ジリリリ……ジリリリ……。
早朝。黒崎・茜は聞き飽きた電話の着信音に目を覚ました。
ベッドから素早く身を起こすと、何かを考えるよりも早く五感を増幅させ、周囲を目視し、臭いを嗅ぎ、耳を澄ませ、敵が居ない事を確認する。
完全に体に染みついた作業。昨晩の路地裏での死闘の疲れなど微塵もなく。
そこに在るのは80年以上、依頼を達成し続けた傑物。
茜はウンザリした顔で受話器を手に取る。何かを言う前にやかましい言葉が耳に飛び込んでくる。
「俺、俺ですよ姉御、オレオレ!アハハ!この電話を取れるってことは、やっぱり無事だったんですね!」
情報屋の、軽薄で妙に高いテンションに鼻白む。
「アタシを馬鹿にしてんのかい?あれくらいの修羅場、何百と潜り抜けてきたよ」
虚勢ではなく本心。
第三者から見れば壮絶であった路地裏の大立ち回りも、茜にとってはなんでもない日常の一場面に過ぎなかった。
仕留めた相手に多少思うところはあるが、それでも茜にとっては磐石と言っていい戦場だった。
「グラフィティ・カズマ以外に誰を仕留めました?」
「キャンキャンうるさい小娘…ああ、小娘とは呼ぶなって叫んでたっけか。鬼姫殺人。知ってるかい?」
「…姉御は興味ないかもしれないですけど、“裏”では結構な有名人ですよ。どっかの秘密結社を抜けた逸材だとか」
あいつがねえ、と思いながら茜は続ける。
「どうやらソイツがグラフィティ・カズマを仕留めたやつも仕留めたみたいだねえ。『審判』、『悪魔』、『正義』のカードは揃ったよ」
「早っ!流石姉御。…その口ぶりだと他にも?」
「話が早いね。人形遣いも仕留めた。多分ご同業だねえ。カムパネルラとジョバンニ。有名かい?」
「有名もクソも、今一番脂がのってる暗殺者…!いや、のって“た”暗殺者ですよ」
茜と情報屋は互いの知りえたことを交換し、現状を整理し合う。
「いやはや流石姉御!昨日一晩で四人のカード所持者を潰したってことだ!いやー、凄いなー。憧れちゃうなー。年齢を感じさせないなー。ほぼほぼ優勝候補者なんじゃないですか?」
情報屋の分かりやすいお世辞が空虚に響く。
「いやな物言いだね。挑発はもう少し品よくやりな。…“ほぼほぼ”ってのはどういう意味だい?…他に、同じくらい暴れている奴がいる、ワタシにはそういう意味に聞こえたけどね」
「カーッ!分かっちゃうかぁ!そうなんですよー!実は昨晩、一夜で七人のカード所持者をぶっ潰した奴がいまして!いやいや!向こうは現役バリバリ!姉御は御年80越え!比べ合う必要なんてないですよね!最後に総取りすりゃあいいんですから!」
安い、あまりにも安い挑発。
「…ワタシは面倒は御免だよ。サッサと言いたいことを言いな」
「へへへ、じゃあ遠慮なしに。そのもう一人の優勝候補。こっちで調べたんで連絡取れるんですよ。…場ぁ整えるんで、ソイツとやり合ってくれませんかね?ほっといても、いつかぶつかるんだから構やしないでしょう?」
情報屋からの提案に、茜の脳髄が高速回転し、情報を処理する。
「理由は」
「カード持ちは引かれ合う…。万全なら姉御に勝てる奴はいないと信じていますが、誰かとやり合ってるタイミングにコイツに襲われたら?…だったら、先に一番危険な奴を真正面から処理していただきたいな、と」
フッと茜は鼻で笑った。
「坊や。あんまり甘く見るんじゃないよ」
普段はしない坊や呼ばわり。電話越しだというのに、殺気で情報屋の背に脂汗が垂れる。
「そのもう片方の優勝候補とやらにもツテを作って、ヤバい願いの成就する確率を下げたいんだろう?…要するに、ワタシは天秤にかけられてるってわけだ」
「いや…そんな…」
情報屋の喉が急速に乾き、声が出ない。
「渋谷ヒカリエ」
「ヘ?」
「ヘ?じゃないよ全く。チョットした遊びの脅しにビビりすぎだよ。あんたの依頼人に言って、そこの人払いをしな。今夜に決めちまおう。どうせなら派手な場所でやりたいしねえ」
電話越しにすら死を覚悟させる脅しが茜にとってはちょっとした遊び。
その事実に震えながらも情報屋はなんとか自分を落ち着ける。
「分かりました。今晩、場を整えます。…姉御、煽っといて何様だって思われるかもしれないですが…相手、ピカイチに強いですよ」
「へぇ、アンタがそんな風に評価するのは珍しいねえ。有名な奴かい?」
「―――喧嘩屋。我道蘭。“裏”でステゴロ最強じゃねえかって言われている女です」
「知らないし、あまり興味もないねえ」
茜は本心から言う。黒埼・茜が長年殺しの世界で一線を張る事が出来た要因は、この自らを強者と認識し、他を顧みない強靭なまでの傲慢さにあった。
「なんにせよ、そのガドー?とかいう奴を渋谷にご案内しな。キッチリ沈めるよ」
「分かりました。…なんで渋谷なんですかい?」
「なあに、道玄坂には馴染みの台湾料理屋があってね。あそこの腸詰を帰りに食っていこうかと」
勝ち前提の場所決め。名うての喧嘩屋であっても、茜にとっては通貨点でしかなかった。
◆◆◆
我道蘭が街を行く。
昨晩の至高の闘争を反芻しながらも、貪欲に次の闘争を求めて街を練り歩く。
肌がざわつく方向、遊園地かビル街にでも足を向けようとした時、携帯が鳴り響いた。
着信表示に映るのは見知らぬ番号であったが、気にせずに我道は取った。
「もしもし、どちらさん?」
「我道蘭さん、初めまして。情報屋といいます。情報屋やってます」
普段茜と喋る軽薄な姿勢は出さず、丁寧に情報屋が話す。
「ハハ!情報屋って名乗るならそりゃ情報屋やってるだろうさ!…“仕事用”の携帯じゃなくてプライベートにかけてくる…ああ確かに情報屋、それも大分優秀みたいだ!!」
「恐縮です。突然で申し訳ないのですが、貴方の持つタロットの戦いについて情報を提供したく思います」
我道は情報屋の評価をもう一段上げた。
タロットの戦いを把握し、スカイツリーの勝者である自分にコンタクトを取る。
情報屋として紛れもなく一流の所作。
「カード所持者を四人倒した参加者である、とあるババアが今晩、渋谷ヒカリエで待っています。伝言も預かっています。
『パーッと出会ってパーッと殺しあって終いにしようじゃないのさ』
とのことです。人払いもすませます。闘争を望まない人は巻き込みません。是非お越しいただければ幸いです」
情報を高速で処理し、我道は答えた。
「いくつか聞きたいことあるんだけどさ、渋谷ヒカリエの人払いなんて出来るの?」
「…出来ます」
それだけの権力者が情報屋の裏にはいる。
茜からの伝言を預かっている時点で、そもそも情報屋と茜はつながっている。
「私に求める見返りは?」
「優勝した時、世界を滅茶苦茶にする願いだけはやめていただきたいです」
「ハハ!随分とまあ分かりやすいお膳立てだなぁ!お偉いさんは私とそのババア、両方に粉かけとこうってわけだ!」
我道は瞬時に情報屋と茜と依頼人の関係を見抜いた。
「――そして…最高だな!それだけのお偉いさんが最初に依頼するほど強いババア、四人もぶっ倒してるババアが次の闘争相手!滾る、滾るねえ!」
(依頼人と、姉御と、俺の関係性を見抜いたところで我道蘭は反発などしない。むしろ極上の闘争に飛び込んでくる)
そう予想し、手の内をさっさと見せた情報屋の判断はこの上もなく正しかった。
「なあ、あんた。もう少し聞きたいんだけどさ、そのババア、私が相手だって知ってる?」
「伝えてあります。ただ、貴方の名前は存じないと言っていました」
我道蘭の名前は“裏”に轟いている。我道自身、不遜な考えだと思いつつその事実を認識している。
そのババアは、この上もない強者でありながら、我道の名に興味すら示さず、それでいて長年一線にいるという事だ。
「…もう一つ聞きたいんだけどさあ、あんたは私の…あー、なんか自分で言うのは照れ臭いけど、私の力は知ってる?」
「存じ上げています。というよりこの商売やってて知らないわけがありません。俺の知る限り、一番の喧嘩屋です」
「世辞でも嬉しいね。で、そんなあんたは、ババアと私、どっちが勝つと思う?」
「ババアです」
情報屋は即答した。一切迷わず、対戦する本人に告げた。
「私はもうタロットの参加者を大分倒しているけど?」
「ババアです」
「知ってるかどうか知らないけど、その倒した相手にはラウンジの格闘王とかいるんだけど?」
「ババアです」
我道はどんどんと興奮していく。
血が沸き立ち、毛が逆立ち、闘争心がこれ以上もなく高まる。
「そんなババア、この世に一人しかいないだろ…!最高…!最っ高だ!」
ごついライターに火をつけ、猛然と煙を肺に吸い込む。
少し溜めてから、ブハッ!と気持ちよく煙の塊を吐き出し、我慢しきれないとばかりに我道は渋谷に向かい駆けだした。
◆◆◆
Funky sonic WorlD
◆◆◆
21時。営業時間終了後の渋谷ヒカリエ。
ショッピングスペースやレストランだけでなくギャラリーや劇場を併設した、渋谷再開発の象徴ともいえる複合型商業施設。
普段であれば人でにぎわうその地は今、不気味なほどに静まっていた。
先に待つは喧嘩屋、我道蘭。
駅からの直結した通路の先。渋谷ヒカリエの象徴である、ガラス張りの個性的なファサードに囲まれた吹き抜け空間の根元に我道はいた。
その姿はまさに仁王立ちと表現するのがふさわしいほど、生気と、圧力と、何より闘争心に満ち満ちていた。
眼は爛々と輝き、肌は紅潮し、体全体から湯気が立ち上っていた。
少し遅れてやってきたのは黒崎・茜。
我道とは対照的に、何一つ気負いはなく。
日常の一場面とでもいう風に戦場に乗り込む。
いつも通りの赤シャツ、黒スーツ、くたびれたフェドーラ帽子。
背はぴんと張り生気に溢れ、立ち振る舞いに隙は微塵もない。
我道を捉えた茜は瞬時に聴力と嗅覚を最大限に引き上げ、我道の周囲を探る。
特に罠の気配はない。五感を増幅する必要がないほどにギンギンに伝わる闘争心の塊がいるだけ。
(スーツの内側に何か入れている?重心がやや、ややだけど傾いているね?)
我道をざっと観察し、特段罠がないことを確認した茜は無造作に近づいていく。
その茜に、感無量と言う風に我道が語りかけた。
「嗚呼…本当に、本当にあんただ。紛れもない、黒埼・茜だ!」
ここが戦場でなければ抱きしめたいと言わんばかりの爛々とした笑顔。
両の手を大きく広げ、この場に居合わせた嬉しさを全身で表現する。
「随分とデカい声だね。感激のところ悪いけど、ワタシはアンタに見覚えがないんだけどね」
そっけなく答えた茜に、我道は一瞬だけ悲しそうな顔を見せたがすぐに切り替えた。
「ハハ、確かにあんたにとってはそうかもな」
我道は右の人差し指で自らの顎をピンとはじいた。
「喧嘩屋駆け出しのころ…もう十年近く前か?喧嘩であんたに顎をカチ割られている。いやぁ!完敗だった!!殺しならともかく、ステゴロならババアに負けるわけがないと思いあがった挙句全身複雑骨折さ!」
「覚えてないねえ。小娘の鼻をへし折った回数なんて、それこそ数えているうちに夜が明けちまうよ。で、復讐に燃える小娘が、再び飛んで火にいる夏の虫かい?」
「ハハ、復讐?あんときの私が弱かったから負けた。それだけさ。ただ、あの闘争は本当に楽しかった。もう一度それを出来るのが、楽しい。嬉しい。たまらない!」
そういうと、我道は笑顔で煙草を吸った。茜の強さを理解したうえで、欠片も臆さず、楽しいと言い切り、緊張感もない。
(復讐者ではなく戦闘狂かい)
こういう手合いは思考が読みにくいと茜は内心舌を打つ。
「…アタシを前に随分とまあ余裕があるねぇ。何か策でも用意してんのかい?」
その堂々とした立ち振る舞いに、茜は我道の策を疑う。
ニィと一つ笑い、我道は言葉を返した。
「悲しいねぇ」
フゥと一息紫煙をくゆらせる。
「私はさぁ~、策が無いと余裕もかませない小者だと思われているのかい?」
「ハッ!!」
心から楽しそうに茜は笑った。
「いいねえ。自然体、無手であっても泰然。小娘、胸を張りな。昔のアンタは知らないけど、今のアンタは間違いなく達人さ。ここまでの達人とやり合ったのは何回あったかねえ…」
茜が今までの長い経歴を反芻し、指を曲げていく。しかし指はあっという間に折れ曲がり両の手は握り拳となった。
「…とは言えねえ、そんな奴らでも、アタシは両の手で足りないくらい、ぶちのめしてきた」
ピッと茜は右の中指を突き立てた。
「来な。小娘。アンタも指の一本にしてやるよ」
「―――上等!!さあ!闘争しようぜ!!」
笑顔と共に我道が駆け出す。
カード所持数一位と二位の真っ向勝負が幕を開けた。
◆◆◆
「ウッダラアアアアアアア!!」
まずは一つ、小細工無用とばかりに我道が真正面から体重の乗った右フックを放つ。
豪快でありながら技術の練り込まれた最上の一撃。
まともに食らえば頭蓋が吹き飛ぶ一撃を前に、茜は少しも慌てない。
神眼神耳神鼻神舌神肌発動。
その眼は正確無比に距離を測り
その耳は筋肉の軋む音すら拾い上げ
その鼻は汗のにおいをかぎ分け
その舌は空気中の成分すら舐めとり
その肌は僅かな風の揺らぎすら感じとる
要するに、茜は我道の右フックを完璧に見切った。
顔面に迫りくる回転拳を、髪の毛一本分の距離を置き躱す。
我道にとっては、顔面をすり抜けたと錯覚するほどの見切り。
体重を乗せた全力の右フックを完璧に躱されたらどうなるか。
格闘技に詳しくない者でも分かるだろう。
体は流され、あまりにも無防備な姿を対戦者に晒すことになる。
その必然的に出来る隙を狙い、茜の仕込み杖がうなる。
【必然的にできる隙】
それは、【我道蘭でなければ】という但し書きが必要な代物だった。
我道は腰の関節を360度回転させた。渾身の右フックの勢いを全く逃がすことなく、さらに勢いを増した右フックを繰り出す。
全力の右フック二連撃という、格闘のセオリーどころか、人体の構造を完全に逸脱した拳は経験豊富な茜だからこそ覿面に効いた。
「!?」
生じるはずであった隙をついて飛び出た茜を必殺の右フックが襲う。
瞬時にガードを取るがその上から剛腕一閃。茜は大きく吹き飛ばされ、ブティックのこじゃれたショーウィンドウをぶち割って派手に入店した。
初撃が綺麗に決まったわけだが、我道は逆に警戒を高める。
(…吹っ飛び過ぎだ。威力を殺すために自分から飛んだか?完璧なタイミングだったカウンターに対して?)
我道の予想通り、何でもないことのように茜は立ち上がり、ブティックから出てくる。
「やれやれ、やっと思い出したよ。確かに昔、クルクル回る小娘を叩きのめした…。あれから大分鍛えたね?一撃の重さが別物だ」
乱れたスーツをさっと整え、真正面から我道を睨みつける。
「いやになるくらいの馬鹿力だ。どうやら殴り合いではアンタに分がある…」
茜は仕込み杖を軽く放り投げ地面に転がした。
「そんなふうに思ってないかい?小娘。戦闘狂は完膚なきまでに叩き潰して言い訳できないようにするのがワタシの流儀さ。アンタの土俵でやってやるよ」
稀代の喧嘩屋に。人外の怪異すら殴り倒した戦闘狂に、殴り合いでやってやるという宣言。
これが黒埼・茜でなければ現実の見えていない間抜けのたわごとである。
しかし我道の眼前に立つは黒埼・茜。
齢80を超えて一度の敗北もミスもなく。強者として在り続けた怪物。
その言葉の本気を感じ取り、我道はまた高らかに笑う。
「ハハハ!最高だなあんた!今更だけどよぉ~!私は敬老精神なんて持ち合わせちゃあいないんだ。遠慮なくぶっ飛ばさせてもらうぜ!」
◆◆◆
「ッシャラララァ!!!」
殴る。殴る。殴る。蹴る。殴る。蹴る。
我道が猛然と茜に襲い掛かる。
右フック。左ジャブ。貫手。ナックルアロー。上段廻し蹴り。
水月蹴り。右ストレート。掌底。山突き。崩拳。ヤクザキック。手刀。
ラリアット。ジャンピングニー。トラース・キック。猿臂。
我道は特定の流派にこだわらず、ただひたすらにその場で最適と思われる技を全力で繰り出した。
ボクシング・空手・プロレス・中国拳法などに、生まれ持ったフィジカルと当て勘の良さをミックスした野獣じみた猛攻。
それは拳の嵐。蹴りの竜巻。もはや自然災害と評してもいいような、圧倒的なまでの暴の乱舞であった。
この嵐に巻き込まれたが最後、生きとし生けるものは物言わぬ肉塊になり果てる。
そう直感させるような質量、速度。根源的恐怖。
その嵐を、茜は涼しい顔でいなす。
関節の回転による異様な動きにも完全に対応し躱しきる。
常人であれば、否、戦闘訓練を受けた魔人であっても秒で命が吹き消されそうな嵐が、茜には効かない。
的確に技を見切り、躱し続ける。
(ッだ!当たらねえ!マジかこの婆さん!)
「どうしたい小娘。そんな扇風機みたいなぶん回しじゃあ、ワタシを捉えるなんて夢のまた夢だよ」
打ち終わりの隙をついて茜の貫手が我道を襲う。
「ウォ!」
なんとか身をよじるが躱しきれず、頬に一つ傷が付く。
これを散々繰り返した結果、我道は全身に軽微な傷を負っていた。
「どうしたい?喧嘩屋?ババアに喧嘩で負けるようなら、喧嘩屋の看板はしまった方がいいんじゃないかい?」
汗にまみれ、肩で息をしながらも我道は笑顔で答えた。
「ハハ!あんたは強い。とんでもなく強いよ!間違いなく今までやった中でナンバーワンだ!」
宇宙人よりも。怪異の主よりも。格闘王よりも。
我道の闘争の歴史において、数多立ちはだかった猛者よりも。茜は群を抜いた強者であった。
「嬉しいねえ!あの日!私が負けた相手は強かった!どうしようもなく強い相手に敗れた!こんな愉快なことがあるかい!?」
狂喜を見せる我道に茜はため息で返す。
「小娘。アンタがするべきは、喜ぶことじゃない。『昔のワタシは見る目がございませんでした』って嘆くことさ。獅子に対して『獅子は強かったんだね!』って驚く餓鬼は滑稽だよ」
「ハハ!ごもっとも!口じゃああんたに勝てそうにないな!」
ごついライターに火をつけ、深々と煙を肺に入れる。
フゥと一つ息を吐き、告げた。
「それでも、1ミリも負ける気がしねえ。そんな気持ちで戦うつもりはねえ」
煙草を吐き捨てると、再び猛然と襲い掛かった。
躱されるというのならより速く、より重くするまで。
回転数をさらに上げた猛撃を繰り出す。
その単純極まる想いが通じたか。
「…あ?」
一瞬、茜がよろめいた。
連撃を捌くためにバックステップを取った時、自らが投げ捨てた仕込み杖に躓いたのだ。
僅かばかりできた千載一遇の隙をつき、我道が駆ける。
繰りだすはラナンを屠った自身最高の一撃。天へと突き刺さるアッパーカット。
「今だ!!ぶっ飛びやがれぇぇぇぇえええ!!」
――悲しいことに。
喧嘩屋の自分を支え続けていた猛撃を躱され続けていた我道は、消耗していた。
肉体ではなく、精神が消耗していた。
冷静に考えれば、“あの”黒埼・茜がそんな無様な隙を晒すはずがないというのに。
紅時雨・愛華相手にも用いた、よろめくフリ。
瞬時に体勢を戻し、茜は懐からアルミ製の筒を取り出して放り投げた。
――瞬間。爆音と閃光が渋谷ヒカリエに広がった。
スタングレネード。猛烈な音と光で突発的な目の眩み・難聴・耳鳴りを発生させる兵器。
「グァ!!」
真正面から爆音と閃光を喰らいつつもそこは戦闘特化型魔人のタフネス。
一時視力と聴覚は失われるが動きは止めず、迷わずに茜がいるだろう方向にアッパーカットを繰り出す。
「いい子だ。小娘。花丸をあげるよ」
…そこまでも、茜の手のひらの上。
神眼神耳神鼻神舌神肌は、五感から得られる感覚が茜にとって有害な場合、それを自動で調節し、鈍化させる。
鈍くなった視力と聴力にスタングレネードは届かず。茜はノーダメージで我道のアッパーカットに向きあう。
足元にある仕込み杖を蹴り上げ、瞬時に抜き放つ。
全ては布石。
我道の土俵に付き合うと見せかけ、仕込み杖への意識を薄くした。
よろめくフリをするために仕込み杖を使った。
視力を一時失った我道は、『ステゴロで来るであろう茜』を想定しアッパーカットを放つが、その強靭な一撃は『仕込み杖を握る茜』の前には格好の餌食。至高のカウンターが炸裂し、我道の右の二の腕に大きく穴が穿たれ、薄皮一枚でぶらりと垂れ下がった。
「グアァァァァァァ!!!!」
我道は、利き腕を喪失した。
◆◆◆
「ア!ガ!グァぁ!!」
右腕を失い。
視力・聴覚にダメージを負い。
血にまみれた我道が選んだ選択は、“逃げ”であった。
茜と逆方向に猛然と駆ける。
「逃げられるとでも思っているのかい?」
当然黙って逃がすほど茜は甘くない。
一気に間を詰めてとどめを刺そうとする。
しかし我道は、吹き抜けの壁の角を掴むと、能力を全開にした。
「大見解!!!回せ!!回せぇえぇ!!!」
指の関節を超速で回転させる。
モノレールの原理で、あっという間に我道の体が上層に運ばれる。
ヒカリエの吹き抜け構造が幸いし、我道は茜の射程から離れていった。
射程外の上方へ逃げる我道が見えなくなってから、茜は一つ息を吐くと、全身から汗をどっと浮かべた。
(クソ!なんだいアイツ体力馬鹿が!あんだけの猛撃をどれだけ続けるっていうんだい!!)
涼しげに躱しているように見せていたのは、茜の技術の賜物。
現実には命がけの紙一重の見切りであったし、先ほどのカウンターはまさに乾坤一擲の切り札であった。
少しでも気を緩めれば命が吹き飛ぶ連撃を、神眼神耳神鼻神舌神肌を発動させ続け、躱し続けた茜も、我道ほどではないが大きく消耗していた。
「しかも、ここで逃げを選択できるかい。手負いの獣の最後の突貫は怖い。だけど手負いの獣が冷静に次の機会を狙うのはもっと怖い…。やれやれだ」
この場に我道がいないからこその言葉を茜は吐いた。
「アタシはこれまで大勢殺してきたが、その中でもアンタは五本の指に入る…いや、虚勢はやめようか…今まででナンバーワンだよ。小娘」
追撃をすぐさまかけようとして、茜は思いとどまる。
我道が逃げた上ではなく、下。
茜が向かったのは地下のワインバー。
ワイングラスの老舗「リーデル」のグラスで提供するワインバーに入る。
【消耗した体力を整えたかった】
【即追撃せずに一旦焦らすことで我道の思惑を乱したかった】
色々と言い訳はあった。
しかし本質は。
茜自身にも意外なことであったが、もう少しだけ。
ほんのわずかな時間でもいいから。
より長く、この夜に浸っていたかったのだ。
自分のことを想い、鍛錬を続け、至高と言っていい領域に至った若者との逢瀬を楽しみたかったのだ。
茜は、上等のワインを開ける。
1990年。歴史に残る世紀のヴィンテージとまで言われる当たり年のボルドー。
かなり値が張るそれを、無造作にグイっと一口飲み流す。
シルクのような喉越しと、しっかりとしながらも軽やかな香りが茜の体を包む。
艶やかでありながら男らしさと女らしさが同居した、奇跡的な甘味。
アルコールが体を駆け巡り、疲労感を吹き飛ばす。
――心の底から茜は思う。『今』が全盛期だと。
一方の我道。
自信をもって繰りだした連撃は打ち破られ、利き腕は惨めにぶら下がっている。
全身の生傷からは血が溢れ消耗している。
それでも、楽しくて仕方がなかった。
自身をかつて下した化け物とのやり合い。
この場には己と相手しかいない純粋にして苛烈な闘争。
真向勝負で負けたならば、搦め手を打つまで。
茜を討ち果たすために色々と考えて準備をする。その時間がどうしようもなく愛おしかった。
茜はただ我道のことだけを考えた。
カードの因縁だとか自分の矜持だとか、願いの結末だとか。
そういった些細な話は、もはや頭になかった。
我道を打ち倒す策だけに頭を振り絞り
我道が繰り出すだろう策だけを考えた。
我道はただ茜のことだけを考えた。
タロットのことなんて最初から興味はなかった。
我道自身にも驚くべきことであったが、
あれほど焦がれた“純粋なる闘争”ですら、茜との関係の前には蛇足に思えた。
茜を打ち倒す方法だけ考え続け、
茜の技を破る方法だけを想い続けた。
渋谷ヒカリエ。今でも新しい文化が花開く舞台。
今この世界、互いには互いしか存在せず
ただただ熱心に想い続ける
歪で
異常で
只管に熱っぽく
土の香りに満ちていて
血潮に濡れた果てなき修羅道
当人同士にしか理解できない胸の昂ぶり
あえて一番近い言葉を挙げるとするならば それは 一つの愛であった。
誰にも理解できない狂気ではあっても それは 苛烈な愛であった。
◆◆◆
ワインを飲み干し、火照る体とともに茜は上階に向かう。
神眼神耳神鼻神舌神肌を全開にし、我道の位置を探る。
血の、濃厚な香りが息づく場所。五階の雑貨スペースに我道は陣取っていた。
使い物にならなくなった右腕は自ら引きちぎり止血をしたのだろう。
左腕だけで茜を待ち構えていた。
「…よう、婆さん。…良い夜だ。本当に良い夜だよな」
これから殺し合いをするとは到底思えぬ軽やかな口ぶりで我道は語る。
「…嗚呼。本当だねえ。癪だけど、本当に良い夜だ」
数秒。二人とも言葉を紡がなかった。
行動も起こさなかった。
この夜が終わるのを惜しむように、ただ冷たい空気感に身を任せた。
しかし、そんな時間は長くは続かない。続くはずもない。
先に動いたのは我道。雑貨スペースから拝借した包丁を我武者羅に茜に投げつけた。
刃の弾丸が茜に降り注ぐが、それを冷静に躱す。
その回避行動を見越して、カフェの煮沸器を豪快にぶん投げ、熱湯を浴びせにかかる。
今更熱湯程度何するものぞ。
茜は熱湯をあえて受けながら、手負いの我道に進軍した。
それこそが我道の狙い。
茜ならば、この程度の熱湯など意に介さず突き進む。
そう確信したから用意した三の矢。我道は、警備室から拝借した拡声器を取り出した。
「がぁぁああああああぁぁ!」
戦闘特化型魔人が、フィジカルにものを言わせて全霊の大声を企業用の拡声器に叩きこむ。
それはもはや音響兵器と言えるほどの一撃。
常人が相手であれば、耳を完全に破壊せしめる音爆弾。
だがそれは、茜には通じない。
神眼神耳神鼻神舌神肌が聴力を鈍化させ、茜の耳へのダメージを最小限にする。
欠片もひるまず、茜は音爆弾の効果を期待し無防備を晒しているはずの我道に対し貫手を放った。
しかし我道は、そう来ると分かっていたかのように即座にガードをした。
「…婆さんがさぁ…私のことを忘れていても、私はあんたのことを想い続けていた!調べていた!…音爆弾が効かないことなんて!分かっていた…!」
我道の語りを無視し、茜はさらに攻め立てようとする。
しかし。
体が言う事を聞かない。
気が付いたら、茜の脇腹から夥しい血が溢れていた。
茜は、背後から銃撃を受けていたのだ。
◆◆◆
(何故!?どうやって!?いつの間に!?)
茜の脳髄が困惑に叩きこまれるが、瞬時に自分を取り戻し、我道との距離を取る。
自身を傷つけた手段を理解しないまま攻撃を続けるのは愚行。
一旦見に回り現状把握に努める。
銃撃の方向を見ると、雑貨が乱雑に積まれた棚から拳銃が一つ、銃口から煙をたなびかせていた。
黒埼・茜は知りえぬことではあるが、それは、遊葉 天虎の忘れ形見。
我道はスカイツリーで討ち果たした彼女の愛銃を、もしかしたら使えるかもしれないとスーツの内側に仕込んでいたのだ。
何故茜はこの銃撃に気付けなかったのか?
神眼神耳神鼻神舌神肌の聴力は銃撃音を捉えられなかったのか?
全ては布石。
銃撃の直前に行われた強烈な音爆弾。
それを避けるために鈍化した聴力では、音爆弾にまぎれるように放たれた銃撃に気が付けなかったのだ。
(…そして、火薬の匂いは自らの血の匂いで誤魔化した、ってわけかい)
「これでよぉ…よ~うやく互角なんじゃねえかい?終わりが近いんじゃねえかい?」
我道の言うとおり、此処までしてやっと五分と五分。
全身に切り傷を負い、利き腕を喪失し、大量に血を失った我道と、
能力をフル回転した結果体力と精神を消耗し脇腹に銃撃を受けた茜。
互いに万全の状態であれば、茜は我道の攻撃を捌き続ける事が出来た。
しかし今は互いに手負い。
勝敗の天秤はどちらに傾くかなど、運命の女神でもなければ分かりはしないだろう。
「確かに、間もなくすべてが終わるねえ…最後に一つ聞いておきたいんだけどね、どうやって銃の引き金を引いたんだい?それだけは聞いておきたいねぇ」
「ハハ!冥途の土産にするのかい?」
「馬鹿をお言い出ないよ。このままアンタをぶっ殺してしまったら、謎が残っちまうじゃないかい」
「本当に、口じゃあ婆さんに勝てねえな…単純な話さ。私の『大見解』による間接回転は、切り離されていても使用できる…千切れた腕を使えば、引き金を引くくらい朝飯前、ってね」
「なるほどねえ、喧嘩馬鹿でも、少しは物を考えてる、ってことだ」
「ハハ!その喧嘩馬鹿に殴り合いを挑んだババアは誰だよ!」
「「ハハハハハハハハハハ!!」」
どうしようもなく爽やかで、乾いていて、物悲しい笑い声が渋谷に響く。
数十秒後、どちらかの命は散る。
稀代の喧嘩屋、裏社会に名を轟かす我道蘭か、
80年無敗、伝説的な殺し屋の黒埼・茜か。どちらかの命が潰える。
それを理解しながら、二人は笑った。
どうしようもない屑の殺し合いの果て、どこまでも清らかに笑った。
静寂。
沈黙。
笑いに包まれたヒカリエが一転静謐に満ちる。
互いの身に緊張が走る。
もう両者限界が近い。
我道は頼みとする拳を握った。
茜は仕込み杖を掲げた。
両者言いたいことは星の数ほどあったが、全てを行動で示した。
爆発音が響く。両者の渾身の突進は猛烈な音響となり渋谷中に轟いた。
茜が全身のひねりを加え裂帛の気合と共に突きを放つ。
対する我道は低く地を這うタックルを仕掛ける。
(ここに来て関節技!?)
――それは、九頭竜次郎の得意技。
投極打の鮮やかなコンビネーション。
低空タックルで極めに行くと思わせてからの打撃への移行。
我道はタックルをフェイントに渾身の貫手を放つ。
泡盛司を下した回転貫手を!
勿論、我道は九頭竜ほどの技量は持ち合わせない。
タックルから貫手への移行も、彼に比ぶればお粗末なものだ。
それでも、茜の思考リソースを僅かながらにも割くことには成功した。
互いに全霊を絞り尽くした一撃。
80年の歴史を一手に背負った仕込み杖の一撃と。
当代随一の喧嘩屋のこれまでを詰め込んだ一撃。
眩い光が交差し、只痛いほどの静寂が渋谷を包んだ。
◆◆◆
ボタリ。
ボタリ。
赤黒い血が、磨かれた渋谷ヒカリエの床に撒かれる。
喧嘩屋。我道蘭の貫手が、黒埼・茜をど真ん中から貫いていた。
それはほんの紙一重の違い。自らが下した相手を覚えていたか否か。
自身が願いを踏みにじった者の想いを背負っていたか否か。
黒埼・茜は紛れもない生まれつきの強者で、だからこそ弱者の気持ちが分からなかった。
敗者の物語を顧みず、ただ強者たる自己を貫いた。
自らが所属していた組織の名も忘れ。
茜の命を狙い続けた紅時雨・愛華の存在すら忘れ。
踏みにじってきた者の想いなど、一切頓着してこなかった。
対する我道。
同じく生まれつきの強者ではあったが、敗者の物語も知っていた。
故に遊葉の忘れ形見を用い、故に九頭竜の技を披露した。
倒した相手を想い、顧み、次につなげた!
なんという皮肉。
【倒した相手を想い顧みる】
それは生粋の強者にとっては弱者のたわごと。
自身の弱さに気が付いた者にしか、その想いは宿らない。
生まれつきの強者であった我道蘭は、
黒埼・茜によって敗北を知り。
敗者でも紡いできた物語があると知り。
敗者の想いを一つ一つ掬い上げ自らの血肉とした。
茜に敗れたからこそ生まれた強さが。
十年以上の時を経て、最強の殺し屋、黒埼・茜に突き刺さったのだ。
ボタリ。
ボタリ。
渋谷ヒカリエの床に涙が撒かれる。
それは、我道蘭のものであった。
もしも。
もしも黒埼・茜がもう10年若かったならば、もしも自分がスカイツリーを経験していなければ。
容易く勝敗の天秤は茜の方に傾いたであろう。我道蘭は敗れ去っていたであろう。
それを誰よりも理解していたからこそ、我道は泣いた。
自分でもどうしてかよく分からないまま、ただただ嗚咽した。
それが自身の未熟を呪ってか、
茜の衰えを悼んでかはもうどうにも分からなかった。
「…何を…思いあがっているんだい」
口からどす黒い血を垂らし、どてっぱらに大穴が開いているというにもかかわらず、黒埼・茜は真っすぐ立った。
とうに体からは生命が抜けきっているはずにもかかわらず、怪我など無いかのように凛と立った。
「アタシにとってはいつだって、『今』が全盛期なのさ。アンタは全盛期のアタシを倒したのさ」
茜は両手の人差し指を突き出した。
そうして、ニッ!!と音がすると錯覚するほどの笑顔を見せて楽しそうに言った。
「これで一勝一敗。続きは地獄でだね。どうせアンタもこっちに来るだろう?」
その生きざまに未練はなく。
どこまでも凛とした空気をたたえたまま黒埼・茜は光と共に消えていった。
血と涙にぬれた我道は、しばらくは敗者のごとく地を這っていたが、なんとか立ち上がった。
負けられない。負けるわけにはいかない。
その想いだけを胸に、夜の渋谷に消えていった。
煙草すら吸わずに。
戦場:ショッピングモール
黒埼・茜:死亡
対我道蘭戦績:一勝一敗
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