「だって、夢って根っこじゃないですか」
それは記憶。
私の記憶。かつての記憶。
私と彼の間に交わされた、他愛もない会話。
隣を歩く彼の顔は陽射しの下で黒い影になっていて、見上げる私の視点からはよく見えなかったけれど。
多分、その時は怪訝な表情をしていたのだと、そう思う。
「根っこ?」
「行動や判断って『こうなりたい』っていう夢があって初めて行われるものじゃないですか。夢があるから努力して、夢があるから前に進む。
突き詰めると、パンを食べるのだって夢のためですよね?」
「前から思っちゃいたけど、お前ほんっとに極端だな」
はぁ、と生返事を一つ。
「じゃあお前、パンだの菓子だの、まあともかくそういう食事の度にそんなこと考えてたのか?」
「はい、そうですが何か?」
こっわ、怖えよお前きっしょという有難い返事をもらった。
とりあえず蹴っておいた。
「……言われてみれば、確かにそうですね。このパンを食べるのは夢のため、私が息を吸えるのは夢があるから。だから私は生きている。そう考えてます」
「やたら息苦しい考えだな。その理屈でいくと、お前は夢破れたら食事も満足に取れないじゃねえか」
「なんというか、セイバーさんには言われたくないって思うのは間違ってないと思うんですが、どうでしょうか」
「いや、俺でも流石にそこまで人間やめた完璧主義はしてねーよ」
そこまで言われると、流石にむっとしてしまう。
自分の考えを曲げない頑固者なのはお互い様だと思うのだ。
「世の中算数じゃないんだ。百回やって百回同じ答えになるわけねえし、そんなことで完璧求めるなんざアホらしいだろ。
崇高な信念とやらも、一歩間違えりゃただの意固地でしかないんだからさ」
なんというか、とても実感のこもった言葉だ。
でも、セイバーさんの言葉には一つ、重大な欠点がある。
「でも私の夢は完璧じゃなきゃいけないんです。失敗で救えない人がいる前提で他の人を救うだなんて、嘘じゃないですか」
「夢が完璧じゃないから断食して死にますってか? 本末転倒って言葉知ってるかお前」
……それは、まあ、確かに。
私が倒れては助けられるはずだった人も助けられないのだから、それは間違っていない。まあ倒れそうになっても倒れなきゃいいだけの話ではあるけど。
けれど、それでも解せないものがあるとすれば。
「貴方はどうなんですか、セイバーさん。貴方の逸話は"完璧"でなければ至れないものです。それでは話の辻褄が合わないじゃないですか」
私の夢を単なる頑固者の我儘と言うなら。
死者の生を認めず、その渇望を永遠不変の理にまで変えた貴方は、それをどう考えているのかと。
貴方がそれを否定するのは、矛盾や二重規範なのではないのかと。
「そんなの決まってる。こんなものは完璧でも何でもないってだけだ」
嘆願にも近い響きで尋ねられたアイの言葉は。
他ならぬ彼によって、何とも呆気なく否定された。
「さっきも言ったろ。この世に絶対の解答なんかない。百回やれば百回違う答えが出るし、俺はそのへん臨機応変がモットーだからな」
あー、と彼は困ったようにガシガシと頭を掻きながら。
「要するに、美味い飯なら何度だって食えばいいし不味い飯なら二度と食わねえってこと」
一度や二度殺人メニューに当たったからって、食事そのものをやめるようなネガティブさは持ち合わせちゃいない、と。
そう言う彼は、苦笑するかのような響きで。
「そこらへんアバウトにしとかないと、そのうち人生詰むぞお前」
▼ ▼ ▼
アイは世界を救う夢を見た。世界を捨てた神の代わりに、荒廃した世界を背負う者になりたかった。
アイは、神さまになりたかった。
…………。
薄桃色の光にぼんやりと照らし出された洞窟を、二人の少女が進んでいた。
光の出所は
すばるの持つ機械的な杖──ドライブシャフト──の星型エンジンだ。子供の胴体ほどもある大きさの星型には、そんな不可思議で暖かな光が灯り、暗く無機質な洞窟の壁を照らしている。
前方に掲げられた杖の先の光だけを頼りに、おっかなびっくり歩く二人。すばるは不安げな顔で、アイは小生意気なくらいの無表情だった。
「アイちゃん、絶対はぐれないように気を付けてね」
気弱な声はすばるのものだった。ドライブシャフトの光は懐中電灯よりも強かったが、それでも届かないほどに行く手を遮る闇は深く、どこまでも続いているかのようだった。
アイとすばるが落ちた穴の先にあったのは、自然にできたのかも分からない巨大な地下洞窟だった。
冷たく湿った土の中にできた、3mはあるかと思われるほどの高さを持つ地下洞窟。無論のこと一切の光源はなく、すばるのドライブシャフトがなければ穴の向こうの月明かりさえここには届かなかっただろう。
穴自体は底のほうがスロープ状態になっていたため、不幸中の幸いというべきか、二人は命が助かったのは勿論骨折やそれに類する大けがもしていない。とはいえ喜んでばかりもいられなかった。全体として危険な状態にあることに変わりはないし、変身したすばるがアイを抱えて穴を駆けあがっていくこともできなかった。入り組んだ構造の穴は長大なドライブシャフトを機動させるには余りにも狭い。すばるの力は航行速度や環境適応には目を見張るものがあったが、単純な出力、それも破壊に類する力には乏しい。
そういうわけで、二人は目下先に続いていると思しき洞窟を進んでいるのだった。脱出を目指すという意味もあったが、アイの探している"何か"がこの向こうにある可能性もあるからだ。どちらにせよ、最初の場所から動かないほうがいいという定石は助けなど期待できない状況では適用できるはずもなく、二人は否応なく動くしかないのだが。
「ここに来てからどれくらい経ったんでしょう。数分、ということはないと思いますが」
「わたし、聞いたことある。こういうところだと時間の感覚って上手く働かなくなるんだって。目も耳もほとんど使われないから、五感もほとんど麻痺しちゃうとかって」
「なるほど。だとすると人の体とは何とも不便なものですね。こういう時こそ上手いこと働いてもらいたいものなのに、情けないことです」
「わたしは情けないより先に怖いよ……」
などと軽口を叩きあいながら進んではいたが、なるほど確かにこの状況は如何ともし難い。
五分、十分。何度も折れ曲がり、分かれ道に行き当たり、時には下り、また上り。依然として変わらない闇の中、想像よりも遥かに広かったらしい空間に舌を巻く。
「どこまで続いてるんだろ、この洞窟……というか、なんで街の下にこんなのがあるのかなぁ」
「多分これは風穴でしょう。すばるさんにはなじみがないかもしれませんが、風の動きが結構速いですから。まあお山だけじゃなく、人の住んでる街にまであるとは思いもしませんでしたが」
「風穴……ってことは、どこか出口に通じてるってことなのかな」
「そこまでは確証が持てませんが、恐らくは」
「そっか」
と、ほんの少しだけ意気揚々と跳ね上がったすばるの声音とは対照的に、アイの顔は若干伏せられたままだった。
それに気付いたすばるが尋ねると、「いえ」とアイの若干沈んだような声。
「改めて申し訳ありません、すばるさん」
「? いきなりどうしたの、アイちゃん」
「いえ、何にせよ私がすばるさんを巻き込んでしまったことは事実なので。ブレイバーさんもいらっしゃいませんし、さぞ不安なんだろうなと」
「へ? ううん、そんなことないよ」
アイの予想と反して、返ってきたのは本当に何でもないと言うかのようなすばるの言葉。
「アイちゃんと一緒にいるって選んだのはわたしだし、それに前にも言ったけど魔法使いの力って凄いんだから。もしも生き埋めになっても、アイちゃんと二人くらいならどうってことないよ」
すばるの持つドライブシャフトの力は、単純な飛行速度だけでなく環境適応能力に関しても比重が重く取られている。
何せブーストを行えば深海から宇宙空間、果ては太陽表面であろうとも何の問題もなく活動できてしまうほどなのだ。現状のすばるにはエンジンのかけらによる補助はないにしろ、土の中に埋められた程度ではどうということもない。
「それにいざとなったら、
みなとくんにお願いして……」
「すばるさん?」
「え? ううん、何でもないの」
あはは、と笑って誤魔化される。
何だろう、と首をかしげて、まあいいかと納得した瞬間だった。
ドライブシャフトの光が示す一角に、アイはある物を発見した。
「ちょっと待ってください。すばるさん、あれ……」
駆けより、拾い上げて確認する。間違いない。
「これ、拳銃……ですよね」
ずっしりと手に圧し掛かる重さ。鼻に刺さる鉄の匂い。ざらついた錆の感触。
それは放置され朽ち果てた、一丁の拳銃の残骸だった。
「なんでこんなものがここに……」
訝しげにアイが呟く。
色々と検分して分かったがこれはどうやらリボルバー式のようで、本当ならカチカチと回転するはずのシリンダーはすっかり錆びついて碌に動かすことができなかった。
「わたしたちの他にも、誰かがいた……?」
「それにしてもこの錆びつきっぷりは凄いですよ。確かにここは湿っぽいところですけど、一日二日ではこうはなりません。となると……」
アイは手許の拳銃から顔を上げ、ドライブシャフトの照らす闇の向こうを見つめた。
「誰かがここに来たのは間違いありません。問題はそれが誰で、どこにいて、私たちにとってどのような意味を持つかにあります」
「意味って、さっき言ってた……?」
「ともかく先を急ぎましょう」
アイは再び頷き、すばると連れ立って歩みを再開した。
闇は依然深く色濃いままで、歩いても歩いても同じ景色ばかりが連続する。果たしてこのままでいいのだろうか、探し物は見つかるのだろうかという思いがちらりと頭を過った。
(まずいですね)
アイは自分の思考に危機感を覚える。これは予想以上に精神が参っているのかもしれない。
一般に、人は暗闇の閉鎖空間において単独でいると半日も精神が保たない。光源があり、二人連れのアイたちはその点で恵まれているが、それでも気力と体力を削られているのは明らかだった。
そして、アイでさえそうなのだから、すばるはきっと更なる疲労を強いられているのだろう。
一瞬、葛藤が頭をもたげた。この状況で最悪のパターンは、ミイラ取りがミイラになること。
ならばひとまず自分達の脱出を……最悪はすばるだけでも地上に返し、そこから探索を再開するべきなのではないか?
時には諦めや妥協というのも必要で、臨機応変に対処する賢さが大事なのではないか、と。
「いいえ」
誰にともなく、アイは自分に言い聞かせるつもりで呟いた。
理屈ではそうかもしれない。けれど状況を形作るのはあくまで人であり、自分自身なのだ。
世の中算数じゃない。そんな理屈で人を推し量ることはできないセイバーの言っていた通りだとも。
アイは世界を救うと決めた。ならばその夢に反する行いなどできるはずもないし、やってしまったらきっと自分は心を失って下手を打つだろう。
そういう危うさことが人の業というべきものであり、逆を言えば自分が自分を見失わなければ十全以上の力を発揮できるということでもある。
かつて天国を創り上げた母のように。
かつて地獄を遠ざけた父のように。
そう思い、強く信じて、負けるものかと前方の闇を睨み見据えた。
その時だった。
「──────」
奇妙な感覚があった。
それは、何かを訴えかけるような……
「アイちゃん……今のって」
すばるがアイの顔を覗き込むようにして訪ねてくる。どうやら彼女も同じものを感じ取ったらしい。
「ええ、突然のことで驚きましたが。すばるさんも?」
「うん。上手く言えないけど、呼び声みたいなのが……」
「声?」
そこで、アイは一瞬言いよどんでしまう。だって、アイが感じ取ったのは。
「いえ、私が感じ取ったのは匂いなんですが」
「匂い? 匂いって、何の……」
今度はすばるがぽかんとして、けれどアイは言いよどむことなく。
「死臭です」
この先に何かの、あるいは誰かの死体があるのだと、そう断言するのだった。
▼ ▼ ▼
果たして、辿り着いた先に"それ"は鎮座していた。
「ひっ……!」
「これは」
ドライブシャフトの明かりに照らし出された一つの人影。
幾つもの鎖で雁字搦めに磔にされた、人型をした者の身体。
服は経年でボロボロになり、赤色の髪はくすんで色褪せ、胸のあたりに赤色の書物を抱えた状態で縛り付けられた骸。
それは───
「ミイラ、ですかね?」
呟かれるアイの言葉通り、それは土気色に落ち窪んだ、痩せ細った死体だった。
旱魃に罅割れた大地に転がる捻くれた枯れ木。喩えるならそのようなものであり、まさしくミイラでしかありえない。
「あ、アイちゃん……これって……」
怯えと困惑の入り混じったか細い声が、アイの耳朶を打つ。恐怖に身を竦ませるすばるが手元を震わせる度、ドライブシャフトの光が揺れて暗い洞窟に映される影の輪郭が乱れた。
無理もない話だった。何故ならこの聖杯戦争において、すばるが明確に死体を目撃したのはこれが初めてなのだから。
これまで多くの戦いと危機、そして別れを経験してきたすばるは、しかし人の死を明確に目撃したことはなかった。みなとの死の現場を見ることはなく、バーテックスの凶行において遥か上空を飛行していたために惨事を見ることはなく。ドフラミンゴをその手にかけた事実はあるが、死体も残らずそもそも生きてすらいないサーヴァントを数に入れることはできないだろう。
考えてみればアイとすばるが出会った最初の時、すなわちこの廃校舎でゆきの仮初の友達となっていた女性の遺体すら、すばるは目にしていなかったのだ。それがこの異様な状況を前にしては怯えも戸惑いもするだろう。
事実として、確かにこれは気味が悪い。死体に囲まれて育てられてきたアイにはあまりピンとこない感覚だが、一般的な感性と比較して考えることはできる。
アイはすばるの恐怖を助長しないよう、できるだけいつもの調子を崩さないよう気を付けながら言葉を返す。
「はい。死体ですね。ミイラです。ホトケ様です」
言いながらアイは目の前の死体を検分する。
やはりというべきか、紛うことなき人の死体だった。偽物という線はまずあるまい。今はもう枯れ木のように渇き果てて物となっているが、かつてあったはずの生命の残滓を墓守としての習性によってかアイは感じ取ることができた。
推測でしかないが、多分この人は男性だ。それも若い、恐らくアイやすばるより多少年上な程度の男の子。まばらに残った髪の毛は色褪せた赤色で、身に纏ったシャツとジャケットは年月と砂に塗れ擦り切れているものの、かつては男の子好みな格好良い奴だと分かる。
そこまで考えて、当然出てくる疑問がひとつ。
「この人、どなたなのでしょう?」
聖杯戦争の参加者、というのは考えづらい。死体の状況と衣服の損耗を見るに、少なくとも数か月単位の時間が経過しているはずだ。
ならば黒衣のアーチャーが言っていた二つ目の楔なる者かと考えても、そもそもの話としてそれが意味するところは一体何だ?
アイに約束を違えるつもりはないし、この死体が誰であろうとも丁重に埋葬するつもりではあるが、それとはまた別の話として意味が分からない。
この人は一体誰で、何でこんなところに縛り付けられていて、楔だとすればその楔とは一体何であるというのか。
「やっぱり、これが手がかりなんでしょうか」
否応にも真っ先に目に入る、胸に抱かれた赤色の書物。
ここに何かしらの手がかりが記されているのではないか。そう考えたアイが触れようとした。
その瞬間だった。
「■■世界が■■ろ■とも■■れでも■は■■■■を■けたか■た」
「こんな■ずじゃ■なか■たんだ」
慟哭が───
確かに、聞こえた気がした。
「今、声が……」
それは声───なのだろうか。声帯など遥か昔に朽ち果てたはずのミイラが軋み、哭いている。
二人が、特にすばるの反応が一瞬遅れてしまったのも無理はないだろう。何故ならこれは完全な死体であり、屍食鬼でもなければアイの世界を彷徨う死者でもない。
耳朶を震わせる渇いた呻きに気を取られたその一瞬。
どろっ、
と振り返った瞬間、完全に干からびたはずのミイラの顔から、嘔吐するように大量の血が溢れだして直下の地面を真っ赤に染め上げた。
「!?」
「え……?」
硬直するアイとすばるの前で、喀血の勢いによってかミイラの首がぐるりと傾げる。
尚も溢れ出す大量の血液が滝のように流れだし、びちゃびちゃと汚らしい粘質の水音を上げ続けている。
ミイラが、顔を上げる。
血濡れの顔を。そこには───ぽっかりと血に塗れて開いた眼窩と口腔の中に、潰れて変形した無数の人体のパーツが産みつけられた昆虫の卵のようにぎっしりと詰まって、そして圧力で次々と潰れながら外へと押し出されている異様な光景だった。
「きゃああああああああああああああああああああ!!!」
直後、すばるの口から凄まじい絶叫が迸った。
後ずさるすばる、反対にミイラに向かって駆け出すアイ。両者の違いは辿ってきた半生の現れた結果であり、このような異様な状況への対応力の違いでもあった。
生まれてからずっと死者の谷で育ってきたアイにとって、この程度は恐れることではない。故に彼女はすばるを庇護せんと、そしてこの哀れな死者を止めようと、銀のショベルを一閃する。
その瞬間であった。
《干キ萎ミ病ミ枯セ。盈チ乾ルガ如、沈ミ臥セ》
《■段、顕象───》
地獄の亡者を思わせる多重奏の叫喚が、暗闇の虚空に災禍の形を紡ぎあげた。
瘴気が噴き出す。肉塊が湧き出す。アイとすばるの視界いっぱいに、ミイラの穴という穴から溢れ出した異形の骨肉と臓腑が、煙霧のように"ぶわり"と広がった。
「これは……!」
化け物、そんなありきたりな言葉しか思い浮かばない。それはまさしく、アイの拙い語彙ではそうと形容する他にない異形の群れであった。
血と肉と骨と内臓によって織り成される不浄のコントラスト。小腸で表情を作り、筋繊維の髪を揺らし、腐液の涙を垂れ流しては腐敗によるアンモニアとメタンのガスを吐息として笑い続けている。
そんな異形の顔面が、臓腑の海のそこかしこに無数に浮かび上がっている。最早ミイラの体内に収まりきるはずもない体積を持つそれらは、今や洞窟全体を覆うほどに広がりを見せていた。
哄笑。
怒号。
悲鳴。
慟哭。
耳を塞いでも入ってくる、心を削るようなそれらの音に囲まれて、アイはほんの一瞬動きを止めてしまった。
これはなんだ? 一体何が?
あまりにも常識を破壊する光景に一歩も動くことができない。猛烈な勢いで押し寄せる異形の瘴気に呑みこまれ、それが体をすり抜けたと感じた途端。
「ぎッ───」
意識が万華鏡の如く、極彩色にばらけながら爆発した。
「ぎッ、あッ、ァァ───ガアアアアアアァァァッッ!!」
激痛。
激痛。
激痛。
そんな概念すら分からなくなるほどの痛み。痛み。狂乱する痛いという心のハレーション。
これはなんだ。幻覚なのだろうか?
『幸福』の時のように、今度は悪夢でも見せられているのか。
いいや違う、これはそんな思い込みの類なんかじゃありえない。
「ごッ───ぐばあァッ」
アイはその場でのたうち回り、もんどり打ちながら嘔吐する。腹を抑え、胸を掻き毟り、頭を地面に叩きつけて何とか苦痛を逸らそうとする。
そんな抵抗が虚しくなるほどに、その激痛は重篤の極みであった。悪魔が身体に憑りついて、内部から破壊を繰り返しているかのようなこの激痛、とてもじゃないが常人の耐えられる代物ではない。
だからこそ、これは幻覚ではあり得なかった。アイは認識や精神だけじゃなく、現実に肉体の重要器官を穴だらけにされていた。腐らせ、抉り、一瞬で末期に至る重篤汚染。およそ人が罹患し得るあらゆる病魔に現在進行形で蝕まれている。
アイの口からぶち撒けられた血反吐からは糞便の臭いがした。腹が爛れる、脳が壊死する。血の一滴までもが強酸性の毒に変わる。
死んでしまう。
もう助からない。
頭の隅に描いたイメージが、心に実像を結びかけた。
その時だった。
「アイちゃん、下がって───!」
地を這うアイを飛び越えて、決死の表情ですばるが凶源へと疾走していた。
駆けていく後ろ姿が、腐り萎んだアイの眼球に辛うじて映りこむ。駄目だ、逃げて、そう叫ぼうとするけれど。文字通りに張り裂けた喉からは声の代わりに血と腐液と蛆しか出てこない。
例えドライブシャフトの力を用いても、根本的にこれらに干渉することは不可能なのだ。実体を持たない彼らは粘性の気体のようなもので、仮にアイがショベルの一撃を振るうことができていたとしても何の効果も得ることはできなかっただろう。
それは実際に身体をすり抜けられたアイだからこそ分かった。だから逃げてと、そう願ったアイの目の前で。
「来て、我が《奇械》アルデバラン!」
新たな獲物に異形たちが群がろうとするその刹那、すばるの叫びに応えるように莫大量の"影"が奔流となって噴き出した。
それは影。
それは鋼。
それはすばるの足元から、彼女を《守護》するかのように現れる。
すばるを中心に突風が巻き起こり、周囲の異形は風に散らされるが如く吹き飛ばされた。
それは場に溜まる汚れを大量の水で押し流すかのように。すばるのみならず、骨と筋に浸透していくかのようなアイの異常も、力の余波で半分以上が叩き出されている。
原理は何か───それは他ならぬ"鋼の影"こそが知っている。
《守護》。それは宿主に対するあらゆる害的干渉を跳ね除ける、概念装甲にも等しい《奇械》の機能。単純な物理攻撃から、今のような病巣めいた非実体の干渉に至るまであらゆる例外は存在しない。これを打ち破るには同格以上の幻想が必須であり、例えサーヴァントを相手にしようとも並みの英霊ではこの防御を突破することは叶わないだろう。
それは例えば、彼女がブレイバーと共に打ち砕いた
ドンキホーテ・ドフラミンゴのように。
最低限、彼以上の霊格の持ち主でなければ今のすばるを害することはできない。そしてその力を応用し、広範囲に適用させることでアイへの被害すらも強引に取り除いていた。
そして、すばるの反撃はこれだけに終わらない。
「鋼のあなた、我が《奇械》アルデバラン。わたしは、あなたにお願いします」
右手が前に伸ばされる。
応じるように、影の右手も伸ばされた。
───鋼でできた手。
───それは、すばるの想いに応えるように。
蠢くように伸ばされていく。
自由に。その手は不浄の瘴気満ちる空間を切り裂いて。
リュートの如く掻き鳴らされるは鋼の関節の駆動音か。それとも鋼の彼の言葉そのものであるのか。
想いと共に掌を重ねて、二人は右手を前へと伸ばす。
現実には在らぬ鋼の手を。それでも、確かな意思によって───!
「黄雷の如く、貫け!」
────────────────────────!
引き裂き、虚空を撃ち貫く紫電の槍。
御伽噺の、忌まわしき暗き空より来たるもの。
───幻想の旧き雷電。
一直線に放たれた紫電の閃光は、超高密度の穂先を以て異形達の海を穿つ。瞬時に破壊する。
雷に打たれて燃え尽きる小枝のように、閃光の通り抜けていった異形の全てはバラバラに、粉々に砕け散る。一瞬で燃やされ、灰となって崩れ去るのみ。
けれど。
「まだ!」
そう、まだだ。雷の槍が貫いたのは周囲の魍魎のみであり、本体のミイラにはほんの僅か届いていない。
漂う瘴気を切り裂きながら突進し、遂には正体不明の死者へと切っ先を突きつけんとすばるは迫る。例えこの死体がアイの探し物であったとしても、この状況で攻撃を躊躇う理由はないし、アイの状態を見れば一刻も早くこの場を脱出したかった。
それに。
「わたしが、あなたを」
すばるは聞いていた。
この空間へと足を踏み入れる前。アイが死臭を嗅ぎ取ったのと時を同じくして。
すばるは確かに、誰かの声を聞いていたのだ。
───終わらせてくれ。
───誰か。
───俺を破壊してくれ。
「すぐにそこから出してあげるから!」
微かな哀れみの色を滲ませて、すばるが叫ぶ。
鋼の右手が、紫電纏って振り下ろされた。
その瞬間だった。
「哀れんだな、ボクらを」
「──────ッ」
───右手が、止まった。
今まさに死体の頭蓋を破壊しようとしていた右手が、
あと数センチで死者の眉間に届くはずだった鋼の右手が、動かない。
ぴくりとも、微塵たりとも、そこに見えない壁があるかのように。
夢と現実の境を分かつように。
瞑目するすばるの目の前で、骸が抱いていた謎の書物がゆらりと宙に浮かび上がった。同時、破壊的なまでに膨張していく恨みと嫉妬と怨嗟の奔流。
虚空にバラバラと解けながら、闇に消えていく書物の頁。《赤色の秘本》とも言うべきそれが消えるのと重なる形で声が響いた。
「許さない」
そして、今までとは比較にならない真の悪夢が訪れる。
「うッ、づあァッ!?」
それは一見すれば、今までと全く同じだった。
病を帯びた魍魎が突進してきた、ただそれだけ。《奇械》の《守護》により容易く弾き飛ばせるはずのそれが、しかし今回は抵抗すらすることができなかった。
正面からまともに直撃を受け、腹の中心を貫かれたすばるがくの字に吹き飛ぶ。加え、致命的な齟齬は直後に訪れた。
「……、がはッ」
ごろごろと後転し、何とか勢いを殺した時には全てが遅かった。すばるは地に手をつけて大きく咽込み、バケツ一杯に近い量の血膿を吐き出した。びちゃびちゃと汚らしい水音が反響し、新たな血海の中で大量の蛆虫がぴちぴちと跳ねまわっている。それはアイに発病した穢れと全く同じであり、しかし濃度が桁違いであった。《守護》による干渉無効化さえすり抜けて、しかも祓うことすらできない。《奇械》による可能性分岐の取捨選択を用いても、単身でこれを除ける未来が全く見えないのだ。
それは夢幻であるかのように、しかし別階層の法理として深く心身に食いこんでいる。手に負えない。
絡繰りを紐解けばそれは当然の理屈ではある。この術法は邯鄲法における急段に分類されており、つまりは相手だけでなくすばる自身の力さえも攻撃に転用されている状態なのだ。
相手と自分の合体技、両者の渾身が乗せられている故に単身ではどう足掻いても抵抗は不可能。そうした理不尽の分、急段とは成立が非常に難しいものではあるが、すばるは既に急段の成立条件を満たしている。
すなわち、相手を哀れむこと。
過去に存在した玻璃爛宮の逸話の昇華、哀れみを受けることで互いの輝きと澱みを等価交換するという簒奪の理。
だがここで疑問が一つ。ならばこの骸は玻璃爛宮の残骸であるというのか?
いいや違う。彼はそんなものではあり得ない。玻璃爛宮の疑似急段など所詮は邯鄲より汲み出された自動発動の防衛装置に過ぎず、彼の真実は更に別の場所にある。
だがすばるがそんなことを、ましてや邯鄲法の術理さえ知るはずもなく。
「ぎィ、ぐ、あァ……! がふッ……」
すばるは顔面を壮絶に歪めて、何の抵抗もできないままに地面をもんどりうっていた。
今、彼女の胃の七割以上がステージ4の癌に冒されている。どころか肥大化した脳腫瘍、悪性黒色腫、重度の白血病までもが併発し、最早まともに行動するどころか常人では正気を保つことさえ不可能なほどの激痛に苛まれている。
意志や根性が云々という問題ではない。人体という物理構造と動物生理学によって構築された機構は、精神などという神経パルスではどうすることもできない。《奇械》の加護もあってか生存だけはしているが、それもこの状態では悪戯に苦しみを増やすばかりでしかない。
倒れ伏す少女、消えていく鋼の影。
それを他ならぬ""彼""こそが、哀れみの目で見下ろして。
「すばるさん!」
けれど。
それでも、諦めない者がここにはいた。
襲い掛かる魍魎の一体にあろうことかショベル片手に挑みかかって、案の定何の意味もなく重病に冒されながら、それでも崩れることなく顔を歪めて立ち上がる少女がひとり。
すばるのすぐ目の前に立って、その背に庇うように。
「何をやってるんですかあなたは!」
そう叫んだ。
「私は……あなたを助けに来たんです!」
星屑の群れに追われたすばるを助けるために奔走した。その果てに無事を喜んだ。
アイはただ、それだけで良かったはずなのに。
「それなのにどうして私が救われてるんですか! こんなの、こんなのあべこべです! 違います! 私は世界を救う側で!」
アイは、魍魎ではなくすばるに、殺されるような顔をして。
「私はもう、救われる側じゃないんですよ!」
そう言って、
アイは我武者羅にショベルを振り回した。
「私は世界を救います。すばるさんも、この人のことも、絶対に」
勇ましく立ち上がるアイは、けれど。
その姿は本当に小さくて、痛ましかった。
「私は絶対に、私の夢を諦めません!」
そして無謀な、結果の見え切った突撃を敢行しようとして。
「何また馬鹿やってんだ、お前は」
耳を劈く轟音と共に、
蒼白の雷電が、天井を突き破って墜落したのだった。
▼ ▼ ▼
首筋を走る微かな痛みの後に、友奈は後ろ手の拘束を外され解放された。
「……え?」
「穢れを断っておいた。廃校が云々はともかく、結構ヤバいとこにいたのは事実らしいな。小さいのが首んとこに張り付いてたぞ」
「え……え?」
何がなんだか分からないと言った風情で立ち上がる。だって、彼は今までずっと友奈のことを敵視して。
「信じてくれるの……?」
「パスが繋がってることは確認した。俺のほうも健在で、ついでに言えば騎士王だけが窮地に陥ってると知ってるのはアイだけ。となると、まあお前の言ってることは本当なんだろうよ」
「で、でも戯言なんか信じるかって……」
「念のための鎌かけだ、悪かったな」
えぇ……と困惑した声に蓮は続ける。
「それと、騎士のセイバーのほうはもう大丈夫だ。相手してた赤騎士はもういない。
キーアもちゃんと無事だよ」
「そっか。うん、それは本当に……本当に、良かった」
心底からほっと息を吐く。本当に本当に、全てが報われたような心地だった。
アイとは良好な関係を築き、すばるにもサーヴァントと認められた。そして今、セイバーからも信を得ることができた。
友奈が犯した罪は消えないが、それでも築けるものは確かにある。確かな感慨と共に、友奈は改めてそれを自覚した。
「それじゃあ、一緒にマスターたちを迎えに行こう。どこも酷いことになっちゃったけど、でもまだ……」
間に合うはずだから、今から改めて仲間になろうと、友奈は手を差し伸べて。
「駄目だ。それは認めない」
当然のように払いのけられた。
「え……」
「言っておくが、俺はお前を信用していない。さっきお前が言ったことに嘘はないと判断したが、それとこれとは話が別だ」
冗談を言っているようには見えなかった。セイバーの目は最初から一貫してどこまでも冷たく、およそ暖かみなど感じられない。
「で、でも!」
「屍食鬼」
ぴたり、と友奈の言葉が止まる。畳み掛けるように蓮が続けた
「別にそのことを今問いただす気はない。だがその様子じゃ自分が信用されない理由は自覚してるみたいだな。
話を通したのはこれ以上お前と揉める暇がないからだよ。邪魔さえしてくれなきゃそれでいいんだ」
それだけ言うと蓮は友奈から興味を失ったように目を外す。その視線の向こうにあるのは、彼が午前中に訪れ、そしてたった今友奈が走ってきた場所、廃校のある方向。
「……行くの?」
「ああ。屍食鬼が出ようが街が滅びようが、俺はまだ手遅れだなんて思っちゃいない」
どれほど多くの命が失われ、どれほど多くの破壊が巻き起ころうとも、生きている限りは終わりじゃないと言外に語る。
「本気でやってきたからな。このままお陀仏なんてオチに納得できるか」
そして蓮は、首だけで振り向いて。
「それはお前も一緒じゃないのか、《ブレイバー》」
友奈のことを、恐らくは初めてそう呼んだ。
友奈の顔が、ほんの僅かな驚愕に染まる。そしてそれは、今までのとは少しだけ意味合いが異なっていて。
「お前のことは嫌いだけど、お前が本気だったってことくらい、俺だって分かってるんだよ」
「セイバー……」
「もう行け。お前が過去に後悔しているんなら、せめて今と未来くらいは思う通りに進めばいい」
そうして蓮は、最後まで笑みを浮かべることもなく。
「キーアたちを頼んだ。俺もすぐに合流する」
そう言って、一挙動に跳躍し夜闇の向こうへと消えていったのだった。
◆
そして今、蓮はアイの下へ降り立っていた。
地盤ごと雷電でぶち抜いて、辺りに漂う魍魎の悉くを蓮は焼却していた。そして返す刃でアイたちのほうへ腕をやり、裂帛の覇気を以て二人の肉体に憑りつく魍魎を吹き飛ばす。
それは死者が生者を冒すべからずという死想の念。あらゆる死者の力を打ち消す浄化の祈りは、ただの一振りであろうとも単なる魍魎程度ならば問題なく消滅させることが叶う。
そして、二人は互いに目を合わせて。
「よう。さっきぶりだな」
「セイバー、さん……」
何でもないふうに言葉を交わして、それだけで相手が何を思ってここまで来たのかを理解した。
「セイバーさん、その、私は……」
「お前のことだ。詳しい経緯は知らないけど、どうせ誰かを助けるとかなんとか言ってここに来たんだろ」
返答を聞くより速くに剣を一閃、新たに現出する魍魎を寸断する。
「毒素……いや、これは咒病か。実体を持たないとこを見るに類感呪術、けど受肉すらしていない死霊が引き起こすには流石に度が過ぎてる。ってことは」
何かに気付いてか顔を顰めて。
「これが邯鄲法か。それも他人の力を利用する類の、急段だったか。どうも俺は発動条件に合致しないみたいだけど」
「セイバーさん!」
ぎゅっと袖を引かれる感触。下を見れば嘆願するかのようにアイがこちらを見上げている。
「すばるさんが、すばるさんが!」
「心配しなくてもお前らはもう大丈夫だよ。痛み、もう取れてるだろ。それよりも」
くい、と顎で指し示し。
「今度の救済対象は、この死体か?」
「……」
アイは無言で首肯する。
すばるを案じていた目を上げ、口許を一文字に引き締め、前を向く。
目の前の死体は今や、先刻に比して尚凄惨たる様相を呈していた。
げっそりと痩せこけた頬には生前の面影を見ることなど叶わず、濃緑色に変色した皮膚の下では今もなお蠢く肉がドロドロと腐り、かつて臓腑だったであろう黒いヘドロが口や破れた腹腔から溢れ返っている。せり上がる内容物の流動によってか首を中心としたそこかしこがギシギシと軋み、砕けた皮膚がぽろぽろと剥がれ落ちていった。
一度はアイとすばるを殺しかけた恐るべき死者は、そんな悪辣さは見る影もなく、今はただ腐敗と劣化に翳るだけの哀れな骸と化していた。
「壊すにしろ浄化するにしろやってやれるが、どうする?」
「……私がやります」
即答だった。ぎゅっとショベルを握り、一歩前に出る。
死体の崩壊は留まるところを知らなかった。ガクガクと揺れる骸は末端が泥のように崩れ落ち、辛うじて人であったと分かる程度の輪郭しか保っていない。放っておけば、アイの手を借りるまでもなく土に還ってしまうだろう。
「それではダメなんです」
死者は埋葬されない限り死ぬことができない。灰になろうと塵になろうと、墓守の手で埋められなくば本当の意味で眠りにつくことができない。
それはアイの役目であって、存在意義と同義でもあった。これだけは、蓮であろうと譲れなかった。
アイはショベルを地面に突き立てる。そして手のひら一杯分の土を掬うと、それを死体へと放り投げた。
「私は、墓守です」
放物線を描く一握の土くれ。ぶわりと広がって飛んでいく。
「死者の安寧を司るのが、私の役目です」
としゃり、
死体の肌にぶつかった土はそのまま落ちて、後には何も、誰も、動くものはなかった。
▼ ▼ ▼
大きく穿たれた穴の底から、アイとすばるを抱えた蓮が飛び上がった。
校庭の砂地を踏み拉きながら見上げた夜空は、今までの喧騒など嘘であるかのように穏やかだった。
「何かが変です」
アイは、蓮の腕から降りながら言った。
「それは最初から分かってる」
「いいえ、セイバーさんは何も分かっていません」
アイはするりと地面に立つと、蓮に抱えられたままのすばるに手を伸ばす。病苦から解放されて痛々しさの失せた意識のない顔をそっと撫でると、その無事を手のひらから実感した。
「……お前、何見たんだ」
「よくは分かりません。あれは結局何だったのか、あの死者は誰だったというのか」
それきりアイは、自分の考えに没頭して沈黙する。時折眠るすばるの頬をぺちぺちとしながら。
蓮はよく分からないままアイの好きにさせていたが、30秒もするとそろそろ動くぞと言わんばかりに小突こうとして。
「セイバーさん」
瞬間、いきなりアイが顔を上げた。
「あなたは、大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だけど」
アイはじっと、蓮のほうを見ている。
「私も大丈夫です」
「……お前さ、何の話をしてるんだよ」
アイがすっと思考の海から浮かび上がって蓮を見る。
「セイバーさんは、あれを"邯鄲法"と言いましたね」
「ああ」
「ダンカルマさんやユリカさんが使ったという、あの?」
「だから、それがどうした」
「具体的なところは分かりません。ですが、共通点は見えてきました」
アイは歯痒そうに爪を噛んだ。
「"楔"と呼ばれた人たちは、みんな"夢を叶える"力を持っています」
「どういうことだ?」
「邯鄲法というのは、つまり自分の夢を現実に持ってくる力のことですよね?
望むことであれ望まないことであれ、少なくとも強く思い描いた願いが形を作る……それが邯鄲法の説明だったはずです」
確かにその通りではある。下級においては夢の強度が低いため共通した基礎能力しか扱えないものの、破段においては術者の精神的特色、急段においては人生を象徴する哲学が現れる。扱う力の根源が根源であるため、確かにアイの言うこともあながち間違いではない。
「そして、思い出してください。ハチマングウでセイバーさんたちが戦ったのは誰ですか? それに楔と一緒に言われていた盧生というのも、邯鄲法の使い手なんですよね?」
「……つまりどういうことだ」
「セイバーさんの夢も、"叶えられてしまうかもしれない"……そういうことですよ」
そう言って、アイが言葉を締めた。
蓮の、夢。
どうしても叶えたい、願い事。
アイは確かに、それを聞いていたはずであった。
「セイバーさん。あなたは大丈夫ですか?」
「……大丈夫もクソもないさ。お前の言うことが割と当たっていたとして、俺に夢なんかもうない。強いて言うならお前を帰すことくらいだ。それに八幡宮の『幸福』だって耐えてみせたんだ、なら問題ないだろ」
あくまで何でもないように、わざと軽薄な態度を取っているのは見え見えだった。
まただ。またこの人は私に隠し事をしている。それがアイには痛いほどよく分かった。
だから。
「セイバーさん。私、今まであなたに意図して聞いてこなかったことがあるんです。分かりますよね?」
「……さあな」
蓮はこの期に及んで誤魔化そうとした。
「本戦が始まる前、二人で海を見た時のことです。セイバーさんはあの時、私を助けると言ってくれましたね」
それは夕暮れの海辺をバイクでひた走ったあの日、あの時。
ただ自分が助かることだけを考えろ、俺のことはどうでもいいのだと、確かに彼はそう言った。
「……ああ、そうだな」
「それは、何故?」
「なんでも何もないだろ。俺はサーヴァントで、マスターを助けるのは当然―――」
「そういうのはいいです」
アイは、ただ切って捨てた。
少しの遠慮もなかった。声にも、顔にも、笑みはなかった。
「セイバーさんは死にたくて、死んじゃった人のことなんかどうでも良くて、だからまだ生きている私のことを助けてくれるんだって、そう言いましたね。
そして、サーヴァントっていうのは元々"そういう"ものなんだ、とも」
例えどのような人格や思想、願いを抱いていようが、サーヴァントとはマスターに従う存在である。
アイはそれを知識として知ってはいたが、しかし実感としてはどうしても感じることができなかった。
「確かに、セイバーさんの言うことも理解できます。でも、そうは思ってもどこか釈然としなかったんです。
だってそうじゃないですか。お父様は確かに
ルールを曲げて一日だけ"埋葬"されるのを待ってくれましたけど、それは私がお父様の子供だったからです。でも、セイバーさんにとって、私はただの他人でしかありません」
だから、そんな見ず知らずの小娘のために自分の大切なルールを破ってまで、どうして貴方は戦ってくれるのかと。
そう思ってしまう気持ちは、いつまでも心の隅に存在し続けた。
「そういう風に思ってたのか」
「はい、そういう風に思っていました。悪い子、ですので」
たはは、と笑う。誤魔化すように、笑う。
「海辺でも、学校でも、八幡宮でも、お山でも、そして今でも。私は『この人はどこまで付いてきてくれるんだろう?』って考えてます」
「…………」
「ねえ、セイバーさん。あなたはどこまで、私に付いてきてくれますか?」
「お前を元の場所に返すまで……いや」
セイバーは、そこで一旦言葉を切って。
「お前が夢を諦めるまでだ」
「ああ、やっぱり」
そこで初めて、アイの顔に表情が浮かんだ。薄い笑みだった。
どこまでも酷薄で、寒々しいまでに熱のない、白々しい嗤いだった。
「やっぱりそっかぁ。セイバーさんは、私が世界を救えるだなんて、全く信じていなかったんですね」
「……当然だろ。言ったはずだぞ、お前の願いは狂ってるってな」
「はい、そういえばそうでしたね」
アイの嗤いは止まらない。何かを誤魔化すように、底から溢れて止め処なく漏れ出してくる。
「セイバーさんは私の夢は絶対に叶いなんてしないんだって考えてて、私がいつか夢を諦めるはずだって思ってて、私が夢を諦めても大丈夫なようにって考えてくれていたんですね」
「…………」
「セイバーさんは私の夢なんてどうでも良くて、ただ私に幸せになってほしかっただけなんですね」
「…………」
「……セイバーさんは、やっぱり優しい人です」
何を馬鹿な、蓮は咄嗟にそう言おうとした。
けれど開いた口からは何も言葉が出てこなくて、所在なさげに閉じると、苦虫を潰したような渋面を作ることしかできなかった。
「あの、勘違いしてほしくないんですが。責めてるわけじゃないですからね? 今はそんなことしてる場合じゃありませんし、ただ聞きたいことがあって」
「分かってるよ。けど、きついな」
「すいません……でも」
「いや、質問のことじゃなくてさ」
蓮はいつの間にか笑みを浮かべていて。けどいつもの呆れたようなものじゃなく、苦み切った笑み。
「子供に『お前は大人だ』って言われるのは、存外堪える」
「? それはよく分かりませんが……」
「そりゃそうだろうさ」
彼はどこか吹っ切れたかのように笑っている。
「あ、あの。セイバーさん? あの、違うんです。まだ聞きたいことがあるんです。大事なことなんです。あなたにとって私の願いはどうでも良かった、ならあなたにはもう一つ叶えたい夢があるじゃないですか」
「もう一つ?」
「誤魔化さないで、くださいよ」
アイは更に身を硬くする。まるで放り出されることに耐えているかのように。
「死んじゃう、ってことです」
アイはぎゅっと、服の裾を掴んだ。
「セイバーさんが私を助けてくれるのは嬉しいです。私の夢に賛同してくれなくても、いつか別れなくちゃいけなくても、それは本当の本当に嬉しかったんです」
「…………」
「でも、セイバーさんには、まだその夢があるじゃないですか……」
アイはそっと、蓮の手を握る。その感触は確かに暖かかったのに、アイはその温度を信用できずに、硬く、冷たくなっている。
「そういう願いは、仕掛ける側にとっても都合がいいです。きっと完璧な形で叶えてくれるでしょう」
「……アイ」
「勘違いしないでください。それが悪いことだと言ってるわけじゃないんです。ただ、もしそれが本当になってしまったらって、そう思うんです。それで」
「アイ」
蓮はすばるを片手で抱きかかえたまま、もう片方を繊細に使って、アイを撫でた。
「俺は、いかないよ」
「……でも」
「お前を置いて、いったりしない」
その言葉を、蓮は何度も繰り返す。今まで言わなかった分を、今まで言ってきた分を、それでも信じられなかったであろう分を、彼女を不安にさせ続けた日々を補うかのように。繰り返す。
しかし、アイは。
「信用できません」
その言葉と共に、ついには涙が溢れだす。
「わ、私は、やっぱり、その言葉を、信用できません……すみません、私、本当にどうしようもない、子なんです。そういう言葉を、信じられない、子供なんです」
緑の瞳が涙に沈む。涙滴が伝わって地面に注ぐ。ぽたりぽたりと光の粒が瞬いた。
「だって!」
顔が上がる。涙の飛沫がぱっと散る。
「だってあなたは! いっぱい! いっぱい! 隠し事をしてきたじゃないですか!」
今度こそ本当に、蓮は何も言い返せなかった。
しゃくりあげるアイの言葉は堰を切ったように溢れ、自分でも止めることができなかった。
「全部自分一人で抱え込んで! 大丈夫だから心配するなって! 私が何度もお見通しだって言っても懲りないで! 何度も何度も、何度も何度も何度も!
あなたは、私に何一つだって……」
喉が鳴った。アイは暗い瞳で見上げ続けた。
「私はあなたのマスターなんですよ! 弱くても、ちっぽけでも、頼りなくても、それでも私はあなたと一緒にここまで来たんですから!
一つくらい抱え込ませてくださいよ! 我儘くらい言ってください! わ、私は……!」
そうしてアイは、感極まったように。
「私のいる意味が、ないみたいじゃないですか……」
蓮は、
自分がその時、どんな顔をしたのか覚えていない。
ただ、よっぽど酷い顔をしていたのだろう。
それを一目見たアイは、「とんでもないことをした」という顔で俯いた。
「……ごめんなさい」
そしてぽろぽろと涙をこぼし、
「ごめんなさい……私、だから……こうなんです……」
顔を覆い、震えた。
「ああ! もう! ほんっとうに仕方ない奴だなお前は!」
突如蓮が叫んだ。突然のことにびっくりして、アイは濡れる瞳を見開いた。
「確かにお前の言う通りだ。俺はお前を部外者にして、できるだけ事態に関わらせないようにしてきた。それが当然だと思ってたし特に深く考えてもなかった。それでお前が思い悩んでも、まあ、ガキの癇癪くらいにしか思わないようにしてきたし、抱え込むのも必要経費にしか思ってなかった。だってお前、俺以上に無茶しやがるからな!」
それは誤魔化しの言葉ではなく、蓮はアイの瞳をしっかりと見据えた。
「それでも。俺はお前が生きていてくれるほうが、よっぽど嬉しいんだよ」
「……それは、私も同じですよ」
「ばーか。まだ生きてるお前が死人の心配なんざすんな。これを言うのも何回目だったかな」
全く、と苦笑めいた響きを湛えて。
「何回も何回も、同じ話題をループさせるのは疲れた。実はそういうのも嫌いじゃないんだが」
いつも同じ毎日で、劇的な幸も不幸もない陽だまりの停滞……俺はそういうのが好きだけど。
「お前絡みの話は、色々と重すぎる。何度も繰り返したいとは思わない」
「……それはつまり、もう"これ"と決めたから話す必要はないってことですか?」
「そうだな。お前はまだ話したいのか?」
「どう、なんでしょう。なんとも言えません」
ただ、と少しだけ間を開けて。ぐしぐしと目元を拭いながら、アイは言う。
「どんな結果になるとしても、それを後で知るだけなのはもう嫌なんです。私は傍観者じゃなくて、当事者になりたいんです」
「そうか」
そうして、蓮は何やら覚悟を決めた表情をした。
「お前は本当に曲がらないな」
「当然です。だって私は」
「世界を救うから、か。なら俺もそうさせてもらう」
「えっ?」
「お前がお前を貫くように、俺も
アイ・アスティンを絶対に見捨てない。
信じなくてもいい、お前がどう思っていようが構わない。それでも俺はそうする。
お前が夢を諦めないのと同じようにな」
「……っ!」
アイはその言葉を聞いて、勢いよく顔を上げた。涙の飛沫が月明かりを吸って、七色に光ながら中空に散った。
「俺は死なないよ。そういう夢にも落ちない」
「……約束ですよ」
「ああ。まあ、善処する」
「そこで日和っちゃうからセイバーさんはセイバーさんなんですよ」
「すまんすまん」
それでもアイは僅かに笑みを浮かべ、ショベルをくるんと回して肩に担ぐ。
「急ぎましょう。キーアさんたちが待っています」
夜は未だ深く、先の見えぬ闇が続いていた。
◆
「そういや当事者意識ついでにだけどさ」
「え、はい。なんでしょう?」
「お前、これ知ってるか?」
ぽい、と投げ寄越された銀色の小さなプレート。
あわわと慌てて掴み取る。これは、ネックレス?
「ドッグタグって奴だな。兵隊とかが身に着けてる認識票で、自分の名前とかを書いてたりする」
「はぁ。話の流れからするに、これってもしかして」
「あの死体の持ち物だ。くすねておいた」
「手癖の悪さも相変わらずですね」
とはいえナイスだ。これで何かしらの手がかりが……
「で、どうだ?」
「……うーん、これは、ちょっと」
「まあ、そりゃ知らねえよな」
「はい、申し訳ありませんが」
仕方ないさ、と返す蓮に答えながら、アイは小さなタグをそっとポケットの中に仕舞い込んだ。
ドッグタグには、『Alice Color』という文字が刻んであった。
【すばる@放課後のプレアデス】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(極大)、神経負荷(極小)、《奇械》憑き、全身に病症転移による重度の激痛(根治済み)、気絶
[装備] ドライブシャフト
[道具] 折り紙の星
[所持金] 子どものお小遣い程度。
[思考・状況]
基本行動方針: 聖杯戦争から脱出し、みんなのもとへ“彼”と一緒に帰る。
0:……
1:生きることを諦めない。
2:わたしたちは、青空を目指す。
[備考]
C-2/廃校の校庭で起こった戦闘をほとんど確認できていません。
D-2/廃植物園の存在を確認しました。
ドライブシャフトによる変身衣装が黒に変化しました。
ブレイバー(
結城友奈)と再契約しました。
奇械アルデバランを顕現、以て42体目のエンブリオと為す。
機能は以下の通り。
衝撃死の権能:《忌まわしき暗き空》
遍く物質を発振させる電撃の槍を放つ。
《物理無効》
あらゆる物理的干渉を無効化する。
《守護》
あらゆる干渉より宿主を守る。
心の声、あるいは拡大変容
詳細不明。ただし、奇械は人の心によって成長するとされている。
?????
詳細不明。
【ブレイバー(結城友奈)@結城友奈は勇者である】
[状態]魔力消費(中)、疲労(大)、精神疲労(大)、全身にダメージ、神性復活、霊基変動。
[装備]
[道具]
[所持金]
[思考・状況]
基本行動方針:"みんな"を守り抜く。例えそれが醜悪な偽善でしかなくても。
0:キーアとセイバー(
アーサー・ペンドラゴン)に合流し彼らの力となる。
1:立ち向かう。
2:たとえ誰の信頼を得ることができなくても。
[備考]
すばると再契約しました。
勇者(ブレイバー)へと霊基が変動しました。
東郷美森の分も含め、サーヴァント二体分の霊基総量を有しています。
大満開の権能:限りなく虚空に近きシューニャター
【アイ・アスティン@神さまのいない日曜日】
[令呪] 三画
[状態] 疲労(大)、精神疲労(大)、魔力消費(大)、全身に病症転移による重度の激痛(根治済み)
[装備] 銀製ショベル
[道具] 現代服(収納済み)
[所持金] 寂しい(他主従から奪った分はほとんど使用済み)
[思考・状況]
基本行動方針:脱出の方法を探りつつ、できれば他の人たちも助けたい。
0:
アリス・カラー……えっと、誰?
1:"みんな"を助けたかった。多分、そういうことなんだと思う。
2:生き残り、絶対に夢を叶える。 例え誰を埋めようと。
3:ゆきさん大丈夫なんですかね? ちゃんと生き残ってるんですかね?
4:ゆき、すばる、キーアとは仲良くしたい。アーチャー(東郷美森)とは、仲良くなれたのだろうか……?
5:
[備考]
キーア&セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と邂逅しました。
すばるから一連の情報を取得しました。
【セイバー(
藤井蓮)@Dies Irae】
[状態] 右半身を中心に諧謔による身体破壊(中・修復中)、疲労(大)、魔力消費(中)
[装備] 戦雷の聖剣、《打ち砕く王の右手》
[道具] なし
[所持金] マスターに同じく
[思考・状況]
基本行動方針:アイを"救う"。世界を救う化け物になど、させない。
1:聖杯戦争の裏に潜む何者かに対する干渉手段の模索。アーサー王と合流してこの異常事態への情報を共有したい。
2:悪戯に殺す趣味はないが、襲ってくるなら容赦はしない。
3:ゆきの使役するアサシンを強く警戒。だがこの段階においては……
4:ブレイバー(結城友奈)に対する極めて強い疑念。信用?できるわけないだろ。
5:いざとなれば適当な優勝者を仕立ててマスター陣だけでも帰還させる。
[備考]
バーサーカー(
アンガ・ファンダージ)、バーサーカー(式岸軋騎)を確認しました。
すばる&アーチャー(東郷美森)、キーア&セイバー(アーサー・ペンドラゴン)とコンタクトを取りました。
アサシン(
ハサン・サッバーハ)と一時交戦しました。その正体についてはある程度の予測はついてますが確信には至っていません。
C-3とD-1で起きた破壊音を遠方より確認しました。
ライダー(ドンキホーテ・ドフラミンゴ)を無差別殺人を繰り返すヤクザと関係があると推測しています。
ライダー(
ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン)及びアサシン(
アカメ)と交戦しました。
ランサー(結城友奈)の変質を確認しました。
セイバー(アーサー・ペンドラゴン)と情報を共有しました。
針目縫から《打ち砕く王の右手》の概念を簒奪しました。超越する人の理により無理やり支配下に置いています。
最終更新:2019年06月23日 19:11