新宿区内の、とある個室スタジオ。
 ラジオ収録を終えた輪堂天梨と愉快ななかまたちの姿はそこにあった。
 部屋の真ん中には腕を組んで仁王立ちし、眉間に皺を寄せた天梨。
 視線の先には退屈そうに胡座を掻いて欠伸するシャクシャインと、床に置かれたホムンクルス36号の姿がある。

「ふたりとも。正座」
「誰がするかよ」
『応えたいのは山々だが、機能上の問題で出来ない。許してほしい』
「うぐぐ……」

 天使がご立腹の理由は、言わずもがな先ほどのラジオ収録である。
 やれ実験のために我々を収録に同伴させろとか言い出すわ、大人しくしてるように言ったのに現場で妖刀を抜き出すわ。
 そんなカオスの極みのような状況でもしっかり仕事をやり遂げた天梨のプロ意識は大したものだが、内心は心臓が口から飛び出そうだった。
 あんなにスリリングな収録は生まれて初めてだった。今後更新されないことを切に祈っている。

「しかし、実際に有意義な成果を確認できた。
 天梨、御身の魅了はもはや我がアサシンの宝具にも匹敵する人心支配を可能としているようだ」
「……みたいだね。ふたりで好き勝手してくれたおかげで私もよ~~くわかったよ。あんまり嬉しくないけど」

 あわや大パニックが起きても不思議ではない状況だったが、結論から言うと無事に終わった。
 スタッフ達はホムンクルスとシャクシャインの存在を背景のように扱い、誰も彼らの言動を不自然とは認識していなかった。
 輪堂天梨の魅了魔術。同じく魅了を生業にする少女がこの都市にはもうひとりいるが、天梨のは彼女のとまったく質を異にしている。
 あちらが"支配"なら、天梨のは"色香"に近い。心を絆し、納得を勝ち取る、まさにアイドルチックな魅惑の光だ。
 悪魔・煌星満天との小競り合い以降、その輝きは格段に強まっていた。

「でもああいう人に迷惑かけるようなのはもうなし! 次はほんとに怒るんだからね!」
「小煩え女だな。まずあの箸にも棒にもかからないクソつまらんトークを聞かされた俺らに謝罪しろよ」
「はぁああぁ!? に、人気番組なんですけど! 視聴率良いって局でも評判なんですけど!!」
「ほう、あの低次元な話でそれほどの人気を。流石は我が友だ。欠点など認識もさせない輝きがあると見える」
「ほむっちさん……? 嘘だよね……?」

 じり……、とのけぞってショックを受ける天梨。
 シャクシャインは噛み殺す努力もせず、大欠伸をして気怠げな視線を隣の人造生命体へ送った。

「で? いつ来るんだよ、君の待ち人は」
『そう急くな。トラブルが起きた旨の報告は受けていない』
「あっそ。何でもいいが、時間は有限だってことだけは覚えといて欲しいもんだね」

 それはさておき――現在、天梨達がわざわざこんな場所で待機しているのには理由があった。
 アンジェリカ・アルロニカ。かねてから名前だけは聞いていた、ホムンクルス陣営の同盟相手。
 彼女達と落ち合い、会談をするためにこうして手持ち無沙汰な時間を過ごしているのだ。
 テーブルの上には此処に来る前に買った軽食が、これから来る客人達の分も並べられている。
 どうもあまりピリピリした展開にはならない相手らしいので、夕飯も兼ねつつ和やかに話せればと思って天梨が気を利かせた形だ。

(どんな子なんだろ。満天ちゃんの時はばたばたしちゃったからな……私もあの子くらいしっかりしないと)

 そうは言うものの、何しろ先の会談がアレだったので、天梨は結構緊張していた。
 シャクシャインは爆弾のようなもの。いつどこでスイッチが入るか分からないし、そうなったならマスターである自分が止めないといけない。

(満天ちゃん、すごいよなぁ……。今なにしてるんだろ……)

 思考とは連鎖するもので、ふと自分のライバルであり、友達でもある彼女のことを考えてしまう。
 未だに彼女からの連絡は来ていない。会談の結果決まったことだ。やり取りはすべて、天梨と満天のふたりの間でのみ行うと。
 けれど恐らくそろそろだろう。街がこの有様なのだ、あまり悠長に時間を空けるわけにいかないのは天梨にも分かる。

 幸い――と言っては不謹慎だが、今日起きたあちこちの凶事によって明日のスケジュールは大幅なリスケが入っていた。
 いつ連絡が来ても、恐らく予定は合わせられる。何かといいニュースの少ない天梨にとって、彼女との戦いは現在いちばんの楽しみだった。

 次は何を見せてくれるのか。
 どうやって、度肝を抜いてくれるのか。
 魅せられたいとそう思う。
 そして、それを超えて羽ばたきたいと闘志が燃える。
 勝負事にムキになるなんていつ以来だろう。
 輪堂天梨は、戦いを楽しむにはあまりにも強すぎた。
 天使の輝きは圧倒的で、挑もうと思う者がまずいなかったから――煌星満天というライバルの出現は実のところ、本人が思っている以上に大きな刺激となっていたのだ。

「ちょっと連絡してみよっかな、仕事のことじゃなくても軽い雑談とか……、……ううん、でも迷惑になるかもしれないし。だめだめ」

 ふるふるとかぶりを振って独り言を漏らす天梨に、きょろりとホムンクルスの視線が向いた。

「やや認識を改めよう。先は凡庸と評したが、起爆剤(ふみだい)としては確かに稀なるモノのようだ」
「む。そういう言い方好きじゃないな」
「であれば詫びるが、事実だ。
 あの贋物が持つ性質は爆発。一瞬の熱量でしか光を体現できない、ダイナマイトのような在り方をしている。
 爆発は衝撃波を生み、タービュランスを引き起こす。天を舞う御身の背を押す乱気流だ」

 恒星の資格者は唯一無二。
 よって、ホムンクルスが天梨以外の器を認めることは決してない。
 だが事実として、あの"対決"を経た天使の能力は無視のできない上昇を見せていた。
 真作はひとつ。後のすべては贋作に過ぎない。それでも、贋作だからと言ってまったくの無価値ではないということか。

「御身の言葉を借りて言うなら、私はあの娘のことが嫌いだ。
 先に述べたようにこの身はその類の感情を持たないが、便宜上こう表現しよう」
「……、……」
「しかし、御身とアレの勝負とやらには興味が出た。
 いや――私は天梨、君に勝利してほしいと思っている」
「それは……、ほむっちに私が必要だから?」
「半分はそうだ。もう半分は純粋に、友たる君の飛翔を見てみたい」

 天梨としてはなんとも複雑な気分だった。
 応援されるのは嬉しいが、好き嫌いとかなく自分達の結末を見届けてほしい気持ちもある。
 ただ、この無機質な友人にそうまで言わせたことの大きさは実感できる。
 そこでふと思い立ち、天梨は前々から思っていたことをぶつけてみることにした。

「ほむっちってさ」
「どうした?」
「実は結構、人間臭い性格してたりしない?」
「……私が?」

 瓶の中の赤子が、微かな怪訝を顔に浮かべる。
 それもその筈。彼は被造物(ホムンクルス)であり、しかも特に気を遣って情動を排されたガーンドレッドの飼い犬だ。
 そんな人形を捕まえて人間臭いだなんて、本来なら的外れもいいところの形容であるが。

「ご主人様に一途だったり、友達をバカにされて怒ったり。嫌いなものの話をする時はちょっと早口になったりさ。
 魔術の話はさっぱりだけど、私はほむっちのこと、あんまり無感情なタイプには思えないかも」

 天梨は魔術師ではない。
 あくまでも、針音の運命に導かれそうなっただけの新参者だ。
 だからこそ先入観なく、率直な印象だけで物を考えることができた。

「御身の言葉でなければ世迷言と流すところだが、興味深い見解だ」

 ホムンクルスはわずかな沈黙の後、そう応えた。

「かつて私は主に出会い、そこで決定的な変質を来している。
 私を製造した魔術師(おや)ならば構造上の破綻と看做すような陥穽だ。
 天梨が私を"ヒトのようだ"と思うのは、恐らくその延長線上に生まれたバグだろう」

 人形は狂わない。
 にもかかわらず、三六番目のホムンクルスは狂人として〈はじまり〉の衛星軌道に並んでいる。
 大いなる矛盾だ。そう考えれば、天梨の指摘もあながち的を外したものではないと思えた。

「我が主――神寂祓葉は、すべての不可能を可能にする存在。
 故に我らは狂おしく彼女に焦がれている。いつか見た奇跡を追いかけずにはいられない」
「……うーん。難しいことはよくわかんないけどさ」

 運命の日だ。
 すべてはそこから始まっている。
 ガーンドレッドの悲願が未来永劫に途絶え。
 盲目の筈のホムンクルスが、光に目覚めた。
 あらゆる運命を破壊する白き御子を前にしては、構造(スペック)の限界など瑣末な問題に過ぎない。
 話を聞いた天梨は口に指を当てた。言葉を纏めるように中空を見つめ、そして。

「今のほむっちが祓葉さんのおかげで生まれたっていうんなら、私はやっぱり嬉しいよ」

 言って、にへらと笑う。

「さっきも言ったけど、私友達少ないからさ。私からも祓葉さんにありがとう、だね」
「――――」

 ホムンクルスは沈黙した。
 その沈黙には、ふたつの理由があった。

 ひとつは、天使の二つ名が何故付けられたのかを証明するような物言い。
 すべての始まりは神寂祓葉であって、彼女がいなければ自分がこんな血で血を洗う戦場に参戦させられることもなかったというのに。
 ただ目の前の自分と出会えたことだけを喜び、混じり気のない善意でそう表明してくる。
 はじまりの狂人達の一角であり、すべての元凶に忠を誓っている事実を隠そうともしていない自分を友と呼び、尊重してのけるその無垢さ。

 改めて実感する。輪堂天梨を除いて、"彼女"に追随し得る恒星の器は他にない。
 他の候補を擁立して勝ち誇る者は目が見えないのかと疑わずにはいられない。
 この純粋さ、この寛容さ。まさしく、神寂祓葉の生き写しがごとき輝きではないか。
 それでこそ我が友。私が見出し、友誼を結んだいと尊き唯一無二。主たる祓葉へいつか魅せたい、可能性の卵。
 多少の言語化できない感覚には目を瞑りながら(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、ホムンクルスは声にこそ出さねど喝采さえした。
 これぞ吉兆、脱出王が指摘した既知の呪いを破棄する新しい可能性なり。そう思う一方で、ではもうひとつの理由は。

「アヴェンジャー」

 ガーンドレッドの魔術師達が、製造にあたり彼に与えた解析と感知の生体機能。
 数理の悪魔さえ出し抜く神経延長は、迫る敵の気配をつぶさに見抜く。
 天使の祝福を受けてもたらされた成長は、彼の"その"機能さえもをより高く昇華させていた。
 だからこそ彼は、英霊であるシャクシャインを押しのけて真っ先にそれを認識できたのだ。

「天梨を守れ。私のことは気にするな」

 理解が遅れているのは天梨だけ。
 シャクシャインの眉が剣呑に顰められる。
 説明したいのは山々だったが、その時間はなかった。


「"来るぞ"」


 言葉が発せられたのと同時に、穏当に進むかと思われた現状が崩壊する。
 飛び出したのはシャクシャイン。彼が押しのけた天梨は、何が何だか分からぬままに対面の瓶を抱き締めて床を転がった。

 スタジオの壁が崩壊し、炎と熱気が急激に流入してくる。
 飛来したひときわ大きな炎塊は、アイヌの魔剣が両断し爆砕させた。
 復讐者の眼光が、崩れた壁の向こうを睨め付ける。
 その先で彼らを見据えるのは、嚇く揺らめく禍つの瞳。

「やあ。久しぶりじゃないか、引きこもりが直ったようだからわざわざ会いに来てやったよ」

 くつくつと、けらけらと。
 嗤いながら現れる、ダークスーツの青年。

 眼鏡を外すなり露わになった糸目。その向こうから射抜く眼光は、天梨に抱かれるホムンクルスだけを見つめていた。
 自分達の初撃を防いだ復讐者すら一瞥たりともしていない。
 自信と、現実的な実力に裏打ちされた傲慢。
 それを隠そうともせずに、その男は生きとし生けるすべてを焼き焦がす炎と、巨躯の鬼女をしもべにしながら立っていた。

「保護者をわざわざ切り捨てたんだって? 驚いたな、たかが被造物が狂気もどきの感情を萌芽させたってだけで驚きなのに。
 あの子は君に自殺願望まで植え付けたのか、いやはや本当に大したもんだ。それでこそ僕のお姉(妹)ちゃんに相応しい」
「来るとは思っていたが、思いの外早かったな」

 饒舌な炎鬼に、瓶の中の小人はさしたる驚きもなく応えた。
 何故なら彼らは共に不倶戴天。必ずや討つと誓っていればこそ、相手が自身を察知して現れることに驚きなど抱く筈もない。

「サムスタンプも呆れた体たらくだったが、貴様もその例には漏れないらしい。
 天が憐れんで恵んだ魔眼を景気よく台無しにできる短慮さには恐れ入るばかりだ。見違えたな、赤坂亜切よ」
「うわ、何だよ自分の口で喋れるようになったのか?
 気持ち悪いからやめてくれよ、まるでオマエと僕が同じ生き物みたいじゃんか。ご主人様の命を聞くしか能のないカスが色気づいてんじゃねえよ、ホムンクルス」

 すなわち――〈はじまりの六人〉。
 妄信と無垢。葬儀屋と人造生命。

「問うが、わざわざ自ずから私の前に現れたのだ。死にたいという意思表示と受け取ったが、相違ないか?」
「〈脱出王〉然り、お前らみたいな根暗のクズは殺せる内になるべく早く排除しときたくてね」

 赤坂亜切。ホムンクルス36号。

「――ってわけで皆殺しだ。同じ光に灼かれたよしみだ、お姉(妹)ちゃんへの遺言くらいは聞いてやるから、諦める気になったら言ってくれ」

 情念に猛る炎と変容しゆく無機の戦争。
 時は禍時。これより戦場に変わる街の片隅で、捩れた運命は喰らい合う。



◇◇



 異様な巨躯の女だった。
 ひと目見た瞬間に、シャクシャインの背筋を冷たいものが伝う。

 彼はアイヌの戦士。
 物心ついた頃から野山を駆け巡り、自然とそこにある神秘に親しんで成長してきた野生児だ。
 故に分かる。見てくれこそヒトの体を取っているが、本質は断じてそんなものではない。
 これは神(カムイ)だ。世界に根付いた神秘が生き物の形を取った、自然の摂理そのもの。

 だが彼らの大地に存在したものとは端的に言って格が違う。
 神秘の衰退が進行しつつあった彼の時代よりも遥か以前に誕生し、異邦の神話で猛威を奮った本物だ。
 何故こんな存在が聖杯戦争に呼び出されているのか、そこからしてシャクシャインには想像も付かない。
 命知らずにも程がある――万一にでも零落の楔が抜ければ、ともすれば現行の世界を覆うほどの事態をもたらしても不思議ではないというのに。

「ほう、なかなかの色男じゃないか。噛み癖ありそうなのが難点だがね」
「雪原の女神(ウパシカムイ)に褒めて貰えるとは光栄だね。俺も男として鼻が高いよ」

 さて、どうするか。
 シャクシャインは苛立ちながらも考える。

 間違いなくこれまでで一番の難敵だ。
 逃走は期待できず、後ろで控える魔眼の男も嫌な匂いがする。
 神と魔人。この二人を相手に、自分は足手まといを抱えながら対応しなければならない。

「――上等だ。流石にそろそろ、気兼ねなく斬れる相手が欲しかったんでね」

 獰猛に牙を剥いて、凶念にて理屈を切り捨てる。
 元より己は泣く子も黙るシャクシャイン。
 カムイも恐れぬ、悪名高きアイヌの悪童。
 イペタムを抜刀し、戦意を横溢させて受けて立つぞと宣言した。

 刹那、彼の妖刀はそれでこそだと嗤いながら斬撃を迸らせた。
 明らかに間合いの外にいる女神とそのマスターへ、距離を無視して殺到する禍津の銀閃。
 数にして数十を超える逃げ場なき殺意の鋼網を前に、やっと女神が動く。

「ははッ、景気がいいね。アギリよ、アンタも気張っとけよ?
 多少の面倒は見てやるが、手前の体たらくで死んでもアタシは責任持たないからな」
「気を張る、ね。はは。リップサービスが過ぎるんじゃないかい、アーチャー?」

 彼女の行動は単純だった。
 迫るイペタムの斬撃を、スキー板の一振りで文字通り一蹴する。
 鎧袖一触。剣戟の数だけ命を啜る筈の死剣が、ただの一撃で粉砕された。

 それに驚くでもなく、シャクシャインは前に出る。
 妖刀を握る手は万力の如く力を込め、その膂力を遺憾なく乗せて放つ本命の剣閃。
 技を力で補い、更に煮え滾る復讐心で異形化させた"堕ちた英雄"。
 彼の剣は理屈ではない。考えられる限り、そこから最も遠いカタチでシャクシャインという英霊は成立している。
 在るのはただ殺すこと。恨みを晴らし、思うがままに屍山血河を築くこと。
 そのためだけに偏向進化した魔剣士の剣は故に読み難く、一度でも攻勢を許せば嵐となって吹き荒れる。

 そんな彼を相手に、射撃を生業とするアーチャークラスが近接戦を挑むなど本来なら愚の骨頂。
 間合いに踏み入らせた時点で致命的と言って差し支えないのだが、しかし――

「残念だけど格が違いすぎる。赤子の手を捻るようなものだろう」

 憐れむようなアギリの台詞の通り、起きた結果は絶望的なまでに一方的だった。

「うーん」

 荒れ狂うシャクシャインの剣が、一太刀たりとも通らない。
 手数でも速度でも圧倒的に劣っている筈のスカディが、手にした板を軽く振るうだけでその全撃を無為にしている。

「速さは悪くないんだが、軽いな」

 そう、あるのはただ単に力の差。
 女神の優位を成立させる理屈の正体は、彼女が持つ圧倒的な筋力にあった。
 A+ランクの筋力に加えて、巨人の外殻が持つ常軌を逸した対物理衝撃への耐性。
 この壁をシャクシャインは超えられない。如何に数と速さで勝っていても、蜂の針では象の皮膚を破れないのだ。

「まさかとは思うけど、これで全力なんて言わないよねえ」

 暫し不動のまま受け止めて、女神スカディは興醒めを滲ませて眉を動かした。
 舐め腐った物言いにシャクシャインの矜持が沸騰する。
 目に見えて斬撃のギアが上がり、ただでさえ超高速だったその剣がもはや目視不能の領域に達した。
 並の英霊であれば、自分が斬られたことにさえ気付かぬまま全身を断割されていることだろう。
 しかし相手はスカディ。アースガルドの神族達すら戦慄させ、恐怖させ、機嫌取りに奔走させた北欧きっての鬼女である。

 躍るシャクシャインの凶剣を受け止めながら、遂に女神が一歩前に出た。
 それだけで、一方的な攻撃により辛うじて保っていた均衡が崩壊の兆しを見せ始める。
 斬撃の数がただの一歩、わずかに押しに転じられただけで半減し、逆にシャクシャインが一歩後ろへ下がった。

「あんまりヌルいことやってるようなら――こっちから行っちまうよ」
「ッ……!」

 刮目せよ、女神の進撃が開闢する。
 歩数が重なるにつれ、スカディの振るうスキー板が爆風めいた衝撃で次々剣戟を蹴散らし出した。
 やっていることはシャクシャインのそれよりも更に、遥かに単純。
 ただ握った得物を薙ぎ払っているだけであり、そこには技術はおろか、殺意の類すらまともに介在していない。
 言うなれば寄ってくる鬱陶しい小虫を払うような動きで、しかし事実それだけでシャクシャインはあっさりと勢いを崩された。

 分かっていたことだが、落魄れたとはいえ神の力は伊達ではない。
 基礎性能からして違いすぎており、腹立たしいが正攻法での打倒は困難と見る。
 シャクシャインは狂おしく怒る中でも冷静に脳を回し、ならばと次の手に切り替えた。

「舐めてんじゃねえぞクソ女。輪切りにして塩漬けにでもしてやるよッ!」

 地を蹴り、加速し、場を廻るようにして縦横無尽に駆動する。
 これによって斬撃をより多角的なものに変化させ、急所狙いで必殺しようという魂胆だ。
 高速移動中の不安定な姿勢と足場では正確に剣を振るうなど困難に思えるが、そこは彼の相棒である妖刀が活きる。
 イペタムは自らの意思で敵を刻む魔剣。担い手がどんな体勢、状況にあろうとも、勝手に命を感知して迸る死剣の業に隙はない。

 そうして、戦場は剣の駆け回る地獄と化した。
 文字通りあらゆる角度からスカディとアギリ、二体の獲物を目掛けて凶刃が襲いかかっていく。
 眼球、首筋、蟀谷に喉笛、心臓に手足。斬られてはいけない箇所のみを徹底的に狙い澄ました貪欲の啜牙が雨となって吹き荒ぶ。
 その壮絶な光景を前に、スカディの顔にようやく微かな笑みが浮かんだ。

「いいね、このくらいはしてくれなきゃ面白くない。
 ヒヤヒヤさせないでくれよ、アヴェンジャー。危うく得物要らずで終わっちまうかと思ったじゃないか」

 相変わらずスキー板で防御していた彼女が、何を思ったかその長大な盾を宙に擲つ。
 当然、無防備な姿を晒す立ち姿へとイペタムの剣戟は殺到するが――

「今日は獣によく会う。猫の次は狂犬狩りと洒落込もうか」

 次の瞬間、爆撃と見紛うような衝撃の雨霰が迫るすべてを撃滅した。
 目にも留まらぬ速さで矢を番え、放ったのだと説明して一体誰が信じられるだろう。
 少なくとも戦いを見ているしかない輪堂天梨には、とても信じられなかった。
 それほどまでに速かったし、何より、矢と呼ばれる武器が生み出す威力をあまりに逸脱していたからだ。

「そぉら、逃げろ逃げろ! アタシの喉笛を食い破るか、アンタの脳天を撃ち抜くか、根比べと行こうじゃないか!!」

 そんな矢が、惜しげもなく無尽蔵に放たれては世界を衝撃で塗り替えていく。
 もはやスタジオは原型を留めておらず、直撃を避けても無体な衝撃波がシャクシャインの全身に損耗を蓄積させる。
 チッ、と焦燥に溢れた舌打ちが響いた。根比べ自体は臨むところだが、今の彼には思う存分戦えない理由があったのだ。

「あ、アヴェンジャー……っ」
「喋るな。じっとしてろ、雑魚共」

 輪堂天梨――ホムンクルス入りの瓶を抱いて、怯えたように蹲る彼女を守らねばならない。
 スカディに相手のマスターへ配慮する優しさがあるとは思えなかったし、事実彼女の射撃は天梨の存在などお構いなしに放たれている。
 これによりシャクシャインは攻勢を維持する以上に、天梨の防衛に神経を集中させる必要があった。
 そして無論。そんな"無駄"を抱えて動く獲物は隙だらけであり、そこを見逃すスカディではない。

「ははははッ、アタシが言えたことじゃないが、サーヴァントってのは不便なもんだねぇ!
 意外とお優しいじゃないか狂犬の坊や! そんなに刺々しく荒れ狂ってても、飼い主様が傷つくのは承服しかねるのかい!!」
「よく喋る婆様だなぁッ! 今に喉笛抉り出してやるからよ、大人しく待ってろやゴミ屑がッ!!」

 辺り構わず弓を乱射する一方で、その中に狙いを定めた精密射撃を織り交ぜる。
 シャクシャインが主を守るために動く一瞬の隙を、意地悪く突くように矢が迸っていく。
 これをアイヌの狂犬は、イペタムの一振りで両断。
 そうするしかないのだったが、弓射に優れた女神を相手にそれをやった代償は大きかった。

「ッづ――」

 重い。想像を超えた衝撃に両腕の筋肉が悲鳴をあげ、ブチブチと危険な音を立てる。
 それでも意地で叩き割りはしたものの、シャクシャインがそこで見たのはアルカイックスマイルを浮かべる女神の貌だった。

 弱みを見つけた顔だ。
 どうすれば目の前の獲物を狩り落とせるか、天啓を得た禍々しい狩人の表情があった。
 本能的な怖気が走り、シャクシャインは決死の行動に出る。

「わ、っ……!?」
「掴まってろ。袖でも噛んどけ」

 ホムンクルスごと天梨を抱え、そのまま再び地を蹴ったのだ。
 このまま逃げる選択肢もあったが、それは愚策と判断した。
 何故なら、屋内にいた自分達を的確に発見し襲撃してきたことへの説明が付かないままだから。

「――正解だ。此処で逃走することに意味はない」
「ムカつくから喋んないでくれるかな。元を辿れば君の招いた事態だろ、クソ人形」
「貴殿の読み通り、赤坂亜切のサーヴァントは監視用の宝具を持っているらしい。
 上空彼方に不審な魔力反応が確認できる。恐らく偵察衛星のようなものだろう。
 少なくとも区内にいる限りは、奴らの追跡を逃れることは困難と見るのが賢明だ」

 ホムンクルス36号の解析能力は、輪堂天梨の魔術を受けて"成長"してからというもの明らかな高まりを見せていた。
 だから彼は気付ける。アギリのアーチャーが天に擁する、父神の双眼の存在に。

「……悪い冗談だな」

 馬鹿げた組み合わせにシャクシャインは苛立ちを禁じ得ない。
 強靭凶悪な狩人が、獲物の居所を探知する索敵宝具まで持ち合わせているというのだ。
 こうなるといよいよもって腹を括る必要が出てくる。
 少なくともこれまでのように、なあなあで茶を濁してどうにかできる相手ではないと判断した。

「あいつら、君を投げつけでもしたら満足するか?」
「望みは薄い。赤坂亜切は"我々"の中でも最も話の通じない殺人鬼だ」
「そうかよ。つくづくカスみたいな集団だなお前ら」

 ホムンクルスにアサシンを呼ばせたとしても、あの髑髏面では大した足しにはならないだろう。
 神との殺し合い自体は上等だが、荷物を抱えて戦うとなると話は別だ。
 非常に旗色は悪く、厳しい。そしてこの相談も、すぐに物理的な手段で断ち切られてしまう。

「作戦タイムは終わったかい?」

 スカディの剛弓が、破城鎚を遥か超える威力で閃いたからだ。
 シャクシャインは回避に専念し、身を躍らせて何とか凌ぐ。
 凌ぎつつイペタムを振るい、女神死せよと憎悪の凶刃を降り注がせた。
 だが相変わらず、成果は芳しくない。無傷で佇むスカディの姿がその証拠だ。

 弓という得物の弱点は、攻撃の合間に矢を番える動作が必ず挟まる点である。
 どんなに類稀なる使い手であっても、そこで絶対に攻撃の流れが途切れてしまう。
 されどスカディには、そんな子どもでも気付けるような弱点は存在しない。
 というより、単純に素のスペックだけで克服してしまっているのだ。
 思い切り速く番える、という子女の空想めいた所業で、実際にほぼ切れ目のない射撃体制を完成させている。

 シャクシャインが跳ねるように駆ける。
 これを時に追い、時に先回りして配置される巨人の剛射。
 天梨は目を瞑り、必死に服の袖を噛み締めて耐えていた。
 ジェットコースターの何倍も荒く激しい高速移動に相乗りしている状況だ、そうでもしないと舌を噛み切ってしまう。

(――――致し方ないな)

 忌々しげにシャクシャインは眉根を寄せ、決断する。
 瞬間、彼の戦い方が一気にその質を変えた。

「ん?」

 スカディもすぐそれを見取り、声を漏らす。
 もっとも、この変化にすぐ気付ける時点で彼女の戦闘勘の鋭さは凄まじいと言えよう。

 何故なら変わったのはスタイルそのものではなく、放つ斬撃の性質だ。
 今までは剣呑そのもの、復讐者の名に相応しい殺意満点の剣戟で攻め続けていたシャクシャイン。
 しかし今、彼の剣は命を奪うよりも、相手を脅し縛るものへと姿を変えている。
 言うなれば剣の檻だ。暴れる獣から逃げ場を奪い、抑え付けて型に嵌めるやり方。スカディのお株を奪う、"狩り"の手管である。

 シャクシャインは誇りを棄てた者。堕ちた英雄、いつかの栄光の成れの果て。
 彼にとっての誉れとは殺すことであり、その過程に固執する段階はとうに過ぎた。
 だからこそ、彼が見出した活路はスカディの相手をしないこと。
 その上で、彼女もまた抱えている"足手まとい"から斬り殺して陣営を崩そうという算段だった。

「……ああ、なるほどそういうこと。まあそっちの方が確かにクレバーさね、別に否定はしないが」

 すなわち、標的はもはやスカディにあらず。
 堕ちた英雄の妖刀が狙うのはその主、赤坂亜切。
 妄信の狂人へと、怒り狂う呪われた魂が押し迫る。

 女神の矢を躱し掻い潜りながら、衝撃波の壁を蹴破って。
 いざアギリの全身を断割せんと、血啜の喰牙が襲いかかる――


「そんな浅知恵がうまく行くと本気で思ってんなら、アタシのマスターを舐め過ぎだよ」


 ――寸前で、シャクシャインの視界は一面の業火に塗り潰された。


「ッ、ぐ、ォ……!?」

 赤坂亜切は、炎を操る魔眼を遣う。
 その情報は、既に確認済みの筈だったが。

(ち――ッ、こいつは、不味い……!)

 だが火力の次元が想定を超えている。
 スタジオの壁を破って襲撃してきたあの一撃など、アギリにとっては児戯に等しいものだったのだ。
 それは彼のみならず、アギリを知る筈のホムンクルスにとっても誤算だった。

 破損した魔眼は、とうに馬鹿になっている。
 視認するだけで命を奪う必殺性も精密性も、もはやない。
 今のアギリはただ単に、己を火種として一切合切焼き尽くすだけの傍迷惑な放火魔だ。
 しかし魔眼も担い手も狂っているが故に、そこから出力される熱量はかつての彼の比でなかった。

「とくと味わえよ、ホムンクルスとその走狗ども。
 記念すべき最初の脱落者になるだろう君らには、いっとう惜しみないのをくれてやる」

 あらゆる命の生存を許さない、葬送する嚇炎の大瀑布。
 火炎でありながら激流の如く押し寄せるそれは、炎という性質も相俟って力技で押し退けるのは困難な災害だ。
 よってシャクシャインは、踵を返して退くしかない。

「――よう、どこに行くんだい色男」

 しかしそんな真似をすれば、袖にされて怒り心頭な女神の殺意に追い付かれる。
 迫る炎を前にして、腕の中に要石を抱え、不自由な身で奔走するしかない憐れな狂犬の。

「上等だと抜かしたのはアンタだろう? なら男らしく最後まで踊ってみせてくれよ、なぁッ!」
「ごァ、がッ……!!」

 その側頭部を、スキー板の一撃が打ち据えて荷物ごと地面へ叩き落とした。
 これで今度こそ、もう完全に逃げ場はない。
 見下ろすふたり、四つの視線が、ひとつの運命の終わりを酷薄に告げる。

(畜生、が――――――)

 天梨が何かを叫んでいた。
 刹那、五体に力が漲る。
 だが間に合わない。すべては遅きに失していた。

 すべてが炎に呑まれていく。
 狂おしい熱の世界に、流されていく。
 こうして呆気なく、天使の軍勢は敗北したのだ。



◇◇



 息が切れていた。
 身体中が痛い。うう、と声を漏らしながらのたくるように身を捩る。
 全身から滲んだ脂汗が服と擦れて気持ちが悪い。
 這いずりながら、煤と汗で汚れた顔を拭った。
 視界が晴れる。その向こうに、誰かが立っていた。

「やあ。アヴェンジャーに感謝した方がいいよ、アイドルは顔が商売道具なんだろう?」

 声を聞いた瞬間、比喩でなく全身が総毛立つ。
 途端に焦って空を抱き、あ、あっ、と情けない声をあげた。
 我が身が可愛いからではない。腕の中に抱いていた筈の瓶が、どこかに失せてしまっていたからだ。

「ほむっち……!」
「"ほむっち"? なに、君アレのことそう呼んでるの?
 笑えるなぁ。あんな根暗を捕まえて親愛を見出すなんて、もしかして君変態?
 一度でもあのへそ曲がりと絡んだら、とてもそんな気にはならないと思うんだけどなぁ」

 よれたダークスーツを着た、華奢な青年だった。
 若白髪の目立つ黒髪を熱風に遊ばせながら、糸目の底から鋭い眼差しを覗かせて天使と呼ばれた少女を見下ろしている。
 赤坂亜切。はじまりの六凶のひとりにして、ホムンクルス曰く、最も話の通じない殺人鬼。
 そんな男が今、這い蹲った輪堂天梨の前に立っていた。これほど分かりやすい"詰み"の光景が、果たして他にどれほどあるか。

「輪堂天梨。注視してはいなかったが、黙ってても聞こえてくる名前だったからよく覚えてるよ。
 いやはや、まさか天下に名高い炎上アイドル殿がガーンドレッドの人形と付き合ってるとはね。僕に言わせればすぐ股開く以上の幻滅案件だ」

 ほむっち、ほむっち――
 譫言のように呟きながら辺りを探る天梨の脇腹を、革靴の爪先が蹴り飛ばした。

「ぁ、ぐ……!」

 打ちのめされるその身体には、驚くべきことにアギリの炎による損傷がほぼない。
 煤に汚れてこそいるものの、彼の禍炎に焼かれた形跡は皆無と言ってよかった。
 理由は単純だ。炎の津波がシャクシャインを包む寸前、堕ちた英雄は己が主を文字通り投げ出した。
 彼の火の蹂躙を避け、なんとか目先の生だけは繋げた無力な娘。
 蹴りつけられた彼女の視線が、ホムンクルスに先んじて己が相棒の姿を視界に捉える。

 シャクシャインは、天梨にとって常に恐るべき存在であった。
 堕落へと囁きかける悪魔。復讐に猛り、和人を憎む疫病神。
 何度その声に心を揺らされたか、黒い炎を煽られたか分からない。
 けれど、誰も灼かない日向の天使にとっては彼もまた尊び重んじるべき隣人で。
 だからこそ……視線の先に捉えた姿には、ひゅっと息を呑むしかなかった。

「あ……ゔぇん、じゃー……っ」

 片膝を突いて、息を切らしながら、天梨の悪魔はそこにいた。
 右半身には赤く爛れた火傷の痕が痛ましく広がっている。
 銃創を作って帰ってきた時とは比にならない被弾の痕跡が、彼の逞しい身体に刻まれているのを認めた。

「心配しなくても、彼も君の友達もすぐに殺してやるさ。
 とはいえ、少しばかり興味はあってね。君、察するにホムンクルスが見出した〈恒星の資格者〉ってヤツだろう?
 いやはやまったくがっかりだよ。気に食わない連中とはいえ、まさかそこまで終わり果てた思考に至る奴がいるとは思わなかった。
 真の恒星はただひとつで次善も後進もありはしない。"彼女"を知っていながら、そんな当たり前すら分からない莫迦がいるなんて……情けなくて涙が出そうだ」

 アギリの言葉はろくに耳に入らなかった。
 痛む身体を引きずって、彼のところに這いずっていこうとする。
 その左手を、悪鬼の靴底が容赦なく踏み抜いた。

「ぎ、ぃぃいいいっ……!」
「あれ、みなまで言わないと分かんない感じ? あのさ、要するにムカついてるんだよ僕」

 指が奇怪な音を立てている。
 小枝を踏み締めるような、発泡スチロールを握り砕くような。
 悶える天梨を足蹴にするアギリの顔は、恐ろしいまでに冷めていた。
 とてもではないが嚇炎と恐れられた男のそれとは思えないほどの、冷たい殺意がそこにある。

「運命っていう言葉を軽々しく使うやつは性根が卑小な屑野郎だ。
 あの日あの時あの街で、僕らは同じ奇跡に出会いそして散ったんだよ。
 言うなれば運命共同体なのさ。なのにいかがわしいまがい物に傾倒してるカスがいると来た」

 〈はじまりの六人〉とひと括りに呼んでも、彼らの信奉のかたちは多岐に渡る。
 赤坂亜切は狂信者だ。彼ほど純粋に祓葉を尊んでいる存在は他にいない。
 つまり彼こそが最右翼。他の恒星など決して許さない、地獄の獄卒だ。

「た、ぅ……け……っ」
「"たすけて"? そこは恐怖なんて感じずに、微笑んで語りかけてくるべき場面だろうがよッ。えぇ?」

 助けを乞うてしまった天梨は責められない。
 が、シャクシャインの救援は臨めない状況だった。
 スカディが目を光らせているし、令呪を使ってこれを打破しようにも、アギリの足は頼みの綱の刻印を踏み締めている。
 もし天梨が令呪を使う素振りを見せたなら、アギリは瞬時にこれを踏み砕くだろう。
 つまり、彼女は完膚なきまでに詰んでいた。
 嚇炎の悪鬼に隙はない。祓葉との再会を後に控え、最高峰に昂ぶっているアギリの脅威度は先刻の暴れぶりが可愛く見えるほどだ。

「はぁ、もういいよ君。心底興醒めだわ」

 所詮はホムンクルス、生まれぞこないの奇形児が見た白昼夢。
 みすぼらしいハリボテの神輿などこんなものだ、聖戦の前座に添える価値もなかった。
 アギリの魔眼に光が灯り始める。熱は全身に横溢し、天使に送る火葬炉を構築した。

「燃え上がるのが好きなんだろう? だったらとびきりのをくれてやる。
 僕らの光を僭称した罪、君らしく火刑で償うといい」

 まがい物の星を焼き殺したら次はホムンクルスだ。
 同じ運命に巡り会った幸運をその手で汚した罪は実に重い。
 瓶から引きずり出して、末端から少しずつ炭に変えてやろう。
 そう思いながら、いざすべてを終わらせようとして。

 そこで――

「にげ、て……アヴェン、ジャー……っ」

 アギリの眉が、微かに動いた。
 些細な違和感に気付いたように。

「はや、く……。令呪を、もって、命じ――」
「させるわけないだろ」
「う、ぁ……!」

 足に力を込めて、天梨の行動を阻害する。
 既に骨のひび割れる音が明確に響き始めていた。
 だというのに、足元の娘は泣き濡れた瞳でアギリではないどこかを見ている。
 炎に灼かれて跪き、狩人の殺意に抗い続けている己が相棒だけを見つめて。

「……だめ、だよ……。こんなところで、終わったら……」

 何かよく分からないことを囀るこれに価値などない。
 早く燃やしてしまえばいい。誰より自分がそう理解している筈なのに、ああ何故。

「――――――――?」

 何故自分は、炎を出すのを渋っている?

「わたしも、あなたも……」

 この矮小な命ひとつ踏み潰すことに、何を躊躇っているのだ?

「い、やだ…………」

 死にかけの地蟲のように小さくのたくりながら、哀れな言葉が漏れる。

「しにたく、ない………終わりたく、ない………わたし、まだ…………」

 誰がどう見ても死にかけ、終わりかけの命。
 鼓動はか細く、呼吸は消え入りそうで、いっそ笑えてしまうほど。
 だというのに、存在感だけで言えば天梨は現在進行形でその最大値を上乗せし続けていた。
 膨れ上がっていく。偽りの星、燃える偶像の輝きが、臨界寸前の融合炉のように増大していくのが分かる。
 ならば尚のことすぐに殺すべきなのは明白だったが、アギリは訝るようにそれを見下ろしていて。

「………………なんにも、やりたいこと、できてない…………!」

 葬儀屋が晒したらしからぬ逡巡。
 それが、神話の流れ出る隙を生んだ。

「なに……?」

 アギリの口から、とうとう動揺(それ)が声になって漏れる。
 踏みしめている少女の背から、機械基盤を思わせる魔術回路が拡大した。
 だが、赤坂亜切が声まであげて驚いた理由はそこではない。
 彼はそんなもの見てすらいない、目に入ってなどいない。

「馬鹿な――――あり得ないだろ、なんだこれはッ」

 アギリは天梨から足を退け、たたらを踏んで後ずさる。
 顔は驚愕に染まり、壊れたる魔眼がわなわなと揺れていた。
 信じられないものを見た、いや、"見ている"ような顔で、葬儀屋は震える口より絞り出す。

「点数が、上がっていく……! 一体、どこまで……ッ!?」

 赤坂亜切は家族に、正しくは女きょうだいというものに執着している。
 生まれる前に引き離された半身。誰を殺しても消えることのなかった喪失感。
 二十余年抱いてきた虚無感は、運命の星と出会い爆発した。
 求めるものは唯一無二の半身。アギリは常にそれに焦がれているから、運命を知った今も習性として計測を続けずにはいられない。

 すなわち、姉力と妹力。
 彼の独断と偏見を判定基準として行われる適性試験である。
 当然、輪堂天梨も女である以上強制的に試されていた。
 しかし点数は見るも無残。〈恒星の資格者〉などという分不相応な増長を見せていたことが大きな減点事由となったことは言うまでもない。
 哀れ不合格。恒星の資格なぞ、あるわけもなし。
 よって末路は焼殺以外にあり得なかったが、点数記載済みの答案用紙が光と共に書き換わり始めた。

 姉力、妹力、共に爆発的な加算を受け数値上昇。
 脳細胞が狂乱し、心臓は瞬間的な不整脈さえ引き起こす。

(見誤ったってのか、この僕が……?!)

 神寂祓葉以外に、己の半身は存在し得ない。
 そう信じながらも、何故か止められなかった姉/妹の判定作業。
 祓葉こそは至高の星で、その資格を他に持つ者などいる筈がないと断じた言葉がブーメランになって矜持を切り裂く。

 誰より激しく祓葉に盲いた彼だからこそ衝撃はひとしお。
 真実、この都市で負ったどの手傷よりも巨大な一撃となってアギリを打ち据えていた。

 されど、天梨はそれを一瞥すらせず。
 地に臥せったままの状態で、両手を突いて復讐者を見つめる。
 広がる羽は神秘を体現し、聖性のままに少女は祈る。
 ただし、それは――――


「あ、ゔぇん、じゃー……」


 痛い。苦しい。
 死にたくない――まだ終わりたくない、こんなところで。

 それは少女にとって、生まれて初めて抱く我欲だったのかもしれない。
 輪堂天梨は一種の破綻者だ。玉石混交の人界を生きるには、彼女はあまりにも優しすぎる。
 シャクシャインという憎悪の化身を従えながら、一ヶ月に渡り変心することなく耐えられていた時点で異常なのだ。
 不幸だったのは、そんな素質を持ってる癖に、心だけは人間らしい柔らかなものを持っていたこと。
 だから誰かの助言がなければ、自分のために怒るということすらできなかった。
 自分が感じた不服を言葉にして表明することを"大きな一歩"と思えてしまうほどに内省的な少女。
 そんな彼女は本物の死に直面し、此処でまたひとつ、人として当然の感情を知ることができた。


 "死にたくない"。
 "終わりたくない"。


 輪堂天梨にとって、此処数ヶ月の人生は悲しみと恐怖に満ち溢れたものだったけれど。
 それでも、いいやだからこそ、今日という一日は本当に楽しかったのだ。
 だってライバルができた。対等に話し合える素敵な友達ができた。
 死んでしまったら、もう戦えない。終わってしまったら、もう話せない。

 そして――大嫌いでしょうがない自分のために、あんなボロボロになって戦う彼を救ってあげることも、もうできない。

 最初は、怖くて怖くて仕方なかった。
 事あるごとに殺せ殺せと囁いてくるのは鬱陶しかった。
 だけど、過ごしている内に分かってきた。
 その深海よりも深い憎悪の沼の底には、きっとそれよりも尚底の知れない"哀しみ"があることが。

 地獄には堕ちたくない。
 天使のままで、生きていたい。
 でも、ああでも、すべてを失ってしまうのならば。

 運命も、友も、相棒も、夢も、何もかも此処で炎の中に溶けてしまうというのなら……


「いいよ……」


 抱いた決意が、悪魔との決戦で萌芽した超然を遥かの高みに飛翔させる。
 淡く輝く回路の翼が、刹那だけ、赤色矮星を思わす極光を放つ。
 彼女は誰も灼かない光。愛されるべき光。その在り方が歪めばすなわち、光は封じられていた第三のカタチを取り戻す。

 光とは照らすもの。
 温め、癒やすもの。
 ――灼き尽くすもの。


「あなたのために、そして……」


 ううん。
 それだけじゃない。

 嘘は吐きたくなかった。
 だって今、天使(わたし)の中にあるのは思いやりだけじゃない。
 ぐるぐると渦巻いて、封じ込められてた黒色が終わりを拒む願いと共に回路へ混ざる。



「私のために――――――――燃やして、全部」



 告げられた言葉と共に、いざ、都市(ソドム)の定石は変転した。


「【受胎告知(First Light)】」


 聖然とした祈りが、ただひとりの相棒のために捧げられる。
 彼は剣。天使を蝕みながら、しかし同時に守る懐剣だ。
 少女が初めて、天/己の意思として彼へ捧げたその祈りは。
 光景の神聖さとは裏腹の、禍々しい災害を呼び出した。



◇◇



 スカディの眼が、明確にその色を変える。
 圧倒的優位に立ち、目の前の主従を殺戮する筈だった女神が今。
 たかだか島国の片隅で生まれ落ちた狂戦士を前に、確かな危機の気配を感じていた。

「――つくづく面白い街だねぇ。どいつもこいつも驚かせてくれるじゃないか」

 膝を突いていた復讐者が、目の前で緩やかに立ち上がる。
 彼の総身からは、炎が立ち昇っていた。
 アギリのような赤く燃える紅蓮ではない。
 絞殺死体の鬱血した死に顔を思わせる、毒々しい真紫色。
 しかし近くで見ると、その表現もまた間違いだと分かる。
 様々な色の絵具を混ぜると黒に近付いていくように、数多の毒や病が混合し絡み合った結果たまさか紫色に見えているだけに過ぎない。

「死毒の炎か。しかもそれ、自分を火種に生み出してるね。
 ウチのアギリと同じ原理だが……驚きを通り越してちょっと引いちまうよ。
 如何に英霊とはいえ、人間のたかだか延長線。そんな霊基でよくその地獄に耐えられるもんだ」

 人間を殺すには過剰と言っていい死の毒。
 体内を今も駆け巡るそれが、炎となって立つ魔力に滲み出しているのだ。
 当然、扱う側は地獄と呼ぶのも生ぬるい苦痛に襲われる筈。

 なのに二本の足で立ち、剣を握り締める堕英雄(シャクシャイン)の姿に翳りはなく。
 その姿をスカディは惜しみなく、勇士として称賛する。

「敵ながら天晴だ。形はどうあれ好きだよ、そういう雄々しさってヤツはね」

 惜しみない喝采を送り、そして殺そう。
 刈り取ってやろうと笑う女神に対し、青年は静かだった。

「さあ来なよ、アヴェンジャー。お姫様の望み通り、存分に狂犬の勇壮を――」
「ごちゃごちゃうるせえ」

 一蹴と共に、俯いて隠れた目元から紫炎の眼光が鈍く煌めく。
 燃え盛る蝦夷の産火は、祝い事とはかけ離れた憤怒の一念に燃えていた。
 ザ、と動く足。一歩前に出るそれだけで大気が死に、彼の炎に中てられていく。

 望んだ瞬間、その筈だ。
 輪堂天梨が自らの意思で破局を望み、己に悪魔たれと希う日をずっと待ちかねていた筈だった。
 なのに何故だ、苛立ちが止まらない。
 脳の血管が比喩でなく何本も千切れているのが分かるのに、それと裏腹に思考はクールでさえあった。
 それは彼が今抱く感情が、不倶戴天の敵である和人達へ向けるのとは意味の違う怒りであることを物語っている。

「俺は今、最悪に機嫌が悪いんだよ」

 ああ――認めよう。最悪の気分だ。
 待ち侘びていたご馳走に、目の前で泥をぶち撒けられたように心が淀んでいる。

 これは俺と彼女の対決だ。
 そこに割って入った無粋な異人ども。
 こいつらの手で、火は灯されてしまった。

 天使は穢されたのだ。
 願い求めた純潔から滲む破瓜の血が、今全身を駆け巡りながら己に力を与えていると考えるだけで腸が煮えくり返る。
 要らないことを吹き込んだホムンクルスにも、対抗馬気取りで意気がっている悪魔の少女にも腹は立っているが、目の前のこいつらに対するのはその比でない。
 そして何より腹が立つのは――輪堂天梨をそうさせた祈りの中に、自分への哀れみが含まれていたその事実。

 契約で繋がれたふたり。
 だからこそシャクシャインには、分かってしまった。
 天梨の背中を押した最後のきっかけは、みすぼらしく傷ついた自分の姿であると。

 彼女は和人だ。憎むべき、恥知らずどもの末裔だ。
 その中でひときわ大きく輝く、稀なる娘だった。
 殺すのではなく、穢さねばならないと思った。
 この光を失墜させることができたなら、それ即ち大和の旭日を凌辱したのと同義だ。
 天使を堕とし、聖杯を奪取して、すべての和人を鏖殺して死骸の山で哄笑しよう。
 そうすればこの胸の裡に燃える黒いなにかも、少しは安らいでくれるだろうから。

 だから囁いた。
 幾度でも悪意をぶつけ、地獄へ誘って嗤ってきた。
 天使を堕落させるのは、かつて和人(こいつら)に穢された自分の声であろうと信じて。

 そうしてようやく踏み出させた最初の一歩が、これだ。

 無様に焼かれ、痛め付けられ、地に跪いた自分の姿が。
 そんな生き恥が、これまで手がけてきたどの工程よりも強く天使の背を押した。
 念願は叶った。輪堂天梨は他の誰でもない自分の意思として、俺に命を燃やせと命じたのだ。


「――――ふざけやがって。てめえら全員、欠片も残らず焼き滅ぼしてやる」


 生涯二度目の屈辱に狂鬼の相を浮かべ、シャクシャインは炎の化身と成った。
 それこそ赤坂亜切の戦闘態勢のように、全身から紫の毒炎を立ち昇らせて。
 あらゆる負傷と疲労、痛みと理屈を無視し、雪原を汚染する猛毒の写身として立ち上がる。

 泣き笑いのように祈る声を覚えている。
 いいよ。燃やして。あなたのために、私のために。
 違う。俺が望んだのは、こんな情けない運命などではない。
 死ぬほど腹が立つのに、その何倍も遣る瀬なくて。それが怒りを止めどなく膨れ上がらせていく負の無限循環。

 魔剣の刀身さえもが、死毒の業火に覆われる。
 地獄の魔神めいた姿になりながらも、彼の姿はどこまでも雄々しく勇猛だった。
 当然だ。これは善悪、害の有無で区別するべきモノに非ず。
 目の前のスカディがいい例だ。雪原の女神は矜持を持つが、しかし足元の犠牲になど気を配らない。
 醜悪であり美麗。禍々しくも雄々しく、灼熱(あつ)いのに冷たくて、悍ましいのにやけに哀しい。
 人智を超えた者はどこかで必ず矛盾を孕む。衆生を救う慈悲深い人外が、捧げられた生贄を平然と平らげるように。

 だからこそ、ヒトは彼らを畏れた。
 そしてかの北の大地では、畏怖と敬意を込めてこう呼んだのだ。

 神(カムイ)、と。

「……相分かった。君が望むなら、魅せてやろう」

 英雄・シャクシャインは裏切りの盃に倒れた。
 気高い勇姿は醜く穢され、もう戻ってくることはない。

 これは悪神だ。
 ヒトから自然の世界へと召し上げられた祟り神だ。
 神性など持たずとも、彼の在り方、その炎は彼がそうであることを力で以って証明する。

「しかと見ろ。見て、その網膜に焼き付けろ」

 ――――ああ。
 俺は、本当に美しいものを見た。

 認めよう。
 お前は、この薄汚れた大地を踏みしめる誰よりも美しい。

 ホムンクルスの言葉は、実際正しいよ。
 君はもっと怒っていいし、呪っていいだろ。
 なのになんでそうやっていつまでも笑ってられるんだ。
 〈恒星の資格者〉。奴らのノリに乗るのは癪だが、確かに言い得て妙だろうさ。
 少なくとも俺は、君以上に星らしい在り方をした人間を知らん。

 そしてだからこそ俺は、君に勝たなきゃいけない。
 そうでなくちゃ俺の魂は、決して報われないんだよ。
 故にしかと見ろ。そして焼き付けろ。
 美しい君に、ずっと魅せたかった己(オレ)の憎悪のカタチ。

「これがお前の絶望――」

 目の前の女神などどうでもいい。
 すべては塵芥。殺し排するべき虫螻の群れ。
 いつも通りだ。でもその中で、相変わらずひとりだけが眩しかったから。
 他の誰でもない宿敵(きみ)へと、俺は告げよう。

 地獄の底から、天の高みまで貫き穿つほど高らかに。
 されど思いっきり、見るに堪えず目を潰したくなるほど醜悪に。



「――――メナシクルのパコロカムイだ」



 刹那、穢れたる神は君臨した。
 暴風のように吹き抜ける、死毒の炎。
 あらゆる悪念を煮詰め醸成したような高密度の呪詛が、高熱を孕んで炸裂する。

 『死せぬ怨嗟の泡影よ、千死千五百殺の落陽たれ(メナシクル・パコロカムイ)』。
 シャクシャインの第二宝具。すべての誉れを捨て、沸き立つ憎悪に身を委ねた復讐者の肖像。

 女神、狂人、上等だ。
 もの皆纏めて滅ぼしてやる。
 お前らすべて、この憎悪(ほのお)の薪になれと。
 撒き散らされる破滅の嚇怒と共に、天使の剣が唸りをあげた。



◇◇



「ッ、ぐぅ――――!?」

 次の瞬間、まず響いたのはスカディの驚愕の声だった。
 咄嗟に受け止めたスキー板、それどころか握る両腕さえも軋みをあげる。
 想像の数倍に達する膂力で振るわれた魔剣の斬撃が、彼女に初の後退を余儀なくさせた。

 苦渋に、引き裂くような笑みを浮かべる女神だが。
 穢れたる神(パコロカムイ)はお怒りだ。
 その間にも彼の妖刀は、目視し切れない数の後続を用立てていた。
 四方八方、百重千重。隙間なく殺到する剣戟の火花がスカディの肌を裂く。
 刹那、押し寄せる激痛は先刻受けた〈天蠍〉の毒にも何ら劣らない壮絶なものだった。

 血液を、細胞を、筋肉までもを一秒ごとに毒の塊に置換されている気分だ。
 いやそれどころか、不変である筈の神の玉体が腐り落ちていく感覚さえある。
 これが比喩で済むのは、ひとえに彼女が神霊のルーツを持つ存在だからに他ならない。

「や、る……ねぇッ!」

 スカディは反撃の矢を放ち、とうとう本気のヴェールを脱いだ。
 威力は据え置き、だが狙いの正確さと弾速が先の倍を超えている。
 先ほどまでのシャクシャインなら、為す術もなく早贄に変えられていただろう。
 だが。

「邪魔だ」

 シャクシャインはこれを、刀の一振りで叩き落とした。
 余波で生まれた炎が、イチイの矢を瞬く間に汚染された黒炭へと変えていく。
 膂力も、放つ魔力も、いいようにやられていた時の比ではない。
 スカディの眼は、彼に起きている変化の正体を正確に看破する。
 気合? 根性? 違う、断じてそんな浮ついた話などであるものか。
 アイヌの堕英雄を文字通りの神に達する域まで高めあげている道理の正体。
 それを彼女が理解すると同時に、その片割れの声が上ずって響いた。



「君が、やったのか……?」

 アギリの眼には、シャクシャインのステータスが見えている。
 端的に言って別物だった。あらゆる数値が劇的に上昇し、その霊基が今や神代に出自を持つ己が女神に比肩し得る性能に達していると告げている。
 詰みを覆し、互角の状況にまで押し返した劇的なまでの逆転劇。
 なまじ"こういう光景"に覚えがあるからこそ、アギリは動揺も狼狽も隠せない。
 そう、彼だけは決して素面でなど受け流せないのだ。
 祓葉へ誰より強く懸想する彼が――そのデジャヴを無視できる道理はないから。

 対する天梨は、息を切らしたまま、朦朧とした眼差しでシャクシャインの戦いを見つめていた。
 そこに宿る感情の意味を理解できるのは彼女だけ。
 薄く涙を滲ませたままの瞳で、這い蹲ったまま、翼を広げて自らが招いたちいさな破局を観る。

「……………………ごめんね」

 意識があるのかないのかも判然としない口が零した声に、アギリは背筋の粟立つ感覚を禁じ得ない。
 悪寒。高揚。それとも別な何かか。分からないし、分かってはいけないと思った。
 理解してしまえば帰れなくなるというらしくもない後ろ向きな予感が込み上げた瞬間、葬儀屋は舌打ちと共に回路を駆動させる。

 冷静になれ、こんなまやかしに惑わされるな。
 至上の光はただひとつ。奉じるべき星もただひとつ。
 なればこそ、目の前の得体の知れない何かは塵として燃やし葬るべきに決まっている。
 そう考えるなり、アギリはすべての傲りを捨てて破損済の魔眼を輝かせた。
 刹那起動するブロークン・カラー。覚醒したとはいえシャクシャインはスカディの相手で忙しく、無力な少女を守れる余力はない。
 よって生まれたての光はそれ以上強まることなく焼き尽くされる……その予定調和に否を唱える声がもうひとつ。


「――――解析、並びに介入完了。
 もう一度言うぞ、"見違えたな"。以前の貴様ならば、私ごときに介入を許すほど愚鈍ではなかったろうに」


 己の口で紡がれた、無機質な声。
 共に、今まさに天使を焼き尽くさんとしたアギリの魔眼が誤作動を起こす。
 次の瞬間、彼を襲ったのは回路の熱暴走とそれがもたらす激痛だった。

「ッづ……ぉ、ぉおッ!?」

 ホムンクルス36号は自発的に魔術を行使できない、そういう風に造られた存在だ。
 だが解析に関しては元々、生半な魔術師を凌駕する機能性を秘めていた。
 だからこそ煌星満天を見初めた正真の悪魔の嘘も見抜けたし、彼らとノクト・サムスタンプの内通も見抜くことができたのだ。

 そんなホムンクルスは既に、天使の光を浴びている。
 彼の生みの親が許す筈もない"成長"すら果たした彼の機能は、ガーンドレッドの小心を超えて拡大していた。
 解析能力。それに加え新たに得たのは、解析したモノに対して自らの思考を挟み込み、介入し掻き回す情報侵食(クラッキング)。
 ガーンドレッドのホムンクルスは無垢にして無能。前回を経験しているからこその先入観が、嚇炎の悪鬼に隙をねじ込む。

「が、ぁ……! てめえ……クソ人形……ッ!」
「貴様といいノクト・サムスタンプといい、ある意味感謝が尽きんよ。
 サムスタンプは憎悪を教えてくれたが、貴様も私に感情を教えてくれるのか。
 ああ。実に、実に胸がすく気分だ。友が宿敵を驚かせ、唸らせる光景というのは――悪くなかったぞ」

 本来、一級品の魔眼は簡単に介入などできる代物ではない。
 だが赤坂亜切の魔眼は既に壊れている。
 破綻し、崩壊し、売りだった精密性をすべて攻撃性に回した成れの果てだ。
 直接戦闘を可能にした代わりに、精彩を著しく欠いたブロークン・カラー。
 他者加害の形に最適化された宝石は、対価として拭えぬセキュリティホールを抱えた。
 だからこそホムンクルスの一矢は成ったのだ。魔眼の無力化とまでは流石に行かずとも、これで少なくとも向こう数分の間は、アギリはまともに嚇炎を遣えない。

「善因善果、悪因悪果。
 仏の教えに興味などないが、なるほどそういうこともあるらしい。
 年貢の納め時だ、赤坂亜切」

 ホムンクルスは悪意を識らぬ。
 だが、今の彼の言葉は限りなくそれに近かった。
 競い合い、殺し合った旧い敵に向けるこれ以上ない意趣返し。

「我々の勝ちだ。妄信の狂人よ、せいぜい地獄から我らの聖戦を見上げて過ごすがいい」



 ――スカディとシャクシャインの激突は、早くも最高熱度に達しつつあった。
 圧倒的な性能で上を之かんとするスカディに、追い越さんばかりの勢いで喰らいつくシャクシャイン。
 放たれる弓を、振るわれる暴力を、万物万象死に絶えろと祈る死毒の炎が穢し抜くことで撃滅する。
 さしものスカディも、こうなってはもう不動を保てない。
 頻繁に位置を変え、時に前進し時に後退しながら、天使の祈りを授かって躍る穢れたる神と息の詰まるような交戦を続けていた。

 死と死、殺意と殺意の応酬。
 飛び交う一撃一撃が比喩でなく致死。成り立つ筈のない交戦を、天使の加護と復讐者の執念が可能とさせている。
 【受胎告知(First Light)】。それは一言で言うなら、彼女が既に覚えていた感光(コーレス)の強化形だ。
 与える加護の範囲を絞る代わりに、等しく照らすのとは次元の違うレベルの強化を与える。
 それが、アイヌの堕英雄が北欧の巨人女神と互角に殴り合うという異常事態を成立させる理屈の正体だった。

 勝って、負けないで、生きて、笑って――
 あらゆる祈りが一点に束ねられ、祝福となって突き動かす。
 何も灼かず傷つけないという、元ある天使の在り方から"一歩"踏み出した光のカタチ。

 恒星の熱量を有する器が放つ本気がどれほど強いかは、神寂祓葉を知る者なら誰でも理解できるだろう。
 そこに理屈はあるが、限界はない。
 言うなれば究極の理不尽だ。彼女たちは世界に散りばめられた神明の器。抑止力さえ認める、世界を如何様にでもできる素質の持ち主。
 輪堂天梨はこの時、他の候補者に先んじてその可能性を体現していた。
 パコロカムイの炎は、その猛毒は、神をも穢す熱となって巨人の暴威と真っ向から拮抗し続けている。

「熱いね、アツいねぇ――――唆らせるじゃないか、もっと猛ろよおいッ!」
「黙れ、死ね。喋るな糞が、今すぐハラワタ穿り出して踏み潰してやる」

 雪と炎。真の神性と偽神の瞋恚。
 ぶつかり合う度に景色が、背景に変わって散っていく。
 スカディは毒に、シャクシャインは暴力に冒されているが共に気になど留めない。

 剣と矢。
 自然を、世界の理を知るふたりが共に最短距離で殴り合う。
 地面を、周囲を、微塵に砕きながら冷気と熱気を入り混じらせる。
 片や腐敗。片や狩猟。死と生は共に相容れず、だからこそ戦況の過熱に歯止めは存在し得なかったが。

 ことこの状況に限って言うならば、その手段を持っているのはホムンクルスの側だった。


「……チ。間に合わなかったか」


 言葉とは裏腹に、どこか歓迎するように笑うスカディ。
 次の瞬間、彼女の右手は飛来した一本の矢を掴み取っていた。

「呆けてんなよアギリ。今度こそ気引き締めな」

 そう、彼女だけはこの狩りに時間制限があることを認識していたのだ。
 『夜天輝く巨人の瞳(スリング・スィアチ)』。
 広範囲の索敵機構である第一宝具を持つスカディは、最初からこの場所に向け移動してくる英霊の姿を認めていた。

 それまでにシャクシャインを狩ってホムンクルスを討つ算段だったが、結果はご覧の通り。
 天梨の祈りと、これがもたらしたシャクシャインの覚醒。
 怒り狂う狂獣に手を拱いている内に、いつの間にかタイムオーバーを迎えてしまったらしい。
 時間超過の代償は嵐。遠くの方に浮いていた黒雲は、災いの風を運んでくる。

「さもないと、アンタでも余裕で死ぬぞこりゃ」

 からからと笑う声が響いた刹那。
 ビル群の隙間を縫いながら、百では利かない数の剛矢がアギリとスカディの両者に殺到した。

 苛立たしげに眼を押さえ、血涙を流すアギリが飛び退く。
 スカディが矢を放ち、彼を狙った矢雨をねじ伏せた。
 射撃の精度は彼女から見ても一級品。一撃一撃の威力なら自分には到底及ばないが、精度なら上を行くだろう。
 いやそれよりも。この矢に宿る、神核を震わせるような威圧感と荘厳さは……

「ほぉう。今度は本物か」

 神。シャクシャインのような贋物とは違う、正真正銘の高き者。
 スカディが看破するや否や、羽々矢の主は颯爽と炎の覆う戦場に参上した。

「――――おい、ホムンクルス」

 上品だが身軽そうな直衣。
 少年でも少女でも通るような、中性的で、雄々しくも美しくもある絶世の美貌。
 片手に握るは天界弓。相手がスカディだから相殺を許しただけで、余人ならば防ぐこともままならない名うての剛弓だ。
 これを持って地上に下り、かつ同族殺しの素質を持つ神など長い日本神話の中でもひとりしか居ない。

「時間も暇もない。迂遠なのは避けて、端的に答えよ。
 どういう状況だ?」

 高天原より天下りて、荒ぶる地祇の平定を仰せ遣った天津の一柱。
 天若日子――その見参である。

 しかし状況は、ひと目では理解できないほどに混沌としていた。
 待ち合わせ場所は火災現場と化しており、己の矢すら容易く凌ぐ異邦の神がいる。
 かと思えば、悍ましい毒色の火を爛々と輝かせて狂奔する見知らぬ英霊も見受けられる。
 "案内人"の指示に従って前者を狙撃したはいいが、どちらが敵か味方かも判然としない状況だった。
 問うた相手は、地面に転がって薬液の中で揺れているホムンクルス。いまいち信用ならない同盟相手。
 天若日子の問いを受け、ホムンクルス36号は注文通り、なるだけ簡潔に、それでいて不足なく回答した。

「あの巨女とダークスーツの男が敵だ。
 アンジェリカ・アルロニカに渡した資料は見ているな?
 奴は赤坂亜切。私と同じ〈はじまりの六人〉のひとりで、中でも最も凶悪な男。
 対話の余地はない。貴殿の主義を考えて助言するなら、何をおいても討つべき相手だ」
「分かった。今はそれでいい」

 神の双眸がアギリを見据える。
 チッ、と嚇炎の悪鬼が舌打ちをした。
 次の瞬間、彼を狙う矢が音さえ引きちぎって迸る。

「アーチャー!」
「やれやれ、世話の焼ける餓鬼だね」

 もっとも、容易くそれをやらせるスカディではない。
 地を蹴るなり、神獣もかくやの速度で射線上に割って入り。
 スキー板の一振りで、天界弓の凶弾を粉砕した。

「お、なかなか美形じゃないか。惜しいね、もう少し大人びてたら"アリ"だったんだが」
「光栄だが、慎んでお断りしよう。操を立てた妻がいるのでな」

 互いに弓手同士。
 弓手といえば距離を取り合って、互いに技を競いながら殺し合うもの。
 しかしそんな常識は、この二柱の神の前では通用しない。

 先に仕掛けたのは天若日子。
 野猿もかくやの身のこなしで跳び、空中で矢を放ちながら微塵も精度を落とさない。
 受けて立つのはスカディ。
 剛力任せに矢を払いながら、一瞬未満の隙で彼女も矢を射り天津の神と拮抗する。
 牛若丸と弁慶の戦いをなぞるが如き、敏の究極と剛の究極のせめぎ合いであったが。
 無論――戦の美しさだの流儀だの、そんな些事を気に留める"彼"ではなかった。

「何処見てやがる糞婆。てめえの相手はこの俺だろうがぁッ!!」

 狂炎・シャクシャインは、流れ弾が身を掠めるのも厭わず堂々とふたりの間を引き裂き乱入した。
 途端に敵も味方もなく、己が肉体を起点として死毒の炎を放射状に爆裂させる。

「ッ……! おい貴様、味方ではないのか!?」
「あっはっはっは! その手の配慮を期待するのは無理筋だよ、若いの。こいつはとびっきりの狂犬なのさ!」

 敵? 味方? 知るかそんなものどうでもいい。
 殺す。燃やす。引き裂いてしまえばすべて同じだろうがと、穢れたる神は傲慢に宣言していた。
 それに、天若日子は彼が憎み恨む大和の神。
 その時点で穏当な判断は期待できない。結果、事は三つ巴の様相をさえ呈し始める。

「ああくそ、あやつらと絡むといつも面倒が待っているな!
 言っておくが加減はできん。巻き込まれて死んでも文句は言うなよ、紫の!」
「こっちの台詞だ。死にたくなけりゃ離れてろ、大和の腐れ神が」
「――ッくくく! ああ愉快だね、これでこそ座から遥々呼び出されてやった甲斐があるってもんだ!」

 大和の神が、八艘飛びよろしく躍動しながら害滅の天意を降らせ。
 蝦夷の悪神が、野生めいた直感でそれを掻い潜りつつ呪いの火剣を荒れ狂わせ。
 そして北欧の女神が、圧倒的な力だけを武器に己に迫る天地両方の瞋恚を涼しい顔で薙ぎ払う。
 まさに神話の戦い。これぞ聖杯戦争。造物主が生み出した仮想の都市にて、三柱の神が燦然と乱れ舞っていた。


「はぁ……はぁ……ッ。やってくれるじゃないか、ホムンクルス……!」

 その光景を見つめながら、アギリはようやく機能の戻り始めた魔眼の血を拭う。
 よもやあんな形で一杯食わされるとは思わなかったが、あくまで一時的な不調に過ぎない。
 猫だましを食らったようなものだ。魔眼を封じられ、一般人同然に堕した時は本当に心胆が凍ったが、乗り越えてしまえば笑みを浮かべる余裕も戻ってくる。

「癪だが……認めてやるよ。
 ガーンドレッドの引きこもりが、ずいぶん油断ならない敵になったもんだ……!」

 むしろ――アギリを最も焦らせたのは、彼が見出した〈恒星の資格者〉の方だった。
 輪堂天梨。己の目の前で、"彼女"に迫るほどの劇的な可能性を魅せた美しい少女。
 天梨が翼を広げながら、天使のように祈る姿が今も瞼に焼き付いて離れない。
 敗北感さえあった。祓葉を至上と、唯一無二の半身と認めた自分が、彼女以外の誰かに魅入られかけたのだ。
 姉力、妹力、共に超絶の高得点。あんなただの片鱗でさえ、歴代第二位の成績を記録したダイヤの原石。

 もしも。
 もしもあの天使が、真にその翼を広げてしまったならば。
 それを目の当たりにした自分は、どれほどの感動と衝撃に貫かれるのか。
 考えただけで恐怖が募る。そう、赤坂亜切は恐怖していた。同時に、蛇杖堂寂句が何故自分にあんな質問を投げてきたのかを理解した。

 ――〈恒星の資格者〉について、貴様はどう考えている?
 ――貴様は、そんなモノが存在すると思うか?
 ――いや。存在し得ると思うか?

 要するにあの老人は、恐ろしかったのだろう。
 怒りさえ覚える荒唐無稽。だが、なまじ本物を知っているからこそ拭えない不安。
 "神寂祓葉という極星は何も唯一無二などではなく、あれに比肩する可能性の卵もまた存在しているのではないか"
 "ただ、目覚めていないだけで。そうなるためのきっかけに出会っていないだけで"
 ……小心と笑う気には、もはやなれなかった。
 笑えるわけがない。何故なら自分は、その実例に遭遇してしまったのだから。

「君は殺すが、少しは敬意ってやつを込めてやってもいい。
 お姉(妹)ちゃんに未知を魅せたいその気概、しかと見せてもらった」

 血涙の痕を顔に薄く残しながら、赤坂亜切は歩み始める。
 魔眼が鳴動し、再び彼の魔術回路に熱を灯す。
 さっき介入を食らったのは、やはり隙があったからだろう。
 輪堂天梨という未知を前に忘我の隙を晒してしまった、だから付け込まれた。よって同じ轍は踏まない。

 今度こそ一寸の油断もなく、完璧な葬送を執り行ってやる。
 間隙の消えた放火魔は今度こそ最大の脅威として、巻き返した筈の戦況に投下される。
 だが。

 赤坂亜切は、まだ完璧には理解していない。
 ホムンクルス36号が何故、我々の勝ちだと言ったのか。
 その答えが今、再起した悪鬼の前に示された。


「そうかい。大将にはちゃんと伝えとくよ」


 ぱぁん。
 そんな、軽い音がして。

「…………なに?」

 アギリは、自分の頬に熱感が走るのを感じた。
 それだけで済んだのは、たまたまだ。運が良かっただけ。
 拭えば、そこには涙ではない血糊がべっとり貼り付いている。
 すぐに起きたことを理解して、振り返りざまに炎を放った。
 放たれた紅蓮は、ただちに下手人の全身を炎で巻く。
 悲鳴をあげながら崩れ落ちていったのは、どこにでもいるような、草臥れた顔の中年男性だった。

 なのにその手には、拳銃が握られている。
 装いも雰囲気も、とても"殺せる"側の人間とは思えないのに、持っている得物だけがひどくアンバランス。
 不可解が、鍵になって記憶の引き出しを開かせる。
 まさか――思った瞬間、アギリは怖気と共に地を蹴っていた。

 赤坂亜切は殺し屋だ。
 殺し殺されの世界に深く精通しているが故に、彼は殺気や迫る死の気配に敏感である。
 にもかかわらず掠り傷とはいえ不覚を許した理由は、そこに殺気と呼べるものが存在しなかったから。
 まったく殺気を出さずに事へ及べる人間は、それすなわち超人に等しい。
 ほいほいと産まれる存在ではない。だというのに、またも銃声が鳴った。ただし今度は、無数に。

「く、っ……!」

 殺気がない。あるべきものがない。
 人の意思というものが、此処には介在していない。
 下手人は探すまでもなかった。火事場を遠巻きに眺める野次馬達、そのすべての手に拳銃が握られている。
 そう、"すべてに"だ。主婦、サラリーマン、老人、子供……文字通り老若男女あらゆる人種が当たり前のように帯銃した上で、殺気を出さず仕掛けるという超人芸を披露しているのだ。

「――アーチャー! 退けッ!!」
「あぁ? なんだいだらしないね。こっちはせっかくイイところだってのに」
「緊急事態だ。頭なら後で下げるから、僕の援護に全力を注いでくれ……!」

 かつての東京と、今目の前にある仮想都市の景色が重なる。
 自分も、イリスも。蛇杖堂もガーンドレッドも、あのハリー・フーディーニでさえまったくの無視とはいかなかった"最悪の脅威"。
 文字通り都市ひとつを手駒とし、自分以外誰も信用できない疑心暗鬼の世界を作り出した英霊。

 よもやとは思うが、こうなってはもう否定などできなかった。
 これが出てきた以上、戦場で丸腰の姿を晒すなど自殺行為に等しい。

「……懲りずにまた地獄から這い出てきたか、ハサン・サッバーハ……!」

 〈山の翁〉。前回では、ノクト・サムスタンプの秘密兵器だった百貌の暗殺者。
 人心を操るその御業は百万都市・東京という舞台において、この上ない脅威として悪名を轟かせた。
 元凶であるノクトを含めて、前回の戦いを知る人間の中で彼を軽んじる者はいないと断言できる。
 アギリに言わせれば悪夢であった。二度とお目にかかりたくないあの暗殺者が、よりによって不倶戴天の一角であるホムンクルス36号の走狗として再び顕れているというのだから。

 主の命令に渋々従い、スカディは最前線を離れて彼の傍に戻る。
 放った矢は立ち並ぶ"人形"達をすぐさま鏖殺したが、それでも油断の余地はない。
 斯くして混沌の戦場は、一旦の小休止を迎えた。


「どうした? 笑顔が曇っているぞ、赤坂亜切」
「驚かされたのは否定しないがね。勝ちを気取るにはまだ早いだろ、ホムンクルス」


 視線と視線が、交錯する。
 瓶の中の小さないのち。
 もの皆焼き尽くす炎の狂人。
 〈はじまりの六人〉が出会えばどうなるかの答え、そのすべてがここに存在している。
 焼き尽くされ、蹂躙され、死骸と瓦礫が広がる末法の一風景。
 彼らは共に殺し合うしかできない残骸なのだから、故にこうなるのは自明の理であった。

「しかしやられたよ。まさか君がここまでやるとは思わなかった」
「貴様相手に謙遜するつもりはないが、助言があった。祓葉は未知を求めていると。変わらぬ限り、おまえでは彼女の遊び相手として不足だと」
「その結果が、輪堂天梨だと?」
「そうだ。私は、本当に美しいものを見た」

 今まさに殺し合っているとは思えない、どこか気安いやり取り。

「天梨は私の友で、至らぬこの身が主君に献上する珠玉の未知だ。
 これに比べれば都市のすべて、芥に等しいと断ずる」

 だが――本人も気付いていないのだろう。
 自分の口で言葉を紡ぐ、赤子の顔に、その眉に。
 厳しく、憎らしげに皺が寄っていることに。

「貴様は私の恒星を育ててくれた。その背中を押し、一線を踏み越えさせてくれた」
「はッ、だったら礼のひとつも言ってほしいもんだけどな。そんなに殺気立って、まったくもってらしくないじゃないか」
「そうだな。だが許せ。私自身、今抱いている"これ"を言語化できていないのだ」

 天使が飛翔するなら、翼の色にこだわるつもりはない。
 それが白であれ黒であれ、星に届くならなんでもいいのだと。
 先刻自分は、確かにそう言った。
 なのにああ何故だろう。いざ実際に有意な一歩を踏み出した彼女を見た時に、途方もない悪感に身が震えたのは。

「――――赤坂亜切。私は今、無性に貴様に死んで欲しい」

 彼女と出会い、それを罵る者と再会して、憎悪を知った。
 であればこれは、やはりそう呼ぶべき感情なのか。
 分からないので、今すぐにでも教えを乞いたい気分だった。

「奥の手があるのか? 切り抜けるアテでもあるのか?
 ならば示してくれ。我が手札のすべてを以って受けて立つ。
 その上で、どうか無惨に死んでくれ。何も成さず何も残さず、何もかもを否定され消えてくれ」
「は」

 ホムンクルスの率直な殺意に、アギリは鼻を鳴らして笑う。

「いいだろう、君はずいぶん立派になった。
 そんな顔ができるなら、玉無しの評価は撤回してあげよう。
 けれど生憎だな、僕も君にはとても死んで欲しい。なのでその末路は、僕でなく君に体現してもらおうか」

 小休止が終わる。
 交錯する殺意と殺意。
 止まらない、止まる筈がない。
 むしろ静寂を挟み、息つく暇を設けたことでこの続きはより破滅的で地獄的になるのが確定していた。

「死ね。赤坂亜切」
「消え失せろ。ホムンクルス」

 世界ごと弾けるような殺意の応酬の結果として、彼らが共に抱える爆弾は起爆の時を迎えんとし、そして……



 ホムンクルスが。
 アギリが。
 天若日子が。
 スカディが。
 シャクシャインが――――全員、示し合わせたわけでもないのに、目を見開いて硬直した。



「…………おい。ホムンクルス」
「ああ――――来たな」



 今の今まで互いに殺意を突きつけ合っていたふたりが、急に共感を示して頷き合う。
 その意味するところはひとつしかない。
 これまでの戦いが児戯でしかなかったと断ずるようにあっさりと、世界の色が変わった。
 混沌の七色から、秩序の一色へ。虹から白へ。ジャンルが、切り替わる。

 小休止。からの混沌開戦。そんな流れを塗り潰して、本命が来た。

 もう誰も矢を射らない、剣を握らない。
 殺意を示さず、悪罵を交わし合うこともない。
 新宿に、神話とも比喩表現とも違う、〈この世界の神〉が侵入(はい)ってきた。
 その事実の重さを、これまでの経緯を思えば不気味なほど静まり返った戦場が、無言の内に物語っているのだった。



◇◇



 どこか現実感なく、その光景を見つめていた。
 瞳の光景。それは、暴力による蹂躙の合戦だった。
 迫っていた死を打破し、皆死ねよとすべてを燃やす己の相棒。
 自分の祈りが招いた結果を見て、輪堂天梨はぼうっとしていた。

 既にその背に広がった翼は縮んでいる。
 当然だ。さっきのはあくまで一瞬一線を超えただけであって、真の堕天というにはあまりに質が浅い。
 それでも、日向の天使が自分の口で、他者加害の祈りを口にした事実は大きかった。
 純潔は散ったのだ。祈りを捧げたあの瞬間、確かに輪堂天梨は赤坂亜切達の死を祈っていた。
 そのことを、誰より天梨がよく知っている。だからだろう。危険が一段落した今も、地に臥せった格好のまま覚束ない視線を揺蕩わせているのは。
 そんな彼女のもとに駆け寄り、そっと抱き起こす女の姿があった。

「……っ。ねえ、大丈夫……!?」

 抱き起こされ、支えられて、それでも礼のひとつも出てこない。
 言葉を口にするには、まだもう少し時間が必要だった。
 疲労や痛みとは無関係の朦朧を抱えて、天使は白痴めいた相を晒している。
 口の端からつぅ、と一筋の涎が垂れた。拭う余裕も、もちろんなかった。

「…………ごめん、なさい」

 代わりに漏れたのは、ひとつの言葉。
 続いて涙がぼろぼろと、とめどなく溢れてくる。

「わ、っ……!? ちょ、ちょっと……!
 怪我してるの? 痛いところある? ねえ、天梨さん……!」
「ごめん……ごめんね、ぇ……。
 ほむっち、アヴェンジャー、…………満天、ちゃん……っ」

 ぐす、ぐず、と。
 目の前の女の胸にぎゅっと縋りながら、天使と呼ばれた娘は泣いていた。
 自分自身の愚かさを、弱さを心底悔やむような。それでいて、そんな言葉では語り尽くせないような。
 天使ではない、"輪堂天梨"というひとりの人間のすべてが流れ出たような涙だった。

 少女は星だ。それでも人間だ。
 少女は人間を。それでも星だ。

 そのジレンマから、自己矛盾から、決して彼女は逃げられない。
 星となる素質を踏まえながら、他者を灼いて押し退けるのではなく思いやる道を選んだ時点で。
 彼女は永劫に続く、癒えぬ苦難を抱えることを運命づけられている。

 ――たすけて。

 そう求めた声に、手が差し伸べられることはなく。
 星たる天使の少女性をよそに、都市の運命は廻り続けていた。



◇◇



【新宿区・個室スタジオ跡地/二日目・未明】

【輪堂天梨】
[状態]:疲労(大)、左手指・甲骨折、全身にダメージ(中)、自己嫌悪(大)、意識朦朧
[令呪]:残り二画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:たくさん(体質の恩恵でお仕事が順調)
[思考・状況]
基本方針:〈天使〉のままでいたい。
0:……ごめんね。
1:ほむっちのことは……うん、守らないと。
2:……私も負けないよ、満天ちゃん。
3:アヴェンジャーのことは無視できない。私は、彼のマスターなんだから。
[備考]
※以降に仕事が入っているかどうかは後のリレーにお任せします。
※魔術回路の開き方を覚え、"自身が友好的と判断する相手に人間・英霊を問わず強化を与える魔術"(【感光/応答(Call and Response)】)を行使できるようになりました。
 持続時間、今後の成長如何については後の書き手さんにお任せします。
※自分の無自覚に行使している魔術について知りました。
※煌星満天との対決を通じて能力が向上しています(程度は後続に委ねます)。
 →魅了魔術の出力が向上しています。NPC程度であれば、だいたい言うことを聞かせられるようです。
※煌星満天と個人間の同盟を結びました。対談イベントについては後続に委ねます。
※一時的な堕天に至りました。
 その産物として、対象を絞る代わりに規格外の強化を授けられる【受胎告知(First Light)】を体得しました。この魔術による強化の時間制限の有無は後続に委ねます。

【アヴェンジャー(シャクシャイン)】
[状態]:半身に火傷、疲労(大)、激しい怒り、全身に被弾(行動に支障なし)、【受胎告知】による霊基超強化
[装備]:「血啜喰牙」
[道具]:弓矢などの武装
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:死に絶えろ、“和人”ども。
0:殺す。
1:鼠どもが裏切ればすぐにでも惨殺する。……余計な真似しやがって、糞どもが。
2:憐れみは要らない。厄災として、全てを喰らい尽くす。
3:愉しもうぜ、輪堂天梨。堕ちていく時まで。
4:青き騎兵(カスター)もいずれ殺す。
5:煌星満天は機会があれば殺す。
6:このクソ人形マジで口開けば余計なことしか言わねえな……(殺してえ~~~)
7:赤坂亜切とアーチャー(スカディ)は必ず殺す。欠片も残さない。
[備考]
※マスターである天梨から殺人を禁じられています。
 最後の“楽しみ”のために敢えて受け入れています。

※令呪『私の大事な人達を傷つけないで』
 現在の対象範囲:ホムンクルス36号/ミロクと煌星満天、およびその契約サーヴァント。またアヴェンジャー本人もこれの対象。
 対象が若干漠然としているために効力は完全ではないが、広すぎもしないためそれなりに重く作用している。


【ホムンクルス36号/ミロク】
[状態]:疲労(中)、肉体強化、"成長"、言語化できない激しい苛立ち
[令呪]:残り二画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:なし。
[思考・状況]
基本方針:忠誠を示す。そのために動く。
0:来たか――我が主。
1:輪堂天梨を対等な友に据え、覚醒に導くことで真に主命を果たす。
2:アサシンの特性を理解。次からは、もう少し戦場を整える。
3:アンジェリカ陣営と天梨陣営の接触を図りたい。
4:……ほむっち。か。
5:煌星満天を始めとする他の恒星候補は機会を見て排除する。
6:赤坂亜切は殺す。必ず。
[備考]
※アンジェリカと同盟を組みました。
※継代のハサンが前回ノクト・サムスタンプのサーヴァント"アサシン"であったことに気付いています。
※天梨の【感光/応答】を受けたことで、わずかに肉体が成長し始めています。
 どの程度それが進むか、どんな結果を生み出すかは後の書き手さんにおまかせします。
※解析に加え、解析した物体に対する介入魔術を使用できるようになりました。
 そこまで万能なものではありませんが、油断していることを前提にするならアギリの魔眼にさえ介入を可能とするようです。


【アサシン(ハサン・サッバーハ )】
[状態]:霊基強化、令呪『ホムンクルス36号が輪堂天梨へ意図的に虚言を弄した際、速やかにこれを抹殺せよ』
[装備]:ナイフ
[道具]:
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:マスターに従う
0:目の前の状況への対処。俺が見てない間になんてことになってんだこいつら。
1:正面戦闘は懲り懲り。
2:戦闘にはプランと策が必要。それを理解してくれればそれでいい。
3:神寂祓葉の話は聞く価値がある。アンジェリカ陣営との会談が済み次第、次の行動へ。
4:大規模な戦の気配があるが……さて、どうするかね。
[備考]
※宝具を使用し、相当数の民間人を兵隊に変えています。

【アンジェリカ・アルロニカ】
[状態]:混乱、魔力消費(中)、罪悪感、疲労(中)、祓葉への複雑な感情、〈喚戦〉(小康状態)
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:ヒーローのお面(ピンク)
[所持金]:家にはそれなりの金額があった。それなりの貯金もあるようだ。時計塔の魔術師だしね。
[思考・状況]
基本方針:勝ち残る。
0:何がなんだかわからないけど、とりあえずこの子(天梨)は助けないと。
1:なんで人間なんだよ、おまえ。
2:ホムンクルスに会う。そして、話をする。
3:あー……きついなあ、戦うって。
4:蛇杖堂寂句には二度と会いたくない。できれば名前も聞きたくない。ほんとに。
5:輪堂天梨……あんまり、いい話聞かないけど。
[備考]
ミロクと同盟を組みました。
前回の聖杯戦争のマスターの情報(神寂祓葉を除く)を手に入れました。
外見、性別を知り、何をどこまで知ったかは後続に任せます。

蛇杖堂寂句の手術により、傷は大方癒やされました。
それに際して霊薬と覚醒剤(寂句による改良版)を投与されており、とりあえず行動に支障はないようです。
アーチャー(天若日子)が監視していたので、少なくとも悪いものは入れられてません。

神寂祓葉が"こう"なる前について少しだけ聞きました。

【アーチャー(天若日子)】
[状態]:疲労(中)
[装備]:弓矢
[道具]: ヒーローのお面
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:アンジェに付き従う。
0:敵を討つ。渋々だが、ホムンクルスとその協力者に与する。
1:アサシンが気に入らない。が……うむ、奴はともかくあの赤子は避けて通れぬ相手か。
2:赤い害獣(レッドライダー)は次は確実に討つ。許さぬ。
3:神寂祓葉――難儀な生き物だな、あれは。
[備考]


【赤坂亜切】
[状態]:疲労(大)、動揺、魔力消費(中)、眼球にダメージ、左手に肉腫が侵食(進行停止済、動作に支障あり)
[令呪]:残り三画
[装備]:『嚇炎の魔眼』
[道具]:魔眼殺しの眼鏡(模造品)
[所持金]:潤沢。殺し屋として働いた報酬がほぼ手つかずで残っている。
[思考・状況]
基本方針:優勝する。お姉(妹)ちゃんを手に入れる。
0:ああ、遂に来たか。
1:適当に参加者を間引きながらお姉(妹)ちゃんを探す。
2:日中はある程度力を抑え、夜間に本格的な狩りを実行する。
3:他の〈はじまりの六人〉を警戒しつつ、情報を集める。
4:〈蛇〉ねえ。
5:〈恒星の資格者〉? 寝言は寝て言えよ。
6:脱出王は次に会ったら必ず殺す。希彦に情報を流してやるか考え中
7:輪堂天梨に対して激しい動揺。なんだこのお姉(妹)ちゃん力は……?
[備考]
※彼の所持する魔眼殺しの眼鏡は質の低い模造品であり、力を抑えるに十全な代物ではありません。
※香篤井希彦の連絡先を入手しました。

【アーチャー(スカディ)】
[状態]:疲労(中)、脇腹負傷(自分でちぎった+銃創が貫通)、蛇毒による激痛(行動に支障なし)
[装備]:イチイの大弓、スキー板。
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]
基本方針:狩りを楽しむ。
0:ますます面白くなりそうで何よりだ。いよいよアタシも、此処の神とお目見えかな?
1:日中はある程度力を抑え、夜間に本格的な狩りを実行する。
2:マキナはかわいいね。生きて再会できたら、また話そうじゃないか。
3:ランサー(アンタレス)は――もっと育ったら遭いに行こうか。
4:変な英霊の多い聖杯戦争だこと。
[備考]
※ランサー(ギルタブリル/天蠍アンタレス)の宝具を受けました。
 強引に取り除きましたが、どの程度効いたかと彼女の真名に気付いたかどうかはおまかせします。



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最終更新:2025年07月11日 00:43