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 爺さんは先に立って案内する。仏間に入って見れば、二間幅の立派な仏壇に、蝋燭が何本も立てて、大きい銅の香炉に線香が焚いてある。真ん中にある白い位牌が新仏のであろう。香炉の向うを覗いて見ると、果して蛇がいる。
 大きな青大将である。ひどく栄養が好いと見えて、肥満している。尾はずん切ったようなのが、とぐろを巻いている体の前の方へ五寸ばかり出ている。
 己は仏壇の天井を仰いで見た。幅の広い、立派な檜の板で張ってあるのが、いつか反り返ったままに古びて、真黒になっている。
 爺いさんは据わって、口の中に仏名を唱えている。主人はsomnambuuleのような歩き付きをして、跡から附いて来たのが、己の背後にぼんやり立っている。


                                                        ――森鴎外『蛇』









◇◇



 ――思えば、確かに気味の悪い男だった。

 〈葬儀屋〉のプランニングは、基本的に彼を育てた男が担当することになっていた。
 彼は表社会も裏社会も知り尽くした傑物であったし、実際その手腕を疑う者は皆無に等しかったのだが。
 その男だけは、計画をすべて自分で担うと申し付けてきたのだ。
 無論勝手を働く分の金は払うと言って、相場を逸脱した金額を提示してきた。

 そして実際、かの者が送付してくる指示は恐ろしいまでに的確だった。
 事前に裏の取れていることはもちろん、亜切達がブラックボックスとしていた部分まで全部見えているかのような慧眼を発揮してくる。
 半信半疑でそいつの言う通りに動くと、気持ち悪いほどに上手くいくのだ。
 本来想定するべき関門が着手する頃にはすべて取り払われており、さながら千里眼でも得たような心地で仕事をこなせた。

 それだけ聞けば素晴らしいことだ。
 しかし、依頼をよこしてくる相手としてはこの上なく不気味だ。

 ここまでできるのなら最初から自分でやればいい。なのに何故、わざわざ道具を外注しようとするのか。
 〈葬儀屋〉も当然その疑問に思い至ったし、彼を育てた男もそうだった。
 最大限の警戒を払い、いつでも契約不履行を突きつけて始末する準備を整えていた。

 だが備えが実を結ぶことはなく、仕事は正しくこなされた。
 だからこそ思い出すこともなかったのだろう。仕事が終わり、報酬が支払われたならもう気にすべきことではないから。

 それでも〈葬儀屋〉――アギリは、どこかでその時抱いた気味悪さを記憶に残していたらしい。

 彼の視覚は肉体ではなく魂を視る。
 正體を暴き、その輪郭をこそ真実とする。
 故にアギリは、予期せぬ再会を果たしたかつてのクライアントの素性を一目で見抜くことができた。

 断ずる。間違いなく、まともな人間ではない。
 というか、そういう構造(つくり)をしていない。
 本来なだらかであるべき魂の輪郭が、偏執的な蜷局を巻いている。
 蛇。今にして思えば、なるほど確かにそれらしい姿だと思う。

「参ったよ。あの時、ちゃんと殺しとくべきだったな」

 路地裏を舐め尽くすような爆炎が晴れた後、声は響いた。
 嚇炎の立ち昇る視界の先で、異形のナニカが君臨している。
 考えずとも断言できる。これは、確実に人間ではない。
 藪を突いて蛇を出すとはまさにこのことだなと、アギリは高揚の中でさえそう思った。

「オマエ、何だ? 何をどうしたらそういうカタチになれる?」

 戦慄のような言葉とは裏腹に、顔は慣れ親しんだアルカイックスマイルを湛える。
 狂気。見つめただけで溢れる血涙さえ気に留めず、赤坂亜切は敵対者としてかつての依頼人を見据えていた。

「僕が最初に人を殺したのは、十三歳の時だった」

 私小説の書き出しのような独白を漏らしながら、一度は燃え殻と化した男が立ち上がる。

「えらく暑い夏の日だった。歩いているだけで頭がクラクラするような、そんな八月のある日だ。
 その時僕は学校帰りで、帰ったらうんと冷えたサイダーでも飲もうと思っていて。
 そうしてふと前を向いたんだ。するとそこに、赤いランドセルを背負った女の子がいた」

 年嵩であろうにまったくそれを感じさせない、大自然の如き生命力。
 大柄な体躯は数万年の年月を重ねた御神木のようで、しかし対峙した今この時でさえ危機感を覚えさせない。
 言うなれば、菩薩。この世で最も無害な形を取り、ヒトを闇路に引き込む奈落の怪異。
 彼は今、そんな形容に相応しいカタチをしていた。

「――――ふと、欲しくなった。それが〈はじまり〉だ」

 佇む壮年の体躯から、全方位に向けて白蛇が生えている。
 千手観音を彷彿とさせる姿で、人類最醜の蛇は遂にその実像を晒す。

「自分でも悪い癖だと思っているんだが、欲しいと思うと我慢できなくてね。
 派手に失敗でもすれば流石に諦めがつくんだけれど、最初の欲望を堪えるのは僕にとってすごく難しいことなんだ」

 首筋までを覆う極彩色の鱗は宝石のようだが、不気味なほどに光沢がない。
 口端から覗く舌は細く、敵を見据える眼球は細長い瞳孔で、黄金に近い色調をしていた。
 人と大蛇の混ざりもののような出で立ちは奇形じみたグロテスクさがあるのに、ともすれば魅入られそうなほど神々しい。
 不具の子に神性を見出したがる人間の畏怖心を何百倍にも高めたような不穏が、見る者の心に這い寄って認識を犯す。

「質問に答えてほしいんだけどな。変態の自分語りに興味はない」
「焦るなよ、赤坂アギリ。藪を暴いた君が怯えてどうする」

 アギリは仕事柄、この聖杯戦争に参加する誰よりも多くの超人・魔人を見てきた。
 場数で比肩するのはノクトくらいのものだろう。
 魔術師、吸血種。その上級個体にだって遭遇したことがある。
 なのにそのアギリをして、目の前の存在が一体どれほどの規模を有しているのか皆目見当もつかなかった。

「プロファイリングは苦手か蛇野郎。別に怯えちゃいないよ、ただ感心してるだけさ。アンタ、ずいぶん擬態が上手いじゃないか」

 赤坂亜切に嘘は通じない。
 言うなれば彼は蛇の天敵、藪の中を見通す眼を持つ存在だ。
 しかし目で見た情報をどう認識するかはあくまで彼の頭次第。

 魂の形は同一だが、その密度が群を抜いている。
 炭素を超圧縮してダイヤを作るように、本来人の器に収まりきらないほど膨大な魂の塊を無理やりヒトガタに成形しているのだ。

 言うなれば目敏い者に対して仕掛けられた誤認の罠。
 微塵のブレもなく数千重に重ねた鱗の鎧。
 莫大なスケールに似つかわしくない偏執的なまでの慎重さが、ひどく不気味なギャップを生み出していた。

「どうしたらそうなれると訊いたね。
 ではお答えしよう、僕は"欲しい"に逆らわないんだ。
 亡き寂句翁に聞く限りでは、君も多少理解できる生き方をしてきたんじゃないか?」
「否定はしない」
「あの子が欲しい。でも僕は何も支払わない。支配者である僕が下等生物に代金を払うのは道理が通らない。
 寄越せ、寄越せ、すべてを寄越せ。欲しがって、欲しがって、欲しがって欲しがって欲しがって欲しがって――」

 変体を完了した蛇の王が、見せつけるように両手を広げる。
 笑みの形に歪めた口許から、煌めく牙が覗いている。


「そうやって生きてたら、気付けばこうなってた」


 ――――概算、終了。
 目前の生命体は、少なく見積もってトップサーヴァント級の規模(スケール)を持つ。

 魂を捉える魔眼と、暗殺者として積んだ経験則。
 更に二度の聖杯戦争で数多の英霊を視てきた分もそこに加算。
 その上で導き出した数値は、端的に絶望を伝えていた。
 怪物だ。かつて相見えた上級死徒でさえ、ここまで破滅的な存在ではなかったと断ずる。

「親切なご回答感謝する。いやはや、世界ってのは広いもんだね」
「礼には及ばない。で、降伏する気はあるかな?」

 蛇が、悪鬼へと問う。
 火傷のひとつもない、正確には瞬時に修復を終えた玉体が視界の先に佇んでいる。

「その娘を置いて跪けば、とりあえずこの場では見逃してあげよう。
 なんだったら協力関係を築いてあげてもいい。お互い暇じゃないだろう、無益な争いは避けようじゃないか」

 魔眼が、アギリへと告げる。
 これに挑んではならない。
 スカディの助力も仰げない状況では、自分など歯牙にもかけられないのは見えている。

 逃げろ。
 逃げろ。
 逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ――発狂しそうな音量で鳴り響く本能的警鐘を前に、アギリは改めて己を狂わせたあの星に感謝した。

「死ねよゴミクズ」

 中指を突き立てると同時、葬儀屋の代名詞たる嚇炎が嵐を生み出す。
 乱気流のように渦巻きながら迸る紅蓮の火に、蛇はつまらなそうに眉を顰めた。
 薙ぎ払われた右腕が、わずかそれだけで炎のすべてを消し飛ばす。

「後学のために、理由を聞いておこうかな」
「殊勝だね。せっかくだから答えてやろう」

 自身のアイデンティティを否定するような光景であったにも関わらず、アギリの心は平静だった。
 いや、それどころか今しがた目にした蛇の真実など意にも介さず昂り続けている。
 彼は、この怪異を微塵たりとも恐れていない。

「アンタ、さっきジャックの名を出しただろう?
 あのクソジジイと関わりがあったって時点で、正直微塵も信用の余地はないんだよ。
 六凶(ぼくら)の存在を知ってるってことはノクトのクズと関係を持ってる可能性がある。
 悪巧みしか能のないカス野郎に使い潰されるくらいなら、玉砕でもした方が幾分マシだね」

 フィクサーのお株を奪う高説を垂れながら、アギリは改めて蛇とレミュリンの間に立った。
 彼女が攻撃に曝されないどころか、視線さえ向けられないよう意識して立ち塞がる。

「で、もう一つだけどな。
 その下等生物に素性を暴かれといて、何いつまでも上位者ヅラしてやがる。畜生は恥を知らないのかい」

 強いだけの怪物など、一体何が恐ろしいというのか。
 アギリは自分以外の衛星を一名除き毛嫌いしているが、それでも誰もが同じ結論に至ると確信していた。

 本当に恐ろしい生き物は、ただそこにいるだけで魂に癒えない傷を与える。
 人も運命も自然体のまま魅了して、何の努力もせず世界の主役を張れる者。
 それがアギリにとっての恐怖で、座席の定員は未来永劫埋まっているのだ。
 狡辛く藪に隠れて暗躍する超越者など、まったくもって恐るるに足らない。

「役者が足りねえよ、てめえなんざただの演者(アクター)だ。
 役名もないモブキャラごときが、偉そうに管巻いてんじゃねえよ」

 嘲笑。
 これを以って最後通牒を蹴り飛ばす。
 葬儀屋の拒絶を受けて、蛇は残念そうに嘆息した。

「そうか。よく分かったよ」

 次の瞬間、叫び出したくなるほどの死の気配が一気に周囲へ広がった。

「ではやはり死になさい、愚かで無能な葬儀屋よ。
 君はよく働いた。最後くらいは自分の葬式を用立てるといい」

 初撃はアギリ。
 弾ける燃焼が、魂ごと焼き払う殺意に変わる。
 誘爆するように広がっていく嚇き火。
 それに眉ひとつ動かさず、蛇が再び右手を振るった。だが起きた事象は先の比でない。

 蛇の腕が激しく撓り、傍らのビルをバターでも切り分けるように切断した。
 単なる横一閃ではない。
 軌道は確かにそうだったが、実際斬られた建造物は一撃にして百以上の立方体に断割されていた。
 それが空から、形を保ったまま落ちてくる。回避など考えるべくもない質量の絨毯爆撃となって、路地裏の全域を埋め尽くす。

「きゃ、あ――!?」
「静かに。舌を噛むよ」

 思わず叫んだレミュリンを、アギリは物語の王子様のように手厚く抱きかかえた。
 そうして駆けながら、右腕のみを起点に炎の超噴射を繰り出す。
 自分達に降りかかる瓦礫だけを焼却して生存圏を作り出し、息継ぎなしで火矢の流星群を蛇に七十ほど放った。

「退魔四家の末裔ともあろう者が無様じゃないか。
 精彩を欠きすぎだよ、魔眼は精度が命だろうに。
 それとも、僕が手取り足取り教えてあげようか? 若造」

 男の全身から生えて蠢く蛇頭が、それを餌のように食らって呑み込む。
 余波の熱は男の皮膚(ウロコ)を薄皮さえ剥がせず、結果として王の戯れを許す。

「ほら、こうやるんだ」
「ッ」

 蛇の眼光が、一瞬激しく輝いたのを見た。
 失策であったと、アギリはすぐに気付く。
 全身の神経が瞬間的に停止し、あらゆる伝達信号が動作の段階に届かず断絶する。

 〈葬儀屋〉は、蛇に睨まれた蛙、ということわざを思い出していた。
 蛇とは邪視の象徴。ギリシャ神話のメドゥーサが目視した相手を石に変えたように、穢れた蛇は目線一つで魂を縛る。

(視線に宿る神経毒か――!)

 恐らくは蛇として肥大する中で獲得した後天性の魔眼だろう。
 束縛の魔眼など珍しくもないが、これは毒素の類だとアギリの経験が告げる。
 まともに止められたのは失策だったが、幸いにしてアギリもまた魔眼遣い。

 蛇の追撃が来るより早く、全力の嚇炎を再び撃ち放った。
 加減なしの燃焼に神経の焼け付くような激痛が走るが、痛みでアギリは止められない。
 幸い、魔眼としての格はそう高くないらしい。
 自分自身を薪木にして放つ性質が幸いしてか、麻痺した筋肉に力が戻るのを感じた。
 蛇の視線毒は、超高熱で灼けば失活する。

「おい、君」
「……っ!」
「できるだけ息もゆっくりした方がいい。
 見ての通り僕は火力重視でね。熱気を吸い込めば気道が焼け焦げる」

 レミュリンは魔術戦においてほぼ素人と言っていい。
 白黒の魔女との戦いも、あちらが初段から本気を出していれば、彼女など歯牙にもかけられなかったろう。
 されどそんな彼女でも、アギリが自分のせいで全力を出せずにいることは分かった。

「……どうして、助けてくれるの。あなたは、わたしの――」
「勘違いするな。君にはこれから命を懸けて真価を魅せてもらうんだ、こんなのはその前の掃除に過ぎない」

 悪鬼の声に背筋が粟立つ。
 これが狂気。これが狂人。
 自分ごときの物差しで彼らを測ろうとすれば致死の火傷を負うと、レミュリンは理解する。

「人より自分の心配をすることだ。言っておくが僕は、他の連中ほど甘くはないよ」

 助けているわけではないのだ。
 彼は彼にしか分からない"なにか"を見出しており、その真贋を確かめる前に死なれては困ると思っているだけ。
 だから死なせない。レミュリン・ウェルブレイシス・スタールが玉か石か見極めるため、全霊を尽くしてそれを守る。
 狂気の中で輝く彼だけの正道が、どうしようもなく詰んでいたレミュリンを次の地獄へと誘っていた。

「格好いいじゃないか。
 だが笑えるね。薄汚い焼殺装置が人の真似事とは」

 怪人の背に生えた無数の蛇が、音に迫る速度で蠢動する。
 粉塵と黒煙の烟る路地裏にて、百重二百重の布陣を敷いて襲うそれは支配者の鞭。

 しかも厄介なことに、頭のひとつひとつが極めて強力な弾性を有していた。
 言うなれば数百個のスーパーボールを超高速でデタラメにぶち撒けたようなもので、こうなると軌道を読むことはいよいよ不可能の域である。
 他の物体に触れずとも、空(くう)そのものを形として掴んでいるかのように独りでにバウンドを繰り返し、しかも跳ねた回数だけ速度が加速。
 下手すればスカディでも手を焼くのではないか、とアギリは思った。

 こんな怪物がまるで人間のような面をして紛れ込んでいたことに改めて辟易する。
 分かっていたことだが、祓葉の向こう見ずは常軌を逸していた。そこが可愛いのだが。

「下がってな」
「あぐっ……!」

 抱えていたレミュリンを後ろに放り捨て、アギリは此処でリミッターを外す。
 彼は力の性質上、誰かを抱えたままでは本気を出せない。
 自分の熱で守るべき相手まで焼き尽くしてしまうからだ。しかしそれを手放したなら、彼は正真正銘炎の悪鬼となる。

「羨ましいかよ化け物。僕もお姉(妹)ちゃんと会って初めて知ったけどね――いいもんだぜ、人間ってのは」

 全身から涎のように溢れ出す、魂まで焦がす地獄の業火。
 炎とは触れるすべてを焼却する自然現象。
 故に本気のアギリは、さながら攻防一体の鎧を纏っているようなものだ。
 肩を掠めた蛇の牙が、傷を付ける前にあまりの熱量で溶け落ちる。

 狂相を浮かべながら一個の炎と化したアギリは、まさに火力の化身であった。
 レミュリンに何度目かの死を予感させた蛇頭の跳梁乱舞をさえ、熱量に飽かして正面から焼き払っていく。

 赤色の矮星めいた姿になった狂気の衛星。
 先ほど彼は少女に激しい呼吸を諌めたが、慧眼だったと言わざるを得ない。
 彼の周りの大気は、数メートルの距離を保って尚火災現場と変わらない温度にまで上昇していた。

「特に家族は最高だ。兄のように連れ添い、弟のように慕うことのなんて充実したことか! 
 ああ、食ってばかりのケダモノ野郎にはわかんねえかなぁ? 
 く、くくくくきははははッ! 可哀想だぜロリコン野郎! 僕はお前の性癖(ステージ)なんて、とっくの昔に超越したぞッ!」

 高らかな哄笑と共に放つ爆炎の大津波。
 蛇が崩した建物の残骸をもろともに巻き込みながら、その熱はあらゆる生命の息遣いを否定した。
 文字通り息ひとつ許さない、雪靴の女神が開帳したのとはまた別種の死界(ムスペルヘイム)。

 英霊でさえまともに触れれば深手は免れないだろう火炎地獄の向こうから、しかし"蛇"の声がする。


「それは結構だが、見くびられるのは心外だな。僕にだって家族の尊さくらいは分かる」

 いいや。
 それだけ、ではない。


『 あかいくつ はいてた おんなのこ
  いじんさんに つれられて いっちゃった 』

『 めりーさんの ひつじ
  め ぇ め ぇ
  ひ、つ、じ 』

『 さっちゃんはね さちこっていうんだ ほんとはね 』


 ぞくり――、と。
 魂ごと一瞬で氷点下まで冷え渡るような戦慄が、アギリ達を同時に凍らせた。

 蛇の言葉と重なるようにして、ここにいる筈のない誰かの声がする。
 幼女の声だ。声質もトーンも違う無数の子どもの声が、輪唱のように童歌を詠っている。
 路地裏は灼熱地獄。アギリの後方は多少マシだが、前方はそこにいるだけで肌が焼け爛れる温度に達して余りある。
 いる筈がない。こんな死界の只中に、幼い子どもの生存しうる余地などあるものか。

『 もーもたろさん ももたろさん おこしにつけた きびだんご ひとつ わたしにくださいな 』「僕はこう見えて何人かの父親をやっていてね。首の座らない頃から見てると流石に愛着が湧く」『 だけど ちっちゃいから じぶんのこと さっちゃんってよぶんだよ かわいいね さっちゃん 』「血を分けた家族を食べるのは、なんともまあ格別でねぇ……」『 はるがきた はるがきた どーこーにーきた 』「ああ、例えるならよく熟れた桃が近いかな。頬が落ちるように甘くて、自然と笑顔に」『 むかし むかし うらしまは たすけたかめに つれられて 』「なれるんだ。君も機会があればやってみると」『 せっせっせー の よいよいよい 』「いいよ。偶然結ぶ縁も素晴らしいが、時には自分の手で育てるのもいいものだ」

 びちゃびちゃという水音が響いた。
 それさえ童歌の渦の中に埋もれてろくに聞き取れない。
 レミュリンは口を押さえて、指の隙間から吐瀉物を溢れさせていた。

 気持ちが悪い。吐き気が閾値を超えている。
 何故こんなに気分を害しているのかさえ説明できないが、自分が本物の地獄に触れていることだけは理解できた。

 もののたとえではなく、まさにこれこそそうなのだと本能で覚る。
 意識を保つだけで精一杯。毛穴という毛穴に極小の虫が集っているような錯覚を抱いて、レミュリンは気付けば肩を掻き毟っていた。
 その箇所が先ほど蛇に触れられていた部分であることは、きっと偶然ではないだろう。

「君にも自己紹介しておこう。僕の名前は神寂縁。祓葉ちゃんとは叔姪の関係にあたる」

 蛇杖堂寂句でさえ驚いた。
 ノクト・サムスタンプでさえ瞠目した。
 赤坂亜切にとっても確かに衝撃だったが、彼の場合固まっている暇はなかった。

「流石にあの子の衛星は聡い。
 僕を暴いたのは君で三人目だが、さっきのが最も不覚だった。
 かわいいかわいい愛しのレミーを、いいところで掻っ攫われてしまったわけだからね」

 アギリはレミュリンとは違う。
 魔術の世界に深く精通し、殺すために学び、道を究めてきた精鋭だ。
 だから理解できた。今まさに世界を蝕んでいる事象の正体、そこに伴う理屈の名を。


「レミーだっけか。悪いね、話が変わった。逃げるよ」


 ――――これは固有結界の展開、その前兆だ。

 リアリティ・マーブル。
 元は悪魔と呼ばれるモノだけが持っていた異界常識。
 個人の心象を現実に侵食させ、空想を具現化する結界術の極致。


 アギリは過去二度これの使い手を屠ったことがあるが、蛇……神寂縁が具現化させようとしているモノはそのどちらとも比較にならない。
 よって選ぶのは即時の撤退以外になかった。
 彼にとって一番の優先事項はレミュリン・ウェルブレイシス・スタールの防衛だ。
 彼女を抱えてこの蛇を殺すか、同じ条件でこれから逃げ遂せるか。
 さっきまで拮抗していた天秤の上下が狂った時点で、決断することに迷いはない。

「ぅ、ぷ……、レミュリン、レミュリンです……ッ」
「――ああ、やっと思い出した。なるほどね、確かに君には僕を追う動機がある」

 踵を返し、再び少女の痩躯を抱き上げて走る。

 出会っただけでは分からなかった。
 名前を呼ばれて、何か可怪しいことに気づいた。
 しかしこうして名前を聞いて、ようやく点と点が繋がる。
 更に言うなら、彼女が自分の名前を知っていたことについても。

「無事に生き延びたら恨み言くらいは聞いてあげよう。
 それも含めて魅せてくれ、レミュリン・ウェルブレイシス・スタール。四つ目の灰になりたくないのなら」

 赤坂亜切は罪悪感というものを知らない。
 かつては無機な道具で。今は星に灼かれた狂人だ。
 そんな彼の中にはどうあっても、自らの行状を悔いるという感情が生まれ得ない。

 だから少女の戦う理由を理解しても動じることなく、あくまで自分の欲求だけを指針に行動する。
 異界化しゆく戦場を抜け、彼女という石塊を塵か星か見極めるのだ。
 その熱さえあれば、嚇炎の悪鬼は相手が誰であろうと一切不変。
 真紅の流れ星として、魂を燃やしながらひた走る。

「僕もまだまだ未熟でね。時にありつき損ねることもある」

 背後から響くのは、捕食者の聲。
 走っても走っても音の遠ざかる気配がない。
 男の粘つく声音と童歌の輪唱が、形のない蛇となってアギリの足に絡みつく。

「けれど、僕の真実を知って生き延びた子はひとりもいない。
 何故だと思う?」

 蛇がい『 とおりゃんせ とおりゃんせ 』『 たけにたんざく たなばたまつり 』る。
 誰も『 かごめ かごめ かごのなかの とりは 』これか『 おちゃらか おちゃらか おちゃらか ほい 』ら逃げ『 あるーひ もりのなーか くまさんに であった 』られない。
 『 うみは ひろいな おおきいな 』『 かって うれしい はないちもんめ 』『 あーるーぷーす いちまんじゃーく こやりの うーえで 』


「――――すべて殺すからだ。僕は、僕に支配されないいのちが大嫌いなんだ」


 赤坂亜切は、パンドラの匣を開けてしまった。
 蛇杖堂寂句とノクト・サムスタンプがどちらとも辿り着き、しかし踏み越えはしなかった絶対の一線。
 蛇の捕食を妨害し、腹に収まるべき生贄を掠め取る最大のタブー。
 これが侵された瞬間、穢れた蛇は怒り狂ってその総体を流出させる。

「ウォーミングアップだ、まずは五割といこう」

 アギリの右耳が千切れ飛んだ。
 知覚できる域を超えた速度で飛んできた蛇頭が、痛みさえ遅れるほど華麗に食み取った。

 それでも足は止めない。
 止める選択肢はない―― 一秒でも止まったなら死ぬと分かるから。

「ずいぶんセコい超越者がいたもんだ。僕ごときに暴かれるような三下が偉そうにしてんじゃねえッ!」
「耳が痛い。これから取り返すから大目に見てくれよ、ははは」

 周りの景色が、比喩でなく粉塵に変わっていく。
 視界の端に鞠を突く童女の姿が見え始めた。
 恐らく猶予はもうそれほどないし、何より追撃してくる蛇の心象のおぞましさで吐き気がする。

 これは、かの者が食らってきたすべての魂が遊ぶ極小規模の〈死後の世界〉だ。
 アギリの視界は魂の領域。よって彼だけは、蛇の世界を展開を待つことなく知覚できる。
 彼の眼には、視界のあらゆる場所で戯れながら詠い続ける無数の魂が視えていた。
 問題はその数だ。結界が完成していない現時点でさえ千を超えている。

「レミーを置いて死になさい。それは僕のものだ、知った顔で触れるんじゃない」

 アギリは、レミュリンを抱えた状態では炎の全力(すべて)を展開できない。
 そのせいで一秒ごとに身体が削られる。が、だとしてもレミュリンを手放す択はなかった。

 振り向きざまに視線を介して炎を放つ。
 無駄ではない。無駄ではないが、殺し切るにはあまりに途方がない。
 恐らく蛇の真髄は蓄えた魂の数にこそある。
 一回一殺では到底足りない。無限大に等しい耐久力こそ、神寂縁を怪物たらしめる最大の柱。

「あ……、アギリ・アカサカ……!」
「アギリでいい。何だい、見ての通り忙しいんだけど」
「傷が……血が……!」
「――なんだ、そんなことか。君、あまりつまんないこと気にすんなよ」

 傷? できた端から焼いてしまえばいい。
 血? 気にした試しもないよ、くだらない。

「君ごときが僕を縛るな。僕はいつだって、愛する家族のためにしか行動しない」

 真に成すべきことがあるのなら、限界など軽く超えてみせるのが男だろう。
 行動の継続が困難な量の血を流しながらもアギリはまるでブレない。
 狂気とは病痾であり、同時に人間を怪物に変える究極の熱量である。

「採点はまだだが、僕の家族な可能性がある以上見捨てる選択肢なんかないんだよ。
 いいから黙って掴まってな。心配しなくても、要らなくなったらすぐに投げ捨ててやる」

 己が至上命題のためならば、アギリは自分の死すら問題としない。
 浮かべた笑顔に震えはなく、この状況でも彼は彼のままだった。

「それに……僕だって、ちゃんと考えてるんだ」

 蛇が来る。悪魔が来る。ヒトのままヒトを逸脱した〈支配の蛇〉が来る。
 姓は神寂。都市において神を意味する名。
 名は縁。都市において運命を包括する名。
 固有結界の完成はすなわちアギリ、レミュリン両名の死。
 英霊なき彼らでは決して、〈支配の蛇〉のその原罪/心象から逃れられない。


『 おおきな くりの きのしたで あーなーたーと わーたーしー 』

『 いーぬーの おまわりさん こまってしまって わんわんわわーん わんわんわわーん 』

『 でんでんむしむし かたつむり おまえのめだまは どこにある 』


 もう、レミュリンにさえ戯(あそ)ぶ幼女の姿が見えていた。
 くすくす、くすくす。
 嗤う犠牲者の顔が視界の隅に捉えただけでも脳裏に永劫こびりつく。


『 む           す   ん     で       ひー    らぁ   いー て  『 ぞ   うさん     ぞ うさ      ん     お  はな     が   なが   い の    ね 』  『  しゃ ぼん    だま     と   ん               だ』               『   もぉ      いぃ く   つ     ね   る と    お   しょう      が   つ   』  て   を     うぅっ   て      む  ぅ       す  んで    』  


 悪意なき呪詛。蝉の鳴き声に毒があったらどうなるかという問いの解答。
 レミュリンはほぼ反射的に両耳を塞ぎ、目を瞑っていた。
 自分の家族を殺した仇に抱えられながら視聴覚を手放すなんて正気とは思えないが、聴き続けていたら気が狂うと確信したのだ。

 アギリは彼女に比べると精神毒への耐性があったが、それでも視床下部をスプーンで抉られるような頭痛を感じている。
 恐らく長くは耐えられない。
 完成前でさえこれなのだ。もし完全に取り込まれたらどうなるかなど想像に難くない。

「鬼さんこちら――」

 なのにアギリは目耳を塞がず、抱えたレミュリンも手放すことなく嗤い続ける。
 生ける死人(リビングデッド)たる彼にとって痛みとは生の象徴。
 むしろありがたかった。魂の燃焼がもたらす耐えがたい喪失感を、痛みのおかげで誤魔化せるから。

「――手の鳴る方へッ!」

 眼球から放つ大熱波で強引に幻影と幻聴を振り払う。
 が、相変わらず攻撃としては心許ないと言わざるを得ない。
 人間相手ならまだしも、敵はそれを超越した怪物なのだ。

 露払いにも事足りない火炎放射を、蛇は柏手ひとつで無効化する。
 ぱんと叩きつけた両手。そこから生まれた衝撃波が、炎のすべてを押し潰した。
 しかし消したわけではない。アギリが放出した熱波のすべてを、両掌の間に凝縮させている。
 ぐるぐると蜷局を巻く嚇炎。悪鬼の専売特許を最効率化し、指先サイズの渦に変えた。

「お上手お上手、たいへんよくできました。じゃあクーリングオフだ」

 そこから迸る炎熱線が、悪鬼に得意の炎を送り返した。
 直径にしてわずか五センチ弱の熱線。
 が、規模を矮化させた分その貫通力は驚異的な次元にある。

 炎とは名ばかりのそれはさながらレーザー砲撃。
 当たればアギリどころかレミュリンまで爆散させかねない威力であったが、蛇は神業級の魔力操作で爆熱の拡散性を極端に弱めていた。

 超威力と速度はそのままに目的だけを殺害する極効率的な殺人兵器。
 蛇は怪物で、だからこそ万能である。
 万事に通じない者では、楽園(エデン)の支配者は務まらないのだから。

(流石にまずいな。どうする)

 策こそあるが、この切り返しはさしものアギリも予想外だった。
 ここまで使ってこなかった辺り圧縮できる量には限度があるのだろうが、本気を出せない今の自分には十分すぎるほど致命的だ。

(荷物がなければまだ少しは食い下がれるんだが――これ以上は分が悪すぎる。せっかくの悪戯もお披露目しあぐねちまうしな)

 爪を噛みたいがその余裕もない。
 もう視界の端で遊ぶ童たちの姿が数え切れないほどになってきた。
 最後の選択肢は令呪。しかしそれをすれば、いよいよ神寂縁は遊びを捨てて殺しに来るだろう。
 暗殺者は運否天賦を嫌う。生死の佳境でアギリを動かすのは、裏社会の葬儀屋となるべく叩き込まれた思考回路であった。

(アーチャーなら勝てない相手じゃないだろうが、それでも大分しんどい筈だ。
 よしんば勝ったとして、その後僕らに余力がどれほど残る?
 まだお姉(妹)ちゃんの顔も拝めてないんだ。負けてもいいが死ぬわけにはいかない)

 さあ、どうする。
 求められるのは咄嗟の機転、されど間違いがあってはならない。
 刹那の思考の後、アギリは答えを決める。だが彼がそれを出力する前に――

「――――!」

 片目を開き、片手を突き出したレミュリンが何事か叫んだ。

 突然の行動にアギリの判断が一瞬鈍る。
 故に次の瞬間、彼は少女の行動を特等席で目撃した。

「アギリ・アカサカ――!」

 伸ばした手は不格好に震えていて、目からはとめどなく涙が溢れて落ちる。
 怖い。生まれてこの方、これほどの恐怖を味わったことはない。
 そんな恐怖体験の中、レミュリンは震えを吹き飛ばすように叫ぶ。

「わたしは……っ、あなたに! 大事な家族を、殺された!!」

 今も、あの日のことを夢に見る。
 焼け焦げたリビング。並べられた三つの、ひとのカタチをした黒い炭。
 一日だって忘れたことはない。自分の人生に刻まれた、永遠に拭えない三つの欠点。
 なのにその実行犯に守られて、心はもうぐちゃぐちゃだ。頼むから少し考える時間をちょうだいと、慣れない悪態のひとつもついてみたくなる。

「怒ってるし恨んでるし、知りたいこともたくさんある! わたしも、あなたと話をしなきゃ前に進めないの!」
「おい。イかれてるのか、君」
「うるさい! あなたにだけは言われたくない!!」

 でも、確かなことがひとつだけ。
 自分はここで死ぬわけにはいかないし。
 ようやく見つけた家族の仇を取り逃すわけにもいかない。

 ならば。

「だから……わたしも、あなたを助けてあげる――!」

 反芻するのは、少女が知る最も偉大な男の背中。
 それは火と陽の女神を称える聖日であり、春の訪れを祝うケルトの祭りを意味する。
 熱の日々を終わらせる、わたしだけの祝祭。
 届かない彼方にある答えを掴みたい、ひとつきりの"戦う理由"の具現――!


「――――――――『赤紫燈(インボルク)』!」


 刹那、赤紫(マゼンタ)の焔が迸る。
 手本は追ってくる蛇が見せてくれた。
 一点に熱を凝縮させ、矢のように放つイメージ。

 解き放たれた追憶の色彩が、正面から蛇の熱光と激突した。
 溶接のように眩い輝きと、皮膚を焼くほどの熱風が広がる。
 咄嗟にアギリが火で相殺していなければ、レミュリン自身も重度の火傷を負っていただろう。

「レミー、君は……」

 蛇は、呆然とその光景を見つめていた。
 怖気ではなく感慨で以って、かの者は少女の勇気の開花を見る。

 均衡は緩やかに崩れて混ざり合い、嚇と赤紫が太極図めいた渦を描き出す。
 渦の中心に熱は解けながら寄せ集められ、次第に大気へ溶けていく。
 楪依里朱との激突からわずか半日ほど。二度目の使用にして、蛇の魔技を相殺できる才覚。

「そうか……花開いていたのか、スタールの徒花は……」

 一杯食わされたにも関わらず、蛇が浮かべたのは喜悦の形相だった。
 同時に彼は変体を開始する。
 神寂縁としての顔から、とあるもう捨てた顔へ姿を変える。

「ふっ、く、くはははははは――!!」

 狂笑と共に、胸の前で掌を合わせた。
 己に喰われることこそ慈悲と不遜に豪語する、穢れた神の合掌印だ。

「素晴らしい、満点をあげよう赤坂アギリ!
 よくぞ彼女を生かしてくれた、よくぞあの時仕損じてくれた!
 悪名高き〈葬儀屋〉の辣腕に敬意を表して、最期に僕の体内(せかい)を見せてあげよう!」

 遊びの時間はこれにて終わり。
 支配の蛇はそこにいる。
 開帳される失楽園(ロストエデン)。
 地に落ち藪が繁茂し、暗所に隠された理想郷(ユートピア)。

「水子界(ギャシュリークラム)――――」

 これを宝具などと呼ぶべきではない。
 この幻想に、貴さなど微塵もありはしないのだから。

 あらゆる可能性を否定する犠牲者たちの集団墓地が、4423の死が、遂に悪鬼と忘れ形見の少女を呑み込まんとして――


「要らねえよ、カスが。地獄に落ちろ」


 すべてが終わる瀬戸際で、今にも塗り替えられようとしていた世界が崩れ落ちた。



◇◇



 アギリは走り続けていた。
 路地の行き止まりを熱風でこじ開けて抜け出たはいいが、さしもの彼も息を切らしている。
 蛇と矛を交えた疲労もあったが、それよりも魂の損耗に原因があった。

 火元なくして炎は生み出せない。
 発火能力者たる彼も例には漏れない。
 赤坂亜切は自分自身の魂を燃料に炎を生み出し、文字通り我が身を削りながら戦闘を行う。
 蛇杖堂寂句との戦闘でもだいぶ火力を使ったが、先の数分はその比ではなかった。
 存在そのものが焼け焦げるような、五感のどれにも依らない痛みが彼を蝕む。

「薄々想像はしてたが、やっぱりそういうカラクリだったか。世の中うまい話はないもんだ」

 これまでアギリは、自分の力の真実を自覚していなかった。
 そこに至るほど火を吐き出したことがなかったからだ。
 が、問題が表層化すればそれに気付けない彼ではない。
 我が身を薪木に変えていた事実を咀嚼しながら、しかし足は止めず、なるだけ角を多く曲がりながら退路を拓いていく。

(燃え尽きるならお姉(妹)ちゃんとの聖戦だ、これは譲れない。となるとどうやってあのロリコン野郎を撒くかだな)

 まったく、厄介な縁を紡いでしまったものだと思う。
 標的三人の抹殺で満足し、才能のない末妹を見逃したことも含めてだ。
 だがその失策が自分に新たな地平を見せようとしていると考えれば、悪くないとも言えた。

「意識はあるかい?」
「ぅ……あ、ッ。う、ん……」
「悪いがもう少し踏ん張ってくれ。
 助けてやったんだ、令呪を使う必要があればその時は君に負担してもらう」
「えっ」

 アギリは、雪村鉄志のことを思い出していた。
 あの男が口にした蛇とは、十中八九神寂縁のことだろう。
 そして自分は蛇の真実を突き止めた。
 このことは、彼らに対する優位として利用できるかもしれない。

「さ、最後はわたしが助けたのに……!」
「どう考えても僕の仕事の方が多かっただろ、文句言うなら置いてくけど?」
「ぅ、ううぅう……。分かった、分かったから早く走って、アギリ……!」
「はいはい」

 それに――蛇穴から得た彼女の存在。
 窮地を共にして尚、アギリは彼女が自分にとっての何なのかを測りかねていた。
 恒星の資格者。妹。そうなのか、違うのか。もしくはもっと別な理由でこの心を掴まれているのか。

 知らねばならない。
 知らぬままでは殺せない。
 よって死なせない、是が非でも守り抜いて見極める。

 確信があるのだ。理由はないが、魂が理解している。
 このときめきの実像を知れば、その時自分は必ずや更なる成長を得られると。
 神寂祓葉は未知を愛する。変わらないものより、変わりゆく何かにこそ彼女は微笑む。
 祓葉を喜ばせるのが六凶の務め。目の前にある未知を喰らいて、嚇炎の悪鬼(ぼく)は地獄の先に至ってみせよう。

 アギリは走る。
 レミュリンは彼の腕の中で揺られ続ける。

(エリさん……、あの人、"スタール"って……。
 それに、アレは――)

 揺られながら、彼女は世界が崩れる前の一瞬に見聞きしたことを回想する。
 スタールの徒花。蛇杖堂絵里を騙る蛇、神寂縁は確かにそう言った。

 そして最後の時。
 彼が蠢くように変体し、自分に見せた別のカタチ。

あの顔(・・・)は……)

 その人相を、レミュリンは覚えていた。
 家族を失った自分の後見人を買って出、惜しまず支援してくれた遠縁の親戚。
 自分や亡き母姉と同じ、色素の薄い金髪。老いて尚よく笑う、――今思えば"あの神父"とよく似た顔で笑っていた男。

(ジェームズ、おじ様……?)

 ジェームズ・アルトライズ・スタールという男の顔だった。
 他人の空似などではない。悟るや否や、魔術回路の過剰励起による全身の熱さも忘れるほどの冷感が駆け抜ける。
 "神父さま"も"おじ様"も、"エリさん"も、すべて彼であったのだ。
 レミュリンを取り巻く縁の鎖はいつしか、絡み合う無数の蛇で構成されていた。

 世界は蛇(かれ)に支配されている。
 藪はいつだって、誰もの背後に口を開けている。



◇◇



「地盤沈下か。やれやれ、やられたね」

 アギリの秘策とは、熱を用いて地下を溶解させることによる道路崩落だった。

 彼は全身、あらゆる場所から炎を発することができる。
 これによりアギリはレミュリンを抱えて逃げながら、足元から熱を浸透させることで地下空間に大火災を引き起こしていた。
 魂と魔力を大きく摩耗させるのも厭わぬ全力展開。
 無茶の甲斐あって何とか肝腎の一瞬までに崩落の条件は達成され、蛇は奈落の底まで引きずり下ろされる羽目になったわけだ。

 固有結界の展開が完了するギリギリのところで、赤坂亜切は間に合った。
 レミュリン・ウェルブレイシス・スタールの決死の行動がその一助になったことは言うまでもない。
 蛇はまたしても捕食に失敗した。正体を知られながら、隠滅をし損ねた。

「正直言って痛恨だが、まあいい。得られたものはそれ以上に大きかった。
 初代(ウェルブレイシス)の後を継ぎ得る器、スタールの徒花。
 『燃焼時計』はまだ生きている。僕の野望は期せずして最終段階に至った」

 蛇・神寂縁が目指す最終到達点とは、世界のすべてが自分によって支配されることだ。
 比喩ではない。真実、この惑星の全生物が自分の管轄下に置かれる未来を彼は望んでいる。

 では、それを叶えるためには何が必要か。
 いくつかのプランを用立てた。
 世界を統括し、支配者の意思で自在に跪かせられる理(システム)を求めた。
 そのひとつこそが『燃焼時計』。時に取り憑かれた一族が縋り付く、古びくすんだ時計である。

 しかし如何に彼が人智を超えた怪物であるといえど、世界の掌握なんて簡単なことではない。
 期待していたプランは軒並み頓挫した。
 『燃焼時計』も例に漏れずそうだ。親族の一員として潜り込み得た秘術の実像は、とてもではないが児戯の域を出ないものであった。
 というより、器が悪い。この器では、初代ウェルブレイシスの二の舞にはなれてもその先には到底至れない。

 蛇の失望は凄まじかった。
 ああだこうだと御大層な大義を並べておきながら、蓋を開けてみれば情けないほど陥穽だらけの希望論だったのだから。
 夫妻が頼みの綱とした器――ジュリン・ウェルブレイシス・スタールは初代の模造品。実に不出来な人柱。
 では次女はと思ったが、そちらには魔術回路すら受け継がせていないと来た。
 人でなしがケダモノなりに人間の真似事でもしているのかと笑えたがそれだけだ。

 プランが頓挫したのなら、次は介入の痕跡を消す必要がある。
 自分でやってもいい。ただどうせなら、やはりそれらしい第三者にやらせるのがベターだろう。
 そうして当時、ジェームズ・アルトライズ・スタールという名で『燃焼時計』を観察していた蛇はすぐさま〈葬儀屋〉への窓口を開いた。

「ジュリーを食べ損ねたのだけは残念だったからねぇ。あの子も可愛かった。できれば死なせたくはなかった。
 だから生き延びたレミーくらいは、せめてこの腹に収めてやろうと思っていたんだが……いやあ、本当に見事だよアギリくん。
 証拠隠滅に加え、アフターケアまで万全だなんて見上げたものだ。よくぞレミーを殺さないでくれた」

 スタール家の主要な顔触れは鏖殺。
 生き残った次女は未来の獲物。
 蛇はもう、『燃焼時計』に未練など抱いてはいなかったが――スタールの遺児は嬉しい誤算となって彼の前に戻ってきた。

「おかげで見えたよ、僕の理想の最終形が。
 やはり"時間"だ。ウェルブレイシスの後継を用立てることで宇宙の最果てを観測し、手にした真理で"逆行"を修める。
 レミーを人柱にして行う時の加速。その顛末として得られる情報を以って、僕は時の逆行を成し遂げる。
 あまねく時間を司る真の支配者……僕の手であらゆる歳月が巡り戻る、神のための世界。それこそ僕の楽園だ」

 夫妻と長女の犠牲は無駄にしない。
 レミュリンを喰らうことで燃焼時計理論を実証し、根源に到達する。
 時を進めるだけでなく、逆に戻す手法をも得、加速と逆行の両方をこの手に収める。
 そうしてすべてを支配する。完全無欠にして随意自在、真に揺るぎない神の箱庭を実現する。

 そも、蛇は時の歩みというものが嫌いだった。
 生き物はうら若いほど素晴らしいのに、なぜ針を進める必要があるのだろう?

 進みすぎた針を戻す手段が分かれば、その時とうとう地球上すべてのホモ・サピエンスが己の捕食対象となる。
 倒錯者の楽園だ。戻し、戻し、戻し、戻し――あまねく命を我が胃袋に収めよう。
 その上で永久に飼おう。わが世界、水子界の内側で。

「――それに。何にせよ、僕を知った獲物(こども)が逃げた時点でやるべきことは決まっている」

 ここまでは醜悪なる理想の話。
 ここからは醜悪なる怪物の話。

「雌伏(ミステリー)の時間はこれまで。ここからはただ殲滅(パニックホラー)だ」

 蛇の素顔を知っている者は存在してはならない。
 幸いにしてこの針音都市は出口なき巨大な密室である。
 招かれた命をすべて殺せば、蛇の真実が漏れることはない。

「ノクト・サムスタンプに連絡しようか。
 どうやら彼は仕事を果たしたらしいし、最高の褒美をくれてやろう」

 これまで、神寂縁は戯れていた。
 自分を覆う運命の流れを楽しみ、興味深く観察していた。
 だがその延焼が自分の身体に触れるというのなら、彼は躊躇なく消火する。
 意味するところはつまり、蛇を追う者達の一斉駆除。

 雪村鉄志。
 琴峯ナシロ。
 高乃河二。
 赤坂亜切。

 これより蛇は、四人のマスターの首に懸賞金をかける。
 この都市で最も危険な傭兵に、その身元を売り渡す。
 強いて言うなら少女であるナシロと旧知の仲な雪村は惜しいが、優先するほどの私情でもない。
 この手で喰らわねばならないのはスタールの徒花・レミュリンただひとり。
 それ以外はどこで誰に消されようと、蛇にとって然程問題ではないのだ。

「喜びなさい子どもたち。君達は、立派に僕の敵になった」

 〈支配の蛇〉が、薄暗い藪の中から這い出てきた。
 超巨大な欲望の総体をぬらりと卑猥に蠢かせ、彼の蜷局が都市を覆う。


 もう、誰も逃げられない。



◇◇



【渋谷区・東部 商店街/二日目・早朝】

【赤坂亜切】
[状態]:疲労(大)、魔力消費(大)、眼球にダメージ、左手に肉腫跡、右耳欠損、妄信
[令呪]:残り三画
[装備]:『嚇炎の魔眼』、M360J「SAKURA」(残弾3発)
[道具]:魔眼殺しの眼鏡(模造品)
[所持金]:潤沢。殺し屋として働いた報酬がほぼ手つかずで残っている。
[思考・状況]
基本方針:優勝する。お姉(妹)ちゃんを手に入れる。
0:レミュリン・ウェルブレイシス・スタールを見極める。そのためにも、まずは蛇を撒く。
1:適当に参加者を間引きながらお姉(妹)ちゃんを探す。
2:日中はある程度力を抑え、夜間に本格的な狩りを実行する。
3:他の〈はじまりの六人〉を警戒しつつ、情報を集める。
4:神寂縁。〈蛇〉。雪村のオッサン相手に使えそうなネタだが、さて。
5:〈恒星の資格者〉は実在する。忌まわしいことだが。
6:脱出王は次に会ったら必ず殺す。希彦に情報を流してやるか考え中
7:じゃあな、蛇杖堂寂句。あんたの英霊もすぐそっちに送ってやるよ。
[備考]
※彼の所持する魔眼殺しの眼鏡は質の低い模造品であり、力を抑えるに十全な代物ではありません。
※香篤井希彦の連絡先を入手しました。

※ホムンクルス36号の見立てによると、自身の魂を燃やす彼の炎は無限ではなく、終わりが見えているようです。
 具体的にどの程度の猶予があるかは後続の書き手にお任せします。
※一回目の聖杯戦争で組んでいたランサーは、鬼若(いわゆる武蔵坊弁慶)でした。


【レミュリン・ウェルブレイシス・スタール】
[状態]:疲労(中)、全身にダメージ(小)、吐き気、決意
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:6万円程度(5月分の生活費)
[思考・状況]
基本方針:――進む。わたしの知りたい、答えのもとへ。
0:あの人は、ずっとわたしのそばにいたの?
1:胸を張ってランサーの隣に立てる、魔術師になりたい。
2:アギリ・アカサカと話す。そうでなくちゃ、わたしはあの日から抜け出せない。
[備考]
※自分の両親と姉の仇が赤坂亜切であること、彼がマスターとして聖杯戦争に参加していることを知りました。
※ルーン魔術の加護により物理・魔術攻撃への耐久力が上がっています。
またルーンを介することで指先から魔力を弾丸として放てますが、威力はそれほど高くないです。
※炎を操る術『赤紫燈(インボルク)』を体得しました。規模や応用の詳細、またどの程度制御できるのかは後のリレーにお任せします。
※アギリ以外の〈はじまりの六人〉に関する情報をイリスから与えられました。
※〈はじまりの聖杯戦争〉についての考察を高乃河二から聞きました。
※アギリがサーヴァントとして神霊スカディを従えているという情報を得ました。
※高乃河二、琴峯ナシロの連絡先を得ました。

※右腕にスタール家の魔術刻印のごく一部が継承されています(火傷痕のような文様)。
※刻印を通して姉の記憶の一部を観ています。


【渋谷区・東部 路地裏/二日目・早朝】

【神寂縁】
[状態]:〈ジェームズ・アルトライズ・スタール〉
[令呪]:残り3画
[装備]:様々(偽る身分による)
[道具]:様々(偽る身分による)
[所持金]:潤沢
[思考・状況]
基本方針:この聖杯戦争を堪能する。
0:都市の全員を殺し、〈蛇〉の素性を知る者を消し去る。
1:レミュリンを喰う。
2:ノクト・サムスタンプと連絡を取り、自分が知る"遺族達"の情報を提供する。
3:蝗害を追う集団のことは、一旦アーチャーに任せる。
4:楪依里朱に対する興味を失いつつある。しかし捕食のチャンスは伺っている。
5:祓葉は素晴らしい。いずれ必ず腹に収める。彼女には、その価値がある。
[備考]
※奪った身分を演じる際、無意識のうちに、認識阻害の魔術に近い能力を行使していることが確認されました。
 とはいえ本来であれは察知も対策も困難です。

※神寂縁の化けの皮として、個人輸入代行業者、サーペントトレード有限会社社長・水池魅鳥(みずち・みどり)が追加されました。
 裏社会ではカネ次第で銃器や麻薬、魔術関連の品々などなんでも用意する調達屋として知られています。

※楪依里朱について基本的な情報(名前、顔写真、高校名、住所等)を入手しました。
 蛇杖堂寂句との間には、蛇杖堂一族に属する静寂暁美として、緊急連絡が可能なホットラインが結ばれています。

※赤坂亜切の存在を知ったため、広域指定暴力団烈帛會理事長『山本帝一』の顔を予選段階で捨てています。
 山本帝一は赤坂亜切に依頼を行ったことがあるようです。
  →赤坂亜切に『スタール一家』の殺害を依頼したようです。

※神寂縁の化けの皮として、マスター・蛇杖堂絵里(じゃじょうどう・えり)が追加されました。
 雪村鉄志の娘・絵里の魂を用いており、外見は雪村絵里が成人した頃の姿かたちです。
 設定:偶然〈古びた懐中時計〉を手にし、この都市に迷い込んだ非業の人。二十歳。
    幸は薄く、しかし人並みの善性を忘れない。特定の願いよりも自分と、できるだけ多くの命の生存を選ぶ。
    懐中時計により開花した魔術は……身体強化。四肢を柔軟に撓らせ、それそのものを武器として戦う。
    蛇杖堂家の子であるが、その宿命を嫌った両親により市井に逃され、そのまま育った。ぜんぶ嘘ですけど。

→蛇杖堂絵里としての立ち回り方針は以下の通り。
 ・蝗害を追う集団に潜入し楪依里朱に行き着くならそれの捕食。
  →これについては一旦アーチャーに任せる方針のようですが、詳細な指示は後続の書き手にお任せします。
 ・救済機構に行き着くならそれの破壊。
 ・更に隙があれば集団内の捕食対象(現在はレミュリン・ウェルブレイシス・スタールと琴峯ナシロ)を飲み込む。

※蛇の体内は異界化しています。彼はそこに数多の通信端末を呑み込み、体内で操作しつつ都度生成した疑似声帯を用いて通話することで『どこにでもいる』状態を成立させているようです。
 この方法で発した声、および体内の音声は外に漏れません。

※スタール家の〈燃焼時計〉計画にジェームズ・アルトライズ・スタールとして関与していました。
 蛇の最終目的は完成した〈燃焼時計〉で根源に到達、時を操る真理を得ることです。


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最終更新:2025年11月15日 01:25