香篤井希彦は、げんなりとした顔で晩春の陽気の中を歩いていた。
 その右手にはコンビニのレジ袋。中には、いわゆるカップ系の安酒とつまみが入っている。
 言わずもがな、希彦が飲み食いするために買ったわけではない。
 希彦の生家である香篤井家は、端的に言って由緒正しき名門である。
 幼少の頃から金銭に不自由した試しはない。
 食べたい物や欲しい物を値段ではなく質で選ぶことができる、そういう人生を希彦は送ってきた。

 希彦とて酒は呑める。
 社交の場、女性と過ごす夜、少なくとも酔って恥を晒さない程度には肝臓も強い。
 そんな希彦に言わせれば、つまみはともかくこの安酒は論外。
 味も分からない貧乏人が糊口を凌ぐために啜る、この世で最も惨めな飲み物のひとつだと辛辣に評している。
 なのに彼がなんだってその曰く惨めな飲み物を買って家路についているのかと言えば、それは言うまでもなく彼の相方のせいだった。

 ――僕は一体この大事な局面に何をやってるんだ……?

 希彦が期待していたのは、悠久の歴史の彼方から顕れた英霊と肩を並べて戦う英雄譚だ。
 一口に勝つと言っても、やはり勝ち方というものがある。
 世界に愛された自分が勝ち残るのは当然の摂理であるが、それでもどうせなら後に誇れる勝ち方がしたい。
 誉れは高く、自分の名を聞けば誰もが羨望に目を輝かせるような劇的な勝利を。
 古今東西あらゆるサーガと比べても引けを取らない、まるでフィクションのような素晴らしき過程を。
 望んでいたはずだったのだが、その肩を並べるべき相手のせいで今自分の聖杯戦争はなんとも妙ちくりんな方に転がり出している。

 今日までざっとひと月ほどこの世界で暮らしたが、マスターらしい振る舞いよりも振り回されたり小間使いをさせられている記憶の方が遥かに多い。
 それもこれもすべて、希彦が召喚したあのサーヴァント。
 陰陽道の祖たる大術師、吉備真備――という名を名乗っている、だらしなくて品のない老人のせいだった。

 希彦から真備への印象を一言で言うならば、"性格のねじ曲がったクソジジイ"である。
 空前絶後の天才にして、成功することを運命づけられたこの自分をまるで未熟者の餓鬼のように扱い。
 挙句この通り、小間使いまがいの用件を臆面もなく押し付けてくるなんとも腹立たしい相手だ。
 正直なところ、本当にあれがあの吉備真備なのか、という根本的な疑問さえ希彦は何度も抱いている。
 安倍晴明。蘆屋道満。鬼一法眼。そうした伝説的な先人に並ぶ、ともすれば凌駕さえし得るだろう日本陰陽道史屈指のビッグネーム。
 術師としてのみならず軍略にも優れ、その生涯に渡ってあまたの逸話を残したまさに超一級の英霊。

 真備を呼んだと知ったときはそれはもう舞い上がったものだ。
 やはり自分は聖杯戦争に勝つべくしてこの地に舞い降りた天才なのだと、それはそれはご満悦だった。
 その真備が、まさかあんな性根のねじくれた耄碌爺だとは。
 本当にどんな人生を送ったらああも鼻持ちならない人物になれるのだろう。つくづく、希彦としては不服であった。

 ついさっきだってそうである。
 真昼だというのに、急に一杯やりたいなどと言い出した。
 最初は聞き流していたが、巧みな言葉で希彦を挑発。
 売り言葉に買い言葉で彼の持ちかけた"勝負"に応じ、そして案の定(本人はそう思っていないが)希彦が負けた。
 その結果、こうして小僧まがいのおつかいに行かされているのだ。
 不服も不服、大不服。取り柄の美顔にこれでもかと不機嫌の三文字を貼り付けて、希彦は拠点のアパートへ向けて歩いていた。

 ……やめよう。
 過ぎたことは忘れるべきだし、もっと建設的な思考に時間を使うべきだ。
 だいたい年長者の横暴にふて腐れるだなんて、それこそ子どものやることではないか。
 不満たっぷりの思考をなんとか切り替えつつ、前を向いて。
 そうだ、そういえば昨日真備の奴がなにか意味深長なことを言っていたな――と思い出したところで。
 希彦は、それを見た。


 "彼女"を、見つけた。


「――――――――ほう」


 思わず漏れた声は、そんな音だった。
 希彦は、大の女好きである。たらし、と言ってもいい。
 女性経験は豊富も豊富。この世界でさえ、真備の邪魔が入ったとはいえ口説き落とす一歩手前まで行っていた。
 その希彦が、ひと目見た瞬間に思わず感嘆の声を漏らした。
 それほどまでに、美しい女……いや、少女がそこにいたからだ。

 あどけない顔立ちは純真ながら、既に大人の色気の片鱗を宿しつつある。
 スタイルも実に素晴らしい。胸が大きいのは、言わずもがないいことである。
 頭頂部のアホ毛も、彼女ほどの美少女だとわざとらしくもあざとくも見えない。いやあざといのだが、それが素直に魅力になっている。
 だがそんな外見的特徴を抜きにしても、自分は彼女に見惚れていただろうと断言する。

 なんというか、すごく眩しいのだ。
 希彦のアパートは決して今風の、小洒落た建築様式ではない。
 "古い"と"新しい"の中間。どっちかというと、前者寄り。
 そんな寂れた建物でさえ、彼女の近くにあるというそれだけで妙に華やかに見える。
 仮に彼女の後ろに佇む背景が腐臭放ち蛆虫の涌くゴミ山であったとしても、同じだったに違いない。
 まるで、世界をその眩い存在感で圧しているかのよう。
 希彦は彼女を、こう思った。――太陽のような少女(ひと)であると。

 これは、捨て置けない。
 男として生まれたからには、断じて捨て置けない。
 そうと決まれば善は急げだ。
 希彦はさっきまでの苦虫を五匹噛み潰したみたいな顔から一変、いつもの甘いマスクに戻って少女の方へ早足で向かった。

 ちなみに、希彦も美しければ誰でもいいというわけではない。
 一応分別はある。中学生以下と還暦以上は相手にしない。
 ただ、見たところ彼女は高校生くらいに見えた。
 未成年ではあろうが、男と女が同じ空間に揃ったなら法律など無力である。
 法より自分を上に置く希彦は少女へ歩み寄ると、さっそく口を開いた。

「お嬢さん。何か、お困りですか?」

 その声に、少女が振り返る。
 間近で見ると、ますます唆るものがあった。
 まさかこのストレスフルな仮想都市でこんな逸材に出会えるとは。
 僥倖僥倖、と思いながら微笑む希彦に。
 少女はぱっと表情を明るくして、当たり前のように問いかけた。

「――あ、よかった。ここにマスターが住んでることは分かってたんだけど、よく考えるとどこの誰だかまでは知らなくて」
「……、……はい?」
「あなただよね、ここのマスター。かっこいいお兄さん!」

 ――今、この少女はなんと言った?

 理解した瞬間、希彦のスイッチが切り替わる。
 女を口説かんとするひとりの男から、聖杯戦争のマスターへ。
 〈古びた懐中時計〉を手に、針音の仮想都市へ迷い込んだ演者の思考回路へと。
 その瞬間、今まであんなにも美しく見えた少女の輝きがひどく恐ろしいものに見えた。
 咄嗟に懐へ手を突っ込む。聖杯戦争とは常在戦場。希彦は常に、式神の召喚符とした札の数枚を懐へ忍ばせていた。
 臨戦態勢。いや、ともすればこのまま仕掛けても不思議ではない勢いで。
 相対する希彦へと――、少女は首をぶんぶん横に振って、続けた。

「わわわ、違う違う! そういうつもりで来たんじゃないよ~!!」
「……じゃあ、何用です? できれば簡潔に答えて貰えると助かりますね」
「――えっとねぇ。私、友達がほしいんだ」
「…………今なんと?」

 ……彼女は今、なんと言った?
 眉間に皺を寄せてしまう希彦のことなど一顧だにせず。
 少女は、椅子に座って足をばたつかせる子どものように楽しげに語る。

「せっかくみんなで一緒に遊ぶんだもん。ずっとひとりで頑張るなんて、あんまりおもしろくないでしょ。それに寂しいよ」
「えぇ、……と。それはつまり、僕らの陣営と同盟を結びたくて来た、という認識で合ってましたか?」
「あ、うん! まあそんな感じかな。お兄さんたち、この間ここで結構派手に戦ってたでしょ?」

 希彦の脳裏に蘇るのは、あの竜牙兵達の襲撃だった。
 明らかに只の使い魔の域には留まらない戦力と猛威。
 忘れられる筈もない。あれは、希彦にとっては屈辱の記憶だったからだ。
 自分が築いた結界の陥穽を、敵の襲撃というこの上なく直球の形で突き付けられた。
 挙句自分のサーヴァントに助けられ、なんとか難を逃れた忌まわしい夜の話。
 そのことを振られて、見られていたのか――という驚きよりも矜持の問題で顔が曇ってしまう。

「驚いた。使い魔の気配には細心の注意を払っていたつもりなんですがね」
「ふふん。私のキャスターはすごいんだよ? この街のことならなんでも分かっちゃうんだから」
「……キャスタークラスを従えてるんですね。なるほど」
「あっ……。ご、ごめん! これオフレコで! 言っちゃダメって言われてたんだった……!」

 わたわた、とコミカルにリアクションする少女をよそに希彦は思う。
 同盟の申し出。そんなもの、優れたる己には無用である……と希彦の自尊心はそう言っていたが。
 一方で希彦の理性の方は、悪くない話であると一考の価値を見出していた。

 先ほどはああ言ったが、吉備真備の能力を信用していないわけではない。
 彼の人柄には多分に、実に多分に言いたいことがあるが、悔しいが希彦は優秀故に分かっている。
 あの陰陽師は、間違いなく自分が勝利を収めるにあたり有用な駒だ。
 この現状には文句があるものの、事実上、自分の現在の戦力は盤石と言っていい。
 ならばそこに、更に戦力が上乗せされたらどうなる?
 答えるまでもない。ただでさえ決まりきっている勝利の道は、さぞや危なげのないものになるだろう。
 自分がいて、――不本意だが――あの老人がいて、そして利害の一致する他者がいる。
 であればますます負ける筈がない。ほぼ確定している勝利から万一の要素まで取り除けるかもしれない。
 そういう意味で、悪い話ではないと希彦はそう思っていた。

(……前向きに検討する価値はある、か)

 心のなかで頷いて、改めて希彦は少女へ向き直る。
 その顔には、露出しかけた地金はもはや鳴りを潜めていた。

「――分かりました。では、中でもう少し踏み込んだ話をしましょうか」

 しかし、だ。
 改めて見ても、本当に可憐な少女だと思う。
 まさしく太陽のような美貌と、存在感だ。
 何しろ彼女の魂胆が割れた今でも、毛ほども警戒心や猜疑心のようなものを抱けない。
 希彦は彼女が聖杯戦争のマスターであると知った時、驚くと同時にある種の納得を抱きもした。

 ああ、それはそうだろう。
 このヒトが、まさか吹けば飛ぶような造り物などである筈がない。
 ――恐らく自分は、この交渉の行く先がどこであれ生涯彼女を忘れはしないに違いない。
 こんな、本当に美しく、可憐なヒトのことを。忘れられる筈が、ない、と。
 故に惜しい。自分が勝利するからには、いつかこの美しいものを虚構世界の塵に変えねばならないことが。


 ……香篤井希彦は紛れもなく優秀。
 麒麟児、神童と言っても何も間違いはない。
 彼は神に愛されている。世界に望まれている。 
 勝つべくして生まれ、自らもその自負を抱く天禀。
 だからこそ彼は、誰よりも早く彼女に出会えた。
 地上の太陽。狂気の星。美しき女。そして、天地神明の冒涜者。


 ――希彦は、■■と出会った。



◇◇



 すっかり見慣れた部屋の扉を押し開ける。
 いつもと違うのは、後ろに白髪の少女がいること。
 屈辱の安酒を入れた袋を揺らしながら部屋に入るなり、居間の老人が希彦をちらりと一瞥した。

「ほれ見たことか」

 開口一番に、老人――吉備真備はそう言って肩を竦めた。
 だから言っただろう、というような言葉と仕草。
 その意味を希彦は知らぬまま、少女を奥へと誘う。
 少女は靴を脱ぎ、行儀よく揃えて先導する彼の後に続いていった。

「キャスター。見ての通り客人です。女性の前です、僕の顔を潰すような真似だけは控えてくださいね」
「若僧が気取りおってからに。外面の体面を考えるなんぞ百年早いわ」

 希彦が差し出すレジ袋を受け取って、真備はカップ酒だけを取り出した。
 一緒に買ってきたつまみは取り出さず、そのまま蓋を開けて口をつける。
 それからようやく、老陰陽師の瞳が希彦の連れてきた"客人"へと向けられた。
 その瞳にいかなる感情が込められていたのかを、若き陰陽師は介さない。
 ただ、真備の視線に少女は朗らかな微笑みを返した。

「お前さん、名前は」
「祓葉。神寂祓葉
「フツハ、の。神寂れて祓う葉、ってとこか。後半は完全に皮肉じゃな、殊勝ぶりおって」

 美しい名前だ、と希彦は思う。
 風変わりだが、彼女の雰囲気によく合っていた。
 神の字が入っているのも悪くない。
 神寂。その美貌が、佇まいが放つ神秘的なものを端的に一言で言い表しているかのようだ。
 とはいえ今回ばかりは、趣味嗜好で誑かしたわけではない。
 彼女を此処へ連れ込んだのはれっきとした戦略的判断なのだと、そう伝えようと希彦が口を開こうとした時。
 それを遮って、真備が少女――神寂祓葉へ変わらぬ声色で続けた。

「して、何をしに来たんじゃお前さんは。人んちに手土産もなく上がり込んで」
「希彦さんにもさっき説明したんだけどね。同盟とか組んだりできないかなーって。どうかな、おじいちゃん」
「同盟と来たかよ。よくもまあ、いけしゃあしゃあと宣えるもんじゃ。
 まあ、儂は既に生涯を終えた身よ。願いも有るし進んでお前さんの毒牙に掛かってやる気もないが――決めるのはそこの希彦じゃ。
 今更軍師の真似事をするのも骨が折れるんでの。儂なんぞ背景か何かと思って、その青い坊主に聞きゃあいいわい」

 だが、まあ、と。
 そう言って真備は、口元を濡らした酒を袖で拭う。
 その顔には笑みが浮かんでいた。不敵な笑みだ。老いて益々壮んなる、暴力的なまでの生命力が滲んだ笑みだ。
 希彦の見たことのない顔だった。この男はこんな顔をするのか、出来るのかという驚きが自分を無視して話を進められている事実に湧いた不服をかき消す。

「――魂胆が何であるにせよ、盟を結ぶとほざくなら地金を晒せよ。最低限の礼儀ってやつじゃろ、なあ?」

 光景だけ見ればそれは、老人が孫を諭しているようにしか見えないだろう。
 真備の言葉は詰問だったが、彼は決して怒気や恫喝の色合いなど見せていない。
 だからこそ、言葉の内容とは裏腹にこうしてどこか牧歌的な光景にさえ見えるのだ。
 そして。天下の吉備真備にそう臨まれて尚、欠片の萎縮も見せない少女もまた――異様。

「うぅん。私、あんまり難しい話ってわからないんだよね。
 逆におじいちゃんは、私に何を言ってほしいの? 私は、何を打ち明けるべきだと思う?」

 香篤井希彦は自惚れと自尊心の塊である。
 そんな彼ならば、使い魔が自分を差し置いて敵方と掛け合っているという状況には本来噴飯して然るべきだ。
 その彼が今大人しく口を噤んでいた理由は、目の前の光景のあまりの異様さである。
 いつになく只ならぬ兆しを見せている真備もそうだが、それと相対する自分の連れてきた客人――神寂祓葉。
 思えば最初からおかしかったのだ。希彦のアパートを守る術式の中には、霊体を検知して警報を鳴らす仕組みというものが含まれている。
 故にたとえ霊体化させていようが、サーヴァントが敷地内に入れば直ちに警報が鳴り響き、その存在は希彦の知るところとなる。
 だというのに今に至るまで、件の仕掛けは作動する気配さえ見せていない。

 その意味するところは、ひとつであった。
 この少女は、サーヴァントを同伴させることなく敵地に悠々とやってきて、同盟を申し入れている。
 確かにいささか思慮に欠けた、無鉄砲じみた前向きさの付きまとう人物ではあったが、これは此処まで生存してきたマスターの行動としては明らかに異常な軽率さであろう。

「本当ならのう、儂もせめて正念場に入るまではもう少しのらりくらりと久しい現世を楽しみたかったんじゃ。
 知識と一口に言っても質がある。人聞きで取り入れたもんと自分で経験して蓄えたもんとでは玉石の差が浮き上がってくるのよ。
 じゃから未来の受肉の先取りがてらに、虚構とはいえ当代の都を見聞したかったんじゃが……」

 吉備真備は、この世界に召喚されてすぐ"それ"に気付いていた。
 針音の響く仮想都市。聖杯戦争を行うためだけに創造された、願いを培養する試験管。
 その中に蠢く、いくつかの明確な脅威の気配。
 そしてそれらすべてを凌駕して輝き脈動する、得体の知れない何か。

 よって、すぐに真備は辟易へ至った。
 理解したのだ。自分が引いたのは、どうやら貧乏くじの類であったようだと。
 今この都市が置かれている状況に比べれば、どこぞの生臭坊主が連れてきた左府の悪霊なぞ小波に等しい。
 都市を、世界を、喰らい滅ぼせる〈もの〉たちが無数に蠢く蠱毒の壺。
 その壺を大事そうに両手で抱えて、愛おしそうに中を見つめる禍つの星。
 これらを調伏しなければ願いだ何だという話のスタートラインにも立てないなど……これを貧乏くじと呼ばずして何と言えばいいのか。

「まさか地獄絵を描いた張本人がよ、素知らぬ顔で地獄を練り歩いてるとは思わなんだ」
「……は? ちょっと、キャスター。どういうことですか……?」
「どうもこうもあるかよ。儂はお前さんに言ったじゃろ、じきに"遭う"やもしれんと」

 吉備真備は、皺の寄った手で白い少女を指差した。
 希彦がそれを追って、再び視線を彼女へ向ける。
 神寂祓葉。希彦が出会った敵にして、客人にして、未だかつて出会った覚えのない美しい女。
 彼女を指して真備は言うのだ。宛らそれは、ひどく面倒な仕事でも押し付けられたみたいな顔で。

「――神寂祓葉。お前さんの連れてきたそいつが、この聖杯戦争の仕掛け人じゃ」



◇◇



 一瞬、静寂が流れた。
 住み慣れた、無数の護符と結界で覆った、この都市の何処より安心できる筈の空間が、今は見知らぬ場所のように冷たく張り詰めていた。
 それでもなんとか口を動かして発した音は、希彦自身でもひどく不格好だと感じるような情けのない音だった。

「な――にを、馬鹿な」

 聖杯戦争の仕掛け人?
 この少女が? 神寂さんが?
 馬鹿を言え。耄碌も此処まで極まったか。語るに落ちるぞ吉備真備。
 美人に絆されて庇い立てようとしているのではない。
 常識的に考えて、そんな馬鹿げた話はないだろうと言っているのだ。

「子どもでもおかしいと分かるでしょう、推測にしても飛躍しすぎている。
 聖杯戦争を仕組んだ側の人間が、わざわざこうしてお忍びみたいに訪ねてくるわけがない。
 仮に何か魂胆があったとしても、そうせざるを得ない理由があったとのだとしても、普通もう少し上手くやる筈だ」

 そう、もしも彼女が本当に仕掛け人――もとい黒幕だとするならば、あまりに行動が軽率すぎる。
 英霊を伴うことなくひとりで訪ねてきて、挙句その相手のサーヴァントに自分の素性を見透かされるなど、あまりにお笑いではないか。
 だから希彦は躊躇なく真備の言葉を妄言と判断して、一笑に伏した。
 そんな彼の体たらくに真備はやれやれとカップ酒をもう一口呷り、再び祓葉に口を開く。

「と、ウチの小坊主はこう言ってるが。実際のところはどうなんじゃ?」
「すごいね。できれば隠しておきたかったんだけど」
「――は?」

 希彦の声が虚しく響く。
 祓葉が返したのは否定でもなく、かと言って誤魔化そうとするでもなく、一も二もない肯定だった。

「ていうか、そんなに変だったかなあ……。うぅん、やっぱり嘘つくとかお芝居するとかは苦手だよ。反省」
「……え。いや、神寂さん? 何言ってるんです、あなたは」
「ごめんね、希彦さん。ヘンに警戒させて嫌われちゃっても嫌だから、しばらくは黙っておくつもりだったんだ」

 分かりやすく本性を表し牙を剥きはしなかった。
 むしろ祓葉は、最初から今まで変わらない姿を希彦に見せ続けている。
 素直で、見て分かるほどに純朴で、後ろ暗いものとは無縁に見える。
 世界の現実を知らないまま、無垢にひた走ってきたのだろうと勝手にバックボーンを想像してしまうような眩しさであり続けている。
 だからこそ、彼女が彼女として紡ぐ"種明かし"の言葉は何か道理の通らない不協和音のように耳に響いた。

「でも、勘違いしないでほしいんだけどね。
 確かにこの聖杯戦争(ゲーム)を始めたのは私たちだけど、別にみんなに嘘を吐いたりはしてないよ。
 私たちもプレイヤーのひとりで、希彦さんたちとおんなじ条件で戦ってる。
 何かすごいズルをしてるとか、勝っても聖杯は願いを叶えてくれないとか、そういう裏話はないから安心して?」
「……本気で、言ってるんですか? あなたは」
「うん。私が仕掛け人なのも本当だし、聖杯戦争があくまでフェアな仕組みだってのも本当。
 せっかくみんなで遊ぶってのに自分だけズルをしたってつまらないしね。やっぱりゲームは、みんなで平等に楽しく遊ばなくちゃ」

 臆面もなく、嘘偽りもなくそう語る祓葉の姿は相変わらず美しい。
 可憐だ。微笑みは眩しく造形は清らかで、事此処に至ってさえ意識していなければ警戒心を忘れてしまいそうなほど。
 しかし語っている内容は、希彦に言わせればとにかく意味不明だった。
 なんというか、自分を含めた他すべての人間の認識とズレている。一人ひとりに聞き回ったわけではなくとも、そうだと断言できる。

「もちろん、希彦さんと同盟を結びたいっていうのも本当だよ。言ったでしょ、ずっとひとりで戦うのは寂しいからって」

 すべての黒幕が、ゲームマスターが、誰より眩しい笑顔でプレイヤーたちに混ざって戦っている。
 その上で、何も狡いことはしていないと言い放つ。
 普通に考えれば信じるに値しない文言だが、祓葉という少女にはそれを本心だと聞く者に道理を無視して納得させる説得力があった。
 出会ってまだ数分しか経っていない希彦でさえ、気付けばいつの間にかそういうものと認識してしまっている。
 "神寂祓葉は嘘など吐かない"。彼女はそんなつまらない悪意手管に頼るほど、矮小(ちいさ)な人間ではない――と。

「そういうわけで、こんな私だけど……どうかな」
「いや……どうかな、って……」
「……あ。ちなみに私、結構強いよ! いざとなったら希彦さんのこと、ビシバシ助けるし! この剣でぶおーんって!!」
「――とりあえず人んちで物騒なものいきなり出すのはやめて貰えるとありがたいです。いや、本当。これ以上情報量増やさないで下さい、こっちは今咀嚼するだけでいっぱいいっぱいなので」

 ぶおーん、のところで本当に右手から光の剣を出してみせる祓葉から目を背けて希彦は顔の前で手を二度三度と振った。
 本当に訳が分からない。いや、懇切丁寧に説明はしてくれたのだが、理解するのとそれを呑み込めるかは別問題だ。
 真備の自由過ぎる言動に振り回される日々も同盟者ができれば一段落か、とぬか喜びした数分前の自分がまるで馬鹿のようである。
 そんな希彦をよそに、真備は今の一連のやり取りを既に"咀嚼"し終えていたようで。
 ことり、とカップ酒を卓袱台の上に置き、酒臭い息を小さく吐いた。

「……どうやら、想像以上の阿呆みたいじゃの。
 不幸中の幸い……とはならんか、まあ。要するに"これ"だから"こう"なったという訳じゃろうし、いよいよ面倒臭くて敵わんわい」

 祓葉が先ほど出した"光の剣"。
 アレも、真備の眼から見れば希彦が見るのとは色々と違ったことが見えてくる。
 まず第一に魔術ではない。どちらかと言えば現象の類に等しく、だとしても構造があまりに異常だ。
 近いものを挙げるとすれば神霊が行使する"権能"に近いと真備は認識したが、それともまたあり方のかたちが違うように映る。

 要するに――分類不能の異形。吉備真備をして、下せる判断は結局そこに落ち着く他なかった。
 むしろ彼だからこそ、今のわずか一瞬で此処まで分析を下すことができたのだ。
 これまで彼女の前に散っていった者たちで、彼と同じ領域まで踏み入れた者がどれほどいたか。
 古の規格外たる吉備真備が、現代の規格外たる神寂祓葉を観る。
 その上で彼は、祓葉へもう一度言葉を投げかけた。

「儂にとっても聖杯の獲得は他人事じゃないがの。さっきも言ったが、あくまで決定権を持ってるのはそこの希彦よ。
 よって儂は、希彦が決めたならそれに従うまでよ。後は若い二人でキャッキャウフフと洒落込んどりゃあいい」

 希彦の抗議が入る前に、「じゃが」と続ける真備。

「これもまた、さっき言ったな。
 "盟を結ぶとほざくなら地金を晒せ"。それが最低限の礼儀ってもんじゃと」
「……、……」
「喚ばんかい、お前のサーヴァントを。
 儂は若い者が結論出すまでの間、そいつとでも喋ってることにするわ」

 ニヤリ、と。
 そんな擬音が目に浮かぶような笑みで、吉備真備はそう言った。

 祓葉はそれに、少しだけ驚いたような顔をする。
 まさかそういう申し入れが入るとは思っていなかったのか――そういうところまで含めて、つくづく交渉沙汰は苦手なのか。
 ただ、すぐにちょっとだけ上を向きながら口元に指を当てた。

「……たぶん呼んでも来ないと思う。電話じゃダメ?」

 小首を傾げて問い掛ける祓葉と、「もう何でもいいわい」と投げやりに答える真備。
 そんな二人をよそに、希彦は自分の順風満帆な聖杯戦争の航路がまたしてもあらぬ方向に向かい出した事実にひどく顔を顰めているのだった。



◇◇



 やいのやいのとやり取りしていたが、どうやら話がまとまったらしい。
 白い少女、神寂祓葉に差し出されたスマートフォンを真備が受け取る。
 現代文明の象徴と化して久しいその薄板を耳元に当てる姿は、遥かの昔を生きた老人とは思えないほど違和感なく様になっていた。
 カップ酒の残りをわずかに口に含んで、喉を鳴らす。それから口を開く――ところで、通話越しの声が不機嫌に割り込んだ。

『なんだ。ボクは忙しい』
「おうおう、ご挨拶じゃの。一体どんな怪しげな男が出てくるかと思えば、なんじゃただの餓鬼かい」

 少年の声だった。
 真備はハッ、と笑う。
 少年と、老爺。
 ふたつの声が、彼らの生きた時代には存在しなかった通信技術を通じて交差する。

『ボクは、忙しいと、言ったぞ?』

 分かりやすく不機嫌な声に老爺はくつくつと笑った。
 正直なところ、彼の予測とは違うタイプの相手だった。
 神寂祓葉は超人である。実際に彼女が戦うところを見ずとも、真備にはそれが分かった。
 アレは忌み子であると同時に鬼子だ。
 存在するだけで他人を、世界を狂わせ、いずれは破綻させるそういう生物だ。
 ならばそんな彼女が従えている"魔術師"、聖杯戦争を真に仕組んだのであろう何者かは果たして如何なる超人魔人であるのかと。
 魑魅魍魎、神魔天魔のたぐいを描いていたからこそ、虫の居所の悪い稚児のような声が返ってきたことに肩を透かされる。

『察するに、既におまえはすべてを知っているのだろう。
 祓葉に真実を包み隠す器用さなんて期待しちゃいない。今更慌てふためいてフォローしようとも思わない』
「回りくどい奴じゃの。で? 何が言いたいんじゃ。通話料も時間もタダじゃない、結論は急いだ方が経済じゃぞ?」
『こちらの台詞だ。おまえは何のためにボクへ接触してきた』

 自分から電話を掛けさせておいてこの物言い。
 老獪なる軽口に掴みどころはなく、それでいてすべてに無駄がない。
 文面だけで見れば単なる煽り、おちょくりの類に聞こえるやもしれないが、真備は会話を通じて相手の像と実体を測っている。

 人物像。言葉の端々に滲む思考の指向性とその思想。
 吉備真備は陰陽道の祖たる偉大な術師だが、それだけではない。
 聖武天皇に寵愛された世渡りの才能と実務能力。
 そして恵美押勝の反乱を鎮めた、本職顔負けの軍略。
 術だけが取り柄の坊主と侮るなかれ。
 生涯、いや死してなお鍛錬と蒐集を怠らぬ真備の能力はこの世の萬に通じる。
 針音の都市世界を設計した神の如き魔術師に接触し、霧に包まれたその素性へ迫らせるならばこれ以上の逸材はいないと言ってもそう過言ではない。

『祓葉の考えは想像できる。彼女にとってはその行動のすべてが物見遊山だ。
 今更首輪を付けようという気にもならない。よってボクの回答は"好きにしろ"で完結する』
「驕りも極まっとるのぉ。お前んところのおてんば娘以外はすべてが石塊だとでも言わんばかりじゃ」
『言わんばかり、ではなく、実際にそう言っている』

 真備の魂胆を知ってか、それとも知らないでか。
 いや、そもそも何がどうだろうが"どうでもいい"のか。
 電話の向こうの少年は時間を淡々と、粛々と言葉を重ねた。
 水面に波紋を立てるべく挟まれた真備の茶々に対しても、それは同様だった。

『おまえ達が誰であろうが、何をしようが、すべては些事だ。
 端役が舞台端で如何な名演を魅せようと、それが物語の結末を変えることはない。
 絶対的な主役の存在は、その他一切を霞ませる。
 老人。おまえの不幸は、人よりも頭の良かったことだ』

 測るならば好きにすればいい。
 見透かすのなら、どうぞ自由にやればいい。
 それでは何も変えられない。
 誰ひとり、何ひとつ、この都市に響く針音を狂わすには値しないのだと。

 少年は、持ち前の偏屈さだけでは明らかにない傲岸不遜な言葉で聖杯戦争のすべてを否定した。
 自分で舞台を仕掛け、機構(システム)を組み上げ、時計を配って招き寄せたとは思えない物言いと態度。

『おまえは何も知らないまま、ただ要石と一緒に身の丈に合った"物語"を紡いでいる気になっていればよかった。
 そうすればおまえ達好みの成長、昇華、飛翔……俗に言う劇的な展開とやらに浸ることもできた。
 だがすべては終わっている。老人。おまえは、彼女を"視て"しまった』

 なるほど、要するにこう言いたいのか。

 何も知らないまま、神寂祓葉とつかの間の交流を経て物語を紡いでいけばよかった。
 であればそこにはさぞかしドラマチックな成長と離別が待ち受けていただろう。
 たとえこの先、当然の末路として死に果てるとしても、端役には見合わない最期を賜ることができたはずだ。
 しかし吉備真備(おまえ)は優秀だから、ひと目見た瞬間に祓葉の配役が何であるかに気付けてしまった。
 であればもう酔うことすら許されない。
 身の丈は明確に示され、端役のまま、その立場を噛み締めながら舞台端で踊るしかないのだと。

 こいつはそう言いたいのだな、と理解して、真備はされどその最大級の侮辱にさえ眉を寄せはしなかった。
 むしろ逆だ。
 ほうれ尻尾を出しおったわと、古狸めいた飄々とした性格に似合わない猛禽のような笑みを浮かべる。 

「そうかそうか。よ~く分かったわい」

 分かったこと。
 この魔術師(キャスター)は、能力はともあれ人格的にはおよそ成熟しているとは言い難い。
 自分の機嫌の善し悪しがすぐ態度に出る。それを隠す能力というものを、おそらく持っていないか軽視している。
 いわゆる厭世家という手の人種に多い性格だ。この手の人間はとにかくあちこちに敵を作るので、さぞ生前は苦労したろうと思う。
 だからこそその投げかける言葉には嘘も容赦もなく、下手に社交的な者よりよほど分かりやすい。
 その証拠に今しがたの冷淡な侮辱(せいろん)の中に、彼の思想の核、そうでなくとも相当量のウェイトを占めているのだろう文言が紛れていた。

「――そんなにも許せんか、キャスター。今を生きる人間の不完全が」

 成長、昇華、飛翔。
 人が何かを経て育つという過程。
 そこに向けられた皮肉の刃先。
 真備はそれに、憎悪にも似た嫌悪の念を見出した。

『ああ。許せないとも』

 少年は、身も蓋もないほどあっさりと答える。

『ボクはそこの馬鹿とは違う。ボクはおまえ達の歩む過程、そのすべてを軽蔑する』
「阿呆め。お前さんとて母親の股から生まれ出て、乳を吸って育ったのだろうに」
『幼稚な返しだな。生物としての成育過程と、存在としての成育過程とでは話が違う』

 虫が草木を食んで肥え太り、蛹になって空へ羽ばたいていく。
 子が母親の乳を飲んですくすく育ち、いつか自分も誰かと子をなして種を存続させる。
 これを生物としての成育過程と称するならば、では存在としての成育過程とは何事か。

 決まっている。
 弱い者が毎日欠かさず鍛錬を積み、長い年月を経て天下に名を轟かす英雄になる。
 未熟な子が寝食を惜しんで知識を蓄え、前人未到の新理論に辿り着く。
 それを指して存在の成育過程と称する。これは、そういうものを忌み嫌っている。
 まるでそれが種の原罪、人類の悪徳の最たるものであるとでも言うように。

『とはいえ、ボクもまたそういう道を辿って此処まで来たことを否定はしない。
 その上で、ボクはそれを否と断ずる。研鑽を積み、理論を造り、後世に継いで希望を託す……それは無能の言い訳というものだ。
 ボク自身も含めて、この種は誰もがそういう失敗を繰り返してきた』
「神にでも憧れとるのか。そういうことを大真面目に考えるのは十代の内に卒業しておくべきじゃと、儂は思うがなあ」
『神なんて不確かな幻に懸想しようという発想自体、星に手が届かないから生まれたものだろう』

 確信する。
 この少年は、針音仮想都市の主は、断じて大人物などではない。
 思想も理屈も破綻している。さながら思春期を引きずったまま大人になったかのようだ。
 だが説き伏せることは不可能だろう。相手にそもそも議論する気というものがないのなら、釈迦の説法さえ無粋な宗教勧誘と変わらない。

 なるほど。
 実に厄介である。

 決して聞く耳を持たない幼稚な全能者。
 癇癪持ちの帝が世を統治しているようなものだ。
 それが万の軍勢であるのなら、どうにでもなる。
 だが今宵の愚帝は、星を連れている。
 地平の何より眩しく輝き、奔放に暴れ回る光の星。
 愚かな魔術師は――星に、愛されてしまっている。

「どこの誰かは知らんが、ずいぶんとまあ威張り腐った小僧なことじゃ。
 まるで世のすべてをその眼で見てきたとでも言わんばかりの物言い、何とも餓鬼臭いわ」

 さながら今、この都市は津波に攫われる間際の町。
 しかし合点が行った。
 自分が見てきた、感じていたいくつかの災厄の兆し。
 ひとつの星が導いた、無数の〈厄〉。
 その中点に位置する星こそが、これらだ。こいつらなのだ。

「ま、いつの世も極まった馬鹿につける薬はないもんじゃ。
 お前さんのような輩は結局、首を刎ねられて宙を舞う最期の時まで懲りるってことが出来んのだろう。
 話はできた。もう切ってもいいぞい、貴重な時間を邪魔して悪かったの」
『自覚してくれたなら何よりだ。まったくもって無駄な時間だった』
「ああ、悪い悪い。最後にもうひとつ」

 吉備真備は聡明である。
 だから分かる。

 この都市はあまりにも歪んでいる。
 正統な聖杯戦争ではないとか、そういう次元の話ですらもはやない。
 すべてが舞台なのだ。
 だから集められた者達が演者(アクター)などと呼ばれているのだと今理解した。

 ――風のすべてが彼女の歌。
 ――星のすべてが彼女の夢。
 世界のすべてが、彼女のために存在している。

 故にこそ舞台。
 どこまでも結末を配役に縛られた茶番劇。
 その中で自身の存在を誇示し、決まりきった脚本を覆すことの何と困難なことか。
 言うまでもなく、絶望的だ。これに比べれば遣唐使の旅、仲麻呂めの反乱、いずれもどれほど容易い課題だったか分からない。
 天を仰いだとしても、誰も真備を責めないだろう。
 それでも、やはり。この期に及んでまだ、老人は笑っていた。


「あんまり舐めてんじゃねえぞ、ケツの青い小童が」


 筋書き、配役、なるほど無体だ。
 神の如き力、実に恐ろしい。
 蠢く災厄ども、まったく難儀だ。
 で、ならばどうする。決まっている。

 ――挑めばいい。

 道を塞ぐものがあるならどければいい。
 知恵を凝らし、力を絞り、政治をやって打ち破るが吉備真備の生き様なれば。
 今此処で、神を騙る独裁者に戦線を布告することに毛ほどの迷いもなかった。
 通話が切れ、ぽーん、ぽーん、という無機質な音だけが連続する。
 真備はスマートフォンを握りながら、酒を先に呑みきってしまったことを惜しく思った。
 ああ、今ならば。さっきまでよりよほど旨く、重たい酒が呑めたろうによ――と。



◇◇



 希彦は迷っていた。
 彼は、自他ともに認める尊大の化身である。
 何故なら彼には、それだけの能力と生まれがあったから。
 比喩でなく、人生のすべてを思い通りにしてきた成功者。

 その彼が、迷っている。
 希彦の前には、白い少女が座っている。
 にこにこと、悩みなどひとつもなさそうな顔で微笑んでいる。
 美しい。可憐だ。これ以上の花は、きっとこの都市のどこにも咲きはすまい。

 これは異界の美だと、まだ希彦は理解できない。
 彼は確かに優秀だが、しかしそれはあくまでも人間の枠組みの中での話。
 井の中で無敵を誇った雄々しい蛙が、その外で最初に出会うべきもの。
 勝利、挫折、あるいはそれ以外。
 そうした本来あるべき過程をすべて踏み飛ばして、希彦は極点に出会ってしまった。
 だから迷うのだ。迷うし、悩むのだ。
 自分が今何に迷い悩んでいるのかも分からない、そのことも含めて彼は答えの出せない命題の前に座り続けている。

(――どうでした、キャスター?)
(おう。まあ、ぼちぼちじゃの)
(ぼちぼちって……他に何かないんですか、あなたは)
(何かもクソもないわ。得られたもんはあったが、今此処で伝えてもお前さんを無駄に悩ますだけじゃぞ。それでも今聞くか?)

 真備の念話に、希彦は閉口せざるを得ない。
 だが今度ばかりは苛立ちや呆れで黙ったわけではなかった。

(のう、希彦。儂は言ったな。お前さんもそろそろ"遭う"頃じゃと)

 希彦は今、アーサー王の伝説を思い出していた。
 これを引き抜いた者は王になる。
 そう記された聖剣が突き刺さった台座を前にしたかの王と、今の自分の姿が重なる。
 されど今回ばかりはナルシシズムによる陶酔ではない。
 眩いばかりの輝きを放つ剣。それが、甘言を囁く悪魔のように思えた。
 王になる。されどそしたら何か、とても大きなものを取り返しのつかない形で失ってしまう、ような……。

(覚悟ができとるにしろそうでないにしろ、こればかりは儂の出る幕でもないんでの。ちゅうわけで、まずはお前が選べ) 

 真備は言う。
 少女は笑っている。
 星が、目の前にいる。

(――最初の試練じゃ。主役気取るなら男見せてみい、香篤井希彦)

 時間はもうない。
 希彦の、らしくなく乾いた唇が、ぱり――と、音を立てた。



【中央区・希彦のアパート/一日目・午後】

【香篤井希彦】
[状態]:健康、動揺
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:式神、符、など戦闘可能な一通りの備え
[所持金]:現金で数十万円。潤沢。
[思考・状況]
基本方針:優勝する。自分らしく、いつものように。
1:神寂祓葉の申し出を――
2:この人は、いったい。
[備考]

【キャスター(吉備真備)】
[状態]:健康
[装備]:
[道具]:『真・刃辛内伝金烏玉兎集』
[所持金]:希彦に任せている。必要だったらお使いに出すか金をせびるのでOK。
[思考・状況]
基本方針:知識を蓄えつつ、優勝目指してのらりくらり。
1:さて、どうなることやら。
[備考]

【神寂祓葉】
[状態]:健康
[令呪]:残り三画(永久機関の効果により、使っても令呪が消費されない)
[装備]:『時計じかけの方舟機構(パーペチュアルモーションマシン)』
[道具]:
[所持金]:一般的な女子高生の手持ち程度
[思考・状況]
基本方針:みんなで楽しく聖杯戦争!
1:どうなるかなー。いい返事が聞けるといいな。
2:ヨハン、お電話ちゃんとできたかな……。
[備考]


【???/一日目・午後】

【キャスター(オルフィレウス)】
[状態]:健康
[装備]:
[道具]:
[所持金]:
[思考・状況]
基本方針:本懐を遂げる。
1:下らないことに時間を使わせないでほしい(けっこう、怒ってる)
2:あのバカ(祓葉)のことは知らない。好きにすればいいと思う。言っても聞かないし。
[備考]


前の話(時系列順)

005:BERSERK

次の話(時系列順)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2024年11月01日 00:01