一、
こちらを尾ける足音がする。
だが夜道を振り返ってみても、誰かがいるわけではない。
深夜に一人で出歩く無用心さを後悔しつつ、アスファルトの白線の上を歩く。
最近涼しくなったからといって、夜にコンビニへ行こうと思ったのが悪かったのかもしれない。
不安を一向に拭えないまま、一人暮らしの住処へと近づいてゆく。
「こんばんは」
電柱の陰から男が姿を現したのは、声が聞こえた直後だった。
二、
やあご機嫌よう。まずは掛けてください。何も心配なさることなんてありませんよ。
これはアナタの視ている夢で、ここは私の診察室ですから。さあお掛けになって…さあ。
私ですか?医者ですよ。
といっても、医師免許のない闇医者ですけどね。夢だから不思議ではないでしょう?
そうでしょう。
さて今日はどうされました?
おや、何も思い出せない?
なら、就寝前のことはどうです?これも覚えていない?
そうですか。もしかしたら、今のアナタはただ眠っているわけではないのかもしれませんね。
まあ夢ならそういうこともあるでしょう。
とはいえ、就寝前の記憶が何もないケースは珍しいな。ココアでもどうです?ここは夢ですから、診察室で飲み物を飲んでも誰も咎めやしませんよ。私はチェコレートパフェをいただきます。
要ります?さあどうぞ。
眠りというものは人体にとって必ず必要なものです。寝ている人間というのは常にリラックスしている。だから私はこうして、事前にアナタに危険を知らせるためにアナタの頭の中へやってきたという訳です。
スーツ?ああ、闇医者ですからね。白衣は着ない主義なんです。
ところでタロットカード持ってます?知らない?そう。
話を戻しますけどね、アナタに危険が迫っています。
こんなこと言ったって、荒唐無稽で突飛に思われるかもしれませんけどね。とはいえ事実です。
良いですか。
アナタは今、夢を見ている。出来ればこの夢を覚えていてください。
そして、目が覚めたら今から言うことを必ず実行してください。
まず連絡先を確保する。そして出来るだけ病院の近くに移動して、いつでも助けを呼べるようにするんです。
それだけでも、少しは運命を回避出来る可能性が上がります。とても大事なことです。
それが無理な状況なら、私を探してください。
今、こうして夢の中で会えていると言うことは、現実の私はアナタに会える範囲内にいるということでしょうから。
私に直接会うのはかなりリスクの高い行為ですが、それでも助かる確率は上がります。
そうそう、私の名前は伊山洋一郎。
大事なことだから、これも覚えておいて下さいね。
三、
免許取得から6ヶ月が過ぎた浜鍋六郎にとって、車の運転は決して難しいことではなかった。
今まで事故は一度も起こしたことがない。
その日は外国人講師のガッリ氏をホテルまで迎えに行く用事があった。
世界的指揮者でもあるガッリ氏は、ご好意で指導のために日本へ戻ってきてくれた。病気の蔓延で渡航が難しくなっている中、一端の音大生である六郎は頭の下がる思いだった。
空は快晴で、運転には申し分ない天気だ。
まだ日中は気温が夏日を超えることもあるが、エアコンがあるので問題はなかった。
ホテルまで迎えに行くと、既にスーツ姿のガッリ氏がトランクを持ってこちらを待っていた。
「ロクロー!遅いじゃないか」
「すみませんシニョール、道が途中で混んでいて」
六郎は久しぶりに恩師と挨拶を交わす。
最後に会ったのは、今年の2月。六郎がヨーロッパへ旅行に行ったときのことだ。
ガッリ氏は日本語にも堪能である。ただ、彼のことを「シニョール」と敬称を付けて呼ばなければ途端に不機嫌になる。そんなやや尊大なところを除けば、気さくで物静かな知識人だった。
「待ちくたびれたよ!さあ早く目的地へ行こう」
「トランクを持ちますよ」
二人は荷物を車のトランクに運び入れると、目的地へ向けて移動を開始した。
行き先はガッリ氏の私邸だ。以前日本に滞在していた際に住んでいた家である。
「いやあ、我が家に帰るのにこんなに時間がかかるとは、大変なことになったものだ!」
「仕方ないですよ。今は世界中で例の病気が流行してますから。それにしても、春先にヨーロッパに帰省されたタイミングで飛行機が飛ばなくなるなんて、災難でしたね」
「ああ、まったくだ!最近は日本に住んでる時間の方が長いというのに。おかげで半年も故郷に引き留められてしまった」
六郎はミラー越しにガッリ氏を一瞥する。
炎熱。
その奇病が世界中で蔓延し始めたのは、今年に入ってすぐのことだった。
初め、早期に終息すると楽観視されていたソレは、やがて瞬く間に世界中で感染者を増やし、ついには国内外で人々の移動が大きく制限される事態に陥った。
この病気の最大の特徴は、通常の風邪の症状に加え、体の一部が虫刺されのように炎症を起こす点にある。
炎症が起こる部位は完全に不特定。患部は40度を超える高熱を伴う。運が悪ければ、頭部など重要な臓器が炎症を起こし、そのまま死ぬこともありえる。
能力者の関与も噂されるが、未だ解明されないことも多い。この病気のために、ガッリ氏は日本に帰国してから二週間の待機期間をホテルの中で過ごした。
「しかしシニョール、久しぶりに羽を休めることが出来たでしょう!」
「そんなことはないさ!女の子たちが放っておかないよ!!なんせ向こうのはこっちと違って活動的だからな」
「まったくご冗談を!ハハハ!」
ガッリ氏は炎熱の検査に関して、今までずっと陰性だ。潜伏期間である二週間を過ぎても体調に異変は無い。だから、こうして久方ぶりの外出と会話を愉しめている。
六郎はガッリ氏を再び見る。その肥満体は後方座席の左側にすっぽりと収まっていた。
「ああ…すまない、君は下品な話が嫌いと言ってたね。ところでロクロー、真面目な話、ひとつ質問しても良いかね?」
「…?真面目な話、ですか?」
「真面目な質問さ。春のときは敢えて聞かなかったことだ。どうして急に楽器をやめて指揮に専念しようと決意したんだい?あれだけ私が言っても聞かなかったのに」
車の前方は赤信号になっていた。
ラジオからは昨日の爆発事故の報道が流れている。
「そうですね…こんなこと話したら、怒られると思いますけど。実は去年の秋に、知り合いの短大の、文化祭の催し物に参加しまして」
「なるほど。まあやることをやれば、それ以外はロクローの自由時間だ」
「短大の附属幼稚園の子たちの前で指揮をしたんですよ。そのとき気が付いたんです。俺は、演奏を自分がしたいわけじゃないって」
「ほう」
前方の反対車線では、一番前の車に男が一人、女が二人座っている。車の後部座席から女性が降りて、覚束ない足取りで横断歩道を渡った。運転手の男は助手席に乗っている別の女性に語りかけている。
「なんというか、すごく言語化しづらいんですが、演奏を人に聞かせたいだけなら、手段を選ばなくて良いって思ったんですよ。そのためには自分が演奏することにこだわる必要がないって思ったんです。目的のために手段を選ぶ必要なんて無かったんですよ」
「なる程…そうか。君も同じ意見かね」
「はい。今はそう思います」
「ああ…ロクロー、うん。どうあれ、答えが出たなら、私はそれを否定しないよ。とはいえ、覚えてて欲しいのは、私がロクローを指導するのは、ロクローに音楽の才能があるからだ」
信号は中々青にならない。
先程、前方の反対車線の車から降りた女性は、六郎の目の前を横切り、後ろで信号待ちしているタクシーに乗り込んだ。
六郎の思考にふと邪魔が入る。今、反対車線から来た人間がまた同じ道をタクシーで引き返すなんてことあるのだろうか。彼はそんな考えに捕われた。
「ロクロー、私は才能の無い人間を指導しないよ。それは、ずっと同じことを継続する才能のことだ。同じ事に当たり続けて、同じ決断を繰り返す。結果はそのたびに違うけどね」
「シニョール…?」
「今朝、夢で守護天使を見たよ」
「ほう、天使ですか?」
ガッリ氏は後部座席の左側に座ったままだ。
六郎は思い出す。教養はあるが少しワガママなところのあるガッリ氏は、いつも後部座席の真ん中を陣取るように座っているはずだ。
ところが、今のガッリ氏にそんなそぶりは見受けられない。
今、飛び出た言葉といい、今朝からのガッリ氏の態度はいつもと異なっていた。
「そう、天使さ。彼によると私は今日死ぬらしいね。うん…そう、そうだな。私はいつもこういう時、自分の直感を信じてきたんだよ。大音楽家の直感だ。君も悪く無いと思うだろう?」
「シニョール、どこか具合でも…?」
「いいや、ここ数年健康そのものさ。持病の類は一切ない。血圧も正常だ。ところがね、ロクロー、その守護天使が今も隣にいると言ったらどうする?」
六郎は振り返る。後部座席はガッリ氏の座っている左側だけでなく、右側もシートベルトが止められている。誰も座っていないにもかかわらず。
「ハハハ、あなたほどの方が死ぬなんてとんでもない」
「ロクロー、信号が変わったようだ」
信号が青に変わる。
対向車線の車が走り出す。遮光フィルム越しに、運転手の男は六郎の方を指差しながら、助手席に座っている女性に話しかけている。女性は眠たいのか、しきりに頷いてるように見えるが、目は瞑っている。
運転席の窓ガラスが少し空いている。
なんだろうと六郎は思ったが、六郎の車も走り出すと、すぐに通り過ぎ去ってしまった。
「シニョール、今すれ違った車の運転手って、医者ですかね…?」
「医者だって?」
ガッリ氏は後ろを振り返り、先程の男が運転していた車を目で追おうとするが、既に遠くまで行ってしまっていた。
「何故そう思ったんだね?」
「いえ、明確な理由はないんですが…」
「ふむ…」
ガッリ氏は再び後ろを確認する。
しかし、視界に映るのは、同じ車線を走っているタクシーだ。
「少しピンときたよ。運命を変えるために何をすべきか。ロクロー、頼みがあるんだ。聞いてくれないか?」
「シニョールの言葉ならなんでも聞きますよ」
「なら、前の車を煽ってくれないか」
浜鍋六郎は自分の耳を疑った。
彼は今まで事故を起こしたことがない。
事故を起こすような行動を極力避けているからだ。
車を煽るなどしたことがない。
「とにかくピッタリと前の車に近づいてくれ。お願いだ!」
「何言ってるんですか、シニョール。だって前の車って……ベンツですよ!!黒色の!?」
「そんなことは分かっている!!」
六郎は後部座席を見る。冗談で危険を犯すような人ではない。だが、思えば今日の氏の行動はどこか変ではなかったか?会話の流れも?
「何故…?」
「良いから早く!!時は一刻を争うかもしれないんだ!」
直感が鋭い人ではある。
だが、彼の行動は何かに操られているようではないだろうか?
そういえば先程守護天使とか言っていた。それが関係しているのだろうか?
六郎はそう思いながら、前方に向き直る。
前を走る黒のベンツを煽れというのか?
「頼む…!この通りだ」
「…あとでちゃんと理由を説明してくださいよ!車を煽るだけで良いんですね!?」
六郎はアクセルを踏み込む。
必然的に、前のベンツとの車間距離は詰められてゆく。
「私は健康体だ。だからもし今日死ぬとしたら事故の可能性が高い。しかし、事故というのはいつ起こるか分からない」
六郎はベンツに衝突しないギリギリのスピードを維持しながらアクセルを踏み続ける。
こんな軽四のどこにそんな馬力があるのかと思うほどだ。
ベンツからクラクションの音が鳴る。
「シニョール、さあ言われたとおり煽り運転をしましたよ」
「ロクロー、君には"彼"が見えていないんだな!?では前の運転手は!?ロクロー、クラクションを鳴らせ、思いっきり鳴らすんだ!!」
「そんな」
六郎の言葉は最後まで続かなかった。
突然、ベンツが急停車したのだ。
六郎は急いでブレーキを踏んだが、車の前部はベンツと少し衝突した。ちょっとした事故だ。
そのまま、六郎はハンドルを切って路肩に停車する。前のベンツも同じように停車した。
後ろを走っていたタクシーが過ぎ去った。
「…シニョール!」
ガッリ氏は胸を両手で押さえている。呼吸は荒いが、怪我はないようだ。
前のベンツのドアが開く。中から出てきたのは、黒スーツを着たスキンヘッドの中年男性だった。
六郎が特に注目したのは、このスキンヘッドの男がとても体調の悪そうな顔をしていた点だ。
「あの…」
「君も"見えているのか"!?」
六郎が何か言おうとすると同時に、ガッリ氏がドアを開けて、スキンヘッドの男に向かって叫んだ。
すると、スキンヘッドの男の表情が雲が晴れたように明るくなった。
「"あんたも"か!」
「見えてるんだな!!」
ガッリ氏とスキンヘッドの男は互いに頷く。
六郎にはなんのことか分からない。
ただ、スキンヘッドの車もまた、助手席に誰も座っていないのにシートベルトが留められていた。
「今しかないと思う!運命を変えるなら今しか!」
ガッリ氏はスキンヘッドの男に叫ぶ。
「…この先に抜け道があるのを知ってる!そっちに行こう!……!」
「あっ……!」
こうして、浜鍋六郎は訳もわからないまま、黒のベンツの後ろに付いて抜け道を走ることになった。
何が起きたのか分からない。いや、何かが起ころうとしていたが、それを阻止したのだろうか?
六郎に分かったのは、ガッリ氏がいつものように、後部座席の真ん中を陣取るように座り直したことだけだった。
四、
やあ、目覚められましたか。
アナタずっとここで眠っていたんですよ。
ここは診察室だから、ここで居眠りされるのは困りますね。
ああ、新聞でも読まれます?『またも路上で爆発事故、タクシー運転手一人死亡』だそうです。
ご存知でした?ご存知でない?そうですか。
車は運転されますか?そう。
アナタ、何か持病を持ってます?病歴は?
二ヶ月まえ不審者に襲われた?それはお気の毒に。
今は大丈夫なんですか?
一人で出歩くのが怖い?
大丈夫です。私は治療のためにいるんですから。
そのために手段は選びませんから、私は。
ところで…ココアこぼされてますよ。ずっとこぼれている。力は入りますか?
もう一杯いかがです?
どうも記憶が飛んでしまっているみたいですね。
私はね、人を治すのに、手段を選ぶ必要はないと思ってます。
アナタも可能な限りそうさせてもらいますよ。それが私の信念ですから。
最期まで。
繰り返しますが、目が覚めたらすぐに誰かと連絡を取れるようにして下さい。
あとそうですね…私の素性を調べるのはお勧めしません。
五、
「目覚めたかね。新聞を読むと良い」
目を覚ますと、男が新聞を渡してきた。『世界的指揮者急死に一生を語る』という見出しの記事だ。
「先生…連絡、連絡を、」
「見たかね。これぞ運命という奴だ。世界的指揮者とやらは見事に死の運命を回避したというわけだ。死んだのはタクシー運転手一人。そう、『一人』だけなのさ。しかし指揮者の男も、タクシー運転手も、誰もタロットカードを持ってなかった。きっと私は運が悪いんだろうね」
男は話を無視して、一人で勝手に言葉を紡ぐ。
「私にとっては日中のドライブは危険行為だというのに。エアコンを全開にしながらも窓を開けて新鮮な空気を取り入れつつ、直射日光に怯える。君も一緒にいたから知ってるだろう?」
男は千切れたタロットカードを持っていた。
「ああ、君以外の患者は退院したんだ。うん。君も輸血が済めば退院さ」
「先生、連絡を…」
「連絡は必要ないよ。私は治療に手段を選ばないからね。だが君の使い所は考えてやるつもりだ」
点滴の音がする。見上げると、点滴で血を流されているようだ。
一方で、反対側の手からは血を抜かれている。
血を抜かれながら、血を入れられている。
だが、抜かれている血の量の方が多い。
「また眠たくなってきたかね?血の量を減らしているからな。ああそう、この男を知っているかね?今朝夢に出てきたんだ。調べたが、私は面識が無い…」
男はスマートフォンを翳す。
そこに写っている画像を見て、島野四穂はゆっくりと頷いた。
六、
えーと、シホさん。島野四穂さん。
23歳、保育士。子供が好きで今の仕事に。
良いですね、私も子供が好きなんですよ。
なんであんなに可愛いんでしょうかね。
あ、分かります?
…さて、気付いてますか?アナタはずっとこの部屋で眠っている。この診察室でね。
お分かりですか?アナタはずっと夢を見ているんですよ。
診察室の外での光景も、現実の記憶を再現している夢に過ぎない。
分かりますか?アナタの意識はずっと覚醒しないままなんです。
ココア、またこぼれてますよ。
なのにアナタはまたココアを飲んでいる。
それ、誰のココアです?
シホさん。私はね、助けられる人間は全部助ける。例え悪人だろうと、善人だろうとね。
だけど、助けられない人間は善人しか助けない。私にとって善良な人間だけしかね。
独善は良い。程度の差こそあれ、医者なら誰しも独善性はあるものですよ。でなきゃ患者の言葉を聞いて、心の中にある本当の望みを引き出すことなんて不可能だ。
私は単にそこが極端なだけですよ。だから患者の意見は基本的に聞かないんです。
さて、この男を知ってますか?
天内典三。勤務医師で日中ほとんど外出しないことから、病院では『吸血鬼』のあだ名で呼ばれているそうです。
知らない?
それはおかしい。
だって、この写真も、今言ったことも、アナタに教えてもらったことなんですから。
シホさん。アナタは必死に生きようとしているんですよ。そのために意識と無意識に関わらず記憶を総動員して、夢の中で必死にストーリーを組み立てる。
それにね、シホさん。もう一度だけ聞きますけどね。アナタこのタロットカード持ってますか?
『死神』のタロットカードですよ。
持っていない?
それもおかしい。
なら、アナタがずっと手に持っている『死神』のカードの切れ端はなんですか?
渡されたのでしょう?あの男から。
あの男からタロットカードを渡されたとき、アナタは望みを叶えるための戦いに巻き込まれた。
偶然ですけどね。私も別ルートでタロットカードを手に入れたんですよ。
どうやら話が見えてきたようですね。
アナタは二ヶ月前に襲われたと言ってましたけどね、襲われたまま、ずっとそのままなんですよ。
七、
「————っハッ!!」
呼吸の再開と共に島野四穂は目を覚ました。
どうやらずっと夢を見ていたようだ。
今見ていた夢は本当なのだろうか?
伊山洋一郎と名乗っていた闇医者の話は?
起き上がろうとするが、うまく体に力が入らない。
手首にチューブを繋がれて、そこから血を抜かれている。
無理やりチューブを引きちぎろうとしたが、反対側の手には血が注がれていた。
「……なんで?」
ベッドに拘束されている。
「ああ、焦げ臭くないかい?今すぐここから逃げた方がいい」
突然、声が聞こえて四穂は振り返った。そこには茶色のスーツを着た、長身の闇医者、伊山洋一郎がいた。
「ご機嫌よう、シホさん。また会いましたね」
「伊山先生…!」
四穂は伊山を見る。
今の彼は現実なのだろうか?つまり、肉体を持った現実の伊山洋一郎なのだろうか?
「私は幻ですよ。しかし現実でも幻が見えたということは、アナタはかなり死に近づいている」
伊山は床に散らばったカルテを覗き込む。
散らばったカルテ?と四穂は自分の思考に疑問を持った。
「シホさん。見ての通り、今この病室は火事のようだ。原因はほら、そこに転がってる瀕死の男の能力ですよ」
伊山が部屋の隅を指差す。そこは煙が濛々と立ち込めており、白衣を着た男が右腕を失った姿で転げ回っていた。
「ギギギィィッギイイイイイ」
「もう知ってると思うが、彼の名は天内典三。勤務医師。君を夜道で拉致し、二ヶ月間病院の地下室に監禁していた男で、ここ連日の爆破事件の犯人だ」
天内医師は血塗れで四穂を睨み付いていた。
「あっあっあの指揮者!あの指揮者〜!知らなかったんだ!あの指揮者が炎熱の陽性だったなんて!この病院に入院するなんて…院内でクラスタが発生するなんて、そんな…そんな〜」
「見ろシホさん…あの男はどうやら君みたいな人間を拉致して爆弾に変えて無差別テロを繰り返してたようだ。爆弾にする方法はなんと単純、君の血を抜いて、自分の血を輸血する。彼は自身の体を爆発物に変える能力者だったんだよ」
伊山はカルテを読みながら状況を説明する。
病院の地下室は今や炎に包まれていた。
「能力名は『熱血爆発』。そのまんまだな。39度以上になると起爆するので日中は外に出られない。君の体も奴の血を輸血された以上、39度以上になると爆発するようだ。しかしここは火事だから、動きづらいかもしれないが、すぐここを離れるんだ」
四穂はベッドから転んで、無理やり動こうとする。体中の筋肉が衰えたみたいで、うまく体を動かせない。
伊山は四穂に出口を指差しながら、天内を一瞥した。
炎熱に罹った結果、全身が起爆剤と化した哀れな男を。
「目が汚れる」
四穂は振り返らず、伊山に導かれるまま、地下室を後にした。
八、
島野四穂はほとんど上手く体を動かせなかったが、伊山の導きに従うと、不思議と効率的に移動することができた。
病院は火事の騒ぎで怪しまれずに外に出られた。
伊山は、伊山の本体がいる場所へと四穂を案内した。四穂も彼のいる場所を目指した。
道中、道ゆく車に声をかけ、事情を話したところ、驚くべきことに、黒のベンツの運転手は何も言わずに四穂を目的地へと案内してくれた。
「……達者でな。外国人の爺さんも例の病気にかかったらしいが命に別状はないらしいぜ。お嬢さんもそうなると良いな」
スキンヘッドの男はそう言って去って行った。
「シホさん。天内という男は『死神』のカードを一部所持していた。そして、自分の能力を活用して、シホさんのような人間爆弾を作り出して、戦いを有利に進めようとしていたんでしょう」
「あの…目的地はこの教会でいいんですか?」
「ところが、ピエトロ・ガッリ氏が炎熱で彼の病院に入院したせいで、天内は炎熱に罹ってしまったんですよ。39度以上で爆発する肉体に、ランダムで肉体の一部が40度以上の発熱を起こす病気。相性は最悪中の最悪。結果、右腕が爆発した。失血死は免れない」
伊山は四穂に教会の中へ入るように促す。
伊山の本体がいる場所は、この教会なのだろうか?四穂は疑問に思った。
「で、シホさん。天内の血を輸血されたアナタは39度以上で爆発する体質になったのと同時に、もれなく炎熱に感染したわけですよ」
「…私が、ですか?」
「はい」
伊山は優しく微笑んだ。
そのまま、胸ポケットに入っているスプーンを持ち上げる。
「私がなぜ、マイスプーンをいつも持ち歩いているか、知ってますか?」
四穂は首を横に振る。
伊山はスプーンを床に落とした。
「医者が匙を投げたんですよ。さあ、教会の地下に隠し部屋があります。そこに私はいますよ」
四穂は震える脚で教会の祭壇に隠された地下の扉を開ける。幸いなのか、教会の中には誰もいない。
まるで、人払いでもしたかのように。
「この下に…?」
「階段を降りると、分厚い金属製の扉があります。パスワードは『4649』です。開けたら扉をしっかりと閉めてください。」
言われたとおりに階段を降りると、本当に金属製の扉があった。四穂はパスワードを入力し、扉を開ける。
「そこは金庫室になっています。ほら、そこに私がいますよ」
扉が自動的に閉まった。
金庫室の奥の床が、一部ガラス張りになっている。
四穂が震える脚で近寄ると、ガラスの向こうを見て、崩れ落ちた。
「こ、こ、こんな」
「分かっていたはずです。アナタは本当は分かったはずですよ。ええ、私は奇縁、怪縁は日常茶飯事でしてね。こうして誰も手出しができない場所をいくつか確保して、定期的に本体を移動させてるんです」
「こんな、酷い、酷すぎる」
「シホさん、タロットカードの説明を聞きましたよね?こう思いませんでしたか?『そうだ、見ず知らずの一般人を人質にとって、タロットカードをちぎって分ければ、体のいい回復アイテムに仕上がるぞ』ってね」
ガラスの向こうに、伊山洋一郎は確かにいた。しかし、伊山洋一郎は今や人工呼吸器に繋がれ、意識不明の状態で寝かされていた。
彼は不治の病に犯され、余命幾ばくもない状態である。このところは意識のない状態がずっと続いている。
「アナタはね、天内に利用されたんですよ。助かることを願いに、
アルカナの保持者に仕立て上げられる形でね。つまり、アナタのような人間が街を出歩くだけで、何人かの敵は葬れたはずなんだ。私に出会いさえしなければね」
「たっ、助けて!先生!私を助けてください!」
島野四穂は伊山洋一郎の幻に縋り付こうとするが、幻を擦り抜けて、床に転がる。
「触らないでくれないか。私にアナタを助けることは出来ないんだ」
四穂は床のガラスを叩く。
「特注の強化ガラスでね。爆発程度ではビクともしないよ」
「なっ、なんで!どうしてですか!?」
「君は放っておいても爆発して死ぬ。爆発に巻き込まれる人がいたら余計に死人が増える。余命宣告はしたくなかったが、私の能力の特性上そうもいかない。しかも君は朦朧としてたとはいえアルカナを受け入れた。戦いを受け入れたんだ」
伊山は四穂の顔を覗き込む。
「私に、どうしろというんだ」
「分かってました。でも、ここに来たら助けてくれるって、そう思ったからここまで来たんです」
「シホさん、本当の絶望って何だと思います?体をまともに動かせず、助けられる筈の人間の数が減ることですよ」
「助けて…まだ死にたくない」
「悪いが、助ける人間は他にいるんだ。藤川七子ちゃんは5歳で死んだ。親の虐待が早く発覚してればまだ助かる見込みは十分あった。園部三五は数学史に残る天才と言われたが、心身のバランスを崩し二十代で世を去った。戸田十樹男は議員だ。影響力がある。それに将来を見ずに死んだ子供たちはもっといる。だが、君は二十三年も生きたうえに人を殺してまで自分が生きることを選んだんだぞ」
「助けてください」
「最期に聞こう。君に一体、死んだ彼らよりも優れた才能がどこにあるというんだ」
最終更新:2020年09月28日 00:03