★星
昨今の流行病とタロットの噂のため、人通りはない。平時であれば留守の交番詰所は、光パラフヰンを灯す。生涯現役を決意する巡査長が夜を睨む。
闇に横切る影が一つあるいは二つ。
巡査は後ずさりながら腰に手を添える。鉄砲に触れるが、きっと彼は、人を撃たず生涯を終える。幸せで平穏な生活のために。
夜を歩くものは、巡査を意識すらしない。
小市民に気を散らすほど、彼の戦歴は薄くない。
金糸の短髪を夜になびかせる姿は、たとえ子供だとしても。
「ジョバンニ、そこの角、いかにも罠。注意ね」
少年は、幽鬼の装いの先行者に注意を促す。ジョバンニと呼ばれた女性は、聞いているのかいないのか、勢いよく曲がった。
丸の内線の地下駅へと続くその路地に、街灯はない。月と周囲の街明かりだけ。だのに、路地は光輝いていた。
吸殻と空き缶と吐瀉物に汚れた路地に、光り輝く清流が描かれてる。
突然の光景に言葉を失った二人。
口を開くはジョバンニ。
彼女は清流をさして叫んだ。
「川の中に石がある!」
ジョバンニが清流の絵に一歩足を踏み入れると、水しぶきがあがる。彼女のくるぶしは絵の中へと沈み込んだ。
もう一歩もう一歩。
人体構造、歩幅、沈下の推移を考えれば、ジョバンニは数歩で、まったく溺れてしまう。なのに彼女は一向に歩みを止めない。
「この川、深い!」
敵対魔人の虜だと、明白である。
ジョバンニは水難の常にもれず、恐怖と死の予感を、流水より冷たく震撼した。我が身のコントロオルを失う。
だが彼女は安心する。
心から信頼を寄せる友人がいるから。
金髪碧眼のモダンな少年、カムパネルラはため息をついた。
(注意してもこれだ!)
(よりによって川に!)
カムパネルラは路地の壁を斜めに蹴ってジョバンニに近づく。
壁から魑魅魍魎が。走りながら鵺を斬り落とす。
「ちょっと痛くても我慢してよ!」
水道管を足をひっかけ、力み、川の右岸から左岸へ跳躍する。宙空でジョバンニのわきねっこを掴み、もちかかえ、川の支配から脱する。
「川の中の石が――」
「一旦あがるよ!」
暴れ、なおも川へと向かおうとする友人を抑えつける。成人女性の大暴れを、赤子をあやすようにいなす。それだけの膂力が、少年の細身に宿っている。
カムパネルラは冷静な判断力を決して失わない――友人が望む限り。
ジョバンニの魔人能力は『銀河鉄道の夜』。友人カムパネルラを理想の姿で顕現せしめる能力だ。
理想の腕力でもって、友人を抱えたまま、室外機を蹴ってビル壁面を駆け上がる。
屋上まで行き、友人を検分る。
星を一つしか知らない宇宙みたいに深い瞳。『川』の精神汚染から逃れて、消沈している。
「川の中つめたく重く身じろぎもできない奥の底でお前は……」
ジョバンニは両腕と奥歯に力を込め、心底の震えをどうにか堪らえようとする。
恐怖の源――彼女の願いである『あやまち』に関わる問答は一切せず、カムパネルラは体重300kgの肥満体で友人をあすなろ抱きしめた。あたたかく重く、頼りがいのある腕が、ジョバンニの心をもやわらかく抱擁する。
「震えがおさまるまでは、こうしてあげるよ」
「ベイマッ――カムパネルラ……」
安心感、頼りがいのある抱擁が理想と気付いて、ジョバンニは顔を赤くする。カムパネルラの腕をらんぼうにほどく。
「ばっ、バカじゃね~の! 敵地でうかうかしてられっか!」
するとカムパネルラはしゅるしゅると元の少年の姿に戻り、微笑む。
「かお、まっか」
「うるさい変温動物だ文句あんのか!?」
ムキになるジョバンニと、飄々とするカムパネルラ。
これくらいの距離感がいい。
これくらいの距離感がいいと思ったのはどちらか。
◆悪魔
【…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………】
幻聴は、耳障りな声で昼夜問わず大音声で頭の中を暴れまわる。そして囁く。
【交渉します。現在頭を抱え、膝を丸め、泣きじゃくり、鼻水が垂れているグラフィティ・カズマ、年齢21歳3ヶ月9日4時間55分4秒の、本名小川一真さん。いま私の声を聴いて鼻水を拭いたようですが、あなたの大事な鼻ピアス、K.O.の印字、君が16に初めてつけて以来一度も外していない鼻ピアスに、鼻水がべっとりくっついています。汚い! 汚品ですよ。汚品。汚い品。汚いは汚い、綺麗ではないから汚い!】
もう63時間も寝ていない。眠れるわけがない。
頭が割れるような幻聴。
神経に障る音と情報力。
不規則で理不尽な取引。
応じなければ、この上ない音量は、ますます大きくなる。以降決して音は下げてくれない。どれだけ訴えても。
チューインガムで抜けた永久歯の代わりの金歯、兄弟のと混じらないようイニシャルが書かれた靴下、誰にも秘密にしているオタク趣味全開の1/16全駆動の美少女フィギュア。
なぜか知られている。
そして買い叩かれる。たった1円で。
【やる、わかった、やる! やるから黙ってろ!】
【黙って、ろ?】
【いや、すみません、あの、少々、そのぉ、静かにしていただけると】
【交渉成立。お互い同意の上での即金即決取引、これは疑いようもなくとても満足ですね】
幻聴は、交渉(という名の恫喝)に応じるまで、わめき続ける。
そして交渉が成立してしまえば、瞬時に取引が開始される。
俺様の反逆を象徴する龍の意匠の鼻ピアス、消え去った。
たった一言の返事で、接収されてしまった。
しかし一時の平穏が得られるのなら――
【交渉の時間です! 交渉の時間です!】
【な、なんだ! 今、今、今今今今今ァ! まさに今さっき取引は終わったろう!】
【本日深夜、あなたの魔人能力を用いて川を作り、星を殺害してください】
星。アルカナだ。やっぱりそうだった。終わりだ。全てはアルカナに関わったせいだ。どんな望みも叶う? はっ! タロットはまな板で俺様は鯉だ。大海を、広い世界を望むべきではなかった。願ってはいけなかった。
そもそも願いは他者の力で叶えるものではなかった。
【成功した場合、髪の毛一本。失敗の折りには、あなたの心臓を買取ります】
――思ってはいけないことを、思う。
抗えぬ契約を結ばぜる、こいつこそが悪魔だ、と。
【あなたのとても素晴らしい作品であればお互いにとても満足できる結果になると期待していますよ。それでは。…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………】
――作品を認められることが、こんなに不愉快だとは!
そして現在。
失敗した! 失敗した失敗した失敗した!
調整し、誘導して、川に陥れた。だが脱出された!
星の殺害は不達成。仕損じれば『心臓を要求する』とあいつは脅した。
【こ、俺様は取り返せる! 奴ら、俺様が直接、殺せる、呪霊の類が最も強まる丑三つ時、もうすぐ、俺様の本気なら殺れる!】
なんの声も返ってこない。
心臓が、バクバクと鳴る。
この鼓動が、いつ、今にも、瞬時に抜き取られる。
今か、今かと。
ますます強まる鼓動が、耳をうるさくする。
俺様の裡で鳴り止まない音、本当に幻聴ではないのか?
心臓はまだ本当にあるのか?
【心臓、奪いに行くよ】
身の毛が一本一本、毛根が開いて、鼓動とともにさざなむ。
胸に手を当て、力強さを確かめる。願う。これだけは、と。命だけは奪わないでくれ、と。祈る。
1分……ほどだろうか。300拍は数えた。
心臓は奪われない。
俺様はすっかり落ち着いた。
心音は聞こえない。
奪われたわけではない、そうだ、平常なだけ。
幻聴もない。
あれは単なる脅しだった。俺様から奪うことはできない。
冷静になれ。
あの声は、瞬時に物を買い取ることができる、それは確かだ。
売買だ、取引だ、契約だ。同意がなければ何も奪うことはできない。
――理解した。
所詮、俺様はビビらされていた。ビビらされただけだった。悔しい、悔しいけれども、悔しいだけ。それだけだ。許すまじ。この恨みハラサーディ置くヴィーギーか、殺して雪ぐしかない。
あの声は、奪いに行くと言った。つまり、ここへ来る。ならば返り討ちにしてやる、どんな戯言をささやかれようとも――。
「なァ、アンタ。教えてくれないかい」
水晶が心臓に触れたような、逃れられぬ冷酷。
畢竟、俺様は半グレにすぎない。殺すとか殺さないとか、作品を認めさせるとかなんとかは、餓鬼の遊びにしかすぎない。
三人目の――
本当の、本物の悪魔が、俺様を見下ろしていた。
「季節の変わり目に変態が現れるのは、やっぱり、気温のせいなのかねぇ?」
悪魔は、婆ァの姿をしている。幾重に重なるひたいのしわを撫でながら、蔑んだ目で俺様を見ていた。
変態?
あっけにとられ、はじめて、自らが裸体だと気付いた。
いつから? 分からない。俺様は落ち着いていた。悪魔の取引を克服し、落ち着いていた。落ち着いていたはずだ。自らの衣服が『取引』されていれば、とうぜん気がつくほど落ちついていた。おち着いていたはずだ。落ち着いているのだから、おちついている。
――そう自分に言い聞かせていただけ?
俺様は、ひどく赤面した。
怒りのために。
俺様は道化師ではない。輝くべき明日がある。
どんな敵がいようとも、俺様が勝ち、アルカナを手に入れ、望みを叶える世界があるはずだ。
俺様は生きている! 人形ではない。
人権を守れ! 基本だぞ!
「……悪いが道開けてくれねえか。どうしても殺さなきゃならねえやつがいる」
「アタシはいいけど、そっちの二人が許してくれるかね」
裏の空気をまとった婆さんが、なんてこともないように、杖でさした。
悪魔に捧げそこねた贄が、俺様を睨んでいる。
「おい猥褻物陳列罪、はい極刑。死ねやカス、銃殺刑に処す」
……いつもいつもどいつもこいつも。
「俺様は芸術家だぞ!」
奥の手を使って切り抜け、あの声の主を探す。草の根をわけてでも。
俺は胸に手をあて、能力を発動する。
怪物の落書きに魂を吹き込み、凄惨な死を撒き散らす俺様の能力『ラクガキ殺人事件』の、中2の頃に描き上げた最高傑作! ジャバウォックよ、目覚めよ! 全ての敵を切り裂け!
俺様が勝つ未来を、切り拓け!
――。
「フハ、ハ、いひひひっ!」
ジャバウォック、顕現せよ!
ジャバウォック、強いだろ!
俺様、やれるだろ!
やれる、勝てる、タロットを集めて勝ち続ける、そうだろ!?
そうだろ!?
そうだろ!!!
「気狂がよ」
乾いた炸裂音。
快感。恐怖からの開放。
輪郭は女。闇の中の影。
なにごとか囁いている。
【草ァ~】
――俺様の意識は、脳漿とともに、暗い路地にぶちまけられた。
★星
自称・路上芸術家が、恐怖に一人で戦っている頃。
ジョバンニは、恐怖に二人で戦い、打ち克った。
二人にとって、『川』は後悔であり禁忌である。
この急所を知るのは二人以外いない……はずだった。
「情報戦で負けているね。もっと慎重になった方がいい」
「ア゙ア゙ァ? オレがぶっ殺してやる!」
「だから冷静になれって……」
二人でバランスを取りながら追跡を再開する。すぐに、二人をうまく誘い出した『川』の製作者/アルカナ所有者・カズマは見つかった。そう離れていない。
彼の能力は落書きによる罠。手の内は、ここまでの追跡――誘導された経過で分かっている。
裸になって通行人と対面しているカズマを見つけて、カムパネルラは警戒を高める。
ジョバンニは猪突猛進した。
強襲する強みで、ジョバンニは獲物を構え威嚇する。
闇を切り取る、白き銃身。
冬の雲のような銃身から、雹の如き大粒を浴びせる散弾銃。
銃口を向けられたカズマは、血走った目で右上に走らせ、胸を叩き、強く掴んでいる。まるで、心臓を奪われまいかと怯えるように。
口角は歪み、怪笑を響かせる。
狂ってる。
ジョバンニが引き金をひく。芸術家らしい不健康で傷ひとつしみひとつもない玉肌が、無残に四散、三々五々にえぐり取られはじけ飛ぶ。
血の流れは、ジョバンニの靴下までのびた。血は光となり、ミルクをこぼしたように白く輝いて見えた。
銃殺した芸術家の死体もアルカナの獲得も気にとめず、ジョバンニは散弾銃を構えたまま。目をそらさない。
銃口は、カズマの死体の向こうに立つ、杖をついた老婆に向けられていた。
「おやまあ、お転婆なことで」
「知っているぞ、黒埼茜。オレは、お前を、知っている」
「おやおやまあまあ! アタシみたいな有名人にあって舞い上がっているのかい? サインをかいてあげようかお上品な娘さん。ついでにあんたのことも教えてくれちゃあ、くりゃせんか。それと今消え去った変態のお友達のこともね」
「……あと5秒で、お前を刺す」
「可愛らしいことで」
闇に対峙するは黒埼茜とジョバンニのみ。
――ジョバンニの『銀河鉄道の夜』は友人カムパネルラを理想の姿で実体化させる能力である。
実体化のON/OFFさえ切り替える、それだけで、神出鬼没の不可視の殺し屋が誕生する。
「それじゃあ冥土の土産にひとつ」
1秒……。
「あたしを知ってると言ったね?」
2秒……。
「だれの情報か知らないけどさ」
3秒――黒埼の小さな背に、白刃が光る。
実体化したカムパネルラのナイフを、振り返ることもなく杖を振るってはたき落とす。
「あたしが糞ジャリに殺されるほど耄碌していると思っているのかい?」
ジョバンニは二度目の撃鉄を夜に響かせた。
◆塔
――軽い。
――鉛の重さ程度ではね。いくら火薬でごまかしたって、軽すぎる。
右手一本の杖一本で散弾すべてを叩き落として、黒埼は内心ためいきをつく。
遊んだ左手を恐れて、理想の殺し屋であるカムパネルラは背後で攻めあぐねていた。
「素直な娘だねえ。銃で人を殺せると思っているなんて」
「ありえねぇだろ……面白ぇー女」
「人を殺すのは武器じゃないよ、お嬢ちゃん」
黒埼は身をそらして、両人差しをピンと立てる。一方はジョバンニに、もう一方は実体化していないカムパネルラに。
指銃。カムパネルラはこめかみに銃を突きつけられた感覚があった。意識だけの存在だからこそ、彼女の殺る気がわかる。
そして、殺意の弾丸が放たれる。
「ぱん」
黒埼とジョバンニの間に、カムパネルラが割って実体化する。冷や汗をかき、両腕を胸元で十字にする。どんな困難からも友人を守るために。
もちろん、黒埼の正体はコブラではない。指から放たれたのは、気だ。気。
ただの気のせいだ。
「豆鉄砲くらったような顔しちゃって、まったく笑わせるねぇ。笑っていいかい? ……ほら、いいともーって返しなよ。面白いから」
「……面白すぎて笑えねえよ」
「面白すぎたら、笑いすぎるべきさ。ガキは基本的なことから間違える。義務教育の惨敗さね」
黒埼は杖を指揮棒のように、くるり、杖は蛇腹に拡張し、仕込まれた刃がしなる。その禍々しさを月下に晒すこと恐れ、月は雲に隠れた。
歴戦の殺し屋による、真っ向の殺気。
ジョバンニは銃口を向けるどころか、立つことすら困難極めた。
そして彼女の理想の友人も――。
――カムパネルラは友人の理想である。それゆえに、敵うことが想像もつかないのなら、無力と化す。
理想が立たたぬなら、ただ這いつくばるのみ。
「人生の先輩からひとつ、あんたらに教えてやれることがある」
黒埼の腕が振りあげられる。
迫る死を打ち倒す理想を、ジョバンニは思いつかない。
相手は伝説の殺し屋。
いかなる反撃も、封殺される確信が脳裏にこびりつく。
「あんたには望みを叶える想像力がない。だから死ぬ。愚かなゲームに参加して想像の外の化け物に殺されるんだよ」
ジョバンニは黒埼茜に敵/叶わない(五七五)。
圧倒的強者を前にして、ジョバンニの胸からほろりとアルカナが抜け出た。
◆塔
「二人で一人前の発展途上が、明日最盛期のあたしに勝てるわけないだろ……」
格付けが終わり、黒埼の脳裏によぎるは、単純な疑問。
なぜ三つのタロットがこの場所に集まったのか?
参加者同士ひかれあう、だけでは説明がつかない。
単なる偶然でタロットが三つも八つも集まるはずがない。
何者かの手引きがある。
手がかりは『耳』。
声だ。
彼女の耳は、この場で四つの声を聞いた。
ジョバンニ、カムパネルラ、カズマ、カズマの脳内に響く声。
声と言うにはあまりに異質な念話。音によるものではない。しかし、声は声。黒埼の『耳』には聞こえた。
黒埼茜の魔人能力『神眼神耳神鼻神舌神肌』。
その修飾は過剰でない。神の五感と呼ぶにふさわしい。感覚は超越し神域に達する。
世界中のこどもたちが一度に黙ったらアフリカ砂漠に1滴の水が染み込む音さえ聞こえるだろう。
カズマは脅迫され、路地裏での戦闘を強いられた。星のジョバンニを殺すために。
結局、彼は成果を得られず死んだ。黒幕の作戦が外れたのか?
違う。みな殺すのだから順序など関係がない。
ゲーム参加者が一人減った。その結果だけで御の字だろう。
――こーいうタイプはなる早で殺す。暗躍されるのが一番厄介だ。
次の目標を探るにしても、足音も体臭も体温も分からない。
情報屋に頼る選択肢が黒埼の頭をよぎるも、そのまま通り過ぎていった。
黒埼は探偵でもある。
だからこそ、調査のキモは地道な積み重ねだと知る。
黒埼は感度をあげる。
気付いたのは『鼻』だった。
ついさきほど嗅いだ匂い。黒埼はすぐ思い当たる。
ジョバンニに撃たれ、血肉を撒き散らしたカズマの匂い。
(あの変態芸術家のねぐらにしては、生活臭が少ないな。ほんの僅かな精子ほどの体液……)
とりあえず匂いのある方向をさだめ歩く。
匂いに近づくにつれ、焦りが生まれる。
カズマの僅かな残滓の周囲に血がまみれている。
知っている血。
彼は呼吸を乱し、なにごとかをつぶやく。言葉は不明瞭。「聞き取れない」のではない。意味のある言葉を発せられないほどに崩れている。
うわ言のなかに、黒埼は、自分の名前が呼ばれるのを聴いた。
「情報屋……!」
黒埼は歩を早めた。
これから向かう先、なにが待ち受けているのか。
感覚と殺意をたぎらせて夜を走った。
◆情報屋
カズマがジョバンニを誘い出し路地裏でかち合う数分、十数分前――。
お求めやすい価格の分譲マンションが四つ並んで建つ、閑静な住宅街。
上層でも下層でも角部屋でもない一室が、情報屋のアジトのひとつだった。
「――俺がこうして頭下げてるのに!」
「音で分かるよ。あんたがふんぞり返ってんのがね」
アロハシャツにネクタイしめた小男は『神の耳』に平生の軽口を演じた。
平凡を装い、平凡な風体をしていれば、あまり怪しまれない。
奇抜を装い、過激な言動をしていれば、怪しまれるに留まる。
「――姐さんの信じる俺の言葉を信じてくださいって! マジでトランプマン、いやタロットマン! いやタロットウーマンかも知れんけどさあ! タネ無しなんだ! 東京は去勢獣に侵略されてるんだよォ!」
「口も脳みそも空回りして、あんたにどんな取り柄があるってんだい」
「――とにかく頼んまさァ! ちょちょいのちょいしてやってつかァさい!」
怒りと呆れ、終始うさんくさく信頼のないまま強引に通話は終わる。
とたん、軽薄な雰囲気は静まり、嘲笑の暗い笑みを浮かべていた。
「俺ェの演技はどうだ? なかなかのもんだろ」
情報屋は、座る女性に目をやった。
撫で肩の、優しげに垂れた目尻の、どこにでもいるような普通の主婦。背もたれのない椅子に、両手かさねて佇んでいる。かたわらにエコバック。
断捨離のマリ。
表情に一切の感情がない。
情報屋はあらためて、軽薄に振る舞う。
「あのババア、チョーッョだぜ? 殺し続けて八〇年、全ての依頼を達成しているんだ。文字通り、全てを。1に1足せば2、1たす1も黒埼に依頼すれば死、簡単に弾き出せる計算さ。あんたがなんであれ、指で数えられる程度なら自殺行為だ。なにィ考えてんだ?」
「知りたいの? 情報屋の血かな」
「い~~や知りたくもないね。俺が知りたいのは、あんたが俺に、どんな数を出すのかだ。――なァ、それなりに危ない橋を渡ってんだ。黒埼茜の命と釣り合う本物なんだろうな?」
「食べてみれば分かるよ」
マリはエコバックから取り出した。
じゃがいも。
「おっとこれじゃない(てへっ)」
じゃがいもをしまう。ごそごそ。
「ハツ肉だったね」
情報屋は眉根をひそめる。
「……あンたの主婦ジョーク、分からねえよ」
「ハツ肉には違いないでしょ?」
マリは形だけの微笑を浮かべ、血のしたたる心臓をかかげた。
心臓は巨大。人の頭のふたまわりはある。
力強く鼓動している。
切り離されてなお、命と力を主張する本物の強者の心臓。
情報屋は息を飲む。
「確かにおっとろしいが、これが本当に龍の心臓なのか?」
「取引実績全てとても満足の私が嘘をつくと?」
「……あんたと違って便利な目利きはできねンだよ」
魔素を帯びた心臓を、しげしげと眺める情報屋。
――彼はマリの『主婦でない顔』を知っている。
マリは転売をする。
『健康器具やアクセサリ、土地、個人情報、龍の心臓』。
彼女のプロフ欄に嘘偽りはない。
マリは個人情報を売りさばく。
マリは龍の心臓を売りさばく。
マリの実績に頓痴気はない。
実績がある、情報屋として幻想稀種転売者としての。
「だから食べてみればいいのに。効能は知ってる?」
「誰だって知ってる。知ってるからためらってる。――――ためらっているが、裏切りの代価だ、もう俺のもんだ」
情報屋はマリの手から心臓を奪う。
脈打つ心臓は無尽蔵のエネルギを感じさせた。
尋常ならざるの重み。
存在しない存在感。
情報屋には、この逸品を手放すマリの心情が分からない。
(夫の浪費は転売するが主婦の知恵と嘯いているが……)
「そうやって観賞用に飾るなら、ZnOガンズ5次元空間ミストタイプがオススメだけど」
「本当に怪しげなもんを勧めるな!」
――姐さんならいつものごとく切り抜けるとは思うが、まるっきり陥れたんだ、危ない橋を渡ったぶんモトはとってやる!
情報屋は龍の心臓に歯を立てた。心臓は強靭で、まったく噛み切れない。
歯の隙間から焼ける炎が、心臓のあぶらが喉元を通る。喉が焼けただれる。
騙された!
熱さと怒りに歯を食いしばると、伸び切ったゴムのごとき感触が口中で。龍の心臓を噛み切る。とたん、骨すら灰に変えるような熱が、喉と言わず血と言わず、体中、心臓にたくわえられた魔力が情報屋を巡る。少しも熱くないわ。生命力に満たされる。心地よい。身体が根本から作り変わっている。細胞のひとつひとつが活性化している。
情報屋は一心に心臓を貪り、そして食べきった。
龍の心臓を食らった。
つまり――不老不死を得た。
「おめでと」
マリの手には、日本刀が握られている。
そして、すでに断っていた。
情報屋の首がぽ~んと転がる。
念願を得て絶頂にいた情報屋は、目を見開く。瞳に、カーペットの繊維が触れているのも気にせず、生首でマリをなじる。
「――、――――!」
「龍の心臓は本物。取引は成立」
脳の指令を失ってのたうつ情報屋の胴体、その四肢を切り落としながら、たんたんとマリは告げる。
「つつがなく、とても満足な取引は終わり。残ったのは用済みのあなた。不老不死で危険なあなた。口先だけの無力な小男でないなら、ねえ、命を断って、望みを捨てて、私の住む世界から離れてくれない?」
「――!!」
「商品は満足だけど出品者の態度が悪いから星1は、哀れみさえおぼえるよ」
マリは主婦だ。
主婦の手際で、暴れる生肉をきれいにおろした。
下味つけて小分けに冷凍保存。
そうすれば長持ちする(主婦の知恵)。
マリはキッチンでなにかを焼いている、鼻歌を歌いながら。
「アレクサ、軽快な音楽をかけて」
「――、――」
「アレクサ、アレクサの捨て方を教えて」
「――」
目の前で自らの肉体を解体され、下味をつけられ、味見までさせられて、情報屋は耐えることができなかった。壊れてしまった。
――壊れていてもかまいません。
ものは言いよう、そして使いようだ。
蓄音機が壊れたら、騒音機として売り出せばいい。
気付く者は勝手に気付く。
めざとく、耳ざとければ。
『神の目』『神の耳』であれば。
――マリは膝を組み、目を閉じて時を待つ。
カズマとジョバンニと黒埼の『商品情報』から戦闘の経過を推察しながら。
想定外の現状がおさまるよう算段を立てながら。
計画とは違ったけれども、すべておさめる。
確信している。
整理は得意だから。
すくっと立ち上がり、生首の情報屋は息を飲む。
――時が来た。
零時の鐘がなる。
1.マリはジャンプした。
2.購入を完了した。
これが答えだ。
結果は五秒後。
断捨離のマリの魔人能力は『メルカリ』。
他者所有の商品情報を知って買って瞬時に送り届けるだけのハズレ能力だ。
こんな弱能力では、なろう小説のひとつも書けないだろう。
◆五秒の決着◆
わずかなカズマの匂い――マリが購入した鼻ピアスを追って、黒埼は情報屋の所在へ向かう。
室内に経産婦の気配ひとつ。
なんらかの罠はあるだろう。しかし目・耳・風・表面温度に、異変は感じられなかった。
――舐め腐りやがって。
黒埼は扉を蹴破ろうとした。玄関廊下リビングは一直線で、玄関から正面に女が座している。蹴破った扉が女を押しつぶす、あるいは切り裂くだろうと。
零時ちょうど。
不意に女が動いた予感がし、黒埼は横へと飛び退った。部屋の中の女――マリは玄関から真正面にいるのだから、横に避ければ射線は切れる。
思考ではない。経験則だ。
しかし経験則は絶対ではない。
突如、扉が内からはじけ飛ぶ。マンションの壁がうなり飛ぶ。そして自らの視界が揺れる。
黒埼はパナマの戦場を思い出した。炸裂するナパーム弾を。
脇への衝撃を耐えた、ふんばった。1秒の半分にも満たないが、たしかに黒埼は耐えた。それで限界だった。圧倒的な速度と質量が、彼女を横切った。吹き飛び、宙に浮く。いや、上半身が宙に浮く。腹から切り裂かれ、くるくると回る。
部屋からなにかが飛び出した。――いったい、なにが?
彼女の感覚は神の感覚。
神の三半規管。
景色が回転する。
月。夜空。マンション。土。隣のマンション。
月。
夜空。
黒い影が湧き出て横一文字に亀裂が入ったマンション。
土。
隣のマンションは影に裂かれ粉塵をあげている。
月。
夜空。
影は平く、果てなく水平に伸びていく。
平たいのは当然。土だ。黒土が地平線を上書きする。
東京は海抜35mの地平線に覆われた。摩天楼がなぎ倒される。
月。
夜空。
女がいる。
一直線に駆けている。
地平線と月。
夜空。
黒埼は顔から着地し、その土の冷たさを知る。
『健康器具やアクセサリ、土地、個人情報、龍の心臓』。
凶器はシベリアの永久凍土。
広大で格安の土地が、マリを中心に東京を横断――横に断つ。
勢いの緩む周縁部ではなく、まさに爆心地にあった黒埼茜は真っ二つに裂かれ、宙を舞い、シベリアの大地に着地。各地で高層建築の崩壊。
マリの購入した土地は、広くとも厚くない。建物倒壊の瓦礫にたえかね第二の地平線はすぐ崩壊にのみこまれる。
地盤が崩れ落ちながら、黒埼は目に見た光景を遅まきに理解していく。
――殺し屋八〇年でさえ、シベリアの大地に迫られたことはない。
――得難い経験だ。
――次は間違いなく対処する。
――北極雪原でもチリ砂浜でも月の海でも応用対策できる。
――だが今回はできなかった。
――次は訪れない。
――土地を購入した直後、マリは外へと駆け出した。建物の倒壊に巻き込まれるから、だけではない。
『黒埼茜の置き土産』を潰すためだ。速度が勝負を決めると、日頃の転売から理解している。
足元やや不確かなシベリアを駆け、マリは商品情報を――商品の位置情報を捉える。立ち止まり、雲のように白い散弾銃が、自らの足元にあると定める。
「『メルカリ』」
マリが購入したのは、列車。
薄っぺらい大地に突き刺さり、突き破り、落ちていく。
あるいは、地上から見上げれば、夜空を飛んでいるように見えるだろうか。
列車とともに落ちていくマリ。
迫る危険に対し、見上げるジョバンニは処理許容量超過。頭上に土の屋根ができ、空が暗く閉ざされた。直後、即席天蓋は壊れ、凍土が月光にきらきらしている。銀河のように。列車が空を飛んでいる。
――理解の範囲を越えたとき、無意識で確かな回避行動をとるほど経験が浅かった。
けれども。
彼女には友人がいる。
「僕が必ず守る!」
――黒埼に格の違いを見せつけられたジョバンニ。
彼女は一度、アルカナを手放した。
黒埼はアルカナを手に取り、力技でジョバンニに押し込め直した。
「ガキが簡単に諦めるな。願いを持ってんなら叶えろ。ただし、自分でだ。お前自身の腕力で掴み取るんだ。想像力を持て。必ずそれをするんだ。抵抗しろ、拳で」
――黒埼は情によって見逃したのか?
ノー。
「アルカナ持ちが誰かに集められてる、直感さ。アタシも動かされた。そいつにとって『生き延びてほしくないヤツ』がいる。だから生かしたのさ。どうせ一度は格付けした相手だ。どうとでもできる」
黒埼は憮然と答えるだろう。後付で。
うら若い殺し屋に憐れみをおぼえたのか?
過去の自分を重ねたのか?
ただの気まぐれなのか?
真実はもう分からないけれども。
心底の恐怖、歴戦の強者と対峙して、ジョバンニは現実の厚みを知る。理想が引き上がる。
中国四千年の歴史が囁いている。
カムパネルラにできないことはない、そう思えるほど。
彼は空中で列車を受け止め、そして――
列車側部に描かれた怪物が目を覚ます。
グラフィティ・カズマ渾身の一作、ジャバウォック。
この想像の外の化け物に吹き飛ばされ、カムパネルラは脱線した。
理想の友人はいれども、理想の敵などない。
環境は変わり、戦況は転変する。
ひとつの理想、ひとつの強さでは生き残れない。
二人に足りなかったのは、対等さ。
お互い対等であれば。
お互いがお互いを支え、そして支えられる関係であれば。
友人ではなく、つがいで一羽の比翼であれば――結果は違っていた筈だ。
――終着駅。常磐線802列車が大地に突き刺さる。
ひしゃげ、それでも直立した列車は、まるで墓標のように見えた。
理想に夢見た少女は、最後の瞬間まで友人を信じていた。
友人を信じ、己を信じていなかった。それがすべてのあやまちだった。
マンション間の細い路地は、石塊と瓦礫が散乱し、変わり果てた。
情報屋でもあるマリは、殺し屋の黒埼茜とジョバンニを以前から知っていた。だからジョバンニを――正確にはなにも所有しない不可知のカムパネルラを最大の敵として捉えていた。
『ジョバンニの理想となる能力』までは知らなかったが、それでも。
だから、策を二つ用意。
カムパネルラを霊と仮定して、『川』による再殺再現。ジョバンニのあやまちはアルカナに込められた売値にて知った。
生命体と仮定して最強同業・黒埼茜をぶつけた。
しかしどちらも結果として失敗。
彼女所縁の列車轢殺(圧殺)でコトは成ったが、結局なにが正解だったか……。
『命だけは』と願ったカズマから最高傑作ラクガキを買い取っていなければ、反撃の余地を与えていたかもしれない。
反撃の芽を潰す用意があった。
結果として見れば、ジョバンニの理想を、マリの対応が上回った形になる。
マリは列車のそばに落ちた二枚のアルカナを拾う。
悪魔。星。
そして割れた屋上広告のそば、一本筋の血痕を引きながら、黒埼がほふくする。
彼女の向かう先には、仕込み杖が。それをマリは蹴飛ばす。
二人の目があう。
まだ勝負は終わっていない――そんな目をしている。
「黒埼さん、あなたは少し、急ぎすぎましたね」
「…………」
「あなたが十九のタロットを揃えて、私が買い叩く。それが一番でしたけども。ままならないですね」
「……アタシが、安牌とでも……?」
黒埼の目には殺意。もちろんマリは近づかない。
「ええ。でも失敗。あなたは全く聞く耳を持たなかった(よくよく考えると計画はどれもうまくいっていないね)」
「……?」
「私は何度も繰り返したのに。【依頼は達成。タロットは全て消滅した】って」
マリがポケットから取り出したのは、灰。
黒埼が向かっていると気付いて、情報屋のアジトで燃やしたもの。
紙製の市販のタロットカードの成れの果て。
「あなたの依頼主は私。あなたの望みは依頼の完了。あなたはいつでも捨てられる駒のはずだったんだけど……。ふふっ、おかしいね、殺し屋が生殺与奪権を他人に委ねるなんて」
「あっ、お、あ……」
マリの言葉を理解して、嗚咽のような、衝動のような息がもれる。
黒埼の体が輝きだす。
『満願成就によりアルカナを失う』
『アルカナを失うと体は光に変わる』
黒埼の聴力は自在。その補助機能として、自身に被害を及ぼす声は、無自覚にシャットアウトされる。マリのテレパスを無自覚に断ち切っていた。
しかし彼女は今際のきわにあり、もはや死は避けられない。安らかな死のために聴力が蘇ったのだろう。
あるいは、自らの無為に命の糸が切れたか。敗北を認めたか。
とかく決着はついた。
黒埼は風景に溶けていく。
「ああ、本当に聞こえてなかったの。このタイミングで望みがかなった判定なんだ。うーん、事実を認識が上回るのは魔人能力と同じ仕組みではあるか。望みがかなった、という認識が大事なのかなァ。となると成就偽装で排除も視野に入るか。いや、本当に叶ったのかな。言葉遊びの域を出ず、たんに諦めたようにも見える……」
消えていく黒埼を観察しながら、マリはぶつぶつ独り言つ。
指が肩が胸が消え、光の奥で黒埼の目が残る。
輝きでは消せない、漆黒の目。
マリはにっこり笑い返す。
「望みが叶ってめでたいですね?」
黒埼の『神の目』で見るマリの姿は、正義でも悪魔でもない。
高みから見下ろす塔でも、遠く綺羅星でもない。
この審判者に一言、
全霊をもって目で伝える。
――死ね。
知らず、黒埼は本心から願った。
彼女にとって初めての、他者に託す願い。
嘲笑や優越でなく、マリは微笑みで受け止める。手を振ってさえいた。やがて黒埼の目も夜露にとけると、お辞儀さえした。
浮かんだ光がマリの内に吸い込まれる。もう慣れたものだ。
カズマ、ジョバンニ、黒埼茜、鬼姫殺人。
これで五種。
週末までには片付くかなと皮算用する。
冷蔵庫の貯蔵とセール品とを並べて献立を考えるように――
残存アルカナの組み合わせを整理しながら、酸鼻極まる混沌の裏路地を離れた。
◆正義 夕頃
マジでアルカナパワーが輝いている(ムカつくくらいに)。
街路樹を見下ろすベランダから、夕焼けが見える。都会にあって周囲の建物が低い、古い町並み。お気に入りの風景。
「アヤト……痛いよ、どうしたの?」
思いがけず力強く握っていたxの手。慌てて離す。鬱血の紫が目に痛い。申し訳ない気持ちになる(ごめん)。
戦慄的経験と目的意識で(ぐちゃぐちゃしたプリンシェイクみたいに)脳みそ壊れている。
立ってられない。
抱きつかれ――温かい感触。
「なんか知んないけどさ……今日はゆっくりして(イって)休んだら?(ヤバいわよ!)ほおっておけない感じ」
「俺ァ…………(抱きしめかえす。『きゃぁ!(キィの嬌声)』肌が触れあうだけでイイ反応のx(大事な人)は少しばかりチョロすぎるかもしれない(滝汗^^;))」
「さっきまでヤりまくってたのにまた? ピピーッ! ヤリ過ぎ注意報発令! アヤトを緊急逮捕します!」
腕の肉をからめてくる(えっちだ)。
万年発情期のキィは、おいといて(ジェスチャー付き)。
「x、鍵かけて寝とけ」
「みゃぁ~!」
いや~、にも聞こえたが、無視して外へ出る。
夕焼け。ビー玉みたいな記憶の街、平行世界のどこかで見たような。
惹かれ合う感覚がある。受けるより攻めが好きだ。
振り返って仮住まいに目をやる。ほうぼう根付かぬ流れ者らしいボロアパート。待ち人の愛らしい笑顔を想う。
――俺達と同じ人工魔人のキィ。戦力に数えることはできる。
けれど。
けれどね――。
『だ~ァいじなキィ~ちゃん、傷ついて欲しくないんだよねェ~↑↑(↓↓←→←→AB)』
茶化す声。アルカナを通じて俺達だけに見える鬼姫災禍。
アルカナに宿る過去の亡霊。
人工生命体である俺達の素体となった史上最悪の魔人。
天然魔人(鬼姫災禍)。
複製魔人(鬼姫殺人)。
キィを殺し合いから遠ざけたいのは図星(正解1ポイント)。だが、大上段に図ゥこいてるのは許しがたい。
「てめー……(なんの役にも立たないとはいえ迷惑をかけるだけの存在だから哀れみをもって言うが)……ま、許してやるわ」
『なんか失礼なこと考えてない?(呆)』
「別に」
かつてはオリジナルをただ憎むだけだった。しかしアルカナを手にしたことで、災禍の記憶が流入して、分からなくなる。
複製魔人に起こった凄惨な過去、それ以上の経験を、天然魔人は持っている、そのくせへらへらしている。
むかつくぜ。多くは語るまい(うざいし……)。
「キィが待ってるからな。とっとと片付けっぞオラァ!」
『臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前!』
ヒャッハァ!
愛車は1299cc。またがり、加速、影も残さない走り。ガソリンの揺れ方ですぐ気持ちよくなってしまう。
体が風になる。完全に手放し運転だ(常人は真似していけない)。
風景が線になり、水になり、流れていく(気持ちEェ!)。
「おいオリジナル(鬼姫災禍)! 敵対アルカナまであと何秒だ!?」
『知らぬが(笑)』
「スクラップ!」
「しいて言うなら……通り過ぎたぞ?」
xxxxxx(キキキキキィィイイイ)!
と黒線引いて急(U)ターン。
アルカナに導かれるまま突っ走ったが、たしかに行き過ぎた。
「アホ! 早く言いやがれってんだバロメ(古い)」
『自業自得ぞ(ちな反論ないなら私の勝ちだが?)』
アルカナの気配を追って、街を走る。見失わないようゆっくり。相手は、こちらに気付いているのか、追いつかれそうになると、突如気配が消える。そして遠くに現れる。
「瞬間移動能力者(テレ放題ポーター)か。少々骨だな」
『力の使い所さんでは?』
「どんだけ巻きぞえにするつもりだよ」
(俺達の記憶は簡単に廃人に変えてしまうほどヤベェんだが?)
鬼姫殺人の魔人能力『T・B』。
鬼姫災禍と鬼姫殺人の記憶・体験をコピー&ペースト、そして上書き保存する能力。
範囲は広く、範囲を広げても効果が薄まらない。
大通りから細い道に入る。
住宅街を法定速度で走る。
夕暮れ(カレーの匂いはどこからもしない)。
のどかだ。
「数万人が死に狂うぞ、俺達は反対だな」
『あー、はいはい。一人称単数が一人称複数に多数決で勝てるわけないね。ま、頑張ってね(笑)』
小馬鹿にするオリジナルは無視。
敵アルカナをあらためて追いかけ――やめた(気付いたから。この地理を知っている)。
「(目的は……キィか!?)」
俺達のアジトに徐々にではあるが近づいている(危険信号、真っ赤っ赤。夕日も真っ赤、ギンギラギンだ)。
「追跡中止! 帰ぇーるぞ!」
『おっ、慎重派!』
オリジナルの挑発も無視(俺達に仏の慈悲がなければアルカナを破いていた)。
フルスロットルで住宅街を抜け、アパート前の細い路地に戻った。
敵アルカナの気配は遠い――そう思った瞬間、路上に衣装棚が現れた(そのあたりに捨ててあったのだろう、粗大ごみ回収のシールが貼られている)。
ひとりでにギィ(≠キィ)っと開き、現れたのは無表情の女性。
どこにでもいるような、線の細い女性。
そいつは平然と、口を開いた。
「どうも、鬼姫……殺人さん? 変な名前。あなたのご両親はどんなセンスで名付けたの?」
「親なんていねえよ。俺達の名は俺達で名付け――」
「哀れみを通り越してギザ哀れスね。真のLOVEを知らないなんて」
「女ァ!」
侮辱。
(日本中のひとり親世帯80万を代表して)ブチギレた(なお俺達にはそもそも親はいない。戸籍もない)。
「アルカナなんぞ関係ねぇー、お前は俺達がぶっ殺す!」
「……カルシウム不足」
最速で駆け抜け武器を――
武器はない。
無。空拳。
最軽量の武器を、最高速度で殴り抜く。
顔面ぶち抜いた、その予感は外れた。
女ァ!の回避行動は最小限、緩慢にも見える動きでかわされた。
「(こいつ……見た目よりやる!)」
「まずは断つ」
迂闊に伸びきった右肘が、逆関節に突き上げられる。俺達の右腕が逆くの字に折れ曲がり、痛みは鋭く駆け巡る。
攻勢は増すばかり。突き上げから流れるように右肩を固められた。俺達は痛みをこらえふんばる。悪手。
「次に捨てる」
スカジャンの胸襟を掴まれ、腕ごとひねりあげ投げられた。
りきんだ力を崩しに利用され、俺達の体は宙に浮く。
合気の袖投げか――くそったれ。
受け身をとる余裕なんてない。地につくより先に追撃が眼前に迫っていたから。
「そして離す」
体重を乗せた前蹴りが来る。裾を掴んで転がしてやる――間に合わない。前蹴りは威力より重量寄り、俺達を吹き飛ばし飛距離を取るためのもの。地を跳ね、折れた腕を守ることもできない。
一切無駄のない連撃。一手が次の攻撃の準備になっている。結果、一手差が大きな差を生んでしまった。
「はァ……はァ……(やるじゃねえかクソッタレ)」
「普通の主婦が戦えたら不思議?」
「(お前みたいな化け物が普通か!)」
実力もさることながら恐ろしいのは自信だ。
魔人同士の戦いにあって、絶対はない。それだというのに、この女ァ!
場慣れしているのか、自身を過信しているのか。
あるいは狂人か。
「タイムセールに走る賢母、一切の無駄を省く断捨離、不要品をコレクタに転売。源は同じ。つまり、最大限のコスパを求めているだけ…………あなたとは違ってね」
「俺達が……なんだと?」
「オリジナルの存在になるのが念願なのに、彼女さんとシケこんで、どっちにしよう、どっちで特別になろう、どっちつかず。愛情まみれか血まみれか。歳上の女性としてひとつ忠告しよう」
「(カウンセリングやめろ)アドバイス罪やめろ」
「愛情まみれの生活を選べ。愛情まみれが念願であるべきだった。愛に触れてそれを選ばないなんて、馬鹿げてる。知性ある?」
「(カウンセリングやめろ且つ)人を勝手に裁くんじゃねえ!」
こっちの事情も知らずべらべらべらべら(×100)と!
ああ、キィは素晴らしい女さ。あいつの前では俺達も俺になれる。求められて、存在していいって思える!
だが!
過去が取り立てて来るんだよ俺達の命を。証明する必要があるんだ、自分自身に!
「一時の幸福に浸れるほど、気楽な過去は持ってないんでね――」
こいつは強い。だが俺達ほどじゃない。
俺達の記憶に耐えられるほどじゃない。
「心的外傷過剰ストレス追体験症候群」
鬼姫災禍、鬼姫殺人。二人分の冒涜的体験を、女ァ!の記憶に上書きする。
それでも愛情だ断捨離だ舐めたこと言えるか。
過去が――憶えてる。
痛み、痛みによって産まれてくる。赤子は皆。頭蓋骨は割れ、脳をまろび出しながら窒息の門をくぐって、この世に生まれ落ちる。そして私達は死んだ。私を除いて。
遊びのような人生だから、これ以上遊べない。私は私自身をどうにでもしたかった。
輸血ゲーム。
最初は、オリジナルの私の血を、姉妹たちに輸血する。それから手番を決める。親は任意の姉妹から最大200ccの血を抜く。抜かれたものは、自分以外の誰かを指定し血を入れる。抜いて足して抜いて足して。繰り返した。生き残ったのは適合した私……それが私? 違う。私は一度も姉妹の血が混ぜられなかった。十三姉妹の末っ子だから、誰も私にはなにも。ゲームだったのに、置いてかれた。
みんな同じ血になって、みんな死んだ。流れ出る血はみんな赤くても、私にだけは同じ血は流れていない。血が流れないのは死んでいるから? 姉妹になれなかった。家族になれなかった。私の血は、オリジナルの模倣品。
鬼姫災禍だけが唯一同じ血が流れる、家族……。でも姉妹じゃない、姉妹はみんな死んだ。私を生かすため。だから私は、自分のコトを私達と呼ぶようになった。
一緒になれた気がした。家族ができた気がしたのに。
それなのに――キィ。愛おしい人。彼女の前では、姉妹ごっこができなくなってしまう。私を見て欲しくなる。本当の家族になりたくなってしまう。同じ血が流れていないのに。
模造品の体に、模造品の姉妹。姉妹たちの本物の愛情。キィの本物の愛情。肉体の姉妹、愛情の姿見。
アルカナが現れて、鬼姫が現れて、ようやく私は家族を……いや俺は……、妹たちに伝えたくて……。
自由に生きろと……。
――鬼姫災禍と鬼姫殺人の記憶を上書きする『T・B』。対象は無差別――鬼姫殺人にも降りかかる。二人の記憶が入り混じる。
鬼姫殺人から流れるのは、記憶にあふれる赤い血ではなく、涙だった。
「俺、俺達――私、我が家族を願って……」
鬼姫殺人は感情と記憶の整理がつかない。二人分の記憶を足して混ぜ合わせたのだから。
這う鬼姫殺人。
それを見下ろすのは――断捨離のマリ。
有形無形とわず整理とくれば――。
「私はハブられた末っ子であり、同じ血を持つ長女でもある。すれちがう二人の鬼姫の姉妹愛に泣けてくるけど――」
マリの眼は乾いている。
「違う血を持つ夫への愛情が一番勝っているのは何故? そして、夫と自分の血が混ざった子供たちへの愛情にとめどないのは何故?」
自身の能力の反動で倒れ伏す鬼姫殺人。
戸惑いつつも明確な意思を持つマリ。
彼我の差は?
――マリが断捨離の達人だから。
それだけでは説明がつかない。
視点の向きだ。
鬼姫殺人の願いは、自らを形成する過去(オリジナル)に臨んでいる。
マリの願いは、家族の幸福という未来を望んでいる。
鬼姫殺人の能力は、ジョバンニのように、過去への願いを持つものであれば覿面だった。
「(鬼姫殺人は私だ)」
記憶は混濁しつつも、マリは、自らのすべき事を定めた。
過去との決別。私の断捨離。
夫と妻は一人と一人。私達ではない。
注射器を購入。宙で採血を行う。――まるでそこに鬼姫災禍がいるかのように。
空気と惜別を詰めた注射器を、鬼姫殺人の折れていない左腕静脈に刺し、押し込む。空気の塊は血管をつたう。
「(私には恋人がいた。私には夫がいる)」
「(恋人の私より妻の私が強い)」
「(妻の愛情が強い)」
「(私は歴史的だ)」
「(夫を愛する妻だから)」
「(エコロジストでもある)」
「(こどもたちの未来を真に憂う者だから)」
「(もし過去ではなく、未来を上書きされたら――もっとも弱い生物になっていた)」
鬼姫殺人の血管を流れる気泡が、ついに心臓へ達する。不整脈する鬼姫殺人、胸に手をあてる。顔がこわばる。力は抜けていく。開いた口。光ない目。視線は、彼女の仮宿を見ている。最愛の待つ、帰るべき場所を。
鬼姫殺人の後方からゆっくりと輝き、光子は渦を巻いてマリの手に集う。
正義のアルカナ。私の顔が描かれている。
審判のアルカナも私の顔が描かれている。
それもそのはず。
正義の女神は裁判の女神とも呼ばれるのだから。
マリは髪をかきあげ、鬼姫殺人の帰るべき所を見上げる。待ち人がいる。会って話をしてあげたいが、立場に困る。
私(マリ)は憎むべき仇で、私(鬼姫殺人)は恋人である。
仇はまずいが恋人はなおのこと(浮気。妻失格)。
記憶と、恋人と、一抹の未練。
断ち切り離し捨て去る。
別れには慣れている。
「(私は断捨離の達人だから)」
涙……。
斜陽は都会の稜線に暮れていく。
こうして夜は静かに幕をあけた。