうしなければ勝てない相手と戦っていた事実を鑑みるに。パムは相当手を抜いていたのだ。そして、その手抜きと言う名のリミッターを外してはならない。その理性が勝った時、パムの体は動いていた。
マーガレットの方角ではない。彼女から遠ざかる方角へと。
――その刹那。強大な敵意と殺意とを撒き散らす何者かが、信じ難い速度でこの場に乱入して来た。
相手を殲滅、撃滅、抹殺すると言うその意思の強さと流れの太さと大きさは、宛ら氾濫で荒れ狂う大河の如し。
この瀑布のような意思の奔騰を流せる人物は、限られている。こう言った敵意と殺意の強さとは、放つ相手の強さと正比例の関係にある。
当人が強ければ強い程、殺気の鋭さや量も跳ね上がる。これだけの総量、並の強さの戦士では流出出来ない。では、誰が放っているのか? そんな者、一人しかいないではないか。
両手に刻まれた、黒い文様に青緑色の縁取りが成された刺青。其処から、バチバチと火花を散らしながら、男はやってきた。
厳密に言えばそれは火花ではない、スパーク……生物電気の一種だ。
人修羅と化した者は、常人を超越する新陳代謝と生理現象を得られるようになる。
この生物電気もまた、その一つ。彼は……
アレックスは、その意思一つで、生体電流を外部に放出、落雷に匹敵するレベルの放電現象を以って相手を消し炭にする事だとて可能なのだ。……そしてそれを、実際に、行った。
迸る白色のスパーク。
餓えた大蛇が獲物へと殺到するが如く、
アレックスの行った放電現象は、無差別に、この場にいる全ての存在へと向かって行った。
パムは、羽の一枚を、数mと言う長さに対して円周が鉛筆の芯程しかない細長い棒に変形させた。
すると、
アレックスの放電現象は、その棒に誘われるように吸い込まれていった。原理としては避雷針のそれと同じ役割を果たすそれをパムは作ったのだが、
それだけでは不足と考え、電気エネルギーを無理やり逸らしてしまう性質をも付与させていた。そしてパムの目論見は見事に成功したのだ。
……避雷針自体が、
アレックスの放電に耐え切れず、木っ端微塵に吹き飛んでしまったが。これ以上は危険だと判断したパムは、戦いたいと言う欲求を振り切り、超高速で
レイン・ポゥと純恋子を回収。両手に抱えた状態で飛翔し、高速でその場を後にした。
さて一方、
マーガレットの方はと言うと、パムの様に、
アレックスの放電現象を対処する、と言う行為を放棄していた。
但しそれは、諦観からくる選択では断じてなかった。自殺行為ではない。その理由は、
マーガレットの身体に鉄をも蒸発させるその電気が当たった瞬間、
夢か幻かのように消え失せている光景を見れば、簡単に想像が出来よう。避ける必要がないのだ。
今の
マーガレットは、害意ある電気の力を全て無効化するペルソナを装備している。神秘の強弱、電圧・電流の強さ。そんな要素、一切斟酌されない。それが電気、と言うエネルギーを用いた攻撃であるのなら、今の
マーガレットは、神の雷霆ですら無傷でやり過ごせるのだ。
――無効化!!――
知識では
アレックスも知っている。特定の属性に対する耐性がある一定の水準を超えた時、その属性による害意を無効化する。
しかしまさか、この場で、それをやられるとは思ってもなかったのだ。況して
マーガレットは、見た目だけならただの人間だ。
属性の無効化は、その属性に特化した存在のみが持ち得る特権なのだ。満遍なく、様々な属性を修得し得る人間には、無効化と言う相性や特権は得られない。そのバイアスが、仇となってしまった。
放電を無効化させながら、正しく疾風か稲妻か、とでも言うような速度で
マーガレットは
アレックスの下へと駆けて行く。
そのスピードを乗せた渾身の飛び膝蹴りを、
アレックスの顔面へと叩き込もうとする、が。
人修羅の天性の反射神経で以って、ダッキング(屈む)する事でこれを回避。
スカを喰う形になった
マーガレットに対して追撃を叩き込もうと、
アレックスは、頭上を行過ぎた彼女の方を振り返る。――いない。
飛び膝蹴りのような大技を回避されれば、必然、其処には隙が生まれる。跳躍して行う攻撃であるのだから、着地する、と言うプロセスが必要不可欠だからだ。
マーガレットが、着地をし損ない転倒する事は先ずありえないにしても、着地して態勢を整える、と言う手順は絶対に行う筈だ。
それこそ、空でも飛べない限りは絶対に避けられない筈――其処まで考えた瞬間。
アレックスは己の背後に、ただならぬ気配を感じた!!
「!!」
サイドステップを刻めたのは、
アレックスが
人修羅の反射神経を得ていたが故だった。
もしも、彼がこの行動を実行に移せなかったなら、
マーガレットの抜き手が、そのまま背面から彼を貫き、心臓を致命的に破壊していただろう。
マーガレットは飛び膝蹴りが回避されたその瞬間に、瞬間移動を行い、大技を行った事による不可避の隙の発生を、無理やりにでも潰していたのである。
「――弱いわね」
それを
アレックスは、挑発と受け取った。事実、
マーガレットはそう言う意図を込めて、今の発言を零した。
しかし、彼女は決してそれだけの意図で今の言葉を口にしたのではない。客観的事実を鑑みて、そう発言したのである。
人修羅――その名は、力を管理する者としての職務を全うし、イゴールに従っていた頃。
より言えば、妹の
エリザベスや弟のイゴール、カロリーヌやジュスティーヌ達が一同に会していた頃から聞き及んでいた。
力を管理する者が自由にその力をプール出来る次元……それよりも更に高位の次元であるところの、『アマラ宇宙』。
本を正せば彼は、その宇宙をたゆたうとある世界で生まれた、ただの一個の人間に過ぎなかったと言う。
その彼が、大いなる闇……即ちルシファーの薫陶を受け、『悪魔の力を得た人間』から『人の力を得た悪魔』に進化した存在こそが、
人修羅なのだと言う。
謎多い存在である。
嘗てイゴールが主と呼んでいた普遍無意識を舞う『蝶』をも創造したもうた、『大いなる意思』を破壊する為に産み出された究極にして完全なる悪魔。そう聞いている。
大いなる闇であるルシファーを越えるとすら噂される実力を秘めた、最新の悪魔。そうとも聞いていた。
悪魔の中でも特に異端とされる者だとも聞いた。神秘の強さは古ければ古いほど強いと言う原則と同じで、悪魔の起源が古ければ古い程その悪魔も強くなるのだ。
しかし
人修羅は、その原則の例外らしいのだ。最も新しい悪魔でありながら、並み居る神や魔王を屠り従えていると言うのだから、根拠の裏づけにはなるだろう。
此処まで語った情報が全て推定系なのは、
マーガレットですらその全貌が理解出来ない程正体不明の悪魔なのだ。しかし確かな事は一つある。
人修羅は、強い。ベルベットルームでの仕事の傍らに届く
人修羅の情報はどれもこれも確度のあやふやなモノばかりであったが、唯一、強いと言う情報だけは一貫していた。
そしてそれは、
エリザベスが従える
人修羅の男の姿を見た時、確信に至った。背筋が音叉の如く震えてしょうがないあの覇風。最強の悪魔の名に嘘はなかった。
しかも、サーヴァントとして存在が落魄していて、アレなのだ。本体は、まさに天地を哭かしむる強さを誇る怪物に相違あるまい。
アレックスには、あの時<新宿>衛生病院で見た
人修羅から感じた、恐ろしさと言うものを感じない。
人修羅と化した
アレックスを目の当たりにした瞬間、
マーガレットは戦慄を禁じえなかった。
幻十と
人修羅が戦っている姿を見て、その強さは実感している。そんな者と自分が、今此処で戦う……。やるしかない、と覚悟を決めていた程だった。
――だが蓋を開けてみれば、『いけそう』、と言うのが
マーガレットの所感となった。
種族上は、
アレックスも、
エリザベスの従えるルーラーも。同じ
人修羅の悪魔なのだろう。だが、違うのだ。
目の前の男と、
エリザベスの従える彼とでは。決定的に、何かが違う。
アレックスの振るう
人修羅としての強さは、確かに脅威の筈なのだ。
マーガレットであっても、油断が出来ない程に。しかし、あの
人修羅と比べれば、恐ろしさが全然違う。
<新宿>衛生病院で戦った彼は、濾過・精練された、純度の高い死のような気配を感じた。
相対するだけで、身体がビリビリと痺れるような……痛みすら感じる恐ろしい気配は、噂に違わぬ威力を内包していたものだった。
アレックスにはそれがない。身体能力の面で鑑みれば、間違いなく強い筈なのに、
マーガレットは彼に殺されるヴィジョンが思い描けない。
彼は、怪物と言うカテゴリーに属してはいるがそれだけの存在だ。怪物と言う境界線を越えた向こう側の存在ではない。
そうと認識した瞬間に出てきた言葉が、『弱い』だった。倒せる。そうと、
マーガレットは踏んでいる。
「ッ……!! テメェは……!!」
マーガレットの顔を見ていて、
アレックスは何かを思い出したらしい。放射する殺意の切味と量が、跳ね上がる。
血走る紅蓮の瞳を見て、はて? と思う
マーガレット。先程までは
アレックスの姿を冷静に見れる時間がなかったが、今は違う。
一呼吸出来る時間があれば、
マーガレットにとっては十分。その時間がじっくりと観察出来るのに必要な時間なのだが、それを経て感じたのは、違和感だった。
『自分は何処かで、このサーヴァントと出会った事がある』。そう思わずにはいられないのだ。
<新宿>衛生病院で見た
人修羅とは明白な別個体である筈なのに、強烈な既視感があるのだ。そんな筈はない。
人修羅は特徴の多いサーヴァントである。それはそうだ、体中に特徴的な刺青を刻んだサーヴァントが、見る者の印象に残らぬ訳がない。
だからこそ、一度見て、戦った存在であるのなら
マーガレットは忘れない。誓って目の前の人修羅は、
マーガレットとしても始めて見る……なのに、何処かで出会った事がある、と思っているのは、何故なのか。
「あのアサシンも近くにいるんだなッ」
アレックスの言葉に今度は
マーガレットが驚く番だった。
やはり、何処かで会っている。いやそれだけじゃない、彼女が従えるサーヴァント、
浪蘭幻十のクラスを知っていると言う事は、交戦したと言う事でもある。
遠目から見て幻十のクラスを知ったとかではないだろう。あの男は広範囲に、自分の耳目同然に機能する妖糸をばら撒ける。
それを逃れて遠見をする事など限りなく不可能なのだ。その線がない以上、目の前の
人修羅は、幻十と交戦しなおかつ生き残ったサーヴァントである事を意味する。
この上、
マーガレット自身の事をも知っているとなれば、答えは最早、一つしかない。このサーヴァントとは――
【マスター、今すぐ物理攻撃を無効化するペルソナを装備しろ!!】
突如として、念話を通して伝わってくる幻十の声。
其処に、一切の余裕が無く、それどころか焦燥の念すら感じられたその瞬間、
マーガレットの意識が、心の仮面を変じさせていた。幻十に、理由すら聞かなかった。
結果的に、何故ペルソナを変えねばならないのかを問わなくて、正解だった。もしもその場で訊ねていたら、地面や空中から殺到する、無数の妖糸が、
マーガレットの体を万単位の細切れに分割されて即死していただろうから。
「これは!!」
物理攻撃を無効化するペルソナを装備しろ、その命令の意図が解った。
身体をすり抜けて行く、ナノマイクロサイズのチタン妖糸。その威力を、幻十の戦いぶりを見て理解している
マーガレットにとっては、戦慄するしかない光景だった。
妖糸が素通りしてゆくのが、彼女の身体に伝わっていく。対策を施してなければ、妖糸が素通りした通りの軌道で身体を分割されていた。
殺到する妖糸の量から考えるに、ペルソナを装備してなければ今頃の
マーガレットの未来は、原形すら留めないひき肉であった。
「ジャアッ!!!」
アレックスは裂帛の気迫を以って叫びながら、先の黒贄の攻撃で圧し折れた両腕、それぞれに魔力を練り固めた剣を握り、折れている事などお構いなしに振るった。
斬れる、斬れる。我が身へと迫り来る、極細極小の殺意の嵐が、ピウンッ、と言う音を立てて無力化されているのが、
アレックスの腕に伝わってくる。
あの時マンションで戦った時には、見る事は愚か、形ですら朧げに認識する事も出来なかったモノの正体、軌道。それらが理解出来る。
北上の腕を切断し、自分の身体に手傷を負わせたものの正体は、目で見る事等出来ないほど小さな糸だったのだ。
本当の事を言えば、今でも、糸そのものを
アレックスは視認する事は出来ない。出来ないが、腕に伝わってくる感覚は間違いなく糸のそれだし、例え目で見えずとも、
アレックスの目には細い線状の殺意が感知・視認出来る。
人修羅と化した事による恩恵が、最高の形で現れていた。
マーガレットと、
アレックス。二人がチタン妖糸を対処し終えてすぐのタイミングで、彼らは、姿を現した。
空中からまるで、ミサイルの着弾めいた勢いで、その二人は片膝ついて着地した。この場に現れた勢いから推察するに、此処に移動するまで相当の加速を得ていたのだろう。
二人は共に、黒いコートを着ていた。というよりどちらも、黒ずくめの服装なのだ。シャツからズボン、靴に至るまで。
違いと言えば、一方が来ているコートはロングコート、もう一方がインバネスと言う所であろうか。
だがその二人の最大の共通点は、そんなものではないだろう。
――美しい。そう、美しいと言う客観的な事実こそが、彼らの最大の共通項。形容する言葉が、見付からない。美を表現する語彙が、この世にない。
佇むところから伸びる影すら美の極点、風にたなびくコートですらも、オーロラを幻視させる程綺麗なもの。
纏う衣服ですら、美しいもの。いやそれどころか、彼ら自身の美の一部の如くにしてしまう程……彼らの美しさは、達していた。
その麗美さは、人界のものではありえない。それは天界の美……或いは、魔界の麗しさだった。
【その男が……?】
【その通り、我が仇敵さ】
美魔人の片割れ、インバネスを纏う方の魔人である
浪蘭幻十が、何処か誇らしいものすら感じられるような声音でそう言った。
幻十から聞いていた特長と、乖離していると
マーガレットは見ていて思った。美しい、それは、間違いない。異論の挟みようがない。
だが、幻十から事前に教えられていた美しさとは、ベクトルが違うように思えるのだ。前情報では、無邪気で純粋な美だと言われていたが、今は違って見える。
冷酷、そして峻烈。人を裁き、人に無慈悲に接する恐るべき神を、幻十と相対する男、
秋せつらに見たのである。
【ちなみに言うが、もうペルソナを用いた物理無効はせつらには通じないと思って良い。奴はもうマスターの殺し方を学習した、次は回避に徹せねば死ぬぞ】
馬鹿な、と言いたくなる
マーガレットだったが、此処で幻十が嘘を吐くメリットが思い浮かばない。本心で幻十は言っているのだろう。
事実、幻十の言う通り
秋せつらは、今しがた
マーガレットの身体を妖糸が素通りしたのを見て、対処方法を既に弾き出していた。
いや、弾き出した、と言うような言い方は正しくない。正確には、『物理攻撃をああ言う方法で無効化する敵の斬り方を覚えた』、と言うべきか。
こう言う指の動かし方をすれば、斬れる。その方法論を編み出したに過ぎない。そして真実、そのやり方で、斬り殺してしまえる。せつらが魔人たる所以であった。
「アサシン……ッ!!」
まるで雪崩のような量と勢いの殺意を、アサシン……即ち、
浪蘭幻十へと放射させながら、
アレックスが言った。
弩級の怨嗟を込めた言葉を受けるも、幻十はまるで
アレックスの方を見ていない。それを、
アレックスは挑発と受け取った。
「酷く怨みを買っているようだが」
他人事のようなせつらの言葉に、幻十は笑みを零した。
「買った買われたなど、日常茶飯事じゃないか」
それもそうか、と言わんばかりにせつらは黙った。
アレックスは、豪も此方に対して反応を寄越さない幻十に対し、赫怒を燃やしていた。実際には、
アレックスに対しても幻十は細心の注意を払っていた。
索糸を用い、幻十は、
アレックスが数時間も前に上落合のあるマンションで半殺しにしたサーヴァントだと気付いている。
色々と、謎はある。その中で最たるものが、何故
アレックスが、<新宿>衛生病院に居を構えていた、あの恐るべきルーラーと同じ種族に転生しているのかと言う事だ。
以前戦った時の
アレックスの実力とは、比べるべくもない。格段に、今の
アレックスは強くなっている。何せ、幻十の糸は勿論、せつらの妖糸ですら対応出来ているのだ。
前回幻十に無様な醜態を晒した時を思い起こせば、段違いの進歩であると言えるだろう。
であるにも関わらず、幻十がせつらの方にのみ注視している理由は、単純明快だ。
アレックスがこれだけ強くなっていてもなお、幻十のプライオリティは、せつらの方を高く設定しているからに他ならない。
人修羅・
アレックスは間違いなく強い。だが、幻十はその強さに、脅威と恐怖を感じていなかった。
<新宿>衛生病院で戦った、あのルーラー。強かった。思い出しても、背骨が凍る程の恐怖を覚える。
まさかこの街に、せつらや
メフィストに匹敵――いや、かれら以上かも知れないと、魔界都市の体現者である幻十に思わせしめる程の存在が、いるとは思わなかった。
あのまま、衛生病院で幻十とルーラーが戦っていれば、幻十は恐らく今この場でせつらと睨みを利かせていられなかったろう。そうと認める程、あの
人修羅は強かった。
だが、此処にいる
アレックスについては、同じ
人修羅の男である筈なのに、まだ対処出来るものと頭のどこかで幻十は考えているのだ。そしてそれは、きっと事実なのだ。
ならば、幻十はそれに従う。
アレックスは現状底の見えぬ相手だが、彼以上に底なしの強さを持つ者が、
秋せつら……魔界都市で最も恐れられ、そして幻十ですら勝てぬと認めた男なのだ。生前の事を知っていてなお、未だその強さの全貌の知れぬ男。そちらの方に注力するのは、当たり前の話だった。
痺れを切らしたのは、
アレックスの方だった。
幻十への怒りが、突如現れた自分の知らないサーヴァント――即ち、
秋せつらの様子を静観する、と言う基礎的な行動を取る意思に勝った。
自らのクラスを宝具、『もしもサーヴァントだったら』によってキャスターに変更。これで、彼の放つ魔術には補正が掛かる。威力の面でも、速度の面でも。
クラスの変更と同時に、せつらと幻十、
マーガレットを丁度巻き込む位置に、ゼロ秒を錯覚する程の速度で竜巻が荒れ狂った。
螺旋状に巻き上がり、巻き込まれる砂煙、そして瓦礫。この竜巻に巻き込まれようものなら、高くに舞い上がる程度では済まされない。
中で螺旋を描く砂粒に体中は切り刻まれ、一秒も経たない内にその生命体は、竜巻の中で回転を行うデブリと化す。
砂粒だけではない、時速一〇〇〇km以上の速度で回転を行う瓦礫に直撃すればその時点で即死は免れ得ない。
何よりも竜巻内部で発生している真空の刃が、砂粒と瓦礫を対策する者の命を無慈悲に刈り取って行く。
死角はない。安全地帯も勿論ない。巻き込まれてしまえばその人物は、死出の花道を歩くしかないのである。しかしそれで――果たして魔人を葬る事は、出来るのか? その答えは、すぐに知れる事となる。
ビル数棟を積み重ねたような高さの竜巻が、無数に断ち割れた。まるで、一本の大根かゴボウかでも、包丁で雑にカットしたかのように。
割断された竜巻は、最早竜巻としての形と威力を成さなくなり、取りとめもなく、あらゆる方向に吹き荒ぶ、粗雑な風力エネルギーとして四散してしまう。
秋せつらは、地上で佇んでいた。あれだけの風力の竜巻の中に晒されていながら、姿勢を崩した様子もなく。
まるで足元から根が伸びているかの如く不動の姿勢を維持出来たのには、如何なる摂理が彼に働いていたのか?
幻十は一方、空中を飛翔していた。彼の方は、竜巻に逆らうのではなく、それに巻き込まれつつも、身体を損なう現象については受け流す方向性を選んだのだろう。
繭の様に身体を包んでいたチタン妖糸を、人差し指の一本を軽く動かすだけで幻十は解除する――のみならず、それまで繭になっていた妖糸は、小指一本で成しうる操作量を超える動きで、幻十の背部に凄いスピードで稠密して行き、やがてそれが不可視の翼を形成する。チタンの糸で形成された、人工の翼を。幻十よ、飛ぶのか? その翼で、太陽目掛けて飛んで見せたイカロスの如くに。
最初に
アレックスへとコンタクトをとったのは、
マーガレットだった。
彼女が
アレックスの起こした竜巻を無力化させられたのは単純で、風や衝撃を完全に無効化するペルソナを装備していたからに他ならない。
吹き荒ぶ風力エネルギーなど知らぬと言わんばかりに、
アレックスの下へと一直線。常人なら数十mは吹っ飛ばされて余りある混沌とした風のベクトルも、今の彼女にはそよ風同然だった。
迫る
マーガレットに対し、
アレックスが駆け出した。
来るか、と思い、肉体の内奥に力を込める
マーガレットだったが、その彼女を、
アレックスは無視。行き違いの形で、彼女を素通りした。
バッ、と背後を振り返った時には、
アレックスは軽く屈んだ膝を勢い良く伸ばす、その力を用いて跳躍。妖糸の魔翼を操って、空中を滑空する幻十の方へと向かって行く。
宙を舞う幻十目掛けて、胴回し回転蹴りを行う
アレックス。そしてその一撃を、糸で構成された翼の片方を振るって迎撃する幻十。
蹴り足と翼とが、衝突する。鈍い音、響き渡る重い衝撃波。切り立った断崖ですら崩落させるに足る一撃を受けても、糸翼は中頃まで断裂される程度の損傷に留まる。
翼の中は全くの空洞であるとは思えない程の、凄まじい強度であった。しかし、今の一撃で飛行能力を失った幻十は、殺虫剤を当てられた蝿の様に墜落を始める。
そしてその隙を狙って、せつらが動いた。指を動かすと、怒涛の勢いで、
アレックスと幻十の周囲を、無限と言われても信じてしまいそうな数の妖糸が殺到。
彼らの身体を、その糸と同じ大きさであるナノマイクロ、いや、それ以下の小ささにまで切り刻もうとする!!
アレックスに破壊されてない方の糸翼、その全てを解いて、せつらの殺魔線に対抗しようとする幻十。
無論、それではまだ足りない、コートの裏地からボールペンのペン先の球程度しかない大きさの糸玉――チタン妖糸をそう言う形にしたもの――を取り出し、
それを即座に解く幻十。解かれた糸は風に舞って霧散するかと思いきや、幻十の指先が触れた瞬間、彼の意思の雄弁なる代弁者の如くに靭性を帯び始める。
せつらの糸と幻十の糸が、衝突する。チィンッ、と言う高音と同時に火花が明滅する、その様子を見て、せつら達が妖糸を操る事を知っている者が見れば思うだろう。
幻十が事なきを得たと。実際には違う。数万を越す糸を操ってなお、せつらの糸は無数にある。その本数、優に二万は下らない。
「仕方のないサーヴァントだこと!!」
奇しくも、
アレックスと
マーガレットは、迫る妖糸に対して同じ反応を取った。
マーガレットは、幻十の周囲に小規模の、アクリルで出来ているような透明感を持った、球状の泡めいたもの無数に創造。
アレックスの周囲にも、彼自身が創造した同形状の泡が生み出されていた。互いに、互いが生み出した泡に魔力を込めた瞬間だった。
アメジスト色の爆発が球の内部で発生。爆発は、球の外に出る事はなかった。両者が発生させた泡範囲内にはせつらの操る糸が配置されて『いた』。
この場にもし、ナノマイクロのサイズを視認出来る者がいれば、理解出来た事だろう。泡を素通りした部分の糸が、綺麗さっぱりと、『消滅』している事が。
泡の正体は、小規模のサイズにまでパッケージングされた閉鎖空間であり、彼らはその内部で、俗に『メギドラ』と呼ばれる魔術を発動させていた。
俗に、万能属性とも称されるこの属性の魔術は、悪魔や神が操る魔法の中でも極めて高等の物に分類される。この属性は、相手の有する耐性や概念防御を、貫く。
せつらの操る糸であっても、それは同じ。メギドラの直撃をモロに受けた妖糸は、燃えるでも崩れるでもなく、跡形もなく消滅。せつらの意思と断絶され、無害な糸屑に変貌してしまったのだ。
「出来るな」
マーガレットに対し感嘆の言葉を漏らすせつら。余りにも、其処には感情が無い。
小石が転がっている、セミが足元で死んでいる。その程度の情感しか、言葉に込めていなかった。
「自慢のマスターさ」
「気味悪いわ」
着地と同時にそう言った幻十に対し、鳥肌すら立つ思いで
マーガレットがそう言った。
目の前にいる、サーヴァント、
秋せつらの実力を脳内で反芻する
マーガレット。
網膜に映るステータスは、三騎士のクラスと比べても遜色はないにしても、面白みはそれ程ない。サーチャーと言う特異なクラスである事にも、それ程驚かない。
問題はただ一点、強い、と言うその事実。幻十が再三以上に渡って語っていた、
秋せつらは強い、と言うその言葉を肌で彼女は実感していた。
成程、必要以上に幻十が意識していた理由もよく解る。せつらの強さは、異常だ。武器は確かに、幻十と同じ糸なのだろう。
同じ糸の筈なのに、幻十と同じ武器である気がしない。彼よりももっと恐ろしく、そして鋭いモノを振るっているような錯覚にすら陥ってしまうのだ。
冬至の夜に浮かぶ凍てついた満月に似た美貌を持つ魔人、
秋せつら。彼の手で操られる魔線は、余人が魔線と見る以上の力を、得てしまうのだろうか?
確かに――これは、今の幻十では荷が重かろう。
しかし、せつらは知らない。自身が『出来る』と判断した、自らの親友だった男のマスターである才媛もまた、魔界都市の住民の手綱を握るに相応しい怪物である事を。
「手間の掛かる男……援護してあげるから何とかしなさい」
そう告げるのと同時に、
マーガレットは、ペルソナ辞典から一枚のカードを取り出し、そのカードに刻印されたペルソナをこの世界に招聘させた。
黒い烏帽子兜を被り、真紅の鎧具足を装備した美男子だ。無論、鎧を纏っているという服装上、柔な優男の外見ではない。鍛えられた、武者の外見だ。
幼名を牛若丸。最も知られる所の名を、源九郎義経(ヨシツネ)。平安末期から鎌倉初期にかけて八面六臂の活躍をした、源平合戦の立役者。
鞍馬山で武芸の鍛錬を積み、大胆な知略・奔放な剣術で多くの敵を惑わせ、源氏側を勝利に導いた大武将である。そして、幻十の言っていた、物理攻撃を無効化するペルソナの正体である。
ヨシツネが剣先を、幻十に向けたその瞬間だった。
淡い光のようなものが幻十の身体を包み込み、その光が彼の体に吸収されていったのだ。一秒も、その間経過していない。
――補助魔法……!!――
アレックスが今この瞬間、地上に着地した。そして、
マーガレットが幻十に対して行った術の正体を看破した。
それは、
アレックスの世界で言う所の『ブレス』。それは、悪魔達の世界で言う所の『カジャ』。即ち、素の身体能力を強化させる魔術である。
魔術の世界に於いて他者の能力の強化は最難関と言われる程難度の高い術ではあるが、
マーガレットレベルになるとそれを行う事など、児戯も同然。
『ヒートライザ』。それが、
マーガレットが幻十にしてみせた強化の魔術の正体。その効果は、戦闘に関わる全ての能力の向上、であった。
「――こう言うサポートを必要としない程には、強くありたいものだな」
その言葉と同時に、幻十の両腕が、残像も追いつかない速度で霞んだ。
せつらが、
アレックスが。その動きに追随した。両名共に、後手に回ってしまった。腕、指、どちらの動きも、先ほどの幻十のそれよりも遥かに迅速だったからだ。
いや、速度が跳ね上がったのは、身体の動きだけじゃない。美の精緻たる幻十の腕指、それによって操られる必殺の糸条の速度もまた、恐るべきスピードに達していた。
せつらの指が、痙攣にも似た動きを見せた。いや、それは肉体の反射的な動きではない。
一見して痙攣や引き付けに見えるような動きでも、それは、せつらにとっては計算と意図で編まれた動き。“私”の人格は、そう言う動きを行わないのだ。
その証拠が、せつらの操る魔糸の動きだ。彼の周囲に展開されていた糸が、せつらの指の指示に従い、蛇の様に動き始めた。
ある糸は薙ぎ払われ、ある糸は地面から一気に弾け飛び、ある糸は上下左右に回転運動を始めた。その動きが無秩序なそれでない事は、迫り来る幻十の糸を切断し返しているところからも、証明済み。尤も、他人にはナノマイクロというミクロの世界での攻防など、認識出来よう筈もないが。
アレックスについて言えば、かなり危なっかしいながらも、無事に糸を防げていた。
黒贄によって齎された腕の骨折は、荒療治ながらも自前の回復魔術で回復されており、振るえばまだ痛みが鈍く起こるその腕に魔力剣を携えて、チタン妖糸を斬り払っている。
人修羅になって得た事による優れた知覚能力で糸を認知出来るとは言え、
アレックスには絶対的に、せつら・幻十の操る妖糸に対する経験値が足りていない。
防げはする、致命傷も免れられる。だが、其処から攻めに転ぜられない。防ぐだけが精一杯なのだ。しかも見た様子、幻十はまだ糸を操る本数を増やせるらしい。
本気で
アレックスを対処しようとしているのなら、忽ち彼の霊基に大ダメージを与えられていよう。そうしない理由は簡単だ、出来ないから、である。
幻十の目的は、あくまでも
秋せつら。その軸は、全くブレていない。もしもこの場に、ナノマイクロサイズのものを視認出来る水準にある、
文字通りの『神の目』を持った存在が居るのであれば、きっと解るだろう。明らかに、せつらに降りかかる糸の数が、
アレックスよりも遥かに多い事に。
幻十がせつらを特別視している事は、今更説明するべくもない。だから現に、せつらの方に妖糸の数を多く向かわせている。勿論それは正しい。
しかしあの、“私”を名乗る恐るべき魔人が特別だとか、私的な因縁があるからだとか、必ずしもそれが全てではないのだ。
この<新宿>で行われている聖杯戦争の中でも最強のマスター……いや、それどころか、だ。
二名が知る中で最強の魔女、宇宙の真理や魂の秘密すらその手に掴んだろうガレーン・ヌーレンブルク。
幻十どころかせつらですら、最高の魔女であると言う認識を同じにするあの高田馬場の魔女に匹敵する魔才を誇る、
マーガレットが施した最強の補助魔術・ヒートライザ。
これによる絶大なブーストを得ていて尚――せつらに届かない、と言うこの現実。その通り、単純に、『せつらの方がまだ強いから彼を優先して攻撃している』……それだけの話なのだ。
――デタラメね……――
せつらの強さを、知らなかった訳じゃない。
幻十から口頭で、
マーガレットはその強さを知らされていた。自分と同じ技を使う、魔界都市最強の魔人の一人。そう言っていたか。
正直、彼女が使役する黒魔人について、彼女自身が抱いているイメージは最悪の閾値を優に上回る。美しいだけの、唾棄すべき魔王だと本気で思っている。
思っているが、この男が有する、魔人としての見識だけは、本物だとも思っていた。間違いない。幻十は嘘を平気で吐く。だが、せつらに関する嘘は、ない。
全て本気で話していると、短い付き合いで
マーガレットは理解していた。理解していて――尚。その話には誇張や贔屓、忖度が含まれているのでは、と。この瞬間までは思っていた。
一切、そんなモノはなかった。
幻十の語ったせつらの強さは、全て違わず真実のものだった。幻十が強く意識をする訳だ。
自分と同じ技を使い、自分と同じだけの背丈を持ち、そして、自分と並ぶ比類なき美貌を持つ男。ライバルとして意識するのも、頷ける。
本数にして千など容易く超える程の数量で押し寄せる、必殺の妖糸が、
マーガレットに悉く当たらない。
糸を操るせつらは、理解しているだろう。
マーガレットに近づいた瞬間、海をも叩き割るせつらの断線が、ドライフラワーを力尽くで揉んだように粉々になっているのを。
理屈は理解している。彼女の周りを目まぐるしく、まるで惑星を周期する衛星宜しく旋回する、球状の焔と冷気を見れば、何が起こっているのか魔人には解るのだ。
要するに
マーガレットが行っている手品は、熱相転移だ。熱したグラスを急激に冷やせば、グラスが砕け散る。やらかした者も、数多かろう。
一般的な、それこそ、市井の家庭でもやりがちなミスである。コレを究極の領域にまで高めた現象を、意図的に操作して。
マーガレットはせつらの糸を対処していた。
アギ(火炎)の魔術とブフ(氷結)の魔術のどちらも覚えさせたペルソナを装備し、そのペルソナが放つ太陽表面に近しい超高熱と絶対零度の極低温で、
極端な相転移を行っているのだ。無論耐えられない。直撃すれば、物質は必壊、生命体は即死だ。何せ、原子核のレベルで、その熱相転移を受けたものは消滅させられてしまうのだから。
マーガレットが思う以上に、この場には、デタラメな人物しかいなかった。
そもそも彼女は気付いているのだろうか。音の速度を超越するスピードで迫る、1/1000マイクロのチタン妖糸を、丁寧に原子核レベルで破壊して対処している自分こそが。
傍目から見れば怪物そのものとしか映らない、と言う事実に。
【防ぎ方を変えろマスター、次は原子核を破壊された状態を維持したまま来るぞ】
そんな馬鹿な、と突っ込む気すら最早起きない。
やりかねないと思ったからだ。原子核レベルでの破壊とはとどのつまり、消滅に等しい。
石をハンマーで砕くのとは訳が違う。石は叩き割っても、元々石であったものは残る。だが、原子レベルでの消滅は、跡形も無くなる。
形も存在も、消えて、滅びるのだ。そんな状態になった後でも、攻撃が叩き込まれる。ありえない話だ、言うまでもなく。
だが、
秋せつらと呼ばれるあのサーチャーなら、やりかねない。目にした者に、これから自分は滅び去るのだと否応なしに想起させる、死神の美を持つせつらなら。やってしまうのだろうと、
マーガレットは思っていた。
今度は
マーガレットは、迎撃を選ばなかった。
逃げた。と言うよりは、糸の範囲内から退散した、と言うべきか。駆けたり跳ねたり、避けたりしてではない。空間転移、即ちワープを利用して、だ。
せつらから三〇m程離れた地点まで転移した
マーガレット。其処はせつらと幻十が、必殺の魔糸を乱舞させている大殺界の圏外だった。
無論計算して其処まで退避したのだ、が。所詮こんなもの、その場凌ぎに過ぎない。あの美麗極まる魔人がその気になれば、糸の殺戮範囲は、倍以上に跳ね上がるであろうから。
一歩引いた所から見て初めて解る、恐るべき攻防である。
青、白、橙、赤、黄。それらの色は、せつら・幻十・
アレックスの三名の周囲で高速で点滅する光の色だった。
色の正体は火花であった。せつらの手指から伝わる指示を受け、神業の如き軌道で迫る殺線の嵐。それが防がれる際に生じる、せつらの糸の断末魔だ。
戦況をどうやって、こっちに有利な方に転がそうか。
せつらの意識が此方に向く、ほんの僅かな時間を利用し、目まぐるしく脳を回転させる
マーガレットだったが――。
思いも寄らぬ形で、それはやって来た。但しそれは……
マーガレットの側よりも、やって来た側のほうに、不利を押し付けてしまいそうだったが。
時系列順
投下順
最終更新:2021年03月31日 18:20