0.ツーオラクル・スプレッド


 ビル街に集うカードは2。

 この枚数のスプレッドは幾つかあれど、本日は使うのは、ツーオラクル。

 一枚目が、未来の在り様を。
 二枚目が、事態を打開する方法を。

 それぞれ暗示する占いです。

 試してご覧に入れましょう。

 一、『法王』の逆位置。
 示すは、束縛。固着。逃避。躊躇。過保護。

 二、『吊るされた男』の正位置。
 示すは、忍耐。奉仕。抑制。試練。

 ――愚者の旅路(アルカナジャーニー)、第二の週、幕開けにございます。



1.四百年の逃走者

逢合 明日多――『吊るされた男』逆位置

 ぺたり。

 足音が響く。足音が近づく。足音が迫ってくる。
 息を殺す。悲鳴を上げかけた自分の口元を、誰かの手が塞ぐ。

 ぺたり。ぺたり。

 見つかってはならない。気付かれてはならない。
 何より――追いつかれてはならない。

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。

 あれは死。死そのものの音。
 どうして。自分たちばかりが、追われなければならないのだ。
 自分たちはただ■■■■■■■ていたたけなのに。
 飢えと寒さの中、心の救いを、求めただけなのに。
 それさえも、許されなかった。魂の支えすら、奪いつくされた。

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。
 ぺたり。

 減っていく。(殺されて)共にいたはずの仲間たちが。友人たちが。(逃げて)
 足音に追いつかれ。消えていく。死んでいく。殺される。(死ぬ)

 盃を描いた旗が冬空に翻る様を、美しいと思った。
 そんな単純な理由で集った三万と七千の魂が、蹂躙される。

『明日多さん。いえ、同志■■■』

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。
 ぺたり。ぺたり。

 記憶が混濁する。事象の前後を認識出来ない。

 四百年の彷徨が。
(■■■■からの逃亡の記憶)
 能力を介して収奪した他者の命が。
(鎖に繋がれ地獄の渦中に放り込まれた記憶)
 生きるだけで重なり続ける罪の責め苦が。
(断片のように掠れた記憶の欠片を塗り潰すものは)
 因果逆転に伴う時間の循環と混線が。
(稲妻の如く駆け巡る殺戮の感触と昏く澱む死の感触)

 大切だったはずの、はじまりの記憶を、摩耗させていく。

『貴方は生きなさい。そして、■■■■を、絶やさないで――』

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。
 ぺたり。ぺたり。ぺたり。

 この足音から、逃げ続けないと。

 生きなさいと。
 行きなさいと。

 その約束を、守らないと。

『ぺ』た『た』た『た』た『た』た……『ぺたん』

 ああ。けれど。

 一体、自分はなぜ、生き続けないと、いけなかったのか。


 ―   ―


 そして男は目が覚める。逢合 明日多は覚醒する。

 何度何十度何百度行おうとおこなわれようと慣れることのない再誕(いたみ)
 そこに残るは自分が殺された感触と――――自分が殺した感触。

 静まり返った学舎には、夥しい数の前衛的な遺骸(オブジェ)
 目の前には、眉間を撃ち抜かれた警察官。

 いい腕だ。

 この警察官は一発で、逢合 明日多の眉間を撃ち抜き――明日多と加害者と被害者の立場を入れ替えられた。

 魔人能力の中にあって、因果干渉力と時間操作に属する能力は、極めて希少である。
 そして、明日多の能力は、その両方の性質を併せ持つ。

 その異能を、誰かが『箸も殺せるお年頃(ボーン・デット・マン”シオン”)』と名づけた。

 悲しい名前だと思った気がする。
 今ではその理由も思い出せない。

 胃の奥からせりあがる感覚に、明日多は嘔吐した。

 わからない。平和になったはずの世の中で。
 どうして自分だけが、殺し(ころされ)続けなければ、ならないのか。

 逢合 明日多は走り出す。
 止まらない。止まれない。止まれば追いつかれる。止まれば殺される。止まれば殺してしまう。そんなのは嫌だ。逃げないと。逃げ続けないと。

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。

 ただ一つ強い祈りを、カードに宿し、走り続ける。

 ――大アルカナ#12、『吊るされた男』。

 己が能力に、より大きな枠組みに縛られた男にとって、あまりに皮肉な札。

殺して(たすけて)

 声にならない叫びは、現実の己の哄笑と、幻聴の足音に混ざり、かき消された。



2.墓標の探索者

福院・メトディオス―—『法王』逆位置

 幹線道路から一区画外れた、裏通りの雑居ビル。
 元倉庫を改装した隠れ家で、福院・メトディオスは、情報収集用端末と対峙していた。

 透波乱破と呼ばれた時代から、忍者の本分は諜報活動である。
 現代であれば、電子的な情報収集・情報攪乱も必須技能だ。

 合法違法問わず増設された中継端末と、様々なWEBクローラーやクラッキングツールがインストールされた端末のモニターには、都内各地で繰り広げられた、アルカナ持ちの魔人の戦いの仔細が、ブラウザ上の複数のタブで表示されている。

 メトディオスが戦った秋葉原をはじめ、中華街、スカイツリー、聖寝技記念病院、『山』が降ってきた元歓楽街の路地裏。各戦場の勝者も、既に割れている。

 中でもメトディオスの目を引いたのは、姫代学園の惨状だった。
 職員、生徒、更に駆けつけた警察官一名を含む計百余名を巻き込んだ大虐殺事件。
 犯人は、逢合 明日多。

 この惨劇には、不可解な点が多過ぎた。

  • 単独、もしくは少数でこれだけ派手な虐殺を行いながら、生存者が僅かなこと。
  • 被害者の死因に規則性がないこと。 
  • 通報から警察官の現着があまりにも遅く、その数がたった一名だったこと。
  • 即座に書き込みが削除されたSNSのネットアーカイヴから、「時間が巻き戻った」「足跡が迫る」等、得体の知れない証言があること。
  • 警察は「事件と事故両方の可能性を視野に捜査中」との見解を示して、現場から報道関係者を一掃し、明らかな隠蔽工作を行っていること。

 計画的犯行ならば、無軌道な虐殺の意図に疑問が残り、行きずりの通り魔と仮定すれば、この処理の周到さの説明がつかない。

 事件後の隠匿の手際から考えて、この下手人には、少なくとも公安レベルの後ろ盾がある。でなければこれだけの虐殺、警視庁の魔人対策室が威信を賭けて総出で捜査に当たり、まともに外も出歩けない状況のはずだ。

 謎の殺戮能力。政治的な影響力。
 脅威度は、秋葉原で対峙した三名を遥かに凌ぐ。
 まともに戦えば、勝てる見込みは薄い。

 だが、福院・メトディオスは、望まざるにしろ忍者である。
 闇に忍び、隠し持った白刃で、気取られぬままに敵を屠る者。

 まともでない戦い方に(・・・・・・・・・・)こそ専心してきた。強大な敵の裏をかき、その心臓に刃を突き立てる技こそを、磨き続けてきた者だ。

 この身は咎人。今更、正義を振りかざすことのできる立場ではない。だが、個人的な好悪として、無辜の若人に対する虐殺は、メトディオスの嫌う「悪」であった。

 かくて、福院・メトディオスは、ここに逢合 明日多を次の標的と見定めた。


 ―  ―


 まず、メトディオスは単身、夜の姫代学園に侵入した。
 逢合の能力はあまりに不可解だ。
 ならば、直接の接触より、痕跡から異能の情報を得るべし。そう判断したのである。

 警察の巡視は、校外だけに留まっていた。彼ら自身もなぜ、この惨状に本腰を入れて捜査しないのかを疑問に思っているようだ。そのような士気の警備など、ザルも同然だった。

 静まり返った校舎内に、未だに残る死の気配。
 メトディオスは胸の前で十字を切る。
 彼にとってこの空気は慣れ親しんだものであり、心をざわつかせる要因でもあった。

「やぁ。来ると思っていたよ」

 突然の声。暗闇の先から、男が姿を現した。
 この校舎内に似つかわしくない、街中で見かけても目を引く古風な洋装の男だ。
 メトディオスは無言で左手(くさり)の間合いに踏み込む。

「硬質な物体が擦れる音。義手だね。暗器に興味はあるが、目的は交渉さ。タロットカードのことも知っている」

 男は両手を挙げ、敵意の無い仕草を見せる。アルカナの気配は感じない。
 敵の協力者か。だが男は、あえて正面から接触してきた。
 会話に意味はあると、メトディオスは判断した。

「結構。合理的な判断だ。僕は帆村 紗六。しがない私立探偵さ」

 この自称私立探偵は、メトディオスと同様、姫代の事件に興味を持ち、独自に捜査を始めたのだと語った。

 その過程で、警察の捜査報告書に対する不正アクセスのログを確認し、こちらの存在に気付いたらしい。ログの改竄は完璧だったはずだが、こうして捕捉された以上、この男の方が一枚上手だったと認めざるを得なかった。

「私の名前は―—」
「福院・メトディオス。1993年生。実業家の父・真泰(さねやす)と母・麻流子(まるこ)の長男として誕生。本名は夜羽(やわ)。両親と5歳年下の妹、累花(るいか)の4人家族」
「!」
「7歳の頃、忍派四十九流が一派、辻一務流に拉致され以後忍者として活動していたが、現在は抜け忍。忍派四十九流に狙われている」

 一枚どころではなかった。
 この男、恐らくこの争奪戦における候補者全員の詳細な情報を既に握っている。

「目的は?」
「この姫代の事件の真相解明。逢合 明日多の解体だ。彼はこの争奪戦で最も魅力的な謎の持ち主だ」
「……だが、一人では手が足りない」
「御明察。僕は非力でね。君が露払いをしてくれると大いに助かる。それに」

  帆村はメトディオスの横に立ち、肩越しに一瞥する。

「君なら感じるはずだ、アルカナの残滓を。そして引きあうはずだ。君もそれでここに来たんだろう。そういうものだと、助手から聞いているよ」

 明らかに怪しい男だった。

 だが、逢合は、無策で戦って勝てる相手ではない。
 調査し、看破し、能力の謎を解体しなければ、勝ちえない存在だ。
 帆村の能力は、逢合攻略における大きな力となるだろう。

 少なくとも、最初は、そう思っていたのだ。


 ―   ―


 同盟を開始して数時間、メトディオスはその選択を後悔し始めていた。

 この探偵は、あまりにマイペースで、しかも勿体ぶった大仰な変人だったのだ。
 彼が気のすむまで現場を調査しきるうちに、夜が明けようとしていた。

「戸む、福院君。3-1の教室で3人。体育館に12人。体育館裏にたむろしていた不良が4人。職員室で7人。屋上で1人。校門付近で1人。合計28名の死の現場を見た感想は?」
「手法に統一性が全く存在しない。思想的な一貫性がないのはもちろん、前提となる身体能力もバラバラで、とても同一人物の犯行とは考え難い。逢合 明日多は地元の半グレ数名を殺害しているようですが、その時は、シンプルな撲殺、刺殺が多かった。それに対し、ここでの案件は、殺害要因が多岐に過ぎる」

 帆村は感心したように頷いた。

「『小さな噂までは耳が届きませんよ。忍者や情報屋じゃあるまいし』――か」
「それは?」
「助手がくれた素晴らしいヒントだよ。やはり君と組んで正解だった」

 言葉の端に浮かんだ感傷。それをメトディオスが指摘するよりも先に、帆村の表情はいつもの芝居がかったものへと戻る。

「逢合 明日多の能力を、警察は『箸も殺せるお年頃(ボーン・デット・マン”シオン”)』と呼称している。効力は不明。ただ、「逢合には手を出すな」と、姫代学園の事件が起きる前から通達が為されている。殉職した 架空木 空白氏は、その指示に反して、生徒たちを救いにここを訪れた。その事実と、今の君の所感、各種通信の傍受内容を総合して――彼の能力は、次のようなものであると僕は推理する」

  • 本体が死んだとき、本体の死体から『足跡』が発生し本体を殺害した対象を追尾する。
  • 『足跡』が対象に追いつくと、時間が巻き戻り、対象が殺害した方法で本体が対象を殺害したことに歴史を改竄する。

「逢合 明日多は、被害と加害の因果を逆転させる異能者だ! 誰もが前提として寄って立つこの順序を狂わせるとは、愉快極まりない!」

 興奮気味に、帆村は言葉を続ける。

「しかも、信じられるかい、戸村君。逢合 明日多という名は百年以上も前の警察の調査対象記録にも残されているのだよ! 自称、三百年近く前の記憶を持つと騙る虚言の徒としてね。まったく興味深い!!」

 興奮のあまりこちらの名すら間違えだした探偵。
 その様子を後目に、メトディオスの思考は冷たく沈む。

 虐殺の手札は割れた。状況証拠との齟齬もない。
 接近し、観察するだけならば、危険はないはずだ。

 ――本当に?

 違和感が脳を過る。
 だが、リスクは承知の上。
 メトディオスは手元の端末で、逢合 明日多の足取りを追った。



3.路地裏の彷徨者

逢合 明日多―—『吊るされた男』逆位置

 ぺたり。

 足音が響く。足音が近づく。足音が迫ってくる。

 ぺたり。ぺたり。

 見つかってはならない。気付かれてはならない。
 何より――追いつかれてはならない。

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。

 ――『■■■■■』。

 聞こえた。おぼろげに覚えた外つ国の言葉。
 いつか、■■■から教わった文句。

 まさか、己が秘めていた■■を共有できる相手が、この島にはいるというのか。
 敵だと聞かされた。だが、この■■を知っているということは――

私ハ ■■■ ト イイマス(マイ・ネエム・イズ・”■■■”)

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。
 ぺたり。

 たどたどしいが、伝わるはずだ。
 この名を聞けば、自分と同じ■■■■ならば、きっと――

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。
 ぺたり。ぺたり。

 その祈りは。
 額を撃ち抜く.30-06弾によって、打ち砕かれた。

 どうして。同じ■の名を■■ながら。
 わかってくれないのか。許してくれないのか。

「ぁ、ぁぁぁぁ」

 狙撃によって殺される()
 殴打によって殺される()
 刺突によって殺される()
 斬撃によって殺される()
 毒ガスによって殺される()
 火炎によって殺される()

 それら全てが、明日多を生と正気に繋ぎとめていた■の■■の下に為されていく。

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。
 ぺたり。ぺたり。ぺたり。

 まとわりつく熱帯の湿度が。
 飛び回る虫の不快な羽音が。
 積み重なる無数の屍たちが。
 逢合 明日多の魂を否定する。

「――ぁ」

 ■■のために、世の理すら捻じ曲げて生き延び続けてきたのに。
 ■■の■■を、殺戮し続けた。■■と、分かり合うことすら、できなかった。

 故に、彼はその概念を記憶より抹消する。
 そうでなければ、己のあり方の矛盾を、受け入れることができなかったから。

 摩耗し果てたその心に、既に始まりの理由はない。
 ただ、そうであったから。そうし続けてきたからという行いを、繰り返す。

 死んではならない。
 ■■してはならない。

 けれど、それは、なぜだったのか。

 浮かぶ疑問も、恐怖と死の痛み、殺戮の罪にかき消える。
 無限の責め苦に、彼はただ一つの願いを抱く。

『――殺して(たすけて)

 二枚のカードを内包し、力を増した『吊るされた男』が脈打った。


 ―   ―


 ドン――!

 衝撃。暗がりの中、明日多が路地裏でぶつかったのは、屈強な男だった。

「ァア? どこに目ェつけてンだよグズがよぉ」
「ヘヘ、隆利クンはなァ、今、めっちゃ機嫌が悪ィんだよなァ!!」

 男の後ろから甲高い声で、パンクファッションのモヒカンが嗤う。

 声が出ない。
 言葉では、何も解決しない。その絶望が、彼の心には既に深く刻み込まれている。
 ただ、怯えた獣がするように、震えながら脅威から遠ざかろうとする。

「何か言えよラァ!」

 屈強な男に胸倉を掴まれ、痩せ細った明日多の体が宙吊りになる。

 ぺた。

 その足音を幻聴する。
 死の音が、背中に迫ってくる。

「死ぬぜェテメェ。けど”誠意”見せれば、気が変わるかもなァ。な? 隆利クン。とりあえず、慰謝料百万で」

 手慣れた様子で恫喝する。屈強な男が脅し、モヒカンが交渉する。そうやって、この二人は幾度となく金を脅し取ってきたのだろう。

 しかし。

「いや」
「ぇ? 隆利クン?」
「こ、ころ、――殺ス」

 明日多を吊るし上げていた男は、おもむろに空いた手にダガーナイフを取り出す。

「たか、り、クン? え? マジ? ナンデ?」
「殺シ――殺セ――バ――殺ス――トキ」

 その尋常ならざる気配を感じ取ったのか、モヒカンが男を制止しようとする。
 が、男は、躊躇うことなく、その凶刃を、逢合 明日多に突き立てた。

 明日多の断末魔と、男の哄笑、モヒカンの絶叫が路地裏に満ちる。
 わけがわからない。モヒカンは混乱していた。
 自分の相棒は、恐喝はしても殺しなどしたことはなかった。警察相手は面倒になる。それは御免だ。二人は、そんな共通認識に基づいて、”仕事”をしていたはずなのに。

 だが、直後、モヒカンはさらなる混乱の底に叩き落される。

 ぺたり。

 それは、足音だ。粘ついた、じっとりと湿った、ナニカが近づいてくる音だ。

 『ぺ』た『た』た『た』た『た』た・・・・『ぺたん』。

 死角から迫った足跡が、血走った目で立ち尽くす男へと「追いつく」。


 ◆◆◆◆ぺた◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「死ぬぜェテメェ。けど”誠意”見せれば、気が変わるかもなァ。な? 隆利クン。とりあえず、慰謝料百万で――ェ?」

 モヒカンは自分の目を疑った。華奢で、およそ針金のような腕の、怯えていたはずの男が、筋骨隆々のモヒカンの相棒、隆利を、吊るし上げていたのだ。

「たか、り、クン? え? マジ? ナンデ?」

 隆利を吊るし上げていた明日多は、おもむろに空いた手にダガーナイフを取り出す。
 そして、躊躇うことなく、その凶刃を、モヒカンの相棒の胸へと突き立てた。

被害者:一般人。
逢合・明日多(あいあい・あすた)
被害者:住所不定無職
湯擦 隆利(ゆすり たかり)

――東京都大田区蒲田にて、ダガーナイフにより胸を突かれ、刺殺。

加害者:住所不定無職
湯擦・隆利(ゆすり・たかり)
加害者:一般人。
逢合 明日多(あいあい あすた)

――被害者を殺害後、逃走。

「な――なん何だよ! クソ! 何なんだよテメェ!! 殺シてやる! 殺セバ! いいんだろ! 今が! 殺ス! トキ! なんだろう! なぁぁ!!」

 モヒカンは口から泡を飛ばしながら、相棒を殺した相手に飛び掛かった。
 殴る。殴る。殴る。馬乗りになり、殴り殺す。

「ハハ! 抵抗も! しねェ! イキってンじゃ――」

 身動きをしなくなった遺体の上で、モヒカンの思考から熱が消えていく。

 ――殺した? ナンデ?

 どうして? こいつが、殺したいほど、恐ろしかった?
 わからない。おかしい。自分はただ、混乱して、理解できなくて、それで……

 ぺたり。ぺたり。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆ぺた◆◆ぺた◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


被害者:一般人。
逢合・明日多(あいあい・あすた)
被害者:住所不定無職
小判鮫 紐助(こばんざめ ひもすけ)

――東京都大田区蒲田にて、複数回の頭部への打撃により、撲殺。

加害者:住所不定無職
小判鮫・紐助(こばんざめ・ひもすけ)
加害者:一般人。
逢合 明日多(あいあい あすた)

――被害者を殺害後、逃走。

 そして男は目が覚める。逢合 明日多は目が覚める。

 血に塗れて起き上がった眼前には。
 血に塗れて殺されている二人の男が、転がっていた。

 明日多は、のろのろと腕を持ち上げ、胸の前で縦横に指を這わせた。
 死を見届ける度に、体が勝手に行う反応。
 もはや意味すら忘れ果てた習慣だった。

 明日多が生きるとは、人と逢うとは、こういうことだ。
 昔はそうでなかったような気がする。
 どうしてこうなったのか思い出すことができない。

 だから。死にたい。
 だけど。死ねない。
 望むのは、正しく殺されること。
 願うのは、正しく救われること。
 祈るのは、正しくこの命が失われること。

 ならば。

 この、たった今、忽然と目の前に現れた、”三人目”は、眼鏡の奥に、刺すような殺意を秘めた青年は、正しく、逢合 明日多を殺すことができるのか。

 無理だろう。
 それが自分の異能――『箸も殺せるお年頃(ボーン・デット・マン”シオン”)』と、彼を幽閉していた組織は呼んでいた――の特性だから。

 けれど。振り下ろされる手刀を見ながら、明日多が、数十年ぶりに意味のある言葉を発したのは、何故だったのか。

 眼鏡の青年の胸にあるモノを見たからか。
 その表情に、憐れむような視線に、いつかの出会いを重ねたからか。

 ――たすけて(ころして)

 殺される。間違いなく殺される。
 この勢いで振り下ろされた手刀は、容易く明日多の首を折るだろう。
 そして、彼の異能はその加害者と被害者を無慈悲に反転する。

 だから、80年ぶりに口にされた、その願いは、叶わない。
 だから、逢合 明日多は、こんなカード(もの)に願いを託したのだ。

 その諦めを。明日多は知らない、彼にとってあまりに皮肉な名が付けられた、『襲撃者の異能(ヤコブの御手)』が覆す。

 ひたり。
 確実に明日多の命を断つはずの手は、まるで、撫でるような感触のみを、首筋に与えていた。

 二人の視線が交錯する。
 それは、一瞬だったか。それとも、小一時間ほどであったのか。

「……私ハ ■■■ ト イイマス(マイ・ネエム・イズ・”■■■”)
「福院、メトディオス」

 眼鏡の青年は路地の奥へ消えた。

 ――言葉が、通じた。

 取り残された明日多は、その、ほんの数秒のやりとりを、反芻する。
 いつか、弾丸でもってしか報われなかった呼びかけに、正しく返事があった。

 明日多は、のろのろと腕を持ち上げ、胸の前で縦横に指を這わせた。
 それはもはや、意味すら忘れ果てた習慣だった。

 だか。今は、それをするべき時であると、彼の摩耗した魂が、訴えていた。



4.空白の隠匿者

福院・メトディオス―—『法王』正位置


 メトディオスは、逢合 明日多と十分な距離を取ったことを確認し、息をついた。
 逢合 明日多を観察し、その能力の発動を確認した。
 能力発動の阻止はできなかったが、収穫はあった。

 姫代学園の情報と現場検証、帆村の情報から感じた、僅かな違和感の正体。

 それは「被害者と加害者を逆転させる能力で、なぜ、あれだけの被害が出たか」だ。

 路地裏の血気盛んな半グレならばわかる。
 だが、真っ当な教育を受けた女生徒たちが、ただ怪しいという理由だけで、構内に迷い込んできた男を殺すだろうか? 何人かそういう異常者はいるかもしれない。けれど、それが、数十人、百数十人に及ぶだろうか。

 警察の調書からは、「話しかけただけで明日多が死んだ」という女生徒の証言があったらしい。だが、だとすれば、姫代学園に至るまでに、もっと広範囲の虐殺が為され、逢合 明日多の悪名は日本中に広まっていなければおかしい。

 事実、先ほどの路地裏で、明日多は、人並の耐久力を持ち合わせ、かつ、常識的な理由で死亡することが確認できた。

 にも関わらず、あの事件が成立した理由。
 それは、『殺意の賦活』という、別の魔人能力が、絡んでいるからだ。
 逢合 明日多の周囲にいる人間に、彼への殺意を植え付ける力。
 明日多の能力の副次効果ではない。明らかに別人の能力だ。
 実際に対象となったからこそ、メトディオスは確信していた。

 逢合 明日多自身は、平和な日常の中にある限りにおいて、単体では無害な魔人だ。
 殺されなければ発動しない能力など、本人に高い戦闘能力と敵意がなければ、めったに発動しないものだから。

 しかし、それは周囲が全て敵の状態においては、無敵の大量虐殺兵器へと変わる。
 そんな便利な存在が、帆村の言う通り、百年前――明治初頭に、公的機関によって発見されたとしたら、どう扱われるか。

 この国の辿った歴史を、メトディオスは反芻する。
 人も足りず。鉄も足りず。油も足りず。それでも、強大な敵に抗い続けた時代。
 そんな中で、この能力を最も欲しがったのは誰なのか。

 メトディオスは、拠点の端末から、その組織へのクラッキングを開始した。


 ―   ―


逢合 明日多

 本体の『発生』は本体の記憶している限りにおいて三百年ほど前。
 江戸幕府発足間もない時代の九州北西部出身と推測される。

 能力発動条件は、「殺されること」。
 餓死や衰弱死である場合は、それを防ぐための手段を取りえた人間を「加害者」と見なして生死交換の能力が発動する。

 ■■■■■■はこの能力の戦時における有効性に着目。

■■■■年■月■日 ■■■作戦に使用。戦果■■■名。
■■■■年■月■日 ■■■作戦に使用。戦果■■名。
■■■■年■月■日 ■■■作戦に使用。戦果■■■名。
■■■■年■月■日 ■■■作戦に使用。戦果■■名。
注:回収後、逢合 明日多との意志疎通が不可能となる。過去の記憶についても想起が不可能な様子。戦術的価値に支障なし。
■■■■年■月■日 ■■■作戦に使用。戦果■■■名。
■■■■年■月■日 ■■■作戦に使用。戦果■■名。
■■■■年■月■日 ■■■作戦に使用。戦果■■■名。
■■■■年■月■日 ■■■作戦に使用。戦果■■■名。
■■■■年■月■日 GHQより、『箸も殺せるお年頃(ボーン・デット・マン”シオン”)』逢合 明日多の破棄指令。
■■■■年■月■日 大日本帝国陸軍解体に伴い所管替え。以後扱いを警察予備隊に引継ぐ。
■■■■年■月■日 逢合 明日多の自殺による因果循環による処分を試みるが、本人応じず。
■■■■年■月■日 所管替え。以後扱い陸上幕僚監部運用支援・第ゼロ特殊武器防護隊に引継ぐ。
■■■■年■月■日 精神操作系能力による自殺教唆を実行。”攻撃”と見做され、精神操作系能力者死亡。
■■■■年■月■日 以後、62件の処分方法を試行。失敗。詳細は別フォルダ参照。
特記事項:第46次処分実験において、■■■■■■■を殺害させることにより、逢合 明日多に”楔”の定着を確認。■■■■■■■の因子を培養、付与した人造魔人との同時運用により、逢合 明日多の戦術的有効性を最大限に活かす副次的作用が発見される。


 ―   ―


 以上の情報の出元は、陸上幕僚監部運用支援・第ゼロ特殊武器防護隊。
 通常部隊傘下とは別に、秘密裡に運用される自衛隊における対魔人戦術の中核である。

「なるほど。その立場から、これだけ警察を牽制できたというわけだ」

 帆村探偵社。その執務室において、帆村紗六はパイプを上機嫌にくゆらせた。

「自衛隊は、逢合 明日多を持て余し、処分したいと考えている。そして、拘束中の彼が「殺されること」を願ってアルカナを得たことを契機に、彼にカードを束ねさせ、安全確実に彼という危険物を処理する腹積もりでしょう」

「であれば、虐殺を起こす必要はないのではないかな?」

「逢合 明日多を放置し、他の候補者に殺されても部隊の目的は達成される。が、他の候補者の「願い」が不明である以上、国益に反する「願い」が叶えられる可能性はゼロではない。ならば、部隊は逢合 明日多の勝利を望むはずです。カードを持たない彼らは誰が候補者かわからないから、彼に近づくそれらしい人間に無差別に敵意を植え付けるしかない。それが、姫代の惨劇の真相だ」
「ならばどうやって、逢合 明日多を処理する?」

 問いに対し、メトディオスは、ここまで得てきた情報からの推論を伝える。

 逢合 明日多の出自。
 なぜ、その能力が生まれたのか。
 なぜ、死による解放を望みながら、被害者と加害者の転換という異能の唯一明解な解決法である自殺を彼は選ばないのか。
 なぜ、その能力は『ボーン・デッド・マン”シオン”』と名づけられたのか。 

「それで?」
「魔人能力は、強固な認識による世界律改変です。だから、その根幹である認識が弱まる、改まることで、能力は弱体化、無効化される。だから――」

 彼の「何を犠牲にしてでも生き続けなければならない」という動機を、解体する。

 その結論を、

「僕はその方針に反対だ」

 帆村は、一言で否定した。

「自殺をしない理由は理解した。だが、今の福院君の推理が正しいならば、彼に過去を突き付け、罪を糾弾するだけで、彼は自らの意志で命を失うのではないかな?」

 合理的な反論。
 忍者とは、まともでない戦い方の専門家だ。
 強大な敵の裏をかき、その心臓に刃を突き立てる技こそ本分。
 だから、メトディオスの指針は、忍者の手法ではない。

「逢合 明日多の境遇に同情すべき点はある。だが、彼によって生の権利を奪われた者のことを考えても、彼に救いを与えるべきだろうか。君が、それを、為していいだろうか」

 帆村の言葉に、メトディオスは返す言葉を持たなかった。



5.繰り糸の暗躍者

三千殺界 膝栗毛――『金貨の7』正位置

 第ゼロ特殊武器防護隊長、七三 分弌 二等陸佐は、ビル街を彷徨する逢合 明日多を、双眼鏡越しに監視していた。

 彼の隣には異形の隊員、三千殺界 膝栗毛(二十六号)陸曹。

 膝栗毛の任務は、逢合 明日多に近づく、アルカナ候補者と思しき人物に、魔人能力『偽・殺し殺せば殺すとき(スリーアウト・チャレンジ)』を使用し、対象の行動すべてを『逢合 明日多を殺す』方法に変えることだ。

 膝繰毛は、最新の細胞培養技術によって生み出された、クローン魔人自衛隊員である。その能力は強力だが限定的で、「オリジナルであった三千殺界 膝栗毛を殺した人物」――即ち、逢合 明日多を殺す形でしか、人の行動を捻じ曲げられない。
 自我も薄く、ただ、隊長である七三の指示に従うのみだ。

 自衛隊が明日多を処分しようと行った実験の一環として、死刑囚であったオリジナルの膝栗毛と戦い合わせた結果副次的に生み出された、逢合 明日多を大量殺戮兵器として運用するためのトリガーパーツ。
 それが、クローン魔人、膝栗毛の存在価値だった。

 この街には、彼の他に、四体の膝栗毛シリーズが配置運用されている。
 その全員が、いつでも、彼の隣に立つ上官の命令により、惨劇を引き起こせるのだ。

 姫代の惨劇を思い出す。
 あれは、あまりにも悲惨だった。
 あらゆる姿に成り代わる候補者、そして、衣装の中の素顔が知れぬ候補者が学園という密集地帯に紛れ込むことで、多くの余計な犠牲を余儀なくされた。

 逢合 明日多は危険であり、処分しなければならない。
 逢合 明日多以外の候補者がカードを束ねることで、より危険な願いが叶う可能性がある。

 この二点に異論はない。故に、七三は任務を遂行する。罪に手を汚す。
 やむをえない。自分が干渉しなければ、より大きな被害が出る。
 人が持っていてはいけないもの。人の枠をはみ出たもの。
 だから、人が管理しないと。そう。これは管理なのだ

 双眼鏡の向こうで、明日多に、一人の青年が声をかけた。
 眼鏡にロザリオ。間違いない。先日路地裏で明日多と接触しながら、『偽・殺し殺せば殺すとき(スリーアウト・チャレンジ)』の効果を跳ねのけた男だ。

 魔人。そして、九割九分、アルカナの候補者である。

 七三は隣の膝栗毛シリーズに、魔人能力の行使を命令し――

 球体が、足元に転がった。

 それが、膝繰毛シリーズの頭部であることに気付いた時には、背後から、七三の首筋に刃が突き付けられていた。

「動けば殺す。振り向けば殺す。能力を使えば殺す。その上で、帝国陸軍及び自衛隊が逢合 明日多をいかに扱っていたかを暴露する。逢合 明日多は私が殺す。手出しせず即時東京から出れば殺さない。暴露もしない。警告は一度だけだ。予備要員にも伝えろ。全員の名前も家族も把握済みだ」
「……本当に、殺せるのか」

 七三の口から漏れたのは、自分でも意外な言葉だった。
 七三自身、自分たちの作戦が最良だとは思っていない。
 もっと被害の少ない、もっと正しいやり方があるのならば。
 姫代の惨劇を経て、そんな気持ちが強まったことは間違いなかった。

「ああ」

 一瞬の逡巡。
 七三は嗤った。

 なんだ。この、名も知らない刺客も、確信はないのだ。
 七三は両手を挙げたまま、降伏の意を示し、ビルの屋上を後にする。

 世界は優しくなどなく。
 だから、「たった一つの冴えたやり方」など存在しない。
 国ですら、組織ですらそれを見つけられなかったのだ。

 それをなお、自分はできると嘯くのなら。
 見せてもらおう。

 ――いや、見せてほしい。

 おまえのやったことは愚かな間違いであると。
 そんなことをせずとも、よかったのだと。

(感傷だ)

 かくて、七三 二等陸佐はこの戦場から脱落した。



6.遅れてきた殉教者

逢合 明日多―—『吊るされた男』正位置

「また会えました。逢合 明日多さん。福院・メトディオスです」

 人込みの中で、その青年は、明日多に微笑みかけた。
 少し前に話しかけてきた眼鏡の青年は、どうやら彼の仮装をした別人だったらしい。
 小細工のため、若手の劇団員に身代わりを頼んだのです、と彼は言った。
 今の彼は、眼鏡をつけていない。

 よく理解できなかったが、目の前の人間が自分に害意を持たず、意志の疎通を試みているということそのものが、明日多にとっては、希少で貴重な事だった。

「監視は外しました。貴方が理不尽な暴力に襲われることは、ありません」

 にわかには信じがたい言葉だ。
 だが、事実、この半日ほど、どれほど人に近づいても、無関心に無視されることこそあれ、明日多が誰かに殺されることはなかった。

 しかし、なぜ。この青年は、そんなことをするのか。
 殺し殺され続けるループから、自分を、引き上げようとしてくれたのか。

「私は、『法王』のカードの候補者。他に、3枚のカードを保有している」

 疑問は、名乗りによって解決した。この青年もまた、カードに願いを託した者。
 ならば理不尽にではなく、明確な理由をもって、逢合 明日多に敵対する者なのだ。

「貴方を、たすけ(ころし)にきました」

 明日多に戦う手段はない。
 相手を害する方法は、相手に害されることのみ。

 だから最弱。同時に無敗。
 明日多の敵となり攻撃しようとする時点で、敵の死は確定している。

 ほんのわずかでも、わかりあうことができるかもしれないと、思ったのに。
 その諦観を、だが、メトディオスは否定する。

「だからまずは、風呂と、服と、食事です。これだけは、譲れません」

 致命の攻撃は、繰り出されなかった。


 ―   ―


 ついてくることが当然という素振りで、メトディオスと名乗った青年は彼を連れ回した。

 洋服を揃え、雨合羽とタオルとを買い、銭湯で全身を泡だらけにされた。
 冷たく甘い色付きの牛乳を飲まされ、自由に取ってよいのだというパンと焼き菓子を買い、ビル街を歩きながら食べた。

 脳が追いつかない。
 ここしばらくの地獄が嘘のような時間だった。

 裸で無防備な所を刺されなかった。
 洋服に毒針は仕込まれていなかった。
 食べたものに異物は含まれていなかった。
 歩いても、誰も襲い掛かってはこなかった。

 隣の青年は、穏やかに微笑んでいた。

 夕立ちが降ると、青年は明日多に合羽を着せ、手を引いて、ほど近い家へと迎え入れた。
 品川は、彼の拠点の一つらしい。

 一角に備えられた礼拝用の座に、明日多はなぜか視線を吸い寄せられた。
 懐かしく、心がざわつく。
 所在なく部屋を眺めると、その隅に、幼い兄妹の写真があった。

 妹がいたのです、と彼は寂しそうに笑う。
 その意味を理解できる程度には、明日多もまた、多くの別れを経験していた。

 夕餉は、味噌汁と白米、焼いた鮭だった。毒は、入っていなかった。
 青年は明日多に寝台を譲ると、自分は床で早々に寝息を立てた。

 意図がわからない。
 なぜ、カードの所持者が。
 殺す、と言っておきながら、こんなことをするのか。

 明日多は、台所にある包丁を取り出し、眠る青年の上で構えた。
 全く興奮も、快感もない。
 やはり自分は、殺すことが嫌いなのだと、明日多は自覚し、床に就いた。

 翌日、青年は、明日多を連れて、再びビル街へ繰り出した。


 ―   ―


「長く、一つ部屋に閉じ込められたと聞いています。望まぬ殺戮を強制されたとも」

 手近な牛丼屋で朝食を済ませる。割箸に四苦八苦する明日多に、青年は容易くそれを割って見せた。注文と同時に差し出された丼は、熱く、塩辛く、旨かった。

 二人は、JR品川駅、高輪口から、緩やかな坂を西に上る。

「不幸な話と括る資格も私にはない。ですが、四百年も生きたのです。当然に貴方は、その果てに、この国がどうなったのか、少しでも知っておくべきだと思いました」

 青年は、穏やかに明日多に語りかける。

「悪意と殺意、殺す、殺されるの循環以外のものを。――あなたが繋いだものの、その果てを。それが、昨日、貴方を連れ回した理由です」

 だが、そこまでする意図が、明日多にはわからない。
 カードを奪いたい、そのための布石であるとしても、あまりに迂遠だ。

 わからない。理解できない。意図が判然としない。
 そんな困惑のまま、明日多はメトディオスの背を追う。
 少なくとも、自分をすぐに殺そうとしない。
 その一点において、彼の存在は、いつの間にか明日多の安らぎになっていた。

 ――貴方は生きなさい。そして、■■■■を、絶やさないで――

 その表情が、十字架を握って祈る様が、摩耗した記憶の中の、誰かに似ていたからかもしれない。

「ここに、貴方と、来たかった」

 十分ほど、歩いただろうか。
 メトディオスは明日多を振り返り、ビル街に不似合いな石碑を指した。

 一体、何が。
 碑文はぼやけ、明日多の目では読むことが難しい。
 だが、その下に書かれた碑銘に、心臓が跳ねた。

『江戸の大殉教』

 約四百年前、江戸幕府が十字教を禁忌とした際、国内の宣教師と信徒とが、大量に処刑された事件。
 市中引き回しの末、約50名の信徒が、品川の小高い丘で火刑に処され、以後、信徒の縁者や匿った者ら、2,000人近くが処されたという。

 ――江戸では、同胞が迫害され、殺されているという。

 ――松倉には教えなど関係ない。我々から絞れるだけ絞りとる方便だ。

 ――もはや耐えられぬ。有馬様の御家来衆が蜂起の意ありと。

 ――小西様の祐筆、益田様の御子息が、主の御声に従い軍を率いるというぞ。

 明日多の摩耗した記憶の中で、何かが目の前の光景に反応する。

「『殺して(たすけて)』、と貴方は言った。しかし、貴方の能力がある限り、貴方は自殺するほか、死ぬことができない。しかし、貴方はそれをしなかった。できなかった。そんな選択肢は、最初からないかのように。そこに、ずっと違和感があったのです」

「自衛隊に残されていた、陸軍の記録」

「貴方の言動の断片から、約四百年前からの生存が推測されること」

「そして、あなたが意味のある会話をしなくなったのが、第二次世界大戦、米軍に対する戦闘の後」

「米軍の記録。貴方が、「My name is Sion.」と叫んでいたということ。Asuta、ではなく、Sionと。――私にも、そう語りかけてくれましたね。ロザリオに、気付いてくれたからでしょうか」

 メトディオスは、静かに推論を展開する。

 なぜ、明日多は死を望みながら、この能力の唯一明解な攻略法である自殺をしないのか。
 ――それは、明日多に、自殺を禁忌とする教えが根付いているからである。

 なぜ、明日多は第二次世界大戦、米軍に対し、Asutaではなく、Sionと名乗り――「ボーン・デッド・マン”シオン”」という二つ名をつけられたのか。
 ――それは、米軍兵にならば、シオンという、明日多の「もう一つの名の意味が伝わる」と信じたからである。シオン。ラテン語で、「神の庭」を意味する洗礼名の意味を。

 なぜ、明日多は、米軍兵との戦いの後、言葉を失うほどに、心を閉ざしたのか。
 ――教えを同じくするはずの、同胞のはずの相手を虐殺し尽くしたからである。

 であれば。四百年もの間、生き続けてきた、逢合 明日多とは。
 その出自は、一体、なんであるというのか。

「逢合 明日多さん」

 メトディオスは、品川駅前で購入した、銀細工の十字架を、明日多の首にかける。

「貴方は、この国が主の教えを弾圧した時代から生き続ける、十字教徒の先達だ」

 十字教。その言葉と、かけられたロザリオ。
 鼓動が加速し続ける。
 摩耗したはずの記憶が、思い出すことを拒んでいた脳を覆う靄が。
 少しずつ、晴れていく。輪郭を取り戻していく。

 なぜ、生き続けないといけなかったのか。
 なぜ、逃げ続けないといけなかったのか。
 なぜ、摩耗の果て、死にたいと願っても。自殺だけは選択肢にならなかったのか。

 寒村で飢えていた記憶。
 その中で、立ち尽くしていた。
 自分だけが生き延びた。

「1610年代、禁教令間際、島原藩のセミナリヨ名簿に、相生村出身のシオンという生徒の名を確認しました。この時期に生きた十字教徒であれば貴方は」

 それは、なぜだったのか。

「あの、島原の乱の、生存者だ」

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。

 あれは死。死そのものの音。
 どうして。自分たちばかりが、追われなければならないのだ。
 自分たちはただ主に祈りを奉げていただけなのに。
 飢えと寒さをしのぐ、ほんの少しましな暮らしを、求めただけなのに。
 それさえも、許されなかった。心の支えすら、奪いつくされた。

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。

 減っていく。(殺されて)共にいたはずの仲間たちが。友人たちが。(逃げて)
 足音に追いつかれ。消えていく。死んでいく。殺される。(死ぬ)

 盃を描いた旗が冬空にはためく様を、美しいと思った。
 そんな単純な理由で集った三万と七千の魂が、その灯火が、吹き散らされる。

 ぺたり。ぺたり。ぺたり。

 記憶が混濁する。事象の前後を認識出来ない。

 四百年の彷徨が。
(サムライからの逃亡の記憶)
 能力を介して収奪した他者の命が。
(鎖に繋がれ、地獄の渦中に放り込まれた記憶)
 生きるだけで重なり続ける罪の責め苦が。
(断片のようにかすれた記憶のピースを塗りつぶすものは)
 因果逆転に伴う時間の循環と混線が。
(稲妻のように駆け巡る殺戮の感触と昏く澱む死の感触)
 とても大切だったはずの、はじまりの記憶を、摩耗させていったのだ。

『貴方は生きなさい。そして、主の教えを、絶やさないで――』

 明日多は、思い出していた。
 幕府による十字教徒の弾圧。
 自分が死ねば、この国で主の教えを知る者は断たれる。

「敬意を。貴方たちが、苦難を越えて教えを語り継いできたからこそ、私は、地獄でも歩き続けられる信仰に巡り合えました」

 それが、彼が死ねないと考えた理由
 四百年もの間、死の足跡と足音から逃げ続けてきた理由。
 自死は主の御心に叶わぬ罪、地獄へと落ちる道と。そんな教えが、摩耗の果てにも魂に刻まれていたことが、幾ら自殺を命じられてもできなかった理由。

「――昨日、雨をしのいだ雨合羽も、空腹を満たしたサンドウィッチのパンも、舌を楽しませたカステラも。信仰の生んだ交流がこの国にもたらし、根付いた文化です」

『明日多さん。いえ、同志シオン』
「逢合 明日多――いえ、洗礼名、シオン。ラテン語で神の庭を意味する言葉を名に負う、敬すべき四百年の先達」

 メトディオス。古の聖人の名を冠する青年の言葉が、いつかの宣教師のそれに重なる。

『貴方は生きなさい。そして、主の教えを、絶やさないで――』
「信仰は、繋がりました。だから――どうか。もう、安らいでください。
 これが、私の、信仰者としての言葉です」

 そこまで口にして、青年は、おもむろに眼鏡をかけた。

「そして、『法王』のアルカナの持ち主としては、こう言いましょう」

 その視線が、途端に刃物のような鋭さに変わる。

「これが、私と貴方の勝負。私が貴方を殺す。『箸も殺せるお年頃(ボーン・デット・マン”シオン”)』が発動しなければ私の勝ち。発動すれば、私の負けだ」

 『箸をも殺すお年頃』は、明日多の「死んではならぬ――主の教えを絶やしてはならぬ」という念による世界改変。
 だから、メトディオスは、その動機の解体のために、明日多を連れ回した。
 主の教えは今に生きている。
 主の教えのもたらしたものは、この国に根付いている。

 だから、もう、後は任せてくれと。
 あなたが主の御許に行こうとも、この国の教えは、途絶えたりしないのだと。

 その想いが伝わったならば、魔人能力は発動しないのだと、そう信じて。

 なんて愚か。
 明日多を殺すならばもっと簡単な方法がある。

 自死すべきだと。
 重ねた罪を糾弾し、犯した咎を断罪し、自殺することで落ちる地獄こそ、貴様の魂には相応だと、そう言えばよかったのだ。

 けれど、目の前の青年はそうしなかった。
 その姿に、どうして、顔も背格好も違う、あの宣教師の姿が、重なったのか。

「――amen(かくあれかし)」

 メトディオス、明日多のその首に十字架をかけ、眼鏡をかけて、手刀を振るう。

 首に、メトディオスの手刀が振り下ろされるよりも早く、逢合 明日多は、手にした箸を己の眼窩に突き入れた。
 塩辛くて旨い、朝食に食べた牛丼の汁のしみた割箸だった。

 唇を動かす。喉はもう声を出す機能を失っている。
 それでも、目の前の青年は、それを読み取ってくれると、明日多は信じていた。

『貴方は生きなさい。そして、主の教えを、絶やさないで――』

 ああ、やっと、引き継げた。
 脳を突き穿ち、地面に転がる箸に、明日多は笑った。
 箸が転がることが。自分が死ぬことが。
 こんなに簡単でおかしいことだなんて。

 ぺた。ぺた。

被害者:一般人。
逢合・明日多(あいあい・あすた)
加害者:一般人。
逢合・明日多(あいあい・あすた)
被害者:一般人。
逢合・明日多(あいあい・あすた)
加害者:一般人。
逢合・明日多(あいあい・あすた)

 被害者と加害者。因と果が逆転し続ける。
 しかしこの殺人の、被害者と加害者は同一。
 故に、能力は循環する。因と果は逆転し続ける。

 ぺた。ぺた。ぺた。

 迫る足音。迫る足跡。
 無数のこれは、自分の能力が喰らってきた人々の怨念であった。
 振り返る。今まで逃げてきた死と罪とに、明日多は向き直る。

 見上げれば一筋の光。天より吊られ垂らされた鎖。
 きっとこの救いは、彼が貫き通してきた四百年の信仰だ。

 地平線を埋め尽くす無数の足跡。
 これに追いつかれれば、明日多は無限の地獄に囚われるだろう。

 それでも、彼は、自らを天へと導く鎖を掴まなかった。

 いつの間にか、彼の手には旗があった。
 遥か昔、美しいと思った信仰の象徴。
 それを地に立て、男は、無数の足跡に身を晒す。

 ――宣教師様。四郎様。ここが、自分の”約束の地(シオン)”なのです。

『ぺ』た『た』た『た』た『た』た・・・・『ぺたん』


 ―   


 被害者:一般人。
 逢合 明日多(あいあい あすた)

 ――東京都港区高輪 江戸殉教者顕彰碑前にて、自らの眼窩を割箸で貫き、死亡。

 加害者:一般人
 逢合 明日多(あいあい あすた)

 ――東京都港区高輪 江戸殉教者顕彰碑前にて、自らの眼窩を割箸で貫き、死亡。

 幾度因果が反転しようと覆らぬ、ただ、それだけの悲劇と喜劇。

 かくて、ボーン・デッド・マン・”シオン”――生まれ、死ぬを繰り返した男、”神の庭”の洗礼名を背負った信仰者の四百年に渡る彷徨は、終着を迎えた。



7.悔悟の信仰者

福院・メトディオス―—『法王』逆位置

つかれはてしたびびと
重荷をおろして
きたりいこえ わが主の
愛のみもとに
かえれや わが家に
かえれや と主は今呼びたもう


 ―   


 逢合 明日多は、帰天を拒み足跡に呑まれて消えた。
 それは、メトディオスが魔人能力を解体できなかった――彼の心を、解放しきれなかったことと、同義である。

 もしも彼が自らの命を断たなければ、メトディオスは、姫代の犠牲者と同様、足跡に殺されていただろう。だから、最良の結果ではあった。

 だが、それは、十字教の禁忌を彼に強要したということでもある。
 いや、仮に彼が強要されたと認識したならば、「致死性の攻撃」として見做され、因果逆転で、メトディオスは死んでいる。
 つまり、間違いなく明日多は、己の意志で死を選んだ。

 それでも、メトディオスの胸には、罪の意識が強く刻まれていた。

 顕彰碑の傍らに残されたものは、三枚のカード。『恋人』『吊るされた男』、二つに裂かれた『節制』の片割れ。
 カードは光の粒となってメトディオスに取り込まれる。

 メトディオスは逢合 明日多の道程と最期に、自らを重ね合わせる。

 主の教えを絶やさぬために、彼は生き続け、数多の魂を貪欲に食らい続けた。
 いつか手段は目的へと変わり、心は擦り切れ、悍ましい化生となり果てた。

 自分と彼に何の違いがあろう。

 命を踏みにじり、間違い続けたこの生涯。
 修正を試みる為に、また愚者たちの魂を食らい続ける。
 その歩みを止められぬ時点で、彼と自分は同類だ。

 いずれ生涯を終えるとき、この魂も地獄の火にくべよう。
 咎人に、主の御許など相応しくないのだから。

 だけど、それでも。

 自分はまだ、願いに向かって進み続けなければいけない。
 己の誤った選択のせいで、命を散らした妹のためにも。

『教会へ行くんだ。私たちもすぐに行く』

 運命の分岐点。父との約束。
 あの日、その言葉を守っていれば、彼女に会うことはなかった。

 ―—辻一務流中忍頭、”隻枝”の紅葉。

 両親の命を奪った、憎い仇。
 兄妹に無償の愛を注いだ、もう一人の母親。

 その出会いがなければ、破局を、妹と片腕を失ったあの夜を避けられたはずなのだ。

「残念、解体の瞬間を、見損なうとはね」

 いつの間にか、 帆村 紗六が横にいた。この男はいつも神出鬼没だ。

「臨時とはいえ助手に謎を解体されては、探偵の立つ瀬がないな」

 帆村はぼやくが、決着を譲ったのは、他ならぬ彼自身だ。
 協力関係とは言うが、事実上彼の誘導で、メトディオスはこの結論に導かれた。

「なぜ、私に手を?」
「とむら――ただの弔いだよ。あと、君、どこぞの掲示板で僕を騙ったろう。「さぐるもの」ってやつだ。仮にも僕を演じたんだ。謎に負かされるのは気にくわない。その程度の話さ」

  帆村はそう言うと踵を返し、

「この戦い、次が最後だろう。幸運を祈っているよ」

 振り返りもせず去っていった。

 アルカナは遠からず再び集う。
 願いを手にするはただ一人。

 全てを終わらせ、全てを始める。
 そのために、殉教の碑の前で、愚者は旅路の終着点を見据えていた。
最終更新:2020年11月15日 14:20