月が、見ていた。
これは記憶。
これは残滓。
白光と漆黒が都市に刻んだ、恐怖の痕。
それは記憶。
それは過去。
現在を進む時計の針を戻す、少しだけ。
「それは記憶。巨いなるものが都市を訪れるより前」
「それは過去。彼の者らが刃を交えるよりも少し前」
「そして小さき者らが戦いに呑まれ行く前の、三編の断章」
「ならば空に尋ねましょう。そう、月は、すべてを見ているのだから」
都市を揺らす巨影と巨神が激突する、ほんの少し前のこと。夜。星空の下。
瞬く星明りの下で、交わされる三つの幕間が存在した。
定められた破滅を前に、尚も生き足掻く二人の男。
定められた真実を前に、運命と再会する一人の女。
定められた終焉を前に、己が器を塗り替えた二人の少女。
この聖杯戦争において最大最悪の戦いが起こる前の、戦いにすらならなかった三つの物語である。
▼ ▼ ▼
命題です。
そう、これは切実な問いです。
人ならば誰しも、例外なく追い求めるもの。
人生の意義、努力の終局、行動の応報。
すなわち人が生きる意味そのもの。あなたたちが目指す"果て"。
命題です。
"勝利"とは、何か。
────────────────────────。
Answer:勝利とは、無限に積み重ねるもの。
────────────────────────。
戦え。
戦って、戦って、戦って、戦って、その果てに勝利を掴んで死ね。
定義した存在価値に命じられた勝利の亡者は、忠実に己の意義を実行する。その命が尽きるまで止まることは許されず、自らの意思で止めることも叶わない。
浅野學峯のアイデンティティとは敵が存在する限り終わらず、その終着点は須らく敵対者の敗北によって締め括られねばならない。
そして敗北とは、すなわち死そのものである。
少なくとも、彼はずっとそう信仰していた。ならば負けた時点で自分は死なねばならないし、そうなってはならぬから自分は永遠に勝利を重ねなければならない。
それ以外の道はないと思っていた。自分という存在は無数の勝利の果てに死を迎えるのだと確信していた───だが。
敗残の事実が色濃くこびり付いた今、浅野は、それでもまだ生きている。
短刀と素手。
その勝負は短刀を持つ藤四郎のほうが、リーチにしろ殺傷力にしろ圧倒的優位であるように思える。しかしこと武術の世界において、多少の武装の差異が如何程の意味があるハンデになり得るか。
得意とする距離は双方共に密着しての超至近距離。つまりこの時点でリーチの優位性に意味などなく、長刀の抜き打ちに代表される中距離の牽制などは選択肢としてあり得ず、同時に懐に潜り込んでの優位性とて浅野には確約されはしない。
五分と五分。条件は対等。故にこれは公平公正な尋常なる決闘である。
地を蹴ったのは同時、されど先んじたのは藤四郎の側だ。数mの相対距離を一瞬以下で0に貶め、彼は左手に構えた白刃を閃かせる。
速い。
正面から振り下ろされた刃は、浅野の反応速度を以てしても尚速く、その影さえ捉えることができない。強い、そして異常だ。サーヴァントという特例がまかり通っているこの都市では感覚が麻痺してしまうが、今浅野が相対している相手は明らかに"異常"というべき存在だった。
浅野は類稀なる分析能力を持つ。相手の筋肉の付き方、ちょっとした動作、思考の傾向、それらの情報から彼は行動パターンを的確に読む。教育者たる者、常に学び糧とせよという矜持のもと、彼は敵の動きさえ「学習」を可能とする頭脳を持つのだ。
事前の戦闘予測に脳内シミュレート、半ば予知の域まで達したそれらを組み合わせれば相手が多少格上であったとしても容易に対処は可能となる。そして浅野自身も、既に常人においては屈指の技量と身体能力を持ち合わせるため、およそ格闘の分野においても彼は世界最高峰と称しても構わない人物だ。
そんな彼の予測さえ飛び越えて迫る圧倒的速度。それはすなわち、"人類の限界点"を逸脱した迅速であることを意味している。
華奢な体躯とそこに含まれる筋肉量、姿勢の運びに体重移動。それらを総合して導き出される仮定の身体能力を、眼前の少年は二倍も三倍も上回っている。それは少年が尋常な物理法則の枠外にあるという証左であり、単純なカタログスペックにおいて浅野では絶対的に及ばないという現実でもあった。
自分ではこの少年には敵わない。
故に、浅野は脳内の基準点を上方修正することにした。
今にも頭頂を斬り割ろうとしていた刃を、浅野は最小限の動きで避け、返す刃で手刀を首に叩き込む。
加速された視界の中、驚愕に歪む敵手の顔が間抜けなほどにゆっくりと映る。絶死となるその一撃を、藤四郎は無理やりに身を捻ることで何とか回避するも、代償としてその姿勢を不安定なものとした。崩れた体勢のまま地に手をついて後退する。
距離を離した両者は再度地を蹴る。全く同時のタイミング、時間にして千分の一秒も誤差はない。偶然ではなく、浅野の読み故である。剣術において三つのタイミングの基本、先の先、対の先、後の先のいずれにも該当しない呼吸の妙。さらに行動を読んだことを端的に解らせる、二重の意味で心の虚を突く呼吸外しの術だ。
初撃の心的ショックも併せ、藤四郎の心に迷いが生まれたか、あるいは動揺に陰ったか。下段から跳ねるように飛びあがった剣先は、ミリ単位の距離を残して浅野には届かなかった。否、先と同じ全力の走法と見せかけて速度を落とした浅野が届かせなかったのだ。スーツの切れ端と数本の髪が宙を舞い、両者の走りが生み出す烈風に吹き散らされる。
天をついた短刀の切っ先が翻り、懐へ飛び込もうとする浅野を両断せんと迫る。しかし最後の発条を残していた浅野はそこから尚加速し、一歩早く剣の内へ飛び込んだ。
容赦のない一撃が、藤四郎の腹部に叩き込まれる。吹き飛んだ藤四郎の体は二転三転し、しかし地に伏すことなくそのまま跳ね上がって立ち上がる。
「なるほど。ウェイトは見た目通りらしい。それとも自ら後ろに飛んだかな?」
拳の感触に不満げな声を漏らす。手応えが明らかに浅い。浅野の言う通り、藤四郎は咄嗟に後ろへ飛び、拳打の威力のほとんどを殺した。それだけではない。つうと浅野の額を割るように、ひと筋の血が頭から流れる。藤四郎の斬り返しの二撃目は、読みより速く皮膚を浅く裂いていた。
それでも浅野の優位は変わらない。故に藤四郎は言葉を放つ。
「何を……」
「?」
「あなたは、何がしたいんだ」
淡々とした、興奮や激情の類は見られない口調だった。しかし彼が問うているのは、字面通りの疑問ではない。
「何がしたい、と?」
語る浅野の顔は幽鬼めいて、くつくつと漏れる嗤いは陰鬱に、まるで殺意の影など感じさせず。
「"勝ちたい"のだよ」
それこそが、藤四郎の知りたがるモノの正体だ。
「勝って、勝って、ただひたすらに勝ち続ける。無限の勝利を重ねた果てに私の人生は光を見る。
それだけのことだ。ただそれだけのこと。なにも難しいことはない」
先ほどまでの浅野は、まるで理性の欠片も感じさせない獣のような有様だった。あるのはただ、殺意と敵意のみ。口から漏れ出る言葉すら獣の唸り声に堕して、およそ人とは思えなかった。
今はどうか。
そこに感情の翳りこそ見せれど、今の浅野は極めて理知的な回答を可能としていた。動から静、躁鬱じみた心の変動。藤四郎にとって、それこそが何よりも恐ろしいし理解できない。
今も浅野から語られる言葉に本質的な意味はない。そんなものはどうでもいいし、藤四郎が知りたいのはそこではないのだから。
「故に」
故に───
「君もまた、私の勝利の踏み台となってくれ」
浅野がゆらりと動いた。その瞬間には既に、彼の拳打はすぐ目の前にあった。
踏み込みが一瞬なら、抜手はゼロタイムに等しい。藤四郎が気付いたのは、振るわれた腕の軌跡、一瞬覆い隠された月影の翳りのみ。
反応はできず、肩を強かに打ち付けられ、そのまま地面を転がった。激痛に顔が歪む。不覚にも、この一撃で肩の関節を外されてしまった。
速いのではなく、早い。単純な身体能力では負けているのに、見と読みの速度が藤四郎を圧倒しているがための現状だ。己の弱さを殺す術を、浅野は十も百も知り尽くしている。
「立ちたまえ。カウンター狙いの待ちの姿勢であることは分かっている」
冷やかに見下ろして浅野が言う。彼の足もとでは、コンクリートから煙が出ていた。超速に耐えきれず、擦り切れた靴が溶けた痕だ。
怪我の痛みを殺し、藤四郎は何とか立ち上がった。左肩を動かし無理やりに関節を嵌める。痛みを我慢すれば動きに支障がないことを確認し、浅野を見た。
両者は三度目の対峙をする。
「つまるところ」
藤四郎が語りかける。顔は伏せたまま、声だけを届ける。
「特に理由はないわけだ。勝つために勝つ、勝った後はまた勝ち続ける。聖杯を手に入れるのだって、それが聖杯戦争での"勝利"だから。
手段が目的に入れ替わる、手段のためなら目的を選ばない。つまりそういうこと」
「……?」
構える浅野の表情は、平静とした、見ようによっては「ぽかん」としたようにも思えるものだった。
言ってる意味が分からないと、本気で思っている顔だ。
"勝つ"以上に目的として必要なものが存在するのか、と。
心底から疑うことなく信仰していなければ浮かべられない顔だ。
「安心したよ。その凶念、その妄執。
計り知れないものと勝手に恐れていたけれど、蓋を開けてみればなんて分かりやすい。
あなたはただの人間だ。何の異常性も特別もないただの人間」
故に恐れることなど何もない。
対敵を呑みこむ異常なまでの精神、意思力のみで現実を歪める心の怪物。そんなものでは断じてない。
物理的な力において瞑目すべきものはあるが、それとてサーヴァントと比べれば何ということはなし。彼ら超常の存在と向き合うことがないだけ、自分は恵まれているだろう。
「なんてくだらない。あのライダーと良い勝負だ」
「……弱者(きみ)の声などただの音でしかない。言葉を通したいならば力で示すがいい」
少年は睨みつけ、男は無感の面持ちのまま。されど心に浮かべるは、共に侮蔑の一語のみ。
共通する情感のまま、彼らは再度の交錯を経ようとした、その瞬間だった。
「ぐ、うぅ!?」
「がは、ぁ……!」
対峙する二人が、共に苦悶の響きを漏らす。
蛇のように地に這い構える藤四郎も、ボクサーのように半歩で地を踏みしめる浅野も、突如として激痛に血反吐をぶちまけた。同時、彼らを覆う世界が文字通りに塗り替わった。
世界を覆う、白と赤。
それは、彼らの従えるサーヴァントの宝具が発動した瞬間であった。
苦悶の中に隠しきれない憤りを滲ませ、浅野が呻く。
彼はライダー・ドフラミンゴの能力を把握している。無論のこと、今こうして自身を魔力消費で蝕み、鎌倉全体に展開されているものが何であるのかも。
鳥カゴ。一国をも包み滅ぼす対国の宝具。
ドフラミンゴ以外の全員を鏖殺する無尽の結界。
それはすなわち、浅野さえも殺害の対象に含まれているという事実に他ならず。
「ならばいいだろう、彼方で見ているがいい……!
お前の助けなど借りず、お前のもたらす滅びすら構わず、私は私の力によって私の勝利を証明してみせる……!
そうだ、私は負けない、私は強者だ。二度と膝など屈するものか……!
勝つのは、私だァッ!!」
なりふり構わぬ憤激すら伴って、彼を激怒させるなど余人では到底不可能であるというのに。
それほどまでに、聖杯戦争の趨勢は彼を追い詰めていたのか。先の一時的な平静など文字通りの見せかけでしかなかったのだ。元より彼は勝利の亡者、その栄光を得られぬ以上は狂うより他になかったのだから。
文字通りの獣であるかのように飛びかかる浅野を前に、藤四郎は痛みを堪えた表情で短刀を構え直すのだった。
▼ ▼ ▼
Answer:勝利とは、大切な誰かと共に在るもの。
────────────────────────。
『あなたたちのしたことは許されないと思います』
全てが終わった後のこと。
友奈の言葉を聞き終えた
すばるは、まず第一にそんなことを言った。
おどおどした気弱な印象とは真逆の、屹然とした面持ちで、彼女はそう言い切ったのだ。
『理由がどうとか関係ありません。わたしはゾンビ騒動で大切な誰かを失うことはなかったけど……でも、あなたたちのしたことでたくさんの人が傷つきました』
事実だ。すばるの言うことは全くその通りで、何も言い返すことができない。
美森は友奈とは違い、外部から精神汚染の類が仕掛けられていたためある程度言い訳の余地はあるが、それもあくまで"言い訳"でしかない。
多くの人が死んだ。
その原因は自分達にある。
重要なのはそれだけ。故にこそ、ここですばるに全否定され、令呪で自害を命じられても甘んじて受け入れようと思っていた。
『けど』
けれど。
『それでも……わたしは、東郷さんが信じたあなたを、信じてみたいと思います』
────────────────────────。
「令呪であなたにお願いします……これで魔力を元通りにしてください」
「ん……」
その言葉と同時、すばるの右手に輝く赤光がほんのわずかに嵩を減らして、友奈の全身が暖かな光に包まれる。
それは発光ではなく、外から内に沁み込んでいく類のものだった。すばるより与えられた莫大量の魔力が、文字通りに友奈の体に吸い込まれていく。
刻まれた傷が、消えかけた手足の末端が、青ざめた顔色が、時間を巻き戻すかのように癒え、活力を取り戻していく。
令呪とは使役するサーヴァントに対する絶対的な命令権だ。だが厳密に言えば、その実情は些か異なる。
現界するサーヴァントが交換条件として背負わされる三画の魔術結晶。その一画一画が膨大な魔力を秘めた魔力の結晶体であり、使い方次第では単純な命令だけでなく純粋な魔力に還元することで物的な付加とすることもできる。
すばるが行ったのはまさしくそれだ。損耗した霊基の修復、並びに底が尽きかけた魔力の補填としての令呪行使。肉体さえ魔力によって編まれているサーヴァントにとってこうした純魔力の塊は血肉にも活力にもなる万能の治癒薬なのだ。
「……やっぱり、ダメみたい」
とはいえ、それにも限度がある。
光が収まり見てみれば、友奈の魔力は確かに癒えてはいたが、完全回復とは程遠い状態にあった。
顔に色濃く残る、重い疲労の痕跡。
ならもう一回、と焦るすばるに、友奈はそっと手で押さえて、
「多分これで大丈夫。元々無理のある霊基構造だったから……それに、もしものためにこれ以上令呪を無くすわけにはいかないよ」
友奈の言う通り、彼女の魔力自体は相当量が回復している。仮に今この場で戦闘になっても、補給なしで連戦が可能な程度には。
令呪でも回復が追いつかないのは、大満開を果たした友奈の霊基総量が膨大なせいだ。中途半端な今の状態でも、並みのサーヴァントなら複数騎従えられるほどの魔力が存在する。
つまり何も問題はない。その点において、友奈の言に間違いはなかったのだが。
「でも、まだつらそうだよ」
「それは……」
否定できなかった。事実、友奈の顔色は悪く、まるで憔悴したように目元が落ち窪んでいる。
肉体的にもだが、精神的な疲労が重く圧し掛かっていた。それほどまでに友奈の味わってきた苦難は数多く、重い。
「少しだけ休んでいこう? あの気持ち悪いの……星屑だったっけ、あれもいないみたいだし」
星屑───バーテックスの軍勢は、友奈が美森と再会を果たすよりも以前に壊滅していた。鳥籠のような格子結界や赤色の炎が一瞬現れては消えていったことを除けば、友奈たちのいる周辺は酷く静かで、穏やかだった。
「でも、マスターの仲間が……」
「アイちゃんも
キーアちゃんも心配だよ。でも、ブレイバーがそんなんじゃ、大丈夫なものも大丈夫じゃなくなるよ」
だから、ね? と念押し。そこまで言われては、友奈としても断る道理はなかった。
「……うん。でもほんの少しだけで大丈夫だから」
そういうことになった。
◆
唯一そこだけは原型を保っていた噴水の脇に腰掛けて、崩れた天蓋から見える星空を見上げ、友奈はふぅと一息ついた。
「マスターの……すばるちゃんの言う通りだったかな」
全身を襲う、ずっしりとした疲労感。自覚してしまうと途端に重く圧し掛かる。
「確かにこれじゃ、どうしようもないよね」
たはは、と小さく笑う。自分でもどうかと思うくらい弱々しい。一旦気が抜けてしまったせいか、暫くはこうしていたい気分だった。
すばるは今、席を外している。一人でいる時間も必要だと気を使ってくれたのだろうか。何にせよ、その気遣いはありがたかった。
「東郷さん……」
何も言うつもりはなかったのに、自然とその名前が漏れてしまう。
東郷美森。すばるが召喚したサーヴァントで、彼女のために最後まで戦った勇気ある人で、
自分の目の前で消えてしまった、大切だったはずの親友だ。
一度は愛に狂ってしまって、それでも目を覚ましてくれた。
希望を、私に託してくれた。
美森の遺していった想い。残していった少女。それこそが東郷美森という幻想の生きた証なのだと、友奈はそう強く思う。
「……あれ?」
同時、意図せず涙がほんの少しだけ目尻からこぼれるのを感じた。
涙。ほんの僅かな水滴が、頬をなぞって落ちていく。
あれ、と思った時には止め処なく溢れ出でて、友奈は自分でも訳も分からず、ただ流れるがままに涙の雫をこぼれ落としていた。
「わた、わたしは……」
目頭と鼻の奥がつんと熱く、声も自然と震えてしまう。
ああ、本当に───
本当にどうしようもない。目の前で親友を失ってしまった事実は、いくら覚悟しても平気でいられるはずもなかった。
すばるがここにいなくて良かったと思う。情けないなんて今更だけど、こんな姿を彼女に見せたくはなかったから。
「それでも───私は勇者だから。
諦めない。だから、東郷さん……」
きっと見ててね、という言葉は胸の奥にしまって。
今しばらく胸の裡から湧き出る感情に、友奈は身を任せるのだった。
◆
誰もいない暗い廊下、冷たく無機質な壁に体重を預けて、すばるは一人呟く。
あれから、彼の声は一切聞こえてこない。
すばるが確かにその手を取ったはずの彼。一度は死に別れ、けれどもう一度再会することのできた少年。
みなと。今は《奇械》アルデバランとなった個我。
結局のところ、みなとがどうなったのか、すばるは何をしたのか、すばる自身でさえ詳しくは理解していない。
すばるはただ、必死にその手を伸ばしただけだ。
諦めたくなくて、もう一度会いたくて、ただその一心で走り続けた。
その結果としての今があるけれど、何がどうなってこうなったのか、説明しろと言われても正直困ってしまう。
一つだけ確かなことは、彼はすばると共に在るということ。
そしてすばるの声に応えてくれたということ。
その証拠に、もう声は聞こえてこないけれど。
彼の暖かな気配は、今も確かにすばるの背後に存在する。
「みなとくん。きっとこの声が届いてるって信じるから……だから、聞いてね。
わたし、諦めないよ。みなとくんと一緒に帰るって、みんなにみなとくんを紹介したいって、その気持ちはずっと変わってないから」
だから、とすばるは続ける。
「だから───これからも、一緒にがんばろうね」
姿が見えなくても、構わない。
声が聞こえなくても、構わない。
これから先、もう二度と交わることがなくても、それでも二人は共に在る。
その事実だけで、自分はきっと歩いていける。
今や、万象立ち塞がろうとも。この手を阻める者など、どこにも居はしないのだ。
▼ ▼ ▼
Answer:勝利とは───
────────────────────────。
「アティ」には、そうと成り果てるより前にもう一つの名前があった。
《黒猫》として最古の、人として最期の記憶が、脳の片隅に存在する。
記憶は、肌に感じる熱から始まる。それからぬるりとした血の感触と、目に焼き付く炎の色と、変わり果てた都市の景色。
その都市は少女の原風景であった。彼女にも人並に両親がいた頃があり、友がいた頃があり、一端の若者として機関工場で計算手として働いていた頃もあった。十八年かそこらだったように思う。
人であった最期の時───その日、少女は声の限りに絶叫しながら、それでも生きていた。
誰も彼もが恐怖に呑まれた、あの《復活》の時。異形と変わる都市の中で、少女はこの世の地獄を見た。
父母が死んだ。友が死んだ。そこらじゅうを駆けずり回っても、生きてる人は誰もいなかった。目の前でうわごとのように「熱い」と繰り返した、見知らぬ幼児の声が耳にこびり付いている。幼いころに遊んだ公園も、母の使いで歩いた雑踏街も、全てが滅びに晒されていた。
何故彼らが死ななくてはならなかったのか。
何故自分は未だに生き永らえているのか。
這うよりも遅い速度で壁伝いに歩き、喉を灼くほどの叫びを空に上げながら、傷だらけの体を引きずっていた。口腔から血が溢れ、その感触さえ分からなかった。
都市を歩く最中に、いくらか記憶の欠落が見られた。要所要所の映像だけは脳に残っていたが、それらがどのように繋がっているのかが分からない。どの道をどのように歩いたのかも、どれほどの時間そうしていたのかも曖昧だ。
ただはっきりと覚えているのは、「死にたくない」と願ったこと。
ひたすらに、ただひたすらに、それだけを願って。ああけれど、変貌していく都市はそれさえ許すこともなく。
───そして。
そして、あたしは出会ったのだ。
うらびれた阿片窟、異形と化した人々がそれでも生きることを諦めなかった都市の一角で。
あたしは、あなたと───
◆
そこには今まで、誰もいなかったはずだ。
狂した剣士の残骸を打ち倒して、はぐれてしまった同盟者のもとへと向かおうとしたその矢先のことだ。
「───キーア?」
崩れた街の片隅で、そこは確かに無人であったはずなのに。
どこからか声がする。それは問いかけるように、あるいは信じられないものを見たかのように。
忘我と驚愕の色が混じる。聞き覚えがないと断言できる女の声。
そして。
「……アティ?」
返される声もまた、一つ。
それは傍らの少女の声だ。キーア、騎士の主。赫い瞳を持つ子。
蓮の見下ろすその横で、少女はその目を驚くほどに見開いて。
───赤く、仄かに燐光を放って。
───それはまるで、太陽であるかのように。
(魔眼か……いや、これは)
魔眼。外界からの情報を得る為の物である眼球を、外界に働きかける事が出来るように作り変えた物。独立した魔術回路、血筋に関係なく発動できる魔術刻印にも近きもの。
キーアの瞳に浮かんだ赤い燐光を見て、咄嗟にそれが思い浮かんだが、しかしどうにも様子がおかしい。
視覚を通して対象に働きかける類のものではない。これはどちらかというと、
(浄眼、妖精眼の類か)
曰く、通常の位相とは焦点が「ズレ」ている視覚。
超常の気配・魔力・実体を持つ前の幻想を可視化する眼であるものか。
蓮の目には何も見えてはいない。エイヴィヒカイトの使徒が持つ鋭敏な視覚と第六感すら錯誤させる域にあるそれは、上位級のキャスターに匹敵する隠行である。
少女の赫眼はそれすら見通すというのか。ならば頷けるものがある。しかし、だとすれば一体何が、キーアの目に映っているというのか。
それは───
「これは……」
輪郭が、徐々に浮き彫りになる。
何もなかったはずの空間から、まるで水底から水面に浮かび上がってくるかのように。
"それ"は現れる。声の通りに、その場所に。
アティと呼ばれた女が、茫洋と手を伸ばして───
◆
───見覚えのない女の人だった。
───けれど、あたしは確かにその人を知っていた。
───見覚えのない女の子だった。
───けれど、あたしは確かにその子を知っていた。
頭が痛い。頭が痛い。この都市に来る前からずっとあった痛みが、彼女を見た瞬間に急激に大きくなる。
アーチャーに何かを言われて、気付けばここにいた。今がどういう状況なのか、なんで自分がここにいるのか、それすら分からないけれど。でも分かるとすれば一つだけ。
あたしは、この少女を、知っている。
「ぐ、うぅ……!」
ずきりと痛む頭を抑え、それでもあたしは前を見る。
あたしは痛みに強いほうじゃない、そういう自覚はある。怪我をしたらすぐ泣く子だったから。でも、あたしは、歯を食いしばって、頭の奥の痛みと胸の奥の嫌な塊に耐えながら、彼女を見て。
初めて……ううん、以前会った時と同じ妙な感覚を味わっている。
はっきりとした見覚えはない。やっぱり、ない。可愛らしい子、金髪と赤い瞳の女の子。キーア、と何故だか名前が口をついて出た。それでも、心当たりはやっぱりない。
沸き上がる記憶も、ああそうかという実感も何ひとつないというのに。
あたしはきっと知っていた。
彼女の声。
彼女の姿。
白衣の彼と共にいた、小さな影。覚えている。
記憶を失うよりも前に会っていた? そう、そうだと思う。そうでなければ───
「アティ!」
倒れそうになるあたしを見て、女の子が駆けてくる。
恐いだなんて思わない。
昨日までは、マスターかもというだけであんなにも他人を怖がって取り乱していたのに。
あたしは、
この子のことを知っていると思うから。
───思い出せなくても。
───今にも嘔吐しそうなくらい、胸が詰まっていても。
胸が高鳴っている。
同じ。あの時と同じ。初めて彼女と会った時と同じだ。緊張、恐怖、警戒心、ううん、違うわ。不安。そうかも知れない。でも、そうだという確信は湧いてこない。確かにあたしの心臓はひどく早く脈打って、彼女は信用できるのだと叫んでいる。
頭が痛い。
頭が痛い。
けれど、そうだとしても、あたしはもう一度思い出すと決めたのだから。
もう一度会うのだと信じていたのだから。
「……大丈夫」
駆け寄る彼女をそっと抱きしめ、呟くのだ。
ふわりと、包み込むように。少女の小さな体を両腕で抱き寄せる。
濡れる赤の瞳が、じっとあたしを見つめていた。
「アティ、どうして……あなたはもう、増殖する過去の全てを奪われたはずなのに」
「何言ってるのか、全然分からないよ」
本当に、何がなんだか分からない。
けれど、何故だか知らないけど、胸に広がるものがあった。
暖かい。
それは多分、安堵なのだろう。
頭の奥がひときわ強く痛むけれど。
けど、こんなにも安心できるってことは、きっと悪いことじゃないから。
「でも、いいの。うん、いいんだ。色んなことがあったけど、それでもあたしは、あなたに会えた」
その時、あたしはもう、ほとんど何も考えられなかったのだと思う。歩いて、歩いて、頭が痛くて。もう体は疲れ果てて、心は薄らいで。うわごとに近いあたしの呟きが何であるのかとか、周りに誰がいるのかとか、そういうことは一切考えてなくて。
だから、
あたしは、
「覚えているの、アティ」
きれいな声。知らないのに、聞き覚えのある声。
そう、覚えている。
「キーア……」
自然と、あたしは手を伸ばしていた。
キーアと呼ばれた彼女の、柔らかな頬に触れる。
「アティ」
その子はあたしを呼んだ。
そして、言った。
「あなたは」
あたしと同じ瓦礫の中に在って。
頬に触れたあたしの手を取って。
「何を願うの」
───あたしが、何を、願う?
「あたしは……あたし、は……」
───あたしは。
───痛み。
───空白。
───そして、胸が張り裂けそうなほどの不安。
「あたしは……」
───あたしを、アティ・クストスを苛むものすべて。
───すべて、消え去ってしまばいいと。
「……あたし、は……」
「願えるの。全てを奪われても、あなたは。
それでも、想いの果てに至ることができるはずだから」
「……あたし、の……願い、は……」
あたしは告げる。
それは、言葉になったかどうか定かではないけれど。
「………………」
あたしは瞼を閉じる。
この頬を伝って流れて落ちるものがあった。暖かな。
そして。
───そして。
───あたしは、あなたを───
◆
───そして。
───そして、あなたは瞼を開ける。
かつて、真紅の右手に触れられて、それでも尚消えることのなかった、黄金色の瞳を。
あなたが願うなら、あなたが求めるなら、あなたの心に"それ"はあるから。
ほんのささやかなもの。けれども、何よりも、この都市よりも、広がる灰色雲よりも、まだ見ぬ蒼天の空よりも、もっともっと大きくて、尊いもの。
あなたは、瞼を開くの。
あなたがそう望む限り、あなたが忘れたくないと願う限り、誰かを愛することを、愛していることを忘れない限り。
どんな力でも、どんな奇械でも消せないものがあるって、あたしは信じます。
だから。
言ってほしい。あなたの願いを。
呼んでほしい。あなたが、一番呼びたい名を。
「名前……名前、誰の、名前……」
思い出せるわ。アティ、思い出せる。
「巡回、医師の……いっつも、寝不足で……食べなくて……馬鹿ばっかやってる……」
───それは過去。
あなたの記憶。あたしの記憶。
「そう、あなた……あなたの、名前……」
それは何よりも求めたもの。
この聖杯戦争に来るよりも前、ずっと前から願っていたもの。
「知ってるよ、知ってるさ。きみの、名前は……」
きっと、自分はこのためにいたのだ。
所以も知らずこの都市に顕れ、願いも持たず戦いに巻き込まれ。
それでも、あたしはここにいた。
だから。
「───ギー……」
それが異形都市を旅立つ白猫の、かつて黒猫だった彼女の願いの果てだというのなら。
この名を呼ぶのが、きっとあたしの存在証明だったのだ。
そしてあたしは真実に辿り着く。
記憶と想いと姿とを取り戻して。
だからこそ、分かることが一つだけ。
自身の存在価値を証明し、故に形を再定義する。
▼ ▼ ▼
Answer:勝利とは、唯一を掴み取ること。
────────────────────────。
鎌倉市全体を巻き込んだ戦場の趨勢は幾度も塗り替わり、勝者と敗者は幾度も入れ替わり、時間を経るごとにその様相を異のものとした。
それだけの時間を経過させながら、しかし二人は一切を変えることなく、未だその闘争を継続させていた。
それは男が攻め、あるいは捌き、少年が防戦一方となるある種一方的な代物。
されどその勝負に未だ決着はつかず、泥沼のような戦いは惰性の如くに継続する。
そのはず、だった。
血化粧に塗り潰された橙の長髪が、舞い散る黒煤の中に躍った。
浅野は表情を無としながら、けれど砕けるほど強く奥歯を噛みしめ、迫りくる少年の姿を真っ直ぐに見据えた。
「はぁッ!」
上段から振り下ろされる刃に、強く握りこまれた拳を胸の前で構える。ボクシングスタイルの迎撃姿勢は、一撃の殺傷力よりも一瞬の素早さを重視した構えである。
半身を傾ける最小限の動きで刃を躱し、少年の喉元目掛け踏み込みざまに右の突きを叩き込む。相手の運動エネルギーも利用した、人体破壊を旨とする急所狙いの一撃。
しかし。
これまで数多の敵を葬り去ってきた、尋常の人間では如何な達人であろうとも殺せると自負するその拳は、更なる不条理によって呆気なく蹂躙された。
「ッ!?」
今までは難なく視界に捉えることのできた剣閃、それが急激に速度を増す。神速で繰り出された浅野のジャブは敢え無く空を切り、鈍く光る短刀の刃が浅野の右鎖骨へと叩き落された。
骨肉が断割される、硬質と湿りが混じった音。
苦悶の表情と共に後ろへ飛んだ浅野の右肩から胸にかけて大量の血飛沫が噴出し、向かい合う乱の頭を更なる赤色に染めた。理性よりも先に本能的に退避することができたため致命傷は回避できたものの、肩の筋肉と鎖骨、肋骨上部の数本を叩き斬られた。肺に損傷がないことだけが幸いだが、これで浅野は右手を封じられたも同然。ばかりか、この出血量では遠からず意識を失い、命の危険さえ招くだろう。
そして鋭敏化した思考さえ途切れさせかねないほどの、耐えがたい激痛。
赤く染め上げられた視界の端、音もなく少年の左手が動いた。
「くっ!」
少年の掌が閃き、切っ先が下段から一直線に胴を狙う。その速度はやはり迅速、元より人体の限界を逸脱した超速ではあったが、それを加味しても尚、これはあまりにも速すぎる。危険を感じた浅野は咄嗟に体を大きく傾け、刃の軌道から自身を逃がす。
弧を描く白銀が空を切り、裂かれた衣服の破片が宙を舞う。
何とか体勢を立て直そうとして、それより早く乱の胴廻し回転蹴りによる踵が浅野の腹へ突き刺さった。
「が、ぁあ───!」
大質量の丸太で打たれたが如き衝撃に、浅野は苦悶の呻きをこぼす。体がくの字に折れ、骨格そのものが軋む音が木霊した。破られた血管と筋肉は浅野の体の内側に鮮血を溢れさせ、許容量を逸脱した破壊は口からの大量の喀血という形で現れる。
苦痛を堪えて右脚を振り上げ、乱の体を蹴り飛ばして距離を取る。
砂地の上に二転してゆらりと起き上がる乱を前に、浅野は荒い息を吐いた。
───この少年は……
最早疑念を挟む余地はない。この人外の少年は、明らかに戦闘の中で身体性能を飛躍的に向上させている。既に死に体、満身創痍であるはずの体は機能を低下させることはあれど、その逆は断じてないはずなのに。
だとすれば、その原理は一体何だ。気合だ根性だというのはあり得ない、そんな精神論で現実の物理法則が変えられるはずもなし。ならば一体何が、この少年の体を突き動かしているというのか。
「負ける、ものかぁ……!」
浅野の見立て通り、その成長は決して精神的な代物ではなく、極めて論理的に構築されている。
刀剣男士としてこの世に現界した付喪神たちは、その刃形によっていくつかの刀種に分類される。乱が属する短刀は平時の能力値こそ凡百のそれではあるが、特定の状況下においてその性能を如何なく発揮することが可能な、トリッキーな性質を保有する。
現刻の時間帯は、深夜。
今や鳥かごの縛も炎熱の結界も消え果てた。その間すらも浅野は形振り構わず敵手の打倒のみを目指し、周囲の如何なる変化をもその目に捉えることはなかった。仮の話だが、焦熱世界の眩き光が占める間、乱が未だ浅野の技量に翻弄されている間に勝負を決めることができていたならば、命運は浅野の側に傾いていた可能性が高い。
だがそうはならなかった。既に灼熱の爆光は無明に果て、暗所に届くは昼光に遠く及ばぬ月の光のみ。霞が如き浅野の技量さえ既に刀剣男士の眼光は捉えきった。刃の煌めきが奔る月下において、乱が敗残する道理は何一つとして存在しない。
短刀。それは、夜戦において最大の適性を保有する刀剣である。
「真剣、必殺……!」
そして浅野の仕損じはそれだけではない。
無駄に戦いを長引かせてしまった事実は、つまり乱に軽くない傷を与えることと同義である。
中傷以上の損傷、並びに刀剣そのものにダメージを受けていること。
それら条件が達成された今、奥秘を繰り出すことに否やはなく。
踏み込んだ乱の体が、一瞬にして消失する。
文字通り消えたとしか思えぬ超速で駆け抜けた先、反応すらできず棒立ちとなった浅野の体に、巨大な血の華が咲いた。
一瞬にして静まり返った戦場の中に、人体の倒れる重い音が木霊した。
◆
「はぁ……あ、ぐぅ……」
苦悶の声と共に、体を引きずる音が耳に届いた。
それが、たった今自分を打ち倒した少年が、トドメを刺しに近づいてくる音だと、薄れゆく意識の中で浅野は理解した。
(わたしは……)
負けたのだろうか、と思う。
身体は倒れ、指一本とて動かせる気がしない。思考すら白み、前後左右の平衡感覚さえ途切れてしまった。
負けた。
それは変えようのない事実だ。私人として私闘に挑んだ浅野學峯は言い訳の余地なく敗北した。情けなく地を這い、起き上がる力もなく、襤褸雑巾のように嬲られて転がっている。
(だが……!)
だが───聖杯戦争のマスターとしての浅野は、未だ敗北していない。
眼前の少年、
乱藤四郎についての簡単な来歴はドフラミンゴから聞き及んでいる。仕込みにかかる時間の都合と死人であるという誤報から詳細までは詰められていないが、それでも今の浅野にとっては十分すぎる情報は手に入れてある。
乱藤四郎は、令呪を保有していない。彼に与えられた令呪は、今は他ならぬ浅野が簒奪している。
それは何を意味するのか、決まっている。彼は自分と違って、サーヴァントを呼び出すことができないのだ。
「令呪を、以て……命ずる……!」
そこまで声を絞り出して、不意に止まる。
壊れた痛覚がスパークする脳内に、先刻の光景が浮かび上がる。
───ならばいいだろう、彼方で見ているがいい……!
───お前の助けなど借りず、お前のもたらす滅びすら構わず、私は私の力によって私の勝利を証明してみせる……!
それは他ならぬ自分が吐き捨てた、なけなしのプライドがこぼした宣誓だった。
私はこの期に及んで、あの小物極まるライダーに助けを請うのか。
殴り合いで負けた己は、今度は誓いさえ裏切るというのか。
それは、あまりにも、無様に過ぎるのではないか?
「それがどうした……!」
己が欲しいのは尊厳や自意識などという絵に描いた餅ではない、"勝利"という唯一無二の存在価値だ!
勝利の役に立たないプライドなど犬に食わせてしまえ。勝つためならば私は何でもやってやる!
卑怯? 知ったことか。卑怯などという言葉は弱者が敗北の言い訳に使う弱い言葉だ。戦場に、生存競争に正々堂々などあるわけがない!
「令呪を以て命じる……! ライダーよ、今すぐこの小僧を殺せぇ……ッ!」
右腕に宿る令呪が赤く輝く。瀕死の肉体はそれでも、勝利への執念のみで最期の命令を完遂した。
これで私が敗北したという事実は無くなる。私は再び勝者へと返り咲けるのだ!
さあ、来い! ドンキホーテ・ドフラミンゴ!
……。
……。
……。
────────────。
「……な、に?」
無音が、辺りを包み込む。
浅野の絶叫は虚しく立ち消えて、けれどそれ以外の変化が起こる気配はない。
ドンキホーテ・ドフラミンゴが、現れない。
「なにが、どうして……!」
「それ」
無感動な乱の声が、ある一点を指す。
浅野の右腕。先程まで令呪が光り輝いていたはずの場所。
「もうとっくに消えてるよ。命令するよりずっと前に」
「なん……だと……?」
絶句の響きと共に腕を掲げる。そこには、既に光は消え失せた醜い赤痣だけが残されていた。
最初の一言、浅野が令呪を使おうとした瞬間に乱はその意図するところを察し、命じさせまいと足に力を込めた。が、次の瞬間には光が立ち消え、浅野は何の力も残されていない令呪に命令を叫んだのだ。
令呪の力の喪失とは、つまり魔力パスの断絶。
それが意味するところは───
「死んだかライダー。できればこの目で死に様を見てやりたかったけど、贅沢ばかり言ってられないよね。
ボクにはまだやるべきことがある。こんなところで立ち止まってなんかいられるか」
平静と、何の感情も伺えない平坦な声。それは既に先のことを見据えていて、浅野のことなど微塵も視界に入れていない。
それは、勝者が敗者に向ける当たり前の無関心。
今までは浅野が持っていた、今は浅野に向けられている、何より冷たく何より鋭い致死の猛毒であった。
負けた。
今度こそ完璧に、一切の復帰の可能性すら封じられた上で、これ以上なく圧倒的に何もかもを潰された状態で、負けた。
浅野學峯ともあろう男が、二度と負けぬと誓ったはずのこの私が、何度も何度も恥を知らずに負け続けた!
一度も勝てなかった。一度も、たった一度たりともだ!
何度も負けて地に這いつくばって、なおも惨めに足掻いて無様を晒し、それでも何も掴めなかった。
敗北、敗北、敗北敗北敗北敗北敗北敗北敗北敗北敗北───!!
引き際を弁え孤高に誇り高く死ぬでもない! 叶わぬ希望に手を伸ばして見苦しい姿だけを晒したそのザマはまさしく浅ましい敗者そのもの!
なんて醜い。犬畜生にも劣る。生きてて恥ずかしくならないのか。ああそんな自嘲さえも愚かしくて醜悪極まる。
侍従であるはずのサーヴァントに無意識に負けを認め、
反感として抱いた殺意は歯牙にもかけられず、
幾度も幾度も魔力を吸い上げられては血反吐をぶちまけ、
それすら何の戦果にも繋がらず、
己は戦うことすら許されないまま聖杯戦争を敗退し、
救いようのない人として最底辺の愚物に見え見えの媚を売り、
多くの時間と手間と人員を費やして築き上げた一夜城は塵のように崩され、
幼い子供に殴りかかった挙句腕力で捻じ伏せられ、
サーヴァントに頼らないというなけなしの矜持さえ自分の手で踏み躙り、
プライドさえ売り払ったその行いも、既に遅きに失した。
そして私は二度もサーヴァントを失い、これだけの敗北を重ねて、それでもおめおめと生き恥を晒している。
塵だ。こんなものは人間じゃない。生きているというそれだけで、浅野學峯という存在への冒涜だ。
ふと、何か光るものが目に入った。
懐から零れ落ちたそれは、クヌギの葉を模ったネクタイピン。
安物の、なんてことない、武器でも礼装でもない単なる小物。
池田くんたちから貰ったプレゼント。
私の弱さ、私の敗北の、象徴だった。
「……はは」
何もかもを奪われて、
最期に残ったのがこれだった。最初に手に入れたもの、それでは何も変わらないと思ったもの。
私は全てを失った。
けれど、それでも最期に残ったこれだけは。
「私は、負けない」
私の、この命だけは。
「私の命運は、私が決める」
私以外の何者にも、奪われてたまるものか。
そして次瞬───ネクタイピンを握りこんだ浅野は、その先端を力いっぱいに己の首に突き刺し、思い切り横へとねじ切った。
どれだけの絶望を原動力にしたのだろう。刃物ですらないピンの鈍い切っ先が押しこまれ、薄い肉と硬い骨が押し切られる。そして口のようにばっくりと、黒い空洞が晒け出された。
単一の肉ではなく、いくつもの線や管を力づくで引き千切る"ぶちぶち"という鈍い音。骨を削られ、薄い肉と組織と神経を切り潰された断面から、一瞬遅れて大量の血が溢れだす。ホースから飛んだ水のように、大量の血飛沫が大地を赤く染めた。
咽返るほどの臭気が一瞬にして広がる。喉と肺にへばり付く、血と脂と体液の濃密な臭気だ。戦場で繰り返し嗅いだ嫌な匂い。ただただ、臭い。
面白いくらいにぴゅーぴゅーと血を噴き出し、言葉無く倒れたままの浅野を見る。
死んでいた。
ほぼ即死だった。
光彩を失った瞳が、ガランドウとなって虚空を見つめている。
乱が殺してやるまでもなく、さっさと死んでしまった。
「……馬鹿な人」
自分から勝負を投げ出して、最低最悪の敗北(おわり)を迎えた哀れな男。
ライダー共々消えたなら、これからの戦いにおいて考慮する必要もなくなった。
「できれば、令呪を回収しておきたかったけど」
自分にその類のスキルはないし、そもそも彼は死んでしまった。回収の可能性は絶望的だろう。
仕方ないと思考を切り替える。やらねばならないことは分かり切っているのだから、今はそのために行動しよう。
そう考え、重い体を引きずるように歩こうとした。
その瞬間だった。
「───な、うぐっ!?」
突如、足元が揺れた。
地震そのものではない。ドフラミンゴの鳥かごやアーチャーの結界のような大規模な魔力行使ともまた違う。
もっと歪でおぞましい、荒唐無稽な何かだ。
理屈ではなく直感で、乱はその存在を確信し、そして───
そして、見た。
彼方に立ち上がる、白き巨大な狼の姿を。
まともに見て、見てしまって、その全貌を視界に収めてしまって。
「な、あ、ぁあ、あ……」
文字通りに言葉を失った。
身体が、動きを止めた。
その根源は何だ。彼の体と心を止めるものは。
決まりきっている。凍りつかせるものは、恐怖。
心まで砕かんとする絶対的な恐怖が、乱を襲って。
そして───
▼ ▼ ▼
そして、絶対の恐怖を前にしても尚、二人は立ち向かうことを決めた。
友奈とすばるは赫色の大地を固く踏みしめて、咒波嵐の彼方に霞む巨人たちを見上げた。
細く、しなやかで、けれど万象一切を砕くとさえ思わせる力強いフォルム。物質でもあり影でもあるかのようなそれらを覆う色は、黒と白。
文字通り天を衝く巨人の、空へと咆哮する姿は、現実ではない神話や御伽噺であるかのようで。
「アイちゃんとキーアちゃんは、あの近くにいます」
ぎゅっと、スカートの裾を握りしめる。
震える声とは裏腹に、指にはいっそうの力が込められる。
「わたし、生きて帰ります。生きて、みんなと一緒に……みなとくんと一緒に、元の居場所に戻ります」
「うん、分かってる」
躊躇いなく、友奈が答える。
「その時まで、私があなたを守るよ」
罪も痛みも背負って進む。
守れる人がまだいるなら、私はまだ戦っていける。
それが、
結城友奈の選んだ道。
「……行こう。サーヴァントが近くにいるなら、私は探すことができるから」
こくん、とすばるが頷く。
地を踏みしめる足に力を入れる。隣では、自動車のエンジン音にも似た振動が発せられる。
そして二人は、戦場の気風満ちる大空へ、その身を躍らせるのだった。
▼ ▼ ▼
「何が、あった……?」
呆然と、あるいは釈然としない様子で、蓮が呟く。
何かが起こった、というわけではない。劇的な出来事も不測の事態も一切起きていないし、彼ら"二人"に特筆するような異常は見当たらなかった。
逆だ。
"何もない"ということが、異常なのだ。
「今、俺達は何をしていた? 足を止める理由なんてなかった、ここには誰もいないし何もない、そのはず……なのに」
キーアが突然、誰かを見つけた。
蓮はそれを認識することができなかった。
そして数分の時が流れ、結局は何も起こらずに───
いや、いいや、違う。
何かが起きたはずだ。見えない誰かが現れるような、そんなことがあったはずだ。
「誰かが、いたはずだ。男か女か、顔は……どんな格好を、どんな声をしていた……?」
記憶の欠落。
認識の阻害。
ここには、キーアと蓮以外にもう一人、誰かがいなくてはならなかったはずだ。
だが誰もいない。
何も覚えていない。
ぽっかりと、雑多な絵に空いた空白のように、そこだけが記憶から抜け落ちている。
「……ギー」
ぺたりと座り込んで、キーアが呟く。
茫洋と空を見上げるその頬に、一筋の涙が伝った。
訳も分からず、涙を向ける相手さえ知らず、それでも流れる雫だ。
「あたしは、きっと、これで良かったの……?」
その言葉の意味さえ、今はもう分からない。
座り込むキーアの前には、ほんの少し前まで彼女を抱きしめる誰かがいたかのように、誰もいない空間がぽっかりと空いているのだった。
【浅野學峯@暗殺教室 死亡】
【アティ・クストス@赫炎のインガノック-What a beautiful people- 真実看破】
『B-2/源氏山麓/一日目・禍時』
【キーア@赫炎のインガノック-What a beautiful people-】
[令呪]三画
[状態]魔力消費(中)、決意、原因不明の悲しみ(大)
[装備]なし
[道具]なし
[所持金]子供のお小遣い程度
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯戦争からの脱出。
0:なんで……
1:もう迷わない。止まることもしない。
[備考]
現在セイバー(
藤井蓮)と行動を共にしています。
【セイバー(藤井蓮)@Dies Irae】
[状態] 右半身を中心に諧謔による身体破壊(中・修復中)、疲労(大)、魔力消費(中)、困惑
[装備] 戦雷の聖剣、《打ち砕く王の右手》
[道具] なし
[所持金] マスターに同じく
[思考・状況]
基本行動方針:アイを"救う"。世界を救う化け物になど、させない。
0:どういう……ことだ?
1:聖杯戦争の裏に潜む何者かに対する干渉手段の模索。アーサー王と合流してこの異常事態への情報を共有したい。
2:悪戯に殺す趣味はないが、襲ってくるなら容赦はしない。
3:ゆきの使役するアサシンを強く警戒。だがこの段階においては……
4:ロストマン(結城友奈)に対する極めて強い疑念。
[備考]
バーサーカー(
アンガ・ファンダージ)、バーサーカー(式岸軋騎)を確認しました。
すばる&アーチャー(東郷美森)、
キーア&セイバー(
アーサー・ペンドラゴン)とコンタクトを取りました。
アサシン(
ハサン・サッバーハ)と一時交戦しました。その正体についてはある程度の予測はついてますが確信には至っていません。
C-3とD-1で起きた破壊音を遠方より確認しました。
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)を無差別殺人を繰り返すヤクザと関係があると推測しています。
ライダー(
ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン)及びアサシン(
アカメ)と交戦しました。
ランサー(結城友奈)の変質を確認しました。
セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と情報を共有しました。
針目縫から《打ち砕く王の右手》の概念を簒奪しました。超越する人の理により無理やり支配下に置いています。
※アティ・クストスに関する全ての記憶と認識が消失しました。キーアと藤井蓮のみならず、鎌倉市に存在する全人物に共通します。
『D-2/廃植物園/一日目・禍時』
【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(大)、神経負荷(極小)、《奇械》憑き
[装備] ドライブシャフト
[道具] 折り紙の星
[所持金] 子どものお小遣い程度。
[思考・状況]
基本行動方針: 聖杯戦争から脱出し、みんなのもとへ“彼”と一緒に帰る。
1:生きることを諦めない。
2:わたしたちは、青空を目指す。
[備考]
C-2/廃校の校庭で起こった戦闘をほとんど確認できていません。
D-2/廃植物園の存在を確認しました。
ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
ブレイバー(結城友奈)と再契約しました。
奇械アルデバランを顕現、以て42体目のエンブリオと為す。
機能は以下の通り。
衝撃死の権能:《忌まわしき暗き空》
遍く物質を発振させる電撃の槍を放つ。
《物理無効》
あらゆる物理的干渉を無効化する。
《守護》
あらゆる干渉より宿主を守る。
心の声、あるいは拡大変容
詳細不明。ただし、奇械は人の心によって成長するとされている。
?????
詳細不明。
【ブレイバー(結城友奈)@結城友奈は勇者である】
[状態]魔力消費(中)、疲労(大)、精神疲労(大)、神性復活、霊基変動。
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:"みんな"を守り抜く。例えそれが醜悪な偽善でしかなくても。
1:立ち向かう。
[備考]
すばると再契約しました。
勇者(ブレイバー)へと霊基が変動しました。東郷美森の分も含め、サーヴァント二体分の霊基総量を有しています。
大満開の権能:限りなく虚空に近きシューニャター
『C-3/鎌倉市役所跡地/一日目・禍時』
【乱藤四郎@刀剣乱舞】
[令呪]0画
[状態]右腕欠損、大量失血、疲労(極大)、全身にダメージ、精神疲労(大)、思考速度低下、令呪全喪失、右腕断面を焼灼止血、反動による肉体負荷(大)、恐慌状態(大)、呆然自失
[装備]短刀『乱藤四郎』@刀剣乱舞
[道具]なし
[所持金]燃えた
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯の力で、いち兄を蘇らせる
1:あ……
2:ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)を殺す。
3:ランサー(結城友奈)の姿に思うところはある。しかし仮に出会ったならばもう容赦はしない。
[備考]
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)との主従契約を破棄されました。
現在はアーチャー(
エレオノーレ・フォン・ヴィッテンブルグ)と契約しています。
最終更新:2019年06月23日 17:49