――夜の闇が、彼らの集まった廃墟の中を無言で覆っていた。
吹きすさぶ風が鉄骨を鳴らし、冷たく湿った空気が兵たちの肌を刺す。
そこに集まったのは、今まさに東京裏社会の覇権を争おうとしている両翼の片割れ、デュラハンの兵隊達だ。
電気も通っていない廃ビルの薄闇に身を潜めるようにして、それぞれが無言で与えられた武器を整えていた。
これだけ見れば本当の開戦前夜のような凄みがある光景だが、これより死地に向かう彼らの顔には緊張と不安がにじみ出ている。
誰もが知っていた。これから向かう抗争の相手――刀凶聯合は、自分達以上に一介の半グレ組織などではない。
連中は狂気の塊だ。ロケットランチャー、グレネード、重機関銃。
まるで戦場の兵器がそのまま市街地に持ち込まれたような装備で、手加減など一切見込むことのできない相手。
「……勝てるわけ、なくねえか?」
ぽつりと誰かが言った。
場の誰も、それを否定しなかった。
確かにこちらも銃は与えられている。手榴弾もあればスタングレネードだってある。だが、それでも"戦える"ことと同義ではない。
デュラハンの武装はあくまでちょっと過激なヤクザレベル。対する聯合は先に述べた通り、実際の戦地でも十二分に通用するような盤石さだ。
自分達が弾を詰め替えている間に、対戦車を想定した超威力兵器の砲撃を見舞ってくるような連中。それを相手に拳銃とわずかな小細工で挑むなど、木の枝で戦車に立ち向かえと言われているようなものだった。
「俺達の強みなんて、せいぜい数が多いだけ。連中よりちょっと人数揃えてるだけだ。その数だって、あんな火力の前じゃ何の意味もねえだろ」
言葉にすることで余計に不安が強くなる。
それでも吐き出さずにはいられないほど、場の空気は重かった。
いつ始まるか分からない抗争を前にして、どんどん胃の底が冷えていく。
誰も彼もが、恩義や絆に命を懸けられるわけではない。
そんな当たり前の現実を、彼らの煩悶は痛ましいほどに物語っていた。
彼らは所詮被造物。〈この世界の神〉たる白色に創造された、仮初めの器でしかない。
それでも彼らにしてみれば今此処にある人生が、命がすべてなのだ。
恐怖がない筈がない。迷いがない筈がない。造物主の創造は、いっそ残酷なまでに精密だった。
よってこれは当然の恐慌、当然の軋み。決戦を前にして、デュラハンの士気は大きく揺らいでいる。
ともすれば今すぐにでも、逃げ出そうと言い出す者が現れても不思議ではないほど。
事此処に至るまでそうさせていない辺り、周鳳狩魔という頭(ボス)が如何に非凡な将であるかが窺えるというものだったが――それにも限界はある。
なんたる体たらく。悪国や聯合の兵隊が見れば、きっと失笑しただろう。
首なしの騎士とはよく言ったものだ。これでは玉なし、意気地なしの集まりではないかと。
ああ無情。彼らの戦いは始まる前に破綻して、見るも無様に総崩れの様相を呈する――
……その瀬戸際で。場の混迷を断ち切るように、"誰か"の足音が響いた。
規則正しく、鋭い靴音が床を打つ。
状況にそぐわない不思議な品格を伴った響きだった。
それは一歩ごとに空気を変え、やがて兵たちの視線を一点に引き寄せていった。
「や、どうも。うん、みんなちゃんと集まってますね。感心感心、それでこそ狩魔の集めた兵隊です」
――――そうして現れたのは、目が潰れるほど美しいひとりの青年であった。
金髪。凛とした顔立ち。けれどその姿は、ただ"美しい"と表現するにはあまりに異質で、現実感すら希薄だ。
理知的な眼差しと、誰もが自然に膝を折りそうになるほどの威厳。
デュラハンのボス・周鳳狩魔が呼び寄せた"サーヴァント"。
ゴドフロワ・ド・ブイヨン。組織内ではゴドーと呼ばれる、暴力の象徴のような人外がそこにいた。
彼が姿を現した瞬間、場の空気は文字通り一変した。
さっきまであれほど充満していた不安が、一瞬にしてどこか遠くへと押しやられていく。
誰もが言葉を失って、呆けた面を晒しながらその存在に圧倒される。
ゴドフロワは一歩進み、全員を静かに見渡す。もはや騒がしい話し声は一切ない。在るのはただ足音と耳鳴り、そして。
「大丈夫。恐れることなど、何もありませんよ」
彼の放った一言が、無に戻された場の空気を、改めて根本から塗り替えた。
語気は柔らかく、だが確固たる信念に満ちている。
慰めでも、鼓舞でもない。ただ事実として、そこに在るものとして言葉が投げかけられた。
ある種軽薄とも取れるほど何の飾り気もないその一言に、兵たちは不思議と息を飲んだ。
武器の性能でも、戦術の優劣でも、ましてや将の器の大小でもない。
そんな些事よりもっとずっと根源的な何か。
この場に居合わせた者すべての内面を、単なる口先八丁で揺さぶる何かがそこには確かに存在していた。
虚ろな兵隊達は誰も気付いていない。ゴドフロワがこの場に来ただけで、自分達の背筋が自然と伸びたことに。さっきまではわななき空を掴むばかりだったその拳に、わずかに、されど確かに力が込もったことに。
ゴドフロワはその変化を認識しながら、しかしそれを指摘するでもなく。
更にもう一歩だけ、緩慢な動作で前に出る。包み込むようなおおらかさに溢れた所作だったが、その眼は決して優しさだけを語ってはいなかった。
「いい機会だ。出撃の前に……少し話をしましょうか」
◇◇
「そうか、覚明ゲンジが……」
アルマナからの報告を受けて、聯合の王・悪国征蹂郎は呟いた。
ノクト・サムスタンプを通じ、デュラハンの主要構成員の情報は既に得ている。
中でも外見的特徴に関して言えばひときわ異質なのが、今しがたアルマナが遭遇したという"猿顔の少年"だった。
覚明ゲンジ。北京原人に酷似した風貌を持つ醜い少年。独居老人の集団失踪が起きた団地に住まう、聖杯戦争のマスター。
『撤退時、牽制のつもりで魔術を放ちましたが……手応えはまったくありませんでした。
というより、命中する前にかき消されてしまったような感覚です。警戒が必要かと』
「そういえばキミは……、あの"猿顔"と面識があると言っていたな……」
『面識というほどのものではないです。アグニさんと同盟を結ぶ直前、一度顔を見たというだけで――ただその点で言うと、以前の彼とさっきの彼はまったく別人だったように思います』
「……、……」
アルマナの声に微かな動揺が滲んだのを、悪国は見逃さなかった。
この冷静沈着な少女らしからぬ、揺れ。
それこそ初めて出会った時に見た恐慌の片鱗らしきものが、そこには窺えた。
『迷いと……たぶん、苛立ち。
前の彼にあったものが、さっきはまったく消えていた』
一皮剥けた、なんて可愛らしい表現をするべきではないだろう。
此処に来て存在感を増すのは、覚明ゲンジの居住地が集団失踪の起きた団地であるという情報だった。
朧気に繋がっていた点と点。それを結ぶ線の色が、不気味に濃くなっていくのを感じる。
『もし相対することがあったら、どうか警戒を。ややもすると周鳳狩魔は、恐ろしい切り札を手に入れたのかもしれません』
次いでアルマナは、ゲンジの連れていたサーヴァントについて語った。
"複数の原人"。具体的に特定はできなかったものの、石器武器を携行していたと彼女は言う。
猿顔の奇怪な少年が召喚した、原始人の群れ。
なんとも酔狂な縁だが、アルマナの魔術を無効化したカラクリは一体どちら側にあるのか。
悪国は静かに爪を噛む。この情報に関しては、ノクト・サムスタンプにも共有しておくべきだろう。
今のところ新たな連絡は来ていないが、決戦の時刻が来た以上、あの信用ならない策士も動き出す筈だ。
「……とりあえず、分かった。して、どうする。一度こっちに戻るのか……?」
『存在を認識されてしまった以上、アルマナ単騎での作戦行動は危険と判断しました。
今はチヨダ区に戻ってきています。状況を見て、このまま戻るか別所に向かうか決めようかと』
「分かった……。何かあれば、追って連絡する……くれぐれも気をつけて、行動してくれ……」
『……アグニさんに言われるまでもありませんが、ありがとうございます。そうします』
そこで通話が切れ、悪国も端末を置く。
短時間の偵察だったが、やはりアルマナは驚くほど優秀だった。
敵陣の大まかな配置に、覚明ゲンジという要注意人物の話まで持ち帰ってくれたのだ。
加えてキャスタークラスの陣地が形成されていたこと、精霊を活用した独自のセキュリティ体制を確立していたこと。
元が魔術師でない悪国だ。理解しかねて聞き返す場面もあったが、その甲斐あって現状への理解度は相当に向上した。
開戦前の成果としては上々だろう。であれば後は、実際に事を始めるだけだ。
レッドライダーが加減のできるサーヴァントであったことは僥倖だった。
見敵鏖殺、二言はないが、何事にも事の順序というものがある。
デュラハンは烏合の衆だが、頭である周鳳狩魔と彼の集めた英霊達は脅威だ。
切るカードと必要な出力を誤れば、いつどこで地獄に落ちるか分からない。
エナジードリンクの残りを飲み干して、悪国は窓越しに戦場の方角を見た。
覚悟は決めた。後戻りなどできないし、する気もない。
時刻は午前零時。刻限の到来と同時に、刀凶の将は宣言する。
「――――さあ、開戦だ」
同時に身体を襲う強烈な緊張感と熱感。
脳が沸騰したように熱くなって、巡る血流が隅から隅まで煮え滾る激情に置換されていく。
魔術回路に漲るのは炎。地を焦がし、空を焼く、人類の原罪が悪国の内界へ共有される。
我らは刀凶聯合。
流血で繋がれた絆の聯隊。
この絆、この縁を裂く者あるなら神であろうと許さない。
首なしの騎士何するものぞ。おまえたちは、超えてはならない一線(レッドライン)を超えた。
――独り残らず皆殺しにしてやる。塵塚の王・悪国征蹂郎の宣誓を合図にして、黙示録の第二楽章は開戦する。
◇◇
夜の新宿に、異変は静かに、だが確実に満ち始めていた。
タワー群の狭間に流れる風が重く淀み、ビルの壁面を撫でる音が、まるで獣の呻きのように変わる。
街灯のひとつがふと赤く染まり、そして瞬時に爆ぜた。赤――それは血の色でも、警告の色でもない。
これはただ、世界そのものを塗り替える破滅の兆し。
まず現れたのは水だった。
アスファルトの隙間から、コンクリートの割れ目から、天から地へ、逆巻くように溢れ出る液体。
水と呼んだが決して広義の水ではない。飲用などできる筈もない血塗られた汚水だ。
赤く粘性を帯び、見た目は血そのものでありながら、それ以上に嗅覚が拒絶する何か。
染み出したそれは川となり、やがて道を覆い、気づけば一帯を赤い海へと変えていく。
ぬめりとした音が、産声のように響く。
その中心より、"それ"は姿を現した。
紅蓮の戦士。赤き騎士。
――レッドライダー。
黙示録の赤、その顕現である。
それは生物ではなく、兵器でもなかった。
騎士の姿を取ってはいるが、騎士というハリボテを模って顕れたモノと呼んだ方が正確だろう。
赤く燃える二足が地を踏みしめ、どろどろと溶解しながら人型を保つ。あらゆる理屈と矛盾したその影が、理性なき眼光を街へと向ける。
そこには言葉も意志もない。ただ存在ひとつでヨハネの預言を体現する。
すなわち戦争と死を齎す者。
黙示録の第二の印。
人類のドゥームズデイ、その一形態。
赤騎士の進軍を合図にしたかのように、街の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
信号は赤のまま固まり、もう永遠に他の色を示すことはない。
逃げ惑う人間の姿さえここにはなかった。
なぜならこれの到来が起こってしまった時点で、特別な理屈を持たない伽藍の人形達はほぼ全員が赤の狂気に染められ、理性を飛ばしてしまったからだ。
であれば後は争い惑うばかり。たとえ手足がもげようとも、もう彼らは闘志の奴隷として生きるより他にない。
地を覆った赤水に仄暗く写る無明のビル群が、騎士の歩みにより生まれた波紋によって、まるで異界の塔のように歪む。
破滅の気配は羊水を踏みしめるような音を供に、新宿の夜を侵食していく。
そして。
高層ビルの彼方にひとり、それを見つめる男がいた。
粗末な衣を纏い、頭に羽飾りを差した老戦士。
彼は【赤】の凶兆を目の当たりにしながらも微動だにしない。
しないまま、彼は静かに呟いた。
「――来たか」
シッティング・ブル。
アメリカ先住民、スー族の大戦士。守護者にして呪術師(シャーマン)。
時代も場所も超えて彼は再び、憎み忌み嫌う戦争の世界へと立つ。
ぬるついた風が彼の頬を撫でる。赤き騎士は、依然彼の存在を認識さえしないまま足を進める。
赤き戦禍は、歩みを止めない。
無言にして無機質、だが止まることなき黙示の機構。
その躯体より滲み出す赤い水は、地を染め、建物の基礎を蝕み、都市の輪郭を現在進行形で塗り替えていた。
騎士は黙して語らぬ。
強いて言うならば、これの歩みそのものが"大いなる意思"だ。
火種を撒き、命を刈り、土地を焦がす。
人が作りしすべての文明と倫理観を、まるで最初からそれが「こうなるべくして在った」と示すみたいに踏み潰す。
――だがその時。ガイアの設計したこの終末に異を唱えるべく大地が揺れた。
低く、重く、腹の底を揺るがすような震動。
レッドライダーの前方、朽ちた街路の先に無数の黒い線が走る。
土とアスファルトの狭間を踏みしめ、角を掲げ、巨体を揺らしながら、それらは姿を現した。
無数の黒い巨体……バッファローの群れである。
額には神聖なる紋章が淡く輝き、その眼はいずれも野生を超越した神秘の光を宿していた。
これは喚ばれたものだ。乞い願われ、それに応じたものだ。
霊獣。そう呼ばれる、大自然の神秘が具象した存在。
彼らの声を聞き、意思を通わせ。
混沌と大義が相克する戦場に招き寄せた者とは、すなわちシッティング・ブル。
彼の意志が、闘志が、或いは絶望が。
アスファルトを蹴り砕きながら走る一頭一頭の筋肉に確と宿っている。
「厄災を薙げ。大いなる神秘の触覚、我らが同胞(とも)よ」
静かなる号令をもって、獣達の突撃は始まった。
シッティング・ブルは自然と親しみながら育ち、そのように生きた者。
この大戦士の頼みに応えない精霊など、彼らの土地には一匹もいない。
バッファローたちが地を裂くように走る。その進撃はもはや津波に等しかった。
一頭につき十トンを超える巨体が突進し、疾走の余波だけで停められている車を跳ね飛ばし、建物の外壁を崩し、街路樹を塵に変える。
赤騎士を見据える無数の瞳は群れの"意思"として、交信者たるシッティング・ブルのそれを共有していた。
対するレッドライダー。
彼はやはり一歩たりとも退かない。ただ黙して、立ち尽くす。
だがこれを無防備と呼ぶのはあまりに迂闊だ。
迫る神秘の津波を前にして、赤騎士の躰が変形した。
肉の中から、銃口が伸びる。
赤い体表(みなも)の下、肩から、肘から、腰から、背から――まるで皮膚を割って生える花咲き癌のように、無数の砲身が蠢いた。
ライフル、機銃、ロケットポッド。現代兵器の坩堝が、生物の枠を超えて"発芽"していく。
次の瞬間、それらが一斉に火を噴いた。
爆音。閃光。弾丸と爆裂。
砕ける空気はそれそのものが灼熱で、仮に吸うものがいれば刹那にして気道を焼き尽くされたに違いない。
夜の街に、地獄のオーケストラが鳴り響く。
弾丸は雨となって降り注ぎ、ロケット弾が群れの中心を爆風で撫でる。
霊獣とてこうしてまろび出た以上は肉製の器。
砲火と衝撃波の洗礼に血飛沫が上がり、直撃などしようものなら自慢の巨体すら容易く消し飛ぶのは避けられない。
しかし、それでも自然の化身達は止まらなかった。
炎に焼かれながら仲間の死体を踏み越え、それでも尚、彼らは走った。彼らは単に"命令"で動いているのではない。
赤騎士討つべし。
これは確かに神聖な者の御使いであるが、故にこの世にあってはならぬものだと、霊獣達は同じ認識を共有していた。そこには無論、シッティング・ブルという戦士の気持ちも含まれている。
されど。
それすらも――届かない。
銃火は止まぬ。レッドライダーの体躯は変質を続け、装備された兵器はキャパシティを無視して増殖し続ける。
身体ひとつで扱える火力の限界点が、目に見える形で悪い冗談のように更新されて止まらない。
バッファローはやがて、すべて倒れた。
吹き飛ばされ、焼かれ、撃ち貫かれ。
最後の一頭がその巨体を地に沈めるまで、彼らは一度も怯まず、不退転のまま戦い抜いたが――当の赤騎士が依然健在であるという事実は、彼らの勇猛な生き様に冷や水を浴びせるが如き冷淡さでそこにある。
沈黙が戻る。
やはりそこに、騎士は立っている。
――赤き滅び(レッドライダー)。
煤を纏い、血の霧を浴び、なお一歩も退かぬ姿。そこにあるのは勝利でも優越でもない。
あるのは大義。ただそれだけ。預言の成就というプログラムで動く騎士に陥穽はなく、よって誰にもこれは倒せない。
底知れぬ黙示の影。その姿を遠くから見据え、シッティング・ブルは息を整えた。
第一陣は惨憺たるものに終わったが、それでも大自然の戦士は敗北を認めぬ。
戦いはまだ始まってさえいない。これはただの第一波であって、それ以上でも以下でもないのだから。
男は静かに目を閉じ、風の声を聴く。地の鼓動に耳を澄まし、次なる霊獣の気配を手繰る。
赤き戦車は、次の進撃のために体内で砲弾を生成し始める。
死の匂いが、爆炎と硝煙の余燼の中に広がっていく。
バッファローの群れは既に沈黙し、焼けただれた大地には、赤い霧と焦げた毛皮の臭いが漂っている。
赤く泥濘んだ肉体に幾百もの銃口を孕み、兵器達の集団墓地めいた姿になりながら、赤騎士が進軍を再開する。
その時――今度は空が裂けた。
一閃。
黒き夜を、銀の刃のような光が走る。
鷹だ。
いや、これもまた鷹のカタチを取った大地そのもの。
本来ならば肉体をもたぬ精霊の具現。風を裂き、空を斬る使者。シッティング・ブルが呼び寄せた、鋭利なる粛清の翼。
鷹の霊獣は、騎士の暴虐に踏み潰されたすべての命を代弁するが如く翔び――しかし鳴かない。
射殺す眼光を尖らせながら、双翼で空気を斬る快音だけで雄弁にその意思を告げる。
赤い巨影に銀の線が一筋、閃光のごとく走った。
レッドライダーの巨躯が、真横から両断される。
断面から赤い水が吹き上がり、血で虹の弧を描いた。
膝をつき、崩れる黙示録の騎士。硬質でも軟質でもない不定形の身体が飛び散るように砕け、黒い血管のような中身が地に晒される。
もちろん、これで終わるなどあり得ない。
「悍ましいな」
沈黙の中、異音が響く。
泡立つ音だ。切断面から滲み出た赤い水が、腐敗と再生を同時に孕んだ奇怪な動きで蠢き始める。
溶けるでもなく、再構築するでもなく、ただあるべき姿に戻ろうとする原初(ガイア)の意志。
傷口らしき裂け目が閉じる。輪郭が接続され、これらの隙間が塞がっていく。
皮膚のように柔らかく、水のように淡く、そして鋼のように硬い物質が……泡の中から蛆のように蠢き、かつての姿を再生させる。
赤い霧の中から、レッドライダーが立ち上がった。
まるで今この瞬間に生まれ落ちたかのように、静かに。だが有無を言わさぬほど荘厳に。
その無貌の頭部が、空を見上げる。
鷹は旋回しながら戻っていく――交信者のもとへ。
軌道の先、遥か彼方。ビルの残骸の陰に立つ、羽飾りを風になびかせ佇む戦士の影。
赤騎士の貌が、その方向へと僅かに傾いた。
そして見た。確かに捉えた。敵を。獲物を。
「見ツケタ ゾ」
黙示の影は、ついに己が標的を認識した。
視線に熱が籠もった瞬間、戦場は再び脈動を取り戻す。
レッドライダーの赤黒い身体がわずかに蠢く。
のっぺりとした頭部に刻まれた眼窩を思わす二孔が、遥か彼方、ビル群の彼方に佇むシッティング・ブルを確かに捕捉していた。
その刹那。彼の身体に巣くう"兵器の胎"が集団越冬する足の多い蟲のようにひしめき始める。
泡立つ体表の隙間、肩口、脇腹、脊髄の延長線……あらゆる場所から微細な機構が浮かび上がる。
それは虫の翅を思わせる金属の羽であり、赤黒く光る機関部であり、鋼鉄の小さな外骨格(パーツ)だった。
すなわち――無数の超小型戦闘機である。
宿主の体内から湧き出す寄生虫のように、それらは赤い霧を引いて空へ舞い上がる。
レッドライダーは兵器を生む赤い沼。いわば活動する空母のようなものだ。
一斉に旋回、俯角をとり、敵影へと降下開始。
街路は瞬時に新たな形の地獄に染まった。
爆撃、銃撃、ミサイル砲撃。空から降り注ぐそれらの攻撃はいつかの戦火をなぞるが如し。
命死せよと猛る雷火に隙はなく、これに標的と看做された者が生き延びられる確率は真実皆無。
「いつの時代も同じだな。何も変わらん」
が――そのさだめにさえ否を唱えるが如く。
地が唸った。風が舞った。
草木なきコンクリートジャングルの只中に、"大地"の気配が漲った。
「厭なものだ。戦争というのは」
現れたのは、バッファローに続く精霊の獣たち。
まず、ビル群の外壁を足場にしながら跳躍し疾走するコヨーテが四方から機影へと跳びかかった。鋼の外殻をものともせず、神秘の牙で喉元を喰い破る。
かと思えば路地裏から這い出たグリズリーが咆哮し、爆裂で以って十を超える小型戦闘機を撃墜。
先ほど赤騎士を両断した鷹が旋空飛行で制空権を奪い、霊的な風のうねりで科学の小鳥達を撹拌して粉砕する。
霊獣たちはシャーマンの呼び声に応じ、厄災討つべしと各々の意思を示し続けていた。
彼らに号令を下すシッティング・ブル。その目は、静かに冷たい。
戦場の混沌の中心で呼吸し、彼は全てを視ていた。
両手には、祈りと戦いの象徴――トマホーク。
白銀の刃を握り、もうひとつ息を吸う。
次の瞬間、厳しい顔の男が目を見開いた。
吹き抜けたのは一陣の風だった。身のこなしは驚くほどに軽やかで、地と空と霊とを纏って一直線にレッドライダーと相対する。
赤騎士もまた、迎え撃つ。戦場を彩る爆裂の中、彼の躰はすでに新たな兵器形態へと変質を始めていた。
腹部から突き出した重機関砲の砲身が、空気を揺らす重圧を発しながら殺意を充填していく。
「シィィッ――――!」
しかし間に合わない。
シッティング・ブルのトマホークが、騎士の行動を待たずして振るわれた。
風すら裂く一撃。レッドライダーの頭蓋が、トマホークの一閃に触れるなり風船さながら弾け飛ぶ。
有機とも無機ともつかない不定形の構造が千切れ、赤い雫が鮮血のように空を舞う。
霊的な理論と肉体的な習熟の融合が、黙示の影をもう一度、こうして確かに斬殺した。
彼は呪術師だが、同時に戦士でもある。
宿敵であるジョージ・アームストロング・カスターさえそれは認めるところ。
であれば当然、釣瓶撃ちが能の機械なぞに遅れを取る道理はない。
――もし相手が通常規格の英霊だったなら、此処で戦いは決着していただろう。
断面からまたしても、赤い泡が膨れ出す。破損という概念がそもそも存在しないかのように、赤騎士は再生を開始する。
復元の最中、レッドライダーの喉笛を引き裂いて、ぬらりと新たなメタルが出現した。
突き出たのは巨大な砲身。対戦車砲――否それ以上の、文明ごと吹き飛ばす迫撃兵器。
発射。
爆音。閃光。衝撃。
世界が今一度、白に塗り潰された。
灰と炎が風に舞い、吹き飛んだ瓦礫が空を覆う。
射線上に存在したビルは敢えなく倒壊し、黒煙が巻き上がる。
……長い残響の後、白煙の中に影が立った。
揺らぐ煙を裂いて、シッティング・ブルの姿が現れる。
無傷。その身に焦げ跡ひとつなく、彼はただ静かに立っていた。
深い、聡明なる視線を湛えて健在を保っている。
「――狩魔に聞いた通りだな」
濃煙の向こう、未だ熱を帯びて荒ぶ暴風を切るようにして囁かれた声。
シッティング・ブルはその淡々とした語調の中に、しかし微かな畏れを隠さなかった。
これが赤騎士。黙示の化身。血の潮を呼び、街を塗り潰す者。
終末装置の名に恥じぬ破壊力を携えながら、定められた刻限を待たずして顕現した【戦争】。
そんな無慈悲なる異教の滅びに、まったく無感でいられるほどシッティング・ブルは怪物ではない。
目の前の風景は、現実とは思えぬほどに逸脱していた。
騎士の身体が蠢くたび、現実を破却するような光と音の奔流が吹き出してくる。
現にこうしている今も、騎士の体内という兵器庫から次々と現れる銃眼が、まるで神経節のように彼を見据えていた。
またも空が裂かれる。
ただし今度は、レッドライダーの手によって。
銃撃。秒間千発を遥かに超えるそれはもはや弾幕などではない。死の嵐そのものだった。
頭上に羽ばたく鷹の翼が空を裂き、風を呼ぶ。
純白の風が荒れ狂う銃弾の流れを逸らし、局所的な乱気流を発生させて弾道を狂わせる。
幾千の銃弾が空を食い破るたびに、時に打ち払い、時に逸らし、受け流し、シッティング・ブルは己が存在を譲らない。
大いなる神秘――ワカン・タンカ。
大自然の理。精霊の声。それと深く親しんだ者のみが知覚できる、世界を形作る見えざる秩序。
その恩寵を最も強く感じ取り、第六の感覚として手繰れるのがこの男だった。
神秘に接続した六感が、霊視の眼を開かせる。
レッドライダーの弾道、動作予測、魔力の震動を、一瞬先に読み解く。
その上で、彼は撃つ。シッティング・ブルの手には、彼にとって負の象徴(トラウマ)でもある得物……ライフル銃が握られていた。
見えない風の隙間を縫って、銃口が一閃。
放たれた銃弾が、まっすぐに赤騎士へと飛ぶ。
だがレッドライダーもまた、既に機構を展開し次弾を放っていた。
空中で激突する、ふたつの魔弾。
弾丸同士の相殺など常識では有り得ぬ。
しかし現実としてそれは起こった。
生み出されるのは壮絶な衝撃波。空気が鳴り、ビルのガラスが崩れ、地面さえ撓む。
それでも尚、騎士の肉体は変化を止めなかった。
次々と異なる武装を身に宿し、対人地雷、火炎放射器、迫撃砲――一瞬ごとに戦術を変化させる。
赤い水をごぼごぼと吐き出し、撒き散らし、飛び散らせながら今ある戦場への最適化を繰り返す"黙示録の騎士"。
一方、神秘との結びつきと持ち前の戦闘勘を活かして、防戦一方ながらも驚異的な食い下がりを見せるシッティング・ブル。
彼は第一陣の防衛線として出陣する前、悠灯達共々、狩魔から港区の出来事と眼前の騎士の性質について伝え聞いていた。
情報の出どころは言うまでもなく山越風夏だろう。あの奇術師はシッティング・ブルをしてまったく正體の読めない怪人だったが、だからこそ彼女が提供する話には常識では考えられないほどの価値がある。
これが――"人を滅ぼすもの"。
周鳳狩魔が語った、"災厄そのもの"。
その事実を、シッティング・ブルは魂で受け止めていた。
彼は動じぬ瞳で、次の一手を選ぶ。
淡々と、粛々と。国も大陸も違えど、同じ大地の上で生きた人間として。大いなる神秘の代弁者として。
――逃げる。それがこの瞬間、最適にして唯一の選択と判断した。
霊獣を通じて分析した経路を辿り、シッティング・ブルは街並みを縫うようにして退いていた。
撤退とは敗走ではない。次なる布陣を整えるための戦術的転進だ。
恥じることなどどこにもないし、それを気にする誇りなどとうに膿んでいる。
その背後に、【赤】が迫る。
粘つく赤い水を滴らせながら進む姿は、まさしく滅びの預言そのものだ。
尚も食い下がる霊獣どもを物理的に吹き散らしながら、兵器群が甲高い金属音とともに姿を見せる。
対人、対戦車、対要塞――あらゆる規格に適応した兵装の群れが、シッティング・ブルを八つ裂きにするべくその銃口を向けている。
コヨーテが足元を駆け、グリズリーが朋友(とも)の背を預かる。
鷹と鷲が夜風を裂いて舞い、地を這う蛇は弾幕をすり抜けながら敵影の一挙一動を探り続けている。
強靭な突進力を持つバッファローの群れが深夜の街通りを埋め尽くし、霊気と共に突進しては騎士の進軍をわずかでも押し留めるべく粉骨砕身の働きを為す。
――――開戦(ドゥームズデイ・カム)。
銃砲、ミサイル、火炎放射器にマスタードガス。
兵器達が咆哮を上げる。あらゆるカタチの破壊が、旧時代の神秘を薙ぎ払おうと迫る。
しかし霊獣たちもまた、ただの幻ではない。
コヨーテは跳ねるように弾丸を避け、隙を突いて脚部を狙う。グリズリーが負傷などものともせずに咆哮とともに迫り、兵器の砲身を殴り砕く。
勢いのままに赤騎士へ剛撃を叩き込んだが、嘲笑うように赤い水が弾けた。
血ではない。破壊と再生を繰り返す、呪いの血糊だ。飛沫はすぐにまた形を整え、神を冒涜するかのような姿の騎士が復元される。
霊獣は力強い。だが彼らも無限に呼び出せるわけではない。
少しずつ、されど確実に、シッティング・ブルは詰み始めていた。
有限と無限。如何に役者が優秀なれど、比べ合うには相性が悪すぎる。
赤騎士の腹が、ヤドリバエに食い破られたバッタの腹のように惨たらしく裂けた。
そこから解き放たれるのは、大型トラックほどもある巨大なミサイルだった。
超音速、超高推力。英霊規格に強化されたそれは、同族に向けるにしても明らかな過剰火力だ。
火力で言うなら、対城宝具の域へ優に到達していよう。
――熱。
――衝撃。
――そして音。
夜を包むはずの静寂が、一瞬で跡形もなく消し飛んだ。
着弾点を中心に街並みは音を立てて砕け、風景そのものが蒸発したかのような光景が広がる。
硝煙と火霧。超常と兵器の狭間で何もかもが均され、生命の残る余地はそこにない。
やがて、霧が晴れる。
そこに――――立っているものがいた。
レッドライダーは空洞の目を向ける。
焦点を結ばぬ無形の赤い眼窩が、やがて一つの影を捕らえる。
いたのは、シッティング・ブル……ではなかった。
焼け焦げたアスファルトの上、風の中、そこに立っていたのは。
北京原人に似た顔をした、ひどく醜い少年だった。
みすぼらしい少年だった。
全身は煤け、髪は荒れ、眼光はどんな野獣よりも昏い。
だが何より不気味なのは、やはりその顔貌だろう。
滑らかさを欠いた骨格。過剰に発達した眉弓と、粗雑に削り出したような面構え。
それはヒトではありながら、現行の人類とは似つかない醜さを湛えていた。
レッドライダーは静かに腕を上げた。
赤い躰から咲き誇るように生える機銃群は、いずれも戦場で血を吸い、骨を穿った人類の叡智の結晶だ。
高速回転する銃身はただちに熱を帯び、殺意を伝えるべく標的に照準を合わせる。
対象はひとり。眼前の"原人"である。
「滅ビヨ。コレゾ預言ノ成就デアル」
銃口が並ぶ。
発射された殺意が、すべてを撃ち抜かんとする。
――だが、その瞬間。
金属の軋む音が途切れた。
機銃は回転を止め、砲身がぐらつき、まるで骨のように砕けていく。
鋼が錆びた鉄屑に成り果て、自分が数万年前の忘れ去られた遺物だったことを思い出したかのように、その場で崩壊した。
「………………?」
レッドライダーの口から、奇妙な音が漏れた。
それはなにか、想定しなかった未知と直面した存在の、純粋な"驚き"だった。
騎士の崩れる兵装を、少年はまじまじと見つめる。
その顔が、歪んだ。
にたぁ、と、笑った。
酷く、醜く。
人相の美醜を除いても決してヒトの枠組みには収まらないだろう、異様な、汚濁のような笑み。
ヒトの顔と呼ぶには余りにも原始的で、卑屈で、反知性主義の結実めいたアルカイックスマイル。
そんな悍ましい顔をして――――覚明ゲンジはそこに立っていた。
◇◇
周鳳狩魔の予測は的中していた。
悪国征蹂郎は、必ず初手からレッドライダーを戦線に投入してくる。
六本木を短時間で焦土に変え、情報を信じるなら大量破壊兵器に匹敵する武装も所持しているサーヴァント。
そんなカードを温存しておく理由は、まったくと言っていいほど思いつかない。
耐えて耐えて土壇場で秘密兵器を出すよりも、最初から開帳して敵の戦力を削りながら恐怖を与えた方が理に適っているからだ。
それで自分達(デュラハン)が戦意喪失とまでは行かずとも、士気減退して総崩れになってくれれば儲けもの。
大袈裟でも何でもなく、初手の戦果だけで勝敗を決せる可能性すらある。
そして悪国の性格上、奴は叶うなら自軍の戦力を失いたくない筈。
何せ末端の構成員ひとり惨殺された程度で怒り心頭になって、こんな決戦を持ちかけてくるほど身内への義憤に溢れた男なのだ。
最小限の犠牲を理想としているのは間違いない。なればこそ、レッドライダーを動かしてくるのは確実視された。
よって狩魔は防衛線としてキャスター・シッティングブルを配置。
進撃する赤騎士を押し止めつつ、その強さが実際にどの程度のものか見極めるという択を取った。
更に、狩魔が的中させた読みはもうひとつある。
レッドライダーを投入はしても、六本木で用いたような規格外の火力までは抜いて来ないだろうという憶測だ。
サーヴァントとはそれこそ兵器のようなもので、よほどの例外でもない限りエネルギー……魔力抜きでは動かせない。
普通に戦わせるだけならいざ知らず、宝具の開帳など大掛かりなことをやれば、やらかした無茶に合うだけの出費を求められる。
都市の一区画を文字通りの焦土に変えられるような力を用いておいて、まさか負担がゼロだなんて話はなかろう。
恐らく、悪国征蹂郎にとって六本木の一件は試運転。
自分の英霊が実際どの程度やれるのか確かめるために、あえて動かしたのだろうと狩魔は思っている。
であれば悪国は既に、レッドライダーを無計画に動かせばどうなるのかを知っている筈。
是が非でも自分達に勝ちたいあの男が、いきなり余力を全部吐き切らせる無茶はすまい。
初手の削りの重要性は先に述べた通りだが、臆さず仕掛けるのと後先考えないのとではワケが違う。
そして実際、今回聯合の赤色が繰り出した兵器は今のところ"たかだか"ビルを吹き飛ばす程度。
十分すぎるほど破格ではあるものの、せいぜい並の対城宝具の域を出ない破壊力だ。これなら勝負は成立する。
「……やっぱ凄いっすね、狩魔サンは。全部読み通りじゃないですか」
現在の戦場から遠く離れた、デュラハンのフロント企業が複数入った雑居ビルの屋上で。
隣に立ち、双眼鏡で戦場の様子を見つめる華村悠灯に言われ、狩魔は煙草片手に呟いた。
「此処までは前提みたいなもんだ。こんなところでコケてたら勝てる抗争も勝てねえよ」
狩魔は戦いに矜持(プライド)を持ち込まない。
すべては殺すか殺されるかであって、自負だの流儀だのは等しく動きを縛る邪魔な枷。
重要なのは主観ではなく客観的事実。人間は簡単に嘘を吐くが、データはいつでも正直者だ。
故に彼は、ごく当たり前の事実として理解していた――額面だけを見るなら、劣勢なのはこちらであると。
「あの不死身野郎もそうだが……聞く限り、聯合の協力者は相当な切れ者らしい。
お前もアレの変人ぶりは知ってんだろ? そんな変態が大真面目に警戒を促すような野郎が、何企んでんだか、悪国の顧問をやってるんだ。安心できる理由がない」
悪国側も、六本木でやったような真似はそうそうできない。
それに加えてこちらには秘密兵器がある。ともすれば、レッドライダーに比肩し得る鬼札だ。
想定以上の仕上がりを見せてくれた彼らの活躍次第では、戦力面の格差はかなり縮められるかもしれない。
が、だとしてもまだ問題は残っている。
〈はじまりの六人〉のひとり。都市の根幹に通じる者。極悪なる虎の存在だ。
「ノクト・サムスタンプ――でしたっけ」
「お、よく覚えてんじゃねえか。俺はファーストネームしか覚えてなかったよ」
「え」
「外人の名前覚えんの苦手なんだわ。サムスって言われても、スマブラのアイツしか思い浮かばねえもん」
「……狩魔サンスマブラなんてやんの? 今日イチの驚きなんすけど」
「やるよ。持ちキャラはカービィな。カフェの抽選落ちまくって本気で落ち込んだわ」
狩魔は戦術家ではあるが、策士ではない。
彼自身それを自覚している。
草野球のエースとプロ野球の四番では話も格も違う。
故に敵方の頭脳――ノクト・サムスタンプが本格介入し始めるまでは前座だと狩魔は踏んでいた。
とはいえだ。
前座とはいえ戦争は戦争。
そこで魅せる結果に意味がない筈もなく。
「それより始まるぞ。しっかり見とけよ、悠灯」
狩魔は隣の少女へ、兄のようにそう促す。
これから起こることをよく見ておけと。
告げて、自分が開花させた/破壊した少年の躍る舞台を指差すのだ。
「ちゃんと見てねえと、いざって時に殺せねえぞ」
聯合の秘密兵器がレッドライダーならば。
デュラハンのそれは、間違いなく"彼"だ。
最初に邂逅した時から、狩魔は彼がそう成ることを確信していた。
だから育てた。迷いに答えを与え、燻っていた黒い衝動にガソリンを注いでやった。
すべての過程は、今この時のために。
これより戦場、新宿の街で――〈神殺し〉が産声をあげる。
◇◇
街が静寂を取り戻したかに見えた刹那、今度はそれが異様な重さを帯びていく。
ビルの崩れた瓦礫の隙間。
排気ガスで煤けた下水道の入口。
看板の裏、信号機の上、路地裏の陰影――都市のあらゆる裂け目から、それらは静かに現れ始めた。
足音すらなく、あたかも元々そこにいた生物であるかのように。
無数の人影。だが、それはいずれも現代の人類ではなかった。
逞しく盛り上がった胸郭、短く頑強な四肢、隆起した眉と平たく押し潰された鼻梁。
岩肌の彫像のような肉体に、原始の呼気が宿る。毛皮に包まれた肩から伸びる手には、それぞれ石器が握られていた。
加工の痕跡すら素人目に見ても粗雑な、殴打という本能の延長にある道具が。
――ネアンデルタール人。ホモ・ネアンデルターレンシス。
歴史から消えた筈の原始の申し子達が街のあらゆる裂け目から這い出し、【赤】の支配する戦場に大挙する。
歓声も叫びもあげることなくただ静かに、しかし確かな殺意を孕んで。赤騎士の前に、太古の軍勢が出現した。
その群れに守られたゲンジの姿は、まさしく理性の光を拒む異端そのものだった。
瓦礫の街にひとり立ち、肩を揺らして笑うその顔。
醜悪に歪んだ口元から覗くのは、まばらで黄ばんだ歯。
汚れに染まり、研磨の行き届いていないことが一目で分かるそれは、まるで清潔が支配する今の時代そのものを嘲笑うようだ。
原初の暴威を統べるのは、少年の皮を被った異形。
太古の影を侍らせて立つその姿には、神秘でも怪物でもない、ただ純然たる"拒絶"があった。文明そのものへの、原始的とも呼べる拒絶が。
「――――愚カシイ」
レッドライダーの発する言葉に、微かな憤りが覗いた気がした。
これは人類を滅ぼす者。預言のままに、然るべき役目を果たす機構。
空洞の眼窩に、確かに瞳と呼ぶべき螺旋を描いて。
赤き騎士が見つめるのはゲンジではなく、その従僕たる原人達だった。
主神(ガイア)の怒りを体現する被造物が滅ぼすのは増長しきった霊長とその文明である。
にも関わらず、今目の前に立ち塞がっている奴らは何か。
彼らは旧い時代の遺物達だ。慎ましくも雄々しく、罪業とは無縁の営みを送っていた弱き者達。
ネアンデルタール人の信仰は原始的で敬虔だが、これはヒトの敬虔さに報いない。
何故なら、黙示録の騎士とは装置であって、聖者などではないからだ。
慈悲という報いではなく、ただ応報のみを届けるからこその終末装置(アポカリプス)。
あるべき預言の時を歪める"過去の人"達に不興を示しながら、騎士は体表を泡立たせる。
〈この世界の神〉とすら互角以上の戦いを成り立たせる、人類史という武器庫の開門だ。
無論、石器などを頼みの綱にしている原人どもに対処できる火力ではない。
核兵器など用いずとも、機関銃のフルオート射撃だけで彼らを鏖殺するには十分すぎるほど事足りる。
だが――
「はは、は……どうしたよ、おい。随分不細工だなぁ……?」
先ほどの出来事を再生(リピート)するかのように、再度の不条理が赤騎士の暴虐を挫いた。
自らの身体を槍衾に変えて生み出した機銃、短銃、砲口のすべてが刹那にして錆び付く。
それどころか不出来な石器のようにひび割れ、ぱらぱらと粉塵を零しながらひび割れていく。
弾丸は発射すらされない。引き金を引く音だけが虚しく、かちゃ、かちゃ、と連続していた。
「無駄、だよ」
そして次の瞬間、レッドライダーの頭蓋に穴が空いた。
ネアンデルタール人の投石が直撃し、脳漿さながらに赤い血糊を飛び散らせる。
"過去"の原人が、"未来"にやって来る終末へ否を唱えた。
もはや冒涜にも等しいだろう偉業を見届けながら、覚明ゲンジは悍ましい顔で破顔する。
「おまえじゃ、おれたちには、勝てやしない」
『霊長のなり損ない』。
サーヴァント・ネアンデルタール人が持つスキルだ。
その効力は、あらゆる文明と創造行為の否定である。
中期旧石器時代を基準とし、強引に設定を合わせる原始人の呪い。
銃や砲など"かれら"の時代には存在しないのだから、であればすべては無価値な棒や粗雑な石細工に置き換わるのが道理。
レッドライダーがどれほど凶悪な兵器を識っていて、なおかつそれを取り出すことができたとしても、ネアンデルタール人の存在はそのすべてを片っ端から無為にしていく。
周鳳狩魔の推測した通り、レッドライダーは此処へ投入されるにあたって、六本木で用いたような過剰火力の使用を制限されていた。
だが仮にその事情がなかったとしても展開は同じだったろう。核兵器。衛星兵器。摩訶不思議な機械兵器や生物兵器。いずれも"彼ら"の時代には存在しない。
原初の戦争とは石と棒による比べ合い。そこには街を消し飛ばす大火力はおろか、音速で敵を穿つ弾丸さえ介在する余地がない。
――もっとも実際は、ゲンジが思っているほど単純ではなかった。
ネアンデルタール人の呪いにはいくつかの例外がある。
高ランクの神性、カリスマ。文明の発展に関わるスキル。
これらを持つ者は原始の世界に対抗でき、そしてレッドライダーは最後の条件を満たせる英霊だ。
『星の開拓者』。戦争こそ人類を最も進歩させた営み。その擬人化たる赤騎士がこの号を持たない理由はない。
であれば原人の世界観はただちに否定され、未来文明の暴力に蹂躙されて散るのが道理。
なのに何故赤騎士は不細工な創造を強いられ、足を止めているのか。
彼はあくまでも人類史の集大成、集積された情報を再生するレコードのようなものであり、実のところそこに一切の創造性はなかった。
自動拳銃を開発したのはサミュエル・コルト。ダイナマイトを発明したのはアルフレッド・ノーベル。
原子爆弾開発を主導したのはJ・ロバート・オッペンハイマー……赤騎士は名だたる才人達の"成果"を引き出し、自らの宝具として行使する。
想像を絶する芸当であることは言うまでもなく、故に赤騎士が持つ『星の開拓者』のランクはEX。規格外を意味する外れ値だ。
されどその一点が、中期旧石器時代(ネアンデルターレンシス)の呪いが滲み入る隙になった。
あくまで機構であるレッドライダーは言うなれば一体の、途方もなく巨大な機械のようなもの。
戦争を呼び出し、取り出し、使う神の機構(システム)。これ自体が『霊長のなり損ない』の効果対象であると、石世界の呪いは言っている。
だからこそ起きた番狂わせ。霊長のなり損ない達が布く法則と赤騎士の戦場は、今まさにせめぎ合いの渦中にあった。
「殺せ――――バーサーカー」
ゲンジの号令と共に、ネアンデルタール人の群れが影の波となって襲い掛かる。
棍棒、槍、投擲武器に槌。多種多様な武器はしかしそのすべてが石。
鉄ですらない旧時代の遺物達だが、今まさに塗り潰されつつある【赤】を相手取るならこれでも十分。
「■■■■■■■■――――!!」
原人達は皆狂暴な野猿のように猛り狂っている。
彼らの単純な脳構造はレッドライダーの〈喚戦〉の影響を実に受けやすかったが、それもこの状況ではむしろプラスに働いていた。
いわば狂化の二重がけ。一体一体では貧弱なステータスを喚起された戦意で底上げし、目の前の獲物を狩り殺すドーピングに変える。
恐れはない。ひとりなら怖くても、ふたりなら怖くない。それでもまだ怖いならもっと大勢になろう。
みんなで挑めば、何が相手でも怖くない――"いちかけるご は いち(One over Five)"。束ねられた矢の強さを、原人達は誰より知っているから。
更に――
原人達の突撃を彩るように、指笛の音が響く。
瞬間、現れたのはまたしても獣の群れだった。
シッティング・ブルの霊獣。鷹が、鷲が、バッファローが、コヨーテが、次々と現れては原人達をその背に乗せていく。
彼らは霊獣、人類が繁栄する遥か以前からこの地球に在る"大いなる神秘"のひとかけら。
ある意味では原人達以上に野生の存在だから、彼らに触れようと知能も強さもわずかほどさえ劣化しない。
仮に呪いの全解放……ネアンデルタール人の第二宝具が展開されたとしても、霊獣達は何の問題もなく"零"の大戦に適応するだろう。
野生の原人と、大自然の神秘。周鳳狩魔の仕込んだ防衛線は、恐ろしいほどの相性を実現しながら獰猛な侵略者を獲物に変えていた。
(これほどか)
シッティング・ブル自身もまた鷲の背に騎乗しながら、彼は戦慄にも近い感情を覚えていた。
狩魔の辣腕に対してではない。今、自分が轡を並べて戦っている原人達。彼らを従える、醜い顔の少年へ向ける畏怖の念だった。
(恐ろしい。強い者、狡猾な者、許し難い者……様々な戦士を見てきたが、これほどまでに――)
――これほどまでに不気味な者を見たのは、初めてのことだ。
人の形に、猿に似た顔。卑屈さの滲む言動は小動物のようでさえあるが。
今やそんな特徴すら、内に眠る悍ましいナニカを誤魔化すための擬態に思える。
羽に目玉模様を浮かべた巨大な蛾。草花に溶け込んで獲物を待つ蟷螂。
いや、もっと下だ。もっとずっと下、人が営みを築く大地の更に下の下の下の下の……
「…………奈落の、虫」
遥か奈落の底で口を開け、美しいものの墜落を待つ蟻地獄。
シッティング・ブルは、覚明ゲンジをそういうものだと認識した。
周鳳狩魔が見出し、開花させた破滅の可能性。
思うところがないではなかったが、義だの情だのを戦争に持ち込む段階は過ぎている。
すべては己が理想、悲願を成就させるため。
壊れた心の内から滲出する液体を泥の接着剤で塞ぎながら、大戦士もまた【赤】を討つべく空を翔けた。
◇◇
「本当にどこまでもブッ壊れられる奴ってのがたまにいるんだ」
周鳳狩魔は、煙草の二本目に着火しながらそう言った。
今まさにレッドライダーが猛攻を激化させているところだというのに、そこに焦りは微塵も窺えない。
かわいがっている後輩に訓示するような口調と、声色だった。
「ゲンジはそれだよ。今こそ俺の指揮下にいるが、いずれ手の付けられない怪物になる」
覚明ゲンジは狩魔に懐いている。
路傍の捨て犬だった彼を拾い上げたのは、他でもない狩魔だ。
この男に拾われて、ゲンジは初めて居場所を手に入れた。
だから今もああして、恩人である狩魔のために粉骨砕身戦っているのだ。
なのに当の飼い主は、自分を慕う彼のことをこうして冷淡に語る。
別人のようだと悠灯は思った。事あるごとに後輩を気にかけ、助けてくれる面倒見のいい先輩というイメージと、今の狩魔の姿がどうしても似つかない。
「卑屈なツラして、心の中じゃずっと牙を研いでるんだ。今までも、これからもな。あいつに首輪を付けることは誰にもできない」
「……、……」
「だからお前も、命ある内に考えとけ。あのバケモノをどう殺すのか、どうやって切り捨てるのか。じゃないといつか、お前もあいつに喰われるぞ」
「……そんな言い方、なくないですか。今あいつ、狩魔サンのために戦ってるんすよ」
悠灯は眉を顰めて抗議する。
最初は得体の知れない、不気味な奴だと思っていた。
初対面でいきなり仕掛けてきた、いけ好かない野郎だとも。
でも言葉を交わし心を通わせたことで、いつの間にか彼に対してもそれなりの仲間意識が生まれていたらしい。
信頼する先輩の口から、そんな彼を厄介者のように呼ぶ言葉は聞きたくなかった。
だが狩魔は悠灯の方を見ることもなく、わずかな沈黙を挟んでから続ける。
「ゲンジだけじゃねえよ。俺だってそうだぞ」
「……、」
「俺達は今こそ同じチームでやってるが、それは決して永遠じゃない。
お前が俺のために命を捧げて、最後まで仕えるってんなら別だけどな」
忘れてはならない。
これは、抗争である以前に聖杯戦争なのだ。
生き残りの椅子はひとつ。願いを叶える権利もひとつ。
その過程で築く関係性は一時のつながりに過ぎず、いつかは必ず決裂という形で終わりを迎える。
それこそ、命を賭して/願いを諦めてでも相手に尽くす気概を持った異常者でもない限りは。
「お前らは可愛い後輩だ。だから面倒も見るし、困ってれば助けてもやる。
でも俺の命とお前らの命が天秤にかけられたなら、俺は迷わず自分を選んでお前らを殺せる」
曰く、指先と感情を切り離して行動できるのは、稀なる才能であるという。
周鳳狩魔は、それができる人間だった。
だから彼は誰でも殺せるし、どんな非道にも顔色を変えず手を染められる。
彼に殺せない人間は存在しない。たとえ付き合いの長い悠灯が相手だったとしても、取るに足らない敵ひとりと同じ感覚で殺すことができる。
「お前、永くねえんだろ」
「おたくのバーサーカーから聞いたんですか」
「多少な。でもツラ見てれば分かるよ。先のある人間の眼じゃねえ」
――『君に限って言えば、多少急いだ方がいいかもしれない』。
――『保ってあと数日ってところだろう。君の終わりは、きっと糸が切れるように訪れる』。
――『今のままではいけないよ、悠灯。明日に辿り着きたくば、君はいち早く"何者か"にならなきゃいけない』。
〈脱出王〉の言葉が脳裏にリフレインする。
この言葉を思い出すと、いつも胸が苦しくなった。
身体のことを知られているということは、つまり祓葉と交わしたやり取りも筒抜けなのだろう。
こんな状況だというのに、それはなんとも言えず気恥ずかしいものがあった。
取る手は決めた。後悔はしていない、筈だ。とりあえず、今のところは。
狩魔は、あえてそこについて言及することはしなかった。
面倒見がいいが踏み込みすぎない。彼のこういう部分も、野良犬だった自分が心を許せた理由なのかもしれない。
そう、華村悠灯もまた野良犬だ。
都会の隅に打ち捨てられた、孤独と怒りを抱えて生きる獣(ジャンク)。
ゲンジと悠灯が違うのは、彼は悠灯を置いて、さっさと何者かになってしまったこと。
たとえそれが悍ましい怪物のようなカタチであろうとも……ゲンジは今幸せなんだろうなと、悠灯は思う。
「狩魔サン。アタシね」
とくん、とくん。
慣れ親しんだ心臓の鼓動が、日に日に小さくなっている気がするのは錯覚だろうか。
最近は息切れもしやすくなってきた、気がする。
終わりは近い。山越に言われるまでもなく、死神の気配はずっとどこかで感じてた。
ただ、それを見ないようにしていただけで。
「死にたくないんすよ。笑っちまいますよね」
悠灯は言った。
「ずっと探してた。生きることは無駄だって確かめたくて」
生きるに値しない、その烙印を求めていた。
けれど待ち望んでいた答えはそこにはなくて。
あったのは真逆の渇望。現実になった終わりがようやく、ゴミの中に隠された本当の心に気付かせてくれた。
「荒れて、暴れて。気付いた時にはにっちもさっちも行かなくなってて」
〈脱出王〉曰く、自分は何者でもないのだという。
こんなに願ってもまだ、この舞台で価値を示すには足りないというのか。
気の遠くなる話だった。でも、噴飯ものの侮辱に今じゃ心の底から納得が行く。
あの白い少女と比べたら、自分などさぞかしちっぽけなガラクタだろう。
それでも生きている。生きていく。死にたくないから。生きるしかない。
――覚明ゲンジは、生きる"目的"を見つけた。
――じゃあ、自分(アタシ)は?
「こんなところに流れてきても、まだ下向いてる」
は、と笑った悠灯に。
狩魔は紫煙を燻らせながら、口を開く。
「いくつだっけ? お前」
「……十七」
「ならそんなもんじゃねえの? 十七なんてケツの青いガキだろ。命がどうとか考える歳じゃねえんだから」
「――狩魔サンって、結構デリカシーないトコありますよね」
「なんだよ。女扱いされたいタマには見えねえぞ」
「ほら、そういうとこ。まあそれは事実ですけど」
既に戦争は始まっている。
だというのに、それを微塵も感じさせないやり取りだった。
傍から見ればガラの悪い先輩と、ワルにかぶれた学生という構図にしか見えないだろう。
悠灯はなんだか可笑しくなってしまった。
この人のことは、信用している。
でも、"いい人"だと思ったことは一度もない。
彼の身体からはいつも暴力の匂いがしていたし。
さっきだって、いつかお前も殺すと殺害予告をされたようなものだ。
だろうな、と思った。
なのにそんな相手のことを、今もまったく嫌いになれない。
此処にゲンジがいないことが、なんだか無性に惜しく感じた。
「ま……、俺の言ったこと、心の片隅にでも置いとけ。説教は趣味じゃねえからな、二度は言わねえよ」
言いながら、狩魔はスマートフォンを取り出した。
来ている通知は一件。メッセージングアプリの通知だった。普通のものより機密性が高く、裏社会の住人からは重宝されている。
「そういや、さっきは言わなかったけどな」
首のない騎士の団長が、画面に指を躍らせる。
「――――俺も死にたくはねえんだよ。だから敵は、その都度キッチリ潰すことにしてんだ」
『 作戦開始だ。皆殺せ、ゴドー 』
◇◇
風の音が微かに止んだ。
男たちはただ黙って、今の今まで弱音を吐いていたことを誤魔化すのも忘れ前に立つ異邦の騎士を見上げていた。
ゴドフロワ・ド・ブイヨン。歴史の彼方より召喚されし、聖地を制圧せんと剣を掲げた十字軍の先達。
その背筋は凛と伸び、金髪は月光を帯びるように輝いていた。
狩魔の付き人。デュラハン最強の暴力装置。物言いも振る舞いも気安いが、どこか得体の知れない迫力のある男。
彼はしばし、これから率いる兵士達の顔を見渡した。
怯え、緊張し、それでも歯を食いしばっている者。
叱責を恐れるように、弱々しく視線を泳がせている者。
撤退を進言したいが度胸はなく、口をまごまごさせている者。
ゴドフロワは、彼ら一人一人の瞳へ静かに視線を落とし、やがて穏やかな声で語り始めた。
「この戦いに、意味はあるのか――そう思っている者もいるでしょう。
暴力に暴力を重ねて、血で血を洗う果てに、残るのは自分達の死体かもしれない。
そんな戦いに命を懸けて何になる。今すぐにでも退き、すべて忘れて元の暮らしに戻るべきなのではないか……」
語調は柔らかかったが、その言葉はひとつひとつが石のように重く、故に鋭く聴衆の胸を打った。さながら咎を暴く聖者の説法のように。
ゴドフロワが更に一歩、皆の前に進み出る。
「実はね、私も最初は恐れたものです。
初めての出撃の前夜は震えが止まらなかった。食事はおろか、水さえ喉を通らず何度も吐き出しましたよ。
思わず私は己に問いました。剣を振るう意味を。なぜ戦わねばならぬのか。神は何を望まれているのか……」
彼の眼差しは遠い戦場を見ていた。
聖地への進軍。砂と血と祈りが混ざり合った、いつかの記憶。
しかしすぐに彼の視線は現在に戻り、鋭く兵たちを見据えた。
「答えはひとつではありません。何故なら正義とは多面である。
殉ずる教えの解釈にさえ人は割れるのですから、そこを確定させるなどできる筈もない。
でも唯一確かだったのは――何かを護り、勝利するためには、己自身が率先して立たねばならぬということ」
風が吹き抜ける中、ゴドフロワの声は力を帯び始める。
誰もが息を呑み、静かに耳を傾けた。
「ここに集ったあなた方は、ただの無頼者ではない。
弱き者を脅すだけの徒党ではない、少なくとも今は。
己の信じるもののために立ち上がる、素敵な資格を持つ者たちだ」
その言葉に、何人かの眼差しが揺れた。
「私がここに来たのは、力を貸すためではありません。導くためでもまたない。理由はひとつ、あなた方と共に戦うためだ」
彼は胸に手を当て、重々しく誓いを立てるように声を続ける。
「今宵私はこの剣を、あなた方の誇りのために振るいましょう。
臆することはない。私はこの身を以て、地獄の底に至るまであなた方の盾となろう」
その瞬間、空気が変わった。
たった一言で、たった一人で、ゴドフロワは此処に充満していた不安と恐怖を一蹴したのだ。
「敵は凶暴で残虐だ。悪魔の如く獰猛で、異教徒の如く強大だ。
それは疑いない。だが理なき力とは脆いもの。互いの大義の差はすぐに、必ずや目に見える形で顕れましょう」
男たちの目の色が次第に変わっていく。
怯えの色が引き、代わりに心の奥に潜んでいた何かが、ゆっくりと姿を現していく。
闘争心。原初の野生。狩魔やゴドフロワが、"狂気"と呼んで重用するもの。
「見せてやるのです。力とは奪うためでなく、誇りを守るためにあるのだと。そして人の誇りとは、恐怖を前にしても消え去らぬのだと」
彼の声は今や、空間の全体に響き渡るほどに強くなっていた。
誰もが背筋を伸ばし、拳に力を込め、無言で頷く。
恐慌を顔に浮かべていた、どこにでもいるありふれた"人間"達が。
首のない――恐怖を知らない、"騎士(デュラハン)"へ変わっていく。
その様を見ながら、ゴドフロワ・ド・ブイヨンは、見惚れるような微笑(かお)をした。
「神は願われる。私ではなく、私達が信じた正義を。故にこれから、あなた方の手で掴み取れ。私の剣はその先陣となりましょう」
応、応、応、応!!
誰かが叫んだ。呼応するように、聖戦を前に猛る聲が広がって反響する。
恐怖が拭い去られてまっさらになった場を次に支配するのは、喚起された戦意だった。
刀凶の蛮人何する者ぞ。討ちてし止まん、討ちてし止まん。殺せ、殺せ、皆殺せ。
我らはデュラハン、首のない騎士。東京の覇権は我らと周鳳狩魔にこそ相応しい。
此処は騎士の王国。それを不法に占拠し、王を気取る冒涜者がいるというのなら。
殺せ、殺せ、奪え、奪え。抗争だ、戦争だ。奴らのすべてを奪い取れ。奴らのすべてを踏み躙れ。
この旗の下に、あまねく敵を抹殺するのだ。
「さあ、共に参りましょう」
工場跡に一斉に鳴り響く、装填の音。
先ほどまでの鬱屈が嘘のように、誰もが迷いなく銃を取り、構えを定めていた。
金の髪を風になびかせ、ゴドフロワ・ド・ブイヨンはゆっくりと歩を進めた。
彼の背に、幾十もの命が続いていく。
「――――開戦です。皆で元気に、野蛮な異教徒を滅ぼしましょう」
ゴドフロワ・ド・ブイヨンは、カリスマのスキルを持たない。
十字軍を率いた聖戦士ではあれど、そこに歴代の英雄達のような類稀なる求心力はなかった。
彼にあったのは、ただ血湧き肉躍らせる狂気(つよさ)。
大義の奴隷として粛々と、時に揚々と、為すべきことを為す。
必要ならばなんでもできる。男も女も、母の腕に抱かれた幼子も、誰でも殺す。
その圧倒的な狂気は、時に伝播する。ただでさえ戦場とは生死の狭間、誰もが殺意と恐怖の間で揺られる空間なのだ。
そんな非日常の只中において――ゴドフロワという狂戦士(バーサーカー)は、恐ろしくも美しい花であった。
彼は魅力ではなく、狂気で他人を沸き立たせる。
何よりたちが悪いのは、彼自身もそれを自覚していることだ。
何かを護り、勝利するためには、己自身が率先して立たねばならぬ。
そんなこと、ゴドフロワは微塵も考えていない。
考えたこともない。彼はいつだって、必要なだけバルブを開いてきただけだ。
そうやって狂気という水を、これまた必要な分だけ引き出せばいい。
ヒトはどこまでも目的のために残酷になれるのだから、これを利用しない手はないとゴドフロワは思っている。
死地に向かう恐怖に慄き、"正しい選択"をしようとする若人を死の未来に誘導することもそれの一環だ。
十字軍を指揮して虐殺を働き、聖地制圧を成し遂げた偉大なる聖墳墓守護者にとって、泰平の世を生きる悪ぶった子供を操るなど造作もない。
狂気の列車の運転手として先陣を切り、ゴドフロワは首のない騎士達の王として夜を駆ける。
◇◇
夜の帳が下り切り、張り詰めた空気が満たす千代田区はその一角。
アジトとは違う、あるビルの屋上に刀凶聯合の兵隊たちは屯していた。
リーダー格の一人が缶ビールを放り投げると、薄暗い空を割って金属音が響く。
「……おい、あれ見ろ」
哨戒に立っていたひとりが、路傍の向こうから歩いてくる人影を指差した。
黒ずんだ路面を蹴って、荒っぽい足取りで進む彼らは、武装と風体からして――言うまでもなく。
刀凶聯合の不倶戴天。皆殺しを誓った敵。デュラハンの外道どもに他ならなかった。
良くも悪くも聯合らしい、緩く撓んだ雰囲気が一気に緊張とそれ以上の殺気に染め上げられる。
「飛んで火に入る夏のナントカだな。へへ、丁度いいじゃねえか」
「夏の牛だよ、馬鹿。征蹂郎クンに報告入れろ。返事あり次第即撃つぞ」
「はぁ? 何ヌルいこと言ってんだよテメェ。仲間の仇だぜ。ンな悠長なこと言ってねぇでよぉ――」
ニヤリ、と。
「"こいつ"でぶち殺しちまえば早いだろうがぁッ!」
牙を剥き出して笑うなり、聯合の一人が肩に担いだロケットランチャーのトリガーを引いた。
照準の先は言わずもがなだ。赤騎士の力で生み出された"戦争"の狂気(凶器)を、一瞬の躊躇いもなく仇の隊列へと打ち込む。
轟音。一拍置いて白煙が上がり、着弾と同時に地響きが起こる。突然の凶行に呆れたように、彼の隣の男が言った。
「うっしゃ、命中ゥ! 見ろよ、初めてにしちゃ筋良くね!?」
「馬鹿。先走りやがって、後で征蹂郎クンに詰められても知らねえぞ」
「その時はその時さ。……へへ、これであいつらバラバラになったろ。拷問とか陰険な真似するより、俺らはこういうド派手が性に合うよな」
デュラハンが非道なら、刀凶聯合はひたすらに獰猛だ。
彼らは暴れる。時も場合も考えないし、後先なんて知ったことではない。
"ムカついたから殺す"という狂った理屈が、彼らの中では大真面目に正道になるのだ。
限られたごく狭い家族(コミュニティ)の中で、煮詰め濃縮された暴力性。
ひとたび解放の大義名分が与えられれば、もはや聯合の進撃を止めることは誰にも出来ない。
そんな事実を物語るように、ロケット弾の着弾した地点からは炎と煙が上がり続けていたが……
「――あ? 何だ、ありゃ……」
続く言葉は、一瞬前までの高揚を忘れたかのような困惑だった。
爆煙の向こうから、何かが近付いてくる。いや、迫ってくる。
「お、おい――おいおいおいおい、ッ……!?」
最初は靄か幻かと思った。
爆炎に照らされ、歪んで見えるだけの視覚の錯覚だと信じたがった。
だってそうだろう。こんなものはあり得ない。ロケットランチャーを撃ち込まれて生きていることとか、そんな以前の話だ。
夜闇を切り裂いて、空中を足場のように踏み締めながら自分達の方へ迫ってくるモノがいる。
今日び怪談話でも聞かないような荒唐無稽を前にして、どれだけ蛮族を気取っても、結局のところただの人間でしかない刀凶の兵隊達はあまりに無力だった。
光の騎士。首(こじん)のない頭部。身の丈、動き、鎧の継ぎ目までも全て同一。
漆塗りの闇を晴らすほど眩いのに、その光はあまりに暖かみに乏しかった。
白熱灯の輝きに心を照らされる人間はいないだろう。これは、これらは、ひとえにそういうものと無条件に理解させる。
無機質な光輝。誰かを照らし癒やすのではなく、ただ己が厭う闇を消し去るためだけに存在するヒカリ――
「ぁ、あ……駄目だ――――逃げるぞ、お前らッ!!」
誰かが叫んだ。けれど、もう遅かった。
光の騎士が、高低差など無視して聯合の蛮人達のもとへと到達する。
手には長剣。体と同じく黄金の光で編まれたそれが、須臾の猶予もなく振り抜かれる。
次の瞬間。さっきまで高笑いしながら戦勝を誇っていた射手の肉体が、斜め一直線に割断された。
残された者達は叫び声さえあげられない。
恐怖に、ただ喉が凍りついていた。
それでも彼らもまた兵士。悪国征蹂郎という頭に共鳴した、赤き衝動に生きる者。
なんとか自失の鎖を引きちぎり、裏返った声で必死に吠える。
「撃て! 撃て撃て撃てぇッ!!」
半ば咄嗟に引き金を引き、構えていたマシンガンが火を噴く。
しかし弾丸は、騎士達の光体をすり抜けて彼方へ消えていく。
決死の反撃は、そもそも届きさえしなかった。
――騎士たちは微動だにせず、寸分たがわぬ足並みで迫るのみ。
一切の感情がない。一切の意思がない。ただ、統一された大義だけがそこにある。
故にこの後起こったことは、戦いと呼ぶにも値しないごく退屈なものだった。
単なる処理であり、虐殺だ。後に残ったのは壊れた人形みたいに千切れ、圧し切られた残骸(パーツ)の群れだけである。
「『同胞よ、我が旗の下に行進せよ(アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ)』」
亜音速で迫るロケット弾を一刀のもとに斬り伏せたことを誇りもせず、ゴドフロワ・ド・ブイヨンは小さく呟いた。
彼が呼び出した光の騎士。彼らは、聖地エルサレムの制圧を果たした第一回十字軍の再現体だ。
ゴドフロワの意思と大義だけに従い、それ以外一切の余分を持たない効率化された虐殺者達。
デュラハンの展開に合わせてゴドフロワの光剣は群れを成し、無力な兵隊をデコイにしながら迎撃に出てきた聯合兵を殺戮していく。
「狩魔のノリに合わせて言いましょうか。知恵者の真似など無駄ですよ、あなた達の拠点(ヤサ)は割れている」
悪国征蹂郎は、現在千代田区にいる。
"協力者"によりもたらされた情報(タレコミ)が、最速のカウンターを成り立たせた。
先に火蓋を切ったのは聯合の方だが、そうでなくてもデュラハンは同じやり方で仕掛けただろう。
新宿での決戦? 守るわけがないだろう阿呆が。
デュラハンには誇りだなんて鬱陶しい重りは皆無。
勝つために、取るべき手段を粛々と重ねるだけだ。
そう示すように、ゴドフロワと首無しの十字軍は千代田で聖戦を開始していた。
「あなた方は絆で戦う。家族を愛し、それを害するものを決して許さない。
素晴らしいことです。野蛮な異教徒の集団とはいえ、そこだけは正当に評価しましょう」
聯合は強い絆で繋がっている。
それこそ、ひとりの犠牲で全体が怒りに震えるくらいに。
ゴドフロワをして見事と、素晴らしいと評する美しい家族愛。
だがそれは。こと誇りなき戦いの場にあっては、これ以上ない弱点になる。
「さあ大変だ、あなたの家族が殺された。早く仇討ちに来ないと逃げられてしまいますよ」
デュラハンも狩魔のカリスマで成り立つ組織だが、聯合のそれは次元が違う。
血縁ではなく流血で結ばれた絆。故に凄まじい爆発力を持つが、その分"喪った"時の痛みは自分達の比でないほど大きい。
悪国征蹂郎は千代田区にいる。なら、そこに聯合の兵力の大多数がいるのは自明。
これを殺し、死体を餌に次を呼び寄せて殺し、まず聯合の兵隊を毟り取る。
過程上で悪国が出てきたならそれも良し。短期決戦は臨むところなのは、先刻のシッティング・ブルとの会話の通りである。
これはそのための進軍だ。
白騎士は――悪魔のような顔で、笑った。
◇◇
地と空の両方で仕掛ける徹底的な集団戦。
原始的だが、故にそこには無駄がない。
喚戦する病魔さえ戦意高揚に活用しながら、大地の戦士達は騎士狩りに挑む。
武器を封じられ、数の暴力で嬲られる状況は言うまでもなく絶望的なものだ。
ヨハネの預言が崩れる。ヒトを滅ぼすガイアの騎士は、他ならぬヒトの手によって滅ぼされ、超克される。
「――弱イ」
その安易な確信を、地獄から響くような声が短く切って捨てた。
次の瞬間、何体かの原人の頭部が爆裂するように消し飛んだ。
それだけではない。鷹の翼が千切れ、グリズリーが風穴を開けられて崩れ落ちる。
目を瞠るシッティング・ブル。彼は誰よりも早く、この現象の正体に気付いた。
「投石か……!」
銃は封じられ砲は石細工に堕した。
ああだが、だからなんだというのか。
原初の戦争を求めるならば応えてやろう。
騎士(われ)にはそれができる。
レッドライダーの全身から、音速を軽く超える速度で石が射出されている。
戦争を司る騎士が、要求された時代設定に合わせ出した結果だ。
彼が持つ規格外のスペックに物を言わせて放てば、ただの石でさえ対戦車砲並みの威力を持つ。
【赤】の戦場に嵐が吹く。
石の嵐だ。最高効率で示される、石器時代戦争(ストーンウォーズ)の最適解。
だがそれだけに留まらず、赤騎士は右腕に無骨な刃を出現させる。
黒曜石の塊だった。これを騎士は、膂力に任せて虚空へ一振り。
空気抵抗を砥石に用いて凹凸を削ぎ落とし、瞬時に大剣の形に成形された黒曜を片手に、突撃してきた原人の打撃を受け止めれば。
鍔迫り合った格好のまま足を前に出し、得物ごと圧し切ってその胴体を両断する。
バターのように滑らかな切り口で切断された原人の血飛沫を自らの赤色に溶かし込みながら、レッドライダーは静かに健在を誇示していた。
「はは…………バケモノ、だな」
思わず呟いた覚明ゲンジが、尚も嗤っているのは何故だろう。
恐怖も不安も、最初からそこにはなかった。
「そうで、なくっちゃ」
吹き荒ぶ石の砲火が掠めただけで即死するようなか弱い命。
なのにゲンジは、この状況を愉しむかのように破顔し続ける。
喜びよりも悲しみの方が圧倒的に多い、幸薄い十六年だった。
その幸福の最高値が、今まさに激烈な勢いで塗り替えられている。
過剰分泌されたアドレナリンで鼻血さえ垂らしながら、ゲンジは呪いの指揮者として預言を犯す。
片や燦然たる滅び。
片や暗澹たる滅び。
君臨する者と引きずり下ろす者。
ふたつの滅びは共に健在で、故に戦争は終わらない。
「滅ぼして、やるよ……!」
ゲンジの呪詛が、轟音の中でも確かに響いて。
そして――
「――――――――――――――――」
三者三様の戦慄が、荒れる戦場を駆け抜けた。
最初に気付いたのは、スー族の大戦士だった。
いや、正確には彼に応えた霊獣達だ。
赤騎士の暴威を前にしても、微塵も怖じ気付くことなく奮戦し続けていた野生の住人達が怯えている。
シッティング・ブルはそれを見て、そして肌を伝う寒気を受けて理解した。
何が起きたのかを。いったい何が、この新宿に踏み入ってきたのかを。
原人達が、ネアンデルタール人が震えていた。
本能がもたらす怖気であった。彼らは信仰を持たないが、原野に生きるが故に大いなるものの気配には敏感である。
彼らの主たる少年も、それを見て口角を震わせた。
ただし震えの意味が違う。前者が畏れによる震えなら、こちらは間違いなく歓喜の呼び水としての震えだった。
そしてレッドライダーは、沈黙していた。
動きを止め、原人の攻撃で乱れた輪郭を修復することも忘れて佇む。
彼の本質は無機。ガイアの怒りを体現するべく造られた、預言の使徒。
故にこの挙動は不可解だった。精密なコンピューターが、内部に紛れた一粒の砂によって予期せぬ動作をするように。
そんなありふれた誤作動(バグ)のように固まって――【赤】の騎士は、まず口を作った。
彫りのないのっぺりとした顔に浮かび上がったひとつの裂け目。それが開き、声を発する。
「――――来タカ、フツハ」
そう、来てしまった。
この都市における最大の光。
"彼女"にとって戦いとは祭り。
そして祭りとは、これを惹き付ける誘蛾灯。
赤騎士の進撃。
白騎士の蛮行。
それぞれのきっかけを経て、新宿の決戦は拓かれた。
されど。
されど。
都市の真実を知る者ならば、誰もが解っている筈だ。
あまねく前提。あまねく事情。あまねく要素。
そのすべてを台無しにできる"個人"が、この地平には存在している。
事の精微を保てるのは、彼女に見つかっていない間だけ。
もし見つかってしまえばその瞬間、すべては白き混沌の中に堕す。
よって此処からが、此処からこそが、本当の決戦の始まりと言えた。
悪国征蹂郎が始め、周鳳狩魔が応えて幕開けた新宿英霊大戦。
今この瞬間を以ってそれが、更に制御不能の領域へと加速度的に沈降していく。
神が来る。
彼女が来る。
神寂れたる混沌の子が、やって来る。
◇◇
白い何かが、歩いていた。
口笛響かせながら、高揚を隠そうともせず肩を揺らして。
るんるんと、テーマパークにでも来たみたいに足を踏み入れる。
それが持つ意味など、もたらす影響のでかさなど、まるで理解せぬままに。
光の剣を片手に携えて、無垢の化身のような娘は新宿へ入った。
何故? 楽しそうな気配がしたから。
これは遊びの気配を見逃さない。
楽しいことをしているのなら、私も混ぜてと無邪気に申し出て首を突っ込む。
あの頃のままだ。神の資格を持った幼子が、世界さえ滅ぼせる力を片手にひたすら歩く。
彼女が、侵入(はい)ってしまった。
新宿に白き神が顕れた。
この時点ですべての定石がひっくり返る。
あまねく状況はリセットされ、石と棒の戦いが始まるのだ。
――そしてこの瞬間、〈はじまり〉の残骸達もまた、己の星を認識する。
彼らは狂人。
彼らは焼死体。
焼け爛れたまま起き上がり、熱のままにそれを見つめる。
誰にもその律動を止められない。台本の破棄された舞台は、無軌道(アドリブ)のままに混沌へ堕する。
此処は針音聖杯戦争。
そしてこれはその歴史に刻まれる、第一の大破局。
「――――へへ。私も交ぜてよ、みんなで遊ぼう!」
午前0時15分34秒。
神寂祓葉、新宿区に現着す。
投げられた賽が、砕け散った。
◇◇
【新宿区・南部/二日目・未明】
【ライダー(レッドライダー(戦争))】
[状態]:損耗(中/急速回復中)、出力制限中
[装備]:黒曜石の大剣
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:その役割の通り戦場を拡大する。
0:来タカ、偽リノ白。
1:神寂祓葉を殺す
2:ブラックライダー(シストセルカ・グレガリア)への強い警戒反応。
[備考]
※マスター・悪国征蹂郎の負担を鑑み、兵器の出力を絞って創造することが可能なようです。
※『星の開拓者』を持ちますが、例外的にバーサーカー(ネアンデルタール人)のスキル『霊長のなり損ない』の影響を受けるようです。
※現在、新宿区にスキル〈喚戦〉の影響が拡大中です。
【キャスター(シッティング・ブル)】
[状態]:疲労(小)、迷い、畏怖
[装備]:トマホーク
[道具]:弓矢、ライフル
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:救われなかった同胞達を救済する。
0:来たか。"孔"よ。
1:今はただ、悠灯と共に往く。
2:神寂祓葉への最大級の警戒と畏れ。アレは、我々の地上に在っていいモノではない。
3:――他でもないこの私が、そう思考するのか。堕ちたものだ。
4:復讐者(シャクシャイン)への共感と、深い哀しみ。
5:いずれ、宿縁と対峙する時が来る。
6:"哀れな人形"どもへの極めて強い警戒。
[備考]
※ジョージ・アームストロング・カスターの存在を認識しました。
※各所に“霊獣”を飛ばし、戦局を偵察させています。
【覚明ゲンジ】
[状態]:疲労(小)、血の臭い、高揚と興奮
[令呪]:残り3画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:3千円程度。
[思考・状況]
基本方針:できる限り、誰かのたくさんの期待に応えたい。
0:祓葉を殺す。あいつに、褒めてほしい。
1:抗争に乗じて更にネアンデルタール人の複製を行う。
2:ただし死なないようにする。こんなところで、おれはもう死ねない。
3:華村悠灯とは、できれば、仲良くやりたい。
4:この世界は病んでいる。おれもそのひとりだ。
[備考]
※アルマナ・ラフィーを目視、マスターとして認識。
【バーサーカー(ネアンデルタール人/ホモ・ネアンデルターレンシス)】
[状態]:健康(残り104体/現在も新宿区内で増殖作業を進めている)、一部(10体前後)はライブハウスの周囲に配備中、〈喚戦〉、畏怖
[装備]:石器武器
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:今のところは、ゲンジに従い聖杯を求める。
0:弔いを。
[備考]
※老人ホームと数軒の住宅を襲撃しました。老人を中心に数を増やしています。
【新宿区・歌舞伎町 デュラハン傘下のビルの屋上/二日目・未明】
【華村悠灯】
[状態]:動揺と葛藤、魔力消費(中)
[令呪]:残り三画
[装備]:精霊の指輪(シッティング・ブルの呪術器具)
[道具]:なし
[所持金]:ささやか。現金はあまりない。
[思考・状況]
基本方針:今度こそ、ちゃんと生きたい。
0:身の振り方……か。
1:祓葉と、また会いたい。
2:暫くは周鳳狩魔と組む。
3:ゲンジに対するちょっぴりの親近感。とりあえず、警戒心は解いた。
4:山越風夏への嫌悪と警戒。
[備考]
【周鳳狩魔】
[状態]:健康
[令呪]:残り3画
[装備]:拳銃(故障中)
[道具]:なし
[所持金]:20万程度。現金派。
[思考・状況]
基本方針:聖杯戦争を勝ち残る。
0:皆殺しだ。
1:ゲンジへ対祓葉のカードとして期待。当分は様子を見つつ、決戦へ向け調整する。
2:悠灯。お前も腹括れよ。
3:特に脅威となる主従に対抗するべく組織を形成する。
4:山越に関しては良くも悪くも期待せず信用しない。アレに対してはそれが一番だからな。
5:死にたくはない。俺は俺のためなら、誰でも殺せる。
[備考]
【千代田区・北部アジト/二日目・未明】
【悪国征蹂郎】
[状態]:疲労(小)、魔力消費(中)、頭部と両腕にダメージ(応急処置済み)、覚悟と殺意
[令呪]:残り二画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:数万円程度。カード派。
[思考・状況]
基本方針:刀凶聯合という自分の居場所を守る。
0:皆殺しだ。
1:周鳳の話をノクトへ伝えるか、否か。
2:アルマナ、ノクトと協力してデュラハン側の4主従と戦う。
3:可能であればノクトからさらに情報を得たい。
4:ライダーの戦力確認は完了。……難儀だな、これは……。
[備考]
異国で行った暗殺者としての最終試験の際に、アルマナ・ラフィーと遭遇しています。
聯合がアジトにしているビルは複数あり、今いるのはそのひとつに過ぎません。
養成所時代に、傭兵としてのノクト・サムスタンプの評判の一端を聞いています。
六本木でのレッドライダーVS祓葉・アンジェ組について記録した映像を所持しています。
アルマナから偵察の結果と、現在の覚明ゲンジについて聞きました。
【千代田区・路上/二日目・未明】
【アルマナ・ラフィー】
[状態]:健康
[令呪]:残り3画
[装備]:カドモスから寄託された3体のスパルトイ。
[道具]:なし
[所持金]:7千円程度(日本における両親からのお小遣い)。
[思考・状況]
基本方針:王さまの命令に従って戦う。
0:さて、これから……
1:もう、足は止めない。王さまの言う通りに。
2:当面は悪国とともに共闘する。
3:傭兵(ノクト)に対して不信感。
[備考]
覚明ゲンジを目視、マスターとして認識しています。
故郷を襲った内戦のさなかに、悪国征蹂郎と遭遇しています。
バーサーカー(ゴドフロワ・ド・ブイヨン)らの千代田区侵入を感知しているかはおまかせします。
※新宿区を偵察、情報収集を行いました。
デュラハン側の陣形配置など、最新の情報を持ち帰っています。
【千代田区・西部/二日目・未明】
【バーサーカー(ゴドフロワ・ド・ブイヨン)】
[状態]:健康、『同胞よ、我が旗の下に行進せよ』展開中
[装備]:『主よ、我が無道を赦し給え』
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:狩魔と共に聖杯戦争を勝ち残る。
0:さあ、慣れた趣向と行きましょうか。
1:神寂祓葉への最大級の警戒と、必ずや討たねばならないという強い使命感。
2:レッドライダーの気配に対する警戒。
3:聯合を末端から削る。同胞が大切なのですね、実に分かりやすい。
[備考]
※デュラハンの構成員を連れて千代田区に入り、彼らを餌におびき出した聯合構成員を殺戮しています。
【新宿区・???(他区との境界線近く)/二日目・未明】
【神寂祓葉】
[状態]:健康、超わくわく
[令呪]:残り三画(永久機関の効果により、使っても令呪が消費されない)
[装備]:『時計じかけの方舟機構(パーペチュアルモーションマシン)』
[道具]:
[所持金]:一般的な女子高生の手持ち程度
[思考・状況]
基本方針:みんなで楽しく聖杯戦争!
0:やろうか!
1:結局希彦さんのことどうしよう……わー!
2:もう少し夜になるまでは休憩。お話タイムに当てたい(祓葉はバカなので、夜の基準は彼女以外の誰にもわかりません。)
3:悠灯はどうするんだろ。できれば力になってあげたいけど。
4:風夏の舞台は楽しみだけど、私なんかにそんな縛られなくてもいいのにね。
5:もうひとりのハリー(ライダー)かわいかったな……ヨハンと並べて抱き枕にしたいな……うへへ……
6:アンジェ先輩! また会おうね~!!
7:レミュリンはいい子だったしまた遊びたい。けど……あのランサー! 勝ち逃げはずるいんじゃないかなあ!?
[備考]
二日目の朝、香篤井希彦と再び会う約束をしました。
新宿区に到着しました。どの辺りに出たかは後の話におまかせします。
前の話(時系列順)
次の話(時系列順)
最終更新:2025年06月18日 23:53