「やぁ。来ると思っていたよ」

僕が扉を開けるや否や、そんな声が飛んできた。

「当たり前じゃないですか。仮にも仕事場なんですから」

そう、僕は返した。
———帆村探偵社。こんなだだっ広い東京の中でも数少ない、「魔人関連事件専門の探偵事務所」。仕事が来ることも滅多にない、ただの金持ちの道楽趣味みたいな仕事場ではあるけれど、僕は数年前からここで働いている。
そして、こうして僕の目の前でデスクに脚を乗っけてパイプを蒸す不躾な男こそ、この探偵社が誇る唯一にして無二の探偵、帆村紗六先生だ。いつも自慢げな顔に、現代日本には似合わないほど古風な……大正浪漫風とでも言わんばかりの格好。そして極め付けの、常に何か言いたげな語り方。正直、初めて会った人なら物語の中から這い出てきたのではないかと錯覚することこの上ない容姿と風貌である。探偵物語好きとは聞いているけれど、それにしてもこの小道具としか言いようがない物品たち、一体どこで買ってくるのだろうか。

「ふむ、それにしても戸村君。随分と今日は遅かったじゃないか。何か事件にでも……待った、当ててみよう」
「……ただ電車が人身事故で遅れただけですよ。ニュース見たでしょ。どうせ知ったような顔で『ふふふ、今朝のニュースで見た。単純で初歩的な推理というわけさ』とでも言いたかったんでしょうけど、あいにく僕、先生に何度もそれをやられましたから」
「ぐ、そういうのには乗ってくれるのが助手ってものじゃないのかい……?」
「何度も……というか、何十回もやられれば流石に飽きますよ、子供じゃないんですから」

はぁ、と僕———戸村純和は溜息を吐く。
それを見て、彼は嬉しそうにニヤニヤとしている。
何が楽しいんだろう。こういったやりとりだって、これが初めてではない。僕としては正直を言うともうやめて欲しいと思っているのだけれど、本人としてはどうやらやめる気がないようである。……きっと、いつもの『探偵っぽいロールプレイがしたいだけ』というやつなのだろうけれども。
そう、ロールプレイ。こう語っていれば分かる通り、彼は非常に———というか、頭がおかしいのではないだろうかと思うほど、己の『型』というものに固執するのだ。僕がこうやって就職難の中でもクビになることなく働いて給料を貰っているのだって、彼が「探偵には助手が必要なものだ」と言い出したからである。正確には探偵社の運営やら色々な事務管理が基本的な職務で、その合間合間に彼の気分で助手をさせてもらっているにすぎない。まあ、こういう雑務は彼には出来そうにはないから、適材適所と言われればきっとそうなのだろうけれど。
そんなことを考えながら、自分のデスクと面向かい……先生から声がかけられた。

「ではそうだね、たまには君に推理してもらおうか?」
「何でですか、面倒臭い……」
「まぁまぁ、そう言わず。僕が今朝食べた物でも当ててみてはどうだい?」

……めんどくさい。非常にめんどくさい。仕事熱心なわけでもないけれど、少なくともこの人と喋っているよりは仕事をしていた方がマシだと思えるレベルだ。かといって、無視して仕事をしてしまうとこの人が拗ねて仕事をしなくなるので悪手なのだけれど。

「どうせそう言ってくるなら……パンでも食べていたんじゃないですか(・・・・・・・・・・・・・・・・・)?」
「いや、確か———いや、そうだな、そうだった。よく当てたね、君」
「当てずっぽうですよ。普段朝からご飯と味噌汁の先生がわざわざ聞いてくるんですから、それ以外だろうなとは思いましたけれど」

グレイ・トゥ・ブラック。
———疑わしきは罰せよ。
魔人である僕の、唯一持った能力である。
なんてことはない。相手の語る内容について二、三言挟み込むだけで、相手をその気にさせるというだけの能力。
今だってそうだ。きっと、先生はパンなんて食べていなかったのだろう。もしかしたら食べていたのかもしれないけれど、もうそんな記憶は彼の頭から抜け落ちている。
記憶改竄といえば聞こえはいいけれど、最終的には相手次第の能力。この世の魔人の中にはもっと戦闘特化だったり、あるいはもっと世界の根幹に関わるような能力を持っている人もいるかもしれないのだけれど、僕が得たのはこれだけだ。
———これだけで、これしかできない。
相手の心から真実を引き出せる能力であれば、どれだけ便利だったことか。
いや、この能力だって役に立ってこなかったわけじゃない。幼い頃から先生や親に怒られる事を回避することには非常に役立ってきた。
でも、それだけだ。
生活を変えることもできなければ、なにかを生み出すこともできない。その程度の能力なのだ。

「———そうか。なるほど。次は覚えておこう」
「またやる気ですか、これ……」

はぁ、と本日二度目の溜息。いつもこんな感じだ。彼に振り回されては、僕が溜息を吐く。それでもこの仕事をクビにならないのは、彼がこういう反応を楽しんでいるからに他ならないのだろうけれど。

「おっと、そうだった。ひとつ聞きたいんだけれど……君、噂とか信じるタイプかな?」
「仕ッ事、してくださいよ……!」

わなわなと手を震わせながら、机を叩きそうになった右手をゆっくりと下ろす。正直、声を荒げてでも怒りたいが、僕の雇い主は彼の方である。怒るわけにはいかない。
息を吐き、彼をじっと睨み返す。

「残念、もう既に来ている依頼は片付けたよ。来客でもあれば別だがね」
「…………」

まったくこの男、こういうところは狡猾である。昨日僕が帰るまで、警察の依頼を含めた事件を3つくらい抱えていた筈なのに。流石に都内で唯一の魔人事件専門探偵、伝説と言われるだけはある。凄腕というか、やる気が出るまで物事を前に進めないタイプというのか。だらしないよりはマシかもしれないけれど、それはそれとして事務仕事をする方の身にもなってほしいものだ。

「それで、噂って?」
「なに、まだ大きくもなっていないような小さな噂なんだけれどね。……『願いを叶えるタロットカード』の噂だ。聞いたことはないかい?」

ない。
まったくない。
というか、なんでそんな噂を僕が知っていると思うんだろう、この人は。

「いえ、残念ですけど」
「そうか……俗っぽい君ならもしや、と思ったんだがね」
「悪かったですね、俗っぽくて。というか、そんな小さな噂までは耳が届きませんよ。忍者や情報屋じゃあるまいし」
「むむ……そうか、その手があったか」

……なんだ、何かに気づいたようなその顔は。まさか忍者か情報屋でも雇うつもりじゃあるまいな。いくら紗六先生といえど、流石にそんなことまではしないと思うけれど……いや、彼ならやりかねないと思い始めると良くないな。忘れておこう。忘れた方が自分の心のためだ。

「それで、そのタロットカードの話だ」
「まだその話します?」
「当たり前じゃないか。わざわざ君に話すんだ、いっそ覚えて帰って貰わなければね」
「……はい、じゃあどうぞ」

諦めて、先生に会話の主導権を委ねる。よくあるいつものパターンで。
そして、僕は知った。
山乃端一人が殺されたという事件のこと。
その事件前後から、都内で人間の失踪が相次いでいるということ。
そして、それと呼応するかのように、都内で謎のタロットカードの噂が流れ出したことを。

「強い願いを持つ者の前に現れるというタロットカード。実に興味深くはないかい?」
「いや、別に……どうせ、噂なんでしょ?」
「火のないところに煙は立たない。噂があるということは、類する何かはあるはずだよ」
「……そうですか」

どうして、そんなに気にするんだろう。
いや、いつものことではある。都市伝説やらオカルトの類に先生が興味を持つのは別に今回が初めてというわけじゃない。むしろ、度々どうでもいい廃墟探索に連れて行かれて疲弊するのが日常茶飯事と言ってもいいくらいだ。そういう趣味の人というわけではないはずだけれど、何故か先生はそういうことによく食いつくのである。

「ふと、興味が湧いてね。僕は基本的に強い願いはない人間だから、首を突っ込めないのが残念だよ」
「僕は残念でもなんでもないですよ、巻き込まれなくて済むんですから」
「おや、そうかい。僕は———君は、強い願いがある方の人間だと思っていたんだがね」

ぴくり、と心で何かが動いた気がした。

「…………ないです。ないですよ。仕事しましょう? ほら、新しい依頼も来てますから」
「そうかい。残念だ。それじゃあ素早く片付けるとしよう。史上最速でね」

先生がきらり、と決めポーズのように動きを止める。
———さては、また何か新しい探偵小説でも読んだのだろうか。
こうして、今日も新しい日が始まる。
僕と彼の———変わらぬ日常の一ページが。

 * * *


その日の深夜。仕事場からの帰路のことだった。
月と街灯が照らす夜の路。人気のない一本道に……一枚のカードが、落ちていた。

「……先生?」

くるりと、辺りを見回す。
人の姿はない。本来ならまばらにでも往来があるような通りなのだが、今日に限って一人も見当たらない。
一通り見渡して、もう一度地面のほうに目を向ける。
———ある。カードが、一枚。それもクレジットカードだとかではない。
タロットカード。よく占いで使われると聞く———今朝、先生から聞いたばかりの。
だから僕は最初、先生が何か悪戯でも仕掛けようとしているのかと思った。
でも、違う。明らかに人の気配はない。あの人がする悪戯なら、『それが悪戯である』と分かるような何らかの仕掛けがあるからだ。いや、例外はあるかもしれないのだけれど———少なくとも、僕の知る先生とは、そういう人間である。

「…………ッ」

何かが仕掛けられている可能性を考えつつ、ゆっくりとカードに手を伸ばす。
———何も、なかった。
カードは吸い付くように僕の手に滑り込み、それ以上は何も起こらない。

「…………ただの、落とし物?」

怪訝そうに、僕はそのカードを覗き込む。
絵柄こそあまり見たことのないタイプではあるけれど、よくある普通のタロットカードだ。
もしかして、噂をネタにした悪戯でも仕掛けられたか———と、思った刹那。
情報が———“流れて”きた。
『タロットカードを20枚集めるバトルロイヤル』 『“強い望み”のある者の前にのみ、このカードは現れる』 『20枚全て集めた者はなんでも望みを叶えられる』 『相手を殺す、または相手の望みを叶えて殺すのみでしか———カードを奪うことはできない』

「ッ!?」

はらりと、カードが手から溢れる。
情報。バトルロイヤル。殺してのみ叶えられる願い。強い願い。タロットカード。
ハッと、朝の会話を思い出す。
———『僕は———君は、強い願いがある方の人間だと思っていたんだがね』
先生に言われたあの一言。あの場は笑って取りなしたけれど、でも、僕の心に答えはあった。
———勝ちたい。
あの人に———帆村紗六に勝ってみたい、という答えが。
タロットカードが、ぼんやりと光を放っている。

「………………」

ゆっくりと、再び手を伸ばす。
今度は、しっかりと、タロットカードを手で掴み取る。
———僕は、見てみたいんだ。彼の敗北を。
いつも余裕ぶったあの顔が、あの口調が、驚愕で埋まった姿が見たい。
それを、自分の手で為し得たならば———どれだけの快感だろうか。
伝説を、破ってみたい。伝説の、敗れ去る姿が見たい。
単純な興味だ。それでも、僕は挑戦してみたい。
僕には、犯罪の美学なんてない。
できることなら、平和に暮らして平和に死にたい。そんな心の持ち主だ。
でも———それであって、この欲望は止められなかった。
探偵に挑む犯罪紳士の話は、何度も物語で触れたことはあるけれど———やはり彼らも、こんな心持ちだったのだろうか。
絶対神話の、終わる瞬間が見てみたい。
全てが終わり、僕が犯人だと名乗り出た時の彼の驚愕の顔を、僕は見てみたいのだ。
すべての参加者を殺害し、すべてのカードを手に入れ、彼に事件の真実を話すのだ。
『僕が、この事件の犯人です』———と。
彼は、どんな顔をするのだろうか。
幸い、カードが味方してくれることもある。
死体は、残らない。人をいくら殺そうと、カードの所持者ならば死体は消え去ってしまう。
完全犯罪を行うのなら、これは間違いなく僕の味方をしてくれる。
……人の願いを踏みにじらなければいけないのは理解している。
人を殺さなければいけないかもしれないのも、理解している。
そして、自分は殺し合いなど欠片も経験がないということも、理解はしている。
———それでも。僕の心は揺るがない。

「…………節制、か」

僕は、手の中に収まったカードの文字を読み上げる。
節制。テンパランス。調和と自制を示すタロットカード。
……今の僕とは、まったくもって真逆だ。
自らの手で、調和を乱す。自制の心など、もはや存在し得ない。
だが———これはこれで面白い。
演じてみせようじゃないか。己が節制を。素晴らしい探偵の、素晴らしい助手を。
節制しよう。己の欲望を。最後の、一瞬が訪れるまで。

月明かりが、覚悟した男の背を照らす。
影が地面にゆらりと伸びる。

「万事上手とまではいかないでしょうけれど———あの人に、見せてやらなくちゃ」

———僕の、最初で最後の完全犯罪を。

 * * *

———さて。

こつん、と暗い部屋で音が響く。

———彼は今頃、件のタロットカードを拾っている頃だろうか。

ふっと、男が小さく笑みを浮かべる。

———そうでなくては困る。そのために、僕は朝からあんな話をしたのだから。

男は———帆村紗六は、目をゆっくりと閉じる。
あの噂が真実か否かは関係ない。
僕にとって興味があるのは、たった一つ。
火のないところに煙は立たず、影もないのに犬は鳴かない。
噂があるのであれば、それが広まる理由があるはずだ。
それを、知りたい。
ただ、それだけの話だ。

———彼には悪いけれど、少し巻き込まれてもらうとしよう。探偵助手というのは、えてしてそういう役割をするものなのだ。

暗い部屋に、煙草の煙が立ち込める。
月明かりがうっすらとサンシェードを擦り抜けるように、彼の身体を照らす。

嗚呼———この世に謎がある限り、僕はそれを追い続ける。
知りたい。暴きたい。だが、そのためには当事者になるわけにはいかない。
いわば、観察者。そう、僕は探偵なのだ。外側から暴いてこそ、謎というのは意味を持つ。
故に、僕は事件に関われない。関われば、それは陳腐な『真実』になってしまうから。
謎は、暴かれる時にこそ美しい。
謎は、暴く時にこそ光を放つ。
だから僕は———こうして、探偵であることを止めない。

嬉しそうに、紗六は笑う。
また、一つの謎に挑むことが出来るのだから。

———あぁ、楽しみだ。実に楽しみだよ。
願いを叶えるというタロットカードよ。君は———いったい、僕にどんな真実を見せてくれるんだろうか。

“事件”が、幕を開ける。
夜が、更けていく。
———月の光が、紗六の好奇心に満ちた瞳を、まるで宝石のように輝かせながら。
最終更新:2020年09月28日 12:01