1
八年前。
初夏の、よく晴れた気持ちのいい日だった。
抜けるような青空の下。
太陽に照らされて緑色を一層強く輝かせる草原の上を、二人の少女が楽しそうに走り回っていた。
短い手足を振り回しながら先頭を走るのは、鳥越九の今年で四歳になる娘、マユミである。
そしてその少し後ろからマユミを追いかけているのは、マユミよりも五歳年上の床神野麗嬢だ。
床神野麗嬢は、どこかに存在すると言われる床神野財閥の跡取りの娘である。
麗嬢は指を少し曲げた状態の両手を顔の前に上げ『食べちゃうぞー!』と声をあげる。
本人は恐ろしい怪物を模しているつもりなのだが、どうにも可愛らしさが抜けきらず、追いかけられるマユミも笑い声をあげながら逃げ回っていた。
「がおー、マユミちゃん捕まえたー! コチョコチョコチョー!」
「あはははははは、れーちゃんやめてぇー!! きゃーー!!」
ついに捕まったマユミが原っぱの上に転がされて体をくすぐられ始める。
鳥越九と、セバス・スチュワードは少し離れた場所でベンチに並んで座り、愛しい少女たちの様子を見守っていた。
「セバスさん。いつもお嬢さんがマユミと遊んでくれるのでとても助かってます。ありがとうございます。」
大きな体をできるだけ小さく縮めるようにして座りながら鳥越が言った。
セバスはその言葉を聞くと『ヒョー!』と喉を鳴らして笑った。滅私奉公を信条とし、季節問わず常に黒スーツに身を包み姿勢を正し続ける男の、数少ない特徴の一つであった。
「何を仰るんですか鳥越様。床神野家の跡取りとして日頃から勉学に励まれている麗嬢お嬢様にとって、こうやってマユミ様と遊ぶことは何よりの気分転換になっておられます。気にされなくても大丈夫でございますよ。」
「そう言っていただけると助かります。」
「ヒョッヒョ、そもそもですな。鳥越様が居なければ、今のこの状況も無かったかもしれないのです。お礼を言うのは私のほうでございますよ。」
「そんな……いや、ええ、まぁ……はは。」
鳥越は反射的に『そんなことない』と言いかけたが、それが過ぎた謙遜だということに気がつき言葉を濁した。
一年前。
ボールを追いかけて道路に飛び出した麗嬢が車に轢かれそうになったのを、たまたま通りかかった鳥越が助けたことは事実である。
運転手は麗嬢の存在に気がついていなかった。そのまま車にぶつかっていれば、最悪、命を落としていたことだろう。
だが、鳥越にとってその行動は当然のものであり、あえて感謝されるようなことでは無いと思っている。
それ故に謙遜することも、胸を張ってふんぞり返ることもできず、結局はあいまいな表情で笑うことしかできなかった。
セバスも、そんな鳥越の反応は予測していたため、特に何か言うつもりもなかった。
事故以来、床神野家と鳥越は家族ぐるみで交流するようになった。
多忙な両親に代わり麗嬢の世話を任されていたセバスも、必然的に鳥越と会う機会が増え、互いに良き友として接するようになっていた。
「時が流れるのは早いものですな。麗嬢お嬢様もマユミ様も、とても大きくなられました。」
「それだけ毎日が必死なんでしょうね。こうして休みを取れたのも久しぶりです。マユミにはいつも寂しい思いをさせてしまってますが……」
「鳥越様は人の命を救う仕事をなさっておられます。それは誇りに思って良いことです。マユミ様もきっとご理解くださるはずですよ。」
「そう言っていただけると救われます。」
「……しかしこの調子だと、あっという間に恋人なぞ連れてきて『私、この人と結婚するわ!』なんて言い出しそうですなぁ。ヒョーッヒョッヒョ!」
「……ですねぇ。」
鳥越の表情が暗くなり、呟くようにそれだけ言った。
「ふむ、何やら浮かない顔。何か悩み事でもございますか? 私で良ければ相談に乗りますが。」
セバスの言葉を聞き、少しだけ迷った様子を見せる鳥越だったが、やがてゆっくりと話し始めた。
「昨晩、夢を見たんです。」
「と言うと、悪い夢ですかな?」
「いいえ。とても幸福な夢でした。年老いた僕と妻、それと成長したマユミの三人で、家で夕食を食べていました。とりとめのない会話をして、楽しそうに笑って……」
「ほー、良いですな。素晴らしい夢ではないですか。」
セバスが両手をポンと叩いた。
だが鳥越の表情は変わらず暗いままで、地面に視線を落としたまま首を横にふった。
「目が覚めて、夢だったことに気がついて……それが現実に起きたことじゃないんだと考えた途端、とても恐ろしくなったんです。もしかしたら、次の瞬間には今の幸せが消え去ってしまうんじゃないかって……」
「それが不安の原因になったと。」
「……そうだったら、まだ良かったのかもしれないです。僕が一番恐ろしいと思ったのは、そうなってしまった時、僕が僕じゃなくなってしまいそうだってことなんです。そして、そう考えたときわかってしまったんです。僕は、妻や娘よりも、僕自身を何よりも大切にしているんだってことが……辛くて……」
「なるほど……」
セバスは話を聞き終え、体を震わせる鳥越に対してどのように言うべきか悩んでいた。
セバスにとって、床神野家の主や麗嬢は自分の命よりも大切に考えている。そこに迷いはない。
とはいえ、その考えの違いで鳥越を軽蔑しようなどとも、微塵も思わなかった。
人が自分を大切にするのは当然のことである。
それに、鳥越はこう言いつつも妻や娘に危険が迫った時、自らの身を盾にしてでも救おうとすることだろう。
だがそれを鳥越に伝えたところで悩みが解消するとは思えなかった。
「それならば、こういたしましょう。」
ゆえに、セバスが導き出した結論は、シンプルなものだった。
「もしもあなた様が、己が身を恥じるような御人になられましたら……その時は、責任をもって私が”対処”させていただきます。」
もちろん、そのような事態が起こることはないだろうとセバスは考えている。
だが、実際にそうなった時、セバスにはそうするだけの力がある。
臆病で、誰よりも優しい友のために。
決して願いが叶うことのないよう祈りながら、約束をした。
***
現在。
黒のスーツに身を固めた老齢の男が居た。
彼の名はセバス・スチュワード。床神野麗嬢に仕える執事である。
彼の視線の先にはガスマスクと防弾チョッキを身に着けた、白衣の大男が居る。
男の名は鳥越九。
愛娘を事故により失ったことで暴走する、殺人鬼だ。
「本当は会いたくなかったのですが……こうなってしまっては仕方ございません。」
セバスが両手をズボンのポケットへと差し込む。
「あの日の約束を、果たすことと致しましょう。」
2
東京都横浜市。
そこには日本に居てもお手軽に中国の雰囲気を味わえる場所がある。
中華街──黄金の装飾が施された巨大な鳥居の中央にその文字が刻まれている。
一歩くぐれば、そこは中国さながらの煌びやかな街並みが広がり、数多くの中華飯店からは熱気と共に食欲をそそる匂いが漂う。
「どぅぅめ、やぁありゃっしゃっしゃー!!」
「はー、美味かったんだぜ。さすが中華街だぜ。店員さんも最後は謎の言葉でお見送りなんだぜ。」
横浜中華街にあるコンビニから出てきたのは、黒い魔女帽子に黒い魔女服を着て、お腹をぽんぽこに膨らませた魔法少女あいきゅうさんだった。
今日はハロウィンではない。当然コンビニの店員は最初『らっしゃあっしゃいぁーい』と威嚇の声をあげたのだが、よくよく見れば可憐な金髪魔法少女だ。魔法少女が嫌いなコンビニ店員など居ないというのは偉い学者によって証明されており、おかげであいきゅうさんは全品80%オフという破格値で美味しい中華街の食事を堪能することができたのだった。
なお、魔法少女あいきゅうさんは男である。
元々は玄人手院暗愚寺に住む小坊主で、ひょんなことからダンゲロスハルマゲドンへと巻き込まれてしまったのだ。
そこで寺の和尚は一計を案じた。永遠のライバル卑怯屋の力を借りることで、あいきゅうさんに魔法少女のコスプレ施したのである。
「しかし、これからどうしたもんかだぜ。アホカナを持ったやつが全然居ないんだぜ。」
あいきゅうさんは悩んでいた。
「このまま誰とも戦わなければ一生水飴を食べることができないんだぜ。でも戦うのは嫌なんだぜ。死んじゃうかもしれないんだぜ~。」
あいきゅうさんがうーんうーんと頭を悩ませていると、突然頭上に光が差し込んだ。
謎の光源をバックにぼやぼやとした人影が浮かびあがる。
『愛久よ、案ずることはないでないでないでないで(エコー)』
「あ、イマジナリー和尚だぜ!!」
なんと、現れたのはあいきゅうさんがIQを分割して自らの脳内に生み出したイマジナリー和尚だった。
なお、以降はエコーを省略させていただく。
「和尚、俺はこれからどうすればいいんだぜ?」
『ふむ、愛久。今お前はこれからどうすればいいかわからず悩んどるんやな。』
「うおー、さすが和尚! なんでわかったんだぜ!?」
『なぁに、ワイにわからんことは無いっちゅうことや。ほれ、後ろを見てみてみ。』
「だぜ?」
あいきゅうさんが言われるがままに後ろを振り返ると、その先にはお洒落なカフェテラスがあった。店先にもパラソルのついた席がいくつか備わっており、賑わう客の中で店員が忙しそうに走り回っていた。
「アレがどうかしたんだぜ? それより腹が減ったぜ。」
『アホウ! さっき飯食ったばかりやないかい。あの店員や。もっとよく見てみい。』
「やれやれだぜ。」
あいきゅうさんは言われるがままにカフェテラスをよく見てみることにした。相変わらず店員が忙しそうに働いている。
「……だぜ?」
あいきゅうさんは気がついた。
店員は黒髪褐色肌でメイド服を来ていた。あまり見ない組み合わせだが、とても良いと思う。あいきゅうさん的には大好物だ。もしもこの場に卑怯屋が居たら『ブビィー!』と声にならない声をあげただろう。
だが重要なのはそこではない。
このメイド、椅子に座る客の頭を足で踏んづけていた。恐るべき柔軟性。客は頭を背もたれに押し付けられ身動きがとれなくなっている。
客はなんとか逃げ場を求めようと、餌を求める金魚のように口をパクパクと動かす。
その瞬間、メイドは小脇に抱えていたツボを構えた。
「おニトロお注ぎしますねー!」
「あばあばあばばばーー」
なんと、メイドはツボの中の液体を客の口へと直接注ぎ始めたのだ。透明でドロリとした液体。メイドの言葉は嘘にあらず。正真正銘のニトログリセリンそのものである。
「あばばあば…あっ、あっ……あまぁぁい!」
「お口にあったようで何よりですわぁ。」
ニトログリセリンには甘みが備わっている。それがこのカフェ名物である苦々コーヒーとマッチして、なおかつメイドさんに足蹴にしてもらえるということで中華街でももっぱらの評判なのであった。
さらに驚くべきことに、突然あいきゅうさんの股間でチンチンを隠していたタロットカードが光り出した。当然その光はあいきゅうさんのカボチャパンツとして黒スカートを通して外にも漏れ出る。通りすがりの通行人も思わず足を止めて股間を光らす魔法少女に目が釘づけだ。
「ま、まかさ!」
「そうや、そのまかさや。あのメイドはアルカナの──」
「あのツボに入っているのは水飴なんだぜ!!!」
あいきゅうさんの辞書にニトログリセリンの七文字は載っていない。
すなわち、ツボに入っているものは、水飴だった。
ツボから水飴を飲みたい。
それが、あいきゅうさんの願いである。
「ちゃうわ! 待てや愛久!」
「問答無用の小田無道だぜ!」
水飴を前にしたあいきゅうさんは聞く耳を持たない。しょせん妄想の産物であるイマジナリー和尚には、あいきゅうの両の手が中指一本拳になることを止めることはできなかった。
ボコ ボコ ボコ ピキーン
あいきゅうさんの顔つきが瞬く間に九十年代のアメコミヒロインのごとく濃くなった。
魔法少女あいきゅうさんの魔人能力『とんちこそパワー』は、中指一本拳で自分の側頭部を叩くことで、あらゆる手段で目的を遂行するIQ30のバーカーサーへと変化する能力だ。
「うおー! 水飴よこせー!!
「なんかめっちゃ顔の濃い魔法少女が箒を振り回しながらこっちに向かってきたー!?」
あいきゅうさんの突撃に気が付いたメイドは驚愕の声をあげた。
直後、メイドはエプロンのポケットにしまっていたタロットカードが熱を帯びたのを感じた。それにより目の前の魔法少女がアルカナの所持者であることを理解する。
メイドは足で踏んでいた客を蹴飛ばすと、近くのテーブルの上によじ登った。
「ついに来たわね! 私の願いを叶えるための第一歩が!!」
メイドは左手にツボを抱えたまま、右手を前に大きく突き出した。
「私はハイリ、大生背理! アルカナは女帝! 今からお前を死よりも恐ろしい苦しみで──」
「うおー! 水飴よこせー!」
「あいたぁー!」
バシーン バシーン
あいきゅうさんが手に持った箒の柄でメイド改めハイリをビシバシと殴りつけた。
バーカーサーと化したあいきゅうさんは、水飴の入ったツボを手に入れるためなら変身中のヒーローを殴るような悪逆非道な行為も平然と行うのだ。
「ちょ、まっ、いたっ! やめてっ!」
「うおー! 水飴ゲットだぜー! うおー!」
あいきゅうさんは、たまらず防御姿勢をとったハイリの手からツボを奪い取るとそのまま走り去っていった。
「あ~~~! どろぼー! どろぼー!!」
ハイリは半泣きになりながらその後ろを追いかけていった。
3
「はぁだぜ、はぁだぜ……やっと逃げ切れたかだぜ?」
あいきゅうさんはハイリの姿が見えなくなったことを確認すると、ようやく一息つくことができた。
あいきゅうさんは今、観光客がひしめく大通りの中に居た。
「人を隠すなら森の中だぜ!」
「アホウ! 人の中に隠さんかい!」
「てへぺろだぜ!」
安心感からか、イマジナリー和尚に怒鳴られてもあいきゅうの表情は明るかった。
そもそも『とんちこそパワー』の持続時間は極端に短い。それは身体能力をフル活用し、特定の目的の達成にのみ注力するためである。
本来であれば敵魔人であるハイリの殺害に使うべきところを、あいきゅうさんは水飴の奪取に使用してしまった。
つまり、早く逃げ切らなければとてもヤバい所だった。
「よーしよし、それでは早速水飴をいただくんだぜ!」
「おい、愛久。」
「なんだぜ和尚。俺の邪魔をするんじゃないだぜ。」
「そうやない。この人混み、みんな一方にしか向かってへん。」
「えー?」
あいきゅうさんが周囲を確認する。
確かに通行人達は全員、あいきゅうさんの進行方向とは逆に向かっていた。
「なんかみんな慌てとる。これはなんかマズいかもしれんで。」
「気にしすぎなんだぜ。そんなに怖いなら、ちょっと離れた場所に移動するんだぜ。それくらいの元気は残ってるんだぜ。」
あいきゅうさんはしぶしぶ移動しはじめた。
ぐちゃり。
少し歩いたところで、あいきゅうさんは何かを踏みつけて盛大にすっ転んだ。
「あいたただぜ。なんだぜ、バナナか何かだぜ?」
地面についた手のひらに、生暖かな、ぬるりとした感触があった。
「違うで愛久! 血や!」
「ひえーだぜ!」
気がつけば、周囲に居たはずの観光客がすっかり居なくなっていた。
そしてその代わりに広がっていたのは、道の隙間という隙間を埋め尽くすほどの、おびただしい量の血痕と、肉片であった。
それらは見える限り大通りのどこまでも続いているように見えた。
道路はところどころ何かでえぐられたような形跡もある。
そしてその道の先には、白衣を着た大男──鳥越九が立っていた。
「アイツがやったんだぜ……?」
「いや、アイツだけやなさそうやで……見てみぃ。」
鳥越は膝から崩れ落ちるように地面へと倒れ込んだ。
それにより、鳥越の体に隠れるように立っていたもう一人の男の姿が見えた。
黒いスーツを身にまとい、平然とした様子で立つ老執事。セバス・スチュワードであった。
「おや、新しい御客人でございますかな。」
「え、いや、違うぜー、俺は全然違うんだぜー!」
「おや、異なことを仰られますな。貴方様もアルカナの持ち主。それは互いによくわかっているはずでございます。」
確かにあいきゅうさんの股間が光っている。これは言い逃れができない。
セバスが片手を前に深々とお辞儀をする。
「ようこそおいでくださいました、mademoiselle。丁重におもてなしをさせていただきましょう。」
セバスの両手が動いた。長さ三十センチほどの中国的な箸が二本放たれ、空を切り裂いて飛んでいく。
箸はそれぞれ左右へと飛び、そのまま中華飯店の軒先に置かれた樽やら看板やらにぶつかり反射。そのままあいきゅうさんに向かって左右から襲いかかった。
「おあー、危ないんだぜ……でも!」
あいきゅうさんはヒラリと空中へ飛ぶと、その箸を躱した。
「これくらい、卑怯屋のトンチ勝負をくぐり抜けてきた俺には簡単なんだぜ!」
「あ、あいきゅうさん……」
「あ、イマジナリー卑怯屋……へへっ照れるんだぜ……」
「アホウ、愛久! それはフェイクや!」
突如現れたイマジナリー卑怯屋とトゥンクトゥンクしているあいきゅうさんに対し、イマジナリー和尚が叫ぶ。
箸を避けて空中へと飛んだあいきゅうさんめがけて、セバスが懐から取り出したナイフを投げようとしていた。
だがその時、セバスの頭上に影がさした。
マユミだ。
鳥越九が魔人能力『マユミちゃん天国』により、空からマユミを降らせたのだ。
すかさずセバスは大きく横に飛び退いた。
直後、セバスが居た場所にマユミが落下し、「ぎっ」という断末魔と共にその体が周辺に散らばる大量のそれらと同じく地面の染みとなった。
「ヒョッヒョ、危ないところでした。」
「……隙をついたつもりだったんですが。難しいですね。」
会話する二人を尻目に、無事に着地したあいきゅうさんは移動を始める。
「ひぃー、危ない所だったぜ。なんかわからんが助かったんだぜ。今のうちに逃げるんだぜ~!」
しかしあいきゅうさんの肩を巨大な手が掴んだ。
「……君も、アルカナ所持者なのか……」
「いいぃ!?」
鳥越の両手が、あいきゅうさんの胴体をガッチリと掴んだ。そのままあいきゅうさんの体は空中へと持ち上げられる。
(恐らくこの少女は非戦闘型の魔人……このまま地面に叩きつければ……!)
鳥越の両腕に力が込められる。
だが、いざ腕を振り下ろそうとした時、鳥越の脳裏に地面に血まみれで横たわる少女の姿がよぎった。
「っ……ぐっ……!」
「うぎゃーんだぜー!」
鳥越があいきゅうさんの体を横へ放り投げた。
あいきゅうさんはそのまま勢いよく飯屋の扉を突き破って店の中へと突っ込む。
直後、マユミがその店へと次々と降り注ぎ、店を半壊させた。
「……違う! アレはマユミとは別物だ……それなのに、なぜっ……」
「そう、先程のお嬢様はマユミ様とは似ても似つかぬ別人でございますな。」
「っ……!」
背後からセバスの声が聞こえ、鳥越が振り返る。
「それでは、つい先程あちらでマユミ様の落下に巻き込まれた方はいかがでしょう? 二十メートルほど向こうには少年と猫も居りましたな。今頃ご両親は悲しまれているでしょうな。」
「何が、言いたいんですか……」
「まったくもって、鳥越様は不合理だということでございます。気が付かなければ無関係の人間が巻き込まれても平気。しかし気になってしまえばアルカナ所持者でもトドメを刺すのを戸惑う……鳥越様は昔から変わらず──弱くていらっしゃる。ヒョーッヒョッヒョ!」
鳥越のガスマスクがシュコーと大きな音をたてた。
セバスは、殴りかかってきた鳥越の攻撃を躱し、再び落ちていた石や、武器になりそうなものを用いて鳥越に反撃する。
その様子を、少し離れたところから眺めている人物が居た。
「やっと見つけたと思ったら、何なのよあの化け物たちは……! アレもアルカナ所持者なの~~?」
ハイリが道の角から覗き込んでいた。
視線の先には、あいきゅうさんに奪われたツボが転がっている。先程鳥越に吹き飛ばされたときに落としたのだ。幸いにもツボは割れていない。それであれば、ハイリはツボから無限にニトログリセリンを注ぐことが可能だ。
「いやいやいや、ムリくない!?」
ハイリはそのまま陰へと引っ込んで隠れる。
「さっきの壺泥棒だったらなんとかなりそうだったけど、他の二人……特にあの爺さんはヤバすぎるわよ……! ここはひとまず隠れてチャンスを伺うべきだよね。そうだね、きっとそう!」
ハイリはそうだそうだと自分で自分を言い聞かせ、その場から退却しようとする。
だが、慌てて踵を返した拍子に右腕が壁にぶつかる。
「っったぁ~~……」
思わずその腕を押さえてその場でうずくまる。
肘まで覆う長い手袋をめくると、その下からは酷く焼けただれた傷跡が現れた。
それは、ハイリが注ぐ女一族の中でも異端児として忌み嫌われ続けたことの証であった。
注ぐ女一族には、世代ごとに「液体を注ぐ天才」が生まれる。牛乳、ワイン、聖油など、それらを注げる者は、時の為政者や英雄に給仕する栄誉をあずかり、それにより一族は繁栄を続けてきた。
故に、注ぐ女一族の『注ぐ力』は絶対的な権力の証でもあった。
そんな中、ハイリは十二歳の時に魔人能力を発現した。だがハイリのニトログリセリン給仕能力『ニトログリセリンを注ぐ女』は、一族からは忌み嫌われるものであった。
『ニトログリセリンを注いでどうする!』
『英雄を爆殺するつもりなのか!』
『この役立たず!』
ハイリは奴隷同然の……いや、それよりももっと酷い扱いを受けた。食事は僅かな野菜くずを一日一回しか貰えず、ハイリはそこにニトログリセリンをドレッシングとしてかけて食べるのが常だった。
ハイリの腕の傷は『牛乳を注ぐ女』から熱々の牛乳を注がれた傷跡である。火傷をしても治療してもらうこともできず、ハイリは今も右腕が動かしにくい状況にある。
だがハイリはそれでも耐え続けた。
『あなたの能力はとても素晴らしい者よ。みんなきっとそれをわかってくれるはず。』
ハイリの両親は、そう言ってハイリを励まし続けた。
だからハイリもそれを信じていた。
そして十八歳になったハイリは、あっさりと両親から裏切られた。
両親がハイリの飲み物に毒を入れているところを見てしまったのだ。
ハイリの両親は、ハイリを殺すことを条件に自らの安寧を手に入れようとしたのだった。
注ぐ女一族から逃げ出したハイリは、それ以来、注ぐ女一族への復讐を胸に生きてきた。
自分こそが歴代最高にして唯一の『注ぐ女』であると証明するために。
「そうだ。忘れるところだったわね。私がなんのためにこんな愚かな戦いに参加したのかを……」
ハイリは右手を前に突き出す。それは、自らの傷を忘れないためのポーズ。
すると、どこからともなく巨大な二人の人影が現れた。
全身緑色でブヨブヨとした、ニトログリセリンをたらふく飲んだ人間の成れの果て、爆弾人間である。
通常、ニトロイドの大きさは元々の人間の体格が元となり、大きく変化することはない。だがこの二体は別格である。体長は三メートルを超え、体内に取り入れたニトログリセリンが漏れ出ないよう、口には鉄板が貼り付けられている。顔や体はぶくぶくと膨れ上がり、人間だった時の姿をうかがい知ることはできない。
二体のニトロイドはそれぞれ荷物を運んできた。
一つは、車輪のついた台で、捕まることができる簡易的なハンドルがついた携帯用の車である。
そしてもう一つは、簀巻きにされた別のニトロイドだった。これは先程までハイリにニトログリセリンを飲まされていたカフェの客の男だった。
「行くわよ。しっかり捕まりなさい。」
ハイリが車の上に乗り、ハンドルを握る。二体の巨大ニトロイドは、簀巻きニトロイドを、下半身がちょうど地面と接触するような位置で車の後ろ側に積み込んだ。
その後、二体は車の後ろに繋げられた鎖の先についた輪っかを握り、さらに小さいサイズの車輪のついた台に乗った。
「私が、私こそが、注ぐ女よ!」
ハイリが簀巻きニトロイドを思い切り踏んだ。その衝撃によりニトロが爆発。ハイリの乗った車は時速百二十キロの速度まで一気に加速した。
***
一方、マユミにより半壊した店の片隅で、あいきゅうさんが倒れていた。
「ううう、あいつめ、絶対に許さないんだぜぇあぁ ぁぁ ぁ……」
あいきゅうさんの顔が普通になってしまった。エネルギー切れだった。
「食べ物……ここはお店だぜ……何か……」
あいきゅうさんは朦朧とする意識の中でなんとか食べられるものが無いか探した。
すると、少し離れた場所にお皿に乗ったカレーライスが落ちていた。
「か、カレーだぜ……」
あいきゅうさんは必死に這った。今まで生きてきた中でこれ以上ないというくらい頑張った。和尚に掃除を命じられた時も、卑怯屋にトンチ勝負を挑まれた時も本気になったことの無いあいきゅうさんは今まさに命を賭けるべき状況に出会ったのだ。
そして、愛久さんの三分に及ぶ死闘の末、ついにカレーライスへとたどり着いた。
「い、いただきますだぜ!」
ガリッ。
全く美味しくなかった。
「食品サンプルだぜぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
あいきゅうさんは泣いた。
仕方ないので隠してた世界樹の棒をガジガジと噛んだ。
「あ、ちょっと甘いんだぜ。」
少しだけ元気になった。
4
ハイリwithニトロイド部隊の急襲により、戦場は混迷を極めていた。
「厄介な相手でございますな……!」
ニトロイドは少しの衝撃を与えると、その部位が爆発してしまう。
セバスがナイフを投げつければ、その場所が爆発。
鳥越がマユミを落とせば、着地点が爆発した。
当然ニトロイド自信もダメージを負うのだが、その度に新たなニトログリセリンがその場所に注がれることにより再生されてしまう。
「わはははー、いけー!」
ハイリは少し離れた場所に立っていた。車で突っ込む途中に回収した壺からニトログリセリンを撒き散らしている。
ハイリ自身の戦闘力は高くない。だが『ニトログリセリンを注ぐ女』は目視している範囲でしか機能しない。
ニトロイド達の修復を行うためには、ハイリもこうして戦場に立つ必要があった。
だが、そうなれば当然、ハイリは直接狙われることになる。
鳥越がマユミを呼び寄せる。
その落下地点はハイリの居るまさにその場所である。
ハイリは落下するマユミに気がついていない。
だが、マユミがハイリの頭上数メートルまで迫った時。突然マユミが爆散した。
ビタビタビタビタ、という音と共に地面にマユミの残骸が降り注ぐ。
にゃーん。
ハイリの立つ場所の上。建物の屋根に緑色の猫が居た。爆弾猫である。
落下するマユミに対してニャトロイドがぶつかることで妨害したのだった。
「うひぃー、びっくりした! ありがとにゃー!」
ハイリは爆音に一瞬ビクっとしたが、すぐに姿勢を正して頭上のニャトロイド達に手を振った。
「ふふふふ、勝てる! 勝てるわー! やっぱり私は最強の注ぐ女だわ!」
再び爆音。
二度、三度とハイリの頭上にマユミが降り、その度にニャトロイドがニャーンといいながら飛びついて爆発する。
赤い血と緑色の肉片のシャワーが音を立てて地面へと落ちる。
その隙間を、黒い影が横切った。
「っ、あっ!」
ハイリの肩に小型のナイフが突き刺さっていた。
「油断大敵、という奴ですな。ヒョーッヒョッヒョ!」
鳥越の背後に立つセバスが笑う。
そして流れるように二体のニトロイドの足にもナイフを投げ爆散させ態勢を崩すと、そのまま背を向けている鳥越に向かって走り出した。
セバスの手に握られているのは刃渡り十五センチのコンバットナイフ。投げるものではなく、確実に獲物を仕留めるためのものだ。
セバスが現役だったころ、最も信頼を寄せていた武器である。
鳥越はまだハイリに向かってマユミを落とそうとしている。
「──そして、鳥越様も油断大敵でございますな。」
鳥越の首元。ガスマスクに覆われていない左頸動脈を狙い、セバスがナイフを振り下ろす。
「常に最悪を予想しているんだ。」
ナイフが、鳥越の左腕に刺さっていた。背を向けたままの鳥越が腕を振り上げ、ナイフと首の間に腕を割り込ませたのだった。
セバスはナイフを抜き取ろうとするが、それよりも早く鳥越の右手がセバスの頭を掴んだ。右腕の筋肉が盛り上がり、そのままセバスの体を宙へと持ち上げる。セバスの手がナイフから離れた。
「セバスさんが僕を攻撃しに来ることくらい、わかりますよ。」
「ぐあぁぁっ……!」
ギリリ、とセバスの頭部が握りしめられる。頭蓋骨がミシミシと音を立てるのがセバスに聞こえた。
セバスは手探りで小型ナイフを取り出すと、自身を掴む鳥越の二の腕辺りに突き刺した。だが、それでも鳥越の力が弱まる気配はない。
またセバスは小型ナイフを取り出そうとして、そして全てを使い切ったことに気がついた。
「ふ、ふふふふ。鳥越様、この私を殺すのですかな。そうして一人、苦難の道をあるき続けるのですか。」
「……さっき、セバスさんが言ってたことを考えていたんです。不合理だって。僕はマユミのためならなんだってします。それは事実です。ですが、さっきのように、不意に手が止まってしまうこともあります。」
「その原因がわからないんですな。」
鳥越は沈黙で答えた。
「セバスさん。僕はあなたを殺します。向こうの女性も、他の参加者もみんな殺して、僕はマユミを生き返らせます。」
「そう宣言することで多少は罪悪感が薄れますかな?」
ギリリリと、鳥越がセバスの頭を握るてに力を込める。
「ヒョッヒョ……、頑張ってください。私は鳥越様の友として、応援させていただきますぞ。」
セバスの頭蓋骨が砕けていく。視界が赤く染まり、歪んでいく。
「もっとも、私を殺すことができれば、の話ではございますが。」
グシャリ。
軽い音と共に、鳥越はセバスの頭を握りつぶした。
──
「……なんだ……?」
鳥越の手の中からセバスの姿が消えていた。
それだけではない。鳥越は先ほどとは見ている景色が変わっていることに気がついた。
鳥越はハイリが居る方向を向いていた。
「っ、えぁぃたぁっ!? なにこれっ!!??」
ハイリの肩にナイフが刺さった。先程見た光景。寸分違わず同じ場所だ。
ハイリも困惑していた。さっきも痛かったのに、今回も痛かったからだ。
だが、その直後ハイリの頭に向かってもう一本のナイフが飛来していた。
ニャトロイドがそのナイフに向かって突撃する。だが、ハイリの困惑が伝わっていたのか、ニャトロイド自身の問題か、いずれにせよ行動が遅れていた。すでにナイフはハイリの近くまで飛来していたため、ニャトロイドの爆発による爆風がハイリを巻き込んだ。
ハイリの顔は、頬の辺りから半分ほど消し飛んだ。視神経によって繋ぎ止められた眼球はぶら下がり、力を失った舌が顎を失ったことでだらりと外へ垂れている。ハイリの上半身がゆらりと倒れ込むと、穴の空いた頭部からグズグズになった脳みそがこぼれ落ちた。
ハイリの体が地面へと鈍い音をたてて倒れ込むのと同時。鳥越のすぐそばにで何かが爆発し、倒れる音がした。ニトロイドだ。
「なるほど、こうすれば良かったんですね。先程は失敗でございました。」
鳥越の背後から、セバスの声が聞こえた。
鳥越は先程もそうしたように左腕を振り上げた。
だが、セバスが手に握っていたコンバットナイフは、そのまま鳥越の腕を避けるようにして太ももへと深く刺さった。
鳥越はそのまま地面へと膝をつく。
「ぐっ………」
「さすがの反応でございますな鳥越様。」
「……あなたの、魔人能力ですか……」
「さぁ、どうでしょう。ヒョーッヒョッヒョ!」
鳥越がセバスに掴みかかろうとするが、態勢が悪く上手く動くことができない。
そしてセバスは手に持った最後の小型ナイフで鳥越の首元を切り裂いた。
鳥越の首から血飛沫が吹き出す。
意識が薄れていく。
まぶたの裏にマユミの笑顔が見える。
記憶が途切れ。
── ──
そして、また。
鳥越は目覚めた。
頭がハッキリとしない。
ボーっとした意識の中で鳥越の目に、再び肩にナイフが飛んできて痛がるハイリの姿が映った。
いや、今度は違う。明らかに様子がおかしい。
「いぎゃああああああああああああ! 私、私の顔ぉぉおおお!!!」
ハイリは肩のことなど無視して、自分の頭や顔をかきむしり、叫び声を上げていた。二体のニトロイドが慌てた様子でハイリの元へと走っていった。
二本のナイフが鳥越の足に刺さる。
倒れる体を、地面に両手をついてとっさに支える。
その手にも、それぞれナイフが飛んできて刺さった。
「はじめて死んだご感想はいかがですかな。」
鳥越は答えられなかった、というよりもセバスの言っていることが聞こえていても、それを言葉として捉えることができなかった。
意識の混濁。相変わらずマユミの顔が浮かんでは消えていく。
近くにマユミが落下した。そこには何もない。全く制御できていない。
「悲しいものですなぁ。」
セバスは笑いながら、鳥越の頭にコンバットナイフを突き刺した。
── ── ──
三度目。
ハイリの叫び声が一層強くなる。つい先程まで近くにいたニトロイドが居なくなったことに怯え、感情の制御が効かなくなっていた。
ニトロイドも再びハイリの元へと走りよっていく。
マユミが何もない場所に落下する。音を立てて体が散らばる。
鳥越はそれに対して何も反応をみせない。
「これにて決着、でございますな。」
魔人セバス・スチュワードの『3度目の正直』は、セバス自身が致命的な失敗を起こした時に自動発動する能力である。
その失敗自体が起こる直前──すなわち、セバスが鳥越に攻撃を仕掛けたことにより絶命したならば、鳥越に攻撃を仕掛ける直前まで時間を巻き戻し、三回まで強制的に場面を繰り返す。
このループの途中では失敗から脱したとしても、事象は確定しない。
ループが再び行われ、その間に起きた物体の破壊や生命の損失などは全て回復する。
だが、唯一の例外として人間の意識のみは継続され続ける。
確定するのは『3度目』である。
セバスはそこに目を着けていた。
鳥越の恐ろしさは、その臆病さからくる予測能力の精度と、強靭なタフネスだ。ここまでセバスは幾度となく鳥越に対して攻撃をしてきたが、鳥越はその着弾地点を予測し、致命傷とならない場所で攻撃を受け続けてきた。
だが、それもここまでである。
ループの途中で死んだ人間は、死んだ意識を持ったまま次のループを迎える。
それは、普通に生きてきた人間が体験することのない、想像を絶する苦痛だ。
ゆえに、一度目と二度目で他の人物の殺害に成功することができれば、三度目においては発狂、朦朧とする相手を仕留めるだけで終わる。
簡単なことであった。
セバスはこれまでも、何度も同様の経験をしてきた。
そして今回も同じように、獲物の命を刈り取る。
セバスは手にコンバットナイフを握りしめた。
鳥越は地面に膝をつき、項垂れたままだ。
その後頭部に、セバスは狙いを定める。二度目のループと同じだ。そのまま脳幹を貫き、絶命させる。それで終わりだ。
歳を重ね、経験を重ねてきたセバスは、自身の魔人能力が無敵だと確信している。
(もしこの能力が負けるような敵が居るとすれば……何も考えずに行動するような、阿呆を相手にした時でしょうかね……)
セバスが鳥越に対してコンバットナイフを振り下ろした。
だが、そのナイフが鳥越に届くよりも先に。
セバスの体を、木の槍が貫いていた。
「……が、はっ……」
「俺は……俺は……」
魔法少女あいきゅうさんが、いつの間にかセバスの背後に忍び寄っていた。
「俺は、すごく怒ってるんだぜ!!」
5
少し前。
あいきゅうさんはガジガジガジと世界樹の棒をかじっていた。
正直言って美味しくない。美味しくないけどほんのり甘い。
お腹がグーグー鳴っている。ガジガジガジガジ噛み続ける。
「うー、ひもじいんだぜ。なんでこんなことになったんだぜー……」
あいきゅうさんは考えた。頑張って考えた。
こんな目に合わせたのは誰なんだろう。
そうだ、水飴をくれなかったメイドだ。
壺を持って逃げていた時にぶつかった大男だ。
そして俺の嘘を信じてくれなかった爺さんだ。
あいきゅうさんは怒った。
「おのれだぜ! 水飴の恨みは死をもって償ってもらうんだぜ! そして俺は水飴を手に入れるんだぜ!!」
「おい、愛久。」
「なんだぜイマジナリー和尚! 俺は怒ってるんだぜ! ガジガジガジ!」
あいきゅうさんのエネルギーがちょっと回復したことでイマジナリー和尚が出現した。
「愛久。逃げえや。今回は相手が悪い。お前、死ぬで。」
「断るぜ! 俺は水飴を食べるんだぜ! ガジガジガジ!」
「阿呆が! なんでそこまで水飴にこだわるんや。」
「好きだからだぜ。俺が和尚に拾ってもらって、最初に食べたのが水飴なんだぜ。それからずっと水飴が大好きなんだぜ。ガジガジガジ!」
「……お前……」
ガジン!
音と共に、あいきゅうさんの持っていた世界樹の棒が真っ二つに割れた。
それぞれが先端に向かって細くなるように削れており、世界樹の箒は、二本の世界樹の槍へとジョブチェンジした。
「それじゃ、いっちょやってやるんだぜ。」
あいきゅうさんが中指一本拳で左右の側頭部を叩く。
ボコ ボコ ボコ ピキーン
たちまちその顔が九十年代アメコミヒロインのように変化した。
その顔のまま二本の世界樹の槍を持つ姿は女性版ランボーかターザンといった様相である。
「……あ、イマジナリーは疲れるから、和尚とはここでお別れなんだぜ。」
「あ、愛久……」
イマジナリー和尚の姿が光に包まれて薄くなっていく。
「……さっきの話、本物の和尚には恥ずかしいから絶対に言えないんだぜ。秘密なんだぜ……」
「……気をつけるんやで、愛久。」
「へへん。気をつけなくたって、魔法少女あいきゅうさんはあんな奴らに負けるわけないんだぜ!」
あいきゅうさんはそう言うと瓦礫となった店の残骸を乗り越えて走り出した。
***
現在。
あいきゅうさんの握りしめた世界樹の槍が、セバスの胴体を貫いていた。
「俺はとっても怒ってるんだぜ!」
あいきゅうさんが何故セバスを狙ったのか。
現在のあいきゅうさんの思考は『アホカナ所持者は全員ぶっ殺すだぜ!』である。
全員殺すなら、まずは強いやつを殺すべきだ。強いのは誰だ。立っているやつだ。爺さんだ。よし、殺す。
こういうことである。
「まさか、このようなことが起きるとは……人生とは……」
「うるっさいんだぜ!」
あいきゅうさんがセバスを勢いよく蹴飛ばす。
セバスは体に力が入らず、槍が刺さったまま地面の上に背中から倒れ込んだ。槍が地面にぶつかり押されたことで、さらにセバスの体を槍が傷つけていく。
「ぐあぁっ……」
槍は、セバスの内蔵を著しく傷つけていた。傷口から大量の血が溢れていく。
(これは……致命傷……でございますな……)
セバスの魔人能力『3度目の正直』は、セバスが致命的な失敗をした時に自動発動する。だがそれは、すでに3度目の正直によるループを抜けていることが条件である。
三度目に起きた事象は現実のものとして確定する。
それは、もう変えることができない。
(三度目……三度目で、ございます。)
セバスは見ていた。
ハイリの居た場所から、二体のニトロイドが走りよってくるのが。
(タッチの差で間に合いませんな……)
あいきゅうさんはすでに近くにいる鳥越に狙いを定めている。
ハイリはすでに戦意喪失している。そのまま槍を振り下ろし、鳥越を殺害し、そのままニトロイドに対応すれば、あいきゅうさんの勝利である。
「よーし、次はこっちの大男だぜ……うわっ!」
あいきゅうさんがから二メートルほど離れた場所にマユミが落ちた。当たる距離ではないが、あいきゅうさんはちょっとだけびっくりした。
その間に、ニトロイドがあいきゅうの元へとたどり着いた。
(三度目……これより先は、何が起こるかわかりません……)
「んぁ?」
あいきゅうさんの元まで近づいてきたニトロイドが、二体同時に地面を殴りつけた。
6
きらびやかな装飾が施され、人々の往来で賑わう街。横浜中華街。
その一角は、四人の魔人による乱闘と、体長三メートルを超えるニトロイドの爆発によって、今や完全に破壊され尽くしていた。
その爆発の中心に、鳥越は居た。
ポツリ、と水滴が鳥越の頬に当たる。雨だ。
鳥越が目を覚ました。
(……なんだ……何が起きた……)
目が霞む。
ずっと耳鳴りがしている。
体を動かしたくても、ピクリとも動かず、今どんな体制をしているのか自分で判断することができなかった。
再び顔に雨が当たる。
(そうだ、僕はセバスさんに刺されたんだ……)
ぼんやりとだが、断片的に思い出せてきた記憶が繋がっていく。
セバスがあいきゅうさんによって刺されるのを見ていた気がするが、それも鳥越には現実なのかどうかわからなかった。
だんだんと、視界がハッキリしてきた。
見えた。
それが何なのか、最初は理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
徐々に脳が、輪郭を捉えていく。次に目を、鼻を、唇を、髪を。
その何もかもが、鳥越の愛する少女の姿そのものである。
そして、それが、半分だけの状態で地面に横たわって、じっと鳥越のことを見つめ続けていることを理解した時。
「 あ ゛ 、 あああ゛あ ぁぁぁァァァァアアアアア!!!!!」
鳥越は、叫んでいた。
逃げ出したかった。
体が動かない。
鳥越の両足は爆発によって吹き飛び、体には何本もの鉄骨が突き刺さっていた。傷口からは今もドクドクと血が流れ出ている。
もはや鳥越の体は痛みを感じることすらできなかった。
目を閉じたくても閉じられない。
ただ、目の前で、マユミが、何も言わずに鳥越を見つめている。
そこになんの感情も存在しない。
マユミは、死んでいる。
マユミは死んでいる。
マユミ が 死んでいる。
見慣れた光景である。
鳥越が落としたから、マユミが死んでいる。
それは思いつく限りで最悪の出来事だから、鳥越は何かある度にマユミを落とし、殺し、その最悪で他の全てを塗りつぶしてきた。
忘れないようにしようと、思っていた。
だがその記憶すら、いつしかマユミの死によってかき消されていた。
それを、鳥越は思い出そうとしていた。
七年前。
その日、鳥越はいつもより早めに仕事を終えていた。
マユミの誕生日だった。プレゼントは何ヶ月も前から予約してあった、可愛らしい花のブローチだ。以前、偶然店を通りかかった時に見つけたものだった。
「もしかして、もっと子供向けのおもちゃとかのほうが良かったんじゃないかな……」
後になってから不安を漏らした鳥越に対して、妻は『そんなことない。喜んでくれるわ。』と微笑んだ。
そのことを思い出しながら、鳥越は娘の喜ぶ顔を早く見るために家へと急いだ。
自宅のマンションの下までたどり着き、カバンの中にあるプレゼントを確認のために取り出そうと立ち止まる。
そして、ぶつかった。
マユミだった。
鳥越の上に、マユミが落ちて来たのだった。
気がついた時、鳥越は全身を強く打ち付け、呼吸すらまともにできない状態で倒れていた。
そして、目の前にマユミが居た。
マユミは、鳥越にぶつかったが故に即死することなく、動くこともなく、ただじっと虚ろな目で鳥越を見つめ続け、浅い呼吸を繰り返した。
鳥越は必死で助けを求めようとした。マユミを助けようとした。だが声も出ず、体も動かない。ただ、マユミが冷たくなっていくのを見ることしかできなかった。言葉の一つもかけてやることができなかった。
ジワリ、と、マユミの体から血が流れ出る。
雨が降り始めた。
マユミの体から流れた血が、雨に混ざり、やがて鳥越の元まで流れて──
──気がつけば、雨は土砂降りになっていた。
あの時と同じように、動けない鳥越と、動かないマユミが居た。
マユミを助けたかった。
マユミを助けようと思っていた。
だが、いつしかそれは目的ではなく、手段へと変わっていた。
鳥越は途中から生きる目的を失っていた。もしかしたら最初からだったのかもしれない。
だが、それで自ら命を断てるほど、強くもなかった。
だからここまで生きてきた。何もかも捨てたふりをして。
娘の死すら利用して生きてきた。
ただ悲しみから目をそらして逃げ続けてきた。
「……ミ………マユミ………」
ほとんど動かない口から出た、息と間違えてしまいそうなほど小さな声。
「マユミ……僕を………助けてくれ……」
誰にも届かないはずのその声が。
「うん」
一人の少女にだけ、届いた。
『Rainy MAYUMI』
セバスは、瓦礫に挟まれながらも生きながらえていた。
今は崩れ落ちた壁を背にして、空から降ってくる雨をただ眺めている。
すでに死を待つのみだが、それでも最後の瞬間まで生き続けようとした。
それが、仕えるべき主を残して戦いに身を投じ、身勝手に命を散らす愚かな執事としての務めだった。
一瞬、電気がこすれたようなノイズがした。
次に空からそれが落ちてきた。
スイカの砕けるような音。
今日、幾度となく聞いた、マユミの落下音だった。
だが、それは一度だけではなかった。
グシャリ。
グシャリ。グシャリ。
グシャリ。グシャリ。 グシャリ。グシャリ。グシャリ。
グシャリ。グシャリ。グシャリ。グシャリ。グシャリ。
グシャリグシャリ
グシャリグシャリ グシャリ グシャ グシャ
グシャ グシャ グシャ
グシャ グシャ グシャ グシャ グシャグシャグシャ……
止まらないマユミの落下。
セバスは何が起きたのかと空を見上げると。
「mon Dieu……」
灰色の雲を覆い尽くす、大量のマユミが天より降り注いでいた。
***
「駄目……逃げて!!」
ハイリが叫ぶ。
死の恐怖によって正気を失っていた彼女だが、空から降り注ぐ少女などという、それよりも訳のわからないものを見てしまったおかげで正気を取り戻したのだった。
今は自らが作り出したニャトロイド達を必死に逃がそうとしていた。
恐らく、どこにも逃げ場はない。
それほどまでに空から降り注ぐマユミ達のその質量は、圧倒的だった。
だが、それでもハイリはせめて自身の関わった者たちだけでも助けるため、諦めることなどできなかった。
「ねぇ! あんた達二人も! 早く逃げて!!」
ハイリが二体のニトロイドに向けて叫ぶ。
先の爆発によって破損した体はすでにハイリがニトログリセリンを注ぐことによって修復していた。
だが、ニトロイド達はそのままスクラムを組むと、ハイリに覆いかぶさるようにしてその身をマユミから守る盾にした。
「駄目だって! やめてよ! いまさらそんなことされたって……!」
ハイリは泣き叫びながらなんとかニトロイドを突き飛ばそうとするが、その巨体はいかに押そうともビクともしなかった。
「どうして、逃げて……お願いだから……」
ニトロイドのうち一体の口がモゴモゴと動く。すると度重なる爆発によって弱っていた鉄板が外れ、落ちた。
「ご、めん……なさい……ハイリ……」
「やだよ……ねぇ、やだ……パパ……ママ……!」
ニトロイドはハイリの両親だった。
かつてハイリの両親は、注ぐ女一族内での安寧を手にするためにハイリを裏切り、捨てた。
ハイリは両親のことが許せず、注ぐ女一族の束縛から逃れる際にニトログリセリンをたらふく飲ませ、さらに鉄板で口をふさぎ、永遠に生きるニトロ人間の奴隷として使役していたのだ。
それがハイリの、両親に対する復讐であった。
「ずっと……後悔、してた……ごめん、なさい……」
「うん……! うん!」
「今度は……絶対にあなたを……守る……」
空からマユミが降り注ぐ。
マユミがニトロイドの体にぶつかる度に、その衝撃によって爆発し、何人かのマユミを吹き飛ばした。
だが、その圧倒的な質量によってそれもすぐに押し返され、やがてマユミの海へと消えていった。
7
マユミの雨は、風に乗り、横浜中華街だけではなく横浜全域へと広がった。
横浜は壊滅した。
全てが終わった後、鳥越の元に二枚のタロットカードが落ちていた。
【女帝】
【皇帝】
その二枚が鳥越の体へと吸収される。
すると、鳥越の体が光に包まれ、それまで負っていた怪我が回復した。
欠損していた両足も元通りだった。
ガラガラガラガラ。
何かが崩れる音。
鳥越がふらつく足をなんとか動かして立ち上がり、音がした方向を確認した。
「うーん、ないんだぜー、ないんだぜー。ここだぜ? それともここだぜ?」
あいきゅうさんが瓦礫を掘り返していた。
「あ、あああああったんだぜー! うおー! あったんだぜー!!」
瓦礫の中から取り出したのは、ハイリが持っていた壺であった。
中にはニトログリセリンがまだ残っていた。
「水飴、いただきますだぜー! ゴクゴクゴクゴクー!」
あいきゅうさんは壺の中の液体を躊躇うこと無く飲み干した。
「うーん、甘い! やっぱり水飴は最高なんだぜ!」
ボシュゥッ!
あいきゅうさんは光とともに消滅した。
水飴(と勘違いしたニトログリセリン)を壺から飲み干したことで、願いを達成したのだった。
鳥越の元に【力】のアルカナを示したタロットカードが風に乗って飛んできた。
手に取ると、それは鳥越の体の中に光となって取り込まれた。
愚者の旅路は、始まったばかりである。