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たった1つの思い ◆YYVYMNVZTk



気付いたときには、もう手遅れだった。
左の脇腹に鋭い熱を感じ、同時に頭の芯から重い靄が広がっていく。
懸命に振り向こうとしても、もう首が回らない。
おそらくは即効性の麻酔薬――身体の自由が奪われていく。
気を抜いていたのは確かだった。けれど決して油断していたわけではない。
気配も殺気もまるで感じない相手だったのだ。……言い訳にもならないけれど。
目の前には赤い絨毯。あと一秒もしないうちに顔面で床とキス。
しかし、それよりも早くシンシア・ロウは意識を手放した。

 ◆

「……っ、くはぁっ!」

知らず知らずのうちに止まっていた呼吸。
大きく息を吸い、吐き出した。荒れたままの呼吸は、まだまだ戻りそうにない。
だけど――

「やった……んすよね」

呟く少女の手に握られていたのは、三十センチほどの長さの針だった。
その先端には倒れ伏した少女の血がこびりついている。
いや、針をよく見てみればそこに塗られているものが血だけではないことに気付くだろう。
薄く白みがかった液体が血と混じりながら白と赤の斑模様を作っている。
塗られていたのは、ぽたりと垂れる一滴だけで巨象を昏倒させるに十分な麻酔薬である。
薬も過ぎれば毒薬だとよく言ったものだ。人体に処方すれば即座に永久の眠りに導かれてもおかしくない。
少女は、東横桃子は液体の効力を知っていながら、それでもそれを使用した。
込められていたのは、積極的では無いにせよ、相手が死んでもいいという未必の殺意である。
そう、桃子は――この殺し合いに乗っているのだ。

東横桃子には短所とも長所とも言える、一つの体質がある。
どうやら桃子の存在は他者にとっては薄く、淡く、まるで空気のようなものであるらしい。
隣に座っていても、喋りかけられることはない。他の人の「普通」で桃子が喋りかけても、気付かれることなく無視される。
懸命に他者の気を引いて、それでようやく気が付いてもらえる。
逆に言えば――その気になれば、誰にも気付かれることなく、一生独りで過ごすことも出来る。
誰のレーダーにも補足されることなく、独りでいられるステルス性が、桃子の性質だったのだ。
シンシアに気付かれることなく針を刺すことが出来たのも、ステルス能力を最大限に発揮したおかげである。
気配を、存在を消し忍び寄る――ステルスモモの本領発揮。

幸い状況も桃子の味方をしていた。
桃子が目を覚ましたのはF-6に位置する教会だった。
桃子が支給品を確認するためにひとまず礼拝堂の椅子と椅子の間に身を隠し、物品を検分していたときに現れたのがシンシアだった。
ギギギとしわがれた音を立てながら突然開かれた扉に、桃子の心音は高鳴り――そして、ここが分岐点になるのだと直感した。
現れたのは広く大きなおでこが特徴的な小柄な少女だった。
少女は礼拝堂の内装にいたく感動している様子だった。
確かにこんな状況でさえなければゆっくりと雰囲気に浸りたくなるような厳かさと神秘性が、この場所にはある。
少女は赤絨毯の上を踏みしめ、最奥にそびえるマリア像へ向かい歩を進める。
桃子のすぐ二メートル横を、少女は歩いていく。それでも桃子の方には一瞥すらない。まったく気付いていないようだった。
思わず息を止めた。少女に自分の存在を気付かれてはいけない。心臓の音さえも止めてしまいたいほどだった。
ここが殺し合いの場所であるということを差し引いても、桃子の反応は過敏に過ぎた。
……おそらく、桃子の中では既に予感があったのだろう。この先、自分が何をしてしまうのか。

少女がマリア像の前で立ち止まり、両手を祈りの形に組んだ。
目をつぶり、祈りの言葉らしき何かを呟いている。
決して気取られぬように、桃子はその背後へと近付いていく。
そろりそろりと音を立てず、自らを隠し通したまま慎重に。

そして、そのまま全体重をかけて、少女の身体に針を刺した。
あまりにも呆気無く、単純な作業だった。
それだけで少女は倒れ、無防備な姿を桃子の前に晒している。
桃子はいつでも、この少女を殺すことが出来る――もう一つの支給品である肉厚のサバイバルナイフを、この背中から心臓にかけて突き刺せば、いつでも。

やってしまえば、いい。
頭の中では分かっている。いや、分かってないのかも、知れない。
少なくとも現代日本においては、やってしまえばいいなどという思考のもとに殺人を犯してしまえば、一般的な生活には別れを告げなければいけない。
そんな当たり前のセーフティ、倫理観は桃子だって当然のように備えている。
だが、十数年という決して短くはない時間をかけて培ってきた価値観がいとも容易く壊れようとしている。
やってはいけない、から、やってしまえばいい、に変化してしまいそうになっている。

桃子の手は血で濡れていた。もう乾きかけのそれは、目前の少女のものではなく――見せしめとして殺された、少年のものだ。
クロノ・ハラオウンが首を爆破されたその時、彼の最も近くにいた人間というのが、他ならぬ東横桃子であったのだ。
転がった首。溢れ出る血液。呆然と座り込んだ桃子の手を濡らした赤は、温かかった。
SFXやCGなんかじゃない。現実だ。現実に起こった人の死なのだ。
だからきっと――本当に最後の一人になるまで、自分たちは殺し合いを続けるしかないのだろうと、諦めてしまった。

使用済みの針を床に置き、ナイフと持ち替える。
重い。気を抜けばそのまま取り落としてしまいそうな重みがある。
ごくり、と息を飲む。自分は、今から、明確な殺意を以て――この刃を、突き刺す。
その光景を想像したら足が震えた。まるで漫画かドラマかというくらいに、膝が笑っている。

自分は、自分は――どうしたいのだろう?
「攻撃」は出来た。でも、その先にあるものは出来ない。
これは甘えなのだろうか。生き残れるのはたった一人だというのに、自分の手を汚したくないだなんて。
分からない。考える時間が欲しかった。
何をすれば正解なのか、自分はそれを選べるのか。

けれどこの躊躇は長くは持たない。
分岐点は、今この時なのだ。

――起きるはずのない少女が、身じろぎし、声にならない声を上げた。

東横桃子は与り知らぬことであるが、シンシア・ロウは姉であるシベール同様に、暗殺者としての訓練を受けている。
その中の一つが、恒常的な毒物の摂取による毒抗生の強化だ。
幼少の頃より密かに食事に混ぜられてきた多種多様な毒物は、シンシアの身体を変化させていった。
多少の毒性ならばその効果を打ち消し、キャパシティを超える強度のものはただちに体外に排出し、リカバリを図る。
暗殺者としての体質が、本来ならばあり得ない短時間での覚醒を可能としたのである。

半開きの眼は焦点も定まらず、全身の痺れもまだ取れていない。
だが両手を地に着き、立ち上がろうとしている。――否、立ち上がりかけている。
医学知識など皆無の桃子であっても、この少女が尋常ではない速度で回復しているということくらいは分かる。
起き上がるまでの猶予、更には桃子を捕捉する猶予も長くない。

――分岐点は、今この時なのだ。

殺さなければ、殺されるかもしれない。

桃子は、無我夢中の内にナイフを少女の身体に突き立てた。
少女は死んだ。




そうなれば、どんなに良かったことか。


こんな時だというのに、自分の体はまったく動いてくれない。
いや、動かそうと思えば、動かせるのだ。
だけど、意識しなければ――能動的でなければ、この身体は動いてはくれない。

意識して。
このナイフを。
少女の身体に。
突き立てる。

殺したくないんだと、自分の本当の思いがようやく形になって大きな声を上げる。
こんなナイフなんか握りたくなかった。
私が握りたかったのは――

せんぱいの、て。

もっと一緒に過ごしたかった。
部に入ってから麻雀ばかりしてきたけれど、もっと女の子らしい会話もしたかった。
泳ぎを教える約束だって残ってる。
鶴賀学園麻雀部員としての繋がりは、もうすぐ消えてしまうのかもしれない。
だけど、女の子同士として、友達として、もっと加治木ゆみと触れ合いたかった。

40ほどの名前の中に、東横桃子と加治木ゆみの名前はあった。
どうやらそれが、この殺し合いに巻き込まれた人間たちの名簿らしい。
生き残れるのは一人だけらしい。絶対に、桃子かゆみのどちらか――あるいは両方が、死ぬことになるらしい。

私は人を殺したくなんかない。
でもそれ以上に――先輩に、生きていて欲しい。死んで欲しくなんかない。
だから、私は。

ナイフを、少女の身体に、突き立てた。

途中で肋骨に引っかかってナイフの刃が止まった。
一度引きぬいて、今度は引っかからないように刃と骨が平行になるように向きを変えて、もう一度刺した。
生きている肉の感触は、スーパーに並んでる豚肉なんかとはまるで違って。
うちの包丁よりよっぽど切れ味がいいはずのこのナイフでも、なかなか奥深くまで刺すことが出来なくて私は全体重をかけなければいけなかった。
少女が暴れると肉の弾力はより強くなり、ナイフを握る手が振り飛ばされそうになってしまう。
決して強くない握力で、必死にナイフを押さえ込んだ。
鉄の匂いが鼻腔に広がっていく。血の臭いだ。
少女の身体から熱と赤が流れ出て行く。抵抗は、次第に大人しくなっていく。
心臓を狙って刺したけれど、私は心臓の正確な位置なんか分からなかったから、確実を期すためにナイフを前後左右に動かした。
少女はやがて動かなくなって、傷口は背中一面に広がっていた。

「あ……」

声が漏れた。
なんでだろう。私は、殺さなきゃいけない相手を、ちゃんと殺せたのに……
先輩を最後の一人にするために、頑張れたのに……
なんで、涙が止まらないんだろう。

「ぅ……あ、あ……」

あと、37もの命を奪わなければいけないというのに。
まだまだ先は長いのに。

「せんぱ、い……」

涙が止まるまで、私はそこを動くことが出来なかった。



【シンシア・ロウ@CYNTHIA_THE_MISSION 死亡】

【F-6 教会】

【東横桃子@咲-Saki-】
 状態:健康
 道具:支給品一式×2、針×2(麻酔薬塗布済み)、大型サバイバルナイフ、不明支給品×1~3

【残り38人】





シンシア
桃子


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最終更新:2010年07月20日 23:55