準決勝戦【屋上】その1「復讐の獣 イオマンテ」



むかしむかし、ある村に、働き者の与助という若者がおりました。

与助は毎日畑を耕し、水をくみ、山に柴を刈りに行っておりました。
ところがその与助、せっかく刈りに行った柴を持ち帰らずに手ぶらで帰ってくるようになったのです。

理由を聞いてもぼんやりしたことを言うばかり。

これはいくらなんでもおかしいと、隣に住む田吾作がこっそりあとをつけたところ、
とある山道で野良犬が飛び出て与助の足にがぶり。
与助は驚いて柴を放って逃げ帰るではありませんか。

「与助の奴。犬に脅されたなんて恥ずかしいから隠していやがったな?」

早速田吾作は戻って与助に言いました。

「やいやい与助、犬に嚙まれたんならそうと言えばいいじゃないか。」

ところが与助、何を言っているやら分からぬと首を傾げるだけ。

「与助や、だったらこの傷は何なのだ」

田吾作は与助の足の傷を指しましたが、与助は何がなんやら分からぬと呆けた顔を続けます。
何かに祟られでもしたかと、田吾作は近所の和尚さんのところに与助を連れて行きました。

話を聞いた和尚さんは笑ってこう言いました。

「ははぁ、そいつは“わすれ”じゃのう。この間の戦で鳥も犬もようさん死んだじゃろう。それを弔いもせずにほっぽとくと、“わすれ”が出てきてしまうんじゃ」

和尚さんはお寺の奥からお餅を持ってきました。

「こいつをその山道において、拝みなさい。月にいっぺんくらいでよいじゃろ」

与助がその通りにすると、二度と“わすれ”は出なくなったと言います。


御物の怪 いみじうこはきなりけり されども 正体見たりて 名を呼べば 雲霞の如く


篠崎南海『日本随筆大成』中、可成四註より抜粋


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川にて赤子のなく声在り
何事かと歩みても姿は無し
聞き間違いかと去ろうとするに
おぎゃあ おぎゃあと 声が響く

探しても見つからず見つからず

声だけが不気味に響く

その怪異の主は “川赤子”なり。

山田野理夫の『東北怪談の旅』曰く、正体は川で溺死した赤子の霊。
江戸時代の古書『絵本小夜時雨』によれば人語を発する魚。

いずれにせよ、声はすれども姿は見えず、というのが“川赤子”の本質である。


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以下のデータにはノイズが含まれておりました。

────貴方がこのメッセ▅▅るという事は、奴の情報がなんとしても必要な方だと思われます。

──さぁ、貴方は、誰で▅▇▃▇▇▅すか?

却の淵に沈▅▇▃▇▇▅んでいる方でしょうか。
▅▇▃▇▇▅
忘れてはいませんか。
忘れてはいませ▅▇▃▇▇▅んか?
忘れてはいませんか?

──貴方の後ろに、奴がいることを。

忘れてはいませんか。

『佐藤伝助の報告書』より抜粋


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「ひとまずは卒業までに、姫代学区の怪異、一つ残さず平らげてきな」

厳しい祖母の言葉を思い出し、遠上多月は頭を抱えていた。

(お祖母様、別に私一人でやれとは言ってないからの?変わり者の山口ミツヤがなんか色々動いてくれてるっぽいの、マジでありがたい)

ひとまずは学園の怪異は減少したように思える。
しかし、それでも遠上多月は頭を抱える。

学園の怪異、確かに数は減ったが────濃く(・ ・)なっている。

それは感覚的なものであったが、おそらく間違っていないだろうと遠上多月は直感する。
学園に残っている怪異は、酷く強大で、厄介なものばかりである。
【遠上最高傑作】と祖母に称された遠上多月の感覚は、ハッキリとそう認知していた。

頼りになる教師(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)でもいれば話は違うのじゃが)

遠上多月は頭を抱え、更に掻き毟る。
頼りになる教師。
それに思いを馳せると、頭に薄もやがかかり、現状との認識に吐き気がする。

(この感覚…多分、おった(・ ・ ・)のじゃろう…)

認識を変える能力の使い手である遠上多月だからこそ、怪異が跋扈する現在の姫代学園において教師陣が何らアクションを起こさぬ違和に気付くことが出来た。

そして気が付いたからこそ、自分が知らぬ間に世界を改変し教師を消し去った怪異に恐怖を覚える。
その恐怖を自覚しつつも遠上多月は自身を奮い立たせる。

(クソ!頼りになる教師がいないことと、“コレ”は関わっておるのか?)

懊悩しながらも、遠上多月は普段から活用する学園の裏サイトに目を通す。
そこには、今一番話題となっている怪異、
“チャペルの怪物”についての話題が飛び交っていた。

【オカルト】チャペルにブロンズ像の女生徒
【ガチ閲覧注意】チャペル、肉片大量発見
【胸糞注意】種付豚男、ヤってた
New!【悲報】チャペルの件、被害者拡大

裏サイトに出回っている確度の高めな情報をまとめるとこうだ。


先日未明、姫代学園のチャペル内にブロンズ像と化して絶命した女生徒10名が見つかった。
また、周辺には夥しい血痕と僅かな肉片が散らばっていた。

現場に残された血痕から、ブロンズ像と化した女生徒以外にも犠牲者がいると推察され調査したところ、

元剣道部の神崎凛子
神学科の丸田ジャンヌ
学級委員長の月宮明子
バレー部の夏川歩美

そして用務員の種付豚男が犠牲となったことが判明した。

異様だったのは、大量の血痕にもかかわらず遺体はほとんど見つからず、僅かな肉片のみしか見つからなかったこと。即ち、この惨劇の主は被害者を連れ去った、もしくは遺体が残らぬ方法で消し去った、そしてもしくは────


喰らって腹に収めた


現場には獣のものと思われる毛、何か鳥類の羽毛が発見されており最後の説が一番有力である。


この不気味で不思議な惨劇は、裏サイトを大いににぎわせた。
今までのイオマンテの凶行は、被害者が助けを呼ぶことを封じられている関係で、血痕の類いを残すにとどまった。怪異が跋扈し魔人が多数存在する姫代学園ではそこまで耳目を集める話題ではなかったのだが、チャペルに残された女生徒のブロンズ化した遺体という不可思議は多くのオカルト好きの興味の対象となった。

誰とも知れず“チャペルの怪物”と呼ばれ始め、恐れの対象となっていった。

遠上多月はこの怪異に対し【竜言火語(フレイムタン)】による炎上を考えたが、なんといっても現実に残された惨劇のインパクトが強すぎる。
半端な言葉では矮小化させることが出来ない。

(これ、下手したら私の能力で現実以上にヤバい存在として語られる可能性もある!?)

裏サイトでは、種付豚男の蛮行が明らかになり、“チャペルの怪物”を正義の味方のようにとらえるものも出始めている。

こうして、遠上多月は頭を抱える。

(ただでさえヤバそうな怪異なのに、噂で弱体化もさせられないんじゃ、八方塞がりなのじゃ!???)

ピロン

むぎぃ~と手足をばたつかせる遠上多月の携帯に、一つのメールが飛び込んだ。
そしてそれは、イオマンテを討つための一矢であった。



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姫代学園、屋上。

半月が怪しくも美しく光る夜。
満天の星々の下を、血に濡れた毛並みの巨獣、イオマンテが悠々と歩む。

夜風に気持ちよさそうな顔を見せ、グルルと喉を震わせ半月を仰ぐ。

復讐に染まり、漆黒に光るイオマンテの瞳が、月を見つめてほんの一瞬だけ柔らかく細くなった。
イオマンテは動物霊の集合体。
イオマンテ自身にも、月を見上げて胸にわいてきた衝動が、誰のものか、いつのものか判断はつかない。

そんな不明瞭な感傷に一瞬だけ身をゆだねていたイオマンテは、ふと、自分が何故屋上に来ていたかを考えた。そうして、自分がなぜ今屋上に来ているのか、全く説明できないことに気が付いた。


「お、やっと来た?」


広々とした屋上を、年の割には高く、それでいて楚々とした声が響く。
声の主は遠上多月。

イオマンテは声の主を切り裂こうと振りむくが、姿が見えない。
声はすれども姿が見えない。

困惑するイオマンテに再び声がかけられる。

「ふふふ、無駄じゃ無駄じゃ」

遠上多月は学園の裏サイトに二つの書き込みをして、
竜言火語(フレイムタン)】を発動させていた。

一つ。
【“チャペルの怪物”の正体は屋上を根城にした、ただの熊である。】

二つ。
【屋上に声だけの怪異“川赤子”が出たらしい。】

そしてその噂には最後に一つ付け加えられていた。

【証拠として屋上の映像を流し、“チャペルの怪物”がきたら中継する】

“チャペルの怪物”の話題に裏サイトの住人は飛びついた。
正体が熊であるという断言。何故か出てきた川赤子。中継という前代未聞。
全てが刺激的で人々の噂となった。

能力は十全に力を発揮し、イオマンテは中継されるべき怪異として屋上に誘導された。

誘導されたイオマンテに遠上多月の声が響く。

「貴様はどうやら助けを呼ぶことを忘却させる能力があるようじゃが…それは機械にも効くのかのう?屋上には前もって中継用のカメラを設置しておいた…どうやら、普通に作動しているようじゃの?」

遠上多月は続ける。

「貴様は映像として捉えられた。熊の姿を晒してな。裏サイトの書き込み、凄いことになっとるぞ?本当に“チャペルの怪物”は熊だったのか、とな。連鎖反応でこんな書き込みも激しいの。“川赤子”も本物じゃね?…と」

陽炎のような姿。視認できぬ姿で遠上多月が続ける。

「貴様が姿を現し…熊の姿を噂のただなかに晒したからこそ、私も“屋上の川赤子”と捉えられた…貴様に私は見えんよ」

困惑するイオマンテに遠上多月が畳みかける。

「不思議か?何故自分の能力が割れているか?理解できないか?熊の姿を知っていることを?安心せい。丁寧~に説明してやろう…」

これから始まるのは、【遠上最高傑作】である遠上多月の独壇場。
荘厳にして朗々たる独り舞台。

怪異解体劇である。


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佐藤伝助。

名前を聞いても貴様は分からんだろうなあ。
貴様が喰らい殺してきた人間の一人。

必要な人間に体験を届ける【君に届け】の使い手よ。

私も面識があるわけではないが…佐藤伝助の能力は、適切に発動したぞ?
貴様を追い、貴様の情報を求める私の元にメールとして届いた。

貴様の能力…映像越しでも発動する強力なものだが…永遠に効力があるわけではないじゃろ?
おそらくは期間か距離か何かしらの限界があるんじゃろ。その限界を超えたから、佐藤伝助の死後に【君に届け】は発動した。そうして私に届いた。

佐藤伝助の忘れ形見は、非常に役に立ったぞ?
私の能力は、対象がどのような存在か把握するかしないかが大きな鍵じゃからな。

熊のような怪異。

それだけ分かれば呼び寄せるには十分じゃ。
あとは、貴様をただの噂に変えてしまえばいい。

貴様の正体を紐解き、ただの熊にしてしまえば終わりじゃ。



…佐藤伝助の報告書を見てすぐに分かったわ。

貴様の正体は、ありふれた(・ ・ ・ ・ ・)妖怪、“わすれ”じゃ。

ん?どうした?まさかとは思うが、貴様のような存在が生まれるのは初めてだとでも思っていたのか?
そりゃあ、ちょっと人間を舐めすぎじゃ。
人間がどれだけの獣を殺してきたと思う?
散々殺戮し、無かったことにしたと思う!?

獣の恨み!ああそれは確かに恐ろしい!
が!
私ら人類は、救いようも無き業の深い生き物は!そんなもの(・ ・ ・ ・ ・)とっくに慣れているのじゃ!

いくつの種族を滅ぼしたと思う?
いくつの動物をこちらの都合で殺したと思う?

「美味である」という理由だけで喰らい尽くされたリョコウバトがかつて何匹生息していたか知っておるか?
五十億羽じゃ!

百獣の王ライオン?
密林の王トラ?
最も愛されている動物パンダ?
最も人間に近いチンパンジー?

どいつもこいつもとっくに絶滅危惧種よ!!

貴様は確かに恐ろしい怪異じゃが、獣の恨みなんぞ人間はいくらでも返り討ちにしてきた!
貴様は、“わすれ”!ただのよくある妖怪!怖くも何ともありはせん!


────ただ…貴様を固定するのに、“わすれ”では弱いのう。

それは所詮種族の名じゃ。

例えば、「あいつは“鬼”だ」と言ったところで、人それぞれイメージする“鬼”は多様じゃろう。

…だから私は、貴様に名をつける。

…どうした、苦しくなってきたか?
存在が固定され、人々の口々に渡る流言飛語の一端に堕ちるのが辛いか?
怪異は存在が不明であることこそが肝要。それは貴様とて同様よ。

化け物みたいに赤黒い毛皮の色が変わってきたぞ。
異様な体躯も随分と小さくなってきたではないか。

その茶色の毛並み…元はエゾヒグマかの?

ハッ!私はそこまで動物に詳しくないし興味もない。
ただ、世の中には詳しい人間なんて山ほどいるもんじゃ。

学園の裏サイトに、特定の書き込みがバシバシ入って来とるわ。

さて、エゾヒグマという事は、貴様のルーツは北海道か?
チャペルに残っていた羽毛はシマフクロウのものだったから、ま、その辺じゃろ。

エゾヒグマ…シマフクロウ…確か、アイヌにはそんな儀式があったのう。
これでも巫女の系譜じゃからな、神事には多少詳しいのじゃ。

祀られし者がどこかでねじ曲がったか?
神に送られる獣が忘れられたのが憎かったか?

ハ!それが事実かどうかはどうでもいいのじゃ。

そうだったことにする(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)だけよ!!

貴様は、神事に祀られながらも忘れ去られた獣!
ありふれた(・ ・ ・ ・ ・)妖怪、 “わすれ”の一席!

貴様の!名は!


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復讐の獣 イオマンテ

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「ヴォオオオオ!!!」

イオマンテの咆哮が響き渡る。
身を包んでいた怪異が抜けていき、“そういう程度のもの”に変容していく。

遠上多月が行ったのは、二段階の固定。
怪異は存在が不明瞭だからこそ強さを発揮する。
ならば名を固定し、そのあと正体を固定してしまえばいい。

「姿の見えねぇ何かが、暗がりで魚を置いておくよう言ってきただぁ?ははぁ、そりゃあ“置いてけ堀”と呼ばれる妖怪じゃねえか。ただ、正体は“狸”だって話さね」

このようにして人間は、怪異を理解できる存在に貶め、固定し、恐怖を霧散させてきた。
まさに、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』である。

遠上多月はチャペルを惨劇の場に変えた怪異に。
“イオマンテ”と名を与え、“ただの熊である”という正体を付与しようとする。

竜言火語(フレイムタン)】 全開。

遠上多月の能力は、無から有を生み出すことまではできないが、欠片でも根拠が、火種があれば強烈に炎上させて現実を改変せしめる。

通常であれば、動物霊の集合体であり、神霊の要素を含むイオマンテを改変するのは容易でなく、多大な時間を必要としただろう。

しかし、イオマンテが学園に残してしまった惨劇の跡は、遠上多月が手を出す前に既に噂を生んでいた。
それに加えて実際の映像。あまりにも確かな火種は煌々と燃え上がる。

多くの衆目の前に、“ただの熊である”という噂をもって紹介されたイオマンテ。
カメラ越しに噂を広げる一般市民たちによって、怪異が霧散する。常識に固定される。


なんだよただの“わすれ”かよ 萎えるわ  

    熊 で し た

うぉマジで熊じゃん 学校に熊とかさァ
 警察何やってんのよ これオカルトじゃないじゃん 
     駆除だ駆除    猟友会?って学校来たりすんのかな
声の方は本物?  トリック? カメラに映ってないだけじゃね? 
      こんな餌に釣られクマー               おおこわいこわい 


匿名の多数の無責任な声が、イオマンテを“その程度の存在”に変容させていく。

遠上多月は遠上一族の最高傑作とまで称された能力の持ち主。
「私の能力ってば後出し有利じゃから」とは遠上多月が榑橿に送った言葉であるが、まさにその通り。
対象となる相手の存在を認識し、立ち位置を把握さえすれば
竜言火語(フレイムタン)】は激しく炎上し事実を捻じ曲げる。


「私の能力は言語をベースにするから、人語を解さない怪異にはやや効きが薄いのじゃが…思ったより早く回るの。ライブ配信、実況、直接言葉を届ける…大正解じゃ」


遠上多月の策は完全にハマっていた。
準備も問題なかった。あと少しあれば、イオマンテをただの熊に貶め、害獣として処理できるはずだった。

そんな遠上多月の唯一にして最大の誤算。それは。

イオマンテが本当に(・ ・ ・)屋上を根城としていたことである。

イオマンテは自らの怪異が霧散していく中で力を振り絞り、屋上に設置された貯水タンクに飛びついた。
そうして器用に蓋をこじ開けると、中から保存していた餌(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)を引きずり出した。

それは、殺されない程度に痛めつけられた人間たち。
老若男女問わず様々な人々が二十名ほど。

元々イオマンテの亡キ心(ナキゴコロ)により助けを呼ぶこと自体を忘却していた彼ら。彼らは更に念入りに四肢を破壊され、逃げることなど到底できぬ状態で水を抜いた貯水タンクに保存されていたのだ。

保存食か。
より激しく痛めつけて留飲を下げるためか。

このような状態で人間を保存していた理由は、結局のところ獣の倫理であり我々には理解できない。

ただ厳然たる事実として、貯水タンクには数多の人間が閉じ込められており、イオマンテはそれを引きずり出した。

霧散していく怪異を取り戻すためか、はたまた飢えを癒すためか。

「やめ…やめて…」

引きずり出されて命乞いをする面々の中から若い女性を選ぶと、イオマンテは半月が煌めく夜空に放り投げ、大口を開き上半身を齧り切った。

びちゃりびちゃりと汚らしい音とともに、イオマンテの毛を赤黒く染め上げる。
イオマンテは漆黒の瞳を光らせ、「ヴォウ」と一つ唸りを上げた。

…その一部始終を、遠上多月が設置したカメラは映し、学校の裏サイトに流していた。

裏サイトの掲示板が阿鼻叫喚に包まれる。
映像トリックやドッキリを疑う声もあったが、それはごく少数。
圧倒的“本物”の存在感は屋上での殺戮が紛れもないリアルだと示していた。

遠上多月の【竜言火語(フレイムタン)】は強力ではあるが、噂をかき消してしまうほどの別の火には無力である。

戦況が不味い方向に転がったことを察した遠上多月はカメラの配信を切り、実況を強制終了させた。

しかし僅かに遅かった。
人々は流れた映像に対し思い思いに考察し、様々な予想を垂れ流したが一つの認識は共通していた。

その認識とは


「“あれ”がただの熊のはずがない」


という感覚。

竜言火語(フレイムタン)】により霧散していった怪異が少しずつ取り戻される。毛並みは元の通りの赤黒い剛毅なものとなり、体躯も巨獣と呼ぶにふさわしい異様と化した。


「ヴォオオオオオオァァアアアアアア!!!!」


咆哮が、屋上を震わせた。

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イオマンテは力を取り戻すと、屋上から脱兎のごとく逃げ出した。
声だけの存在に対して屋上で挑むことは得策でないと判断したのだ。

逃げるに際しイオマンテは、引きずり出した老若男女を、「ぶん」とまとめて屋上から投げ落とした。餌を生かして残すつもりはなかったのだ。

玲瓏たる星空の下、甲高い悲鳴が響き渡る。

ぐちゃりぐちゃりと嫌な音を立て人間が地面の染みになっていく。
イオマンテは屋上から飛び降り、その地面の染みをクッション代わりにして着地した。

どちゅん、という鈍い音が屋上眼下のグラウンドに響いた。

遠上多月は急ぎ逃げたイオマンテを目で追った。
屋上から見下ろしたグラウンドには、もうイオマンテの姿はなかった。


(私から逃げるために別の姿に変えて逃げた?)


遠上多月は必勝の流れから逃れられたことに動揺しつつも、極端に慌てはしなかった。
イオマンテの存在を捉えることは出来た。
竜言火語(フレイムタン)】が効くことも確認できた。
映像を魔人警察に提供し、またどこかに誘導したうえで駆除すればいい。
今この場で巨獣を狩る必要はないのだ。

遠上多月は緊張を僅かに緩め、ふうと一つ息を吐いた。
そうして、誰もいなくなった屋上からゆっくりと去った。
精神的疲弊が酷いが、頭を振るって気合を入れなおし地上に降りる。

半ば無駄だと感じながらも、遠上多月はグラウンドにて地面の染みとなった人々の近くに寄った。
勿論周囲への警戒は怠らない。近くに動物らしき気配は欠片もないことを確認している。

その上で裏サイトにはまた一つ噂を流した。

「結局あれの正体は分からないけどさ、
【あの熊では声の主を捉えることができない】
のは間違いないんじゃない?」

この付け火を、裏サイトは肯定と共に広げた。

(これで万が一獣に襲われても私は捉えられない…磐石じゃ)

イオマンテにいたぶられたうえに、屋上から無造作に捨てられた人々の遺体は、無残の一言だった。
人の形をとどめているものの方が少ない。臓物が山となり、表情の見えない顔がそこらに転がっている。

遠上多月は、心の中で手を合わせた。

(私が何をどうしても、彼らを助けられたとは思えんが…私が動いた結果、彼らは今日死んだ。詫びを口にする資格はないじゃろうが、心の中で悼むくらいは許せ…)

哀悼の想いに包まれる遠上多月。
その彼女の視界の端で、臓物の山がビクリと動いた。

瞬時に気持ちを切り替え、蠢く臓物の山に目を向け臨戦態勢に入る。
警戒を続ける彼女の前に、臓物から酷くやせ細った体が姿を現した。

それは、痛めつけられ、飢え、今にも息絶えそうな老婆であった。
手足は枝のように細く、ちょっと力を入れたら音を立てて折れそうだ。

「ア…ア…ア…」

老婆が嘆く。
涙をボロボロと流し、

「ナンマイダ…ナンマイダ…」

と手をこすり合わせる。
老婆は何に祈っているのか。

遠上多月はすぐに、老婆の祈りの意味を察した。
老婆は、許しを乞うているのだ。
老婆は、自分たちより先に地面の染みになった者たちをクッションにして落下を生き永らえた。

そうして、自ら臓物の山の中にもぐり、イオマンテから隠れおおせたのだ。
死者の尊厳を踏みにじるような生存方法。
それを老婆自身が自覚しているからこそ、一心に許しを天に乞うているのだ。


遠上多月には、この老婆を助ける義理などない。
無視して、あとは警察か何かに任せるのが楽な道である。

だが、遠上多月は少しばかりお人好しであった。
捨て犬に同情してしまう程度には。
コレクターの依代となった少女に助けの手を差し伸ばしてしまう程度には。

チッ、と心の中で舌打ちをしつつも、遠上多月は老婆をそのままにして帰れなかった。

「ご老人、無事ですか?警察までご案内します」

遠上多月は老婆に手を伸ばす。
老婆はその手にビクリと震えると、ブルブルと首を振った。
腰を抜かしているのか、立ち上がることが出来ず身をよじるばかりだ。

(恐怖に支配されている…まああんなことがあったんじゃしょうがないか…)

はぁ~~~ と長いため息をついた遠上多月は、老婆を強制的に立たせると、グイっと背負った。

「ほらご老人!さっさとここから離れますよ!」

無理矢理動かされた老婆は、もごもごと何かを口にした。

「クマガ…クマ…クマァアアァァ」

「はいはい、ご老人。分かっていますから。まずは警察か病院にですね…」



遠上多月の背で震える老婆。
その口から放たれた言葉は、遠上多月を絶望の淵に叩き込んだ。
全ての前提を押しつぶす、冷徹なる言葉だった。




タ ス ケ テ





遠上多月の全身から、ぶわりと冷や汗が吹き出た。
イオマンテと対峙したものは、その能力により助けを呼ぶことを忘却するはず。
現に、能力を知っている遠上多月ですら、「助▃▇▇けて」と思考に靄がかかっている。

それを、今この老婆は何と言った?

助けて

みしりと、急に老婆が重くなった気がした。

助けて

ギシリと、枯れ枝のようだったはずの老婆の爪が、肩に食い込む。

助けて

それは、老婆の言葉だろうか。
それとも、遠上多月自身の────


「タスケテ、タスケテ?タタタタスケテぇ?たーすけてぇぇ?」


もはや鳴き声のように、遠上多月の背で老婆が狂ったように音を漏らす。
それは嘲笑っているかのようだった。

遠上多月は恐怖に震え涙した。
振り返れば自分が背負っているものの正体は完全に分かるが、それはとてもではないが出来なかった。

どうして自分は裏サイトに

【あの熊では声の主を捉えることができない】

などと書き込んでしまったのだろう。
自分が一番分かる。“これ”を熊などと表現することは間違いだ。

これはもっと、別の、歪で、恐ろしい…

そう考える遠上多月の眼前に、老婆の顔が突き付けられた。
顔だけは老婆であったが、その瞳は漆黒に濡れ、馬の長い首をにょきりと伸ばし回り込むように覗いていた。
ゆっくりと開かれた口の中には、獰猛な牙が光っていた。

ぶつぶつと意味の分からない文字列を垂れ流した後、老婆の顔は大きく咆えた。
その叫びは、遠上多月の可憐な断末魔を塗りつぶした。



「助けてぇぇぇえぇええええ!!!!!」



■■■


かつて、人間と山の獣たちは対等の立場であった。
互いに互いの居場所を尊重し、同じ一つの命であった。

人間も山においては一個の獣であった。


────洋の東西を問わず、語られ続けられる物語がある。伝承がある。噂がある。


ヘルール族の送り火。
インドのタライコータル。
イヌイットの氷上放置。
朝鮮の高麗葬。


そして、日本の『姥捨て山』。


もっとも山に送られた獣。
もっとも人間を憎んでいる山の獣。
もっとも、“その言葉を”叫んだ獣。

それは────






タ ス ケ テ








最終更新:2022年11月13日 20:18