1.南斗六星の帳簿

伊山 洋一郎――『死神』逆位置

 その日、各所のダークウェブ掲示板に書き込みがなされた。
 ハンドルは、『dottore』。
 内容は、次の通り。

  • 自分の目的は、命の選定。

  • この三カ月、東京で発生した魔人同士の戦いによって失われた命と同じだけ、生きる価値がある人間を生き返らせる。

  • 現時点で、蘇生予定人数は132名。

  • 予定者のリストを添付する。

  • 蘇生が為されるためには、現在東京に潜伏している魔人、「福院・メトディオス」と「我道 蘭」の死が必要である。

  • このリストには、10名分の空白がある。

  • 「福院・メトディオス」「我道 蘭」を殺害した者に、それぞれ5名ずつ、リストに蘇生
者を書き込む権利を与える。

  • 期間は一週間。殺害の詐称は、自分の「能力」により不可能なので承知されたし。

 この書き込みは、各種SNSにも拡散され、(すぐに削除されたが)裏社会の住人、魔人達の多くに知れ渡ることとなった。

 死者の、蘇生。

 オルフェウス、イザナミ、管輅の伝承。
 古来より人が願ってやまぬ願いだ。

 死者を記すという北斗の帳簿。
 生者を記すという南斗の帳簿。

 そこに好きな名を書き変える権利が与えられるのだとしたら。

 人の欲とは、げに深きものである。 


 ―   ―   ―


 男は、数十件目になる掲示板への書き込みを終える。
 標的の片割れ、福院・メトディオスは、電脳犯罪者としても一流だと聞いている。
 下手を打てば尻尾を掴まれかねない。

 だが、仮にも男は、あの黒埼・茜と危険な橋を渡り続けた情報屋だ。
 何より、これから標的二人は、襲撃に次ぐ襲撃を受ける。
 webに張り付いて男を追う余裕などなくなる。

 その乱戦の中で、我道 蘭を殺し、無二のゲーム仲間――黒埼・茜を蘇らせる。
 それが、男の目的だ。

 あの老婆はそんなことを望まないだろう。
 機嫌を損ね、あるいは蘇生の瞬間に男は殺されるかもしれない。
 それでもいい、と男は思っていた。

『いよう、坊主』

 来訪者の呼びかけに、男は愛想よく振り返った。

「いや、お早いご到着! 流石は音に聞こえた伝説の――」
『ボケ。世辞も過ぎれば上滑りだ。茜ちゃんと組んでたテメェに伝説だのなんだのと言われていい気になるほど図太くねえよ』
『殊勝だネ! ベア。惚れた弱味ってわケ?』
『俺らの世代で、黒埼・茜に惚れない玉ナシはいなかったろ』
『あと、彼女を恐れない阿呆もネ?』
『遊葉も、茜ちゃんに負けない、いい女になるはずだったんだけどなあ』
『過去形にすんな。そのために、こうしてロートルを集めたんだ』

 魔人による民間軍事会社『黒蟻』第一分隊に所属していた、歴戦の戦士達だった。

 ”テディ”ベア、ギリーとアイアン、ビッグウォール、プティローズ、スケアクロウ、猿顔のコング、カクタスとサンドマン――そしてドクター。
 いずれもが”弱能力”の魔人でありながら、機転と経験、技能により、損耗の激しい業界においてこの齢まで生き延びた兵たち。

 情報屋が用意した切り札の一つだ。

 男が標的の居場所を伝え、『黒蟻』たちが戦場を攪乱、トドメを刺す。

 そして、情報屋が”蘇生者リスト”の記入権を獲得したら、遊葉 天虎の蘇生を。
 『黒蟻』の誰かが”蘇生者リスト”の記入権を獲得したら、黒埼・茜の蘇生を。
 5名分のうち一枠を使って、執り行う。

 それが、彼らの交わした協定だった。

「本当なら俺らだけで仕留めたいとこなんですが、依頼主が慎重派でね! いや、依頼主のブレインが、かな? とにかく、競争相手が多いのは申し訳ない」
『把握できてる有力候補は?』
「忍派四十九流」

 老兵たちが口笛を吹く。

「数ある流派の精鋭が集まってるって話です。こいつは福院の方と因縁があるそうで。俺らの目当ての我道さんには興味がなさそうですね」
『なるほど。まあ、俺たちみたいな半端モノには乱戦の方が向いている』

 老兵ベア――スカイツリーの激戦で死亡した魔人、遊葉 天虎の親代わりの男に頷きで応え、情報屋は手にした得物を一瞥した。

 クリス・ヴェクターSMG。
 45ACP弾を毎分1200発のサイクルで叩き込む機関拳銃である。
 法執行機関向けのフルオートモデルの確保には骨が折れたが、黒埼・茜を沈めるほどの化物狩りには、最低でもこの程度の武装は必要だ。

 本来情報屋は、この愚者の旅路の部外者だ。

 だが、自分が「選ばれなかったモノ」であろうとも。
 たとえ自分が「恵まれなかったモノ」であろうとも。

 それでも、だからこそできる戦いがある。
 愚かにも戦いに向かう権利がある。

 そう。明らかに愚かだ。
 あの老婆がいたならば、拳一つで制止されたに違いない。
 しかし、彼女はもういない。
 だから、情報屋は不敵に笑い、愚行権をここに行使する。

「優勝した時、世界を滅茶苦茶にする願いだけはやめていただきたいです――か」

 元の依頼人のお偉方は、我道の勝利を望むのだろう。だが、知ったことか。

「それじゃあ――蟻みたいな端役の戦い方、世界の主役たちに見せてやりましょうや」


 ―   ―   ―


 ぐしゃ。ぐしゃ。ぐしゃ。

 人が潰れる音がする。
 命が潰える音がする。

 愚者。愚者。愚者。

 医者(ドッドーレ)は、コーンフレークの層を崩すことで生じた耳障りな幻聴を振り払うように、手元のチョコレートパフェを口に運んだ。

 男――伊山 洋一郎にはカロリーが必要だ。
 彼の肉体は、唐突で不定期な”冬眠”を起こす。

 熊などと異なり、人体は、飲まず食わずの”冬眠”に耐えられるようには出来ていない。よって、”冬眠”の度に、伊山の肉体は損耗し、蝕まれていく。

 もしも彼の肉体が強靭であれば、その”冬眠”はエネルギーの浪費を抑え、数百年の旅に耐えるための有効な手段とすらなりえたかもしれない。
 しかし、伊山にとってこの眠りは、単に、死に至る病に他ならない。

 星間飛行症候群(コールドスリープシンドローム)と、人は言う。
 原因不明の奇病と医師たちは言う。しかし、伊山はその原因を知っている。
 そして、それが治療不可能であることも、理解している。

 この不治の病の影響を少しでも緩和するために、彼は甘味を、カロリーを求める。

 ぐしゃ。ぐしゃ。ぐしゃ。

 人が潰れる音がする。
 命が潰える音がする。

 愚者。愚者。愚者。

 参謀役を買って出てきたお節介な男と、使い勝手のいい情報屋。
 彼らのおかげで、この戦いでも多くの愚者が命を落とすだろう。

 それは即ち、さらに多くの「生きるべきもの」の蘇生が成ることを意味する。

「哀れですね」

 伊山は、笑った。

 彼の願う蘇生対象に、「愚者」と「人間以外の存在」は含まれない。
 故に、彼に時間は残されておらず、伊山には勝利しか許されない。

「「哀れですね」」

 ――大アルカナ#13、『死神』。

 カードが輝く。
 蘇生者リスト――現代の南斗六星の帳簿を抱え、伊山は体を振るわせて笑った。



2.望まぬ再会、望みの再開

福院・メトディオス――『法王』逆位置

 夜道を、少年――福院 夜羽は走る。
 背後で揺らめく炎の灯りを頼りに、そしてその火の手から逃げるように。

 左手には、幼い妹の手。
 右手には、父から託されたロザリオ。

『教会へ行くんだ。私たちもすぐに行く』

 夜羽は齢の割に賢しい子どもだった。
 だから、即座に理解した。
 父と母は、もう助からないのだと。

 自分は兄だ。父と母がいない以上、妹を守るのは自分だ。
 そんな幼い使命感で、少年は震える足を動かし続けた。

 握りしめた左の手が引かれる。
 つまづいた妹――累花が、転んだのだ。

 緊張が途切れたのだろう。
 累花の目から大粒の涙がこぼれる。嗚咽が森に響いた。

「累花、ごめんね。痛かったよね。僕、走るの早すぎたよね」

 幼い妹を、必死でなだめる。
 だが、泣き声は強くなる一方だった。

「うわああああん! ままとぱぱ、なんでこないのお!」
「累花、教会へ行けば、ママとパパも後から来るから。僕と行こう」
「やだああ! るいか! ここでまつ!」

 それだけは駄目だ。彼女が来てしまう。
 彼女に見つかればすべてが終わる。

 少年はこの先を――現実に起きたことを、知っている。
 これは夢の中だから(・・・・・・)

 近づく足音。記憶より、早い。
 夜羽は妹を庇うように振り返る。

 しかし、背後から迫ってきたのは、記憶とは違う人物だった。

「累花ちゃん。お兄さんが困っていますよ。このチョコレートをあげますから、もう少しだけ頑張りましょうか」

 森の奥から現れたのは、茶色のスーツを着た男性。
 男は、包みに入ったチョコレートを累花に渡し、微笑んだ。
 少女は涙を浮かべつつも、包みを開け、甘い欠片を口に運ぶ。

 その場に存在しないはずの男の姿。その明確な違和感を手がかりとして、夜羽――福院・メトディオスは、右手のロザリオを眼鏡へと変容させた。

 少年の姿は、成人した現実の身体へとたち戻る。

 辻一務流、胡蝶堕の業。
 破幻の精神制御術は、過去の悪夢を、統御可能な明晰夢へと変えた。


 ―   ―   ―


 空間が歪み、泣いていた妹も、燃える森も霧散する。
 メトディオスと、茶色コートの男――伊山 洋一郎は、薬品の匂いで満ちた診察室で向き合っていた。

 魔人能力『宣告【ガイダンス】』。
 死の運命近づく”患者”に、幻として己の分身を見せ、診察を行う、闇医者、伊山 洋一郎の能力が、メトディオスの夢への介入として発動したのだ。

「――伊山先生」
「お久しぶりです。夜羽さん。いや、福院・メトディオスと呼ぶべきでしょうか」

 二人は初対面ではなかった。
 辻一務流の里を滅ぼした後、左腕を失った状態で手近な教会に迷い込んだメトディオスを治療したのが、偶然そのチャペルの地下に潜伏していた伊山だった。

「私が貴方の夢に現れた。どういう意味か、お分かりですね」
「はい。この身に死が近づいている。そして――」

 恩はある。
 感謝はしている。
 尊敬の念すらある。
 その冷静さに焦がれ、”僕”から”私”へと、一人称を真似て変えることさえした。

 だが、それでも、メトディオスはこの道を譲れない。

「――福院・メトディオスは、近々、伊山 洋一郎と出会う可能性がある」
「結構」

 伊山は問診をするように、淡々と口にする。

「私の本体は、カードの候補者である貴方を殺そうとするでしょう。が、彼の「人間を救いたい」という意志の具象である”私”は、やはり貴方が生存する方法を処方する」

 その、無機質にも思える言葉と、奥にある熱情に憧れた。
 自分を顧みない、時に己を投げうってでも専心する危うさに尊さを見た。

「私の本体にお会いなさい。彼から治療を受けるためでなく。彼の”攻撃”を止めるために」
「自分を殺すよう助言するなんて、伊山先生らしいですね」
「さて、どうでしょう。貴方を誘いこんで罠にかけるペテンかもしれませんよ」

 ああ、そうだろう。
 伊山 洋一郎には直接戦闘能力がない。だが、それは彼を侮る理由にはならない。
 彼は、より多くの人間を救うためならば、あらゆる手段をためらわない。

 当然『宣告【ガイダンス】』を計算に入れた上で、戦術を組むはずだ。

 たとえば、迎撃作戦の立案を信頼できる参謀に任せ、自分の無意識――魔人能力『宣告【ガイダンス】』から漏洩することを避けるとか。

 夢で『宣告【ガイダンス】』が告げる通り、メトディオスが伊山を探す前提で、罠を張り巡らせた拠点に閉じこもるだとか。

 それを、メトディオスは攻略せねばならない。

「それでは、また、次の診察に」
「ええ、それでは、また」

 残る候補者はあと僅か。
 これが最後の戦いとなるだろう。

 そこに立ちはだかるのが、かつて自らを救った医者だとは。
 メトディオスは自嘲する。

 愚者の旅路は、ここに愚かしさの頂点をも、極めようとしていた。



3.大見解

我道 蘭――『戦車』正位置

「ここに、私の本体がいます」

 新宿区立図書館、入口前。
 霊体めいて揺らめく伊山 洋一郎の幻影を無視し、我道 蘭は、押し寄せるクマのぬいぐるみの波をかき分ける。愛らしいがこれは明確な「攻撃」だ。

「建物に入るのです。彼らは”私の本体”を巻き込めません」
「なあ、アンタ」

 軸となる足首、膝、腰が回転する。回旋する。
 人体には許されない可動域で我道の関節が回り、砲撃めいた蹴りを連発する。

「お節介って言われねえか!?」

 都合三度。海の大波めいてクマのぬいぐるみが宙を舞った。

 魔人能力『大見解』。

 関節の可動域を無視して回転させる、我道 蘭の異能である。
 鍛え抜かれた身体能力と柔軟性にこの能力が合わさることで、白兵戦闘において彼女は最強の名に恥じぬ力量を誇る。

『戦場で独り言たぁ余裕だな、ルーキー』
「悪いね。頭ン中に直接話しかけてくる邪魔モノがいてね」

 クマの波濤から銃弾が放たれた。
 ぬいぐるみの柔らかさによる消音と、視界を阻害するかく乱。
 そこから繰り出される、二挺拳銃術。厄介な戦技だった。

 我道は上半身を回転させ、眉間を狙った銃弾を「頭の回転によって」滑らせ、逸らす。ボクシングのスリッピングをより高度に行った回転防御だ。
 銃声が聞こえる限りにおいて、彼女に弾は通らない。
 だが、並の魔人なら仕留められていただろう。

 伊山を追い、『宣告【ガイダンス】』に導かれた我道。
 それを迎撃した魔人傭兵集団『黒蟻』は、間違いなく手練れだった。

 先日戦った、黒埼・茜のような真正面の強さではない。
 自分の弱さと限界を知り、その上で、格上を自分の型に嵌めて殺す、老獪な強さだ。

 カードを持たぬ彼らが我道を狙うのは、スカイツリーで彼らの同胞、遊葉 天虎を(間接的に)殺したからだろう。
 敵討ち。明快な闘争の理由だ。

「馬鹿ですか貴女は。カードを集めることが目的でしょう」

 幻の伊山の言葉を、我道は笑い飛ばす。

「こんなキマった闘争! 背ェ向けるなんざ、できるかよ!」

 ――魔人能力『儲かる桶屋(オーキードーキー)

 我道の目に、まつ毛が入り込む。わずかに奪われる集中力と視界。
 弱能力。だが死闘の最中ならば、天秤を揺らすに十分。

 クマの群れの中から、老兵が姿を現した。
 甘い。多少視界がぼやけようが、人一人を見逃す我道ではない。

 その人影に拳を叩き込もうと肉薄してようやく、ぼやけた我道の目は、老兵が微動だにしていないことに気付いた。まるで、精巧な人形のよう――否、人形そのものだ。

 ――魔人能力『蝋人形館へようこそ(スタンド・バイ・ミー)

 囮。であれば、本命は。
 腰を180度回転させ、後方からの不意打ちを避けようとした我道に、

 蝋人形の背後から、手が伸びた。

 ――魔人能力『見ざる聞かざる匂わざる(モンキーマジック)
 ――魔人能力『1/3の深刻な病状(ペインシェア)

 攻撃ではない。触れただけ。一切ダメージはない。

 そのはずなのに。

 我道の視界が、聴覚が、靄がかかったように減衰した。
 銃声が、聞こえない。

 辛うじて反応できたのは、皮膚感覚から伝わる弾丸が空気を裂く感触からだ。
 回転防御が遅れ、我道の瞼から血がしぶいた。
 眼球の損傷は不明。しばらく、片目は使えまい。

『”猿顔の”コングの『見ざる聞かざる匂わざる』は、自分の視覚、聴覚、嗅覚を封じる引きこもりの異能。その不調を、ドクターの『1/3の深刻な病状』が、1/3だけ、おまえさんに分与した』

 無数のクマのぬいぐるみが組体操めいて壁を作り、その死角から次々と『黒蟻』の老兵が、弱能力を組み合わせ攪乱する。一対一でなら一蹴できる弱兵――蟻ほどの力しかない老人たちが、次々と我道に喰らいつく。

 遭遇戦の戦い方ではない。明らかに『黒蟻』は、我道の能力、戦法について十分な情報を得て、対策を練ってきている。優秀な情報屋、参謀の類が背後にいるのだろう。

『俺らが蟻なら、我道 蘭、おまえさんは象だろう。が、蟻の群れは、象の耳から、鼻から入り込み、中から臓腑を喰らいつくす』

 我道は笑った。
 茜にはない老練なやり口だ。
 出し惜しみせず自分のペースに持ち込み、相手の弱気を誘って押し切る。
 それは、「この勢いを持続できない」ことの裏返しでもある。

 心が踊る。極上の闘争だ。
 スカイツリーの乱戦とも、茜との一騎打ちとも違う。
 無数の人間が、我道一人を狙って、様々な能力を駆使して襲い来る。

 もう何人倒したか。どれだけ傷をつけられたか。
 味わいたい。味わい足りない。

 だから――(私に従って、闘争の継続を)

 思考に、異物。我道は残った片目で、2/3に減衰した目を凝らした。
 隣のビルの屋上。黒のトゥニカを着た女が、こちらを輝く瞳で見下ろしている。

 我道の中で怒りが爆ぜる(さあ、正義のための闘争を)。

 余所見をした我道を、老兵の銃弾が襲う。
 全身を回転させた我道はその銃弾を歯で受けると、回転の勢いを加え、弾の軌道をトゥニカ女へと捻じ曲げた。

 鉛玉は、女の右の目を潰すが(マリア様を蘇らせる、聖戦を)思考浸食(まず老兵たちは捨ておき、福院・メトディオスを殺すのです。しかる後自決し、我ら『薔薇館』の礎と)が強くなる。

 なんて無粋。
 こんな昂る闘争を、洗脳で阻害しようというその精神が、我道には許せない。
 老兵たちの攻撃を捌きながらも、我道は精神浸食に抵抗し――

 ふつり。

 精神の拮抗は、片割れの首が落ちることで、決着を見た。

 ビルの上から、トゥニカ女の頭が落下する。
 女の背後には、眼鏡越しに我道を冷ややかに見下ろす、青年がいた。
 体内のカードが反応する。

 福院・メトディオス。
 伊山 洋一郎、我道 蘭と共に、この愚者の旅路を生き延びた、候補者だ。

 ビルの壁面を伝い降り、メトディオスは我道に呼びかける。

「我道さん、同盟を提案します! この襲撃は、伊山 洋一郎の策だ! 彼を殺せば、刺客は私たちを殺す理由がなくなる! だから――」

 老兵の攻撃が止まる。
 新たな闖入者の出方を伺っているのだろう。

 その隙に、我道は煙草に火をつけ、煙で肺を満たす。

 伊山 洋一郎の幻影が提案に乗るように勧めてくる。
 カードを全て集めることを考えるならば、老兵たちとの戦いで消耗するのは下策、彼らを無視し、メトディオスと共に伊山を倒し、刺客の動機を失わせ、邪魔なく二人で戦うのが最善ではあるのだろう。

 だが。

「答えは、NOだ」

 無理を通すこと。
 限界を越えること。
 それが、我道 蘭の走る己が道。正しいと信じる、『大見解』である。

 我道は、人体には無限の可能性があると思っている。
 限界は越えられるものと思っている。
 だから、関節の可動域というわかりやすい「限界」を超える異能が身に宿ったのだろう。

「このジジイらは、命を賭けて闘争を挑んできた。なら、応えないと」

 一瞬の逡巡。

 メトディオスは、図書館へと飛び込んだ。
 追うように、何人かの影が彼に続く。
 彼にもまた、刺客が迫っているということらしい。

『光栄だが、賢い選択とは言えないな』
「馬鹿とはよく言われるよ」
『口ぶりまで、茜ちゃんの若い頃そっくりだ』
「光栄だね」

 かくて、我道 蘭は、闘争を継続する。
 それは、伊山の策によって引き起こされたものではあるが、スカイツリーとショッピングモールという、我道の道行にまつわる因縁を清算する戦いでもあった。



4.診る者/観る者

伊山 洋一郎――『死神』正位置

「福院・メトディオスと我道 蘭。あの二人は共闘しない。保証しますよ」

 新宿区立図書館閉架書庫。
 多くの魔人勢力が拮抗する新宿で、中立機関が保有しなければならない”書物”を格納する封印庫の中で、伊山 洋一郎は、参謀役の男と向き合っていた。

「精神に関する診断は私の専門外でね。エビデンスは?」
「探偵の勘」
「インフォームドコンセントの軽視は感心しませんね」
「簡単なことですよ、伊山先生。同盟とは、利害の一致による妥協の産物です。福院君の望みはカードによってしか叶わない。その手段として闘争をする。しかし、我道は、闘争こそが望みである。よって、二人が手を組むことはありえない」

 私立探偵、帆村 紗六。
 この男には、「死」に対する鋭敏な嗅覚がある。
 その特性から、彼と伊山とは、たびたび因縁があった。腐れ縁と言ってもよい。

 今回の戦いにおいては、帆村からの提案で、蘇生リストの一枠を報酬として参謀役を任せていた。底は知れないが、その判断力、情報分析力は一流だ。

 蘇生リスト枠を餌としたweb上の刺客募集も、帆村と、彼の伝手の情報屋の働きがなけれは、ここまで上手くは回らなかっただろう。

「不合理な話ですね」
「全くだ。が、不合理というならば、伊山先生、貴方も大抵ではありませんか?」
「私は合理の徒ですよ。医師が不合理を認めたら、救える命も救えなくなる」
「貴方の願いの根幹は、よりよき人間の生存だ。その基準は貴方の主観である。ならば選別者である貴方は生きながらえた方がよい。そう考えるのが自然だ。なのに、貴方は自身が助かる願いをカードに求めない。リストに貴方の名はなかった。僕には、それが不合理に思える。あるいは――何か、伏せられたルールがあるように思えるのです」

 射抜くような視線に、伊山は目を逸らす。
 見透かすような眼光に耐えかねたのだ。

「それは――貴方が患っている星間飛行症候群(コールドスリープシンドローム)、あるいは――三楢 茉白を通じて、”教会”が行おうとしていた、世界Tバック計画に関係する、貴方の出自に起因しているのではありませんか?」
「その推理をすることで、あなたに何かメリットが?」
「謎は解体したくなるのですよ。職業病のようなものです」

 くつくつと喉を鳴らして、探偵は笑った。
 この男は、伊山の忌まわしい出自を看破しているのだ。
 真実を知るのは、悪友、西行だけにしておきたかったが、仕方ない。

「探偵も、守秘義務を重んじる職業だと期待していますよ」
「無論です」

 遠く、分厚い封印隔壁の向こう側から振動が響く。
 図書室に侵入し、忍派四十九流の中忍と交戦しているメトディオス。
 建物の入口前で『黒蟻』と戦っている我道。
 いずれも、派手な戦いを繰り広げているようだ。

 図書館の利用客は全て人払い済み。
 この戦いで死ぬのは、自ら望んで闘う愚者のみだ。

 伊山 洋一郎は医者である。
 故に、人間を救う。

 伊山 洋一郎はよき人間を愛する者である。
 故に、愚者と、人間でないものに対しては、その薬匙を投げ捨てる。

「私は『黒蟻』に加勢します。間接的にですが、我道嬢は、助手の仇ですので」

 大仰に一礼して、探偵は伊山に背を向け、そして思い出したように振り返った。

「ああ。貴方と相対するであろう、福院君ですが。彼の精神の隙を突こうとするのならば、彼の心の矛盾にご留意を。貴方に言うべきことではないかもしれませんが」

 たとえ戦況がどのように転がろうとも、これが、死にまつわる謎を観続けた探偵と、死の選別を診続けた医者の、最後の会話となるだろう。


 終わりまで相容れぬ相手だと、伊山は思った。



5.汝、人たるや

福院・メトディオス――『法王』正位置

(損傷、右肩、打傷、乙。保持)
(損傷、右手薬指、斬傷、甲。欠落)
(損傷、左肩甲骨下部、斬傷、丙。処置済)

 負傷を復唱し、メトディオスは走る。
 不明は恐怖を生み、恐怖は絶望を呼ぶ。
 故に、理解し、分析し、まだ動けると己に言い聞かせる。

 この苦境で自らを支えるのが信仰ではなく、忍者としての精神制御術であることに、メトディオスは皮肉を感じていた。

 伊山による情報戦に呼応した刺客たちは、いずれも強力だった。
 忍派四十九衆、中忍。
 一日前の書き込みに対応できる者だけで、メトディオスを半死半生にするに十分。

 これがこの国の暗部の要、忍派四十九衆の本気。
 単に抜け忍を見せしめに殺すという理由でなく、「死者の蘇生」という奇跡を目的とするのなら、これだけの戦力が投入できるのだ。

 急がねばならない。時間をかければ、甲級忍務を切り上げ、上忍らが動く。
 そうなれば、カードの争奪戦どころではない。

 把握している限り、伊山本人に戦闘能力はない。
 ならば、辿り着けさえすれば、勝てる。
 勝てばカードの力により、この負傷は快癒する。

 仕掛けられた罠を掻い潜り、解除し、破壊してメトディオスは進む。
 その果て、新宿区立中央図書館閉書庫の中に、

「お久しぶりですね、福院 夜羽さん」

 伊山 洋一郎は君臨していた。


 ―   ―   ―


「少し、痩せましたか」

 幻の伊山と、現実の伊山が重なる。
 メトディオスは、呼吸を落ち着け、周囲を確認した。
 ワイヤーが三本、暗がりに溶け込むような黒の撒き菱、他トラップの類が幾つか。

 伏兵の他、時間をかければ、援軍もありうる。

 罠を回避しつつ、迅速に伊山を殺害する。
 義手に仕込まれた苦無を射出、まずは遠距離攻撃の備えを確認――

「妹さんを、蘇らせましょう」

 メトディオスの動きが止まる。
 その言葉は、青年にとって決して無視しえない意味を持っていた。

「『宣言【ガイダンス】』の内容は把握しています。貴方は、妹が死に、罪を重ねた自分が生きてしまったことを悔やんでいる。罰されるべきだとすら思っている。だから、奇跡を求め、妹さんを蘇らせようとしている」

 伊山の言葉は、目の前の青年の過去を解体し、客観視する、診断だった。

「私の願いは、生きるべきものを活かし、死ぬべきものを殺すこと。それは、貴方の目的と矛盾しない」

 伊山は語る。自分がカードを集めた暁には、この戦いで死んだ命と同じ数、「この世界に生きる価値ある生者のリスト」から、死者を蘇らせることを望むと。

「ここで貴方が自決すれば、その命によって生じた枠で、貴方の妹を蘇生する。貴方が罰の清算を望むのなら。悪い選択ではないはずです」

 伊山の言葉は、甘い誘惑だった。
 己の命で、罪を贖う。
 秋葉原で、多くの人々を、愛する街を救った、小山内 姫のあり方を思い出す。

「貴方が己に決着をつけることで、妹さんだけではない、より多くの生きるべき命が蘇るのです。貴方の願いは少数しか救わないが、私の願いは多を救う。そのための聖なる生贄。苦しみ抜いた貴方に、医者として処方できるターミナルケアです」

 メトディオスは逡巡する。
 姫代の悲劇を始め、このカードを巡る戦いで、多くの犠牲が出た。
 それに報いる救いをと願う伊山。
 ただ、己の罪を悔い、やり直しを願う自分。

 どちらが、叶えられるべき願望なのかと。

 伊山は本気だ。
 メトディオスが自死すれば、当然に妹を蘇らせるだろう。
 かつて、己の左腕に施術を行った際の、伊山の言葉を反芻する。

(私は、人間を愛している。個だけでなく。種としての人間をも。そして、種としての人間が健康であることをも願うのです)

 それは、人類種を高みから俯瞰するような、傲慢だが、強い愛だった。

 伊山が勝利すれば、この戦いの犠牲を無駄にせずにすむ。
 それを、世界をよりよき命で満たすための福音にできる。

 この場における正義は、メトディオスには存在しない。

 それを理解して、なお。
 メトディオスは、苦無を放った。

「残念です」

 伊山の姿が、命中点を中心にゆらぎ、霧散する。
 魔人能力。伊山のものではない。伏兵。『黒蟻』か、忍派四十九衆か。

 距離を詰める。
 一本目のワイヤを切らずに踏み超える。
 無反応。ブービートラップ。気付かず足をかけたら起動する罠。

 二本目のワイヤを切らずに踏み超える。
 先の床を踏んだ瞬間、足に伝わる違和感。
 天井から射出される弾丸。
 禁書庫自体のセキュリティだ。
 それを敢えて踏ませるためにワイヤで注意を引く心理的トラップ。

 身を捻り、靴を脱ぎ捨てメトディオスは走る。

 魔人能力『ヤコブの御手』発動。

 自分の肉体が触れたことで発生する物理エネルギーが影響する面積を制御する、メトディオスの異能。これにより、圧感センサーがトリガーの罠を無効化する。

 伊山の『宣告【ガイダンス】』は、運命という予定調和的な力を原動力にした能力。
 「患者となる人間」は例外なくこれから命が危険な状態に晒される運命にあり、放置すれば近い将来、確実に死に至る。
 反面、治療を施せば患者は助かる。死因を特定して回避することも可能だ。

 しかし、事ここに至り、愚者は医師の治療を拒絶した。
 ならば、運命は容赦なく、患者に死の定めを執行する。

 両脇から刺客がメトディオスへと飛び掛かる。
 義手から鎖分銅を解放し、一閃。
 左の刺客の腕を絡め、右の伏兵へ叩きつける。

 伊山に戦う力はない。
 だが、そもそも戦う必要すらない。

 本体が見える頃には、すでに患者自身は「瀕死」の状態に陥っている。
 それを、彼は看取るだけでよいのだから。

「貴方の死因は、自責だ。目的を為すために生きねばならぬと思いながら、常に、自分は生きるべきではなかったと悔い続けている」

 まるでアクセルとブレーキを同時に踏み続けた歪な運転。
 故に、一瞬の生死を分ける判断で、遅れを取る。

 正確な診断だと、メトディオスは思う。

 手裏剣による刺殺。
 発破による爆殺。
 閉架に封じられた魔術書による呪殺。
 伏兵による謀殺。
 死神の【宣告】――治療を拒絶した愚者に、死の運命が次々と襲い掛かる。

 自らの罪に対する自問自答と、命を賭けた極限の判断。
 思考の速度が足りない。覚悟がたりない。判断が遅い。

 負傷が増えていく。
 致命傷を避ける、その精度が下がっていく。

 そもそも、メトディオスには、生きる理由がない。
 妹が蘇るのならば。ここで負けたとしても、失うものは――

『貴方は生きなさい。そして、主の教えを、絶やさないで』

 ――あった。

 四百年前の先達から託された言葉。
 唇の動きだけで伝えられた、呪いにも似た祈り。

 福院・メトディオスは罪人である。
 だが。ここで死んでしまっては、あの、逢合 明日多との約束を守れない。

 そんな自分勝手な理屈が、ほんのわずか、メトディオスを縛る自責の鎖を、緩める。

 五歩。

 天井より飛来する毒矢を肩口で受け止めて臓器を庇い。

 三歩。

 突如発生した氷壁を、錐状に制御した衝撃の拳打で穿ち。

 一歩。

 その向こうに佇む、伊山 洋一郎に肉薄する。

「――なるほど。貴方が私の『死神』でしたか」

 伊山は幻視する。
 自分を見下ろす自分自身を。
 肩を竦め、呆れるように、スプーンを投げ捨てる様を。

 医者が、匙を投げたのだ。
 ならば、伊山 洋一郎の運命は、ここに定まった。


 ―   ―   ―


星間飛行症候群(コールドスリープシンドローム)の原因解明? 伊山お前クソよくやった! 学会が大騒ぎだぞ!」
「いや。学会には発表しない。西行、パトロンのお前には伝えるが、他言無用だ」

 唐突な生体活動休眠を発生させる、星間飛行症候群。

 それは、「実際に星間飛行を行う生命体」――宇宙人の遺伝子を持つ人間が、先祖返りで種としての能力を制御できずに発症する、自己能力制御不全である。

 惑星間連合国家。
 外宇宙の星間移動生命体が、この数百年ほどの間、地球の生命体を探るべく、斥候を送り込んでいることは周知の事実だ。
 その中には、人と交配し、子孫を残し、遺伝子を人類種に混入させたものもいた。
 そうした末裔に、この星間飛行症候群は発症する。

 純潔の宇宙人であれば、この休眠は意図的に制御でき、また、身体が消耗することもない。超長距離の宇宙飛行に有用な機能だった。

 しかし、人類との混血により、身体能力が脆弱な人間並となったこと、休眠が意識的にコントロールできなくなったことで、その機能は不治の病となったのだ。

「ちょっとまて。それじゃあ、症候群の罹患者……お前と、あと、『聖体拝領計画』でベースとなった聖人、三楢 茉白ちゃんは……」
人間ではない(・・・・・・)。宇宙種混血者だ」

「教会は、彼女の宇宙人としての能力――反物質生成能力を賦活し、多くの人間を反物質の隔離袋で捕えて惑星間連合国家への手土産として搬出、来たるべき侵略で、自分たちだけが救われようとしていた。箱舟のノア気取りの愚行。それが世界搬出袋計画(ワールドトランスバックプロジェクト)。私たちが実験を妨害し、潰した陰謀の真相さ」


 ―   ―


 伊山 洋一郎は医者である。
 故に、人間を救う。

 伊山 洋一郎はよき人間を愛する者である。
 故に、愚者と、人間でないものに対しては、その薬匙を投げ捨てる。

 伊山 洋一郎は、人間ではない(・・・・・・)
 故に、伊山 洋一郎の救いの手は、自分の身には伸びはしない。

 それが、彼が己の生存をカードに願わない理由だった。

「……貴方は、この戦いで、無関係な市民を殺しましたか?」
「いいえ」

 伊山は少しだけ安堵した。
 ならば、伊山 洋一郎のルールに、瑕疵はない。

 人間以外の死者、1名(しにいたるのはじぶんだけ)

 伊山は、眠るように瞳を閉じた。
 メトディオスはその無防備な首を、義手の一振りで刎ねた。



6.ラン・マイロード

我道 蘭――『戦車』正位置

「なんだ。あんた、自分が人間じゃないって、気にしてたのか」

 本体の死により消えゆく『宣告【ガイダンス】』の伊山に、我道は笑いかけた。

「ラナン・C・グロキシニアも、あんたも、自分の目的に殉じて、戦ったんだろう。なら、人間だ。人との間で闘争するのは、人間だけだ」

 その言葉に、どんな答えを返したのか。
 伊山 洋一郎が異能によって生み出した虚像は、我道の吐く紫煙に紛れて霧散した。

 そう。紫煙。一服。一区切りである。
 我道 蘭は、戦いを終えていた。

 その光景は、まさしくこの世に顕現した地獄の類。
 首を折られ、胴に穴が空き、頭蓋を粉砕された戦士(ぐしゃ)達のなれの果てが折り重なる。

 途中から、『黒蟻』以外にも、任侠者たちや、狂信者めいた女たちが襲い掛かってきた。

 歳の離れた盟友との再開を望んだ仲介人の男も。
 次世代の女王を復活させようとした黒蟻の群れも。
 圧倒的な暴力の前に、皆等しく死んだ。

 いい闘争だった。
 譲れないものがあり。死力を尽くし。そして、命を燃やした。

 特に、最後の攻防が格別だった。

 魔人能力者でも戦士でも何でもない男の銃撃。
 それが、情報の蓄積と、行動の推理、そして、気が遠くなるような、無数の弱能力による布石の果てに、我道の命にすら届きうる一射となったのだ。

 しかし、全てを味わい尽くし、我道は勝利した。
 被害は少なくない。片目は未だ使えず、裂かれた腱は、能力を駆使せねば動くこともままならない。それでも、我道は満ち足りていた。

 ――大アルカナ#8、『戦車』。

 活力と突破、闘争を司るカードに相応の精神性であった。

「マシな顔になったじゃないか」

 女の視線の先には、一人の信仰者。
 タロットカードは、引かれ合い、持ち主を巡り合わせる。
 即ち、この戦いを避ける術は、元より無かったということだ。

 血濡れの大鬼、我道 蘭は立ち上がる。

「残りは二人。勝てば総取りだ。分かりやすくていい」

 福院・メトディオスは無言でそれに応え、右の拳を突き出し構えをとる。
 辻一務流、水月の業。
 皮膚感覚を拡張し、大気までも身の内として感じるほどの集中。統一。
 反応速度に特化した迎撃の型である。

 痛覚がノイズとなるため、手負いでは使えぬ技だ。
 伊山から奪った『死神』ら6枚のカードの力によって、メトディオスの負傷は快癒している。乱戦の中では成立しにくいこの切り札が、今ならば十全に行使できる。

 我道は真正面から、メトディオスに向かって突撃をかける。
 戦艦の主砲の如き拳撃。
 まともに受ければ即死は免れまい。

 おまけにその拳撃は、猛烈な回転を帯びている。
 コークスクリューなどというレベルではない。
 人体の関節に許されぬ可動域で高速回転するドリルめいた突きだ。

 直撃せずとも触れれば巻き込まれ骨から粉砕されるに違いない。
 故に、

 ――魔人能力『ヤコブの御手』

 メトディオスは、自らの皮膚のほんの一重外側にエネルギーを展開し、触れずに拳を受け流す。

 左手首の義手から伸ばした鎖分銅を我道の腕に絡みつかせる。
 回転に巻き取られ、鎖は何重にも我道の右腕を封じた。

 そのまま鎖の一点を踏みつけ、梃子の要領で我道の体幹を崩す。
 流れるように背後を取り、肩口に手刀。
 研ぎすましたエネルギーの刃でもって、必殺の右腕を断ち斬る――

 ――ぐるんっ!!

 が、皮膚一枚を裂いたところで、我道の肩が奇妙な方向に回転、銘刀にも等しいメトディオスの一閃を弾いた。

「手刀をホンモノの刀にする能力か」

 力任せに鎖を振り解き、肩をほぐすように720度回転させて、我道は笑った。
 彼女の魔人能力『大見解』は、全身の関節を自在に回転させる能力。
 事前に調べて理解していたが、相対すると攻防自在の相当に厄介な能力だ。

 あらゆる格闘技は、人体の可動域を前提にして攻防の型が組まれている。
 だが、我道の能力はそれを無視し、常に最適の形に身体を変容できる。
 それは、関節の回転方向という制約こそあれ、意志のある水を相手にしているに近い。

 打撃、刺突は相手のバイタルパートに垂直のベクトルに叩き込まねば効果が激減する。
 我道は関節を自在に回転することでいくらでも攻撃の打点、ベクトルを逸らせる。

 九頭竜や黒埼・茜、完成体七不思議がが当然のように彼女に打撃を通していたのは、まさに達人技、あるいは卓越した膂力によるものだったのだ。

 メトディオスが切り札としている斬撃もまた同様だ。
 斬撃とは「刃筋を斬るべきものに垂直に立て」「押すまたは引く」ことで成立する。
 しかし、今の通り、関節回転で刃筋を滑らされれば、やはり無効化されてしまう。

 今の攻防を見る限り、メトディオスが手刀の角度を動かすよりも、我道が関節の回転軸を傾け、回転させて刃筋を逸らす方がわずかに速い。

「いよっと――こんな感じか!」

 瞬間、我道の体が「変形した」。
 人体に存在する約300の関節を最適化し回転、人の枠を越えた挙動を可能にする。

 大上段から「刃」が――自らを刃物に見立てて繰り出された踵落としが、降る。
 メトディオスは全力で頭上で分銅を振り回し、そのエネルギーを拡張、盾としてその斬撃を受けた。

 重い。ひたすらに重い。
 石畳に引き裂いたような跡が深く刻まれる。
 身を逸らさねば、右半身から袈裟に両断されていた。

「やっぱり、そっちほどの切れ味は出ないね」

 屈託なく我道は笑った。
 この命賭けの戦いの中で、この女は、今という瞬間を確かに楽しんでいた。

 これが最強。これが、我道 蘭。
 戦うことに微塵の逡巡もない。

「私はさ、全力を注いであんたを倒そうとしている。あんたのことしか考えてない」

 我道は唐突に問うた。

「あんたは、どうだ? 私を見てるか? 闘争なんて嫌か? 嫌々、この戦いをしてるのか?」

 福院・メトディオスは歪んだ信仰者である。
 望まぬ忍びの――殺しの技を、愚かな望みのために、やむを得ず振るうものである。
 だから、その答えは決まっている。

『貴方は生きなさい。そして、主の教えを、絶やさないで――』

「楽しめるはずなんて、ありません」
「……そうか」

 伊山との戦いで死の運命に直面し。
 逢合の言葉を思い出し。
 我道の、馬鹿正直な戦いに触れた。

「そんな余裕がないほどに、全力で、貴方を殺す。生憎、死ねぬ理由ができました」
「……そうか!」

 メトディオスは、我道が刻んだ石畳の裂け目の中に降り立ち、素足で強く地面を踏みしめた。
 一度。二度。三度。
 まるで、尖った杭で穿たれたように、地面が深く貫かれていく。

「――私の魔人能力は、『ヤコブの御手』。自らの体が生み出す運動エネルギーの干渉面積を収縮し、打撃を刺突や斬撃とする。その効果は、手だけでなく、素足でも発揮されます」

 唐突な能力の開示に、我道は虚を突かれたように目を見開く。
 だが、次の瞬間、花が咲くように破顔した。

「おお! おお!! クソ、最高だな!! 私の魔人能力は『大見解』! 全身の関節を、自由自在に回転させる能力だ!!」

 呼吸にして、一つ分。
 仕掛けたのは、我道。
 腰を180度回転させ、バッタめいた逆関節状にして、弾丸のように跳んだ。

 メトディオスはその場から飛びずさると、どこからともなく取り出したライターを我道に投げつけ――

 爆炎が我道を包み込んだ。

 正々堂々の勝負、能力開示と見せかけた先ほどの地面の掘削は、地面のガス管を穿つ目的のカモフラージュ。

 上等だ。それだけ手段を選ばない全力で、目の前の男はこちらを殺しに来ている。
 雑念の混じらない純粋な闘争。それこそが我道の望みだ。

 さあ、どう来る。
 視界を奪い、刃筋が見えない状態での斬撃ならば、こちらの回転による防御を貫けるつもりでいるのか。

 だが。爆発の瞬間、我道は自らの能力によって、爆炎から瞳を正確に守り切った。
 並の魔人であれば不意打ちの炎で視界を奪われたろうが、相手が悪い。

 爆発の煙を裂いて、眼前にメトディオスが現れる。
 火のついたボロボロの上着を裂き脱ぎ捨て、鍛え抜かれた上半身を露わにして、男が掴みかかる。

 手を回し、背後の死角から手刀を繰り出す。なるほど、これならば刃筋は見えない。

 ――相手が我道 蘭でさえなければ。

 180度首を回転させ、我道は、自らの首に向けられた手刀を直視する。
 爆炎が目を焼くのを回避したのも、この首の回転によるものだ。

 この戦いの中で、我道は首の回転だけは、メトディオスに見せてこなかった。
 脳と近い位置という性質からか、他の関節は動かせても、首の限界を越えた回転については、人は意表を突かれるものだ。我道の経験則である。
 だからこそこうして、ここぞという時の奥の手たりうる。

 福院・メトディオスの敗因は、人体の固定観念に囚われたこと。

 我道は全身の関節を駆動して手刀の刃筋を滑らせるように首を回転させ、

 全身を無数の刃に切り裂かれた。


 ―  ―


 斬撃は、「刃筋を斬るべきものに垂直に立て」「押すまたは引く」ことで成立する。
 そして、『ヤコブの御手』は、使用者の肉体が触れたことで発生したエネルギーが対象に作用する「面積」を制御する能力。

 素手だけでなく。素足だけでなく。
 それは、剥き出しになった裸体、上半身のいかなる場所からでも、行使できる。

 体当たりと同時に、胸部腹部の至るところに、様々な角度で刃状にエネルギーを収束させれば、手刀を防ぐための回転軸に垂直に「刃筋が垂直に立つ」ものが必ず発生し、そして、そうであれば我道の回転こそが、刃を「押すまたは引く」動きを生み出す。

 我道が首の回転を切り札としたように、メトディオスもまた、およそ攻撃とは認識しがたい、体当たり、組み付きによる斬撃を奥の手とした。これはそんな裏の読み合いの果て。

 我道 蘭は、自らの回転によって、己の身を引き裂いたのだ。

「ああ。悪くない闘争だった」

 全身に深い致命の裂傷を刻み、それでも我道は笑顔だった。

 もしも、片目が潰されていなければ、最後の刃の抱擁を見切れたかもしれない。
 老兵たちとの戦闘で消耗していなければ、斬撃に反応して即座にメトディオスを振り解けていたかもしれない。

 けれど、そんなことをね彼女は悔やまない。
 我道 蘭は満ち足りていた。

「さて……地獄(あっち)の婆さんとは、どう闘うか……なぁ……」

 一勝一敗のその先。死後もなお次の戦いを望み、喧嘩屋、我道 蘭は絶命した。


 ―


 メトディオスは、光となって我道が消えるのを見届けると、その場に倒れ込み、天を仰ぐ。

 伊山を前に、死の運命に直面した。
 逢合からの、言葉を思い出した。
 我道の、純粋な闘気に相対した。

 その中で、メトディオスはようやく、自らが生に執着していることに気がついた。
 妹殺しの罪によって、信仰と倫理によって、これまで目を背けてきた想いだった。
 だが、気付いてしまった以上、認めなければならない。 

 この忌むべき忍びの技が、今まで自分を生かしたのだ。
 この、あの日、育ての親から、師から奪った忍び義手が、自分を助けてきたのだ。

 兄妹の運命を歪めた憎い女。”隻枝”の紅葉。
 師。育ての母。

 憎しみと愛は併存する。メトディオスはそれを、認められなかった。
 妹を殺した愚の責任を転嫁する相手として、父母の仇であり、自分に殺しの技を刻んだ女を、諸悪の根源とすることでしか、精神の均衡を保てなかったのだ。

 憎しみはある。それは真実だ。
 だが、この戦いで、彼女の教えに、技に生かされた。

 この旅路の果てに男が理解した一つの事実。

累花(キュリロス)――僕は――」




7.旅路の果て

福院・メトディオス――『世界』正位置

 全てのカードが収束し、一つのカードが新たに顕現する。

 ――大アルカナ#21、『世界』。

 ここに、アルカナは終結し。
 集めた者の願いが成就する。

 福院・メトディオスの願いは、『過去に戻り、正しい選択をすること』。

 だが。
 正しい選択とは、何であるのか。

 戻るべき過去は明快だ。
 夜道を、妹の手を引いて走ったあの日。

 自らの運命が分岐した、燃える森の夜だ。

 だが、あの日、何が正しい選択であったのか。
 妹を叱咤し、教会まで向かえば、二人は信仰に生きることができた。
 だが、そうなれば、福院・メトディオスは、忍びの技を身につけず。
 忍び里を焼かず。妹を殺さず。あらゆる罪は発生せず。

 ――そして、この戦いに参加することもなかった。

 そうなれば。
 あの、英雄として死んだ青年/少女の。
 空の月に溶けた少女の。
 命と引き換えに街を救った女の。
 四百年の果ての殉教者の。
 人間を愛した医者の。
 闘争に燃え尽きた戦士の。

 福院・メトディオスという罪人の旅路の中で看取った幾つもの結末は、なかったことになってしまうのか。

『貴方は生きなさい。そして、主の教えを、絶やさないで――』

 あの言葉は、罪人であるメトディオスにこそ投げかけられたもの。
 過去の改変は、今の、メトディオスを殺すこと。

 それを、自分は、認めることができるのか。

 カードが光を放つ。
 考えている暇はない。『世界』のカードは、ただ静かに、当初の願いを履行する。

 そして、メトディオスは、あの日の夜へと、時を遡った。


 ―


「辻一務流中忍頭、”隻枝”の紅葉殿とお見受けする」

 森を行く女忍者の前に、メトディオスは立った。
 先に夜道を駆ける、幼いころの自分と妹には声をかけずに、見送ったのだ。

 磨き上げられた刀のような女性だと、メトディオスは思った。
 忍びとして腕を上げたからこそ、目の前のくノ一の力量が理解できる。
 まだ若かりし、育ての親にして師匠。
 自らの運命を歪めたと憎みさえした相手だった。

「何者」

 当然の誰何に、メトディオスは努めて平静に答えた。

「名乗れぬ無礼、お許しを。福院 真泰氏の依頼により、お待ちしていました」

 女忍者は、上から下までメトディオスを眺め、

「……そういうこともありますか。要件を聞きましょう」

 忍び義手を構えて問うた。

「真泰氏より、息子娘だけは生かして欲しい。そうすれば、衆への復讐は行わぬ、と」
「周到なことですね。自らの最期に備え、子らを守る手配とは」
「御返事は」

 互いに鏡合わせのような構えで、紅葉とメトディオスは向かい合う。
 およそ呼吸二つほどの沈黙の後、紅葉は構えを解いた。

「いい腕ですね。元より、あの二人は標的ではない。無用な殺生をせぬのも里の法です。連れて才あらば忍びとし、無能ならどこぞの寺に放り込むつもりでした」
「感謝を」

 一礼し、去ろうとするメトディオスに、紅葉は声をかけた。

「して、名も名乗れぬ忍び殿。その義手の持ち主は、納得の上で、それをあなたに託したのですか?」
「……いえ。殺して奪い取りました。私は何度もこれに生かされました」
「そうですか」

 その言葉に、紅葉は微笑んだ。

「忍びが子を里に連れ込むのは、修行の中で生殖機能を失うから。私も例外ではない。だから……自らの遺したものが、若人の糧となったならば。それは、かの義手の主にとっての幸せだと、赤の他人である私が保証しましょう」

 言葉が、出なかった。
 喉が詰まる。呼吸すら忘れてしまいそうな、感情の混乱。
 それを、紅葉は、穏やかに眺めた。

「長い道中だったでしょう。忍務、大儀でした」

 意識が眩む。
 本能で理解する。
 これにて、願いは成就した。

 これこそが、「正しい選択」。
 妹を救いもせず、己の罪を清算もせず、過去と殺人の技を抱え、生きる。
 その汚れた生の肯定を、己は、正しい選択だと、認めたのだ。


 ―


 かくて、福院・メトディオスは、愚者から世界へと至り、そして、願いを叶えた。
 その結果、何も変わらなかったとしても。
 背負った罪も、執行猶予の罰も、全てがそのままであっても。

 それでも、一つの答えは出されたのだ。
 妹を貫いた光景を、育ての親の笑顔を思い出し、メトディオスは嘔吐する。

(損傷、精神、感傷、甲。保持)

 だが、その愚かしさを自らとして、男は受け入れる。

「――amen(かくあれかし)」

 祈りの末尾の定型句である。
 その言葉の意味することは、現状の在り様の肯定。
 罪も。罰も。後悔も。愚かしさも。
 今の己の全てを、受け止める。

 それが、福院・メトディオスが愚行の果てに掴んだ、世界の法であった。




0.ダイヤモンドクロス・スプレッド


 かくて巡礼者は世界を受け入れ、愚者の旅路は終着する。

 仇と信じていた女が、己をどう思っていたのか。
 妹は洗脳されていたのか。それとも、兄には見えない何かを見ていたのか。

 奇跡が起き、若き日のくノ一が自らの義手の行く末と己の死の運命を知ってなお、未来は変わらなかった。そのことで、迷える信仰者が抱えていた謎は明かされました。

 彼は、確かに愛されていた。
 そんな、陳腐で単純な真実。

 だが、いかなる謎であれ、暴かれた時の輝きは美しい。 
 今まで彼を――カードの顛末を追ってきた観察者として、探偵として、その輝きを、この帆村 紗六だけは寿ぐべきでしょう。

 最後のスプレッドは、ダイヤモンドクロス。

 一枚目が、自分の気持ち。
 二枚目が、相手の気持ち。
 三枚目が、二人の現在。
 四枚目が、二人の近い未来。

 これらをそれぞれ暗示する占いです。

 一、『法王』の正位置。
 示すは、慈悲。尊敬。自信。規律の順守。

 二、『戦車』の逆位置。
 示すは、暴走。挫折。焦り。視野狭窄。

 三、『死神』の逆位置。
 示すは、離散。破滅。風前の灯。死の予兆。

 四、『世界』の正位置。
 示すは、成就。完成。完遂。良き終焉。

 福音を、勝者に。
 弔いを、死者に。

 ――愚者の旅路(アルカナジャーニー)、これにて幕引きでございます。
最終更新:2020年12月06日 23:08