/猿夢
おじいちゃんは、ぼくにとってのヒーローだった。
昔気質の人で、いつも多くを語らない。
流行りのアニメやドラマの話は分からない。
だけど野球の話になると、ちょっとだけ口数が多くなる。
戦争が終わる前からあるっていう古い家に住んでいて、どこか壊れてもすぐに自分で直してしまう。
髪の毛なんかとっくに全部真っ白で、顔も身体も皺だらけ。
なのに腕相撲じゃ一回も勝てたことがない。
おじいちゃんの落とすゲンコツはこの世でいちばん痛い。
それでも、ぼくはそんなおじいちゃんのことが好きだった。
無愛想で、頑固で。そして誰より優しいその静かな背中に憧れていた。
昔――ぼくのお父さんとお母さんは仲が悪かった。
お父さんがリストラされて、仕事もしないでお酒ばかり飲むようになって。
優しい人だったのに、ぼくやお母さんを叩いたり蹴ったりするようになって。
お母さんは毎日泣いていた。泣きながら、いつもお父さんを呪う言葉ばかりこぼしていた。ぼくにはそれが辛かった。
大好きだった人たちの顔が、日を増すごとに変わっていく。
怒って、泣いて、ちょびっとだって笑っちゃくれない。
お家の中はいつもお酒の匂いでいっぱいで、お母さんはごはんを作ってくれなくなった。
ふたりの怒鳴り声や、思い出の家具やお皿の壊れる音を聞きながら、縮こまってのびたカップラーメンを啜る日々。
――誰か助けて。毎日そう思ってた。
でも、小学生にもなったら流石にわかる。
弱きを助けて悪を挫く正義のヒーロー。
そんなもの、テレビの中にしかいないってこと。
ぼくの生きてる此処は辛く寂しい現実の世界で。
他人事みたいに眺めてたニュースの"悲劇"が、じきにこの身に訪れることも分かってた。
助けてくれる誰かがいない現実で、毎年掃いて捨てるほど起きては忘れられていく悲劇。
壊れた家庭の最期というものが、此処にもやってくるんだろう。
最期は炎だろうか。暴力だろうか。それともみんなで、天井からぶら下がるんだろうか。
そう思いながら、何もかもを諦めて、暗い部屋の中で過ごしていた。
そんなぼくの前に――あの日、現実(ほんとう)のヒーローが現れた。
おじいちゃんだった。
おじいちゃんは何も言わなかった。
何も言わずに、散らかった部屋と、暗い顔で蹲ってるぼくを見た。
次に、喧嘩してる格好のまま驚いた顔をしている、お父さんたちを見た。
――ゲンコツが落ちた。
――カミナリが落ちた。
――ぼくたちの地獄は、それだけで終わった。
おじいちゃんは正座させたふたりに何かを話していたけれど、何を言ってたかは覚えてない。
ぼくはただただ、安心していた。おじいちゃんが来てくれて嬉しかった。これでもう大丈夫なんだという確信があった。
いつもみたいに多くを語らず、二発のゲンコツと一発のカミナリでぼくを助けてくれたおじいちゃん。
次の日から、うちは少しずつ元通りになっていった。
最初はまだぎこちなかったけど、少しずつ笑顔が戻ってきた。
今じゃ家族三人、前より仲がいいくらいだ。
あの頃のことも、ただの笑い話として喋れるようになった。
全部、おじいちゃんのおかげだ。
おじいちゃんはぼくのヒーローだった。
だからぼくは、今日もおじいちゃんのところに通うのだ。
おじいちゃんは最近足が不自由になってしまった。
歩けるけどもう走れない。お年寄りだから、転んだりしたら大変なことになる。
お母さんは、危ないから寄り道しないで帰ってきなさいっていつも言ってるけど。
それでもぼくは、毎日おじいちゃんの家に寄って帰るようにしている。
あの日、ぼくのヒーローだったおじいちゃん。
次はぼくが、おじいちゃんのヒーローになりたい。
困っていたら助けたいし、寂しいときは傍にいてあげたい。
そう思って地面を蹴る。
バッタなんて怖くない、バッタなんて怖くない。
自分に言い聞かせながら、日に日に物騒になってく見知った街並みを駆け抜ける。
すると程なく見えてくる。
何度も通ったおじいちゃんの家。
直したところだらけのボロボロな門構えが目印だ。
飛び込むようにそれをくぐって、扉を開ける。
靴なんか入ると同時に放り出して、ぼくは、ただいま、と声をあげた。
返事がないのはいつものこと。
おじいちゃんは無口な人だから。
言葉じゃなくて、態度で語る。そういう人なんだ、ぼくのおじいちゃんは。
だからかっこいいんだ。だから、憧れてるんだ。
今日は学校で面白い話を聞いてきた。
おじいちゃんにも聞かせてあげよう。笑ってくれたら嬉しいけど、そうじゃなくてもおじいちゃんと一緒なだけで楽しい。
わくわくしながら襖を開けた。
おじいちゃん! と、元気に声をかける。
おじいちゃんは布団の上で寝ていた。
今日は具合が悪いのかもしれない。
おじいちゃんの寝相が悪かった。
手と足をあちこちに投げ出して、おまけにヘンな方向に曲がってる。
おじいちゃんの寝顔が怖かった。
目も鼻も口も、まるで福笑いみたいになっていた。
そんなおじいちゃんの周りに、花が咲いていた。
布団で眠る、たぶん眠ってるおじいちゃんを囲むように花びらが並んでる。
おばあちゃんのお葬式を思い出した。
あの時もこうして、眠ったおばあちゃんが花に囲まれてたっけ。
それに、ほら。
こうやって、花に囲まれたおじいちゃんの周りで、たくさんの人たちが手を合わせてる。
いいや、違う。
人じゃない。
猿が、おじいちゃんを弔っていた。
――ごぼごぼ。ごぼごぼ。
おじいちゃんが、泡になっていく。
人魚姫の最期を思い出した。
泡になって消えた、かわいそうな人魚姫。
おじいちゃんは今、人魚姫だった。
真っ赤な泡に変わっていくおじいちゃん。
その周りで跪いて、手を合わせて目を閉じるたくさんの猿。
その祈りが天に通じたみたいに、おじいちゃんがおじいちゃんでなくなってく。
――ごぼごぼ。ごぼごぼ。
――ごぼ。
音がやんだ。
泡が割れた。
布団の上に、赤ん坊がいる。
おじいちゃんじゃない。
そいつは、猿の顔をしていた。
猿の身体をしていた。
アタマの中の、あの日のヒーローが、猿の顔に変わっていく。
そこが、ぼくの、限界だった。子どものフリをしてこみ上げるものを誤魔化していられる、限界。
――あああああああああああああああああああああああああああ。
叫んでいた。
走っていた。
ぼくはヒーローじゃなかった。
おじいちゃん"だった"モノに迷いもせずに背を向けた。
弾かれたみたいに飛び出して、足を縺れさせながらそれでも走った。
――あああああああああああああああああああああああああああ。
"振り返る"なんて選択肢は最初からなかった。
――あああああああああああああああああああああああああああ。
今まで誤魔化していたぶんの恐怖が、一気に押し寄せてくる。
あの頃に抱いたこの世の答えが時を越えてぼくのところまでやってきた。
弱きを助けて悪を挫く正義のヒーロー。
そんなもの、テレビの中にしかいないってこと。
ぼくの生きてる此処は辛くて寂しい現実の世界で。
だから当然、あの日に誓った使命に背を向けて逃げ出したぼくのところにも、そんな存在なんて来てくれるわけがなくて。
「――――――――あ」
どんっ。
と。
なにかに、ぶつかった。
顔を上げた。
猿がいた。
人間の格好をした、もう一匹の猿がいた。
ぼくの意識は、そこで途切れた。
ぐらりと世界ごと頭の中が揺れて。
その時ぼくの視界に、和室越しに見える庭が飛び込んだ。
おじいちゃんとキャッチボールをした庭だった。
『……やっと、まっすぐ投げられるようになったな』
なんだか無性に泣きたくなって、それがぼくの最期の思考だった。
◇◇
/ヒサルキ
「――それ、城島さんにやられたの?」
私の顔に貼られたガーゼを見て、水田さんは渋い顔でそう言った。
私はそれに力なく頷く。浮かべる表情は苦笑だ。困ったように笑う私に、水田さんは肩を竦めた。
「今は何かとうるさい時代だからねえ……。
昔はああいう暴れる人って、ベッドに縛り付けておしまいだったんだけど」
水田さんはもう御年六十を超える、うちの施設でいちばんの古株だ。
彼女の口から語られる昔の常識には、時々思わず眉を顰めたくなるものがある。
価値観のアップデートという単語が囁かれるようになって久しい現代、倫理観もそれは同じ。
ましてや人の命を取り扱う介護現場だ。時代の流れと無関係でいられるわけがない。
入居者を拘束して自由を奪い、黙って天命を待つだけの身にするなど今の時代じゃ基本的にご法度だ。
私自身、そうあるべきだと、今の在り方こそが正しいと思っている。
そう思いながらも、右頬に今もひりひりと残る痛みが、現場は綺麗事だけで務まるほど甘い世界じゃないぞと嘲笑うように告げていた。
「……xx団地だったっけ、あの人が此処に来る前住んでたところ」
介護現場で、入居者から暴力を振るわれるのはそう珍しいことじゃない。
人間は加齢で壊れる。どんないい人も寄る年波には勝てないから。
だけど今朝私の顔を殴った"あの人"のは、少しだけ違う気がした。
「独居老人の集団失踪事件があった場所、ですよね」
現在、東京は〈蝗害〉のニュースで席巻されている。
異常に凶暴化し、人を襲うようになったナントカってバッタの群れ。
地図から街を削るように版図を広げるそれの影に隠れて、その事件は存在していた。
東京都独居老人連続失踪事件。
都心から離れた団地を中心にして、百人を超える数の老人が姿を消している。
私を殴った城島さんという入居者は、その被害が多く出たとある団地の出身者だった。
だから、なのだろうか。彼はいつも怯えている。目に見えない何かが自分を追ってくると、昼夜を問わずに叫び散らしているのだ。
――『猿が来る! 猿が来る! カーテンを閉めろ、換気扇を塞いでくれ!!』
――『聞こえないのか、この足音が! 私を追ってきたんだ、逃がさないぞとあの猿顔で笑っているんだ!!』
――『は、花びらを、両手に、抱いて……猿が来る、猿が来る……! 私を弔いにやって来る……!!』
猿が来る、猿が来る。
城島さんは必ずそう言う。
認知症を患った高齢者が幻覚や幻聴を聞くのはありふれた事例だ。
だから私は、怯える彼を諭そうとした。そしたら殴られた。
なんで分からないんだと顔を林檎みたいに赤くして唾を飛ばすその顔は、それこそ動物園の猿みたいだった。
ズキン、と腫れの引かない頬が痛む。
咄嗟に傷を押さえた私を、水田さんは憐れむように見つめていた。
はあ。ため息を溢しながら、彼女はコーヒーを一口啜って。
「何か見たのかしらね、あの人」
「……不謹慎ですよ。ただの幻覚ですって、きっと」
溢れた台詞を、私はすぐに諌めた。
不謹慎と窘めた形だけれど、普段は同僚の冗談にいちいち目くじらを立てるほど真面目じゃない。
なのにそうした理由はひとつ。私もちょうど同じことを思っていたから、咄嗟に否定してしまったのだ。
私までそれに同調してしまったら、まるでこの想像が本当になってしまうような気がして、怖かったのだ。
猿が来る。
独居老人ばかりが消えていく謎の事件。
猿が追いかけてくる。
本当に、人間が起こした事件なのだろうか。
猿の足音が聞こえる。
老人とはいえ大量の人間を、人目に付かずに消してしまうなんて。
猿が、来る。
それは、人間の手で出来ることなのだろうか。
猿が。
もし、そうでなかったら、城島さんは"その日"、何を。
猿。
何を、見たのだろう。
猿。
「……あれ」
自動ドアが開いて、ホームから誰かが出ていった。
音を聞いて後ろ姿を見やる。少年らしき背格好が遠ざかっていくのが見えた。
「どうかした?」
「いや、面会希望の方って、今来てましたっけ」
「え? 来てないと思うわよ、今は。
ほら、最近物騒だから。面会なんて一日に何人も来ないじゃない」
「ですよね……じゃあ、今出ていった子って」
そこまで言って、私達は顔を見合わせた。
見落としはない、筈だ。なら不法侵入者の可能性もある。
今はとにかく物騒な情勢だから、そういう事案には最大限注意しろと所長からも言われている。
ややあって、ぽつり、と水田さんが言った。
「……ひと通り見回ってみましょうか、一応」
「そうですね。私も行きます」
「まあ、大丈夫だと思うけどね……。ほら、今日は城島さんの件でいろいろごたついてたし。
私達がたまたま見てないだけで、誰か面会に入ってただけでしょ。きっとそんなとこよ」
お互い、自分の心に言い聞かせるように。
芽吹きかけの不安の種に、靴で土をかけるみたいに。
なにもない、大丈夫、そう言い合いながら廊下へ続くドアを開けた。
むわり。匂いがした。薬のにおい。包帯のにおい。排泄物のにおい。どれとも違う。
噎せるような、けだもののにおいがした。
「――きゃあッ」
水田さんが叫んだ。
わたしも叫んでいた。
廊下に点々と、足跡のように小さな欠片が落ちている。
ヘンゼルとグレーテルは、どうやって魔女の住む森から帰ったんだっけ。
そうだ。確かこうやって、目印を残しておいたんだ。
「こ、これ、って」
指差して言う同僚に、私は何も言えなかった。
錆びついた機械人形みたいに頷くしかできなかった。
――――花びらが、落ちていた。
『猿が来るんだ』
『猿が、花を抱いてやって来るんだ』
『私は、逃げてしまった。生き延びてしまった、から』
『私の弔いをやりに来るんだ。礼儀正しい猿が、葬列を作って此処に来るんだ』
『頼む。頼むよ。カーテンを閉めてくれ。隙間を塞いでくれ』
『じゃないと』
『奴らが』
『猿が』
この日、私達は職を失った。
もう誰も介護しなくてよくなった。
だってみんな、逝ってしまったから。
死にゆく彼らを弔う葬列が来たんだから。
腫れたままの右頬が、寂しそうにズキリと疼いた気がした。
◇◇
/猿の手
ちりんちりんちりん。
ちりんちりんちりん。
ああ、鈴の音がする。
お父さんが呼んでる。
行かなくちゃ――眠い目を擦って、私はソファから立ち上がった。
私の父は五年前に死んだ。
だから今、この家にいるのは父の皮を被ったなにかだ。
大好きだった優しい父は、風呂場で倒れたあの日に天国へ逝ってしまったのだ。
私はそう信じている。そうでないと、思い出まで汚れてしまうから。
口からも股からも糞を垂れ流す"あいつ"が、楽しかった家族の時間まで臭い立たせてしまいそうだから。
家の中が臭い。あいつの糞のせいだ。
身体が重い。何時だろうとあいつに叩き起こされるからだ。
具合が悪い。あいつのせいで金がかかって、ろくなものを食べられてないからだ。
割れた家族写真が埃にまみれて廊下の隅に転がっていた。腹が立って、ゴミ袋にぶち込んでやった。
ちりんちりんちりん。
ちりんちりんちりん。
うるさい。死ね。
呼ぶな。死ね。
分かってるよ。死ね。
今行くから。死ね。
なんであの日に死ななかったんだ。
そんな身体になってまで生きててどうするんだ。
いつまで生きる気なんだ。
いつまで、私の邪魔をするつもりなんだよ。
ねえ。本当にさ。教えてよ、お父さん。
私はいつまで、この臭いに耐えればいいの?
ちりん、ちりん、ちりん。
――ああ、死にたい。
もう、私が先に死んでしまいたい。
でもそれはできない。あいつがいる限り私は死ねない。
生きていたって苦しいだけなのに。仕事も、恋も、遊びのひとつだって出来やしないのに。
私は今日も生きて、この鈴の音を聞かなきゃいけないんだ。
『これを鳴らせばお父さん、困った時いつでも私達を呼べるでしょ』。
そう言って笑った母親は半年も保たずに家を出ていった。新しい男を作ったらしい。本当に死ねばいいと思う。
今やこの家には私だけだ。しあわせの残骸。好きだったものが嫌いになるだけの日々。延命処置みたいな毎日。
家族の絆そのものだった鈴の音が、私を縛る鎖になって、今日も私を二階に引きずり上げる。
ちりん、ちり、ち。
掃除してないからべとべとする階段を上がっていく。
所々にこぼれた汚物の染みがある。拭くのも面倒臭くてそのままだ。
いっそこれで滑って転びでもしたら、私も楽になれるのにな。
ちり、ち
うるさい。
足音も聞こえないのか。
頭だけじゃなくて耳まで悪くなったのか。
ち
黙れよ。
死んでよ。
死んでくれよ。
お願いだから死んでてくれ。
音がやんだ。
――――扉を開けた。
「あ」
花びらに囲まれた、お父さんがそこにいた。
ベッドの周りに、猿が礼儀正しく跪いていた。
腰が抜けた。でもきっとそれは恐怖じゃない。
終わったんだ。やっと終わった。やっと。
お父さんは安らかな顔をしていた。
嘘だ。
口の周りに泡をべっとり貼り付けていたし、首からどくどく血を流してシーツを汚してる。
ああ、助けてほしかったんだな、って思った。
助けてほしくてあんなに必死に鈴を鳴らしてたんだと今になって理解した。
ふへ、と、だらしない声が口から出た。
笑い声だった。私は、笑っていた。
「ざまあ、みろ」
ざまあみろ。
この疫病神め。
私から全部奪い去った悪魔め、やっとくたばったのかよ。
ざまあみろ。
お前が苦しんで死んでよかった。
最期の一瞬まで怯えながら死んでよかった。
ざまあみろ。
お前のせいで全部台無しになったんだ。
お前が病気になんてなったから。
冬に長風呂なんてするから。熱い風呂が好きだって、いつも馬鹿みたいな温度でお湯を張るから。
私はずっとやめろって言ってた。結衣は女の子だから分かんないだろうなぁって笑って誤魔化してたのはどこの誰だよ。
「ざまあみろ、クソ親父」
全部お前の自業自得だ。
お前が悪い。お父さんが悪いんだよ。
私はなんにも悪くない。私は被害者だ。辛かった。苦しかった、助けてほしかった。
今も写真立ての中で笑ってるお前に、ずっと助けてほしかったのに。
枕元に置かれた鈴はひしゃげてた。
窓際の家族写真が血で汚れてた。
血しぶきが、私とお母さんの顔を塗り潰してる。
お父さんだけは、あの頃のままの顔で笑ってる。
「お父さん――」
ふへ、へへっ、て、私も笑った。
あんまり可笑しくて笑いが止まらない。
脱力してへたり込んだまま腹を抱えた。
「――ごめんねぇ……」
ああ、猿が見ている。
弔いが終わったんだろう。
お父さんは天国と地獄、どっちに逝ったのだろうか。
分からないけど、私の行き先はきっと決まってると思う。
葬儀を終えた猿達がゆらりと立ち上がった。
足に力が入らないが、そもそも入れる気もない。
私はいつまでも、お父さんの匂いがするこの部屋で笑っていた。
なぜだか今は、此処から離れたくなかったのだ。
◇◇
/ノーフィクション
この世界は、きっと病んでいる。
誰かがやらなきゃいけないことを、誰もできずに放置してる。
おれは、改めて、そう思った。
身体中から血の匂いがする。念のため替えの服を準備しておいてよかった。
ライブハウスにシャワーはあるだろうか。こんな見た目だけど、おれにも身だしなみを気にするくらいの人間性はある。
そこまでなくしてしまった人間がどうなるのかを、おれは腐るほど見てきた。
人間は誰しも病んでいる。きっとおれも、そのひとりだ。
前にコツコツやっていた時は、せめてもの一線として人を分別していた。
でも今はそれさえやめた。おれはもう、おやじを殺したじいさんのことを笑えない。
おれは一線を踏み越えたのだ。他の誰でもない自分自身の意思で、区別することさえやめてしまった。
倫理を解さず、野生のままに生きる原人のように。今のおれは、ただ機械的に命を奪っては捧げ続けている。
狩魔さんに譲ってもらった腕時計を見る。
まだ時間はたくさん、残っていた。
これならもう数箇所は"狩場"を巡れそうだ。
老人ホームを襲ったことでだいぶストックは増やせたけれど、兵隊の数なんて多ければ多いほどいい。
まして空を目指そうとするのなら――天の星に手を伸ばそうとするのなら、尚更のことだ。
ざく、ざく。
おれは日の落ちた道を進む。
どこかで誰かが戦っているのか、大きな地響きを何度か感じた。
それをまるで日常の一風景のように流しながら、おれはひとつの確信を抱いていた。
きっとおれは、自分のためにどこまでも醜悪になれる人間だ。
生きるため、なんかじゃない。
少なくとも今のおれはそんなことのために戦っていない。
おれの中にあるのは、きっとこの世界の誰よりもおぞましい欲望だ。
だってその証拠にほら、目を閉じるだけでもスキップで進むあの娘の姿が浮かんでくる。
あの子に、逢いたい。あの子に、見てほしい。あの子に、笑ってほしい。
あの子を、穢したい。
おれのこの手で。
おれの力で。
この世でいちばんきれいな白色を、ドス黒く染め上げてみたいと、おれは今そう思っている。
嗤われるばかりだった、ずっと。
でも今は、誰もおれのことを嗤わない。
狩魔さんも、悠灯さんも、山越さんも。
みんながおれを見ている。おれと一緒に戦ってくれる。
おれの存在が、あの人達の未来を支えている。
――口が歪むのを、おれは感じていた。
なんて、気持ちいいんだろうか。
ああ、おれはそう思っている。
"気持ちいい"と、そう感じてしまってる。
人に頼られるのは気持ちいい。
期待してもらえるのは、気持ちいい。
誰にとっても無価値でない人生っていうのは、こんなにも清々しい気持ちにさせてくれるのか。
胸が躍る。わくわくする。あの少女も、祓葉も、こういう気持ちでスキップしていたんだろうと思う。
あの子が、おれの人生を始めさせてくれた。
あっちがおれのことを知らなくても、それだけは絶対に間違いなんかじゃない。
あの子の光が、どん底の、奈落のおれを照らし出したんだ。
潜むことをやめた奈落の虫は今、こうして地上に這い出して獲物を貪りいつか来る躍進の時を待っている。
やるよ。
狩魔さん。
おれ、やってみせるよ。
あんたのために。そして何より、おれ自身のために。
おれが――――"みんな"の神さまを、犯(ころ)してやる。
……足を止めた。
看板の字を読む。
"児童養護施設・冬ごもりの家"。此処だ。地図の通りだ。
柵は閉まったままだったけど、関係ない。
別に、おれが入らなきゃいけない理由はないんだから。
おれがやるべきことはひとつだけ。
すう、と息を吸う。そして命じるのだ、"こいつら"の長として。
仮初めでもいい。利害の一致でも構わない。
それでもこの手に刻印がある限り、今はおれが、おまえたちの王さまだ。
「弔いの時間だ、バーサーカー」
――殺し、弔え、存分に。おまえたちの途絶えた血脈を此処に紡げ。
これは猿の葬列だ。救われぬものに救いの手を差し伸べる、古代の慈悲だ。
おれがおまえたちを助けてやるよ。どこにもいけない、無価値な、おまえたちを。
水溜まりに、おれの顔が写っていた。
黄ばんだ歯を剥いて笑う、猿の顔がそこにはあった。
バーサーカー達はこんな顔はしない。そんな気がした。
とすると、やっぱりおれは原人なのだろう。
この世でたったひとりの、どこにもいけない、
覚明ゲンジという醜い猿。
それはおれがどれほど汚い生き物なのかを突き付けるみたいな"真実"だったけど。
自分が醜くて汚いなんてこと、誰よりおれ自身がいちばんよく知っていたので、やっぱりなんとも思わなかった。
【文京区・児童養護施設/一日目・日没】
【覚明ゲンジ】
[状態]:疲労(小)、血の臭い、高揚と興奮
[令呪]:残り3画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:3千円程度。
[思考・状況]
基本方針:できる限り、誰かのたくさんの期待に応えたい。
0:祓葉を殺す。あいつに、褒めてほしい。
1:ネアンデルタール人の複製を急ぐ。もう、なりふり構うつもりはない。
2:ただし死なないようにする。こんなところで、おれはもう死ねない。
3:
華村悠灯とは、できれば、仲良くやりたい。
4:この世界は病んでいる。おれもそのひとりだ。
[備考]
※
アルマナ・ラフィーを目視、マスターとして認識。
【バーサーカー(
ネアンデルタール人/ホモ・ネアンデルターレンシス)】
[状態]:健康(残り65体)、一部(10体前後)はライブハウスの周囲に配備中
[装備]:石器武器
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:今のところは、ゲンジに従い聖杯を求める。
0:弔いを。
[備考]
※老人ホームと数軒の住宅を襲撃しました。老人を中心に数を増やしています。
前の話(時系列順)
次の話(時系列順)
最終更新:2025年02月26日 01:21