鱗雲の縁は灼けた銅の如く照り、その大部分は屍の如く青く翳っている。



火輪は疾うに妣國(ははがくに)

南天の鰯はしかし、口中の熾火(フォーマルハウト)を未だ燻らせて地上、江戸川河川敷へとその輝きを伝えていた。



「バッチコーい!!」

パッコーン!

「エドコーっ、ファイ」

「「オっ!」」

「ファイ」

「「オっ!」」

「ファイ」

「「オーーっ!!」」

ダッダッダッダ……

「グラウンドに礼っ!」「「「「アリャトッシター!!」」」」

ビシャアッ!



この河川敷にナイターは無い。

故に、野球少年たちは釣瓶落としに従って帰宅を早める必要がある。

来年の公式試合に向けたミーティングを終え、駐輪場へと向かう彼らを呼び止めたのは二人の邏卒。

夕風に含まれた河川特有の生臭さ。

汗と土と草を擂り潰した汁で汚れた体。

勉強と運動後の疲労。

今に訪う夜闇への恐怖。

帰宅を急く男児たちに、二人組はゆっくりと尋ねる。

「ここらに怪しい輩がいた、って通報があってなあ。君らに話聴きに来たで。そいつらんついてワシらに話ぃ聞かして下しゃんせ」

オランダ人のように大柄なその男は、まだ夏の暑気も残る中で手袋、飛行帽、マスク、サングラス、厚手のコートという出で立ちであった。

「その『怪しい輩』とはあなたのことではありませんか?」

と言いかけたマネージャーの真井(まない)を止めたのは主将の野玉(のだま)。走攻守の全てが並外れた投手であり、彼が江戸川零高を初の甲子園出場へと導いてくれるのではないかという噂は校外まで広がっている。

「人を外見で判断してはいけないよ。まだ寒くないというのにあれ程の厚着、もう暗いというのにサングラス。彼は余程自分の容姿にコンプレックスを抱いているか冷え性なんだろうね」

絶対に晒したくない姿を人々の前に現してまで市民のために警邏をしている熱心な男を不審者扱いしてしまった。その事実をマネージャーは深く恥じた。

「失礼致しました。しかしそこまで曖昧な情報だけですと、私達も思い当たる節がありません」

赤面するマネージャーに声をかけるのはもう一人の糸目と天然パーマが特徴的な若い警官である。

「そうっスねえ。通報によると不審者は10代から60代ぐらいの男性ってことなんスけどねえ」

「待って下さい、曖昧さが増した気がするんですが……」

「いやあ、通報してきたのが小学校に上がりたてのチビッ子のお母さんでしてねえ。その子が遊びから帰ってきた時にねえ、飴玉のたくさん詰められた瓶を持っていたらしいんスわ。その飴を寄越したのが件の不審者ってことっスけどあのぐらいの子供って正直大人の年齢も正確に見分けられないみたいで頭を抱えてるんスよ」

「ほん不審者ゆうんがもう一人連れてた二人組ってのが現状手がかりらし手がかりでなあ。
どや、なんか覚えてることあらへんか?」

「アンタらだよ」というツッコミを部員一同が喉の奥に押さえ込み、首を横に振るも警官は納得しかねる様子。

それでも野玉はチームを代表して問答を終わらせるように働きかけた。

「これ以上尋ねることがあるならば明日江戸川零高の野球部を訪ねて下さい。あまり遅くなると親が心配するんで今日は失礼します」

一礼をして制服の二人の横を通り過ぎて行く主将の堂々とした態度に安心して、部員達も一人、また一人と後に続く。

最後尾の真井が自転車のロックを外したその時に背後からまた警官の声がした。

「あっ、そういえば別件なんスけども…これ、君たちの落とし物じゃないっスかあ?」

振り返った野球少年達の目に入ったのは、歳若い巡査の指の間に挟まれた一枚の紙片。

思わず、皆が一斉に足を止めた。

その紙片に天使が描かれていることは、夕の薄闇の中で遠く離れていても何故か分かった。

その絵柄は決して記憶にはない。

それでも実は過去に見たことがあっていて欲しい、見たことがないという記憶が嘘であって欲しい。

他人の物であって欲しくない。

そのような欲望を芽生えさせるような妖しい魅力が、その紙片からは漂っているのだ。

「お、俺もしかしたらソレ見たことあるかも…」

ショートの潮田がフラフラと、来た道を戻り始めている。

「うんうん、どこで?」
「家の前で拾ったかも、てかそれも俺のかもしれないです!」

瞳孔が開き、息を荒くした潮田は黒服二人の前へと舞い戻り、カードを掴み取ろうとする。

しかし突如としてその身体を強張らせ、泡を吹いて崩れ落ちた。

「取得物横領。立派な犯罪っスよ」
「何勘違いしたか知らんけんど、ほんタロットはワシらんや。窃盗の現行犯でもしょっぴくで?」

唖然とする部員達を他所に、潮田は手錠を嵌められて乱雑に引き摺られていく。

「なんも出えへん。ハズレかいな」
「『殺す』ことが勝利条件なら今出なくてもおかしくないっスよ。そこら辺で処理しちゃいましょう」

本人達は小声で話しているつもりだったのかもしれないが、聴き慣れない物騒な言葉はどうしたって耳に入ってくるものだ。

野球部員達は進路を去って行く二人組の方向に変え、バットをケースから抜き取った。

「お前ら俺のチームメイトに何するつもりだぁ〜!」

打順一番の市田、二番の西、三番の三鷹が自転車を駆り、二人組の進行を阻む。

「公務執行妨害」

巨躯の男の呟きと共に、出塁に絶対の自信を持つ市田の身体が宙を舞った。

「凶器携帯の罪」

若い男が口を動かすと、盗塁王の異名を持つ西はハンドルコントロールを失って横倒しになり、顔面をアスファルトで擦り下ろされた。

「安全運転義務違反」

打順四番の野玉と普段から打率争いを繰り広げる三鷹は江戸川に沈んだ。

「アンタら、アンタらホント何してんだぁー! 公僕のすることかこれがぁー!」

追いつき喚き立てる者達を見下し、大男はため息をつく。

自転車の灯火が照らす彼の影には、四本もの細長い腕が生えていた。

「ほたえんなやこん餓鬼ら」

男が外套の前を開けて諸肌を脱ぐようにすると、さらに二本の腕が脇の下で動き出す。

更に、上半身をのけ反らせると胴が身長の五、六倍近くまで伸び上がり、男の姿は完全に怪物の様相を呈した。

「めんどくせえ、どいつかタロット持っとったら僥倖やろ。みぃんな殺す」
「魔人だ、逃げろ!」

声のトーンが変わった。

今ここに至り生命の危機を覚えた部員達が背を向けて走るのを、しかしもう一人の男が許さない。

彼に指を差されたサードの佐渡、キャッチャーの星が白眼を剥いて苦しげな声を漏らす。

「畜生、アイツらおかしいよ…」

控えの比嘉が泣いて蹲る。

腰が抜けて走れないのだ。無理もない、魔人は世に数多く、その超常犯罪・超常暴虐も耳に入る機会こそあれど、大部分の者は平和に暮らしているのだ。

不意の残酷、非日常の無惨に邂逅した時に即座の対処を継続して行うことができる者は、ごく僅かである。

「立てるか?」

比嘉の肩を支える者がいた。

「振り向かないで。このまま走って、大丈夫。自転車の速度ならば十分逃げ切れます」

そしてへたり込んだ彼が自転車に乗るのを助ける者がいた。

涙でぼやけた灯火を必死に見つめ、ガタガタに曲がるハンドルをがむしゃらに抑えながら彼が家に到着したのは、グラウンドを出てから三十分余りが経過した後の事だった。




「あんたら警官だろうが」

野玉がバットを振るうとベンチウォーマー弁知の背を掴もうとしていた大男の腕は空を掴み、自転車の反射盤はすぐに遠ざかって行った。

「馬鹿やるにしてもね、せめてもうちょっとカッコいいところが見たかったよ。俺だって憧れてた頃があったからさ」

無事な部員達は逃がすことができたが、それも殿がいればこそ。

野玉がこのまま逃げ果せるということは不可能に近いだろう。

「いやー君はカッコいいっスねえ。体を張って仲間を庇うなんて学生さんにできることじゃない。でも二対一のこの状況で取る態度じゃあ無いってことを忠告させてもらいます」

若い方の警官、奄美 額佳(あまみ ぬかよし)はせせら笑い人差し指を勇敢な少年へと向けた。

彼の魔人能力は『北風と太陽と地獄の門』。

それは毒虫と裸虫(ヒト)に通じる異能。

誰かを指差している間、その人間の衣服と肌の間から延々と毒虫が沸き出るという一見嫌がらせのような能力だが、虫が持つ毒の強さ次第では瞬時に相手を即死させることができる。

ヒトは蜂駆除に際しても防護服に頼りたくなる時にか弱い生物であるが、服の内側に虫を生じさせるこの異能を前に一切の防御は通用しない。

野玉のユニフォームの内から乾いた小さな生命が身を擦る音が、ゾワゾワと響き始める。

脱ごうにも一苦労するのが野球着というもので、外気も冷え始めた秋頃にはインナーも含めて四枚ほどを着込んでいる。

そもそも殺そうと向かってくる相手を前に武器を手放し服を脱ぎ去るだけの時間は与えられていない。

瞬時の状況判断。

無名の高校野球部主将が取った行動は、ハンマー投げの要領でのバット投擲であった。

グリップとヘッドが交互に前に出るように回転しながら、銀の金属柱は綺麗に奄美の顔面へと吸い込まれていった。

ギーーンという骨を打つ重い金属音。

バットは大男の腕の一本をへし折り、そのまま地面を転がっていた。

「非魔人にしちゃ悪ないわ。こない将来有望な小僧を潰すことになってしもて後悔するぐらいにはなあ」

大男はゆっくりと歩を進め少年への距離を詰めて行くが、丸腰の少年は虫の毒が回ったのか膝をついて動かない。

「有名なる前にサインもらえんで残念や。楽に殺してやるから堪忍な」

身を捩り更に体を変形させようとする大男は、背後に想定外の音を聞いた。

それは球場を賑わせること間違いなしの気味が良い金属音。

白球を客席より奥へ運ぶ時の長い残響。

振り返る男の目には金属バットを構える少女と血の泉、湧き出る池に沈む奄美。

あの少女は真井だ。

主将が逃がしたと思われていたマネージャーだ。

「ナイスコントロールでした」

瞬時渦巻く混乱の最中にも大男、美濃 武死(みの たけし)は少女の正体を分析する。

まず間違いなく断定できること。

少女は魔人である。

奄美の身体能力は魔人全体から比較してみれば肉弾戦に特化していないとは言い難いが、それでも彼は警察学校で訓練を施されている現職の警察官。

一般人に遅れを取り生命の危機に陥るほどヤワではない。

また、戦意を残した野球部員が野玉一人だったとはいえ、目撃者を増やさないためにも周囲への警戒は払っていた筈だった。

広域警戒を敷いていたつもりの美濃の耳にも一切の足音は聞こえて来なかった。

恐らくそこにこそ少女の能力の要がある。

美濃はベルトに手をかけ、履いていたズボンを下ろした。

男の奇態を前にしても少女の目に羞恥や困惑はない。

正解だ。

まだ下にズボンを履いている。何も恥ずかしがることはない。

美濃はベルトに手をかけ、履いていたズボンを下ろした。

男の奇態を前にしても少女の目に羞恥や困惑はない。

正解だ。

まだ下にズボンを履いている。何も恥ずかしがることはない。


美濃はベルトに手をかけ、履いていたズボンを下ろした。

男の奇態を前にしても少女の目に羞恥や困惑はない。

正解だ。

まだ下にズボンを履いている。何も恥ずかしがることはない。

……何枚のズボンを下ろしたことだろうか、長い時間が経過したようだが二者の間の緊張は和ぐどころか漲り、殺気すらも孕み始めている。

美濃はコートの諸肌を脱ぎ、スーツの諸肌を脱ぎ、シャツの諸肌を脱いだ。

傍目には彼が何枚もの上衣を胸、腹、腰、腿に引っ掛け幾数ものズボンを足にぶら下げているようにしか見えないだろう。

しかし、漲った殺気が河川敷を満たしたその時の彼の動きは誰にも予想できない俊敏さを伴っていた。

魔人能力『裸の猿の王様』。

衣と着ぬに通じる異能。

魔人、美濃武死の体表を迸るエネルギーを浴びたものは、肉体と装備品の境界を失い融け合う。

服が、武器が、神経・筋肉・骨を得て、肉体は身につけた物の頑強さ、質量を引き継ぐ。

現在の彼は繋がった無数の上衣の形作る脚部、幾重もの下衣に象られた胴体を持った龍の如き、百足の如き怪物の様を見せていた。

全長十メートルはあるだろう不気味な龍は、鎌首をもたげると、少女目がけて半身を叩きつける。

自然界の生物であれば、このような巨体の無茶に耐えられるような筋肉、骨格を有することはないだろう。

魔人のみがなし得る質量攻撃。

巻き起こる土埃はただでさえ暗く、良いとは言い難かった視界を狭めた。

しかし手応えを感じなかった美濃は再度龍の頭部を上空へと持ち上げる。

急所を低地に置いたままでは危険だという判断だったが、その頭部を後方から貫くものがあった。

金属バット。

投げられた訳では無い、その場で振り抜かれた物だ。

サングラスに、真井の姿が反射する。

星と雲から反射する街灯のおかげで、グラウンドにいた時よりも若干明るく、よく見える。

龍は、胴から生やした無数の腕で上空の少女へと掴みかかった。

バットが貫いたのは確かに本来美濃の頭部があった位置ではあるが、龍の脳はそこだけではない。

長く伸びた脊髄に沿って隠されたいくつもの帽子、その全てが人間の脳一つに相当する働きを代替している。

少女は何らかの方法で空高く移動し急襲をかましたようだが、中空では無防備、格好の的である。

美濃は掴んだものを地面に叩きつけようとしたが、少女の姿は攻撃の瞬間に掻き消えた。

しかし彼は見た。

あの少女の腕が梟の翼へと変化し、音もなく空中を翔けてはグラウンドへと着地する瞬間を。

「何や、瞬間移動かと思うて怖気るところやったが同類かいな。阿保らし」

奄美が倒された理由も分かり、美濃は安堵する。

上空から奇襲されたならば魔人警察官であってもひとたまりもないのは道理だ。

少女が瞬間移動の持ち主であればまんまと逃げられて後日急襲されたかもしれないが、何とか目で追える速度ならば倒す目はある。

この戦を制したらまずは取り逃した野球坊主全員にトドメを刺さなくては行けないのだ。

皆殺しの見通しは立った。

降り立った少女目がけ、長崎くんちの龍踊よろしくツイストを交えて突進する。

少女は左右にステップして躱すが、龍は少女を中心にとぐろを巻くように動き退路を塞ぐ。

少しばかり移動能力に長があろうと、動ける隙間を全て潰せば一切の有利は失われる。

腐っても魔人警察官、対魔人の戦闘経験も幾らかは積んでいる美濃なりの必殺の型。

螺旋の下部は幅を狭め、巨躯を支える脚が大地を踏みしだく。

いずれ少女は潰れ、奄美の作った何倍もの深さの血の池を全身から滲み出させることだろう。

勝ち誇った百足龍は、何か胸を締め付けられるような気がした。

まだ殺戮を始めた本来の目的は全く達成していないのに、こんな所で少女一人に勝っただけで喜ぶ自分へのさもしさからだろうか。

違う、物理的に締め付けられている。

自らと全く同じ姿をした百足龍が、絡みつき節という節をへし折りに来る。

不意を打たれなかったならばこの姿に慣れた美濃が押し返す余地は十分にあっただろうが、帽子で作った神経節の大部分が潰されて巨体の制御が効かなくなって来ている。

彼は残された必殺技を使うことを決意した。

警察官の標準装備、拳銃が美濃の肉体には融合している。

絡み付かれて敵も動けない今こそが好機、動かなくなった龍身部位の全てを火薬の推進力で外側へぶちまける。

この日、百足龍が姿を現してから地響きは絶えなかったが、それでもこの戦闘で最大の轟音が響き渡る。

布切れ端切れが打ち上げられて、細々になり舞い落ちる。

無事だった帽子を破壊された脳の代わりに、美濃は人間体へと戻っていた。

マネージャー少女、あの魔人の耐久力は未知数ではあるが同じ龍の姿を取っている間ならば恐らく美濃同等。

あの必殺技の前に深い傷を負っていることは確信済みだった。

土煙が晴れると、確かにあの少女の倒れた姿が残されている。

近付き、脈を取ると確かに死んでいる。

敵が居なくなったと分かると奄美の元へ駆け寄って見たが、こちらももはや死は確実という状態だった。

相棒を殺されて、頭蓋を破壊されて、得るものは無かった。

奄美が始めに倒されなければ、敵の服の中に虫を沸かせてそのまま美濃の能力で服と皮膚を癒着させることで反撃の余地を与えず、余計な傷を負わず、どんな相手でも倒せる算段だった。

美濃は憎んだ。

欲望を露わにし、破滅を呼ぶだけの天使の図柄。

ある日奄美の手元に現れた"節制"のタロットカードを。

街灯は遠い。

星は少ない。

河川敷は暗い。

奄美の背後、突如明るい火が灯された。

そこには、季節外れの桜が咲いていた。




比嘉は帰ってから他の部員達へとLINEやメールでメッセージを送った。

その夜に返事は返って来ることはなく、彼は憂鬱な朝を迎えた。

昨日の出来事が全て夢であれば良かったのに、そう思い登校した彼は廊下にまで響く教室の馬鹿騒ぎに嫌気が刺し、このまま帰ってしまおうかとも思った。

しかしそれでは昨日の出来事に捉われ続けることがこれからも確定するようで嫌だった。

自分は生き残ったのだ。

若くして死を遂げたチームメイトのためにも、有意義な学生生活を送らねば申し訳が立たない。

決心して教室へ入った彼が目にしたのは、抱き合う野玉と真井、それを冷やかす潮田、市田、西、三鷹。

西と三鷹はクラスが違うが一年の頃からの付き合いで、普段からこの教室まで遊びに来ている。

しかし彼らがここに居るはずがない、少なくとも無傷は有り得ない、という比嘉の困惑を他所に、彼の肩に衝撃が走った。

「おっ、来たか比嘉ー。オレ達、付き合うことになったんでヨロシク!」
「ヨロシクでーす!」

テンションの高い野玉が肩を組んできたのだ。

呆気に取られてやはり昨日のことは夢だったのかと思いたかったが、野球部の野玉と真井以外の連中は比嘉に近いおかしな態度を取っていて、夢だけど夢じゃなかった!と喜んでいいのか今見ているのが夢なのかと悲観するべきなのか感情をどうするべきなのか分からない。

そんな困った状況の比嘉に耳打ちをしてきたのは最近まで同じ控えだった潮田。

「比嘉! お前は昨日のこと覚えてるよな? 野玉がなんか変なこと言ってるからあれが夢か幻だと思ってたけどみんな覚えてるんだよ! 俺が異常って訳じゃないんだ、俺はやっぱりあの時天使に触ったんだぁ!!」

潮田はとても普段と同じとは思えない状態で、なんなら野玉より頭に異常があるように見えたがあの場にいた比嘉は彼の言いたいことが分かる。

あの邏卒が持っていたカードのことだろう。

「潮田ってばさっきから変なんだよー、あっそういえば昨日は練習途中で抜けてごめんなー?」

もう片方の耳から話しかけて来る野玉の言葉に比嘉は仰天する。

コペルニクス的展開!

現実と夢のどっちがどっちなんだ分かんねえ普段大したこと考えてない一介の高校生の俺には難しすぎるよ!

と比嘉の思考は強制終了のコマンドを入力した。

しかしそれでも続く野玉の言葉は夢現の中で頭の中に入り込んできた。

その最中にも教室へと次々なだれ込んでくる野球部のメンバー達。

ああ、分かった。ここはあの世だ。みんな死んだんだ。

一人の高校生が結論を出した後も、彼の肩を組む主将の論説は続く。

「いやさあ、昨日目に入った10個の占いで全部恋愛運最高だったんだよー。
それでさー、更にいくつか検索してみたらそのどれもが俺の恋が成就するって言ってた訳。
おみくじも当然大吉。
そんでまあ以前から気になってた真井誘ってさ、星を見に行ったのよ。
いや俺だって始めは練習抜ける気無かったぜ?
でも練習中に真井と目が合う度にもう胸がバクバク言ってもう練習に身が入らない所までもう来てたのよ。
野球人生にも関わって来るレベル。
それで休憩中に真井に告白しました!
OK貰えたよ!
でもこの状態で練習に身が入るかっていったらやっぱり無理でさ。
困り果てた時に現れたんだ、俺と真井の『ソックリさん』が!
練習替わってくれるっていうから二つ返事でお願いしちゃってそのまま昨日は遅くまで二人きりで星見ながら散歩してた!
うわあロマンチックだ俺!」

頭に入って来るけど脳は理解を拒む。

その『ソックリさん』ドッペルゲンガーだろ、どっちにしろ死んでるんだ俺達!

比嘉は悲観とも楽観とももう分からない境地で昨日から開いてない携帯を確認した。

すごい数の返信来てる。

あの世にも電波って通ってるんだなあ。




『わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。

悪そうな奴らは大体友達(セフレ)

この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!

この桜にピンと来たら110番』

この一見意味不明な文章はあろうことか一時期全国津々浦々の交番に貼られた指名手配の貼り紙である。

警察庁ができる限り市井にインパクトを残そうと威信をかけて作ったテキストであったが、人々の失笑を買うばかりで次第にその数を減らしていった。

しかし当時の警察上層部の歴々からしてみれば本当に重大な案件だったことには間違いがない。

指名手配犯・花咲 キン(はなさか きん)

どのような悪党でも道を譲るような純粋な快楽主義者にして両刀使い(バイセクシャル)

理外の異能を手にした魔人にして、闇医者という肩書を持ったこの男に世間は居場所を作ることを許さなかった。

彼の魔人能力は『火葬大賞』。

灰燼(はい)復活(イエス)に通じる生への絶対肯定を根底にした異能。

灰となった生命に炎を通して再び生命を与え、与えた命をまた灰と炎に分解することができる生命倫理を置き換えかねない能力。

普段は一度灰に変えた桜の花弁に炎と生命を流し込み、その炎を流用して身近な死人を蘇生していることから桜がトレードマークとなっている。

否、他の特徴がなさ過ぎたのだ、この男には。

警察が追い詰めた悪党の多くが彼との臥房の思い出と美貌を口にしたが、容姿はどの供述でも全く異なっていた。

老爺であることも、少年であることも、時には女性の姿を取っていることすらもあった。

「その理由が、この子って訳っスか」
「まあそういうことさ」

警察官・奄美額佳は拘束着のまま手術台に寝かされ、警察官・美濃武死は裸で麻酔を嗅がされて隣の手術台に寝かされていた。

彼らを見下ろす四、五十代の男、花咲キンは隣に座る少年或いは少女、その分別も付かないような天使のような子供『ソックリさん』を愛情の籠もった手つきで撫でている。

「ワタシが聞きたいのは私に関する話でも警察の話ではなくてこのタロットカードの話さ。
これが何なのか、知っている限りのことを答えなさい。
君達を悪いようにはしない」

その言葉に嘘はないだろう。

奄美達は野球部員に化けた花咲と『ソックリさん』に手傷を負わせ、『ソックリさん』に至っては一度死に至らしめた。

それにも関わらず、あの場で死傷した野球部員同様彼らの傷は桜を通じた炎で完治するように処置されたのだ。

「はい。俺達は魔人として差別を受け続けながら昇進の見通しも立たず、危険な現場ばかりを担当させられる今の職に不満を抱いていました。
どうせならば魔人に非魔人達が従えばいいのに、そう思い続けていた時に俺の手元に現れたのがそのカードです。
大体のルールはそれを手に取った時に分かったことでしょうが、俺達はただ一点、他のカード所持者と出会うとそれがなんとなく分かるという部分に関して混乱していたんです。
何しろ自分達は職務上あまり遠くまで出歩くわけには行きませんからね、もしかしてどこかで他の所持者に出会っているのではないかと疑心暗鬼でした。
それで何もないまま期限の五十日が近づいて来て焦ってですね。
そんな中どう解決するんだって通報が入ってフリークアウトしました。
その辺に他のカード所持者がいたならばという一縷の望みを掛けての行動だったんですが、やっぱりその辺に都合よく所持者はいませんでした。
どっちにしてもそろそろ消える所だったのに一般人に迷惑をかけてしまったのは今考えると本当に申し訳ないです。
美濃、隣の同僚は俺に賛同して協力してくれただけでカードは持っていません。」

奄美の口調は、タロットカード所持期限の五十日を気にしなくて良くなったおかげか随分とスッキリ歯切れが良くなっている。

「ありがとう、参考にするよ。
暇を見て解放するつもりだからすまないが暫くはそのままでいてくれ。
無論昨日からのことについては他言無用だ」

手術室を去り、花咲は『ソックリさん』の手に握られた天使の紙片を見た。

「そのカードは強い願いに引き寄せられるらしいが、君の願いはなんだね?」

『ソックリさん』は答える。
その声からはやはり性別など捉えることができない。

「恐らくはセンセイと同じです。センセイがあの人達を許し、世の悪人達を治療し、不幸な死を取り除こうとするように、その先に待つ未来、私は世界が絶対に幸福であって欲しいと願っています」

「ワタシの場合はわざわざ被る必要の無い一切の不幸を葬りたいという消極的な部分もあるが、まあ概ね同じだろう」

昨日も、二人は野球の練習を眺めていた小さな男の子に先天性の疾患があり、一生激しい運動は行えないだろう未来を否定するための飴を託した。

「それにしても"節制"か。ワタシの元には引き寄せられてこないだろう相性の悪そうな言葉だね」

タロットカード"節制"。

カード番号は14。
カードの暗示は正位置では調和、自制、節度、献身。
逆位置では浪費、消耗、生活の乱れ。

確かに限界まで幸福を追求しようとする快楽主義者には似合わないカードだ。

死にかけの奄美から離れゆくカードが、結局一度も死ななかった花咲ではなく蘇生したばかりの『ソックリさん』に移ったことにも納得がいく。

しかし、天使はそれを否定する。

「いいえ、この世にある幸福全てを考えれば今センセイの知っている快楽もきっと一滴の雫のようなもので、人はもっと多くのものを求めていいはずなのですよ」

この天使の名前はソックリさん。

いつから生きていたのか、これまでどのように生きていたのかは自身も含めて覚えていない。

しかし、ある闇医者に育てられて、過去の空虚を超越する未来の充溢を知ろうとしている。

その魔人能力は『タロードール・ボン・ボン』。

子供(キャンディー)大人(アルコール)を超越する無限の長さを持った一本の芯。

切っても切っても同じ顔の金太郎飴のような、そんな異能である。
最終更新:2020年09月27日 23:56