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 ――――私は、木星にはならない。














「せ~のっ! 祝!! ロキくん大っしょ~~~~~~~~~~~~~りっ!!!」



 ぱかん、ぱかん、ぱかん。
 天枷仁杜の号令を合図に、明るい室内にクラッカーの軽快な破裂音が連鎖する。
 容器から飛び出した七色の紙テープと紙吹雪が宙を舞い、豪奢なリビングに華々しい色を加えた。

 伊原薊美は無表情のまま、隣に立つ高天小都音から一拍遅れて、手元の紐を引っ張った。
 ぱかん。軽い振動と少し大きめの音。
 ほんのりと鼻につく、火薬の匂い。

「やっぱりロキくん超最強! 流石はわたしのサーヴァント~~!!」  

 相変わらず緩い調子の仁杜が無邪気な歓声を上げている。
 とろんとした声音の向かう先、彼女の隣には常通りの従者、スーツ姿の金髪美青年。
 ウートガルザ・ロキが、『MVP』と書かれたタスキを肩に掛けつつ、それでも優雅な立ち姿でマスターの称賛に応えていた。

「だろ~? でもさぁ、にーとちゃん、ちょっと違うぜ。俺の勝利じゃあない」

「ふえ?」

「"俺達の勝利"、だろ?
 俺の勝ちは、にーとちゃんの勝ち。
 いつだって俺達は最高の運命共同体(パートナー)、なんだからさ」

「……え、えへ、えへへへへ~~~~、ふぇへへへ……。
 そ、そうかなぁ~~~でも、そうだよねぇ~~~。
 わたしも今日はすっっっごく頑張ったもんねぇ~~~」

 スイートルームの中央、ゆったりとしたソファの上で、バカップルがじゃれている。
 『MVP』と(ニートの手書きで)書かれたタスキを今度は二人一緒にかけながら自撮りしている。
 平和を通り越して間抜けに近い、壮絶な戦闘の直後とは到底思えない、緊張感の欠片もない光景だった。
 薊美は呆れながらも、それを表情に現すことはない。
 床に散らばった紙テープを拾い纏め、ゴミ箱に放り込みながら、ここに至る経緯を思い返す。

 この東京で目下最大の脅威とされていた蝗害と、奇術王の直接対決を終え。
 始まりの六人が一人、楪依里朱との交渉に成功した彼女らは一旦、落ち着ける場所で休息を取ることとなった。
 正確には、『疲れたから帰りたい』とか、『祝勝会したいなー』とか言い始めた仁杜を小都音が上手く諌めながら誘導するような流れで。

 戦闘の余波で壊滅的な被害を受けた代々木公園近郊から離れ。
 渋谷に残された無事な都市区画の中で、最も高級なホテルにチェックインしたのが30分程前のこと。
 その時にはもうすっかりと日は沈みきっていた。
 現在、ここはホテル15階、最上階のスイートルームにて、仁杜曰く"ささやかなパーティー"が行われている。

「ね~、ことちゃん」

「なに?」

「お酒飲んでいい?」

「駄目」

「いいよね~? わたし、今日はいっぱいがんばったもんね~?」

「駄目、帰るまで我慢しなさい」

「ねぇ~~~~ロキくぅ~~~ん、ことちゃんが意地悪するよぉ~~~~」

「おお可哀想に……ほぉら、たんとお飲み……」

「やったあロキくんすき~!」

「ああっ! ちょっと、コラ勝手に酒を与えるな……!」

 ロキが一つ指を鳴らせば景色が変わる。
 だだっ広いスイートルームの中央、ソファの傍らのテーブルに、大量の酒缶とお菓子が置かれていた。
 一体いつの間に調達していたのだろうか。

「んぐ、んぐ、んぐぐ……ぷはぁ~~~~~! 美味し~~~!
 えへへ、ゴメンね~ことちゃん。もう飲んじゃった」

「……一缶までだからね。
 そんなに強くないクセに、いっつも調子に乗って気分悪くなるんだから」

「わかってるよお~。ほらほら、ことちゃんもこっちきて。
 一緒に飲もうよ、お祝いなんだから!」

 薊美は辟易していた。緩い。あまりにも、緩みきっている。
 目の前の人間が、渋谷の街を地獄に変えたマスターの片割れとは到底信じ難い。
 最初に会った時から一貫して、天枷仁杜は俗な人間だった。
 自分に甘く、環境に甘えている。成人を過ぎても社会の規律に適応できない、酷く幼稚な人間性。
 そんな彼女が、今、こちらを見ている。

「薊美ちゃんも、今日はホントにありがとねっ!」

 とろんとした視線が、薊美に親愛の念を送ってくる。
 どうしようもない駄目人間。そういった評価は揺るぎないのに。
 なのに薊美は今、彼女から目を離せないでいる。
 最初に会った時から、取るに足らないと、ただの情けないニート女だと、切って捨てることが出来ずにいる。

 初対面の時よりも、彼女の存在に視線を引き寄せられている気がする。
 彼女の言葉に、意味を見出そうとしてしまっている。
 そんな兆候にこそ、不快感を覚えている。

「ありがとね。みんなが協力してくれたから、今日は戦いに勝って―――」

 散々踏み潰してきた者達のように、潰すまでもなく置き去りにしてきた有象無象のように。
 無視することができなくなっていく。
 その違和感。その予感。危機感。錯覚ではなかった。
 薊美の感覚に、今はもう、明確な裏付けが存在しているのだから。

「新しい仲間が増えたんだよ」

「―――はあ?」

 先程のクラッカーとは対象的な、低く重たい音が響いた。
 発生源は部屋の隅に置かれたベッドの上。

「仲間ってそれ、誰のこと言ってるわけ?」

 そこに横たわる異様な風体の少女。
 白と黒のツートンカラーで統一された服装の。
 その袖の先、握られた拳が上質な壁紙を殴って凹ませている。

「い、いーちゃん、起きてたんだ」

「敵地で寝れるわけないだろ、バカニート」

 蝗害の魔女。
 壁に背を付けた状態でベッドから半身を起こした楪依里朱が、険しい表情で仁杜を睨み据えていた。
 彼女がここに居る事実こそ。
 天枷仁杜の成した奇跡であり、薊美が以前から抱えていた違和感に対する答えでもあったのだ。

「私、言ったよね? あんた達とは直接組むわけじゃない。
 あくまで祓葉(あのバカ女)を殺すまで、優先順位を下げてやるだけだって。
 それを言うに事欠いて仲間? なに勝手に既成事実作ろうとしてんの?」

「……で、でも、いーちゃん暫くは一緒に行動してくれるって言ったし。
 その間はほら、仲間って言っても間違いじゃないと言いますか……言葉のあやといいますか……」

「この際だからもう一回、はっきり言っとくけど。
 あんた達全員、私の邪魔になるようなら、やっぱりすぐにでも殺すし、そうじゃなくても最終的には結局殺す。
 だから今も、敵同士ってことに変わりはないから」

「うぅ……でもぉ……」

「なに? まだ文句あんの?」

「ないです……」

 7つも年下の不良少女にドスの利いた声を投げつけられ。
 ついさっきまで上機嫌だったはずの仁杜は、みるみる小さく情けなくなっていく。

「――そりゃあ、確かにな」

 そんな仁杜をフォローするように、ロキがさり気なく前に出た。

「君を仲間だなんて思ってるのは、優しい優しいにーとちゃんくらいなもんだろう。
 だから君の認識の方が正しいだろうけど。俺の前で嘘はやめとけ。
 出来ないことは言わないほうがいいぜ」

「はあ?」

「邪魔になるならすぐ殺す? そいつは無理だろう。
 君のサーヴァントじゃあ、俺には勝てなかったんだから。
 万全な状態ですら手も足も出ず負けたのに、今の有り様で勝負になると思ってる?」

 魔女の殺意が増大する。それでも今は、怒りが解き放たれることはない。
 ロキの言ったことは的を得ている。賭けに勝利したのは仁杜、それは事実。
 イリスは治療中の腹部に手を当てたまま、悔しげに歯噛みする。
 高乃河二に負わされた怪我が治るまでは、どれほど気に食わくとも彼女はここに留まるしかない。

 薊美も当然、蝗害の魔女と対等な仲間になったとは、これっぽっちも思っていない。
 そんなお花畑な考えを持っているのは、ロキの言う通りこの場で仁杜だけなのだろう。
 イリスとはあくまで一時休戦の協定を結んだだけ。
 神寂祓葉という圧倒的脅威の存在を前提にした、一過性の不戦条約にすぎない。

 それでも始まりの六人が一人、蝗害の魔女との交渉を成功させたこと。
 一過性の協定を結んだこと自体が、信じ難い快挙である。
 それを正しく認識していないのも、この場では仁杜だけだ。
 彼女の他の誰も、数時間前まで、このような状況を想像もしていなかった。

「てめえこそフカしてんじゃねえよ、イキリ野郎ォ」

 ざらついた男の声が響く。
 ぶヴ、と。スイートルームには似つかわしくない、野性的な蟲の羽音が鳴る。
 イリスの肩に、いつの間にか一匹の飛蝗が乗っていた。
 それは腹の大きな、日本に生息するはずのない種。

「言った通り、今回は負けを認めてやる。
 が、話盛ってんじゃねェよ。何が"手も足も出ず"、だ。
 じゃあ、てめえの手の具合はどうだ? 見せてみろよ色男」

 イリスのサーヴァント。
 蝗害、シストセルカ・グレガリアが如何なる嫌がらせを行ったのか。
 ロキを除いて、その場の全員が視認できていなかった。
 ヴヴ、ジジ、と。不快な羽音に紛れ、一瞬だけロキの右腕が歪み、そこに貼られた幻術(テクスチャ)が剥がれ落ちる。

「ロキくん、その火傷……!」

「どうってことない。傷の内にも入らないさ」

 息を飲む仁杜に、奇術王は朗らかに笑いかけながら幻術を貼り直す。
 笑顔のまま、イリスの肩に乗った虫へと殺意を放つ。

「今すぐ絶滅したいならもっと素直に言うといい。望み通りにしてやるよ」

「カリカリすんなよ。メスにいいトコ見せてえのは分かるがよ。素直な方が可愛げあるぜ」

「……ライダー、うるさい」

 そこで、ひりつきかけた空気を断ち切ったのは、意外にもイリスだった。

「こっちは腹痛いのに、耳元でキモい羽音聞かせないで」

「はいはい、仰せのままに。俺は省エネモードを継続しますよっと」

 飛蝗は少女の肩の上で丸まり、そのまま黙する。
 事実として、流石に無傷でとはいかなかったものの、奇術王は蝗害に勝利した。
 高乃河二や琴峯ナシロのような様々な変数は存在していたし、最後までサーヴァント戦を続ければ、どうなっていたかは分からない。
 しかし、此度の戦いの結果についてのみ言えば、ウートガルザ・ロキは勝ったのだ。

 ロキは強い。
 そう語った天枷仁杜の言葉に、なんら偽りも誇張も無かった。

 薊美とて、その戦場跡を自分の目で見た以上、認めるしかない。
 蝗害と正面から激突して勝ち得る。
 ウートガルザ・ロキは、紛れもない特記戦力だったのだ。
 そして此度の戦闘結果は、単にサーヴァントが優れたるのみを示すのではない。
 彼のマスターである天枷仁杜の異様さをも浮き彫りにする。

 万全なる蝗害に加え、複数のサーヴァントを相手取って勝利した。
 あまつさえ、蝗害の魔女に令呪すら切らせた。
 そこまでの戦果を上げて尚、天枷仁杜(マスター)にはまるで消耗した様子が見られない。

 もしロキのマスターが薊美であったなら、何度干上がってしまうか想像もつかない規模の膨大な魔力が、一度に吸い上げられていたはずだ。
 それを仁杜は今も、汗一つかいた様子がなく。『ちょっとお腹すいちゃったなあ』と呑気に言う程度。
 もはや才能などという枠には収まらない。常識を遥かに超越した、底なしの魔力保有量。
 そして狂気に灼かれた者との対話を実現してみせた精神性をもって、彼女は不可能を可能にしたのだ。

 既に、違和感は確信に変わっている。
 天枷仁杜は、異様だ。
 神寂祓葉とは似て非なる、特異点。

 視線を、引かれる。
 無視できない。
 気に食わない。

「とにかく、私は動けるようになったら、すぐにここを出てく。そういうことだから」 

 しゅんとする仁杜に向かって、イリスは苛立った様子で言い放った。
 一方的に会話を打ち切って、誰からも視線を外し、ベッドに身体を横たえながら壁を睨みつけている。
 あからさまな拒絶の姿勢。

 しかし薊美には分かる。
 先ほど、彼女との短い交流を経て、理解を深めた今であれば。

 イリスの意識は今、2つの場所に向いている。
 彼女を苛立たせる存在へと。

 一つは彼女が引きずり続ける未練。
 そしてもう一つは今、眼の前に鎮座する異様な社会不適合者。
 どちらに比重が寄っているのか、薊美にとっては、それ自体は別にどうでもいい。

 不貞腐れた様子の少女を見る。
 勘の良いイリスはすぐに薊美の視線に気づき、しかしもう視線が返されることはない。
 楪依里朱は、伊原薊美を見ていない。
 先程の問答を通して、既に興味が失せたと言わんばかりに。

 薊美は新鮮な怒りとともに思い出す。
 ほんの30分程前、魔女と交わした、短くも不愉快なひと時を。








 ほんの僅かな時間に交わされた、二人のやり取り。 
 当事者を除き、それを聞いていた者はいない。


「あなたの"お友達"について聞きたいんです」


 その話題が楪依里朱にとって、剥き出しの地雷であることは理解していた。
 だからこそ、薊美は戦いの直後に投げかけたのだ。
 腹部を押さえ、公園のベンチにもたれた少女に、逃げられない問いを突きつける。


「神寂祓葉って、いったい"何"なんですか?」


 それはある意味、この聖杯戦争における根源的な問いかけなのかも知れなかった。
 生き残るためには、勝利するためには、決して避け得ない問い。
 この物語の誰にとっても、いずれ向き合わざるを得ない命題。

 最強の主人公。
 主役の椅子に座る者。
 戴冠を済ませたラストボス。

 物語の筋を書き換えるために、超えねばならぬ極点の考察。
 伊原薊美が到達したのは、ある意味必然の流れであった。
 なぜなら薊美は、主役で在ることを望んでいる。
 ずっと主役であった少女は、そう在り続けることを希求している。

「―――へえ、あんた、あいつを知りたいんだ?」

 だから薊美には分からない。
 眼の前の少女が、なぜそんな嘲笑を浮かべたのか。

「私を通じて、あいつを知って、理解した気になって、それで?
 あんたは、どうしたいわけ?」 

「超えなければならない。そう思っています」

「……超える? あんたが? あいつを?」

 楪依里朱のリアクションは、薊美にとっては少し意外なものだった。
 怒りを剥き出しにするか、相手にされないか、そんなところだろうかと。
 しかし一瞬、急速に膨らんだ殺意が徐々に抑えられ。
 次に現れた表情は冷たくも、どこか憂いを含んだ、それは、まるで―――

「ええ、私は、太陽に勝たなければならない。ある人にそう言われました。
 そして今日、実際に私自身の目で見て、確信しました」

 脱出王に齎された啓示。
 それが事実であることを。
 伊原薊美は、太陽を殺さなければならない。
 投げ返された問いに、薊美は逃げずに立ち向かう。

 ずっと主役であるために。
 少女が、茨の君として咲き続けるために。
 薊美の人生が、薊美のモノであるために。
 我が物顔でその椅子を独占する存在を、生かしておけるわけがない。

 太陽を、堕とさなければならない。
 誰もが避け得ぬ命題に、少女はおそらく、新しく招かれた星の中では、最も早くたどり着いた。
 非凡なる才覚の証明。何も間違ってはいない。まっすぐに、彼女は目的のために進み続けている。
 なのに、なぜ、

「なるほどね。あんた、そのタイプか」

 目の前の存在は憐憫を湛えているのか。

「じゃあ教えてあげる。あいつは――――」

 薊美は困惑した。イリスは憂いている。
 何を、誰を、意味のない問いかけだ。
 この場には二人しかいないのに。

「世界で一番、クソみたいな女」

 イリスは苦く、苦く、それを言葉にする。
 苛烈な怒りを秘めた瞳のずっと奥に、僅か、過ぎ去った春の残穢を映し。
 複雑にねじ曲がった狂気の発露。薊美はそれに寄り添うつもりも、理解する気もない。

「クソみたいな太陽。クソみたいな光。クソみたいな……星」

 だけど、理由が分からなかった。
 なぜこの女は、今、哀れむような目で薊美を見ているのか。

「で、あんたはそういう星に灼かれ始めたわけだ」

「なに、を……!」

「……はっ……違うって? でもその様子じゃあ、遅かれ早かれでしょ」

 ふざけるなよ、と。あまりの侮辱に、総身が震える。
 この女はなんと言った?
 灼かれている? 誰が、誰に?
 思わず会話を打ち切りたくなるほどの不快感に、吐き気すら込み上げる。

「似たようなケースは前にも見たよ。あんたみたいな、自分は特別だって自惚れてるようなタイプが、一番分かりやすく嵌まるんだ。
 あいつは別に、見たやつを片っ端からおかしくするような、分かりやすい災害じゃない。
 もっとタチの悪いクソ女。上等な奴ほどあいつを軽んじて、賢い奴ほど深入りして、強い奴ほど致命的に壊れてく。
 どいつもこいつも自分だけはあいつの特別になれるって、対等で在れるって、馬鹿みたいに錯覚するんだ。
 そうやって、おかしくなってるコトに気づけもしない」

 それはいつか本人にも語った理論。
 気まぐれな太陽の熱波にはムラがある。
 予後は受け手の気づかぬうちに侵食を続け、気づいたときには既に。

「それにつけて、あんたはなに? あいつをもっと知りたいって?
 太陽を超えたいって? 自分だったら、あの星に並び立つ存在になれるって?
 典型的な初期症状だよ。対処法なんて、なるべく関わらないようにする他ないってのに」

 まるで罠のような二律背反。
 聖杯戦争を勝ち残るために、世界の中心、神寂祓葉を知ることは避け得ない。
 しかし、誰も気づくことが出来ないのだ。
 神寂祓葉を知ろうとする行為こそが、破滅の始まりなのだと。

「まあ、もっとも―――あいつの関心がそっちに向いたら、何したって全部意味ないんだけど」

 そして、そもそもの話、この現象は受け手の心構えでどうこう出来るものではない。
 気まぐれな太陽の目に捉えられてしまっては、その注目の対象になってしまっては、抵抗など無意味だ。
 太陽を見てしまったら、失明してしまう。太陽に見初められてしまったら、燃えてしまう。
 辿る末路は一つだけ、かつて壊された六人のように。

「その点、未だに興味すら持たれてないあんたは、まだ運が残ってる。よかったね。
 あいつに関係ない場所で、自分を保ったまま死ねるなら、その方がよっぽど幸福だから」

 気づけばまた、血が滲むほど拳を握っていた。
 世界の中心に立つ少女は、伊原薊美を見過ごしている。
 それは耐え難い屈辱だった。

「ていうかさ、あんたあいつに勝ってどうすんの?
 あれでしょ、どうせ、『あいつになりたい』とか、『あいつの椅子に座りたい』とか?」

「―――違う」

 だけど、それだけは、それだけは絶対に、否定せねばならない。
 この女にも、己自身にも。
 絶対に違う。そんな事は、ありえない。
 主役に成り代わりたいわけではない。徹頭徹尾、今だって伊原薊美は主役なのだ。
 それを、証明するために殺すのだ。

「あっそ。だけど分かってる?
 あいつを基準にしてる時点で、あんたの軸はあいつになってる。
 自覚も無いなら、今度こそつける薬もないよ。
 ご愁傷さま。今日、あの喫茶店で、あんたは捕まったんだ」

 だけど、その言葉を無視できない。
 流すことができない。一つだけ、認めざるをえなかった。
 あり得ないことが起こっていた。

 それは今日まで一度も無かったこと。
 お父さんが望んでくれた"絶対なる己"以外の何かを、基準に思考していた。

 "神寂祓葉という尺度"を知ってしまった。
 それこそが、伊原薊美に発生していた異常の原因だったとすれば。

「ま、別に驚かないよ。私はそういうの、もう六回も見てきたから」

 ああ、又聞きの話をカウントすれば七回かとハナを鳴らして。

「あんたはここじゃ、八人目になるだろうってだけ。
 だからさ、あんまり気に病まなくてもいいんじゃない?
 あいつに頭をやられるとか、なんにも特別なハナシじゃないし」

 それが一番、薊美の心に刺さると知ってか。
 白黒の少女はやけに意地悪く、せせら笑って言い切った。

「そんなの別に、"普通のこと"なんだから」






 スイートルームには広めのベランダが備えられていた。
 ホテル最上階、約42メートルの高度からは渋谷の街が一望でき、花火シーズンには予約が殺到するという。

 ベランダに出た薊美はゆっくりと引き戸を閉めた。
 喉を開いて深呼吸。新鮮な外気を吸い込むと、今までいたリビングルームの空気がどれほど淀んでいたのかよく分かる。
 涼しい春の夜風が首筋を撫でるように通り過ぎていくのを感じながら、落下防止柵の近くに佇む先客に声をかけた。

「ここにいたんですね、高天さん」

 ベランダから街を見下ろしていた小都音が振り返る。
 月明かりが逆光になっていて、その表情は伺えない。

「っと、薊美ちゃんか。
 ……ごめんね。にーとちゃんの相手任せちゃって」

「別にいいですけど、できれば早く部屋に戻ってくださいね。
 あの人、高天さんが見てない隙に、こっそりお酒を追加しようとしてますよ」

 背後のリビングルームでは、どうやら酔っ払った仁杜が懲りずにイリスにちょっかいをかけ、案の定一悶着始まってしまったようである。
 巻き込まれたくもないので薊美も暫く絡むつもりはない。

「やっぱりそうか、まったく……お酒隠そうかな」

 と、小都音も部屋の方を一瞥するも、動く気配はない。
 その様子を見るに、彼女は薊美の意図を察しているようだった。

「……セイバー」

 証明するように、彼女は一度、己が従者を呼ぶ。

『心配しなくても、ここにゃバッタの耳はねえよ。
 もし虫が近くに這い出てきたら、教えてやっから心配すんな』

 薊美にも聞こえるように、トバルカインの声が一瞬だけ交信されて。
 ようやく、本当の意味で二人の会話は始まった。

「それでどうしたの? 薊美ちゃん」

「いえ、一番話したかったことは、単なる報告です。
 ライダーが念話の圏内に入りました。
 無事に戻るようなので、あと少ししたら私は一度、フロントまで出迎えに行こうと思います」

「分かった。それじゃ、その時は私も部屋に戻るよ。
 にーとちゃんのお目付け役がいなくなっちゃうし」

 先ほど、薊美のサーヴァント、ジョージ・アームストロング・カスターからの念話が届いた。
 追撃を終え、もうすぐ帰還するとのことだった。
 まずは、単なる連絡を終え、そして本題に移る。

「……それで、楪依里朱のことなんですが」

「あー……まあ、その話だよね」

 この件については、同盟関係の三者ではなく。
 二人だけで話し合うべきだと考えていた。

「このままにして良いんですか?」

 薊美はちらりと部屋の方を見た。
 経緯は一切不明だが、イリスが仁杜の頭に握りこぶしを当て、グリグリと捻っている。
 仲良くじゃれている……ようには残念ながら全く見えない。
 少なくとも仁杜は本気で半泣きにされていた。

「暫くは大丈夫じゃないかな。にーとちゃんも今かなり調子乗ってるし。
 少し凹まされるくらいが丁度いいかも。本気で危害を加えようとしたらキャスターが止めるだろうし」

「いや……そういう話ではなく」

「…………」

 はぐらかそうとする小都音の目を真っ直ぐに見つめ、薊美は抱えた疑問をぶつけている。
 楪依里朱のスタンス、仁杜との関係、そういった問題よりも根本的なことだ。
 それはつまり、

「どうして殺さないのかって話?」

「ええ」

「はっきりさせたいんだね。薊美ちゃんは」

「誤魔化しても、しょうがないですから」

 始まりの六人。その一人。
 東京を現在進行系で恐怖のどん底に叩き落としている蝗害の魔女。
 聖杯戦争における最大戦力と目されていた怪物、そのマスター。
 彼女との交渉に成功し、当初の目的であった協力関係こそ拒否されたものの、休戦協定を結んだこと。

 それは彼女たちが掴んだ成果である。
 しかし、その実、彼女たちは当初の目標よりも、遥かに大きな成果を得ていたのだ。

「確かにね。しょうがないか」

 その事実に、やはり仁杜だけが気づいていない。
 彼女が成した成功、彼女がいなければ在り得なかった奇跡でありながら。
 彼女だけが、現状を正しく認識していない。

「今なら、私たちがその気になれば、蝗害を殺せる」

 戦闘の結果、楪依里朱は魔力の枯渇と強烈な痛手を負った。
 やがて、自身の治癒魔術で傷は癒え、サーヴァントの出力も、時間の経過によって取り戻すことだろう。
 しかし今だけは、あと少しの時間だけは、著しい弱体化を余儀なくされている。

 休戦と言ってもやがては殺し合う仲。それはイリス自身が語った通りだ。
 多少協力できたとしても、癇癪激しい蝗害の魔女とまともな連携を取る事など至難を極める。
 やはりどう考えても、生かすにはメリットよりも将来的な危険が上回る。
 そのうえで今、殺せるならば、やらない理由が無い。冷静に、冷徹な判断を下せば、そうなる。

「と言っても、仁杜さんには……聞くまでもないですね」

「だね、にーとちゃんには、そんな選択肢すら浮かんでないと思う」

「でもあなたは違うでしょう。高天さん」

 過去の経緯が証明している。
 なぜなら、あの喫茶店で彼女ら二人は一度、同じ結論に至っている。
 太陽の如き少女と白黒の少女の相克を見、『こいつらは、ここで殺すべきだ』と。
 その判断が一致したからこそ、彼女らは手を結ぶに至ったのだから。

「薊美ちゃんと同じこと、確かに私も考えたよ。
 付け加えるとセイバーにも同じこと言われた。
 『首を刎ねられる内に、とっとと刎ねとけ』って」

「それなら……」

「でも、今は、そういう気にならないかな」

 だからこそ、小都音の答えは薊美の予想とは違っていた。

「……意外です。あなたは"こっち側"だと思っていましたが」

 高天小都音は、どこかの誰かのように、夢見がちな女ではない。
 しっかりと現実を見て、情に流されず冷静な判断を思考できる人間。
 そのうえで、彼女の望みがもし、薊美の想定通りなら。
 自身と仁杜に危険を及ぼす存在に対し、冷静に対処するだろうと読んでいたのだが。

「買いかぶり過ぎだよ。私は凡人、普通の人間。
 薊美ちゃんみたいに、合理的に動けてない」

「理由を聞いてもいいですか?」

「……あの子がここに居るのは、にーとちゃんが努力した成果だから。
 さっきはああ言ったけど、普段を知ってる身からすれば、今日のにーとちゃんは本当に頑張ったと思うんだ。
 自分から電話して、自分から外に出て、自分から誰かの手を引っ張るなんて。
 ちょっと驚いちゃった。あんまり褒めるとまた調子乗るから本人には言わないけど」

 だからその結果を、踏みにじるような事はしたくない、と。

「そうですか」

 腑に落ちない点も幾つかあったが、一応の納得は得ることが出来た。
 確かに、合理的に考えられることと、合理的に行動できる事は違う。

 常識外の理論で生きているわけではない。
 さりとて、合理の思考のままに行動出来るわけでもない。
 合理と非合理の狭間で揺れる、そう考えれば、確かに普通の人間、中庸の存在の典型に思える。

「分かりました。私も、これ以上は言いません」

「薊美ちゃんも、納得してくれたってこと?」

「2対1ですからね。集団行動をしている以上、私も決定に従います」

「そっか、ありがと」

 ほっとした様子で肩の力を抜く小都音を観察する。
 やはり、この女性からは何も感じない。
 人間としても、マスターとしても、何もかも平均的なステータス。 

 思えば、ベランダに出た直後に見えた、彼女の姿勢。
 見間違えでなければ、瞳を閉じ、手を合わせていた。

「話は済みました。そろそろ私はエントランスに降りますね。
 ライダーが戻ってきますので」

「うん、私も部屋に戻るよ」

 ベランダから見下ろせる渋谷の夜景。
 一区画が、ポッカリと巨大な穴の空いたように闇に包まれている。
 その周囲一帯が停電しているのだ。
 言うまでもなく、先の戦闘でロキと蝗害が暴れまわった地域である。

 防音設備の整った室内は静かで快適な空間だったが、一歩外に出ると、夜の街はけたたましい混乱の声とサイレンの音に包まれている。
 幸せな夢の外側で、今も関係のない誰かが、何処にも届かぬ悲鳴を上げている。
 失われた大量の罪なき命を、天枷仁杜は顧みず、今も自らの世界の範疇で微睡んでいる。
 薊美もまた、舞台装置のモブの死に心を痛める感性は持っていない。

 しかし小都音だけは違っていたようだ。
 特異点の感性に付き合いながら、彼女は失われた人命に憐れみと罪悪感を覚えている。
 合理と非合理の狭間で生きている。
 そういう意味では、彼女の感性は自身が語るように、実に凡庸なのだろう。

 焼き尽くす太陽や静かに照らす月のような、非凡なる何かを見出すことは出来ない。
 目の前に居るのは主役たり得ぬ、主役を目指す自我すらない、普通の人間。
 それを確認して、踵を返そうとしたときだった。 

「―――そういえば、情報収集は上手くいきそう?」

 背中に刺さった声に、足が縫い止められた。

「……なぜ?」

 何をもって気付いた。
 小都音と仁杜には、『ライダーを高乃河二と琴峯ナシロの"追撃"に向かわせた』とだけ話した。
 何ら嘘ではない。殺害も視野に入れた深追い、しかしより優先して命じた内容を伏せている。
 ライダーには敵対した二人のマスターの殺害よりも、"今後の為の情報収集"、ある種の交渉を命じていたのだ。
 その今後とは、小都音達との決別の可能性をも視野に入れたもの。
 別に今すぐの裏切りを決めたわけではない、将来の様々な状況を想定して打った一手。ボロは一つも出していなかった筈なのに。

「だって、私があなたならそうする」

 推理の手法は実にシンプルだった。

「状況が変われば、敵も味方も変化する。
 今の私たちはあのシスターの女の子より、楪依里朱を選んだけど、あの子達の力を借りなきゃいけないタイミングも来るかも知れない。
 だから白状するけど、私もあの時、セイバーにはなるべく殺さないように頼んでた」

「さっきの話はなんだったんですか。
 充分……合理的に、強かに行動してるじゃないですか」

「まあ、凡人なりに、ね。
 合理的じゃなくても、できる限りにーとちゃんの意思は尊重してあげたいと思う。
 でも、そうじゃない分野については、にーとちゃんが考えない分、私が現実を見てあげないと」

 薊美はもう一度、高天小都音と向き合い。
 その姿をまじまじと見た。

「だから別に、薊美ちゃんを責めようとか、追求しようとかそういうわけじゃなくて」

 夜の街を背に立つ姿。
 その表情はやはり、逆光になっていて見えないけれど。

「今のうちに、一つだけ伝えたいことがあったんだ」

 何度見ても結果は変わらない。
 高天小都音は普通の人間だ。本人はそう語り、薊美もそう見る。

「もしも、この先、薊美ちゃんがにーとちゃんを信じても良いって思える時が来たなら。
 その時は、一時の同盟じゃなくて、本当の意味で、私たちの仲間になってほしい」

 けれど、彼女の背後には月が昇っていた。

「まだ、にーとちゃんにもきちんと話せてないんだけどね。
 私は……もし出来るなら、にーとちゃんと一緒に帰りたいって思ってる」

 東京を見下ろす、巨大な月。
 青白く透明な光が、柔らかな輝きを振り撒いて。

「私一人じゃ到底辿り着けない奇跡かもしれないけど。
 にーとちゃんが本気でそれを望んでくれるなら。
 不可能は可能になるかも知れない、今日みたいに」

 月の重力に生きる女は、既に太陽の重力圏から逃れ出ている。


「だから楪依里朱も……あなたも……今はまだ、殺そうとは思わない。
 あの子に友達が増えるなら、それはきっと良いことだから」

 唯一の"月の眷属"は太陽を目視して尚、未だに影響を受けていない。
 背後から差す月光が、他の光を跳ね飛ばす。
 そうして彼女は今も、変わり者の友人が幸福であることを願っている。

 月光。それは何もかもを問答無用で灼き尽くすような、太陽の如き激しい熱ではない。
 引きこもりで身内贔屓な、気に入った友だけを愛する光。
 幸福で穏やかな繋がりを是とする、とろんと甘く朧気な夢。

「薊美ちゃん、さっき言ってくれたよね」 

 ―――意外です。あなたは"こっち側"だと思っていましたが。

「そっか、私を、自分と同じ側だと思ってくれてたんだ」

「―――――ッ」

 何ら悪意なく、寧ろ親近感が込められた言葉に、足元が崩れていくような気分を味わう。
 唖然とする。私は、いったい何を言っていたんだ、と。
 自分に対して呆れ返る。

 危険だから、楪依里朱を排除する、という。現実に則した冷静な判断。
 それは言い換えれば凡庸とも言える、普通の行動なのだ。
 少なくとも、高天小都音にとってすれば。

 伊原薊美はようやく分かった。分かってしまった。
 囚われていたのは、自らを変容させていくのは、太陽への殺意だけではなかった。
 その逆、友愛によって成り立つ繋がり。もう一つの特異点。
 月光は既に、薊美にも浴びせられている。

「私も意外だったな。
 だって私は、あなたは"あっち側"だと思ってたから。
 でもそうじゃないなら、私たちは本当の意味で手を結べる」

 その言葉は、薊美には全く別の音で再生されていた。
 まるで―――「あなたって、案外"普通"だったんだね」、とでも言われたような。

 燃えたぎる灼熱が身を焦がす。
 朧気な冷気が胸の真中を凍てつかせる。
 いっそ笑い出したくなるような、怒りと屈辱の只中で。

「答えはいつでも良いから。また、聞かせてほしいな」

「ええ、分かりました。考えておきます」

 朗らかな表情のまま、平坦な言葉を並べ。
 太陽と月、2つの重力圏の狭間にある少女は、いつも通りを演じきった。







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 ―――ばかみたい。

 楪依里朱は何度目かもつかない悪態を零しながら、目の前に鎮座する有害生物を睨みつけていた。

「どいて」

「……やだ」

 天枷仁杜がイリスの座るベッドに乗っかり、シーツを掴んで自分の身体を固定している。
 丈の合わない服をだらしなく着た女が、イリスの領域を侵犯していた。
 不愉快だった。

「どけ」

「うぅ……や、やだ」

 軽く凄んでみせると、女はその赤らんだ童顔をくしゃっと引き攣らせ。
 あからさまにビビりながらも、ポジションを譲ることはなかった。
 握りしめた缶チューハイをぐいっとあおり、酒の力で踏みとどまる。

 嫌になってくる。
 どう考えても被害にあっているのはこちらなのに、まるで虐めているみたいな構図になっている。
 こいつは年上のはずなのに。
 中学生くらいにしか見えないが本人や周囲の言葉を信じるなら、余裕で成人している筈なのに。
 定職に就いていなければおかしい年齢の大人が、小動物のように怯えながら我儘を主張している。

「いーちゃんはまだ、ここにいなきゃ駄目!」

 一体なんなんだコイツは、と。
 これも何度繰り返したか分からないため息を一つ。
 仕方なく、イリスは作戦を変えてみることにした。

「喉乾いたから、コンビニに飲み物買ってくるだけって言ってるでしょ。すぐ戻って来るっての」

「駄目! 飲み物ならここにいっぱいあるでしょ」

「酒ばっかで飲めるもんが無いっていってんの!」

「じゃあ、ことちゃん達が戻ってきたら買ってきてもらうもん」

「そいつらが全然帰ってこないから言ってる。ていうか、あんたが買いに行く選択肢はないのか」

「私が行ったら結局その隙にいーちゃん出ていっちゃうじゃん。
 もういいよ、じゃあロキくんに行ってもらうから」

「あのプライド高そうなホストもどきが、そんなパシリみたいなことするかっての!」

「わたしが頼んだらやってくれるもん!」

 仁杜は頑として譲らない。
 子どもの駄々のように、ああ言えばこう言う。

「ていうかせっかくのスイートなんだからルームサービス使えばいいじゃん!
 何だかんだ言って、ことちゃん達がいない内に逃げようとしてるんでしょ?
 にーとちゃんにはお、お見通し、なんだぞぅ!」

 さっきからずっと、イライラする。
 腹の傷がじくじくと傷んで。
 頭の隅のほうがピリピリする。

「……いーちゃんはまだ寝てなくちゃ駄目だよ……おなか、治りきってないんだから……」

 見当違いな心配と、馴れ馴れしい口調に辟易する。
 しかし実際、仁杜の予見は当たっていたのだから本当に嫌になる。
 何も考えてなさそうなマヌケ顔して、なんでこんな所ばかり勘が良いのか。

 そう、イリスは出ていこうとしていたのだ。
 魔力の補充、傷の治癒、共に半端であることも当てられている。

「はあ? もう余裕で動けるけど。じゃあ逆に聞くけど、なんの権利があって指図してくんの?
 私のこと監禁でもしたいわけ? どこ行こうが勝手でしょ」

「あ~! 開き直った! ほらやっぱり出ていくつもりだったんじゃん!
 もうぜ~~~~~~ったい、ここを退かないからねっ!」

「こんの……酔っ払いクソニートが……!」

 イライラする。
 苛ついて声を荒らげると、腹に響いて余計にムカつく。
 別に、イリスはやけになって逃げ出そうとしたわけじゃない。
 根本的に、こいつは分かっていないのだ。

「だいたい、あんたのお仲間だって、多分それを望んでるんだけど」

「へ……? ことちゃんと薊美ちゃんが? なんで?」

「はあ。ほんとに分かってないの? なんでそういうところだけ鈍いの? 馬鹿なの?」

「ひどい……」

 イリスとて充分に理解している。
 楪依里朱が味方になった、などと能天気に信じているものは、この集団で天枷仁杜ただ一人だ。
 他2名のマスターは冷静に、というか普通の感性として、イリスを警戒し続けている。
 そのうえ、イリスの方から積極的な協力と連携を拒否しているのだ。

 休戦協定は既に結ばれている。
 ある程度身体が動くように慣れば、どうぞお早めに退席して構わない。
 高天小都音と伊原薊美が長く席を外しているこの時間を、イリスは彼女らのメッセージと受け取った。

「私がここにいる限り、お互いに気が休まらないのが分からない?
 あんたって本当に空気読めないよね」

 ――――こいつの、そういうところが、最高に不快だ。

 そもそも、彼女たちの目線で考えれば、今からでも弱った蝗害の魔女を殺しにかかる方がよっぽど利口なのだ。
 敵地で寝れるものか。それは偽らざる本心だ。
 シストセルカの姿をチラつかせるなど、イリスもここに来てからそれなりの牽制を行っていた。
 当たり前の話、誰が買ってきた水も、飲む気にはならない。何が入ってるか知れたものじゃない。

「今、あんた達の気が変わったら、今度こそ私を殺せるかもね。
 そしてそれは逆も然り、私が万全に戻るほど、あんた達は怖くなるんだ。
 私の気が変わったら、今度こそあんた達は死ぬかも知れないから」

 それが、この休戦協定の真実だ。
 仁杜だけはバカ正直に、イリスが全快するまで一緒に行動できると思っていたようだけど。
 イリスが万全でもない、最低限動けるようになったこのタイミングで離脱する。
 それが双方にとって、一番安心できる落とし所なのは明らかなのに。

「いやいや~そんなことないよぉ~。
 いーちゃん、ちょっと考えすぎ」

 なのに、馬鹿みたいに呑気な声で答える女に、イリスは心底、苛ついて堪らない。 

「ことちゃんも、薊美ちゃんも、そんなことしないよ」

 チャットだけのやり取りだった時から、細かいことに頓着しない性格だとは思っていた。
 そこが居心地良くもあったのだけど、まさかここまで察しの悪い女だなんて。

「それに、いーちゃんもさ、そんなことしないでしょ」

「なんで……」

 ふと、嫌な流れだ、と思った。
 警鐘が聞こえる。
 心の奥底に沈めた何かが疼いている。
 きっともう二度と治らない傷が痛んでいる。

「なんで、そんなこと、言い切れんの」

 やめろ、と。
 胸の奥が悲鳴を上げる。

「だってわたしたち、もう、」

 焦げ付いた既視感に吐き気がして。

「言っとくけど、次に仲間だなんて言ったら殴―――」

「友達だから」

「――――」

 ガスの充満した部屋に、火を投げ込んだかのようだった。
 一瞬で脳天まで駆け巡った熱に、身体をコントロールが出来なくなる。
 ほわほわと笑む女の肩を掴み、思い切り引き倒す。
 イリスの全身が、暴発する殺意に支配されたのが分かった。 

『―――私たち、友達でしょ?』

 ――――ほんと、こいつの、そういうところが、最高に不快だ。

 ――――なんか、似てる気がしたから。

「ばかみたい」

 体躯の小さな女を押し倒すのは、ムカつくほどに簡単だった。
 気づけば馬乗りになって、両手で女の華奢な両肩を押さえつけている。
 上になった格好のイリスの髪の毛が、はらりと重力に従って広がる。

 モザイクのような、白と黒のツートンカラー。
 少女を中心にして、じわりと、ベッドの上に色彩が広がっていく。
 仁杜はただ、その様子を呆然と仰ぎ見ていた。

 いかにも引きこもり然とした、白い首筋。
 そこに指が掛かりそうになった、その時。

「きれい」

「…………」 

「きれいだね、いーちゃん」

 あどけない両の瞳に、イリスの色彩が映り込んでいる。
 いつか聞いたようなバカみたいな感想に、腕の力が抜けていく。

「は……なにそれ、なんで、こんなやつに……私は……」

「……?」

「ちっ……ああもう!」

 肩から手を離し、小柄な身体から飛び退く。
 ベッドの隅で、頭を掻きむしるようにして蹲る。
 ムカついて、苛ついて。
 挙げ句、その苛立ちの本当の理由に、気づいてしまったから。

 あまりに惨めで堪らなかった。
 過去の未練を殺し尽くすと意気込んで、思うがままに暴れまわって。
 誰が死のうと構わない、失うものなんてない、二度と誰にも負けないと決めていたのに。
 あの星を落とす。そのためだけに、立ち続けると誓ったのに。

 結局、太陽を殺すどころか、その手前で、イリスは負けた。
 太陽がイリスを捨てて呼び出した新たな星に、絶対に負けたくないと思っていた、寄せ集め共に。
 挙げ句、そんな寄せ集めの一つにまで、過日の残影を見ていたなんて。

「ばかみたい」

 なんて、未練がましい。なんて、無様なんだろうと思う。
 燃え尽きた身体で、何か新しいモノを掴めると思ったのか。
『少しは成長してみせろ』と、悪辣なヤブ医者は言ったらしい。
 それはこの事を予見していたのだろうか。
 未だ、己が記憶の中で、溺れ続ける滑稽な有り様を指して。

 全ては、在りし日の未練を殺すため。
 そうしなければ、イリスは何処にもいけない。
 あの夢のような日々の中で、美しいと思った全部を。
 イリスを新しい場所へと導き、そのくせ捨てた。輝ける痛みの思い出の全部を、殺さなければ進めない。
 殺さずにおくことを、己が狂気は決して許さない。 

 だけど本当は分かっていた。
 心から自由になりたいなら、極星の遊びになど付き合わなければいい。
 不貞腐れて、もう飽きた、もう付き合ってられないと言い捨てて、退場してしまえばいい。
 だけど今も、そんな簡単なことも言い出せずにいる。

『―――ねえ、その髪、きれいだね』

 いつか、隣に立っていた少女の、なんてことない言の葉を、忘れることが出来ない。

『イリスはいつも、きれいだね』

 くだらない。
 今となっては本気にするのも馬鹿らしい。
 あいつの言葉なんて、二度と信じてやるものか。

『イリスは、きれいで、かっこいいよ』

 だけど負けたくなかったのだ、誰にも。
 あいつを殺すまで、誰にも。

『イリスは負けないよ。私の、一番の友達なんだから』 

 それが燃え尽きながらも、戦い続ける理由なのだとしたら。

「ほんと、ばかみたい……」

 こんなに救われない話もない。

「いーちゃん」

「うっさい、あっちいけ無職が」

「いーちゃん大丈夫?」

 懲りずに寄ってくるニートを片手で払う。
 なのにふてぶてしい勘違い女は、イリスの隣に座り込んできた。

「大丈夫だよ、いーちゃん。
 ことちゃんはすっごく優しいし。薊美ちゃんともきっと仲良くなれるから」

 乱高下するイリスの心中など露知らず。
 仁杜の言葉は相変わらず的外れ。
 何も分かっていない上に、夢のような絵空事。
 都合の良い未来、自分のみたいものしか見ず、しかも本気で信じてしまえる。

『一緒に行こうよ、イリス』

 そういう、脳天気なエソラ。
 バカみたいな純真さ。
 再び何かと重なって、不快感がこみ上げる。

「だから、いーちゃんが居たいだけ、ここに居てもいいんだよ」

「…………?」

 しかしそのときになり、イリスの脳裏に、一抹の違和感が紛れ込んだ。
 先程のフレーズはあまりにも、記憶の中の残影と対照的だったから、だろうか。

「……あの時、さ。なんで飛び出してきたの?」

「え?」

「琴峯が凄んできたとき、急に前に出たでしょ、あんた」

「あー、そりゃだって、いーちゃんピンチだったし」

 ふと気なっていたことがあった。
 先程の戦闘において、突如切らざるを得なくなった令呪により、一時的に魔力が枯渇した場面があった。
 そこにタイミング悪く現れた琴峯ナシロと高乃河二。
 彼らに対し、真っ向から敵対的な姿勢をとった仁杜の判断こそ、戦いの分水嶺だったのかもしれない。

「やっぱ魔力切れに気づいてたんだ」

「そうだよー。にーとちゃんにはお見と」

「じゃあなんで、さっさと言わなかったわけ?」

「へ?」

 仁杜が妙なところで鋭いことは、もうよく分かっている。
 だからイリスにとって解せなかったのは、彼女が行動に移る過程だった。

「さっさと指摘すれば状況はもっと単純だったし。
 割って入るにしたって、もっと早ければ琴峯とあそこまで拗れることもなかった」

「い、いやー? そうかなー。私もちょっと気づくのに時間かかってたしなあー」

「嘘つけ」

「なんで分かるの!?」

「わかり易すぎるわ」

「いやー、その、だってあの時はホラ、いーちゃんナマイキで我儘ばっか言ってたし。
 多少シスターさんにお灸据えてもらってもいいのかなーとか」

「ああ"?」

「ひええ! でも最終的には助けたじゃん!」

「じゃなんで助けたの」

「そりゃー友」

「次、言ったら今度こそシメるから」

「恩を売ったら仲間になってくれたりしないかなーとか思ってました……」

「…………」

「…………」

「…………」

 ピシ、と。
 頭の奥に罅が入るような音がした。
 何か、自分は途方もない勘違いをしていたのではないか。

「え、てか、あんたさ、なんで戦ってんの?
 そもそも聖杯取ってなにがしたいわけ?」

「んーっと、何がしたいっていうか。
 ずっとこのままが良いから、このまま居られたらな―っていうのが、願いになるのかなあ」

「はあ?」

「だって今はロキ君がいて人生イージーモードだし。
 ことちゃんも居てくれて、新しいお友達も出来て、あとはこのまま毎日ゲームして毎日美味しいもの食べて。
 不労所得で一生遊んで暮らせたらハッピーかなあー……って」

「…………はあ?」

 ちゃんと聞いても意味が分からなかった。
 仲の良い友人と一緒に元の世界に帰りたい、程度のお花畑を予想していたのに。
 ニートの口から放たれた妄言はイリスの想像を遥かに超えて、いや逆方向へ遥かに下回って。
 ひょっとして、いや、ひょっとしなくても、こいつは、純真なわけじゃなくて、ただ単に、あり得ないほどに。


「………………底抜けのクズじゃん」


 呆れ果てて力が抜ける。
 無論、自分にだ。
 一瞬でもこんなモノを、あいつと重ねたマヌケ加減に。

「ひっどい! だってそうでしょ!
 こんな生活知っちゃったら、もう現実社会になんて戻れないって!」

「なにそれ……マジで……クズ過ぎるでしょ……」

 怒りが、胸のつかえが、すっと消えていく。
 終わってる。勘違いも甚だしい。
 ドン引きするくらいダメ人間。
 想像を遥かに超えた社会不適合者。

「…………っ………なんなの……それ……馬鹿すぎ……。
 ……こんなのに負けたのかよ……私……ははっ……」

「なんで笑うの!? ファイヤーでパラダイスは全人類共通の夢でしょ!
 って、え、いーちゃん、いま笑った!? 笑ったらそんな顔なんだね~!」

「笑ってない。おい、調子に乗るな、殺すぞ」


 ―――ほんと、こいつの、そういうところが、最高に不快、だけど。

 ―――なんだ、全然、あいつとは似ても似つかない。


 こみ上げる自嘲の中で、どうして安堵を覚えたのか。
 痛みは、今も止まない。
 傷が癒える日は、きっと永遠にこない。

 だけどなぜかいま、ほんの少しだけ、溶けた胸のわだかまり。
 その意味も分からないまま。

 心に決めていたよりも、ほんの少しだけ長い時間。
 蝗害の魔女は、月の隣に留まっていた。







 ホテルの洗面所。
 備え付けられた大型の鏡面に、伊原薊美の顔が映っている。
 いつもと変わらない。
 ボーイッシュなショートカット、艶のある綺麗な肌に、整った目鼻立ち。

 写し身の輪郭をなぞるように薊美の指が鏡面を滑ると、目元に赤く道化のような軌跡が残った。
 それは、きつく握りすぎた拳の内で、爪が皮膚を突き破って滲んだ、血の絵の具。

『薊美。望むなら、君は何にだってなれる』

 お姫様にも、王子様にも、女王様にも、如何なる物語の主役にも。

『いつかトップスターになる日が来る。どんな星になるのかも、思いのままに決められる』

 誰より輝く舞台の華。凛と咲き誇る茨の冠。

『その輝きを目にするときを、僕は心待ちにしているよ』

 星(スター)。
 主役を表現する言葉。

 伊原薊美はそう在り続けた。
 小さな劇団の子役から、演劇系名門学園の首席に至るまで。
 転がる果実(モブ)の全てを踏み潰し、唯一人しか座れぬ椅子を足がかりに、次の頂点へと邁進する。

 ――薊美ちゃんもいつか、私みたいになれるよ。

 いつか、そう言って笑った先輩は自信に満ちていた。
 僅か数ヶ月で薊美に主役を奪われるなど、想像だしなかったであろう当時のスター。
 彼女が得意げに披露した演技は確かにその一瞬だけ、薊美より優れていたかもしれない。

 なので少し真似てみたら、案外簡単に出来てしまった。
 そしてもうちょっと練習してアレンジしてみたら、もっとうまく出来ることに気づいてしまった。
 たったそれだけの工程で、薊美は彼女を超えてしまった。

 薊美の披露した演技に歓声を上げ、新たなスターの誕生を祝福する衆目。
 唖然とした後、嫉妬を隠せずに俯いた彼女。
 数カ月後、周囲と同じように感激した目で薊美に拍手を送っていた彼女。

 ああ、やっぱり、お父さんは正しかったんだ。
 そう思った。私は、何にだって、なれる。

 そのとき、少女は自らの才能を確認するとともに、不思議な感触を得た。
 いとも簡単に、輝きを増す薊美の才覚。そして呆気なく堕ちた、誰かの価値。
 これほど美しい暴力はない。

 彼女にとって魅了とは略奪だった。
 魅せるとは、奪うことだ。
 如何なる守りも貫通する侵犯攻撃。

 心を、自信を、歯向かう意思を、奪ってへし折る。
 二度と歯向かう意思が保てないように、靴底で磨り潰す。

 昨日までの世界に、薊美の敵になる者はいなかった。
 今日、この日、伊原薊美は、意味を持って潰すべき、初めての敵に出会った。
 それも一つだけではなく。

 太陽。神寂祓葉。世界で一番の星。
 楪依里朱は、そう呼んだ。

 月。天枷仁杜。道理を覆す存在。
 高天小都音は、そう呼んだ。

 二人の特異点と、二人の眷属。
 伊原薊美を前にしても、彼女らの主役(スター)は揺るがない。
 そして今、圧倒的な2つの重力が、薊美をも引き込もうとしている。

 ――――で、あんたはそういう星に灼かれ始めたわけだ。

 ふざけるな。

 ――――もしも、この先、薊美ちゃんがにーとちゃんを信じても良いって思える時が来たなら。

 ふざけるな。

「私は、誰のものにもならない」 

 太陽の重力にも、月の重力にも、捕まってやらない。  
 だから、私は。

「私は――――木星にはならない」

 それは太陽の成り損ない。
 恒星の素質をもって生まれながら質量が満つることなく。
 核を得られず、自らの発光に至れなかったモノ。
 可能性の先を見られず、衛星の一つに甘んじた天体。

「開幕(The Curtain Rises)」

 それは将の助言によって投じられた一石か。
 あるいは、陽光と月光に挟まれた天体に起こった変容なのか。

 伊原薊美に装填された魔術回路が鳴動する。
『魅了』、彼女が掴んだ固有魔術の、その真髄が示される。
 その対象は、ここにただ一人、伊原薊美。鏡面に映った、己自身。

 彼女にとって魅了とは略奪だった。
 魅せるとは、奪うことだ。
 如何なる守りも貫通する侵犯攻撃。

 心を、自信を、歯向かう意思を、奪ってへし折る。
 二度と歯向かう意思が保てないように、靴底で磨り潰す。

 そして、薊美にとって魅せる手段とは常に、演じることだった。
 "何かに成る"、ことだった。
 成れないものなんて、今までの彼女には一つもなかった。

 誰にも負けないくらい、得意だったから。
 お父さんも、たくさん褒めてくれたから。
 今もずっと、望んでくれているから。

 ――――君は、素晴らしい才能に恵まれているんだ。

 望まれている、今も。私には、それが在る。
 私は、"普通の女の子"じゃない。
 私は、なんにだって成れる。
 私は、王子様にだって、お姫様にだって、女王様にだって――――望まれたなら、カミサマにだって。

 行く先にはいつだって星の輝き。

 太陽も月も、私の道を阻むなら。

 踏み潰してあげる、邪魔だから。









 追撃を終えた騎兵は壊滅地帯を抜け、渋谷の繁華街に帰還した。
 大打撃を受けた街の混乱は未だ冷めやらぬ。
 至るところで鳴り止まぬサイレンの音。旋回する救急車や消防車の赤い警光灯。
 無事な状態で残された地区においても、大通りは怪我人の搬送や逃げ出してきた人々によってごった返している。

 現実を遥かに超えた悪夢。
 それでも街が営みを継続し続けるのは人という種に備わった社会的防衛本能なのか。
 あるいは『聖杯戦争を続けたい』と願う少女の意思に、産み出された人々は無意識化で応えているのか。

 ジョージ・アームストロング・カスターは阿鼻叫喚に咽ぶ人々を横目に進んでいく。
 混雑する大通りから小道に折れ、細い路地に足を踏み入れた。
 メインストリートから外れてしまえば、涼しい空気と静かな夜が戻って来る。

 分岐を幾つか曲がり、ようやくその建物が見えてくる。
 15階建ての高層ホテル。ビルの周囲に人気はない。
 しかしたった今、エントランスの扉が開き、一人の少女が現れた。

「おお、我がマスター! わざわざ出迎えとは、このカ…………」

 霊体化を解き、いつもの調子で前に出ようとしていたカスターの言葉が詰まる。
 彼の主人(マスター)、伊原薊美、少女に何を言われたわけでもない。
 少女の見た目に何か大きな変化があったわけでもない。

 強いて言うなら少女の横髪の先に、薄っすらと乾いた赤色が滲んでいる、ただそれだけ。
 無意識に、血の付いた指で触ってしまったのだろうか。

「どうかしましたか? ライダー」

 己が今、何に気圧されているのか。
 正体を掴めず。カスター将軍は少しだけ表情を強張らせながら。

「……いいや! ことは万事順調に運んだとも!
 報告するべき情報、収穫は多々ある、順を追って伝えよう」

「隠さなくてもいいですよ」

 始めようとした戦勝報告を、美しいマスターは遮った。

「魔力消費の度合いから、貴方は情報収集ではなく、最初から敵の首を穫るつもりで追撃した。そうでしょう?」

「いや済まない! 穏当な方法で話すことは難しいと判断した故」

「もちろん、殺してもいいと言ったのは私です。戦場での判断に、文句なんて在るはずがない」

 だけど、と区切って。 

「貴方が奪うと決めたのに。戦場でそれが出来ると判断したのに。
 手土産に一つも首が無いのは不可解だ」

 だから隠さなくていいんですよ、と。
 顔を上げた女王は微笑んだ。 

「驕るならともかく、焦るなんて貴方らしくない。
 よっぽど不測の自体でもあったんですか?
 それとも、なにか―――怖いものでも見たんですか?」

 見透かされている。
 少女の目がカスターの目を捉え、深く、深く入り込んでくるように。
 それは防御不可能の侵犯行為だった。

 隠したいたものが暴かれる。
 あのとき聞いた、悪魔の羽音。

 奪い尽くして終えるはずだった追撃を、変えてしまった異質な気配。
 ベルゼブブへの恐怖に、蹂躙の意思が僅かに退いたこと。
 マスターに知られまいとした、カスターの胸に未だ燻る、恐怖心。

「それなら少し、気付けてあげます」

 少女の足が動く。
 一歩、カスターに向かって踏み込む。

 たん、と。
 甲高い靴の音鳴りが夜の空に響いた。

「貴方の助言を参考にして、色々と考えてみました」

 彼女の背後、ホテルのロビーから路上にもれる光。
 光と影の堺と、歩道を区切る白線と黒いアスファルト。
 それらの文様が、僅かにうねり、歪んでいる。

「結局、私にはこのやり方が、一番合ってるみたいで」

 ごく小規模の改変行為。
 魔術の世界において、なんら特別な変化ではない。
 2つの色の境界が動き、路上に印を刻んだだけだ。

「私、昔から、他人の演技の真似をしてみたら。
 案外簡単に出来てしまえて。
 だから多分、魔術っていうものも―――」

 薊美の足元には凸型を反対にした、バミリのような小さく白いマーク。
 カスターの足元には長く引かれた黒い境界線。
 その微細に過ぎない成果を、少女は不満げな表情で見下ろした。

「でも、やっぱり、いきなり上手くは出来ないか」

 カスターは息を飲む。
 色の配置を弄るだけの、非常に小規模で、弱々しい魔術行使。
 それでも確かに、今起こった現象には見覚えがある。

「魔力効率も悪すぎる。刻印っていうんだっけ。
 ああいう外付けエンジン前提の技法だとしたら。
 今の私じゃ、楪依里朱の……その半分まで再現するのも難しいかな」

 空間を二色に定義して干渉する。
 色間魔術。
 その基礎中の基礎とはいえ、彼女はそれを実現したのだ。

「まあいいか。こんな回りくどい表現技法、そもそも私の身体に合ってない」

 伊原薊美。演劇界の天才は、魔術の世界においても天才だった。
 演じる。模倣する。優れたる演技を見取って自らの武器に変える。
 少女は自分自身を魅了し、役柄に深く陶酔することで。
 たった2回見ただけの、楪の魔術(えんぎ)の一端を身体に降ろしている。

「それに、こっちの方が、多分。
 私には合ってる。そうでしょう、ライダー?」

 そして次に発生した現象こそ、真にライダーを驚嘆させた。
 極小規模な色間魔術を継続させたまま、少女は更に一歩を踏み出す。
 バミリを踏みしめ、腕を振りかぶり、一瞬にして、その役柄が変質する。

「―――総員、傾注」

 魔女から、女将軍へと。

「7th Cavalry Regiment, Fall in!(第7騎兵連隊、整列せよ!)」

 少女の号令に応じるように、カスターの背後に無数の騎兵が出現した。
 彼が無意識に呼び出した壮烈なる騎兵隊は、一つの生命のように駆動する。
 薊美の引いた黒線に沿い、寸分の狂いなき統制の元に配列され、主に向かって頭を垂れる。

「うん、貴方を参考にしてみましたが、こっちの役のほうが入りやすい」

 将の指令によって、命なき兵達の士気が昂っている。
 波及する熱が部隊全体の能力を著しく向上させている。

 カスターのスキル、〈誉れ高き勇士〉。
 カリスマの変異スキルであるそれに近い、意思煽動と心技練磨を齎す波が、伊原薊美から放たれている。
 今度は役に潜るための内に向けた魅了ではなく。他を支配する為に、外に放たれた波動。
 魅了魔術という武器の、最も直線的な使い方。

 だが、その出力は今までの比ではない。
 味方に放てば士気と能力に凄まじい向上が齎される。
 敵に放てば、恐慌、拘束等の不利益を押し付ける。
 まさにカリスマ、盤面を動かす統率者の魅力。

「これで恐怖は忘れられた? ライダー」

 全身に滾る力が、カスターの胸に巣食っていた悪魔の羽音を押し流していく。
 恐れは消え、興奮と感動が心を満たしてく。

「…………ああ、見事だ。マスター」 

 ここに躍進は遂げられた。
 将軍の進言と、2種の極光に晒されたことによって。
 少女の輝きは力を増した。

 戦いの中で、宝石は磨かれる。
 伊原薊美は舞台女優。
 最前線という舞台に上がってこそ、その真価は発揮される。

 広い舞台の上では、今も誰かが戦い続けている。
 それを証明するように、たった今、遠くの空で夜を劈くような衝撃が轟いた。
 巨大な爆炎が港区の方角から立ち昇り、そして間髪入れずに白き極光が迸る。
 異常なる白、人を灼く太陽の光が世界を照らし、過ぎ去っていく。


「―――誰も、目を逸らすな」


 だけど今だけは、カスターはその方角を見ることができなかった。


「私以外を見るなんて許さない」


 女将軍から、冷酷な王子へと変質した演技。
 目の前の少女の立ち振舞いから、目線を外すことが出来ない。

「私は戦争に勝ち残る。
 そして私の従者に、敗北は許されない」

 この聖杯戦争にて邂逅した主人(マスター)。
 伊原薊美は最後にもう一役、演目を変えて微笑んだ。

「輝ける勝利を我が手に。
 二度と、退かないでね。私の騎兵(ライダー)」

 それは栄華に満ちた蹂躙劇。
 孤高の主演。茨の冠を戴く、美しき女王様。
 騎士はその無慈悲なる輝きに、自らの胸に掌を当て、礼賛の意をもって跪いた。


「――――仰せのままに、My Fair Lady(いと気高き淑女よ)」






【渋谷区 高層ホテル・エントランス/一日目・日没】

【伊原薊美】
[状態]:魔力消費(中)、静かな激情と殺意、魅了(自己核星)
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:騎兵隊の六連装拳銃
[所持金]:学生としてはかなりの余裕がある
[思考・状況]
基本方針:全てを踏み潰してでも、生き残る。
0:私は何にだって成れる、成ってやる、たとえカミサマにだって。
1:殺す。絶対に。どんな手を使ってでも。
2:高天小都音たちと共闘。
3:仁杜さんについては認識を修正する。太陽に迫る、敵視に相応しい月。
4:太陽は孤高が嫌いなんだろうか。だとしたら、よくわからない。
5:同盟からの離脱は当分考えていない。でも、備えだけはしておく。
[備考]
※マンションで一人暮らしをしています。裕福な実家からの仕送りもあり、金銭的には相応の余裕があります。
※〈太陽〉と〈月〉を知りました。
※自らの異能を活かすヒントをカスターから授かりました。

→上記ヒントに加え、神寂祓葉と天枷仁杜、二種の光の影響によって、魅了魔術が進化しました。

  • 『魅了魔術:他者彩明・碧の行軍』
 周囲に強烈な攻勢魅了を施し、敵対者には拘束等のデバフ、同盟者には士気高揚等のバフを振りまく。

  • 『魅了魔術:自己核星・茨の戴冠』
 己自身に深い魅了を施し、記憶した魔術や身体技術の模倣を実行する。
 降ろした魔術、身体技術の再現度は薊美の魔術回路との相性や身体的限界によって大きく異なる。
 ただし、この自己魅了の本質は単なる模倣・劣化コピーではなく。
 取得した無数の『演技』が、薊美の独自解釈や組み合わせによって、彼女だけの武器に変質する点にある。



【ライダー(ジョージ・アームストロング・カスター)】
[状態]:疲労(小)、複数の裂傷、魅了
[装備]:華美な六連装拳銃、業物のサーベル(トバルカインからもらった。とっても気に入っている)
[道具]:派手なサーベル、ライフル、軍馬(呼べばすぐに来る)
[所持金]:マスターから幾らか貰っている(淑女に金銭面で依存するのは恥ずべきことだが、文化的生活のためには仕方のないことだと開き直っている)
[思考・状況]
基本方針:勝利の栄光を我が手に。
0:―――おお、共に征こう。My Fair Lady(いと気高き淑女よ)。
1:神へ挑まねば、我々の道は拓かれない。
2:やはり、“奴ら”も居るなあ。
3:“先住民”か。この国にもいたとはな。
4:やるなあ! 堕落者(ニート)のお嬢さん!!
[備考]
※魔力さえあれば予備の武器や軍馬は呼び出せるようです。
※シッティング・ブルの存在を確信しました。

※エパメイノンダスから以下の情報を得ました。
 ①『赤坂亜切』『蛇杖堂寂句』『ホムンクルス36号』『ノクト・サムスタンプ』並びに<一回目>に関する情報。
 ②神寂祓葉のサーヴァントの真名『オルフィレウス』。
 ③キャスター(ウートガルザ・ロキ)の宝具が幻術であること、及びその対処法。
※神寂祓葉、オルフィレウスが聖杯戦争の果てに“何らかの進化/変革”を起こす可能性に思い至りました。
※“この世界の神”が未完成である可能性を推測しました。


【渋谷区 高層ホテル・スイートルーム/一日目・日没】


【天枷 仁杜】
[状態]:健康、魔力消費(おやつ食べたらさっぱり全回復)
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:数万円。口座の中にはまだそれなりにある。
[思考・状況]
基本方針:優勝して一生涯不労所得! ……のつもりだったんだけど……。
0:ロキくんは最強だし、仲間(ともだち)も増えたし、最近は楽しいな~。こういう時間がずっと続けばいいな~。
1:ことちゃんには死んでほしくないなあ……。
2:薊美ちゃん、イケ女か?
3:ロキくんやっぱり最強無敵! これからも心配なんてなーんにもないよね~。
4:この世界の人達のことは、うーん……そんなに重く考えるようなことかなぁ……?
[備考]
※楪依里朱(〈Iris〉)とネットゲームを介して繋がっています。
 必要があればトークアプリを通じて連絡を取ることが出来ます。

【キャスター(ウートガルザ・ロキ)】
[状態]:右半身にダメージ(大/回復中。幻術で見てくれは元通りに修復済み)
[装備]:
[道具]:
[所持金]:なし(幻術を使えば、実質無限だから)
[思考・状況]
基本方針:享楽。にーとちゃんと好き勝手やろう
1:にーとちゃん最高! 運命の出会いにマジ感謝
2:小都音に対しては認識厳しめ。にーとちゃんのパートナーはオレみたいな超人じゃなきゃ釣り合わなくねー?
3:薊美に対しては憐憫寄りの感情。普通の女の子に戻ればいいのに。
4:ランサー(エパメイノンダス)と陰陽師のキャスター(吉備真備)については覚えた。次は殺す。
[備考]
※“特異点”である神寂祓葉との接触によって、天枷仁杜に何らかの進化が齎される可能性を視野に入れています。


【楪依里朱】
[状態]:魔力消費(大/色間魔術により回復中)、腹部にダメージ(中)、未練
[令呪]:残り二画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:数十万円
[思考・状況]
基本方針:優勝する。そして……?
0:〈NEETY GIRL〉改め天枷仁杜の一団とは渋々協定。魔力がある程度戻るまでは同行する。
1:祓葉を殺す。
2:誰がいーちゃんさんだ殺すぞ(薊美に対して)
3:あのクソ虫本当にいい加減にしろせめて相談してからやれって何で令呪よこせしか言わないんだよ馬鹿ふざけんなクソクソクソ
[備考]
※天枷仁杜(〈NEETY GIRL〉)とネットゲームを介して繋がっています。
 必要があればトークアプリを通じて連絡を取ることが出来るでしょう。
※蛇杖堂記念病院での一連の戦闘についてライダー(シストセルカ)から聞きました。
※今の〈脱出王〉が女性であることを把握しました。

【ライダー(シストセルカ・グレガリア)】
[状態]:規模復元、省エネ肩乗りバッタくんモード
[装備]:バット(バッタ製)
[道具]:
[所持金]:百万円くらい。遊び人なので、結構持ってる。
[思考・状況]
基本方針:好き放題。金に食事に女に暴力!
1:相変わらずヘラってんな、イリス。
2:祓葉にはいずれ借りを返したいが、まあ今は無理だわな。
[備考]
※イリスに令呪で命令させ、寒さに耐性を持った個体を大量生産することに成功しました。
 今後誕生するサバクトビバッタは、高確率で同様の耐性を有して生まれてきます。
※イリスに過度な負荷を掛けない程度のスピードでロキとの戦闘で負った損害を回復中です。

【高天 小都音】
[状態]:健康、とっても気疲れ
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:トバルカイン謹製のナイフ
[所持金]:数万円。口座の中身は年齢不相応に潤沢。がんばって働いたからね。
[思考・状況]
基本方針:生き残る。……にーとちゃんと二人で。
1:伊原薊美たちと共闘。とりあえず穏便に収まってよかった。
2:ロキに対してはとても複雑。いつか悪い男に引っかかるかもとは思ってたけどさあ……
3:アレ(祓葉)はマジでヤバかった……けど、神様には見えなかった。
4:脱出手段が見つかった時のことを考えて、穏健派の主従は不用意に殺さず残しておきたい。なるべく、ね。
5:楪依里朱については自分たちの脅威になら排除も検討するけど、にーとちゃんの友達である間は……。
[備考]
※“特異点の卵”である天枷仁杜に長年触れ続けてきたことで、他の“特異点”に対する極めて強い耐性を持っています。

【セイバー(トバルカイン)】
[状態]:健康
[装備]:トバルカイン謹製の刃物(総数不明)
[道具]:
[所持金]:数千円(おこづかい)
[思考・状況]
基本方針:まあ、適当に。
1:めんどくせェけど、やるしかねえんだろ。
2:ヤバそうな奴、気に入らん奴は雑に殺す。ロキ野郎はかなり警戒。
3:あの祓葉は、私が得られなかったものを持っていた。
[備考]



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最終更新:2025年03月09日 03:10