『お昼のニュースです。先月より都内で相次いでいる飛蝗の大量発生とその被害について、今日、未明、世田谷区に続いて板橋区への拡大が観測され――――』









 東京都、千代田区。
 日本最大のオフィス街のある特別区は首都機能の集中した、まさに都心部である。
 時刻は丁度、正午になる頃。時計の長い針と短い針が、天井を指して重なる時。
 区の中心からは多少外れるものの、日中から多くの人々が行き交うその交差点に、アルマナ・ラフィーは佇んでいた。

 頭上、ビルの壁に埋め込まれた大型のビジョンでは、連日都内を襲っていた蝗害に関するニュースが流されている。
 道路の対岸では信号機が点滅し、もうすぐ赤色に変わろうとしている。
 幾人かのサラリーマンが、アルマナの隣を焦った様子で走り抜けていった。
 しかし少女が横断歩道に足を踏み出す気配はない。信号が赤に変わってしまうまで、歩道の縁石の上で足を揃えて立ち尽くしている。

 今の彼女の行動目的は移動ではなく、観察することにある。
 偵察、及び情報収集。日中の彼女に課せられた君命(オーダー)。
 無感情な目でじっと周囲を俯瞰し、雑踏の中に敵の姿、あるいは痕跡を探る。
 そして同時に張った単純な罠に、誰かが掛かるのをじっと待つ。

 アルマナの見た目は率直に言って目立つ。
 褐色の肌に白いワンピースを着た異国の少女という出で立ち。
 加えて今の混沌深まる仮想都市東京の状況を鑑みれば、良識にせよ悪意にせよ、誰かしら声をかけてきてもおかしくない、寧ろそれが自然だろう。
 しかし街を歩く誰もが、彼女に一瞥もくれずに通り過ぎていく。

 そのカラクリはなんの捻りもない、極単純でありきたりな、隠形の魔術だった。
 ほんの少し気配を薄め、周囲の環境に紛れ、見落とすように仕向けている。
 それをこの国の殆どの人間が見破れない事実に、彼女は東京に来た当初、少しばかり驚いた。
 アルマナにとって初歩の初歩と言える、たった三言の詠唱で済んでしまう拙い魔術。
 故郷の集落ではまず大人には通じない、片手の指で数えられる年齢の子供がかくれんぼで使うような、文字通り児戯に等しい魔術だったから。

 魔術という、アルマナにとっての常識が存在しない街。神秘の薄れきった鉄の社会。
 それを少女はしかし、特に見下げることも、嫌悪することもなかった。
 魔術が技術より優れているとも、尊ばれるべきとも思えない。
 東京は未だ平穏を保っている。あくまで表向きであり、ギリギリのバランスではあるが、日常が回っている。
 少女に気づかず通り過ぎていく誰もが、銃声から逃げるためでなく、自らの日常のために歩いている。
 彼らが手放した神秘をもってしても結局あの集落は、アルマナの故郷は、自らの日常を守ることが出来なかった。

 かと言って、羨望を感じることも、怒りを感じることも無かった。
 正確には、少女は既にその機能を麻痺させて久しい。
 心を動かすから傷つく。一時の衝動に動かされるから選択を誤る。
 機械のように、人形のように、ただ無心に。王さまの命ずるままに。
 殺し、守り、戦えばいい。無駄な事を考える前に、必要なことを、ただ実行すればいい。
 耳元で今も鳴り続ける、規則正しき時計の針のように。

 ―――どうしてなのだろう。

 そんな疑問も、だから数秒の後には思考から消し去って、少女は再び無感動な目を対岸の道路に向けた。
 一定時間、観察を続けたものの、敵の姿も、痕跡も見えない。釣り餌に掛かる気配もない。
 場所を変えるべきだろうか。
 そう思って、ようやく足を動かそうとした時だった。

 右肩に軽い衝撃。
 次いで「あ、ごめんなさい」と女性の声が隣から上がった。
 なんのことはない、親子連れに肩をぶつけられただけ。

 目の前で、仲睦まじく手を繋いで、横断歩道を渡っていく4人家族。
 恰幅のよい父親、妙齢の母親、アルマナと歳の変わらない程の背丈の女の子と、その弟と思しき小さな男の子。

「…………」

 仮初の平和を享受する家族の姿。
 暗雲立ち込める東京の情勢に不安を憶えていたとしても、彼らに直接的な戦火への怯えは見られない。
 隣に居る大切な誰かが、突然降り注ぐ鉄の雨に引き裂かれるかもしれない。そんな心配、きっと彼らの思考には無いのだろう。


 そんなものを見て、今更、何も感じない。
 だけど、

 ―――どうしてなのだろう。

 そんな疑問が時折、アルマナの思考に紛れ込む。
 深く考えたことはない。
 いつも、考える前に蓋をして、消し去ってしまう。それはなんてことない、ちっぽけな疑問だった。

 ―――どうして、私なのだろう。

 あの集落で、あの優しい人たちの中で。
 どうして少女だけが、気づいてしまったのだろう。

『――逃げて、アルマナ』

 アルマナより強い大人なんて、幾らでもいたあの場所で。

『――逃げろ。生き延びるんだ』

 どうしてたった一人、気がついてしまったのだろう。
 防衛する、ではなく、攻撃する。
 生かす、ではなく、殺す。
 そして、逃げる、ではなく、

『――戦え』

 戦う、という選択肢。

 ―――どうして、私だけが。

 一瞬にして、いつものように思考に蓋をし、感情を停止させる。
 それは意味のない思考だから、そして今は何より優先すべき君命があるから。
 ふと感じた気配に、神経を研ぎ澄ます。

 何かが、釣り餌に掛かった。
 単純な罠が成果を上げた事を確信し、少女は再び目を凝らす。
 視線を感じる。釣り餌とは、アルマナ自身の事だった。
 単純な隠形すら見落とすほど神秘の薄れた社会の中で、アルマナを注視し続ける存在が居るとすれば、それは転じて敵のマスターである可能性が高い。

 まずは敵の姿形を確認し、次いで戦力を分析し、王に情報を持ち帰る。
 仮に戦闘に発展する可能性があったとしても、アルマナに臆する心はない。
 今、王から彼女に寄託された竜牙兵(スパルトイ)は3体。
 陣地攻略に十分とまでは言えないが、対等なフィールドで交戦する分には申し分ない戦力だ。
 それほどまでに、王の竜牙兵は強い。個々がサーヴァント1体分の性能。つまり単純計算で、彼女はいま3体のサーヴァントを引き連れているに等しいのだ。

 そう、王さまは、強いのだ。
 現に彼の戦略と兵力によって、これまで多くの主従を倒す事が出来た。
 だから、余計な事を考える必要はない。
 臣下として歯車のように、規則正しき時計の針のように、自らの役割を遂行すればいい。

 そうして、アルマナはもう一度、自身の感情を冷たく静止させ。
 横断歩道の向こう、道路の対岸、波のような雑踏の隙間に、佇む敵の姿を見た。




 覚明ゲンジはその時、雑踏の中に宝石を見た気がした。
 砂漠の砂に薔薇を見るように、大海の底に真珠を見るように。
 ふと視界を過ぎた輝きに、思わず足を止めたのだった。

 彼がその日、千代田区の路上を歩いていたことに理由はない。
 数日前から続けていた当て所もない放浪の、一環に過ぎなかった。

 ゲンジは未だ、自身が勝ち上がる目算も、策謀も、己の中に見出すことは出来ぬままだった。
 この針音の街に招かれて一ヶ月、彼は敵を倒すことは愚か、十分な戦闘経験すら積めていない。
 他の主従と協力関係を結ぶことも、まともな情報交換すら行えていない。
 まして勝ち上がるための策など、思考に少しも浮かばなかった。

 ―――結局、おれは、なにもできなかったな。

 それが、彼の自己評価だった。
 彼に出来たことは、彼にとって至極単純な"備え"だけ。
 知謀などとは到底言えぬ。
 地味で、地道で、単純な準備作業のみ。

 黙々と続けたそれすらも、やり尽くしてしまったのが数日前のことだ。
 以降、彼はこうして東京の街を歩き、彷徨っている。まるで、何かを探すように。
 それは勝つための方策か、戦う理由そのものか、あるいは死に場所か。

 ―――おれは、たぶん、長生きできないだろう。

 生来の低い自己評価。
 虐げられ、嘲笑され、諦めるばかりだった記憶の連なりに形成された人格。
 己が他者より優れていると、幼少の頃からただの一度も思えなかった少年の心に、争いに勝つ展望など見えない。
 それでも彼は、この戦争から降りることだけはしなかった。

 ―――おれは、なにを、欲しがっているのだろう。

 目の前には雑踏。
 都心、コンクリートジャングルの中心部。
 ビル、車、電線。見渡す限りの人、ヒト、ひと。
 霊長は文明を謳歌している。
 そこから溢れた、哀れな出来損ないを置き去りにして。

 ゲンジは、あの日みた輝きを思い出す。
 人混みの隙間から除いたアホ毛、白い長髪、戦争の中心、歩く爆心地のような少女の姿。
 極大の感情を一身に集める、本物のブラックホール。

 ―――ああ、ひょっとすると、おれは、また、あれを見たいのか。

 また彼女に会いたいと思っているのだろうか。
 あの時は、話しかけることすら出来なかったのに、極大なる脅威を感じ取ってなお、また彼女を見たいと。
 だから、こうして、当て所もない放浪を続けているのだろうか。

 ―――おれは、やっぱり、少し、おかしくなっているのだろうか。

 足を止め、軽くこめかみを指で擦る。
 それでも彼の視線は、無意識に人混みへと向けられた。
 正面の信号の赤色が、もうすぐ青に変わろうとしている。
 信号が変わるまでの僅かな時間、多くのヒトが、車道を挟んで向き合っている。
 ゲンジの周囲にも、対面にも、そこに―――

「…………?」

 ひときわ目を引く、少女がいた。
 それに気づいたのは、自身の固有魔術を起動したからだった。
 視界内の人間の感情と、その方向を矢印で視覚化する。
 横断歩道の向こう岸、これからすれ違うだろう対象に対する警戒のつもりだった。

 予想通り殆どの人は何の矢印も出していないか、隣の人間に対する感情を短く伸ばす程度だった。
 しかしその内、一人の少女が伸ばす矢印に問題があった。
 <観察>と<警戒>、その二本のか細い矢印をこちら側の路上の人に次々と飛ばしては切り替えている。
 ぼんやりと日常を生きる者の感情ではない。明らかに何かを探している。
 なにより、こういう矢印を出している人間を仮想都市の内で見るのは、ゲンジにとって初めてではなかった。

 周囲を警戒し、敵を探す。
 聖杯戦争の参加者(まじゅつし)特有の矢印(かんじょう)。
 普段のゲンジなら、それを見た時点ですぐに身を翻していただろう。
 これまでも、そのスタンスが功を奏して生き延びているのだと考えている。
 しかし、この時、彼はその矢印と発生源から目を離すことが出来なかった。

 それは異国の少女だった。
 褐色の肌に白いワンピースが眩しい。可愛らしい女の子。
 矢印を起動するまで全く気づかなかった事が不思議なくらい、それは都心の雑踏のなかで異質な存在感を放っていた。
 だが、ゲンジがそこから目を離せなくなった理由は、少女の容姿だけが理由ではなかった。

 こちら側の歩道に向かって伸ばされる少女の矢印。
 <観察>と<警戒>。それに混じってもう一本、細い、非常にか細い矢印が重なっているように思えたのだ。
 しかし矢印本体があまりに細く、書かれた文字も比例して小さく、読み取ることが出来ない。
 ここまで細いと、もしかすると本人すら、発していることに気づいていないのかもしれない。

 ―――なにやってる。はやくにげろ。気づかれる。

 心の内側で叫ぶ自分の声を無視して。
 目を細め、ゲンジはより集中し、その感情を読み取ろうとしていた。
 自分でもなぜ、こんな危険を犯すのかわからない。
 そして案の定、悪い事態が現れるまで、時間はかからなかった。

 ゲンジと、少女の、目が合う。
 その瞳はまるで凪いだ湖面のように無感情だったが、それでもすぐにわかった。
 バレている。
 今、少女の矢印は他でもないゲンジに向けられている。
 <観察>と<警戒>。そして、もう一本も。
 数秒と建たずに観察の矢印が消え、警戒の矢印が急速に太くなっていく。

 ―――どうする。どうなるんだ、ここから。おれは、こいつは。

 多くの者がゲンジを見る時に含まれる<嫌悪>がそこに無いことに、彼が安堵する余裕はなかった。
 初めてまともに"敵"と正対する緊張。
 そしてようやく読むことが出来た3本目の矢印の記載に、彼の思考は乱れていた。

 <観察>と<警戒>。
 そして、重なるような、もう一本。
 とても細く、消えそうなくらい小さな文字で、ただ一言。

 "さびしい"、と。

 ―――こいつは、おれと、おなじなのか?

 その拙い文字に、無感情な瞳に、纏う寂寥の気配に。
 ゲンジは一瞬にして、泣きたくなる程の共感を得てしまった。
 愛でもなく。恋でもなく。同情ですらない。
 絶滅した筈の同族を見つけたかのような、ただ、狂おしいほどの共感(シンパシー)。

 それはある意味では正鵠を射ており、ある意味では哀しいまでのすれ違いだった。
 残酷な日常を生きた少年と、残酷な非日常に行き当たった少女。
 日常によって摩耗した精神と、非日常によって麻痺した精神。
 両者は確かに似通っており、しかし同時にどこまでも正反対の出自を辿って、今ここに向かい合っていた。

 信号が青に変わる。
 ゲンジの心中など関係なく。
 時計の針は止まらない。少女が動く。

 ゲンジは決めなければならなかった。
 逃げるか、立ち向かうか、あるいはこの少女と―――

「――――!!」

 そのすべての思考を、唐突に鳴り響いた銃声と爆音が断ち切った。 
 ゲンジも、少女も、思わず互いから視線を外し、その方角を見る。

「……なん、だ?」

 突然の異常事態に、乾いた口から粘ついた息が漏れた。
 北東、繁華街の方角から黒煙と火の手が上がっている。
 少し遅れて、悲鳴、怒号、そして、こちらに向かって殺到してくる群衆が見えた。

「なんなんだよ、くそったれが……!」

 正面の歩道に視線を向けると、既に少女の姿は消えている。
 既に考える猶予も、選択肢もない。
 恐慌状態の人波みが押し寄せる前に、ゲンジは身を翻し、ビルの隙間から路地裏に飛び込んだ。










『―――板橋区ではこの他にも家屋の倒壊や火災など、様々な被害が出ており、政府は近隣住民の避難命令を――――』










「まったく、派手に御礼してくれやがったもんだな」

 ハイブランドのスニーカーが床に散乱したガラスと木片を踏み砕き、変わり果てた店内にポギリとくぐもった音を鳴らした。
 繁華街の片隅にある薄汚れたテナントビル、2階にあったガールズバーの内側は数分前に発生した爆発によって、もはや原型を留めていない。
 積み上がった瓦礫と、未だ舞い散る灰と火の粉をタトゥーの刻まれた太い腕で払い除け、周鳳狩魔はその場所に足を踏み入れた。

 半グレグループ〈デュラハン〉。
 周鳳がリーダーを務める組織の拠点の一つ。
 この場所、『BAR Coshta』が白昼の襲撃を受けたのは、彼がここに来るたった数分前の出来事だった。

 確認するまでもなく、店内にいたデュラハンのメンバーは皆殺しにされていた。
 全員が身体を輪切りにされ、仕上げとばかりに外から投げ込まれた爆発物で吹き飛ばされた結果、焦げ付いた血肉が床と壁に飛散している。

 周鳳がそこに居合わせなかったのは、運命の悪戯と呼ぶべき偶然にすぎない。
 来る途中で後輩からの電話があり足を止めた。その会話がきっかけでタバコを切らしていた事を思い出した。
 よってコンビニに寄って行った、そのたった数分が運命を分岐させたのだ。

 もしも電話が鳴らなければ、タバコが切れていなければ、偶然近場にコンビニが無ければ。
 彼は想定した時間通りにバーに来て、そして襲撃者と相対していただろう。
 それは彼にとって幸運だったのか、あるいは不運だったのか、答えはもう誰にもわからない。
 しかし、今からでも分かることがある。

「どうだ、ゴドー?」 

 焦げついた部屋のなかで、周鳳は己がサーヴァントに呼びかけた。 

「ええ、あなたの考えている通りでしょうね。魔力の痕跡が顕著に残っています」

 すると傍らに現れる金髪の青年。
 ゴドフロワ・ド・ブイヨンは握る十字架を一振し、周囲の灰と残り火を吹き散らした。

「非常に濃く、冒涜的で剣呑な魔力だ。間違いなく、サーヴァントがいたに違いありません。
 それも、マスターと揃って来たのでしょう。隠すつもりも無いようです」

「だろうな、こんなもんまで残してやがる」

 周鳳は壁を顎でしゃくり、そこに大きく刻まれた血文字を眺めた。

 ―――"十二時間後、新宿"。

 ―――"刀凶聯合"。

 次の襲撃予告であることは明らかだった。
 新宿にはデュラハンの主要な拠点が存在しており、敵はそれを把握した上で、12時間後に狙うと言っている。
 だが本質的な意図はおそらく―――

「悪国の野郎、誘ってやがるな」
「そのようですねえ」

 今日この場所で、周鳳の部下を殺した敵―――半グレグループ〈刀凶聯合〉、その頭。
 悪国征蹂郎の狙いは組織としてのデュラハンではなく、周鳳狩魔だと彼らは考えていた。
 周鳳が悪国の部下を凄惨な拷問にかけ、悪国が聖杯戦争のマスターである確証を得たように。
 悪国もまた周鳳をマスターと断定した上で、可能な限り早期の決着を狙った。
 今日この場所にやってきたのは偶然ではなく、周鳳との直接対決を望んでいたのかもしれない。

 仮想都市東京に根を張る2つの半グレ組織。
 〈デュラハン〉と〈刀凶聯合〉。
 過去数度の流血を伴う衝突を経て、もはや彼らは不倶戴天の宿敵と成っていた。

「しかし12時間後ですか、あなたはどう考えます?」
「ああ? まあ、そうだな……尻尾巻いて逃げる気もねえが。乗せられるのも気に入らねえ。
 それまでに見つけてぶっ殺すのが当面の方針だろ。こりゃ逆も言える話だしな」
「逆、というと?」
「あっちもお利口さんに12時間待って仕掛けてくる保証なんざねえってコトだ。
 予告自体が油断させる罠かもな。ま、あいつ自身はそういう性分じゃなさそうだが」
「あなたには悪国征蹂郎の思考が分かると?」
「……なんとなくだがな」

 同じ裏社会の住人、闇の世界で人を纏めて生きる者としての、思考の追随(トレース)。
 しかしそれは、間違っても共感などではあり得ない。
 むしろ周鳳が悪国の思考を読めば読むほど、己との相違点が浮き彫りになるように思われた。

 この襲撃などが正に良い例だ。
 部下を殺された報復。間髪入れない、殆ど反射のような徹底した制裁。
 腹が立つのは分かるし、殺してやりたくなるのも分かる。周鳳とて同じようにしてヤクザの事務所を血で染めた事は多々ある。 
 どちらも、やると決めたら徹底的だ。他者からは同じように、「イカれている」と評される。
 ならば二人のやり方はどう違うのか。

「奴は多分だが、奴の基準だとマトモなんだろう」

 端的に言って、周鳳のやり方には手順があり、情がない。悪国のやり方には情があり、手順がない。
 相手がマスターであると分かっているなら、周鳳であれば同じような無鉄砲な戦い方はすまい。
 仲間を殺された怒り心頭に、必ず殺してやると誓ったとしても。
 勝つための最善手を理性によって組み立て、その後で、狂気によってどのような残虐な手段も実行に移すだろう。

 対して悪国の、刀凶聯合の動きは、まるで反射で噛みつく狂犬のそれだ。
 その狂犬はあり得ざる重武装に身を包み、恐れを知らぬように襲いかかってくる。
 これまで拷問にかけた者の言葉を鑑みるに、悪国はおそらく己よりもずっと情に厚い人物であると周鳳は考えていた。
 故の即報復。しかし、その生き方で今まで裏社会を生きてこれたとは、周鳳には信じがたい。

 普通は寝首を掻かれるか、組織として体裁を保てずに自滅していく。誰もついて行けないからだ。
 しかし、そうなってはいない。悪国の部下は皆一様に恐れを知らぬ。
 悪国と同じように。まるで、彼の精神力が伝染していくように。

 同じ「イカれている」が、まるで異なる。
 狂気を自覚し、コントロールする周鳳のそれとは全く違う。
 生まれつき外れている。外れていることを自覚すらしていない。
 そんなものを、周鳳は狂気とは呼ばない。

 周鳳にとって、狂気とは変化を伴うモノだ。
 人として知り得、備えた当然の倫理観、精神の枷を外す行い。
 ならば、ありのままで外れた者は、きっと狂ってすらいない、それは怪物でしかないだろう。
 人間の社会にあってはならない。存在を認めてはならない。淘汰されるべき獣だ。

 故にこそ、彼と我は決して相容れない。
 未だ出会うことのない、二人のアウトロー。
 宿敵。その相克は、既に決定的なまでに、運命づけられていた。

「では先日あなたが言っていた方針とやらも、継続ということですか」
「ああ、12時間で集め切んのは厳しいだろうが、動き自体は変わらねえよ。使えそうな奴は引き入れる。駄目そうな奴は潰す」

 聖杯戦争を勝ち抜く上での〈デュラハン〉の拡大。
 徒党を組んで戦う事を、組織を治める男は躊躇しない。
 なにより、彼にはかねてから一つの懸念あった。
 各地の拠点から送られてくる"蝗害"の情報。
 そして、つい先程、板橋区に置いていた部下からの連絡と、送られてきた画像に、彼の懸念は確信に変わったのだ。

「何人か、面倒くせえのがいるみてえだわ。なあゴドー、お前、コイツらに勝てんの?」

 周鳳の掲げたスマートフォンの画面には板橋区の一角、その変わり果てた町並みが映されていた。
 蝗害に食い散らかされ穴まみれになって倒壊したビル、一面の凍原に覆い尽くされた車道、散らばる焼死体とツートンカラーの痕跡。
 異常災害に異常気象、異常自体のオンパレード。
 ここから十数キロしか離れていない場所で生じている事実を、写真を見た今でも信じがたい。

「君は本当に不敬不遜ですね。誰に向かって言っているのです?
 勿論、負けるつもりはありません。が、まともに当たるのは避けたほうが良い相手ではありますね。全くもって業腹ながら」

 決して怯むことのない狂戦士も、強敵であることは素直に認める規格外。
 まさに厄災の権化。それが一つではない。
 明らかに度外れた出力を誇る主従が、少なくとも二組以上は存在している。

 これまでは意図的に、マスター同士での協力協定を行ってこなかったが。
 特記戦力(バランスブレイカー)を確認した以上、そしてそれが複数である以上、迅速に対抗可能な組織を形成する必要に迫られている。
 懸念があるとすれば、悪国はどちらなのか、ということだった。

 明確に敵対したデュラハンを除いて、聯合が本格的に別の主従と事を構えた形跡はない。
 故に未だに見えてこない実力、順当にいけば12時間以内に対決することになる悪国征蹂郎は、規格外の一人なのか。
 もしも、そうなのだとしたら―――

「丁度いい予行演習になる」

 仮にそうであったとしても、奴らを殺す練習台にするまで。

「そのうえで、とっとと聯合を潰して、残った戦力を吸収しちまえばいい」

 どうせ殺す相手なのだから、同じことだ。
 丁度、デュラハンは東京の西側に、刀凶聯合は東側に版図を広げている。
 聯合を潰し、その勢力図を一色に塗り替えてしまえば、周鳳は組織戦における揺るぎなき地位を確立するだろう。

「狩魔、そろそろ動くべきです」
「だな。今にサツも寄ってくる」
「それもありますが、この場所に長く留まるのは勧めません。
 鉄臭い精神汚染の痕跡があります。私には通じませんが、マスターが長く当てられた場合、保証は出来かねます」
「……なるほど、また一つ合点がいったよ」

 さっきから気持ち悪りいわけだ、と朗らかに言い放って。
 周鳳は一つ伸びをした後、悠然と歩き始めた。

 しかし最後に、バーの入口付近で足を止め。
 そこに転がっていた生首の、虚ろな瞳と目を合わせた。 

 弔う事も、拝むことも、周鳳はしない。
 この場で足を止め続け、それを行うほど温みのある余分を、彼は持ち得ない。
 代わりに、何も映さない虚に向かって、端的な言葉だけを置いていった。

「心配すんな。ちゃんと、ぶっ殺してやるからよ」

 遠くに響くサイレンの音。
 白昼轟いた惨劇に、外の恐慌が収まる気配もない。

「これからどうするのです、狩魔?」
「そりゃ追撃だろ。悪国の野郎、まだ近くにいるんだろ? 別に12時間もいらねえ。今すぐ殺してやるよ」

 混沌深まるばかりの東京の街に、狂戦士たちは降りていく。










『なお、本日、正午現在では飛蝗の群れの活動は落ち着いている、とのことです。……さて、次のニュースです。東京都内で発生している団―――』










 ―――くそったれが!

 薄暗い路地裏の片隅にて、ゲンジは己の失敗を自覚していた。
 華やかな表通りから小道に入って3度も曲がれば、一転して汚らしく日の当たらない袋小路。
 何らかの建造物を取り壊した跡なのだろうか、妙に空間こそ開けているものの、四方をビルの背面に囲まれたその路に先は無い。
 曲がる通りを誤った、いやそもそも、彼は対応を誤ったのだ。
 ここから逃げ出すには、来た道を引き返すしか無い。しかし、背後には―――

「よお……つれねえじゃねえか」

 それは袋小路の入口から、ぬっと闇の中から抜け出るように現れた。
 金髪のオールバックに黒のメッシュ。いかついタトゥーを刻んだ腕の先、右手には武骨な銃が握られている。
 同じ男性でありながら、ゲンジとは似ても似つかぬ均整のとれた長身の体格。
 明らかに市井の人ではない、暴力の気配を纏う男。

「ゆっくり落ち着いて、話をしようや、なあ」

 殺到する人波から逃れるために路地裏に入った。そこまでは良かったのだ。
 グズグズせずに遠くまで離れてしまえば、この男と行き合う事もなかったのに。
 男と出会った時も、中途半端に身構えたりせずに、脇目も振らず逃げ出してしまえば。

「お前、悪国のお友達か?」

 首を振って否定する。
 そんな名前は聞いたことがない。
 だけど、この問答に本質的に意味がないことは、ゲンジとて察している。

「どう思う、ゴドー」
「残念ながら、私に心を読む力はありませんよ。身体に聞くのが早いんじゃないですか」

 男の傍らに立つ、金髪の聖騎士。
 ゲンジは彼を見てしまった。そして、反応してしまった。身構えてしまった。
 結果、気づかれてしまった。それが、最大の失敗。

「やっぱそうか、いい加減、一方的なのは飽きてきてんだが」
「別に、一方的にはならないんじゃないですか」
「……それもそうか」

 話し合いを終えた主従が、揃ってゲンジを見る。

「お前、俺と同じだもんな」

 敵として、マスターとして、ゲンジを見ている。
 恐ろしい。彼らは対等な敵としてゲンジを見ているのだ。
 対等に暴力を行使するに、不足のない相手だと認識している。

 とんでもない。ありえない。勝てるわけがない。
 こうして敵を目の前にして、初めて間近で相対して、それでもゲンジには勝てる展望など見えなかった。

「ほら、さっさと出せよ。従者(サーヴァント)、いるんだろ?」

 恐ろしい。その大柄の体格でも、握られた拳銃でも、明らかにゲンジのそれとは違う理知的なサーヴァントでもなく。
 男の、その精神性に、ゲンジは恐れを抱いていた。

「悪いが今はあんまり悠長に待てる気分じゃなくてな」

 男の態度と裏腹に、その矢印は細すぎず、太すぎず、静かな軌道を描いている。
 矢印は男と出会った時点で起動しているが、最初は機能不全が発生したのかと思った。
 あまりにも、外(みため)と内(こころ)にギャップがあったのだ。
 殺意と観察、慢心と警戒、疑義と僅かなる期待。
 感情によって行動を決定するでなく、行動に合わせて感情の強弱を変えているかのような。
 コントロールされた激情。粗暴に振る舞う男の内側は、見てくれに反して精密機器のように統制されている
 その在り方を、ゲンジは恐ろしく、少し羨ましく、そしてほんの少し、美しいとさえ思った。

「残念、時間切れだ」

 男の隣にいた聖騎士の姿が消える。
 瞬きを一度する間に、彼はゲンジの目の前に立っていた。
 殺される、と思った。あと1秒の合間に、振り上げた剣が降ろされ。

「――――ッ!」 

 そこに赤い毛むくじゃらの影が割り込んだ。

「ほう」
「へぇ」

 弾き飛ばされた聖騎士は、しかし優雅な所作で数歩後ろに着地した。
 その更に後方で、男は興味深そうに眉を動かす。

「原始人……か? おもしれえの連れてんな」

 路地裏の中央。ゲンジを守るようにして立つ一騎のサーヴァント。
 赤い体毛に覆われた寸胴の体躯に纏う毛皮の衣服、石器を木の枝先に括り付けた槍を握りしめる野性的な存在。
 それがサーヴァントとしては異質な部類であることを、彼らもまた感じ取っている。

「一撃で首を落とすつもりだったのですが。三度斬っても深傷にならない。
 硬い……わけではないですね。おそらくコレは、こちら側の劣化だ」

 聖騎士は十字の剣を一振し、付着していた血液を払う。
 赤い飛沫がゴミの散乱するアスファルトの地面に飛び散ったとき、ようやくゲンジはそれに気づき、目を見開いた。
 斬られている。ゲンジのサーヴァント、ネアンデルタール人の首、胴、上腕にそれぞれ横薙ぎに赤い裂傷が生じている。
 一体いつ、どのようにして行った斬撃なのか。タイミングは一つしかない。先程の交錯、その一瞬で、騎士は既に3度もの攻撃を行っていたのだ。

「刃を向けた瞬間に切れ味が消失しました。剣としては機能を殺されているに等しい。
 これでは棒切で殴っているのと変わりませんね。ああ、なんと不敬な……」
「多分、当たりだな。俺の得物もこのザマだよ」

 男が手に持っていた拳銃を騎士の足元に放り投げる。
 地面を滑り、2騎のサーヴァントの間で静止した銃はスライドが引かれた状態のまま、恐らく弾詰まりを起こしているのだろう。
 ネアンデルタール人のスキル、『霊長の成り損ない』。
 滅びし者の文明否定。彼に向けられた文明の産物は、その劣化を免れない。
 例えそれが、サーヴァントの振るう輝かしき宝具、尊き幻想であったとしても。

 ゲンジの思考に、一筋の光明が差した。
 スキルが通じた。幾つかの条件によっては無効化される不安定なスキルではあるが、彼らには問題なく作用することが分かった。
 ならばまだ希望はある。この状況を切り抜けられる可能性がある。
 相手のサーヴァントがいくら優れた存在であったとしても、切り札を封じ、原始の殴り合いを強制してしまえば、その条件は―――

「まあ、でも、関係ありませんけどね」

 それが甘い幻想であったことに気付かされるまで、数秒も与えられなかった。
 やおら踏み込んだ聖騎士は、腰だめに構えた十字剣を振り抜く。
 先程の目にも止まらぬ斬撃とは違い、ゲンジの目にも鮮明に映る流麗な動作で、しかし比べ物にならないほどの暴力性を伴って。

「――――」

 ぐしゃりと、肉と骨を潰す嫌な音が路地裏に轟いた。
 言葉もなく、頭蓋を砕き散らされたネアンデルタール人は仰向けに倒れていく。
 ゲンジもまた驚愕によって声を発することが出来ない。
 三度の斬撃で浅い切り傷しか与えられなかった筈の騎士が何故、一撃でサーヴァントを下すことが出来るのか。

「おやおや、なにも驚くような事ではありませんよ。
 手に握っている物が剣であれば、そのように。
 鈍器であれば、そのように。
 力の入れ方を加減するだけのことでしょう」

 狂化と信仰。スキルによる、筋力ステータスの超強化。
 武器がナマクラになったところで、肉体の最大出力まで下がるわけではない。
 騎士の武器が弱くなったところで、ネアンデルタール人の優位が担保されるわけではない。
 彼らの間には、素のスペックの時点で大きな開きがある。

 つまり端的に言ってしまえばこういうコトだった。
 ネアンデルタール人よりも、騎士のほうが、単純に強い。
 残酷なまでの単体性能の格差、そしてそれは―――

「すげえな、これ分身か?」

 一体が二体に増えたところで、覆るものですらない。
 今、物陰から飛び出し、マスターに飛び掛かった"もう一体のネアンデルタール人"を、聖騎士はその場から一歩も動くこともなく迎撃してみせた。
 身体を軽く捻り、力任せに十字剣をぶん投げ撃ち落とす。
 例によって剣としての切れ味は皆無に等しかったが、サーヴァントの基準に照らしても尋常ではない筋力が生み出す運動エネルギーだけで、ネアンデルタール人の全身が弾き飛ばされた。
 後に待っているのは蹂躙劇だけだ。地面に転がった毛むくじゃらの身体を、騎士は何ら躊躇なく上から殴打し、数度の打撃で頭蓋を踏み砕いてトドメを刺す。

「複製と言ったほうが近いのかもしれませんね。性能に差は無いように感じました」

 仕事を終え、頬に血をつけたまま、狂える騎士は朗らかに笑む。
 ネアンデルタール人の宝具『いちかけるご は いち(One over Five)』。
 現生人類5人分の質量を捧げることで生成する、ネアンデルタール人のクローン。
 ゲンジがこの聖杯戦争に参加した初日、住んでいた団地の独居老人を集めて作ったそれすらも今、あっさりと討ち倒され。

「なるほどな、多少は驚いたが……さて」

 そして今、逃げ場のない袋小路の最奥。
 薄汚れた路地裏の片隅でへたり込んだゲンジを、その男は見下ろしていた。

「おい。猿回しはもう品切れか?」

 オールバックの金髪が路地裏に差し込んだ僅かな光を受けて、チラリと光る。
 ゲンジは答えることが出来ない。
 声が出せない。恐ろしい。男が恐ろしい。これから起こる暴力、流血、己の死が恐ろしい。
 だが、それ以上に、なにか別の、ゾワゾワとした妙な感覚によって、彼は上手く言葉を返すことが出来なかった。

「まだなんかあんだろ? 見せてくれよ」

 逆光によって表情を伺うことは出来ないが、いまもハッキリと男の矢印が見える。
 腰を抜かしたように座り込んだゲンジを、上段から見下ろす長身。
 彼から伸びる幾つもの矢印。先ほどとは強弱の差はあれど、内容については変わらない。
 殺意と観察、慢心と警戒、疑義と、そして、そして―――

「どうします、狩魔。今ここで彼の身体にじっくり聞くか、早々に始末して悪国征蹂郎の追撃を再開するか」
「うーん、いや、なんていうか、そうだなあ」
「急に歯切れが悪いですね」

 それみたことか。
 心の何処かで誰かの声がする。

 ―――わかっていたことだ。おれのサーヴァントは弱い。勝てるはずがなかったんだ。

 なけなしのスキルは運良く通じたにもかかわらず、正面からの殴り合いで圧倒された。
 弱いサーヴァントを1騎から2騎に増やしたところで、さして違いなんてなかった。
 勝てない。現にそうなっている。ゲンジの想像を遥かに上回るほどの差があった。
 きっと、己は死ぬだろう。殺されてしまうのだろう。分かっていたことだ。辛い、苦しい、恐ろしい、なのに。
 なのに、この、感情は、なんだ。

「いや、こいつさ……」
「もしやまた、"いつもの"ではないでしょうね」
「違えよ、こいつ……」

 ゲンジは今日ほど、自分の矢印が見えなくて残念に思った日は無かった。
 自分の矢印が見えたなら、この感じたことのない感情の名前を、知ることが出来たのに。

 あの白い髪の少女、極大のブラックホールをなぜだか今、思い出す。
 誰かのクソでかい感情を一身に集める彼女への思い。
 それはきっと、憧れだったのだろう。
 あんなふうに成りたかった。
 あんなふうに成れなくても、せめて、あの感情の一端でも受け取ることが出来たなら、それはどんなに―――

「こいつ、笑ってんだよ、さっきからずっと」

 金髪の男からゲンジに伸びる矢印のなかで、最も細く、最も小さく、だけど確かに、それがあった。
 それは時間が立つにつれ、どんどん萎んで消えていく。
 代わりに失望の二文字が太く成っていく。
 それをゲンジは"さびしい"と思った。
 だって、ゲンジの人生のなかで、そんな感情を向けられたことは、いまだかつて無かったことだから。

 まだ、その矢印は伸びている。
 ゲンジの胸の真中へと。
 小さな文字で書かれている。

 ―――"期待"。

「―――――は」

 応えたい、と思った。

「―――――は、は、ハ」

 乾いた、不格好な、それは少年が生まれて初めて自発的に行った。
 戦いに臨む為の、獰猛なる笑みだった。

「―――――みせて、やるよ、くそったれが」










『次のニュースです。東京都内で発生している団地居住者の行方不明者数は、今月までに約■■■を超え――』










 周鳳も、ゴドフロワも、その光景には一瞬、言葉を失った。
 突如として、周囲に赤い波が出現したのだ。
 赤い毛むくじゃらが、路地裏を埋め尽くし、二人を取り囲んでいる。
 薄汚れた袋小路、コンクリートジャングルの中心で、原始の群れが集結する。

 サーヴァント、ネアンデルタール人。
 宝具『いちかけるご は いち(One over Five)』。
 ネアンデルタール人のクローン。彼らは複製であると同時に全員が本体であり優劣はない。
 全て同様のスペック、個々が優れているとは言えないまでも、間違いなくサーヴァントとしての機能を備えた同位体。
 それが今、50体以上、一度に現界を果たしているのだ。

 地面に伏せ、飛びかかる機会を伺う者達。
 ビル壁の窪みに取り付き、ぶら下がる者達。
 更に上方、ビルの屋上からこちらを見下ろす者達。
 上下左右、完全包囲の陣形で迫る、それはもはや軍勢であった。

 周鳳は知る由もないが、宝具の詳細を知る者が見れば、その異常なる事実に気づいただろう。
 1体につき、5人。現生人類の質量を捧げることで生成するクローン。
 それが50体。霊体化したままストックしている個体を合わせれば更に増える。
 つまり、覚明ゲンジは聖杯戦争開始から今日に至るまでの僅か1ヶ月で、既に250人以上の人間を殺害していることになる。

 世間を騒がせる災厄、蝗害の影に隠れるように、彼は黙々とその備えだけを行ってきた。
 都内の団地に住む独居老人達を中心に、社会から忘れられた孤独な存在達を人知れず殺し、捧げ続けてきた。
 誰からもプラスの感情を向けられない孤独な存在を殺し、原始の群れというプラスに変換する。
 それだけを、この1ヶ月間、彼は1日も休まず実行し続けたのだ。

 来たるべき戦争のために。
 ほんの少しでも、ましな戦いをするために。
 誰かに、がっかりされないように。そのためだけに、彼は備え続けてきた。

 小隊規模の人数で包囲を行っていながら、言語能力を喪失したバーサーカー達は一言も発しない。
 肉の密集した異様な熱気と、不気味な静寂が周囲を支配している。

「"同胞よ―――"」

 ゴドフロワが第二宝具を展開するべく、ゆっくりと魔力を回そうとしたその時、

「いや」

 周鳳が軽く手で、それを制した。

「必要ねえよ」

 バタバタと肉のぶつかる音が周囲に連鎖する。
 包囲していたネアンデルタール人が、次々と倒れては霊体に戻っていく。
 結局のところ、あっという間に、数十秒も待てば元の、つまり周鳳とゴドフロワ、そしてゲンジの3人だけの空間に戻ってしまっていた。

「……どうだ、気分は?」

 ゲンジは既に立ち上がる体力もないのか、汚らしいコンクリートの地面に仰向けに倒れたままだ。
 その現象は単純なる魔力切れ。
 実戦経験のないゲンジは加減を知らなかった。
 50体もの霊基を同時稼働させて、魔術師としてろくに修行も行っていない彼の魔力が、底を突かない筈はない。

「くそ……た……」
「そうか? けっこういい顔してるぜ」

 ここに、盛大な自滅を果たした少年を、周鳳は改めて見下ろしていた。

「お前、名前なんていうんだよ」

 ゲンジがいくら目を凝らしても、もう矢印を見ることが出来ない。
 そのための魔力すら使い切ってしまった。
 だけど、なんとなく、今のゲンジには彼の感情が分かる気がしたのだ。

「ゲンジ……覚明ゲンジ」
「そうか、ゲンジ」

 金髪の男は朗らかに、口の端を歪めて笑った。

「お前、イカれてんな」 

 先程の蛮行、自らの魔術回路を焼き切る直前まで行使した無謀。
 ほとんど自殺未遂のような暴走行為を、彼は面白いと笑っている。

 その時ようやくゲンジは気付いた。先程から続いている、ゾクゾクとする不思議な胸の疼き。
 ああもしかすると、これが"嬉しい"という感情なのだろうか。
 期待されて、応えられて、嬉しい。ずっとずっと欲しかった感情。承認されたいという願望。
 誰かに、楽しいと、面白いと、価値があると、思って欲しかった。だってそのために、ずっと準備をしてきたのだから。

 ―――ああ、よかった。備えてきて、よかった。たくさんころして、ほんとうによかった。

「悪国征蹂郎の関係者かどうか、確かめなくていいんですか?」
「こいつは違えよ。お前だってもう分かってんだろ。そもそも、仲間を殿に使うなんざ、奴のやり方じゃねえしな」
「やれやれ……だったら結局、"いつもの"じゃないですか」

 呆れつつ笑いながら、霊体化していくゴドフロワ。
 その光の粒子を背景にして、周鳳狩魔は手を差し伸べた。

 そう、いつものように、そして、いつかのように。
 彼自身がそうしてもらった日のように。
 社会に居場所のない、はぐれ者のために。
 周鳳狩魔は、そうするのだった。

「―――なあゲンジ、俺たちとつるまねえか?」

 この日、僅かな光差す薄汚れた路地裏の片隅。
 ゴミ溜めのソドムの中心にて。
 狂する戦士達の行軍に、新たな戦奴が加わった。









『今、速報が入りました。先ほど、千代田区の雑居ビルで爆発と火災が発生し――――』









 ―――どうしてなのだろう。

 そんな疑問が時折、アルマナの思考に紛れ込む。
 深く考えたことはない。
 いつも考える前に蓋をして、消し去ってしまう。なんてことない、ちっぽけな疑問だった。

 薄暗い路地裏を一人で進みながら、少女はその違和感に気づいていた。
 おかしい。今日はおかしい。何かが変だ。
 どうしてこうも、余計なことばかり考えてしまうのだろう。
 ヒビが入っている。麻痺させていた筈の感情に、凪いでいたはずの精神に。

 さっきの表通り、車道を挟んだ対岸にいた、マスターの一人と見られる青年。
 彼の虚ろな目を直視してしまったからか。直後の爆音と銃声を聞いてしまったからか。
 いや違う、もっと前からおかしかった。それはきっと、この地区に来てから、ずっと。

 ―――どうして。

 止めようとしているのに。
 思考が、コントロール出来ない。
 銃声、爆音、悲鳴、流血、その残響。

 ―――どうして、こんなこと、今更、思い出してしまうのだろう。

 耳鳴りが、する。

 ―――どうして、私なのだろう。

 あの集落で、あの優しい人たちの中で。
 どうしてアルマナ・ラフィーだけが、気づいてしまったのだろう。

 ―――なにか、おかしい。

『逃げて、アルマナ』

 それは母の最期の言葉。
 アルマナより強い大人なんて、幾らでもいたあの場所で。

 ―――なにかが、いる。

『逃げろ。生き延びるんだ』

 それは父の最期の願い。
 どうしてたった一人、気がついてしまったのだろう。

 ―――薄暗い路地裏の前方、そこに。

 防衛する、ではなく、攻撃する。
 生かす、ではなく、殺す。
 そして、逃げる、ではなく、



『――戦え』



 ―――その概念を体現する、あの男が立っている。


「……あ………ああ……!」

 路地裏の壁に張り巡らされたダクトの下、まるで夜の森に潜む獣のように、その男は路地の影に留まっていた。
 白コートを身に纏う大柄な体躯から立ち昇る凶の気配。
 目元にかかる黒髪と、忘れもしない、その隙間から僅かに見える瞳の色。

 あの日、見たのと、同じ色。
 まっかな、たたかいの、いろ。

「――――――ッ!!」  

 フラッシュバックを掻き消すように。
 瞬時に、3体のスパルトイを展開する。
 戦え、戦え、戦え――――!
 戦わなければ――――!

 血を沸騰させるような指令が、全身を走り抜けていく。どくどくと脈動する。
 アルマナが己の心臓の音を聞いたのは、多分あの日以来。
 故郷の集落に銃声が轟き、何もかもが虐殺の波濤に飲み込まれたとき。

「キミは……」

 少女の存在に気が付いた男は、ゆっくりと口を開く。
 低く重い、陰鬱な響きを含む声。
 アルマナが男の声を聞いたのは、今日このときが初めて。
 だが、少女は彼を知っている。
 そして会話ならば、言葉を介さずとも、過去に一度だけ交わしたことがある。

「……そうか……あのときの……」

 今は遠い故郷の国、戦場と化したとある集落。
 惨劇の渦中にて、アルマナはその男の姿を見た。
 家族を惨殺され泣いていた少女は、虐殺者から向けられる銃口の更に向こう、偶然にも同じ戦場にいたその男と眼があった。
 あってしまった、その時、男の瞳は如何なる言葉よりも明瞭に、真っ直ぐに、それを伝えていたのだ。

『――戦え』

 恐らく特定の個人に向けて発せられたメッセージではない。
 自分自身か、世界そのものか、彼の身体を中心に、"戦い"という概念が流転するようにうねり逆巻く。
 アルマナ・ラフィーは確かにあの日、その在り方に触れていた。

 どうして忘れていたのだろう。
 どうして気づかないふりをしていたのだろう。
 あのとき、家族と一緒に死ぬ筈だったアルマナの、全身を動かしたモノの正体こそ。

「―――ハァ――は―――あ」

 息が整わない。
 落ち着けと叫ぶ理性、戦えと謳う本能。
 板挟みになった精神は、必死に自我を押し殺す。
 感じるな、考えるな、歯車になれ、そうでなければまた、傷ついてしまうのに。

「オレの方は……今ここで……キミとやり合うつもりはない……」

 臨戦態勢をとったまま、無意識にワンピースの胸元をつかみ、大量の汗に塗れた様子のアルマナ。
 対する男は少女に背を向け、静かな足取りで歩き出した。

「そのうえで……キミが戦いたいなら…………好きにすればいい」 

 離れていく。男が去っていく。
 アルマナはその背に、スパルトイを走らせようとして。

「ああ……それも構わない、別に……一緒に来たっていい……」

 代わりに、自らの足が動いていたことに気付いた。

「交渉、情報交換……理由はそんな所でどうだ……?
 …………オレも、他のマスターとは一度……話してみたかったから…………」

 男は振り返らないまま、あいも変わらず重苦しく、低い声でぼそりと話す。
 それが何故だか聞き取りやすく、はっきりとアルマナの耳の奥に染み込んでくる。

「オレは……悪国。
 悪国征蹂郎…………キミが名乗るかは、キミの好きにしろ」

 なぜ、今、自分は男の後を追っているのか。

「……アルマナ・ラフィー」

 なぜ、今、自分は名乗り返していたのか。
 未だに思考は纏まらない。
 だけどこの行動き自体は、君命に反するものではない筈だった。

 ようやく少しだけ戻ってきた冷静な思考で、アルマナは自分の行動に理由をつける。
 まだ、夜までは時間がある。
 王さまに情報を持ち帰ることが、今の少女の役割だ。

 口ぶりから明らかに、この男はマスター。
 いずれ、排除するべき敵。
 だが敵対行動に移るのは、彼から情報を得て、夜に王さまの判断を仰いでからでも遅くはない。

 そのはずだ。自分はまだ正常だ。
 ほんの少し、一瞬だけ、昔のことを思い出して、不具合が生じてしまっただけ。
 すぐにでもまた、もとの冷たい人形のような、時計じかけの機械のような思考に、戻れる筈だから。

 そう、少女は自らに言い聞かせるように、男の背中を追っていく。
 引き寄せられるように、闇の奥へと歩いていく。

 薄暗い路地裏の、赤い道。
 まっかな、まっかな、その足跡を辿るように。










『火災のあったビル近辺の路上では、一部の市民が暴徒化しているとの情報もあり、警察が交通規制を―――』










 悪国征蹂郎は戦場を往く。
 彼が戦場に赴くのではない、彼が歩いた跡が戦場と化すのだ。

 ―――思い通りには、いかないものだな……。

 征蹂郎は細い路地裏を進みながら独りごちた。
 部下を先に退かせ、自ら殿を務めたのは勿論、敵の追撃を期待していたからだ。
 今日ここで、デュラハンのリーダーを排除することが理想だった。
 早急に仲間の仇を討ち、抗争を終わらせたい、それが征蹂郎の偽らざる本心。

 だが期待していた周鳳狩魔との邂逅は無く。
 代わりに出会ったのが、背後を歩いている一人の少女。

 ―――オレにも……あったのか……因果と呼べるものが……。

 いつかの戦場で出会った少女。
 言葉を交わしたことはない、それは一瞬の邂逅に過ぎなかった。

 かつて所属していた暗殺者養成施設における最終試験。
 内戦状態の異国で繰り広げた、戦いの日々。

 その集落の末路は何となく憶えている。征蹂郎が経験した中でも、特に凄惨な戦場の一つだった。
 征蹂郎の標的がそこに逃げ込んだこと、間の悪いタイミングで政府軍が踏み込んできたこと、住民の一部が恐慌状態に陥ってしまったこと。
 幾つもの不運が重なり、結果として地獄のような混戦地帯と化していった。

 再会した少女に、特に思い入れが在ったわけではない。
 だが、記憶に残る泣き濡れた少女の姿と、今の人形のような少女の姿が重なったとき。
 そこにもう一人、日本に帰国した時の、帰る場所をなくして途方に暮れていた頃の己を、見てしまったような気がした。
 居場所を奪われた同士。これは共感なのだろうか。
 少なくとも、戦闘態勢を取った相手に暴力で応える気にならなかったのは、征蹂郎にとっては非常に珍しいことだった。

 そう、つまり、これは非常に稀有な例外。
 彼の暴力は本来、もっと直線的に振るわれる。
 もちろん、今日、彼が標的と定めた男には、もはや一欠片の情けも与えるつもりはなかった。

 周鳳狩魔は、悪国征蹂郎の仲間を殺した。
 悪国征蹂郎の居場所を奪おうとしたのだ。
 故にもはや、激突は避けられない。

 ―――デュラハン、周鳳狩魔…………容赦はしない。

 刻限(タイマー)は、提示(セット)された。
 これより十二時間後。
 もう一度、時計の長い針と短い針が、天井を指して重なる時。
 あるいはもっと早く、何れにせよ、もはやその相克を止める事は絶対にできない。

 戦端は、必ずやこの東京で花開く。
 何故なら悪国征蹂郎は戦場を往く。
 彼が戦場に赴くのではない、彼が歩いた跡が戦場と化すのだ。

 "戦い"。
 それを体現する者の進軍が止まることはない。
 男の影が妖しく蠢き、赤いあぶくを弾きながら、誰にも聞こえない周波数でがなりたてた。


 地に紅き染みが残る。

 かの足跡より滲みし朱は、世界を侵せし澱となる。


 おお、来たれよ。

 其は終末を呼び込む喇叭なり。


 おお、往けよ。

 其は停滞を切り裂く大火なり。


 汝、喚きし無窮の獣。

 眩き血潮の波濤にて、紅き一線を踏み越えよ。










【千代田区・路地裏(東)/一日目・午後】


【悪国征蹂郎】
[状態]:健康
[令呪]:残り3画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:数万円程度。カード派。
[思考・状況]
基本方針:刀凶聯合という自分の居場所を守る。
1:デュラハンとの衝突に備える。
2:アルマナと交流し、情報を得る。
[備考]
※異国で行った暗殺者としての最終試験の際に、アルマナ・ラフィーと遭遇しています。

【ライダー(レッドライダー(戦争))】
[状態]:損耗なし
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:その役割の通り戦場を拡大する。
1:ブラックライダー(シストセルカ・グレガリア)への強い警戒反応。
[備考]


【アルマナ・ラフィー】
[状態]:健康、動揺
[令呪]:残り3画
[装備]:カドモスから寄託された3体のスパルトイ。
[道具]:なし
[所持金]:7千円程度(日本における両親からのお小遣い)。
[思考・状況]
基本方針:王さまの命令に従って戦う。
1:日中は情報収集。夜は王の命令に従って戦闘行動。
2:悪国征蹂郎から情報を引き出し……その後は……。
[備考]
※覚明ゲンジを目視、マスターとして認識。
※故郷を襲った内戦のさなかに、悪国征蹂郎と遭遇しています。


【千代田区・路地裏(西)/一日目・午後】


【周鳳狩魔】
[状態]:健康
[令呪]:残り3画
[装備]:拳銃(故障中)
[道具]:なし
[所持金]:20万程度。現金派。
[思考・状況]
基本方針:聖杯戦争を勝ち残る。
1:刀凶聯合との衝突に備える。
2:特に脅威となる主従に対抗するべく組織を形成する。
[備考]

【バーサーカー(ゴドフロワ・ド・ブイヨン)】
[状態]:健康
[装備]:『主よ、我が無道を赦し給え』
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:狩魔と共に聖杯戦争を勝ち残る。
1:レッドライダーの気配に対する警戒。
[備考]


【覚明ゲンジ】
[状態]:疲労(大)
[令呪]:残り3画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:3千円程度。
[思考・状況]
基本方針:できる限り、誰かのたくさんの期待に応えたい。
1:周鳳狩魔と行動を共にする。
2:今後も可能な限りネアンデルタール人を複製する。
[備考]
※アルマナ・ラフィーを目視、マスターとして認識。

【バーサーカー(ネアンデルタール人/ホモ・ネアンデルターレンシス)】
[状態]:健康(残り52体)
[装備]:石器武器
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:今のところは、ゲンジに従い聖杯を求める。
1:………………。
[備考]

[備考]
千代田区ではテナントビルの火災跡を中心にレッドライダーのスキル『喚戦』の影響が広がっています。


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最終更新:2024年09月01日 15:47