【理科室エリア】その2「独占インタビュー!ウンタラ・カンタラーはいかにして獣と戦ったか?」
──ねえ、知ってる?【生物室の獣】の話…
放課後の生物室には獣が出るって
ただの噂でしょ? 本当だって何人か消えちゃったらしいよ
標本とか剥製にされた動物の怨念だって
人体標本や骨格がガタガタ揺れて
血で真っ赤に染まった姿が
放課後の生物室に
ホルマリン液が
ぴちゃりぴちゃりと
血と一緒に 血と一緒に
【生物室の獣】の 剝き出しの牙が こちらを狙って
■■■■
しゃんしゃんしゃんしゃん
指貫グローブに付けた鈴を鳴らしながら、男は拳を振るい続けた。
しゃんしゃんしゃんしゃん
男が鈴を鳴らす度に対面する相手は脆くも崩れ落ちた。
ボクシング世界チャンピオンだろうと。
裏社会の用心棒であろうと。
戦場の傭兵であろうと。
異界のゾンビであろうと。
その拳を振るう男の名は、ウンタラ・カンタラー。
二十代でボクシング17階級制覇王者に輝いて見せた、紛れもない傑物、大英雄である。
いわく、【拳闘界のバグ】。いわく、【鈴鳴り】。
彼が指貫きグローブに鈴をつけるのは、音で拳の挙動を相手に教えるため…すなわちハンディである。
しかしそのハンディ自体が異名になってしまうほど、彼の実力は別格であった。
表のボクシング界に彼を満足させられる存在はいなかった。
裏社会にも、戦場にも、彼を満足させられる存在はいなかった。
血沸き肉躍る戦いがないことの空虚さを埋めるために芸能活動なんぞに身を投じてみたが駄目だった。
「俺は虎。地上の敵を喰らい尽くし、強敵との戦いに飢える虎。老いで衰える前に龍と出会い、全てを出し尽くして死ぬのが俺の望み。龍は何処や?龍は何処や?龍は!!何処や!!」
ウンタラは敵に飢えていた。
その飢えを満たしてくれる相手がいるならば場所はどこでもよかった。
手段だってどうだってよかった。ただ戦いたかった。
女子高である姫台学園に極上の怪異があると聞けば、潜入のための女装も躊躇わなかった。
一生食うに困らない財産と名誉を得た【拳闘界のバグ】は、
一切の逡巡なく胸に詰め物をし、局部をサポーターで押さえた。
「ミナサーン!ミーのチアダンスを見てクダサーイ!ワーオ!」
「エブリバデ仲良し!努力!未来!ア、ビュリホッスタ!」
頭の悪いチアガールならば真っ先に怪異に襲われるだろうと露出の高い踊りをした。
彼は本気で、最善の手段としてこれらの女装行為を行っている。
それが酷く滑稽で、かつ悍ましい狂気に染まった行動だと自覚してもいない。
【人生は遠くから見れば喜劇だが近くから見ると悲劇である】とは喜劇王チャップリンの言葉であるが、
【遠くから見ればコメディだが近くから見るとホラー】…ウンタラ・カンタラーとは、そういう男であった。
狂気と紙一重の闘争心。
闘争心と紙一重の狂気。
姫台学園で頭の悪いチアガールとして、自らを餌に獲物を待つウンタラに、遂にその日がやってきた。
『まどか』からのメール。一般人には凶報以外の何物でもないが、ウンタラにとっては一つの福音だった。
今夜、生物室に現れる獣を狩らねば お前は 死ぬ
その不気味な文言を、ウンタラは全開の笑顔で受け止めた。
■■■■
独占インタビュー!
ウンタラ・カンタラーはいかにして獣と戦ったか?
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≪そんな怪しいメールに従うことに恐怖は無かったのですか?≫
恐怖?俺は虎。血を熱くしてくれる相手がいるのならば向かう。
それだけだ。そこに恐れの感情など存在しえない。
■■■■
夜の校舎を軽薄そうな褐色のチアガールが歩む。
シシリー・ヤマノハ、もといウンタラ・カンタラー。
足取りは軽く、暗闇など知らぬとばかりに真っすぐに生物室に向かっていく。
ホルマリンの匂いに満ちた生物室の前に立った時、ウンタラは強烈な獣臭さと血の匂いを感じた。
この生物室の扉を開けば、その匂いの元凶がいる。
それを確信しウンタラは躊躇わずに扉をギィと開いた。
ウンタラの確信の通りの光景がそこには広がっていた。
床に無造作に散らばり転がる人体。
何人分かも分からない女子高生の部品。
目に光のない頭部からは、だらりと脳漿が零れていた。
罪なき少女たちが理不尽なる暴力に散らされたことは明白であった。
その凶行の主、
復讐の獣イオマンテは、駄菓子でも齧るかのように白い足をカリカリと喰らっていた。
常人であればその凄惨な光景を見た瞬間、助けを求め悲鳴を上げていたことだろう。
助けを求め警察に通報していただろう。
しかしイオマンテの亡キ心がそれを許さない。
イオマンテと対峙したものは助けを呼ぶことを忘れ去る。
それは【拳闘界のバグ】、ウンタラ・カンタラーといえど例外ではない。
ウンタラは助けを呼ぶという行為を忘却した。
──しかし、ウンタラ・カンタラーにはそんな忘却は意味がなかった。
最初から、逃げるつもりも助けを呼ぶつもりもなく。
体長3m、体重500kgの巨獣を相手に真正面から殴りかかった。
【拳闘界のバグ】ウンタラ・カンタラー VS 【復讐の獣】イオマンテ
■■■■
≪いきなり真正面から仕掛けたのですか?≫
奴は食事の途中だった。体勢が整う前に一撃を入れ、実力を測ることにしたのだ。
俺は虎だ。全力こそが最善にして最短の道だと知っている。あとはその道を駆けるだけなのだ。
■■■■
食事中のイオマンテは四つん這いになっていた。
故に、ウンタラの拳でも顔面に届く。
神速の踏み込みから繰り出されたジャブが、イオマンテの鼻先にパンとヒットした。
イオマンテは衝撃に首をブルブルと振るうと、咥えていた脚を吐き捨てた。
虚無を見つめるかのような漆黒の瞳がギョロリと音を立て動き、ウンタラを捉えた。
鋭い牙を誇る口からは、血と涎がびちゃりと垂れ落ちた。
体温が高いのか、蒸気のような吐息がふしゅうと吹き出た。
「ヴォオオオオオオァァアアアアアア!!!!」
そして大きく咆哮をし、ガバリと立ち上がりウンタラを見下ろした。
臨戦態勢に入ったのだ。ジャブは欠片も効いていないようであった。
様子見のジャブとはいえ、まるで意に介さず立ち上がるイオマンテを、ウンタラは冷静に分析する。
「…ふむ…想像以上に硬くて重いな。普通の熊ではないようだな君は。どうやら、この姿のままでは厳しそうだ」
チャンプロード発動。
女装用のミニマム級から、本来のベストウェイトであるミドル級へと変貌させる。
ミチミチと筋肉が増大し、骨がきしみながら伸びていく。
軽薄なチアガールは、精悍なボクサーへと転身した。
増加分は身長にして15センチ、体重にして25キロ程。
パツパツであったチアコスが音を立てて破れる。
局部も合わせて増大し、サポーターが外れた。
「…君にはハンディはいらなそうだな」
鈴つきポンポンを放り捨てると、しゃんと一つ音が響いた。
上半身裸、ノーパン、もはや腰蓑のようになったスカート。
変態としか言いようのないいでたちであったが、ウンタラに今さらその罵倒は遅すぎるものであったし、そもそもそんなことを気にする人物はこの場にいなかった。
「さぁ!始めようか!君は俺の龍になってくれるのか!?」
ファイティングポーズを取るウンタラ。
それを見下ろしながら、イオマンテは僅かながら思考をする。
自分の巨体を見て、欠片も怯まず、逃げもせず、それどころか攻撃を仕掛けてくる人間。
しかも今、目の前で美味そうな雌から、肉が筋張って不味そうな雄に変貌した。
この人間は今までの獲物とは違う。
イオマンテはそう思った。
そう思ったが、それだけだった。違うからなんだというのだ。
獲物であることに変わりはない。人間は殺す。
イオマンテの意志のままに、好きに喰らって殺す。
我らを忘れた人間を、忘却の海の中で殺す。
「ヴォオオオオオオァァアアアアアア!!!!」
もう一度咆哮を上げると、イオマンテは鋭い爪をウンタラの真上から振り下ろした。
その振り下ろしに、ウンタラは逆に踏み込むことで対応した。
イオマンテのリーチの長さを、敢えて懐に飛び込むことで殺して見せたのだ。
それはイオマンテにとって慮外の反応。
強大な自分にあえて踏み込む人間がいるなど想像していなかったのだ。
「フッ!」
左ジャブ、右フック、左ストレート。
イオマンテのボディにウンタラの拳が瞬時に三発叩き込まれた。
グフ、とイオマンテの口から吐息が零れたが、それだけだった。
動きはほんの一瞬しか止まらず、巨獣の爪は再びウンタラに振り下ろされる。
(浅い…というよりも分厚い毛皮に衝撃が分散させられてしまっているな…)
爪をスウェーバックで躱し、丸太のような太さのイオマンテの剛腕に打撃を加える。
肘関節を逆からへし折るつもりで打ったが、イオマンテは止まらない。
(ふむ…関節を打ってもダメか…となるとやはり頭部に衝撃を与えるしかないが…立ち上がった奴の上背には届きそうもない…か)
自らを支え続けた拳が通っていないという事実にもウンタラは動揺しない。
通っていないならば通るまで殴るか、通る場所を探すまでのことだ。
イオマンテの暴威は一般人であれば容易く紙くずにするだけの恐ろしいものだ。
いや、戦闘型の魔人であっても、並の存在であれば喰い散らかされていただろう。
しかし【拳闘界のバグ】、ウンタラ・カンタラーは並みの存在ではない。
猛烈な音を立ててぶん回される剛腕を冷静に躱し、上空から迫る牙を見切った。
獲物の思わぬ抵抗に苛立ったイオマンテは、両の爪と牙、三つを同時に繰り出した。
この波状攻撃を、ウンタラは好機と見た。
攻撃一辺倒の策、それならばここで踏み込めば無防備な体に何発も打ち込めると考えたのだ。
一気に踏み込み、両の爪を潜り抜けると、次いで襲い来る牙をダッキングで躱した。
牙が肩口の肉を僅かに抉っていったが、ウンタラはそれを必要経費だと割り切った。
そのウンタラの勇猛を、イオマンテは嗤った。
牙を剥き出しにして、口角を大きく上げた。
亡キ心発動。
ウンタラは、直近3秒間の記憶を忘却した。
何故自分が巨獣の懐にいるのか、何故肩口に傷を負っているのか、ウンタラは思い出せなくなった。
亡キ心による忘却は基本的には、忘却対象を指定できない。
故にイオマンテ自身にも、ウンタラが何を忘れたかは把握することが出来ない。
それでも、その爪と牙で散々に人間を傷つけてきた経験から、傷の深さによってどの程度の影響がある忘却が発生するかは把握していた。
イオマンテは思った。
あのくらいの傷であれば、大きな影響はないまでも、一瞬ふらつく程度の忘却は起きるだろう。
現実と記憶の齟齬に僅かながら混乱をするだろう。
その隙をつき再度傷を刻めばいい。そうして何もかも忘れ去り何もできなくなったところを喰らってやろう。
これまで何人もそうしてきたように。
──やはり、イオマンテは人間を、否、ウンタラを甘く見ていた。
ウンタラの肌は、脳は、闘争のただなかにおいて最適解を導き出した。
何故自分が、巨獣の懐に飛び込んでいるか分からない。
何故自分が、肩口に傷を負っているか分からない。
記憶が揺らぎ、忘却のただなかにいる。
それが、なんだというのだ。
目前に打ち倒す敵がいる。
その事実を前に躊躇いなど皆無。
早い話が、ウンタラは「よく分からないがそれでも殴り飛ばす」と結論を出した。
「シィッ!!」
美しい弧を描く右フック。分厚い毛皮越しに、ミシリと骨がきしむ音がする。
返しの左フック。肝臓の上から、豪快に衝撃が叩き込まれる。
そして内臓深くに突き刺さる捻りを咥えたアッパーカット。肋骨の隙間から横隔膜の下近くに拳が食い込んだ。
渾身のコンビネーション三連打。
ウンタラが忘却により隙を晒すと思い込んでいたイオマンテは、無防備にその三連撃を受けた。
さしもの巨獣もゴフっと大きく息を吐き、唾液が霧状に舞った。
一つぐらつくと片膝を地につけた。
頭の位置が一段下がる。その瞬間を正確に見極め、ウンタラ・カンタラーは大きく叫んだ。
「俺は虎!龍に焦がれて翼を生やし、雲を越え、その果てに向かう虎!そしてその道は!俺が作る!」
その魔人能力名は、自ら道を切り開くことの決意。
勝ち進み続けるという誓い。
「チャンプロード!!」
ウンタラの体がヘビー級のものへと変貌する。
総合的な動きは本来のウェイトであるミドル級が一番優れているが、リーチ、破壊力という点ではヘビー級の体が群を抜いている。
二の腕が大きく膨らみ、風を切り裂く音がした。
ウンタラは、片膝をついたイオマンテの下顎めがけて、腰ではなく肩を回転させて叩きつけるように拳を振り抜いた。
ロシアン・フック。
打点が高く、意識を刈り取るのに適した豪快な一撃である。
あまりにも奇麗な一撃がイオマンテの脳髄を揺らした。
いまだかつて受けたことのない衝撃に、巨獣がゆっくりと崩れ落ちていく。
倒れながら、イオマンテは思った。
コイツは、獲物ではない、と。
我らを殺しうる存在である、と。
全身全霊で殺すべき敵である、と。
ウンタラは気が付かなかった。
イオマンテの漆黒の瞳がより深く黒くなったことを。
巨獣は、捕食ではなく、殺し合いの場に降りてきたことを。
イオマンテは大の字に倒れ、ズズンと重苦しい音を響かせた。
その音は、これから始まる凄惨な殺し合いのゴングであった。
■■■■
≪巨獣を、拳だけで昏倒させたのですか?≫
何を驚くことがある?俺は虎だ。
熊相手に後れを取るわけにはいかない。
■■■■
「シャッ!」
渾身の一撃により奪ったダウン。
その手応えにウンタラは思わず雄叫びを上げた。
しかし油断は一つもせず。
ダウンしたイオマンテに対し、ウンタラは追撃を始める。
チャンプロードによって身体をヘビー級にしたまま、空手の瓦割りに近い急角度のチョッピングライトをイオマンテの顔面に振るう。ギリリと、強弓を引くかのような姿勢から、エネルギーが爆発し真っすぐにイオマンテの顔面に突き刺さる。
「君は強かったが…俺の龍になるには僅かに物足りない!」
ぐしゃりと、強烈な破壊音が生物室に響き渡る。
しかしその破壊音は、イオマンテを破壊した音ではなかった。
ウンタラの鉄拳は、コンクリートの床を砕いていた。
あれだけの巨体を誇っていたイオマンテが、ウンタラの目前で忽然と消え失せたのだ。
■■■■
≪…消えた、のですか?≫
嗚呼。見間違いだとか、俺が外したとかでは断じてない。
奴の巨体が、霞のように消え失せたのだ。
■■■■
渾身のフィニッシュブローを外したウンタラは、僅かながら動揺をした。
しかし瞬時に自分を立て直し、神経を張り詰め、周囲を警戒する。
── ──
── ──
──
沈黙。
夜の生物室に痛いほどの静寂が響き渡る。
室内に設置された蛇口から水滴が零れ落ちた。
ぴちょんという音がやけにクリアに響き渡った。
(馬鹿な…あれだけの巨体…音もなく隠れることが出来るはずがない…!)
体をぐるりと一回転させ、全方位を観察する。
イオマンテの姿はない。
(透明化?瞬間移動?奴はまだ能力を隠している?)
ウンタラの背を、冷や汗が一つ伝う。
その動揺、緊張を振り払うようにウンタラはピシリとファイティングポーズを構えた。
居合の使い手を思わせる冷徹な殺気に満ちた構えだった。
優れた動体視力を持つウンタラ。
フィニッシュブローであるチョッピングライトを放った瞬間を脳内で反芻する。
何回その瞬間を思い返しても、急に巨獣が消え失せたとしか認識できなかった。
ウンタラの脳内を混乱と疑問が支配しそうになるが、首をぶんと振り切り替える。
(奴がどんな能力を持っていようが構わない。どうあろうと奴の武器は爪と牙…!瞬間移動だろうが透明化だろうが、攻撃の瞬間の殺気を察してカウンターを決めて見せる!)
静寂。沈黙。静謐。
ウンタラの荒い呼吸が、誰もいない生物室に響く。
ウンタラは一つ、鼻で呼吸をした。
先ほどまで教室中に満ちていた血と獣の匂いが薄らいでいることに気が付いた。
(やはり熊は消えた?この場から?どうやって?まさか逃げたのか?)
巨獣の逃走…その可能性を一瞬考慮し、即座に否定した。
(否。奴は、能力の秘密に触れた俺を生かして返すつもりはないだろう。そしてそれは俺も同じだ。互いに、今、相手を叩き潰したいのだ。奴に逃走はありえない!なんらかの方法で、俺を狩ろうとしている!)
ウンタラは油断せずにファイティングポーズを取り続けた。
何万回と取ってきたウンタラのファイティングポーズには、隙一つなかった。
どんな攻撃を仕掛けられても迎撃できる鉄壁の構えであった。
ただしそれは、人間が相手ならの話である。
「──え?」
大英雄、ウンタラ・カンタラーらしからぬ酷く間抜けな声が漏れた。
ウンタラの足首にイオマンテの牙が、深く、深く食い込んだのだ。
復讐の獣イオマンテ。
その正体は【山に送られ殺されたにもかかわらず、忘れ去られた獣の魂の集合体】である。
イオマンテはどの獣の姿を取ることもできるが、基本的には最強である雄のエゾヒグマの姿を取る。
そう。基本的には。
ウンタラの足首には、かつて生贄として野火送りにされた白蛇が噛みついていた。
エゾヒグマの持つ圧倒的な防御力と攻撃力を一時的に捨て、隠密性と奇襲性に長けた蛇の姿を選んだのだ。その牙は、深々とウンタラに突き刺さった。
ウンタラの記憶が混▅▇▃▇▇▅濁する。
忘却。忘▅▇▃▇▇▅却。忘却。
ウンタラは大切な記憶を忘▆▇▅▇▃▇▇れていく。
先ほど肩口を軽く抉られたときの忘却などお遊びと思えるような喪失感。
手足の先が急激に冷えていくような錯覚に襲われる。
記憶の喪失、混濁に困惑する隙に二度、三度と蛇と化したイオマンテの牙が食い込む。
自身の【何か】が喪失していく感覚に吐き気を覚えながら、ウンタラはようやく白蛇を認識した。
振り払いながらバックステップ一つ。イオマンテとの距離を取る。
イオマンテはすかさず元のエゾヒグマの姿を取り、忘却に踊らされるウンタラに猛然と襲い掛かった。
大上段から振り下ろされる爪を、ウンタラは本能で躱したが、また一つ頬に深い傷が刻まれた。
ウンタラはまた一つ忘却をする。
ウンタラは、自分がなぜここにいるかを忘れていた。
何と戦っているか忘れていた。
自分の今迄の栄光を忘れていた。
声の出し方を忘れていた。
忘却は隙を生み牙と爪の攻撃を受ける。
その攻撃で再び忘却が生まれ更なる隙が生まれる。
イオマンテは右フックを思わせる豪快な動きで爪をぶん回した。
スウェーバックが間に合わず、ウンタラの左頬が抉り飛ばされた。
ウンタラの口が大きく裂け、狼のように犬歯が剥き出しとなった。
まさに満身創痍、血と汗と記憶がウンタラからどんどんと零れ落ちてゆく。
しかし、それでもウンタラは忘れていないものがある。忘れてはいけないものがある。
それは、狂おしいほどに飢えていた闘争。戦いたいという欲求。
(ああ…ここはどこだ?コイツは誰だ?何故熊が俺に襲い掛かっているんだ?)
ウンタラの記憶は混濁し揺れに揺れる。
身体中から血が滴り、命が零れる。
それでも、それでも彼は拳を握る。
(…ま、どうでもいいか。目前に立ちふさがる相手がいるのなら戦うまでだ。何か色々なことを思い出せないが…それでも…この拳を振るう事だけは忘れてはいけないのだ…!)
それはもはや体が記憶している闘争。
とどめを刺そうと大きく口を開き牙を見舞おうとしたイオマンテに、ウンタラはお手本のように綺麗な右ストレートを繰り出した。イオマンテは瞬時にその拳を噛み砕こうとする。
虎の拳と熊の牙が真正面からぶつかり合い、ゴガンと、爆発を思わせる衝突音が、真夜中の校舎に響き渡った。遅れて、何かが砕ける嫌な音が鳴り、生物室に鮮血が踊った。
■■■■
≪そして決着はどうなったのでしょうか?≫
──それが、覚えていないのだ。史上最高の一撃を放った。そこまでは覚えているのだが!
まぁ、次に相対した時は負けない。対策もいくつか思い付いたからな。
俺は虎だ。虎は同じ不覚を取りはしない。
…奴は龍だ。龍であったのだ!龍を討つための手段を俺は────
≪嗚呼、それはもう結構です。ところで…貴方、拭き忘れていますよ≫
…ハ?なんのことだ?
この手に付いた血のことカ?
俺は虎。獲物を狩るならば血に濡れるのは当然ではないカ?
≪抉り飛ばされた頬が痛々しいですね。歯が剥き出しとなって、まるで牙のようです≫
だからナニを言っていル?
何度も言っているだろう。
俺は虎だ、と。▆▇▅▇▃▇▇虎に牙があるのは当ゼンだ。
喰らい、喉笛を嚙みちぎり、血を咀嚼し、温かなハラワタを啜るために牙は必要ダ。
「なるほど。そうして貴方は【そう】なってしまったのだね。…もう戻れないのだね」
──?何の話だ?いきなりどうしたというのダ
「【なりたて】で助かったよ。貴方ほどの存在が熟成されてしまったら──どうなったか分かったものじゃなかった」
なんだ…?ナんの話だ…何を…何を言っているんだ?
「この姫台学園に、先日一人の転校生がやってきた。その転校生は闘争のため、この学園の怪異と殺し合うために身分を偽ってやってきた偉大なボクサーだった。」
【だった】と過去形を使った瞬間だけ、声の主の女性は少し寂しそうにした。
「そうして、その偉大なボクサーは怪異と真正面から殴りあった。彼の心を占めていたのは闘争。ただそれのみ。闘争闘争闘争。それが彼の中に満ちて…いや、闘争以外のものが削ぎ落とされてしまったのさ…怪異との殺し合いが終わった後も、残っているのは純粋な闘争心のみだった。」
語る。夜の学校で、朗々と、淡々と、彼女は語る。
「その闘争が行きついた果てに、彼は獣と化してしまった。自らの縄張りに踏み入る獲物を殴り殺し、血で真っ赤に染まる獣に。生物室というのが悪かった。噂が噂を呼び、本物の獣として語られてしまったんだ。
生物室には獣がいる。
実験に使われた動物の恨みだ。
牙を剥き出しにして、体を血に染めている…
こういうものがあるはずだ。そういう集団の無意識が、哀れな魂を固定し怪異にしてしまった。ただそれだけの話さ。」
すう、と一つ彼女は息を吸った。
「本物の獣のはずがないのにね。その正体は、ウンタラ・カンタラー。貴方だ。」
「──『解談:生物室の獣』」
室内であるにもかかわらず、乾いた風が一つ、ぴゅうと吹いた。
ウンタラ・カンタラーの…否、【生物室の獣】の神秘が解かれ、怪異が解かれていく。
日本人形のような少女が、ぱん、と一つ手を叩くと、そこには一つの銃弾が転がっていた。
「やれやれ、どうなっているんだ全く…怪異、集まりすぎだろ学園に…」
怪異狩り、
山口ミツヤは一つ溜息をつくと、誰もいない生物室を後にした。
闘争心を忘れぬようにするあまり、他の大切なことを忘却しきってしまった男の魂が、天上へと消えていった。
ああ 俺は、死んだことさえ忘れていたのか
▆▇▅▇▃▇▇▆▃▇▇
▆▇▃▇▇終▆▇▅▇▃▇▇
▆▇▅▅▇▃▇▇
最終更新:2022年10月16日 20:37