プロローグ:主よ人の望みの悲しみよ】

主よ、御許に近づかん
のぼる道は十字架に
ありともなど悲しむべき
主よ、御許に近づかん


 ◆  ◆  ◆


 メトディオスは、わずかに安堵していた。
 自分の左肘から先が、鋭利な鎌によって切断されたことを。

 なぜなら、その手に、その指に、愛する妹の心臓を貫く感触を覚えずに済むのだから。

 誰よりも守りたいと思っていた。
 両親を失ったメトディオスと、妹であるキュリロスにとって、互いだけが、最後の家族だった。
 少なくとも、メトディオスは、そうだと思っていた。

 しかし、キュリロスにとっては、そうでなかった。
 彼女は口にした。里の家族を、裏切るのかと。

 里の家族! あの外道を。両親の仇を。妹は、家族だと言ったのだ。
 自らの手先とするために、暗殺対象の遺児を引き取り、手懐けるのは奴らの常套手段だ。

 確かに、情はあったかもしれない。
 師である女、辻一務流中忍頭、”隻枝”の紅葉は、まるで実子に接するように兄妹を遇した。それは事実だ。
 けれど。アレが、メトディオスらの両親の仇であるという真実に、変わりはない。

 言葉は尽くした。
 けれど、妹を縛る情の鎖は解けなかった。
 かくて妹は福院家の人間であることよりも、辻一務流の忍びであることを選び。
 メトディオスが愛すべき両親の仇への復讐を果たす上で、最大の障壁となった。

 妹は強くなった。
 だからこそ、手加減などしようもなく。
 彼女を止めるため、メトディオスは、心臓を貫く他、手だてを持ち合わせていなかった。

 倒れ伏す妹の体を見下ろして、メトディオスは自問する。

 自分は、何をしているのか。

 神への冒涜たる殺しの技を忌み、それを業とする里を憎み、任と称して両親を殺めた師へ憤り、その果てに、愛すべき妹の命を、忍びの技にて断ち切った。

 ――自分は、選択を、誤った。

 せめて、死ぬべきは、己のはずだった。
 すべての始まりは、あの日だ。
 両親を失い、左の手で妹の手を引き、師と出会った、あの燃える夜の選択だ。

「――主よ。私を――」

 これが、抜け忍、福院・メトディオスの、終わりの始まりであった。


 ◆  ◆  ◆


 男は走る。
 妹が死ぬ、その原因になった仇。
 その居場所を、見出したからだ。

 辻一務流、波の業。
 己が呼吸の波を僅かずつにずらしながら聴覚を研ぎすまし、周囲の生物の呼吸脈動歩法音を聞き分ける対隠術業である。周囲を伺い、足を止める。

 反応は一人。
 話によれば、ここに関係者ともども群れているという話だったが。
 こちらの動きを察知して、一人だけ間抜けが逃げ遅れたというところか。

 扉を無造作に蹴破り、押し入る。
 広い部屋だった。礼拝堂、というのだろう。
 向かいには十字架にオルガン、そして、部屋には整然の椅子が並べられている。

 そして、並んだ椅子の間で、一人の青年が震えていた。
 男の殺意に反応したでもなく、ただ、扉を蹴破った音に反応して腰を抜かしている。

 男は右手を一閃した。
 闇を黒の苦無が裂き、青年の足元に突き刺さる。

「……ぇ? ひひゃぁぁぁぁ!?」

 たっぷり一呼吸ほど後に、青年は自らを掠めた凶器に悲鳴をあげた。
 裸足の足の甲から流れた血に、恐慌状態だ。
 物音に気付いて着の身着のままここまできたのだろう。

 この反応、明らかに素人である。男の目当てとする、仇ではない。

 伝聞でしか風体は聞いていないが、この、人畜無害、つつけば倒れる棒のような男が、辻一務流史上最年少で中忍頭まで昇りつめた妹を殺しえたはずがない。
 男は溜息をついた。

「――夜羽(やわ)、という男を探している」

 今度は素人にもわかるようにこれ見よがしに短刀を月灯りに照らしつつ、男は問うた。
 精神的な揺さぶりで相手を御することもまた、辻一務流の十八番だ。

「俺の妹を殺し、家族を奪った、大悪党だ」

 青年はその言葉が聞こえてなどいないように、ぱくぱくと口を開け閉めしながら、震える手を床のある方向へと伸ばした。

「余計な動きはするな」
「め……めがね……」

 その指の向かう先へ視線をやると、飾り気のないふちなしの丸眼鏡が転がっている。
 よほど目が悪いのだろう。
 男がこれみよがしに掲げた白刃すら、ろくに見えていなかったのかもしれない。

 あまりに情けない姿に、男は同情すら感じて丸眼鏡を足で青年へと寄せてやった。

「そいつを付けたら、知っていることを――」

 のろのろと、青年は眼鏡をつけ――

「――ッ!?」

 その場から、消え去った。

 違う。消えてはいない。
 男は錯覚に流れそうになった解釈を補正する。
 限りなくそれに近い錯覚を覚えるほどの動きがあったのだ。

 中忍として無数の修羅場を潜り抜けてきた経験によって、男はその瞬間に起きたことを辛うじて理解した。

 呼吸の間による覚の緩み。まばたきの瞬間。その二つが重なる、辻一務流で言う”虚白”の刹那に、礼拝堂の椅子が作る死角へと回り込んだのだ。

 いや、それだけだったならば、たとえ目がまばたきで効かずとも、男の耳が、波の業がその動きの起こりを聞き逃すことはないはずだった。
 だが、そのありえないはずのことが起きた。

 音が、全く起きなかったのだ。
 あれだけの速度で床を蹴れば、当然に響くはずの振動が、皆無だったのだ。

 魔人能力? この青年が、里を壊滅させた抜け忍「夜羽(やわ)」なのか?

 だが、男が聞いている、里を壊滅させた抜け忍、夜羽(やわ)の能力は、「手刀を真の刃物の如くして切り裂く」ものだ。

『忍びの精神の精華、心に刃を宿し、己が身を刃とする、修練の果て。
 まさに忍びとして正しく育った自慢の弟子、自慢の養子です』

 ――そんな風に、妹は自慢げに、男への手紙に記していた。

 しかし、そんな逡巡で隙を晒す愚は見せぬからこその、辻一務流中忍。
 男は齢四十以上、この苛烈な稼業を生き抜いてきた手練れである。

 姿は見えぬ。椅子の死角を巡り、目に止まらぬ動きで青年は駆ける。
 音は聞こえぬ。理屈はわからぬが、その踏み込みは響きを伴わぬ。

 ならば、目でなく、耳でなく、その皮膚を研ぎ澄ませ。
 相手が迫るなら、あるいは飛び道具で襲うなら、大気の揺らぎは切り離せぬ。

 無明無音、万全ならぬ無間地獄でなお務の一辻を駆け抜けるが故の、辻一無流である。

 辻一務流、水月の業。
 皮膚を拡張し、大気までも身の内として感じるほどの集中。統一。

 ――看破。

 頭皮が上方の大気の揺らぎを捉え、男は振り下ろされる青年の手刀を白刃で迎え撃った。

 斬。

 男によって切り落とされた青年の手刀、手首から先があらぬ方向へ逸れ、まるで豆腐のように礼拝用の椅子を両断した。
 まさしく真剣、刃の類。心に刃を宿す手とはよく言ったものだ。

「っ……」
「貴様が夜羽(やわ)か。我が子の如く育ててやった妹の情を仇で返しおって」
「うああああああああ!!」

 青年――抜け忍、夜羽(やわ)はがむしゃらに右腕を振り上げて男へと飛び掛かった。
 もう、夜羽(やわ)に残された刃は、その腕一本のみ。
 いかな魔人能力で強化された無双の名刀でも、それにだけ注視できれば恐れるに足らず。

 仮に、両の腕で変幻自在の攻防をしていたならば、万が一もあったろうに。
 男は憐れみ、右の手刀を掻い潜る。足を払って夜羽(やわ)を転倒させた。

 ぐるり、と。
 青年……抜け忍、夜羽(やわ)の体が一回転し――
 がちん。
 男の後頭部を、衝撃が走った。

「……な?」

 視界の中の、夜羽(やわ)は、男から見て直角に倒れている――違う。
 礼拝堂の椅子も。十字架も。床も。全てが、男から見て90度に傾いている。
 倒れたのは、男だ。

 では、なぜ?
 その疑問と同時に、足元を激痛が襲った。
 視線を下に落とす。

 切断されている。
 足が。

 夜羽(やわ)を転倒させようと足払いをしたその部分が、刃で一閃されたように両断されている。

 迂闊。
 心に刃を宿し、その身を真剣とするならば、当然に剥き出しであった裸足も、警戒すべきだったのだ。

 魔人能力とは、その信念で世界を歪めるもの。
 ここまで、忍びのあり方を体現しておきながら、なぜ抜け忍になどなったのか。

 鎖をひきずる音がする。
 斬られたはずの左の手首から、鎖を下げて、抜け忍、夜羽(やわ)が音もなく忍びくる。

 忍び義手。
 なるほど、辻一務流中忍頭、”隻枝”の紅葉。
 弟子もまた、それと同じ忍具を選んでいたということか。

 惜しい。あまりに惜しい。
 抜け忍は、元いた里のみならず、忍派四十九流全てから追われ続ける。
 それが止むのは、いずれかの里に改めて恭順するか、死によってのみ。
 この若き才はいずれ、この国の暗部の圧倒的な数によって引き潰されるだろう。

「福院・夜羽(やわ)。貴様ほどの忍びに敗れるなら、悔いはない」
「……下忍頭、福院・夜羽(やわ)は死にました。ここにいるのは、ただの歪んだ信仰者(メトディオス)です」

 首に巻きつけられる、義手に仕込まれた鎖分銅。

「――主よ」

 男が最期に見たのは、忍びとはおよそかけ離れた、青年の告解の姿だった。

「私を、どうか、御赦しに、ならないでください」


 ◆  ◆  ◆


 福院・夜羽(やわ)。洗礼名、メトディオス。
 敬虔なクリスチャンでありながら、生きるために殺しの技を身につけざるを得なかった青年。

 信仰に裏打ちされた異能を、忍びへの忠誠の発露と偽り。
 親を奪われた復讐心を押し殺し。虚偽を塗り重ねた果てに、全てを失った。

 彼がもっと賢ければ、信仰を捨て、新たな生き方を受け入れたのかもしれない。
 彼がもっと賢ければ、里を出し抜き、自由を手にする道もあったのかもしれない。
 彼がもっと賢ければ、妹と生きる道もあったのかもしれない。

 だが、福院・メトディオスは愚者であった。
 福院・メトディオスは選択を誤った。

 彼は、義母の兄であった亡骸を見下ろす。
 また、ここに自分は選択を誤った。

 この罪は許されようがなく、この愚かしさは正しようもない。
 信仰は自死を許さず、また、妹を犠牲にした悔恨が容易く破滅を選べない。

「――主よ(my God,)」

 メトディオスは、胸に抱くように両の手を組んだ。
 その中に光が収束し、一枚のカードが出現する。

 大アルカナの5番『法王』。
 彷徨する信仰心に呼応するに、あまりに皮肉なカードだった。

「――主よ、御許に近づかん(Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee)」 

 青年は願う。

 両親との別離。妹との逃走。師との出会い。

 二十年前の、あの夜の選択のやり直しを。
 今度こそ、世界に――己が信仰に恥じぬ生き方を。

最終更新:2020年09月27日 12:47