.
――――ただ光を、追いかけている。
歩いても歩いても、近付けている気はしない。
一寸先も分からない闇の中を、ただ光に向けて歩いていく。
それは狂気だ。今踏み出した一歩の先に、道があるかすら分からないのだから。
滑落して死ぬか、力尽きて死ぬか。もしくは諦めて踵を返すか。
末路は三つ。結末も三つ。四つ目があると信じているのは、彼女自身だけ。
辿り着きたい。
追いつきたい。
辿り着かなければならない。
追いつかなければならない。
どうして。
――そうしなければ死んでしまうから。
どうして。
――そうしなければ終わってしまうから。
だから逃げるように、光に向かって走るのだ。
さながらそれは誘蛾灯。であれば彼女は走光性に呪われた羽虫。
太陽へ羽ばたいた蝋翼の神話をなぞるように、少女は光へ向かっていく。
そう、少女は呪われている。
幼き日に、決して解けることのない呪いを受けた。
歩き続けねば死ぬ呪い。輝くことをやめた時、己のすべてを失う呪い。
哀れにも呪われ、稚いままに育った夢の虜囚は救われない。
いつか光に追いつくまで。そしてその輝きを、超えて行くまで終われない。
最下層の地獄に死はないという。終わりなき責め苦が永久に続く、生きながらの無間地獄がここにある。
――死ぬことは怖くない。
怖いのはひとつ――暗がりに呑まれることだけが怖い。
この闇に自分を自分たらしめる輝きを奪われることが、怖くて怖くて堪らない。
闇とは無。何もなく、何者にも成れない敗残の象徴。
対して、行く先にはいつだって星の輝き。それは目印であり、彼女だけの終わり。
或いは、呪いが解けるいつかの未来。最も輝く何かに成れたなら、もう何に怯えることもないから。
――――ただ光を、追いかけている。
あの輝きに追いついて、あの輝きに成るのだと誓って。
今も自分を呪いながら、少女は闇の中を歩いていく。
滅びを囁く無明の闇がもたらす震えを振り払い、無垢な彼女は夢を追い続けるのだ。
◇◇
/ Daydreamer
◇◇
〈渋谷区・路上〉
「お……お茶の間の皆さん、こんにちは。
スターリープロダクション所属、アイドルの
煌星満天です。
今日はこの渋谷で、昨今各地で甚大な被害を出している〈蝗害〉の現地リポートをさせて、いただき、ます……っ」
緊張でガチガチの表情筋をぎこちなく動かして、暗記した始めのセリフを口にする。
センシティブな話題に対しておふざけや妙なエンタメ性は不要。ウケるどころか普通に引かれる、最悪逆に反感を買う、
ファウストに口酸っぱく言い含められた内容を反芻しながら、満天は荒れ果てた街並みを背に舞い込んだ仕事へと臨んでいた。
「つい数時間前、この街は大規模な〈蝗害〉に襲われました。
見ての通り爪痕は非常に大きいようです。住民の人たちはみんな避難しているみたいですけど……、……どれだけの方が犠牲になったのか想像もつきません」
煌星満天は、未だ清々しいまでにぽんこつアイドルである。
まずもってコミュニケーション能力が壊滅している上、人前で喋るのも例に漏れず大の苦手。
テレビどころかオーディションでさえガチガチになるし、天性のマイナス思考が緊張と悪夢の共演を果たしていつも空回りが止まらなくなる。
の、だが。皮肉にも今その周りに広がる街並みの惨状が、満天のそんな熱しがちな思考を氷点下まで冷ましてくれていた。
「いったいここで、何があったのでしょうか……」
頭に叩き込んだ台詞が、今の満天の感想と完全にシンクロしていた。
酷いなんてものではない。いったい何をどうしたら、街がものの数分でこうなってしまうのかまったく分からない。
人っ子ひとりいない、という表現でさえ不足だ。生きた文明らしいものが、満天の見る渋谷の街並みには欠片も残っていなかった。
焼け落ちるを通り越して粉砕された建造物。形が残っているものも見える範囲では一軒たりとて在りし日の姿を保っていない。
巨大隕石でも落ちたみたいなクレーターは冗談じみていて、今は春だというのに辺り一面凍りついて霜が這っている。
なのでこうしている今も、五月とは思えない寒さだ。世界が壊れてしまったみたいだと、満天はそう思った。
プロデューサーとしてカメラマンやADの後ろに立つファウストの方をちらりと見る。
ファウストは頷きすらせず、腹をくくりましょう、とばかりに見つめ返してくるだけだ。
もうカメラは回っている。それ以外の選択肢はない。満天は唇を噛みしめて、再び覚えた台詞を口にしていく。
そんな満天の姿を見守りながら、ゲオルク・ファウスト――悪魔メフィストフェレスもまた歯噛みしていた。彼の場合は、心のなかでだが。
(頭の痛くなる光景だが、運がよかったな。
輪堂天梨との会談が拗れ、長引いてくれたのが功を奏した。
もし予定通りの時間に現着していたら、正真正銘の地獄絵図に巻き込まれるところだった)
満天も気付いているだろう。当然、メフィストフェレスは気付いている。
これは決して、〈蝗害〉だけによって生み出された惨状ではない。
自分達が輪堂天梨達との会談に臨んでいる間、ここで〈蝗害〉を含むサーヴァント達による交戦があった。
しかも痕跡を見るにただの交戦とは言い難い。都市を喰らう最悪の厄災である〈蝗害〉に並ぶ力を持った何者かが、街を特撮の撮影セットのように破壊しながらこれと殺し合ったのだ。
そうでなければこうはならない。如何に飛蝗どもが悪食とはいえ、これはあまりに壮絶すぎる。
ファウストはこめかみを指で打ちながら、嘆息した。
この現地調査にはカメラマンを始めとした数人のスタッフが同行している。
全員、ノクト・サムスタンプが派遣してきた人間だ。言うなれば、あの小狡い傭兵の人形である。
いかなる光景を見ても動じず怯えず、粛々と役目だけをこなし続けるロボットのようなものだ。
一般人のメンタルケアまで考えなくていいのは楽だが、たかが人間にまんまと利用されている事実に苛立たないと言えば嘘になる。
が、今はそんな益体のない感情に目を向けている余裕はない。
それより問題は満天だ。彼女との付き合いもそれなりに長くなった。だから顔を見れば分かる。
アレは単に緊張している顔ではない。――もっと大きなことに心を揺さぶられている顔だ。
(煌星さん。大丈夫ですか)
(う、ん。正直、ちょっとキツいけど……頑張るよ。やるしかないもん、ここまできたら)
弱音が返ってこない。
なぜか。余裕がないからだ。
彼女自身、分かっているのだ。
今泣き言を言ってしまえば、それを始点としてすべての繕いが崩壊すると。
――お前、バケモンだろ。
――お前みたいなバケモンがいるから、おかしくなっちまったんじゃねぇのか?
名前も知らない男の言葉が満天の脳裏に再生される。
彼は、〈蝗害〉だけを憎み、恐れているわけではなかった。
その感情の意味が、今なら分かる。否応なく理解できてしまう。
〈蝗害〉はいちばんわかりやすい破滅のカタチに過ぎない。
この街の平穏を犯しているのは、自分も含めた、聖杯戦争の演者達全員だ。
人知を超えた存在同士が戦えば、当然舞台にされた街は壊れていく。
家屋が崩れて、人が死ぬ。誰かの涙が、戦ったぶんだけ流される。
そういうことを、満天は今ひしひしと感じていた。
誰にも言い逃れを許さないだけの惨劇が、この無人の街には満ちている。
『
「Twinkle, twinkle」
「little star」』
『
「How I wonder」
「what you are」』
ああ――歌が聞こえる。
"わたし"の声と、"なにか"の音の二重奏。
脳裏をゆりかごのように、急かすように揺さぶる歌声はブラウン管の砂嵐。
壊れたイヤホンが立てる雑音のように余裕のない思考の奥底でレイヤー一枚を隔てて星屑の歌が紡がれている。
どこかで聞いたことのある音。でもその得体を思い出してはいけないという漠然とした確信があって。
悪寒を振り払うようにマイクを握った。今の自分にはやらなきゃいけないことがある。自分で求めた仕事ではなくても、ここで背を向けたならそれは煌星満天にとって過去に潜むモノへ首級を捧げる行為と同義だ。
「まだまだ未熟者です、けど。それでも」
声を絞り出す。打ち合わせにはなかったアドリブだ。
大根役者を地で行く満天にしてみれば断崖の先に踏み出すような行為。
高鳴って不快な圧迫感を訴えてくる心臓に鞭を打って、カメラを見つめる。
「不安を抱えて暮らす皆さんのために、少しでも情報をお伝えできるように……がんばります」
目指すのは"世界"の魅了。
誰も彼も、人間もそれ以外も。
すべてを照らして癒やす、そんな偶像になりたいとそう願った。
かつては漫然と抱くだけだった願い。
夢見るしか能のない幼い頃そのままの脳髄で描いてきた落書きみたいな未来。
しかし今、そのビジョンは幾許鮮明なものになってそこにある。
最大の憧れ、最大の敵。救いたい友人で、乗り越えたい最強の偶像。
ステージの上で微笑みかける天使の姿を、迫る暗がりから逃げる道筋の先に見出す。
そう――あの子のように。同じにはなれなくても、せめて同じくらい輝ける強い子にならなければ叶うものも叶えられない。
だから煌星満天は、後で気合の反動で潰れることを分かった上で必死に取り組む。
数時間前の彼女ならば、もっと打たれ弱く脆かったかもしれない。
その起伏に乏しい水面に波紋を打ったのはやはり、つい先ほど臨んだステージ上のちいさな決戦だった。
「……末恐ろしいな」
満天の奮闘を見守りながら、ファウストは知らず呟いた。
自身の担当アイドルに言っているのではない。確かに評価に値する奮闘ぶりだが、ファウストに言わせればようやく二足歩行ができるようになった程度の話だ。目指す到達点の高度を思えば、スタートラインに立ったくらいで褒めそやすのはむしろ逆効果だろう。
ファウストが言っているのは、自分達が見据えている敵のこと。
すなわち輪堂天梨。天の翼を戴く日向の天使。彼女との接触が満天に好影響をもたらす可能性は承知していたし、むしろそれに期待して会談をセットした側面もあったが、結論から言うと悪魔の想像を超える結果をもたらすに至っていた。
満天の輝きが格段に向上している。
魂にまで染み付いた鬱屈(ネガティブ)が解消まではされていなくとも、確実にその足は前へ進み出している。
この世の何も灼くことのない天使の輝きは、競い合う他の星さえ優しく照らし出すのか。
聖杯戦争で殺し合う敵としては決して恐ろしくない。彼女個人だけに限って言うのなら、むしろ容易い。だがその舞台がステージの上であるなら、これほど恐ろしい敵は存在すまい。
改めて確信する。
"天使"輪堂天梨は――トップアイドルを目指すならば最強の敵だ。
〈この世界の神〉がいかに眩しい太陽であろうと、満天にとって、そして己にとって最も恐るべきはあの少女。
どうやってあの境地まで育て上げるか。その上で如何にして、アレと違う形で天上の美を体現するのか。
以前ならばまだそれを考えるのは時期尚早と断じていたところだが、今はもう理想論にしか思えない。
運命は加速し続けている。今目の前に広がっている街の惨状が根拠だ。まるで急にブレーキが壊れたみたく、今日一日の間だけであらゆるモノが劇的に進展を遂げてきた。
自分達の主従もその例外ではない。であれば準備しておくに越したことがないのは明白。
前倒しに次ぐ前倒しでプロデュース計画を書き連ね、かつ万華鏡(カレイドスコープ)のように逐一変転する目の前の情勢にも対処していかなければならない。
(流石に頭が痛いな。だがやってやるよ)
俺を――誰だと思っていやがる。
眼鏡、かつては悪魔の道具とも呼ばれたレンズの奥でファウストは眼光を尖らせる。
ノクト・サムスタンプも
ホムンクルス36号も、狂気の衛星どもの中心で笑う白き神も。
そしてゆくゆくは、あの〈天使〉さえも。誰も彼もを出し抜いて、必ずや目的を遂げてみせる。
静かに決意を新たにしたファウストの肌が、チリ、と微かに張り詰めた。
その意味を彼が理解した時には既に、"それ"はそこにいた。
「――よっ。何だよこれ、テレビ中継か?」
「へっ?」
廃都と化した渋谷の一画。
物理的にも閑散と広がる奥行きの中に、ひとりの男が立っている。
フレンドリーな笑みを浮かべた、ツナギ姿の男だった。
目元はフードで隠れて窺えないが、見えている範囲だけでも女受けする顔立ちなことが分かる。
美青年というタイプではないものの、どこか猛獣めいたワイルドな魅力のある容貌だ。
左手には金属バット。武器と呼ぶには前時代的だが、だからこそその存在の異様さに拍車がかかっていた。
「ん~? アレ、お前なんか知ってる顔だな。
えぇっとどこで見たんだっけ……ああそうだ、ユーチューブだ。アイドルだったよな、確か?」
「ぁ……え……?」
「すげ~、有名人じゃん。黙ってお守りすんのが退屈すぎて散歩に出てきたけどよ、やっぱ外出るとイイことあるもんだな」
思い出す素振りをしながらこめかみに指を突っ込んで。
グリグリとかき回せば、血の代わりに砂のような茶色い何かがぼとぼと溢れる。
溢れたそれが、地面に落ちるなり独りでに蠢き始めた。
いや、その表現は適当ではないだろう。動くのは当たり前だ。だってこれは、生き物なのだから。
蠢いた茶色い生物が、ぶぅん、と音を立てて空に舞い上がる。
透明な四枚の翅とぼってりとした長い腹。
頭の先で不規則に触れる二本の触覚、二対の複眼。
キチキチという鳴き声にも似た音色は、翅を震わせて奏でる自然の楽器。
それは、飛蝗だった。
「え、ちょ……っ、待って、嘘……」
まるで通りすがりの一般人みたいに話しかけてきたツナギ男と重なって、満天の眼には"それ"が見える。
全六項から成る戦力表記(ステータス)。聖杯戦争のマスターにのみ視認可能なその情報は、ある人知を超えた存在のみが持つデータだ。
即ちサーヴァント。そして飛蝗を従える英霊と聞けば、その素性を特定できない人間はこの東京にもはやいない。
「蝗、害――――!」
「――――下がってください、煌星さんッ!!」
響くファウストの声が満天を反射的に一歩後退させる。
それと入れ替わりに、恋人(ジュリエット)を庇護する恋の狂戦士が美麗のままに前進した。
「――遂に現れたな、地上を脅かす虫螻の王よ。
その穢れたカラダで淑女の視界に入るなど百年、いいや千年早い。
虫螻らしく速やかにご退場願おう。君の存在はジュリエットには毒すぎる!」
剛剣、いいや狂剣の一閃が迸る。
恋は盲目、愛する者を背に戦うならばこのバーサーカーは最強無敵。
〈蝗害〉という最大級の危機的状況を前にして、
ロミオは初速から全開だった。
満天の眼では疾風が吹き抜けたようにしか見えないほどの超速度で接敵し、細剣(レイピア)を突き穿つ。
やったことは単にそれだけ。わずか一瞬にしてツナギ男の首は胴から離れ、無数の飛蝗に変わって霧散する。
が……
「んだよ、剥がし役付きかい。まだタッチもしてねえってのに酷え塩対応だなオイ」
忘れるなかれ。
これは個でなく群れである。
単一ではなく、ひとつの"種"である。
故に固有の名は持たない。彼らは大勢であるがゆえに。
「ま、いいや。邪魔者はサクッと殺して、握手のひとつでも頼むとするわ」
地平の暴風。
死の原型。
虫螻の王、飢餓の使徒(レギオン)。
◇◇
〈渋谷区・高層ホテル〉
エントランスから戻る道すがらに、嫌な奴と出くわした。
ホスト風の出で立ちに軽薄そのものの顔貌、態度、雰囲気。
常に薄笑いを絶やさないが、ただひとりを除いてその笑顔は嘲りのためにだけ使われる。
薊美が彼を、
ウートガルザ・ロキを視認したのと、ロキが彼女を見含めたのはまったくの同時だった。
「お?」
はっきり言うが、薊美はこの男のことが嫌いである。
月をすら超える対象と据えた薊美であるが、今回ばかりは彼が誰の使徒であるかは関係ない。
カスターは彼を悪魔と称した。
実に言い得て妙だと薊美も思う。
この男は慢心の塊のようで、その実誰よりも深く他者を視ている。
――見透かしているのだ。だから薊美も一度はまんまと嗤われた。
その記憶が、覚悟を決めて鬱屈の殻を破った今でも脳裏にヘドロの如く張り付いている。
だから軽く会釈でもしてさっさと離れようと思ったのだったが、彼の薊美に対する反応は意外なものだった。
「へぇ……。ほーん、なるほど?
面白いな。こういう風に感化されることもあるのか」
「何ですか、人の顔じろじろ見て。にーとのお姉さんに言いつけますよ」
「マジでやめて。ちょっと興味深いコトになってたからさ、つい吃驚しちゃったんだよ」
珍しいものでも見たような顔で覗き込んで、何やら独りごちている。
棘ではなく酔狂を含ませて言った薊美に、ロキはへらりと笑って両手を挙げた。
その態度は薊美の記憶にある、初対面時のそれとはまったく似つかない。
自分をまるで路傍の石でも見るような眼でつまらなそうに一瞥した男が、何を今更愛想など振り撒いているのか。
純粋に疑問だった。嫌悪ではなく、ただ単に不思議になったのだ。
「火傷が痛くて腐ってるんだと思ってたけど、君はわざわざ傷をほじくり返すんだなぁ」
「良い言い回しですね。脚本家の才能もあるんじゃないですか」
「そんな顔しないでよ、別にバカにしてるわけじゃない。
膿むだけ膿ませて痛くないフリしてる連中よりかはよっぽどマシさ。
ほら、例えばあのイリスって子とか。彼女に比べれば君の方が幾分面白いよ。少なくとも、俺にとってはね」
「ふふ、それはどうも。ありがとうございます……にしても、えらい態度の変わりようですね」
「えぇー。そんなに?」
「はい、率直に結構気持ち悪いです。ほら見て、さぶいぼ」
笑顔で並べられる美辞麗句も、この男に言われたのでは具合が悪くなるだけだ。
その点に関しては、目覚める前と後でも不変だった。薊美は麗らかに微笑みながら、返す刀で皮肉を述べる。
そしてそんな彼女を今も変わらず見透かしたような微笑みで、ロキは事も無げに言ってのけるのだ。
「いやあ、だって前の君、クソつまんなかったもん」
歯に衣着せないにも程がある辛辣な評価に、思わず「ふっ」と吹き出してしまう。
世間話のように放たれる過去への罵倒と、それを受けて何か滑稽な芝居でも見たようにくすくす笑う美少女。
なんとも酔狂、それ以上に奇怪な光景だった。まるで人間同士ではなく、そういう皮を被った虚構の住人が語らっているようで。
「見どころなし、可愛げなし、なまじお化粧上手だから弄り甲斐すらありゃしない。
何か知らんけど天才ごっこしてる、どこにでもいるような普通の女の子。そんなの珍しくもなんともない。
あの腰巾着女も非凡さなら大概だけど、ことちゃんは見る目があるからな。そういう意味でも、あの場じゃ君が一番つまらなかった」
「そうですか。流石は英霊ですね。立派な眼をお持ちみたいで羨ましいです」
「実際図星だろ? あの時あの場で、一番価値がなかった人間は自分だってコト」
「まあ、否定はしませんよ。幸いなのは自覚できていたお陰で、何かに酔い痴れることを価値と豪語する衆愚に堕さず済んだこと。でしょうか」
伊原薊美は茨の王子。舞台上のブルーブラッド。
どう魅せれば自分が引き立ち、どう振る舞えば自分を落とすことになるかは熟知している。
ロキの言う"以前の自分"ならまだしも――今の自分にはそれが分かる。
かと言って、今の薊美がやけに饒舌なのは何も演技をして取り繕っているからではない。
単に。単にだ。いざ顔を突き合わせてみたら、意外と話せる相手だなぁと思った。
そして自己核星。己の中にこそ、この世の何より深い魅了を刻んだことが、清々しいほどに視野を広くしてくれる。
都市における太陽網膜症の第一段階、視野の狭窄。
ああ、今思うとかつての自分はなんて狭く世界を見ていたのだろうか。
そう思えば、燻って激情を抱いていた自分をつまらないと断ぜられることにさほどの怒りは沸かなかった。
「うん、なかなか良い答えじゃない。
この狂った街で一番しちゃいけないのがそれだよ、俺が思うにね」
「へえ。北欧の奇術王様に薀蓄を聞けるとは思いませんでした」
"今の"薊美のそんな姿勢もまた、ロキの眼鏡に適うものだったらしい。
彼はニコニコとさぞ女受けの良いだろう甘いマスクを彼女へ向けながら、上機嫌そうに続けた。
「憧れるのは勝手だし、実際目指すのも自由だけどさ。
現実問題として、空の星に向けてどんなに手ェ伸ばしたって徒労だろ?
そういうのは酔っ払いが酒場で巻いてる管と変わんないんだよ。そういう意味でも、さっきまでの君は論外だった。
正直にーとちゃんに絆されるなりして適当に逃げるのかと思ってたけど、よく一皮剥けたもんだよ。これは素直に褒めておこう」
事実、ウートガルザ・ロキの態度の変化には伊原薊美がこのわずかな時間のあいだに遂げた成長が大きく寄与していた。
茨の戴冠。空に非ざる身で宙への階段を昇る、人造の星辰。
資格なくして星に昇ろうとすること、それは紙の月に肉付けをして本物を創ろうとするのと同義だ。
正気では歩めぬ茨道。されど薊美は、元より己を茨と定義した王子である。
――茨の王子がどうして、荊道を歩むことを臆そうか。
「認めてあげよう、大したもんだよ。
そういうアプローチで"こっち"に踏み出してくるとは、正直まったく予想外だった」
ぱちぱち、とロキの乾いた拍手が響く。
込められた賛辞は間違いなく本物だ。
なのにこうも空寒く見え/聞こえるのは、そこにあるものが欠落しているから。
それは善意。成長を祝福する一方で、この道化師は依然として欠片も"伊原薊美"という人間にその手の感情を抱いていない。
中身のない祝福ほど虚ろなものもない。そしてロキは、そのことを隠そうともしていないのだ。
(なるほど。これは確かに、人間が接していい存在じゃないな)
薊美はごく冷静に、そう実感する。
ヒトではこれの悪意に耐えられない。
放たれる嘲弄を聞き流すことなど出来やしない。
人間を最も傷付ける言葉は"正論"だと、どこかの学者が言っていた。
なら、常に相手の本質を見透かした上で罵詈雑言を投げつけてくる相手にメンタルで勝てるわけがないのだ。
そもそも競い合おうという発想からして的外れ。
例外があるとすれば、人面獣心なる者。ヒトの皮を被った超越者、そう成る可能性を秘めた者達。
――そう、己(わたし)のように。
「それで?」
薊美は言う。
一歩も退かない、気圧されない。
そういうのはもうやめることにしたから。他でもない、己自身の意思で。
「此処で潰すんですか、私を?」
ウートガルザ・ロキの眼を見て、薊美は言う。
その問いは淀みないものだったが、実質、今の彼女は生死の分水嶺に立っていた。
蝗害の魔女はまだ当分本調子に戻らない。
トバルカインは刺激しなければ問題ない。
が――ロキだけは違う。彼の気分次第で、仁杜以外誰の首が飛んでも不思議ではないのだ。
霊体化して今も臨戦態勢を保っているカスターも、この男が相手ではものの敵にもなれないだろう。
騎兵隊の得意技は物量に飽かした、戦場を点でなく面で制圧する蹂躙走破。
逆に言えばそれは、圧倒的な"個"に対しては極めて無力であることを示す。
神寂祓葉の時がそうだったように。さあ、どうしようかと。思いながらとりあえず、やるだけやってみようと身体の回路を開いて。
「やめときな。無駄だよ、俺に色気は通じない」
であればとせめてもの光明を探っていたことすら、このように見抜かれる。
魅了魔術。他者を彩明に照らし上げ、王子たる己の行軍に付き従わせる彼女の星光。
それを無駄だと、ロキは言った。
「はあ。やっぱりですか」
「どうも、星に触れるっていうのは想像以上に知的存在の価値観を破壊するらしい。
眷属と呼べるほど深く灼かれた人間は、他者からもたらされる新たな光を受け付けないようだ。
火傷の上から新しい火傷を上塗りすることはできないと思った方がいい。
ことちゃんが神寂祓葉にあまり惹かれてないことがその証明だよ。彼女は俺の同類だからね」
「ご教授感謝します。それにしても……、……はあ。やっぱりあなたに隠し事はできないんですね。なんかちょっと残念」
その可能性には、実のところ薊美も行き当たっていた。
根拠は今ロキが語った通り、
高天小都音があまりにも神寂祓葉に対し惹かれていない様子なこと。
孤高無二であるべき自分を嘲笑った男に教鞭を執られた事実はまあ、多少癪ではあったが。それでもこの段階で確信を持てたことは大きい。
うんざりしたみたいに肩を竦める。星、星。また恒星だ。結局連中を砕くには、直球の手段しか使えないということか。
「お。今絶望した?」
「まさか。ちょっとした事実確認みたいなものですよ。
このくらいで傾ぐ男をあんなに慕ってるとしたら、お姉さんが可哀想だし」
問題ない。どの道いずれ、この宙に輝く星は己ひとつになる。
木星と笑いたければ笑えばいい。踏み潰される覚悟があるのなら。
すべての星が踏み潰された死骸の宇宙を見上げ、その時真に見るべきが誰だったのかを全員が思い知ればいい。
力とは偉大なものだ。覚悟とは有意なものだ。あらゆる怒りも煩悶も、こうして微笑みに変えられる。
未来に酔える。他のどの光でもない、己の裡だけに灯る星の光に。
「心配しなくていい。俺は"まだ"、君の敵じゃあないよ。
にーとちゃんは君を結構気に入ってるみたいだからね。
あの子、あれで意外と友達思いだからさぁ。下手に手出したら俺が嫌われちゃう」
「そうですか、安心しました。私も"まだ"、あなたと揉めたくはなかったから」
ロキの恐ろしいところは、微笑みの裏で何を考えているか分からないところだ。
演技を極め、人心を振る舞いひとつで計算通り魅了する薊美でさえ、彼の本心はまるで読めない。
確かなことは彼が月に魅了されていること。この自分を差し置いて、他の光を至高と崇めていること。
――度し難いが、ある意味そのあり方はいい参考資料(モデルケース)になる。
――その上で今はまだ、動くべき時ではない。
〈月〉
天枷仁杜を中核に組み上げられたこの同盟には利用価値がある。
ロキの出力。トバルカインの技。そしてカスターの物量。おまけに時間制限付きではあるが、〈蝗害〉さえ友軍に置いた。
これ以上に安全で、かつ勝ち馬なことが明らかな集団は現状この都市に存在すまい。
一時の勢いで当座の安泰を放り捨てるのは誇りではない。ただの愚者というのだ。茨の王子は勇敢だ。されど、蛮勇ではない。
「肝据わってんね。俺がにーとちゃんにべた惚れなの分かった上で、いずれ裏切りますよって宣言しちゃうんだ?」
「それは少し考えたけど、聖杯戦争ってそもそもそういうものでしょう? 分かってないのはにーとのお姉さんだけです」
「違いない。そこがかわいい」
「その見た目と性格で甲斐性有るのすごいですよね、ロキさんって」
「惚れんなよ? 二股は趣味じゃない」
「惚れませんよ。私も軽口の多い男って趣味じゃないんです」
そも、それを言うなら最初からそうだ。
伊原薊美は一度だって、私欲以外でここの面々と関わったことはない。
小都音は理解していた。同盟の一員と呼ぶのは語弊があるがイリスもそうだろう。例外は仁杜だけである。
「私が仁杜さんを傷つけたら、ロキさんの怒ったところも見れそうですね」
ふ、と小さく口元を緩めて言う。
レッスン1、悪意なき悪意を。
ロキを参考にした透視の如き悪意の鏃。
ロキの嘲笑は常に、美麗な笑みでもって紡がれる。
であれば真似ることはそこまで難しくなかった。
薊美もまた、元の造形が良すぎるから。そしてそれを最大限活かす術を呼吸のように用い続けているから。
彼女が口にすれば、こんな挑発でさえどこか気高さを帯びて聞こえる。
笑顔巧者がふたり並んで静かに、美しき火花を散らす光景はそれこそ歌劇の一幕を切り出したようだ。
が、無論、薊美とて理解している。
「んー? ああ、そうだね」
考えるように口元に指を当てて上を向き。
客を誘惑するホストのように、指を下ろさぬまま薊美を見て。
絶世の美貌にいつも通り、いやそれに輪をかけて爽やかな笑みを浮かべ。
「"怒るよ"」
誰かの真似のように芝居がかった調子で一言返す、北欧の奇術王。
その一言だけで、肉体の熱が一気に消え失せる。
核星の熱光にさえ氷河期を到来させんとする神代の大寒波。
「でしょうね」
身体が、その中枢が、本能と呼ばれる部分が警鐘を鳴らす。
死がすぐそこにあることを改めて実感するには充分な、それにしたって過剰なほどの戦慄。
わざと挑んでみた甲斐があるというものだ。この感覚は、必ずや自分にとって益になる。
いつか月を落とす時。それ以前に、まだ見ぬ英霊や魔術師、そしてあの〈太陽〉に挑むに当たって。
「これでいいかい? 期待には応える質でね。君も結構可愛げのあるおねだりができるじゃないか」
「ロキさんこそ、意外と演技派なんですね。今のってお姉さんの真似でしょ」
「さあ、どうだかね」
「あの人、怒らせると結構怖いんですね。正直今日最大の驚きです」
茨の王子に、怯懦は似合わない。
他の誰が仕方ないと慰めようが、そんなもの、舞台の主役たる彼女にとってはむしろ嘲りだ。
引き金は引いた。志は一貫している。ならば次は知るステージだ。
台本に目を通し、造る輝きのカタチを吟味するように。
これもその一環。伊原薊美は怯えを知らないが、それは無謀を意味しない。
幸いにも身近にいてくれた"規格外"のモデルケース。これを用いて天上を知る。
知った上で踏み越える。越えられなければ己は己でいられない――それが薊美の自己定義。
そう思える限り、茨の王子は舞台が地獄であろうと絶対不変だ。誰にも歩みを止められないと、他でもない薊美自身が一番知っている。
「そうだ。ついでにもうひとつ、君にご褒美をあげようか」
「……、ご褒美?」
ロキが、虚空に手を翳す。
幻術。彼の異能の得体を聞かされていた薊美は、思わず咄嗟に身構えたが。
当のロキは構うこともなく、空の波紋から一振りの剣を引き抜いた。
「――頑張り屋の木星ちゃんにプレゼントだ。俺はね、面白い女に弱いんだよ」
◇◇
〈渋谷区・路上〉
吹き荒れる嵐。
砂塵のように見えるそれは、すべてが昆虫で構成されている。
自然界が人類に対してもたらす悪夢のひとつ、サバクトビバッタの蝗害。
聖杯戦争に英霊として召喚された"かれら"の捕食対象は草木や花に限らない。
人も、神も、獣も、無機物でさえ貪欲に食らって生殖を繰り返す無尽蔵の悪夢。
どの星とも無関係に存在し、誰より街を食い荒らしている理不尽の象徴。
そんな無尽の軍勢が織りなす嵐に、しかし単身突撃する美男子の影がある。
――男の名前はロミオ。人類史上最も有名な、"恋する男"。
剣を片手に猛進する彼の姿はされど、甘い恋物語に焦がれる乙女が夢想する美青年像とはかけ離れていた。
「はははははは! おお、どうか見ていてくれジュリエット!
君への恋慕が僕を強くする。こんなにも僕を熱くしてくれる!
嗚呼、今の僕は君のために――嵐でさえねじ伏せて魅せようッ!」
狂ったように、それでもこの世のものとは思えないほど美しく笑いながら。
旋風となって迫った飛蝗どもを、手始めに剣の一振りで潰滅。
レイピアという武器の本来の用途をガン無視して、膂力任せに、彼風に言うならば思いの儘に鏖殺する。
だが当然、無茶の代償は大きい。
剣を振るい終えた隙を見逃すほど、野生の本能は甘くないのだ。
同族の仇を討つだなんて殊勝な気持ちは微塵もなく。
ただ純粋に、そこにいる獲物を喰らうために無数の飛蝗が彼の五体へ飛び付く。
神も葉も同じ
ルールで食い尽くす自然の暴食者達には英霊の神秘など関係ない。
ロミオの腕やら、足やら、胴体に飛蝗の牙が食い込んで、血を飛沫かせながら頭を突っ込んで潜り込む光景は悪夢そのものだ。
世界中に愛された恋物語を凌辱する、粗野なる本能。
物理的損傷と、飛蝗どもが体内へ残す毒素――そのふたつが瞬く間に命知らずの美男子を食い潰す。
……それが道理。
されど、ロミオは〈狂戦士〉である。
ついでに言うなら、とても惚れっぽい。
惚れっぽい癖に愛情深い彼は、当然のように――今この瞬間も、恋をしている。
「ぬるいぞッ!!」
――恋は盲目。
――恋する男はいつだって無敵。
吠えたと同時に、ロミオの全身の筋肉が急激に膨張した。
理屈抜きの自己強化で突如膨れ上がった筋肉は、内部へ食い込んでいた飛蝗達を一瞬にして圧殺。
毒を含んだその死骸を、まるで噛み終えたガムでも吐き出すように外へ絞り出す。
筋肉が傷口を強引に閉じて止血し、傷があった事実すら何かと都合のいい彼の脳味噌のようにあっさり忘却してしまう。
哀れサバクトビバッタ。散っていった彼らも、よもやこんなやり方で殺されるだなんて思っていなかったことだろう。
とてもではないが正気とは思えない対処法で体内の飛蝗を退けたロミオ。
筋肉の膨張という手を打ったにも関わらず、その絶世と言っていいプロポーションは一切損なわれていない。
外に広がるのではなく輪郭をそのままに内側だけで膨張を留め、単純に全身の筋肉密度を底上げしたからだ。
ロミオ以外、この世の誰も真似できないだろう芸当。
やり方を聞かれたなら、彼は笑顔でこう答えたに違いない。
――――僕は、ジュリエットを愛しているからね、と。
「すべてが猪口才だ。たかだか虫螻の跳梁で、僕らのロマンスは阻めない」
そう、恋する彼は盲目なのだ。
ブラインド・アローレイン。
盲目の彼には数多の運命が降り注ぎ続ける。
そして愛深きロミオは、降る矢のすべてに全力で応える。応えてしまう。
たとえそれが、己という英霊の限界を越えた形であっても。
「おおおおおおおッ!」
故にロミオは、当然のように蝗害の嵐を踏破する。
その奥で嗤う総体意思へと辿り着き、覇を吐くのだ。
振るわれるレイピア、受けて立つ飛蝗仕立ての金属バット。
美と醜、相容れぬ概念の相克がここに成り立つ。
「強ぇなお前。匂いはただの雑魚なのに、燃えさせてくれるじゃねえの」
「当然だ。この身はそう大したものではないが――男にはやらねばならない時がある。君も雄ならば分かるだろう?」
「当たり前だろうがよぉッ! クソ、スカした面のイケメンの癖に……」
俗に染まりきった虫螻の王が、ロミオの言葉に改めて破顔する。
一歩ぶんの距離を後退して、バットを天高く振り上げ、そして。
「――良いこと言うじゃねえか! 気に入ったぜェェッ!!」
振り下ろすと同時に巻き起こす飛蝗の大爆発。
彼を中心として噴射状に溢れ出す、無数の同族達。
だがロミオは退かない、一歩だって下がらない。
その選択肢を知らないが如く踏み止まり、自殺行為を冒しながらまるで死なない。
死なぬまま、倒れぬまま、下がらぬまま。
虫螻の王が放つ一撃を、恋するままに受け止めてみせるのだ!
腕が軋む、骨が悲鳴をあげる。
だからどうした、おまえの背中にいるのは誰だ。
決まっている――ジュリエットだ。
「メスに貪欲なのは俺も一緒さ。恋バナと洒落込もうか、なァ――!」
「上等だとも。君が僕の想いに付いて来れるならば、だがな!」
であればロミオはいつだとて最強無敵。
限界突破、道理超絶、是非もなし。
彼が持つただひとつの宝具、それは即ち想いの力。
恋の障害が大きければ大きいだけ強くなる、〈この世界の神〉にもよく似た無法の権化。
地団駄ひとつで数百匹の飛蝗を粉砕し、吹き荒ぶ嵐の中心点にてロンドを舞う。
天を恐れず地を恐怖で満たす〈蝗害〉を相手に、こうまで力技で粘れるサーヴァントは彼くらいのものだろう。
その上で、飛蝗どもの総体意思が振るう暴力にまるで引けを取っていないのだから凄まじい。
神秘の桁で言えば間違いなく凡愚の部類だろうが、想いの力は時に道理など超越する。
おお、人に恋することのなんと素晴らしきことか。喝采するように、ロミオは笑顔のまま絶望の中で咲く希望の一輪花と化していた。
なればこそ――
「お初にお目にかかります。〈蝗害〉の主、あるいはそのものよ」
付け入る隙があるなら此処しかないと、
ゲオルク・ファウスト/メフィストフェレスは賭けに出た。
足を一歩前へ踏み出し、ロミオと打ち合うツナギ姿の総体意思へ語りかける。
一撃一撃が大地を抉り、人間はおろか英霊さえ血煙に変える威力で殺し合う怪物にそれができる胆力は流石と言う他ない。
故にシストセルカも、眼球だけとはいえ彼の方へ注意を払うのを余儀なくされる。
「こちらに交戦の意思はありません。
今は貴方がたが先に仕掛けてきたためにやむなく応戦していますが、我々には対話の用意があります」
『ちょっ、キャスター……!?』と念話で声をあげる満天に応じている暇は今はない。
ファウストほどの男でさえ、わずかでも気を抜けば辺りを行き交う飛蝗に食い殺されかねなかった。
魔術である程度の防御は展開しているものの、こんなもの、あの〈蝗害〉にしてみれば紙切れも同然だというのは分かっている。
だからこそ時間は惜しむ。思考に余力は残せない。今ここでできるすべてを全力でこなす、それが彼の取った選択だった。
「ついてはまず、問いたい。貴方がたをこの地に召喚したマスターはこの近辺においでですか?」
「あ~? ああ、イリスのこと言ってんのか。居ねえよ。まあちょっといろいろあってな」
「そうですか。であれば、その"イリス"氏に念話でコンタクトを取っていただくことは可能でしょうか」
ロミオの奮戦は想像以上だった。
もし彼の存在がなければ、今頃自分達は絶望的な撤退戦を強いられていただろう。
が――聡明なるメフィストフェレスには分かる。彼はどこまでも狂戦士であり、故にそこには兵法がない。
「話をさせていただきたい。そちらの出方によっては、有益な情報を提供できるかもしれません」
ロミオは強い。だが、あくまでも彼のは"個"の強さだ。
対する敵は無限の軍勢。それを正攻法で削り切ろうという発想自体、歯に衣着せず言うならズレている。
海の水をすべて手酌で掻き出そうとするようなものだ。
どう考えても現実的ではなく、よしんば可能だとしても、そこに要する時間は間違いなく相手の側に味方する。
そしてそんな狂おしい戦いに挑むロミオの勝算を増やす手立てが、今の自分達には存在しない……!
「言うなれば命乞いです。ただしこの命乞いには、汲むだけの価値がある。英霊としての誇りに懸けて、そう断言致しましょう」
ノクト・サムスタンプの英霊を合法的に無駄死にさせられるかも、なんて発想を捏ねる余裕もない。
メフィストフェレスは可能な限り端的に、かつ汲む価値を含ませて、〈蝗害〉の総体意思に語りかけた。
うまく行けば命を拾える。その上で、目下最大の脅威であった〈蝗害〉の内情に踏み込む余地を生み出せる。
悪くない策だ。そう、間違いなく悪くはなかった。メフィストフェレスはこの場で打てる最善手を打った。
それでもひとつ、たったひとつ、貶すべきところがあるとすれば、それは。
「ごちゃごちゃうるせえ」
運が悪かったこと――相手が、会話など端から不可能な昆虫(イキモノ)であったこと。
二度目の爆発。
それは、一度目とは比にならない衝撃で廃墟の渋谷に轟いた。
巻き起こった飛蝗の荒波は、今度はメフィストフェレスの側にまで襲いかかる。
此処で、彼がこんな事もあろうかと用立てていた備えが活きた。
事前に念入りに構築されていた自動防御術式が作動し、自分を襲う第一波を受け止め殺す。
その上で嘆息。やはりこうなるか、という諦観を秘めた仕草であった。
「悪いな、俺って見ての通り馬鹿だからよ。
そういう小難しい話されてもよく分かんねえんだわ」
「……十分に噛み砕いたつもりだったのですがね。あなた方、"虫螻"のレベルに合わせて」
「けどよ。ひとつだけ分かってることはあるぜ。この時代じゃ常識なんだろ? ウチのお姫様にも口酸っぱく言われたよ」
ニィ、と、前髪の隠れた虫螻の王は笑って。
「何か分からんが美味そうな話してくる奴ぁすべて詐欺師、ってなァ――!!」
次の瞬間、視界に存在する飛蝗の数が軽く五倍以上に膨れ上がった。
廃墟の展覧会と化した渋谷の街が、傷口を抉られて再び悲鳴をあげる。
アスファルト、廃ビル、霜の下、あらゆる場所から顔を出しては噴き上がる虫螻の洪水。
この仮想の東京における、もっとも普遍的な"死の象徴"が再びの嵐となって悪魔たちを見舞う。
「楽しい恋バナ中に醒めさせんなよ。混ざりたきゃてめえも好きなメスの名前くらい言ってみせろや」
不滅と常軌を逸した手数、攻撃規模。
圧倒的な攻撃性能。
四本の柱から成る〈蝗害〉を叩くにはそもそも全開の彼と戦える次元の力がなければ話にならず、よって楽観的になれる要素は何ひとつなかった。
「ぬうッ……! 卑劣な男め。君の相手は僕だと言った筈だぞッ!」
「悪いね色男。虫螻の世界じゃ誠実な男より食欲旺盛なオスがモテんだよ」
頼みの綱はロミオだが、どれほど常識外れの狂戦士であろうとも、如何せん彼には面攻撃への対処手段がない。
だからこそこうしてシストセルカが一対一の構図に固執しなくなった瞬間、それまでの戦線は容易く崩壊してしまう。
とはいえメフィストフェレスも黙って殺されるつもりはない。幾つかの策を巡らせながら、スーツの裾口からアンプル状の物体を五つ、迫る飛蝗の嵐へ投擲した。
「――使うぞ」
奪い取った魂の残滓で偽装した肉体。
その持ち主へ、もう口を利くこともない"彼"へ律儀に一言告げて。
錬金術師ゲオルク・ファウストの皮を被った悪魔メフィストフェレスは彼の威を借る。
――エレメンタル。
属性元素を凝縮させた結晶を用い製造された人工霊である。
もっとも戦闘向きの霊基ではない都合、秘術などと呼べる領域の代物では決してない。
事実メフィストフェレスは普段これを執務や諸々の雑用に用いており、戦いの場で取り出したのは今回が初めてであった。
が、勝算がないわけではない。
何故ならこれは、そもそもこの事態を想定して造っておいた品物なのだから。
「あぁ? テメェ……」
シストセルカの顔に不快の色が過ぎる。
出現したのは土の元素を用いて編んだエレメンタル。
一流の錬金術師が手掛ければダイヤモンドを凌駕する硬度にもなるというが、生憎ファウストの腕はそこまで卓越していない。
よって一瞬で元素塊は食い尽くされ、虫どもによってスポンジ同然の無残な姿に成り果てる。
が――朽ちる土塊は崩壊しながら、断末魔のようにスプリンクラーめいた白煙を噴き上げた。
その煙に触れた飛蝗達が次から次へと地面に落ち、苦しげにのたくっては死んでいく。
それはまさしく、蛇杖堂の宿老が彼らを意識して取った備えと同じものだった。
"殺虫剤"。現代の対〈蝗害〉最前線でも活躍し日進月歩で革新を遂げている、現霊長の叡智である。
「Einfach Vertrag――――Zwang Knechtschaft!」
その上で高速詠唱。
巨大な魔法陣を地に描き上げ、即席の対風結界を形成する。
自身と満天を守護するための陣を構築し、メフィストフェレスは静かに眼鏡を直した。
見事な手際。
されど、悪魔の表情は渋いままだ。
そう、術者である彼が一番よく分かっている。
こんなもの、単に即死を凌ぐのが精々の出来が悪い延命措置に過ぎないと。
「おいおい」
高速詠唱のスキルを持つメフィストフェレスであれば、この程度の芸当なら造作もない。
が、絶対的に出力が足りていない。
現代の魔術師を評価基準とするのならこれでも十二分に驚愕を勝ち得たろうが、此処は英霊という理不尽が闊歩する蠱毒の壺である。
「興醒めだぜ。馬鹿かよ、テメェは」
故に、そう――予想通りに。
殺虫剤の即席煙幕は、純粋な物量で突破される。
結界は蝗の到達を阻むが、すぐに表面に亀裂が走り始めた。
蛇杖堂寂句が見事〈蝗害〉を撃退できたのは、あれが室内での攻防であったから。
殺虫剤が風に流されることなく空気中に滞留する状況と、過剰なほどの薬品量があって初めて成し得た快挙なのだ。
状況も量も不十分なこの状況では、如何に"天敵"を用立てたとして同じ成果を得るのは無理筋と言わざるを得ない。
「やっぱり魔術師ってのはどうも好かねえな。
蛇杖堂のクソジジイといいロキ野郎といいテメェといい、ウチの姫さんが可愛く思えてくるぜ」
「ほう。想定はしていましたが、やはり寂句翁の病院を荒らしたのは貴方がたでしたか。
是非とも詳しく話をお聞かせ願いたい。何分、現在我々は〈蝗害〉の調査という名目で此処にいる身でしてね」
誰でも分かることだ。
故に、悪魔メフィストフェレスがそれを想像できなかった筈もない。
結界が砕ける。
その寸前に、悪魔は命じていた。
彼の従者は〈蝗害〉が相手では足止めすらままならない。
しかし彼には、彼らにはもうひとり――とびきり優秀で、手の付けられない従者(ボディーガード)がいる。
「仕事だ。ジュリエットが泣いていますよ、バーサーカー」
「――承った。麗しの煌星に涙は似合わない」
千里を駆ける健脚で割って入る美青年。
煌星に焦がれ、声高らかに恋を謳う狂戦士。
メフィストフェレス達の地点とつい一瞬前までロミオが戦っていた地点との間には十メートル以上の距離があったが、"恋する男"にとってそんなことは大した問題ではない。思い切り地面を蹴って文字通りの一足跳びで推参し、着地の余波だけで飛蝗の体液を無数に飛び散らせた。
「ま~~たテメェかよ。その辺で待ってろって、そこの根暗食ったら相手してやるから」
「残念ながらそれはできないな、どこまでも獰猛で卑劣な虫螻の王よ。
オスではあっても男ではない君には分からないだろうが――男子というのはね、愛する者の前では格好付けたくなるものなのさ!」
追って乱入する総体意思の一撃を、相変わらず事も無く受け止める。
その上で切り結ぶ姿は、もはや恋物語を通り越して英雄譚の主役のようだ。
物語のジャンルがどう変わっても揺るがずその立ち位置を死守できる華と強さが彼にはあった。
剛撃と剛撃、同系統の獰猛同士が壮絶に殺し合う。
無論、肉体ひとつで戦っているロミオの方が明らかに損耗は大きいが、だというのに彼は一歩も後ろに退かない。
己という存在を恋の対象、すなわち満天/ジュリエットを守るための最終防衛ラインと見立てて存分に真価を発揮する。
既にその身体能力は、彼の基準値(デフォルト)を優に数倍は超絶していた。
「あ゛~~、面倒臭ぇなぁ!! どいつもこいつもろくでもねえ奴ばっかりリスペクトしやがってよ~~!!」
戦えば戦うほど、相手が強ければ強いほど、それに合わせて強くなる。
過去に一度敗走し、そしてついさっきも"まがい物"を食い殺した。
別に恐れちゃいないが、こうも同じような獲物ばかり続くと食傷というものだ。
苛立ち露わに、シストセルカが跳躍する。
「逃がさんッ!」
その一瞬を、ロミオは当然見逃さない。
目にも留まらぬ速さで乱れ突きし、瞬時にツナギ男の全身を槍衾に変える。
集合体恐怖症の人間が見たなら卒倒ものの、もはや人の形をした穴のような姿に変わったシストセルカが、またも飛蝗の群れに変わって霧散。
ロミオの数メートル手前まで下がった位置で再形成し、やれやれと気取った態度でため息をついた。
「いいよいいよ。
そっちがそういうつもりなら、こっちも考えがあるわ」
ポケットに手を突っ込んで、靴底で地面を叩く。
それと同時に、再び飛蝗の竜巻が噴き上がった。
――ただし今回は、攻撃のための嵐ではない。
「……チ」
そう来るか、とメフィストフェレスが舌打ちをする。
ロミオに防戦を任せつつ逃げる隙を探っていたのだが、事態は好転するどころか更に悪化した。
その証拠に冷静沈着にして慇懃無礼な"プロデューサー"の皮が剥げ始めている。
彼の舌打ちなど満天は初めて聞いただろう。しかしそんな姿を晒しても仕方がないと思えるほどの最悪が、彼女達一行を取り囲んでいた。
「驚いたよ。大した知恵だな、シストセルカ・グレガリア」
「あんまりスマートなやり方じゃないからよ、正直好きじゃねえんだけどな」
人を喰い、神を喰い、都市を喰む飛蝗の嵐。
それがドーム状の結界を構築し、ファウスト達全員を内に収めた状態で閉じられた。
言うなれば彼らの、彼らによる、彼らのための"狩猟領域(テリトリー)"だ。
逃げ場を塞げば一方的に削り殺せると悟った。悟らせてしまったからこそお出しされた死の球体。
眼前の二騎を食い殺すのに、過ぎた出力は必要ない。
ロミオのタフネスはいささか厄介だが、それも得意の物量で少しずつ削っていけば無問題。
メフィストフェレスに関しては適当に飛蝗を飛ばし続けるだけで制圧できる。
そうやって敵陣の戦力を削り取り、最後に満天だけ残して"握手会"と洒落込めばいい。
イリスに余計な負担を強いることもなく、格下どもを確実に食い殺す虫螻の一計だった。
安直と言えばそれまでな付け焼き刃の計略ではあるものの、しかし現に――腹立たしいほど理に適っている。
「うし。じゃあ気ィ取り直して、始めっか」
バットを両手で持ち、後頭部に当てて顎を突き出し。
嘲りの笑みを浮かべて、シストセルカは絶望の蝗害戦線、その第二局の開幕を宣言した。
「――――"蹂躙"」
◇◇
そこからの戦闘は、実に無体なものであった。
いや、そもそも本質的に"戦闘"と呼んでいいかも怪しい。
そも、シストセルカ・グレガリアは別に戦闘狂ではない。
フランクな言い回しで喋り、時にはノリの良さも見せる。
現代の世俗に染まり、英霊とは思えない趣味を多数有してもいる。
だが、それでも。どこまで行っても、彼は〈虫螻の王〉なのだ。
昆虫の世界に流儀はない。
卑怯卑劣の誹りはもちろん、誇りも矜持もありはしない。
彼ら虫螻にとっての存在意義はふたつ、食うことと増えること。
英霊シストセルカ・グレガリアも、その例外では決してない。
だから民間人だろうと食う。老若男女好き嫌いせず食う。
所構わず個体数を増やし、その上で一個体の生き死にに頓着せず総体のために使い捨て。
そして――このように。手のひらを返すみたいに、非道な戦い方だって働けてしまう。
前線のロミオと彼らの総体意思が終わりなき殺し合いを続け。
その一方で、絶え間ない手慰みが悪魔のプロデューサーに行動を許さない。
前線からあぶれた蝗を雑に突撃させているだけだが、それだけでも非力なキャスターにとってはすべての余力を奪い去る鬼手と化していた。
眉間に皺を寄せ、その場しのぎの魔術を駆使して防戦に徹するしかないメフィストフェレス。
頼みの綱はロミオのみと言える状況であるが――彼も彼で苦境にいることには変わりなかった。
「惰弱だなッ、そんなものか虫螻の王ッ! 君達飛蝗の眼には、僕の想いがこの程度で破れるほど薄氷に見えているのか!!」
すべては先に述べた通りである。
ロミオがどれほど強くなっても、対軍・対城規模の攻撃手段を持たない彼では無限に湧いて出る飛蝗の軍勢を決して滅ぼせない。
言うなれば絶望的に相性が悪いのだ。彼はそれを翳らぬ心と驚異のバイタリティで覆い隠しているが、問題の解決策にはなり得ない。
それでも未だにレイピア一本で〈蝗害〉の最前線に立ち、一歩も退かない戦いぶりを継続しているのは異常と言う他なかった。
期せずして知らしめられた英霊ロミオのポテンシャル。彼をボディーガードに擁立したメフィストフェレス達にとっては有益な情報であったろうが、この狩猟領域を切り抜けなければどんな情報だろうと紙屑ほどの価値もない。
「見えてねえって。つーかテメェ、男気あるんじゃなくて単に色狂いのキチガイなだけじゃねえかよ。
俺ってこれでも割と理性を大事にするタイプでな、会話を楽しめねえキの字には興味ねえんだわ」
ロミオの剣閃がフード越しにシストセルカの右眼窩を抉る。
頭部に風穴が穿たれるが、気に留めもせずバットが横薙ぎに振るわれる。
ついでに殺到した飛蝗が弾丸の如く喰らいついて、すぐに筋骨で圧殺されるが傷だけは的確に刻んでいく。
彼らのやり取りは常に此処に帰結していた。要するに、ロミオ側には何の得もない消耗だけが積み重なっている。
そして――
「…………ッ、ぐ」
悪魔メフィストフェレス、遂に片膝を突く。
彼の右肩には、それこそ銃弾で撃たれたような傷が覗いている。
防御を突破した飛蝗にやられたものだ。毒の解毒は片手間に済ませたが、その荒く乱れた呼吸が疲弊の度合いを物語っていた。
(俺の霊基じゃ、たとえ満天に令呪を使わせたところで転移まがいの離脱は出来やしねえ。
討ち死に覚悟で博打でも打てばあのガキだけ逃がすことは出来るかもしれんが…………クソ、それじゃ何の意味もねえんだよ)
〈蝗害〉は災害である。
だが、彼らは自ら考えて行動する。
純粋な狂える厄災であったならどれほど楽だったか。
メフィストフェレスに言わせれば飛蝗どもの思考は稚拙なものだが、馬鹿の浅知恵でもそこに規格外の物量が付随すればどんな軍師の策でもねじ伏せられてしまう。
認識が甘かったとは思わない。
備えも、見通しも、決して手抜かりはなかった。
だがそんなもの――この災厄の前では何の価値もない。
"怪物"だ。
星にのさばる、本物の"呪い"だ。
人倫に縛られず、策を牙で食いちぎり、暴力で理屈を蹂躙する、"風の厄災"。
恐らく戦線の維持はもう数分と保たない。ファウストを騙るメフィストフェレスは、苛立ちの中でされど冷静に思考する。
優先すべきは満天の命でも、自分の命でもない。両方の命だ。契約者と悪魔、どちらか片方でも落ちてしまえばその時点で自分の戦いはすべての意味を失ってしまう。
ではどうやってそれを押し通す。どうやって、そんなウルトラC級の無茶を罷り通らせる。
……答えが出ない。だとしても悪魔は諦めない。残されたわずかな時間を最大限に活用して、そのニューロンから少しでも有意なドリップを絞り出さんと魔域の頭脳をフル回転させる。
『やはりロミオを活用する以外に方法はねえ』『残りの元素塊どもも少しは役に立つか』『いや無理だ』『あの規模の戦闘に放り込んで耐えられるほど上等なモンじゃねえ』『魔術で介入』『論外だって言ってんだろ馬鹿が』『俺が死ぬのは満天が死ぬのと同じくらい最悪だ』『だが共倒れになっちゃ元も子もない』『趣味じゃないが賭けに出るしかない』『俺が生き残る1%に賭けてあのガキを逃がす』『それが一番利口だし選択肢は他にないだろ』『いや待てあのバッタ野郎は思いの外狡猾だ』『野郎、よっぽど俺が気に食わないのか常に眼ぇ光らせてやがる』『やるにしても機を伺ってじゃなきゃ初動潰されてゲームセットだ』『第一てめえどうやって博打を打つつもりだ』『カミカゼ特攻が通じるような相手か?』『今の俺のカスみたいな出力でどこまでやれる?』『出し惜しみしなければ』『待て』『此処でチップを全消費したら先はねえぞ』『詐欺師は他人の懐事情に敏感だ』『ロミオはノクトの眼で耳だ』『なりふり構わず生き延びた結果ノクト・サムスタンプの傀儡堕ちなんざ死ぬより酷え』『だが贅沢言ってられる状況でもないだろう』『一寸先の死より三寸先の絶望なのは明白だろうが馬鹿か?』『その時はノクトを切れば』『クソ、論点がズレ出した。落ち着け』『整理しろ今必要なのは"俺達"の生存策だ』『この"狩場"さえ崩せれば目はある』『ロミオを誘導して領域の破壊に注力させるか』『そりゃ良い案だな。俺の許に来る飛蝗どもを押し止める防波堤が消えるってことに眼を瞑ればだが』『〈蝗害〉はまだ本気じゃねえ』『奴らが俺達を舐めてる内しか勝機はない』『舐め腐らせたまま最高の一手で押し崩す』『具体案を考えろ』『もう一度交渉の真似事でもするか?』『まだ殺虫剤仕込みの土塊は三機残ってる』『初動狩りさえされなきゃ目はある』『ロミオ次第だ』『いや』『虫螻どもは満天に興味を示してる』『いっそ満天にコミュニケーションでも取らせた方が望みがあるな』『その隙にロミオを動かして』『馬鹿か。ガキを狙われたら終わりだぞ』『残りの対〈蝗害〉エレメンタルで壁破壊の暇を生み出す』『飛蝗どもの気まぐれが終わったらどうする』『それをこれから考えるんだよ』『時間は有限だ』『あとどれだけ保つ』『良いところで一分弱』『無理だ』『泣き言ほざいてんじゃねえ』『現実的じゃない』『時間が足りねえ』『時間が』『クソ』『せめてもう一分あれば』『この倍だけ思考に注ぎ込める時間があれば――』
―――おお、瞬間よ止まれ、汝はかくも美しい。
……人間のそれとは比較にならないほどの思考速度とリソースを持つ英霊(悪魔)の脳でさえ破裂寸前の超高速思考が、不意に再生された過去の残響によって中断される。
断じて忘我の境地に彷徨することが許されるような局面ではないが、それでもメフィストフェレスはこの刹那、確かに時間を忘れていた。
かつて、時よ止まれと願った男がいた。それは決して口にしてはいけない敗北宣言だった。
が、その言葉を吐いた男の顔は奇蹟にでも巡り合ったような希望と充足に満ちていて――その不可解を今も悪魔は追いかけている。闇より生まれ闇路より這い寄る狡猾な悪魔が、闇の先に微かに見える光を求めて疾走しているのは何の皮肉か。
「…………ク」
気付けばメフィストフェレスは、嗤っていた。
他の誰でもない、自分自身へと向けられた嘲笑だった。
年嵩の老人がひょんなことから自分の耄碌を自覚して溢すような。
そんならしからぬ微笑を、愛すべからざる光たる彼が浮かべていたのだ。
「瞬間よ止まれ、か。よりにもよってこの俺が、そう祈る立場になるとはな……」
窮地に沸騰していた思考が一気に零度までクールダウンしていくのを感じる。
悪魔は呪いにかからない。時よ止まれとそう願っても、彼の魂を奪い去る者はいない。
「――笑えよ、ファウスト」
なんたる無様。
ヒトの真似事とは、悪魔をこうまで鈍らせるのか。
そう思わずにはいられなかった。
何せ、こうまで醜態を晒さなければ……最初から存在していたその選択肢の存在にすら気付けなかったのだから。
――状況整理。現状は極めて悪い。残り時間は一分を下回っている。あとたったそれだけの時間で戦線は崩壊し、間違いなく己は殺される。
霊基こそキャスターだが素体が素体だ。
ゲオルク・ファウストを詐称して現界した以上、まともな戦闘は百パーセント望めない。
ましてや相手は〈蝗害〉、理屈と備えで戦うお行儀のいい魔術師にとっては天敵と呼べる存在である。
殺虫剤を含有させたエレメンタルはまだ残っているが、流石に現状を打破する解決策になるとは言い難い。
狂戦士ロミオは飛蝗どもの猛威に耐え得る稀有な戦力である。
しかし、彼には軍勢を突破するすべがない。
今こそ驚異的なしのぎを見せているが、それは状況の停滞と同義だ。
自分がロミオを指揮して戦うのが最も現実的に見えるが、最悪なことに、〈蝗害〉は自分の存在を常に視野に含めながら戦っている。
もしも少しでも彼らにとっての目の上の瘤と看做されたなら、すぐにでも押し寄せる飛蝗の数が増幅して自分は死ぬ。
軍師の忠言すらこの狭く閉ざされた狩猟領域の中では誰もまともに活かせない。
"策士殺し"とでも呼ぶべき絶望的なまでの布陣が完成してしまっている。
整理完了――改めて現状がどれだけ終わっているかを再確認出来たところで、メフィストフェレスは浮かび上がった最後の選択肢を取り立てた。
(……俺は、いつの間にかずいぶん過保護になってたらしい)
思えば最初から、こうするべきだったのだろう。
自分がやるべきは聖杯戦争であって聖杯戦争に非ず。
これはあくまでも、悪魔とその契約者の物語なのだ。
その大前提をいつの間にか、他でもない自分自身が死蔵してしまっていた。
リスクはある。あまりにも大きなリスクだ。
失敗すればすべてを失う。これまでの積み重ねも描いた未来図も、全部がパーになる。
逃げ場なき飛蝗の檻の中では、その際の尻拭いさえままならないのは明白であるが。
――だからどうした。破滅を恐れて縮こまる悪魔がいるか?
(煌星さん)
現在、煌星満天の思考を把握できる状況にはない。
壮絶なる闘争を雑食昆虫達の檻に囚われながら見つめる少女の心境が、メフィストフェレスには分からない。
思考を垣間見ながら言葉を弄し、彼女の背中を押すことはできない。
だからこれは、さしずめ暗中で手を伸ばすようなもの。
無明の闇に包まれてそこにある少女の心へ、されど悪魔は、当然のように問いかけるのだ。
(――――やれますね?)
これは戦争で、殺し合いだ。
今この瞬間までは、間違いなくそう。
思えばその時点で誤っていた。
馬鹿正直に相手の得意分野で対峙して、戦力で劣る自分達に勝算などあるわけもない。
だからこそ、己の愚かしい失策を反省として胸に刻みながら――
メフィストフェレスは今、状況の前提さえもを書き換える。
もはや戦争には非ず。
殺し合いなど戦争屋気取りの屑星どもにでもさせておけばいい。
黴の生えた惨禍に別れを告げよう。これより始まるのは、煌星満天のための戦場。
彼女と自分の繰り広げる"勝負"――さあ、利用させて貰うぞ、虫螻ども。
〈プロデュース〉の時間だ。
最終更新:2025年03月09日 02:23