「御徒町はラーメン屋激戦区と聞いたのじゃが」
「東京は大体どこもそうよ」
厄介なことになったなぁ、と山乃端一人は御徒町を歩きながら頭を悩ませていた。
その横を付いてとことこと歩く、赤い髪の少女の名はドラゴニュート。
竜人族の末裔を名乗るこの少女は金欠で腹ペコで天真爛漫さを覗かせる子供のようで、山乃端一人を探しているという。
――しかも、見つけ次第八つ裂きにして殺すつもりで。
もともと神のお告げに従い命を捧げる予定の一人だったが、やはり痛いのは嫌だったので偽名を名乗りながらその場を離れようと画策している。
奇妙な関係のふたりは食欲に従うまま、ラーメン屋に向かっていた。
「塩か醤油か海鮮か……そこが問題よな」
戦々恐々とする一人の心を知ってか知らずか、ドラゴニュートは呑気にラーメン屋の選定に時間をかけていた。
駅前だからということもあるが、少し歩けばラーメン屋が数軒立ち並ぶ。激戦区というのもあながち間違いではなさそうだ。
一人もスマホを取り出し、評価の高そうな店を探しては彼女に見せてみた。
「さっぱり系かぁ」とか「味玉が美味しそうじゃのう」と実に良い反応が返ってきている。
しかし彼女は優柔不断な性格なのか、一向に店が決まらない。
同じ場所を何度もぐるぐる回っている気さえする。
「妾、ラーメンにはうるさいんじゃよ。
麺やスープへのこだわりはもちろん、店の雰囲気や食器の高級感ひとつで味は変わってしまうからのう……」
歩きすぎてこっちまでお腹が空いてきた。
予定ではとっくに東京駅まで着いているつもりだったのに、運命とはままならない。
――あるいは、これも神の与えし試練というやつか。
もうこの少女置いて自分だけ適当な店に入ろうかな――とそんなことをぼんやり考えていると、目の前に白い猫が通る。
「おお、猫ではないか! 愛らしいのう!」
「野良猫かしら。首輪は見えないわね」
にゃあ、と一鳴きしながら猫は一人たちの道を塞ぐようにして立ちはだかった。
ドラゴニュートが無邪気に近寄り、背中の毛並みをよしよしと撫でている。
「お主も触るが良い! 癒やされるぞ」
「随分と人懐っこいのね」
近づくだけで逃げる野良猫とは違い、この猫は身体を触られても嫌がる素振りを全く見せない。
――まるで、何かを求めているように。
「……この子も、お腹が空いているのかしら」
「むぅ……? そうなのか?」
ドラゴニュートは何かあげられるものは無いかと自身のポケットをまさぐる。
しばらくすると、煮干しの小魚を出てきた。
「そんな都合の良い話がある?」
「妾の朝食の残りじゃよ。カルシウムたっぷりじゃ」
煮干し魚を猫の口元に近づけると、それを勢いよく食べ始めた。
ドラゴニュートはくすぐったそうに笑う。
「なんじゃ、本当にお腹が空いていただけであったか。妾たちと同じじゃのう」
「ふふ……優しいのね」
彼女の口から八つ裂きという言葉が出てきたときは何事かと思ったが、それを除けば彼女は温厚な性格をしているように見える。
本当にあの発言は冗談のつもりだったのかもしれない。一人はそう思い、少しだけ警戒を緩めることにした。
猫はあっという間に煮干し魚を食べ終わってしまったが、それでも動こうとする気配が無い。
「まだ欲しいのか? すまんのう、今あげられるのはこれだけじゃ」
ドラゴニュートが申し訳無さそうにすると、猫は前足をあげて何かをアピールしてきた。
――その前右足は酷くボロボロで、赤黒い血が滲んでいた。
「この猫……怪我しているわ……」
「おお、そうじゃったのか。それでご飯にありつけなくなったのじゃな……」
それは人間にやられたのか、カラスにやられたのか、それとも他の猫にやられたものか。
傷から詳しい原因は掴めないが、放ってはおけないものだった。
「病院に連れて行ったほうが良さそうね」
「いや、その必要はないぞ」
慌てる一人をドラゴニュートが手で制した。
「ちょっと下がっておれ」
言われるまま、数歩後ろに下がる。
まさか彼女には治療の心得があるのだろうか。
「――妾に滅亡とは荷が重すぎる。
じゃが、命を与えることは何よりも容易い」
何かを呟いたかと思えば、直後ドラゴニュートの背中から身体の倍ある大きな白い翼が展開された。
それを物珍しそうに見た猫が「にゃあ」と甘えた声で鳴く。
羽毛を散らしながら、ドラゴニュートは慈愛に満ちた表情で猫を撫でていった。
「再生の翼よ。この傷を治すのじゃ」
するとどうだろう、ボロボロだった前足はみるみるうちに元通りになっていく。
――治癒の力。それが彼女の持つ魔人能力だというのか。
すっかり元気を取り戻した猫は一鳴きすると、地を駆け路地裏へと走り去ってしまった。
「もう怪我せんように気をつけるんじゃよー」
呑気な声でドラゴニュートは見送ると、白い翼がパッと消える。
辺りに白い羽毛だけが取り残されていた。
「この力を使うと余計にお腹が空くんじゃよ。燃費が悪くて敵わんな」
「……あの」
何と声をかけようか迷った末、絞り出すような声が出てきた。
それを遮るようにドラゴニュートがニッと笑う。
「妾、こう見えても魔人なんじゃよ。びっくりしたか? 怖くなったか?」
「いいえ、そういうことでは無いけれど」
竜人で魔人とは欲張りな――と、そういうことでもなく。
怪我を見た瞬間に惜しみなく能力を行使する彼女の姿は、とても格好良く見えた。
世界はまだまだ広い。
違った出会い方があれば、きっと仲良くなれたかもしれない。
「――おお、そろそろであったか」
ドラゴニュートはどこか物悲しそうに空を見上げる。
つられて空を見上げると、ビルの合間を抜けて滑空する何かが見えた。
人ならざる――それでいて、懐かしい怪物。
それを一人が見るのは初めてだった。
しかし、目ではなく心で、そこにあるものは理解できた。
――全身が鱗で覆われても。
――背中からコウモリみたいな羽根が生えても。
――頭がカマキリみたいになってレーザーを吐いても。
――腕が4本になって手首から鎌が生えても。
――体中からトゲが生えて何でも溶かす酸が出せるようになっても。
「――ひとりちゃん、会いに来たよ!」
姿は違えどあの時と同じ、人懐っこい表情が思い出せる。
たとえ頭が変わっていても。
たとえ首が変わっていても。
たとえ腕が変わっていても。
たとえ足が変わっていても。
たとえ背が変わっていても。
「――皆! 生きていたのね!」
思わぬ旧友との再会に、一人は人目も憚らず大声で彼女を呼んだ。
呪いにより著しく容姿が変わっているが、今の自分は彼女が無ければ居なかっただろう。
底抜けに明るく、他人思いで、虫が好きな普通の女の子。
谷中皆。
彼女は約束通り、一人の元に戻ってきたのだ。
「さぁ、わたしを受け止めて――!」
「無茶言わないで」
2対の鎌と酸の滴るよく分からないトゲを全身に纏った無邪気なボディプレスが東京の大地に降り注ぐ。
幸い速度がそれほどないこと、落下地点が予想出来たことから回避可能だったが、まともに受けていたらひとたまりもない。
危うく幼馴染との再会シーンがスプラッタ映画に変わるところだった。
悪びれることもなく、巨大なカマキリのような形をした頭が一人の方を向く。
「ひとりちゃん、大丈夫だよ。ミミズは身体が半分にちぎれても半分のまま生きていけるんだって」
「人間には無理なのよ」
変わらぬ話し方に、本物の皆だということを実感させられる。
当時の面影は全くない。
それは、一人だって同じはずだ。
「なんじゃ、お主たち知り合いだったのか」
地面に出来たクレーターを見つめながら、ドラゴニュートが口を挟んだ。
どうやら彼女たちも知り合いらしい。何となく予想はついていた。
…………。
さて、まずいことになってしまった。
ドラゴニュートは山乃端一人を探している。
その一人とは他ならぬ自分のことだが、彼女には偽名を使って自分は一人ではないと嘘をついている。
彼女は疑いもせずこうして仲良く接しているが、よりにもよって幼馴染との再会を経て正体がバレようとしていた。
ドラゴニュートは何かを考え込むような仕草を見せている。
そしてゆっくりとこちらを振り返り、神妙な顔つきになった。
「なるほど、これは話が早いのう」
ニヤリと不敵に笑いながらこちらに迫ってくる。
「まだ昼食にもありつけず腹ペコじゃが、思わぬ収穫はあったようじゃ」
そしてドラゴニュートは右手をバッと振り上げると、高らかに名乗りはじめた。
「妾の名前はドラゴニュート。滅亡協会の代表にして、北欧より訪れし竜人族の末裔!」
――自らが所属する組織の、一番上という立場さえ明らかにして。
一流の殺し屋は獲物を狩る直前に身分を明かすという。冥土の土産だ。
運命は一人を決して逃さなかった。
世界はまだまだ広いが、物語はここで幕を閉じる。
ドラゴニュートは本物の翼をはためかせると、爪を振り下ろして一人を切り裂き――。
「妾たちと共に山乃端一人を探しにいかぬか?」
なんてことはなく、手を差し伸べ仲間になることを持ちかけてきた。
子供のように無邪気な笑みを向けている。
「えぇ……?」
察しの悪さもここまで来ると心配になってくる。
これで何らかの組織のトップだというから驚きだ。
間の抜けた言動に幼馴染もキョトンとしている。
「あれ? ひとりちゃんはひとりちゃんじゃないの?」
「何を言っておるんじゃ。此奴は山瀬瞳じゃぞ」
「あれれー、もしかして人違いだったの!?」
この場には天然しか居ないのか。
そういえば、どうやって彼女は自分が山乃端一人だということに気付いたのだろう。
空港での別れから、15年も経過している。
あの時から自分は大きく成長したと思っていたが、こうも正確に見抜けるものだろうか。
「でも、別人だったらわたしのことを知ってるのはおかしいよね?」
皆の核心を突いた発言に場の緊張が高まる。
ドラゴニュートもようやく違和感の正体に気付いたのか、ハッとした表情でこちらを指差す。
「――まさかお主、妾を謀ったのじゃな!?」
流石にこれは分が悪い。
今度こそ、確定的に詰みだった。
ドラゴニュートはクククと笑い、目を光らせながら言葉を続ける。
「そうか……確かに名前がちょっと似てると思っていたのじゃよ。
そんな安直な偽名で、妾が騙し通せると思うたか!」
「さっきまで騙されていたじゃない」
「うぐぅ」
自身の天然さを指摘されダメージを受けるドラゴニュートだった。
「ええい、もうなりふり構うものか!
神のお告げに従い、山乃端一人――お主を八つ裂きにして殺してくれる!!」
「ちょっと待ってください!」
殺意を露わにする彼女を、皆が制した。
そういえば、皆には一人を殺す理由が無い。
自分の正体を見抜きこそすれ、一人にとっては心強い援軍だった。
「ひとりちゃんを殺すなんて、誰であっても許しませんよ!
――ここは平和的に、わたしたちの巣に連れて帰ることにしませんか?」
「うむ……まぁ、処分はそこで決めてもいいじゃろうなぁ」
日常会話のようなトーンで物騒なやり取りが聞こえてくる。
いずれにせよ、タダで見逃してもらうわけにはいかないらしい。
一人はただ、ここから逃げ出して東京に向かいたい気分だった。
「ひとりちゃん、大丈夫だよ。アリが他の巣のアリを引き込むときみたいに、優しくするからね」
4本の鎌をくねくねと動かしながら皆が詰め寄ってくる。
本能的に恐怖を感じた一人が逃げ出そうとした、その時――。
――カンッ。
足元に何かが転がってきた。
それは一見して鉄製の缶を思わせるシルエットで、ラベルは特に貼られていない。
上部には噴射口のようなものが付いているが口が開いたまま静止している。
その場に居る誰もが謎の缶に意識を向けた瞬間、中から勢いよく白色の煙幕が吹き出した。
尋常ではない速さでビル街の路地を埋め尽くした煙は、あっという間に一人たちの視界を奪う。
「何じゃこれは!?」
「ひとりちゃん、どこー?」
煙の向こう側で幼馴染が自分を呼んでいる。
思わず声のする方に手を伸ばそうとしたその時、何かに手首をガシッと掴まれた。
「間一髪だったっすね」
耳元で聞き覚えのある声がした。
まるで、ずっと昔から友達だったみたいな気軽さを感じさせる話し方。
――そうだ、あの時花屋で出会った彼女だ。
「ここから離脱するっすよ。舌を噛まないように、口は閉じておくことをオススメするっす」
聞きたいことは山程あったが、とりあえず彼女の言い分に従って口を閉じた。
直後、右腕を強く引っ張られ、ジェットコースター並の風圧を受けながら信じられない速さでの移動が始まった。
「――――――――!!」
あっという間に煙幕を抜けると、一人は声にならない悲鳴を上げていた。
視界がグルグルと回転しながら右へ左へと曲がっていく。
慣性が働いているのかそれ以上身体が痛むことは無かったが、理解を超えるスピードで暴走する自転車に無理やり乗せられているような気分だ。
一体今日は何だというのだろう。
神のお告げに従い東京に向かっただけなのに、一人は行く先々で災難にあっていた。
電車は止まり、竜人に絡まれ、幼馴染と再会し、拉致され――。
死んでいないこと自体が奇跡のようだった。
まるで誰かが一人の死を遠ざけているような、そんな気さえしてくる。
運命とはままならない。
死にたがりな一人の思いに反して、世界は山乃端一人が生存することを望んでいるようだった。
*
「戻ってきたっすよ」
有無を言わさず彼女に引っ張られてきた一人は言われるがまま、建物の中へと入っていく。
駅から少し離れたコインパーキング内に不自然に存在する、中規模のコンテナハウスのような建築物だった。
「真陽さん、おかえりなさい。――お、そちらの女性が」
「山乃端一人さんっすね。無事に救出できたっす」
中は見た目通りの広さをしており、入ると薬品の棚や物々しい機械類が目についた。
この部屋の持ち主だろうか、入って正面の椅子に腰掛ける白衣の少女が一人を興味津々に見つめている。
「……本当に無事?」
今の一人を無事と形容するのはあまりに難しい。
事情があるとはいえ乱暴に連れ回され、まだ視界がグルグルと回っていた。
気を抜けば今にでも嘔吐してしまいそうなぐらい。
目下やるべきことは、決まっていた。
「ちょっと悪いけど……外の空気を吸わせて」
「外は危険だ! いつアイツらが襲ってくるか分からないぞ!」
退路を塞ぐように白衣の少女が呼び止める。
純然な好意の気持ちが、今はただ恨めしい。
「じゃあ、何か袋は持ってないかしら?」
「あぁ、それならここに」
そう言って彼女は黒いエチケット袋を取り出した。
なんて好都合なものがあるものだろう。
「こんなこともあろうかと、作っておいたぜ」
釈然としない気持ちはあるが、時間も惜しいのでそれを素直に受け取った。
もはや立っているのも限界だったので、一人は部屋の出来るだけ目立たないところに移動して壁に手を付き、エチケット袋に口をあてる。
――オロロロロロロロロ。
ノータイムで逆流してきた胃の中のものを全てそこに吐き出した。
今日の出来事が走馬灯のように流れる。――本当に、色々あった1日だった。
世界はまだまだ広い。
しかし、人生は少しずつ好転しているのだろうか。
「……嫌なものを見せたわね」
「いや、こっちこそ無理やり連れてくることになって申し訳ないっす」
エチケット袋の口をしばり、備え付けのゴミ箱に捨てる。
改めて、花屋で出会った女性と向き合った。
「既に知っているかもしれないけど、私が山乃端一人よ。
――まさかあなたとこんなに早く再会出来るなんて、思ってなかった」
「それは私も同感っす」
それから彼女たちとやり取りを行い、それぞれの名前と目的を聞いた。
花屋で出会った女性――有間真陽は一人が借りた100億円を取り立てるため自分を探していたらしい。
ただし鏡の男と出会ったことにより事情が少し異なり、今は一人を刺客から守るために行動している。
白衣の少女――徳田愛莉も鏡の男に頼まれ、一人を守るための手助けをしている。
この部屋自体が彼女の能力で出来ており、この中では時間がゆっくり流れていることも聞いた。
また、もうひとつの目的は滅亡協会を止めること。その名前については一人も聞き覚えがある。
ちなみに鏡の男こと鏡助について一人は心当たりが無い。
一体誰が何の目的で自分を守ろうとして動いているかは不明だ。
――まさか、能力に気付いて発動を阻止しようとしているのだろうか。
「じゃあ、次は私を狙う人たちについて知ってる限りの情報を伝えるわ」
御徒町駅前の広場で偶然出会い、そして自分を探していた奇妙な竜人。
名をドラゴニュートと名乗り、竜人族の末裔を自称している。
そして愛莉が憎んでやまない滅亡協会の代表にして、治癒を得意とする魔人。
何だか掴めない少女という印象が強い。
もうひとりは、10年前にアメリカで消息を絶った幼馴染――谷中皆。
見た目はさながらカマキリを模した怪人のようだが、呪いによりあんな姿をしているだけだ。
戦闘能力は見たままだろう。決して侮れる相手ではない。
「――次にやるべきことは決まったっすね」
一通りの情報交換を終えて、真陽がそれをまとめた。
まず最優先するべきは山乃端一人――つまり自分が無事でいること。
本来の目的を考えると複雑な気持ちにならざるを得ないが、今は一旦置いておく。
しばらくはラボに身を潜め、危険が無くなるまで待機することとなった。
次にドラゴニュートを倒すこと。
彼女を放っておけば一人はいつまでも狙われ続けるだろう。
また、第三者の被害が増える可能性もある。
命までは奪わずとも、何らかの制裁は必要だ。
最後に谷中皆については保留とした。
敵対するなら討つべき相手だが、おそらく一人を殺そうとまでは考えていない。
ただし厄介なのはその人ならざる見た目で、放置すれば街に被害が出るのは間違いないだろう。
軍や警察まで動いて彼女を始末しようとするかもしれない。
――つまり、彼女と無事に再会できる可能性は、極めて低いという結論。
「皆……やっと会えたのに……」
これまでの15年間で皆に何があったのかは分からない。
それでも自分のことを忘れていなかったという事実だけが、一人の心を酷く悩ませていた。
どうにかして、彼女が無事助かる方法は無いものだろうか。
「それなら、ここはあたしに任せてくれよ」
葛藤する一人に愛莉が手を差し伸べる。
――彼女は2ヶ月前に失った友人に皆のことを重ねていた。
「友達を見捨てるなんて判断、あたしには出来ない。
ここには薬品も材料もたくさんある。……作れるかもしれねぇだろ、人間の姿に戻れる薬だって」
「…………ありがとう。期待しているわ。だけど無理はしないで」
愛莉の魔人能力はあくまでラボを建てることだけ。
魔法のように様々な薬品を生み出せるわけではなく、その結果は彼女の手腕に委ねられていた。
ふたりの正義が動き出す。
真陽は表に出てドラゴニュートを倒し、薬が出来るまでの時間を稼ぐため。
愛莉はラボに残り、皆を元の姿に戻すため。
全ては――山乃端一人を生存させるために。
ビル街を舞台にした戦いは、静かに幕を開ける。
*
ラボの中では時間がゆっくり流れるという話は本当だったらしい。
真陽は長い間ラボに居たつもりだったが、ドラゴニュートと皆はあれから全く位置を変えていなかった。
一人の手を引き、強引気味に連れ去ったあの場所のまま、彼女たちはまだ何かを言い合っている。
人通りのない路地で立ち尽くす、竜人と怪人。
もうしばらくすれば怪人の出現に気付いてギャラリーが出来たり、警察に通報されるのも時間の問題と言えた。
赤い髪の少女がドラゴニュート。
一人の情報によると、治癒能力を持っているらしい。
竜人族が持つ身体能力も未知数だが侮れないだろう。
巨大なカマキリのような身体を持っているのが一人の幼馴染、谷中皆。
特徴的なのは4本の腕から伸びる鎌。そして全身に纏ったトゲからしたたる酸のような液体。
背中の羽も飾りではなく、実際に飛んでいるところを見たという。
――そして、口からレーザーが出る。
これは実際に見たわけではないが、念の為用心するようにと言われた。
茂みの陰から真陽は遠巻きに戦力分析を行うと、まずは倒すべき順番を考える。
相手はまだこちらに気付いていないので、先制攻撃で1人はダウン出来るだろう。
暴れられると怖いのは皆だが、下手に傷を付けてもドラゴニュートの治癒能力で無かったことにされる可能性がある。
ならば――先に沈黙させるべきは、竜人。
財布からコインを3枚取り出すと、1枚はそれを曲げた人差し指の上に乗せ、親指の力だけで飛ばせるように準備を行った。
真陽の魔人能力のひとつは、手に持ったものを加速させること。
当然運動エネルギーが無い状態では加速させようも無いが、僅かにでもエネルギーが発生するなら最大時速200kmの勢いで対象物をぶつけることが出来る。
プロ野球選手の投げる全力ストレートがおよそ時速160kmであることを考えれば、致命傷を与えるほどの武器になることは想像に難くない。
「あの子に恨みは無いけど――ちょっと眠ってて欲しいっすよ」
茂みから前に飛び出すと、ドラゴニュートに狙いを付けて能力発動と同時にコインを射出させる。
風を切る音は誤魔化せないが、相手が認識するよりもずっと速く、少女の身体を撃ち抜いた。
「――あぐっ! 敵襲か!?」
時速200kmの弾丸と化したコインはドラゴニュートの足に直撃した。
あまりの痛みに膝から崩れ落ちるしかない。
間髪入れず、2枚のコインを射出する。
ひとつは肩に、もうひとつは胴体を狙って。
「ちっ――妾をそう舐めるなよっ!!」
2枚目のコインは狙い通り命中した。
だが、3枚目のコインは爪で弾かれ、宙を舞う。
「な――――」
それは真陽にとって初めての経験だった。
まさか時速200kmの小さな弾丸を肉眼で見切り、防がれるなんて――。
「ドラゴニュートさん! 大丈夫ですか!」
ようやく理解の追いついた皆がドラゴニュートに駆け寄る。
狙い通り重傷を与えることは出来たが、あと一歩が惜しい。
ダメ押しとばかりに次の武器を装填していると、ドラゴニュートの怒声が飛んできた。
「皆! 此奴に攻撃の隙を与えてはダメじゃ! このままでは全滅してしまうぞ!」
「わ、分かりました! 排除します!」
皆がこちらに向き直り、背中の羽を大きく広げる。
すると鱗粉のようなものが辺りに散布された。
「虫は、生きるために何だってするの。
――チャドクガは風に乗せて自らの毒針毛を飛ばし、天敵を攻撃する!」
鱗粉に見えたものは、毒の塗られた無数の針のようなものだった。
皆が即席で思いついたこの攻撃は、存外真陽の戦闘スタイルとは相性が悪い。
真陽が得意とするのは高い機動力を活かした遠距離からの一方的な狙撃である。
相手の裏をかくようにして前や後ろから回り込み、防御が手薄になっているところを一気に崩す。
そのようにして飛び回るため、広範囲に及ぶ攻撃は苦手としていた。
風を使って攻撃するような相手は特に。
そのため、真陽は積極的な対策を行うことにした。
180度反転すると、そのまま距離を取るようにして走り去っていく。
「あ、逃げるなー!」
「追いつけるものなら追いかけてくるっすよー」
あえて挑発するような物言いをしたが、相手は特に動こうとはしなかった。
おそらく手負いのドラゴニュートを置いてはいけなかったのだろう。
真陽が素早く走ることで風の流れは当然変化する。
しかし、今はまだ真陽を追いかけるようにして風は吹き荒れている。
走れば走るほど、毒針毛を大量に含んだ風は真陽について来る。
――ただ闇雲に逃げているわけではない。
大通りに出る前に、真陽はあえて広い通路の片側に風を寄せて、横からの抜け道が出来るように操作した。
そのままUターンを決めると、今度は倍の速度でドラゴニュートたちが居る方向へと突進していく。
真陽に向かって放たれたはずの風は、ドラゴニュートたちに襲いかかろうとしていた。
能力をこうやって使えば、間接的に風を操ることだって出来る。
「すみません、ドラゴニュートさん! わたしの毒針毛が今度はこっちに!」
「なんじゃと!?」
こうもあっさり返されるとは思っていなかっただろう。
風はそのままドラゴニュートたちを飲み込み、無数の毒針毛の直撃を浴びる――。
「――たわけがっ!」
なんてことにはならなかった。
風がぶつかる直前、ドラゴニュートは背中から伸びる大きな漆黒の翼をはばたかせると、辺り一面をまとめて吹き飛ばした。
その衝撃で周囲のビルの窓ガラスが全損し、あちこちから悲鳴が聞こえる。
――今までとはレベルが全く違う。
これが人間と竜人の差というものか。
「皆よ、もう良い。――ここからは妾と皆のコンビネーション攻撃で追い詰めようぞ。
妾に傷を負わせた罪、とても高く付くと思え!」
大地を揺るがすような咆哮が響く。
一人から聞いていた印象とは大分違い、彼女はまさに竜人族の末裔を名乗るにふさわしい風格を感じさせる。
治癒能力を用いる際に広げたという白い翼とも異なり、黒い翼を広げたということは能力も変化したのだろうか。
――もはや、この戦場では身体が持たないかもしれない。
真陽は広い場所でこそ自由となり、速さというアドバンテージを用いて相手を競り負かす。
魔人と怪人と竜人による戦いは、大通りへと持ち越された。
*
「くそっ……こっちは毒性が強すぎて人体には使えないし、こっちは副作用で一生起きなくなるかもしれねぇ。
――漫画みたいな薬はあたしには作れないっていうのか!」
薬品と実験ノートを睨み合いながら、徳田愛莉は理想通りの薬を調合するため悪戦苦闘していた。
まるで解決の糸口は掴めない。――ここはファンタジーの世界ではないのだ。前例もヒントもまるで足りない。
正義を掲げるだけなら簡単だった。
人の命を救うのが、こんなに難しいなんて知らなかった。
ラボ内には静寂が満ちている。
レンは用事があるときと愛莉が呼んだとき以外は出てこないし、一人は疲れからか部屋の壁に寄りかかるようにして熟睡していた。
愛莉も何だか頭がぼーっとしてきたので、冷蔵庫から眠気覚ましのエナドリを手に取り、気分展開にと武器の改良にも取り掛かってみる。
あるいは、あの4本の腕を切り落としたり羽を削ぎ落とすして人間らしい姿に近づけるとか。
薬品に頼らずとも救う手立てはあるかもしれない。
万事休すにはまだ早い。
今度は時間だけが足りている。
足りないのは、それ以外の全て――。
「……ふわ~ぁ。お困りのようだね」
愛莉が寝落ちしそうになった一瞬、耳元に甘い囁きが訪れた。
驚いて振り向くと、そこには見知らぬ背の高い女性が立っていた。
時折あくびを繰り返しながら、じっとこちらを見つめている。
――まるで入ってくる気配を感じなかった。
あるいは眠さのあまり、背後への警戒が疎かになっていたのか。
ラボは戸締まりが出来るわけではないので、人気のある場所に設置すればこういう事故もあり得る。
「……ふわ~ぁ。安心していいよ。ぼくは真陽ちゃんの上司みたいなものだから」
「真陽さんの知り合い?」
真陽が今井商事という金貸し屋に勤めている話は聞いていたが、そこで確か「愛莉ちゃんと話が合いそうな人が居るっす」と言っていた気がする。
その人はいつも眠そうで、一週間の殆どを眠りに費やし、起きたかと思えば物凄い速さでパソコンを叩くのだという。
名前は確か――。
「まさか、美奈先輩ってあなたのこと?」
「……ふわ~ぁ。その呼び方をするのは真陽ちゃんだけだね。ぼくは入々夢美奈。今井商事4課のリーダーをやっているよ」
そう言って、美奈は愛莉の隣にある予備の作業机に腰掛けた。
手持ち鞄からノートパソコンを取り出し、何かを準備している。
「……ふわ~ぁ。キミは谷中皆を助けたいと思ってる」
「何でそのことを――」
「……ぼくもそうだよ」
パソコンのデスクトップが表示されると同時に、美奈のあくびが止まった。
一転して真剣な顔つきに変わる。
「ぼくは今井商事のメンバーであると同時に、滅亡協会のメンバーでもある。
――だから今日起こることも全て知っているし、谷中皆の登場も全てぼくらが仕組んだものだからね」
「滅亡協会のメンバー……!!」
それを聞くや否や、美奈の首元に銃口を突きつける。
――最初から、あたしを始末するつもりだったのか。
「違うよ。キミに危害は加えないし、真陽ちゃんを裏切るようなこともしてない。
――スパイなんだよ。うちの社長からの命令でね」
美奈は両手を上げて、何もしないということを大袈裟にアピールしてみせた。
一週間の殆どを眠りに費やしているというのは嘘のようなもので、美奈は2年前から異なる会社を行ったり来たりする諜報活動を全うしていた。
仕事を卒なくこなし、スケジュールの空いた日は眠っているという彼女を疑った者は誰も居ない。
「滅亡協会はただの暗殺者集団だ。世界に恨みがあるとか、終わってしまえばいいとか、そういったネガティブな感情を武器にして戦う魔人の集いだね。
世界を股にかけて影響力のある人物を殺してまわり、社会を徐々に弱らせることが目的。
――と、そこまで聞くとテロリストみたいだけど、実行まで移るのは本当に稀なこと。SNSに居る陰謀論者とそう変わりないかも」
美奈はそこまで言うと、滅亡協会の構成員一覧が載ったファイルをパソコン上に映して見せた。
国籍も性別もバラバラな魔人たちのリストがズラリと並ぶ。
そこにはルート666やドラゴニュートなど、愛莉の見知った名前もあった。
「――ところが、最近は特に活動が活発になっている。神を名乗る男が協力者として現れてからね。
彼は権力や影響力とは関係なく、無差別に人間を選んでは『始末すれば世界は滅ぶ』なんて適当なことを言っている。
山乃端一人もその内のひとり。――キミの名前が挙がったこともあったね」
「ルート666……!」
あの事件以降、愛莉が滅亡協会から襲われることは無かった。
しかしそのようなやり方を繰り返しているなら、被害は増える一方だ。
――とても許せるものではない。
「そして今回の一件も全て神が仕組んだもの。
真陽ちゃんとキミがここに来ることも含めて、全ては予言の通りになった」
「そんな……あたしたちは鏡助に頼まれて来たんだ……それすら予言通りだっていうのか!?」
「分からない。あくまで予言の内容は集うことだけ。具体的に何が起こるかまで神は説明できないみたいだね」
そうでなければ彼らも負け戦は起こさないからね――と美奈はクスクス笑う。
彼女はあくまで今井商事側の肩を持つらしい。
ファイルが切り替わり、また見知った名前が表示される。
――谷中皆。愛莉にとって見捨てておけない、何もしなければ誰かに殺される運命が決定付けられた少女。
「彼女の両親は15年前、身体が変質し続ける不治の病を治すため、ロサンゼルスに居る名医を希望した」
「それは……治らなかったのか?」
「うん。それどころか、その医者がとんだヤブでね。遊ぶ金欲しさに彼女を怪しい研究所に売り飛ばし、両親さえ手にかけた。
その事実さえ闇組織によって隠蔽さえ、彼女は『生きているだけ』の状態で15年も放っておかれたんだ」
「…………そんなの、あんまりだ」
愛莉が期待していた皆の歩みは、これ以上紐解くことすら躊躇われる陰鬱な事実だった。
「滅亡協会は義賊じゃない。たとえその事実を耳にしようと、ただ少女を助けようとして谷中皆を雇ったわけじゃないよ。
――彼女はずっと、研究所で人体実験の日々を耐えていた。心が壊れそうになりながら、訪れるはずのない救いの日を待ちわびていた」
生きながら彼女は何を思っていたのか。
両親の温もりか、友達と過ごした日々か。
「聞いたことは無いかな? 人は耐え難い試練やトラウマに直面したとき、それを克服するために魔人として目覚める。
――間もなくして、彼女は新たな魔人能力に目覚めた」
「彼女の能力はあの見た目じゃなかったのか……!」
「あれは一種の祟りみたいなものだからね。その新たに目覚めた魔人能力こそ、滅亡協会が最も欲するものだった」
コホン、と美奈は咳払いをひとつして。
「――彼女は山乃端一人が生存していることと、居場所が正確に分かる能力者だった」
「な――!?」
そんな限定的な能力は聞いたことが無い。
しかし、嘘では無いのだろう。
そうでなければ――この日この邂逅は無かったはずだから。
「彼女はいつも、研究所でうわ言のように呟いているそうだよ。
――ひとりちゃんが生きている、ひとりちゃんが生きている、と。
その話が滅亡協会の耳に入ると、山乃端一人を探すために引き抜かれ――」
「もう十分だろ!!」
話を最後まで聞き終わるまでもなく、愛莉は激怒していた。
山乃端一人が生きていることだけを糧として生きていた彼女は、皮肉にも山乃端一人を殺す計画のために利用された。
あまりにも残酷な話だ。
「あんたも、どうしてそんな話を聞いて平然としていられるんだ!
一歩間違えれば、彼女も山乃端さんも死んでしまうんだぞ!」
「そうだね。危険な賭けなのは間違いない。……だけど、これ以外に彼女をアメリカから連れ出す方法はあったのかな?」
「……それは」
彼女は、あの姿のまま無事に海を渡ることは出来ない。
それこそ、アメリカから日本まで瞬間移動できる類の魔人能力に頼らない限りは。
過程はどうあれ、山乃端一人と谷中皆は再び東京で出会った。
――様々な思惑が交わる中で、幸いにも今はまだふたりとも生きている。
だが――その逢瀬はあまりにも儚い。
研究所から飛び出てきた怪人の彼女に、人間らしい居場所があるのだろうか。
ずっと匿うなんて軽々しく言える話でもない。
再び彼女を狭い世界に閉じ込めたいとも思えない。
「救いたい……けど、どうすれば――」
祟りを取り除き、怪人をただの人間に戻すという、前代未聞の発明品。
――命を救うなんて、口で言うだけなら簡単だ。
12月のあの日、一途恋から託された正義は揺るぎない。
救えなかった命を救うシミュレーションはいくらでもした。
けれど、目の前にある命を救う術だけがまるで見つからない。
「愛莉」
その優しい呼び方が、委員長の姿と重なる。
常に正しく勇敢で、決して曲がることのない正義そのもの。
――たとえ孤独な道を歩くことになっても。
「共に戦おう。ぼくはそのために来た」
差し伸べる彼女の手は、マメだらけだった。
*
「人の子よ、本気の妾と渡り合えることを誇りに思うが良い!」
大通りに出ると、そこは有間真陽が理想の状態で戦える開けた場所だった。
平日の昼間とはいえ流石に人通りは多い。通行人にぶつからないよう、停止と加速を繰り返しながら縫うようにして逃走を行う。
一方、ドラゴニュートは黒い翼を広げてそれを追跡していた。街行く人も何事かとざわめきが上がっている。
真陽は走りながら、植え込みに落ちている缶や石を飛ばして応戦していた。
驚くことに速度は互角ぐらいだ。時速200kmで走り続ける真陽をドラゴニュートは正確に捉え、追いついている。
仲御徒町駅前は大きな国道を挟むようにして歩道があり、規則正しく信号が並んで車通りを完全に制御している。
まだ人も車も多い。真陽が気兼ねなく戦えるフィールドではなかった。
だから、ひたすら走り続ける。
同じ場所をグルグルと回り、時間を稼ぎ続ける。
追いつかれそうになるとUターンを行い、信号機の区画を行ったり来たり。
通行人も街に流れる異変に気付き、安全な場所に避難するようになった。
「――お主、一体何をやっておるのじゃ」
ドラゴニュートの低く威圧感のある声が響く。
――次の信号が赤になる。
この自動車がはけたとき、この車道は空っぽになるだろう。
「見て分からないっすか? 交通整備っすよ」
「そんなことしたって、次の信号が青になったら新しい車が来るじゃろ――う?」
辺りを見渡して、やっとドラゴニュートは異変に気付いた。
交差点を見渡す限りの赤信号。車道も歩道も、誰も寄せ付けない閉鎖空間と化していた。
「信号無視をする奴はこの際いいっすよ。――これで、思う存分戦えるっす!」
真陽の能力のひとつは、一度触れた物に流れる時間を止めること。
――信号機に流れる時間を停止させて、ずっと赤のままにすることも容易いこと。
これで善良な第三者を巻き込む心配は無くなった。
「クク――カカカカカ!! 妾との戦いを前にして、そんな悠長なことを考える暇があったとはのう!」
狂ったように笑い、ドラゴニュートは真っ直ぐに突進してくる。
もちろん正面からやり合う気は無い。地面を蹴ると、僅かな運動エネルギーから真陽はどこまでも加速できる。
時速200kmの瞬間移動は――しかし、竜人の敵ではなかった。
「何度も同じことばかり、芸が無いわ!」
ドラゴニュートは真陽の着地地点を完璧に読み切ると、空間を切り裂いた。
「な――っ!?」
その時発生した僅かな風を利用して着地地点をずらし、何とか致命傷は回避した。
しかし右腕に引っ掻いたようなかすり傷が生まれてしまった。
「ククク――捉えたッ! 滅亡とはなんと容易いことであろうか!
――崩壊の翼よ。その傷を悪化させよ!」
ドラゴニュートの黒い翼が別の生き物のように振動を行うと、真陽に付けられた傷口が大きく開き、大量の血液が噴出する。
「……っ! まだ、能力を隠し持っていたっすね……!!」
治癒の力、竜人の力、崩壊の力――どれだけ欲張りなのだろう。
流石にこれが最後だと思いたい。
真陽は重傷になった右腕を手で抑えると、『止血』を行う。
――読んで字の如く。傷口に流れる時間を止めて、これ以上血が流れないようにした。
「お主も大概チートじゃろうに……」
「私にも戦う理由があるってことっすよ!」
真陽も防戦一方ではない。
移動しながら財布を開き、ありったけのコインを右手に集めていた。
距離を取り、指に力を込めて――。
「小賢しいッ! 人間がァァァ!!」
ドラゴニュートは真陽にも匹敵する速度か、それ以上の速さで爪を振り上げながら距離を詰めてきた。
その際に生じた風を使って緊急離脱を行うが――間に合わない。
真陽の右手からコインがこぼれ落ちる。
ドラゴニュートの爪が右腕を貫通し、食い込んでいた。
「今じゃ! 皆よ、此奴を焼き払ってしまえ――!!」
間違いなく致命傷――それだけではない。
移動すること自体を封じられている。
――真陽の能力は運動エネルギーを利用して加速する能力。
この状態では離脱することも出来ない。
ドラゴニュートとの戦いで手一杯で、皆の動向を気にする余裕も全く無かった。
彼女はビルの屋上からずっと戦いを観察し、それを待ち望んでいた。
――真陽の動きが止まる、その瞬間を。
皆の背中の羽に7つの斑点が浮かび上がり、カマキリのような口にエネルギーが濃縮されていく。
体中のエネルギーと太陽の光を吸収し組み合わせることで発射される――決戦兵器。
「七滅天倒砲、発射――――!!!」
地上に向けて、光が道路に降り注ぐ。
衝撃だけで周囲の道路が陥没し、着弾地点には大きなクレーターが空いていた。
その中心点に真陽の姿は――無い。
「避けた――じゃと!? 一体どうやって――!!」
「ロマンだかプライドだか知らないっすけど、戦い方が大味すぎるっすよ」
真陽をその場で殺したいなら、あそこでもう片方を爪を使って心臓を貫いても良かった。
――そうしなかったのは、ドラゴニュートの矜持によるものか。あるいは物理的な制約か。
ビームが着弾する一瞬、衝撃波で生まれた運動エネルギーは食い込んだ爪から抜け出すのに十分な力を持っていた。
真陽を真上に吹き飛ばそうとする力を使い、大きく跳躍。
着弾の瞬間、彼女は上空でやり過ごすことに成功していた。
ドラゴニュートから僅かに距離を取った地点で、真陽は対峙する。
「クク――カカカカカ!! 面白い、そうでなければな!
しかし妾の能力、よもや忘れたわけではあるまい。
――先程の傷口が開いているな! ならば死ねい!!」
言っていて、ドラゴニュートはおかしいと気付かなかったのだろうか。
爪が食い込んだ際に生まれた重傷は、能力で止血されることなく放置されていた。
当然真陽も崩壊の力を忘れていたわけではない。
「崩壊の翼よ。あの傷を悪化させよ――!!」
ドラゴニュートは確かに強力な相手だ。
3つの能力を自在に使いこなし、スペックだけなら人間を遥かに凌駕する力の持ち主。
だが、少し頭に血が上りすぎていた。
自分の手が利用されていることに気付かない。
「――策に溺れたっすね」
右腕から開いた傷口から、血液が噴出する。
――それは既に、真陽の能力の及ぶところだった。
傷口は真っ直ぐに、ドラゴニュートの顔面に向けられていた。
「何じゃと――――!?」
思わぬ反撃手に、ドラゴニュートも回避することが出来なかった。
襲いかかる血液を顔面に浴びて、彼女の瞳は光を奪われた。
「ま、待て! こんなの反則であろう! 何も見えんぞ!!
――人間よ! これで勝ったと思うなよ。今日のところは顔を洗って――」
「動きが遅いっす」
その場からよたよたと逃げ出そうとするドラゴニュートを、時速200kmの手刀で沈黙させる。
「きゅう」と短く鳴いて、竜人は呆気無く気絶した。
「危うく失血で死ぬところだったっす……」
フラフラと気が遠のきそうになるのを、循環する血液の流れを早めることで何とか持ち直す。
これを多用すると体が壊れそうになるので、出来れば使いたくない手段だった。
――とりあえず、倒すべき敵は片付けた。
あとは谷中皆をどうするか。
「……降りてくるっすよ」
誰にともなくつぶやく。
皆は背中の羽を広げ、竜人の眠る地上までゆっくりと降下してきた。
――複眼は真っ直ぐに真陽を捉えたまま、離さない。
「あなた……何者ですか? ひとりちゃんを、どうするつもり?」
「私は山乃端さんを守るために来たっす。――そして、谷中さん、あなたも出来れば助けたいっす」
「だったら、ひとりちゃんを返して――!!」
慟哭に呼応するように、4本の腕が真陽を狙って勢いよく伸びる。
思わぬギミックに驚く真陽だったが、それを差し引いても回避は容易い。
ドラゴニュートに比べて、あまりに遅すぎる攻撃だった。
おそらく彼女にこれ以上の手はない。
口から発射されるレーザーこそ脅威だが、それはあくまで街を破壊するという目的に変わったときだけ。
伸びる4本の腕も、何でも溶かす酸を持った全身のトゲも、背中から飛び出る毒針毛も――当たらなければ無意味だ。
一方で真陽は彼女を倒す手段をいくつも考えついている。
速さとはそのまま射程距離に繋がり、回避も攻撃も自由自在。
――倒すだけなら、1分もかからないだろう。
しかし、客観的な有利不利とは裏腹に真陽は追い詰められていた。
彼女を救う手立てが、真陽にはまるで思いつかない。
仮に彼女を降伏させても、警察がそれを放ってはおかないだろう。
そうなれば、彼女は激しく抵抗し街の無関係な人々にまで害を与えるかもしれない。
「愛莉ちゃん……そろそろ限界っすよ……!」
時間はたくさん稼いだはずだ。
遠くからパトカーのサイレンも聞こえてくるようになってきた。
彼らだって無駄死にはしたくないだろうし、少なくとも真陽たちが拮抗している間は遠巻きに様子を見ているだけだろう。
この状況が、いつまで続くか分からない。
「谷中さん……このサイレンの音が聞こえるっすか。
君の姿はあまりにも目立ちすぎる。私がこのまま野放しにしたら、あっという間に殺されるっすよ」
「わたしが――!? ありえない……それはありえないよ。だって、アメリカの研究所で10年間を無駄に過ごしていたわけじゃない。
人間の殺し方ならたくさん覚えた! 生き残る手段だってたくさん考えた!
――ひとりちゃんを守るために、わたしはこれから戦える!!」
その必死な叫びが、ビル街に哀しく響き渡る。
「世界を敵に回しても――ひとりちゃんと、これからもずっと一緒に居たい!!」
それはいつから続いていた呪いだろう。
もはや彼女を救う手段は無いようだ。
無関係な人々を守るために、彼女をこれ以上生かしてはおけない。
「残念だけど……時間切れっす……」
トレンチコートの袖からナイフを取り出す。
愛莉から託された謹製ナイフだ。
これで、長く続いた戦いに望まぬ終わりを。
真陽が決意を固めて飛びかかろうとした、その時――。
――デーデーデ―、デンデデーン、デンデデーン♪
真陽のスマホから着信を知らせる『ダース・ベイダーのテーマ』が流れる。
そんな着信音の相手に心当たりはない。
ということは――。
「美奈先輩……勝手に人の着信音を変えるのはやめてほしいっす……」
呆れながら、真陽はスマホを耳に当てる。
予想通り、よく知る女性の声が聞こえてきた。
『もしもし、真陽ちゃん? ぼくだよ』
「……あれ? 美奈先輩、今日は何だか眠そうじゃないっすね」
いつもならあくび混じりに話す癖のある彼女が、今日はやけに張り切っていた。
それはとびきり良いことの報せか、とびきり良くないことの報せを持っているときの声だった。
『そうだよ。君がおそらく目の前で戦っているであろう、谷中皆ちゃんを助ける方法が見つかったからね』
「ほ、本当っすか!?」
彼女は表情をコロコロ変える方ではないが、したり顔を浮かべる姿が電話の向こう側に見えた気がした。
『今ぼくは愛莉くんのラボに居るけど、あと何秒で戻れそう?』
ここからコインパーキングまでの距離を目測で数える。
――そして、ラボに向かうなら皆の横を通り抜ける必要もあった。
「――5秒ぐらい、っすね」
『よろしい。待ってるよ』
その答えに美奈は満足したようだった。
ラボの内側では1秒が1分に変わる。あまり待たせるわけにもいかないだろう。
『あと、ひとつ頼みがあるんだけど――』
真陽にそれを伝えて、電話は切られる。
次にやるべきことは決まった。
「さて――」
「ひとりちゃんを返せェェェェ!!」
もうこんな茶番に付き合ってられないとばかりに、皆が4本の鎌を広げながら突進してきた。
それを真陽はナイフ1本で迎撃にあたる。
一瞬の交差。
鎌と刃が混じり合い、赤い血が吹き出る。
「な――――」
競り負けたのは皆の方だった。
力は互角ですらない。見ている世界がまるで違った。
4本あったうちの1本の腕が切り飛ばされ、それを持ち去られていた。
「なんなの……あのひと……」
どんな世界に生きていれば、あんなに肝の座った戦い方が出来るのだろう。
既に走り去った後ろ姿を見つめながら、皆はポツリと呟いた。
「ひとりちゃんが……生きてる……」
彼女の向かった先に、山乃端一人は生きている。
一人の体温と居場所が分かる能力――それこそが谷中皆の望んだ魔人能力だから。
ゆっくりとした足取りで、皆は一人の元へと向かうことにした。
「今……会いに行くからね……」
――だって、約束したから。
*
「うぅ、酷い目にあったわい……」
地面を舐めるような体勢で倒れ込んでいたドラゴニュートは、意識を取り戻すとゆっくり立ち上がった。
依然として自分がどこに居るのか分からない。顔中が返り血でベトベトしている。
目の辺りをこすると少しだけ見えるようになったので、その光を頼りに安全な場所まで避難する。
「あの人間……妾に情けをかけたのか」
あの時、殺そうと思えばすぐに殺せた。
自分を生かせばまた山乃端一人の命が狙われる――それを知ってか知らずか。
「お人好しめ……それでは守れるものも、守れなくなってしまうぞ」
直接彼女の口から聞けたわけではないが、ドラゴニュートは彼女の正体を知っていた。
――竜人の自分にも匹敵する驚異的な加速能力。
それは有間真陽で間違いないだろう。
彼女が山乃端一人を守る『救世主』のひとりであることも、神から聞いている。
「…………今日のところは、見逃してやるか」
ひとりごちると竜人族の証である赤い翼を広げ、街を遠く離れる。
もう少し見渡せば谷中皆の最期が見れたかもしれないが、もはやドラゴニュートの興味を惹くものはない。
――敵に見逃された悪役が、何度も現れては格好が悪いだろう。
ドラゴニュートは生来、戦いを好む性格では無かった。
北アルプスの山奥にある竜人族が暮らす街で彼女は生まれたときから崇められ、一族の掟に従い世界を滅ぼすことを期待されていた。
何度も繰り返された、人間と竜人の争い。
――その結末にあったのは、何故か竜人の敗北ばかり。
彼女は同じ路を辿るものかと、故郷を抜け出し放蕩の旅を続けていた。
正義の味方にさえなりたいと願ったこともある。
だが――運命から逃げることは出来なかった。
気が付けば滅亡協会の代表という立場に就いて、皮肉にも悪役の真似事をするようになっている。
力を求められる場所が欲しかった。
自分は、人間に頼られたかった。
「妾は……何がしたいんじゃっけ……」
白い翼は、再生の力。
黒い翼は、崩壊の力。
赤い翼は、竜人の力。
――どれだけ力を持っていても、人生とは思うようにならない。
ならばいっそ死んでしまいたいとさえ願うのも、また人らしい。
「神よ……次はどうすればいい……」
今はただ、誰かに命令されることが心地よかった。
*
「今戻ったっすよ」
急いでコインパーキングにあるラボに駆け込んだ有間真陽は、そこに見知った上司の姿を見つけた。
愛莉と何かの発明に没頭している。傍目には家庭教師みたいで微笑ましい光景だ。
「お、真陽ちゃん。時間通りだね」
今井商事の4課リーダーにして部署違いの先輩。
1週間の殆どを眠りに費やし、仕事中もあくびばかりしている彼女が、今日はやけに張り切っている。
ちょっと不気味さを感じる光景だった。
「美奈先輩、それで谷中さんを救う方法っていうのは――」
「殆ど出来ているよ。それより、これが何にヒントを得たか知りたくないかい?」
そう言って、彼女はメスシリンダーに入った試作品の液体を掲げる。
見た目は緑がかった色をしており、酸性が強そうだ。
なぜか愛莉の耳が赤くなっている。
何だか居心地が悪そうだった。
「ふふふ……彼女が天才マッドサイエンティストで助かったよ。
まさかこんな、何かの冗談としか思えない薬が作れるなんてね」
美奈はメスシリンダーを傾け、その液体を自分の腕に垂らした。
液体は彼女が重ね着していた服の繊維を溶かすと、あっという間に素肌を露出させる。
――彼女の腕には、シミひとつ出来ていない。
「まさか……これって……」
「いやぁ、彼女も若いねぇ。こんなもの、少年漫画でしか存在しないと思っていたよ」
「うわああああ!! 殺してくれええええ!!」
薬学には疎い真陽にも、この薬がどれだけの発明なのか理解できる。
――確かに、彼女は天才マッドサイエンティストのようだった。
「服だけを溶かす酸――って奴っすか」
服の繊維だけを溶かし、人間の肌には傷ひとつ付けない。
おそらく彼女も興味本位で作りはじめた薬品が、まさか完璧な形で実現できるとは思っていなかったのだろう。
実験ノートに記載されていたそれは「僅かにダメージが残る」という不完全な出来映えだったが、美奈の知識が合わさることで改良に成功してしまった。
とはいえ彼女たちだって、妄想実現のためにこの薬を作り続けていたわけではない。
「理屈はとても簡単だよ。この酸は人間の皮膚を守り、服の繊維だけを溶解させる。
――つまり、これを応用して谷中皆の人間らしい部分を残しながら全身を溶かしていく。それだけだ」
「それだけ……っすか……」
もはやどっちがマッドサイエンティストだか分からない。
真陽と愛莉が逆立ちしても思いつかなかった解法を、美奈は事も無げに口に出す。
――失敗すればトラウマどころでは済まないレベルの大胆な策を。
しかし、それでも理論が飛躍しすぎている。
「谷中さんの身体が何で出来ているか、それは分かっているっすか?」
「分からないよ。――だから、キミに頼んだんじゃないか」
「あー……」
そう言われ、真陽は手に持っていた皆の片腕を思い出す。
――あの交差した一瞬で切り飛ばした、腕のひとつを。
美奈は電話を切る直前、頼み事をしていた。
『何でもいい。彼女の身体の一部を持ち帰ってくれ』と――。
「先輩も意地悪っすね。あれを含めて5秒で帰るなんて、フツー無理っすよ」
「キミにとっては簡単な仕事だったよね?」
悪びれもせずフフンと笑う美奈に呆れつつ、真陽はその腕を手渡した。
「これがあれば、谷中皆の身体を構成する物質の正体が分かる。
――全て同じ呪いから生まれたものだ。一貫する要素は必ずある」
腕はそのまま愛莉の手に渡り、すぐに解剖が始められた。
黙々と作業をする彼女の瞳には、真っ直ぐな正義が宿っている。
やっと掴んだ一筋の光を、絶対に逃さないように。
「とはいえ、化学はそこまで万能というわけじゃないよ。
――運良く『それだけ』を溶かす薬品が出来るとも限らない」
「その時は……どうするっすか?」
「科学の出番だ。人工知能の力を借りて、人間の要素とそれ以外の要素を見分けるのさ」
美奈はどこからともなく小さな基盤のような部品を取り出す。
――そういえば、彼女の本職はエンジニアだった。
「これを使えば、真陽ちゃんが持ってきた鎌の構成物質と一致率の高い箇所だけ判別し、溶解させるように動作を制御出来る。
反対に、人間らしい物質は溶解させないようにしてあるよ」
言いながら彼女が指差した先には、壁に寄りかかるようにして眠る一人の姿があった。
サンプル採取のために注射を打たれたのだろう。腕にはガーゼが巻かれている。
「一口に人間と言っても千差万別だからね。ぼくたちとは肌年齢が違うかもしれない。
しかし、彼女は皆の幼馴染――つまり同い年だ。モデルとしてこれほど適した人材は居ないよ」
チャンスは1回限り。念には念を、と。
時間を稼いだ分、最善は尽くされていた。
真陽のやってきたことも――無駄では無かった。
しばらくして、3Dプリンターの稼働音が鳴り響く。
見た目はシャーペンのように細長く、先端から飛び出る芯は注射針のように長い。
――これが、谷中皆を救うための『答え』だった。
「これで……いいんだよな……」
感慨深く、愛莉が呟く。
ふたりの技術者が出来上がったペンに薬品や基盤を詰め込むと、それは満を持して完成した。
長い時間をかけて積み上げられた、『谷中皆を人間に戻す』という試みは現実のものに近づいていく。
「さぁ、愛莉博士。これに名前を与えるんだ。――ぼくたちの希望が、無事上手くいくように願って」
化学と科学の融合体。
ここに居る4人全員の希望を乗せたペンは、愛莉の手元に握られていた。
「――ホープ・ペンシル。これは終わりなんかじゃない。
彼女たちが新しい人生を書き込むための、希望のペンだ」
彼女はまるで初めから決めていたように、それを口にする。
そのペンがゆっくりと、次は真陽の手へと渡される。
愛莉の腕は震えていた。
「愛莉ちゃん……?」
「失敗したら……彼女は死ぬのか……?」
当然安全性が保証されているわけではない。試験があったわけでもない。
一歩間違えれば皆の身体がドロドロに溶けて、戻らなくなるだろう。
あるいは何も起こらず、彼女を殺すしか無くなるのか――。
彼女の命が自分の発明にかかっているという重圧が、愛莉をずっと苦しめていた。
しかし――。
「大丈夫っすよ」
真陽はペンを受け取ると、心配性な博士の頭を撫でた。
ここに愛莉だけに責任を負わせる悪い大人は居ない。
子供を守ることもまた、大人の役割だから。
「何かあったら私たちが責任を取るっす。
――また、次の手を考えるだけっすよ」
「真陽さん……」
後悔なら、たくさんしてきた。
ただ目の前の壁を壊すために、全力で走り抜ける。
――それが、真陽の持つ正義だった。
「そうそう。言い忘れてたけど、そのペンに即効性は無いからね。
針を刺して3時間ぐらい待たないと狙った効果は現れないよ」
感動シーンに水を差すように、美奈は淡々と説明を続ける。
さらっと重要なことを。どうでもいいことのように。
「……続きは、言わなくても分かるよね?」
この計画は誰が欠けても成功しないということを、美奈は暗に告げていた。
「キミのインチキ能力で何とかして」
「インチキじゃないっす」
――御徒町で最後の作戦が、はじまる。
*
「ひとりちゃんが……生きてる……」
路面に赤い血を垂らしながら、谷中皆は進み続ける。
その頭はカマキリのように異形化し、口からビームが出せる。
その腕は4本に増えて、何でも切り裂く。
その背中はコウモリのような羽が生えて、空を飛ぶことが出来る。
全身は鱗で覆われ、その上何でも溶かす酸が塗られたトゲが生えて、他の誰も寄せ付けることはない。
誰もが皆を見るなり、叫び声をあげながら逃げていく。
――ひとりちゃん以外に、興味なんて無い。
無差別に人を襲いはじめれば人間に戻れないことを、皆はよく知っていた。
――ひとりちゃんを守りたい。
彼らは、滅亡協会は、山乃端一人を狙っていた。
自身の能力が幸いして滅亡協会に雇われた皆だが、当然協力なんて嘘っぱちだ。
悪い奴らに狙われているなら、命をかけても助けたい。
ただ、それだけだったのに。
「そこを動くな! 怪物め!」
気が付けば大勢の警察に囲まれていた。
まだ誰も殺していないのに。
――あの人の言う通りだ。人の社会に怪人の居場所なんてどこにも無い。
どれだけ善心を持っていようと、身体は街を破壊し、人は逃げ惑う。
見た目のせいで。何もかも上手くいかない。
――ひとりちゃんと、これからもずっと一緒に居たい!
そう願ったあの日から、皆の人生は過酷なものになった。
終わらない地獄のような日々。
いっそ死にたいと思ったことも一度や二度ではないが、彼女より先に死にたくなかった。
だって、彼女は今も生きているから。
「この先に……ひとりちゃんが……!」
「これは最終警告である! そこを動くなら、直ちに射殺命令が下るだろう!」
――――カンッ。
隊長と思わしき男が怒声を上げた瞬間、皆の少し先に、ガススプレーのような缶が転がる。
それもひとつやふたつではなく、皆を取り囲むように散らばった。
少しして、一斉に缶から色とりどりの煙が吹き出す。
あっという間に路地を埋め尽くし、皆の姿を遮っていた。
「むぅ……これでは狙いが定まらん!!」
「隊長! 逃げられる前に一斉射撃を行うのはどうでしょうか!」
「馬鹿者! 向こう岸に居る味方まで巻き添えにするつもりか!!」
煙が晴れるまで、彼らは動くことが出来なくなっていた。
動きを封じられたのは、皆も同じだ。
――これでは、ひとりちゃんの元には行けない。
「ひとりちゃんに……会わせてよぉおおおおお!!」
ビル街に怪物の叫び声がこだまする。
「――君を救いに来たっすよ」
刹那、誰かが煙の中に飛び込んできて、針のようなもので皆の身体を突き刺した。
瞬時に溶けはじめる身体を見下ろしながら、これから起こることを、すぐに理解する。
――あぁ、わたしは殺されるんだね。
煉獄のような日々から、やっと解放されて。
彼女とずっと一緒に居たいと願ったあの日から、ずっと罰を受け続けてきた日々から抜け出して。
――誰かが終わらせてくれるなら、それでもいいよ。
――だけど、最後はひとりちゃんに看取って欲しかったな。
――わたしが死んでも、後追いなんて考えないでね。
「ひとりちゃん……会いたかったよ……」
身体が燃えるように熱い。
自分がドロドロに溶けていく。
ゆっくりと――自分が消えていく。
「違う! 君はまだ死んでいないんだ! 生きて、人間としてこれからも歩き続ける!
――思い出せ、人間の姿を!!」
誰かの叫びで失いかけていた意識を取り戻す。
気が付けば全身から赤い血が流れ出していた。
皮膚まで溶けてなお、意識はまだハッキリとしている。
体温だってちゃんとある。
――そうだ。この血の色は、人間と同じなんだ。
どんなに姿が変わっても、流れる血の色までは変わらない。
それは、他ならぬ彼女の願いだったから――。
*
「皆ちゃん! 私、こんな身体望んでない!!
――どうして、余計なことばかりするの!!」
車イスを蹴飛ばすようにして立ち上がった一人が、声を上げて激昂する。
道端にあった石をひとつ拾うと、自分の手の甲に向けて何度も打ち付けた。
「――もうすぐ楽になれるはずだったのに!」
「やめて、ひとりちゃん! 本当に死んじゃうよ!」
夕暮れのあの日。
忘れるはずもない、皆が黒い影に出会って、一生身体が変化し続ける呪いと共に、願いを叶えてもらった日。
一人は涙を流していた。
――友人が痛ましい姿になっていくのを予感して、彼女は泣いていた。
――あるいは、もうすぐ死ぬはずだった運命を変えられたことに対して、泣いていた。
彼女は極度に病弱で、吹けば飛んでしまいそうなほど体重が軽かった。
移動する時はいつも車イスに乗って、誰かが押してあげないと駄目だった。
あまりにか弱い――少女の命。
医者は最善を尽くしたが、まだ日本の医療では治せないほどの難病を患っていた。
「持って半年でしょう」と、主治医は他人事のように告げる。
その軽薄で残酷な余命宣告に家族が、友人がボロボロと涙を流した。
山乃端一人は若くして死ぬ運命だった。
それを救うことが、皆の願いだった。
――ひとりちゃんと、これからもずっと一緒に居たい!
彼女がそんなことを望んでいないことは知っていた。
ずっと一緒に居たから、それぐらいのことは知っていた。
どんな呪いを受けても平気だから。
――どうか、自分が生きていることに失望しないで。
そんな皆の願いをよそに、朱に染まる空を見つめながら、一人は静かに呟きはじめる。
これから皆の身体に起こる最悪の想像をしながら、懺悔でもするように。
「……全身が鱗で覆われてもいいよ」
それが皆を人外たらしめる原因になっても気にしない。
「背中からコウモリみたいな羽根が生えてもいいよ」
それで空が飛べるようになったらむしろ嬉しい。
「頭がカマキリみたいになってレーザーを吐いてもいいよ」
それが誰かの役に立つなら構わない。
「腕が4本になって手首から鎌が生えてもいいよ」
1本ぐらい失っても生きていけるように。
「体中からトゲが生えて何でも溶かす酸が出せるようになってもいいよ」
――それが皆の生きる手段になるなら、何だっていい。
「だけど――血の色だけは変わらないで」
手の甲から滴る赤い血を地面に刻みながら、一人は震える声で祈っていた。
皆が人間に戻れることを、諦めてはいなかった。
「これを見るたびに――思い出して。人間の姿を」
皆は一人のために願い続けた。
一人は皆のために願い続けた。
絶望と後悔だけを繰り返す、悲しい人生になっても。
――ずっと一緒に居られるように。
――変わらぬ願いを。
*
「成功……したっすか……?」
路上に倒れ込む少女は、ただの人間の身体つきをしていた。
服を着ておらず全裸であることを除けば、有間真陽の知っている普通の人間の姿だった。
身体に鱗は見えないし、背中に羽は生えてないし、手足はちゃんと2本ずつで、頭からつま先まで不自然な点は全くない。
死体のように静かだが、心臓に手をあてれば脈拍や体温もちゃんとある。
路上に広がる赤い血の海だけが、彼女の身に起こったことを物語っていた。
皮膚が溶けたあと、鱗ではなく人間らしい肌が現れるかどうかは彼女の心持ち次第だ。
――結果的に、彼女の肌に鱗らしきものは浮かんでいない。
長い戦いの末、谷中皆の身に降り掛かった呪いは全て取り除かれたのだ。
再びその身体を蝕むことがあっても、治療する手段が確立されたのはあまりに大きい。
「良かった……本当に良かった……」
しかし、余韻に浸っている暇もあまりない。
煙が晴れて、視界が広がる。
真陽たちを取り囲むようにして、大勢の警察が立ちはだかっていた。
「よし、視界良好だ! もう無駄な抵抗はするんじゃないぞ!」
「隊長! 対象の姿が見えません!」
――彼らが駆除するはずだった怪人の姿は既に消えている。
代わりに居るのは、ふたりの一般市民だけ。
「そこのお前、あのカマキリみたいな奴をどこに――」
「お前らと話してる暇は無いっす」
真陽は裸の少女を背負うと、大切な仲間たちの待つラボへと加速する。
一応彼らはバリケードらしきものを張っていたが、ただの警察に遅れを取るほど落ちぶれてはいない。
何故なら、真陽は時速200kmで自在に走り抜けることの出来る能力者だから。
誰も追いつくことなんて出来ないだろう。
――決してインチキ能力ではない。
「容疑者が逃げたぞ――!」
「追え――!」
街中に響く騒がしい声を聞きながら、背中の少女は微かに笑っていた。
守るべきものを守り抜いて、ビル街の戦いは賑やかに幕を閉じる。