『幕間・ある夏の日』
「おや、丈子ではないか。アインスか?あ奴は今裏庭におるぞ」
「そうそう、もう少し土を砕いてな…うむ、良いぞ。今年の秋頃には実るじゃろうて」
「公園?ちぃと待て。泥だらけじゃからの、せめて風呂に入ってからじゃよ。……同胞も、僅か三十体では家庭菜園の維持で手一杯じゃな。もう少し増やすとするかのぅ、今の収穫量だと…」
「何、もう行ったじゃと。あ奴らめ、儂を抜きで…あぁ、あぁ行け行け。ふん、貴様の方が足は早かろうて」
◇ ◆ ◇ ◆
アヴァ・シャルラッハロートは、苦々しく溜息を吐いた。生来の傲岸不遜が根元にあるとはいえ、常に微笑みを崩さない彼が、である。
新しく仕立てた紅緋色のドレスが着崩れても良い。房付きの帽子を目深に被り、そのまま眠ってしまおうか?…眼前で繰り広げられている茶番は、正にそういった類の物であった。
「アインスよ、きちんと時計は見ておるのか?」
「んー」
「良いか。お主が決めたスケジュール通りに動くのならば、次の駅で確実に降りねばならぬのだぞ?」
「んー」
「…こりゃ、儂の話を聞けというに!」
呆れた様子で見上げるアヴァにも、その横顔はただ生返事を繰り返すばかりである。右手に嵌められた銀時計は、長袖に隠れて見えてさえいない。
彼が『アインス』と呼ぶ山入端家の一人娘、山乃端 一人は少々呑気な性格だ。始発の新幹線に間に合わせようと、早起きしたまでは良い。だが寝ぼけ眼の彼女は朝食にたっぷりと時間をかけ、着ていくパーカーの色をじっくりと吟味し、直前になって荷造りを終えていない事に気付き、あまつさえ駅までの道を二回も間違えた。何とか無事に到着し、車両に乗り込めたかと思いきや、今度は「さっき見かけた鳥、可愛かったねぇ?」などと言い出して、いそいそとスケッチブックを広げ始めたのである。こと絵については才覚のある彼女だ、記憶を頼りにその鳥とやらを再現出来るであろう…かなりの集中と時間を引き換えに。十三年の時を共に過ごしたアヴァは、既にこの先を予感しつつある。はたしてこの大馬鹿娘は、『乗り過ごす』のか『慌てて荷物を忘れる』のか…その両方かもしれない。
春休み期間中の早朝といえど、それなりに乗客の数は居る。前の座席からは寝息さえ聞こえてくる。車両後部の人目に付きにくい席とはいえ、二人は声を潜めて話した。
「もー、そんなに言わなくてもいいじゃん…描く時間無かったんだからさぁ」
「時間が無いのは長湯のせいじゃ。こういう時にしくじるのがお主ぞ。今一度、己の迂闊さを思い出してみよ」
「ぐぬぬ」
そう言いつつも、彼女の両目はスケッチブックに釘付けだ。鉛筆で幾重にも線を重ね、白黒の濃淡で見事な小鳥を描いている。唯一視線を逸らすのは、脇に置いたポテトチップスをつまむ時だけであった。
アヴァは自分との間に置かれたその大きな袋が、ガサゴソと音を立てる様を眺める。腹を小突いてやろうかと思ったが、本気で怒りそうなのでやめておいた。
「道理で太る訳よなぁ…あぁ、やはり本気で剣を教え込むべきじゃったか。多少はマシな体型であったかもしれんのぅ?」
「重くないし、標準体重だし!大体、きんととのアレって何か怖いんだもん。真似したくないよ」
「たかが実践剣術如きに恐れるでないわ。それでもかつての英雄か!」
「ふーんだ、私はアインスじゃありませーん。そんな事言うなら、もうきんととにはおやつをあげないからね?ほら皆、こっちおいで」
一人は、彼女が"きんとと"と呼ぶ赤ドレス姿に向けてべぇっと舌を突き出すと、リュックサックを膝に乗せた。ジッパーに指をかける。
その指が横へ滑ると同時に、開いた口からぞろぞろと這い出てくる無数の影があった。
「いでよ『第二伏魔で~ん』、何ちゃって。はーいはい静かにね、おやつだよー」
…いずれも掌に乗るサイズの、二足歩行をする人型の生物である。
褐色の肌に四本の腕を持つ、アラビアの踊り子めいた衣装を纏った女性。艶やかな黒髪は尻に届く程長く、はねた毛先のような触角が二本、頭頂部から生えていた。
また別の個体は、顔も体型も逞しい男性的な風貌である。素肌に灰色の毛皮で出来たコートを羽織り、やや歯の突き出た顔に愛嬌が感じられた。ただ一つだけ、臀部から生える鼠のような尾が『元』となる姿を思わせる。
他にも、スズメを模した野球帽を被る少女が。ヤモリめいた顔の老人が。カブトムシの角や、クワガタの鋏が付いた頭を持つ二人の少年が。様々な形態を持つ小人たちが、ざっと二十体は居るだろうか。
これがアヴァの誇る親衛隊、『第二伏魔殿』の猛者たちである。元は小動物であったが、アヴァと互いを認め合う事で人間の力を得たエリート兵士だ。
「ゴキー」「チュー」「チュン?」「ヤモジャ…」「カブー!」「クワックワッ!」
「ゴキ姉さんはサラミでしょ、チュウ太郎さんはピーナッツ、ちゅちゅんはグミで、あ、ヤモ爺のポテチはこっち!カブー、クワノスケ、仲良く分けなさいってば!」
全員新幹線の利用は初めてであり、とにかく周囲を見回して落ち着かない。だが一人が菓子を配るや否や、喜々としてその手元に群がった。
挙動は完全にペットのそれだ。
「全く、そういう所だけは…あぁ、もういい」
最早小言に意味は無いと気付くと、アヴァは四角い窓辺によじ登る。猛烈な勢いで過ぎ去る外の景色を眺めつつ、時折間食に夢中の同胞たちへと視線を向けた。
ここに居るのは精鋭の極一部であり、殆どの同胞たちは既に東京の各地へと"配属"されている事だろう。
「皆で旅行、楽しみだねぇ」
「そうじゃのぉ」
嬉しそうにこちらを見て笑う一人に、アヴァはそう呟いた。
窓ガラスに映る彼の顔は、普段通りの不敵な笑みを浮かべている。
…数日前の事。今回の東京旅行を決定した際、山乃端家は騒然となった。
アヴァ直々の命令によって、『第二伏魔殿』のほぼ全員に居残りが命じられたからである。
"留守中の屋内警備"、"家庭菜園の維持"、また"一人が魔人であると勘違いされない為に"。同行人数を最小限に絞るというアヴァの計画は実に全うな理由からであったが、宣告を受けた同胞たちは涙した。
『偉大なるアヴァ・シャルラッハロート様の御供をしたい』
『精鋭としての責務を果たさせて欲しい』
『一人ちゃんと遊べないの?』
家中に響く同胞たちの嘆きに昼夜の区別は無く、主に一人の精神力をごりごりと削っていく。アヴァは無数の嘆願に無視を決め込んだ。
その決定を覆して、総勢一万の軍勢を連れていくとした理由。
アヴァはまだ、一人には秘密のままにしている。
◆ ◇ ◆ ◇
――じょウきょウはドうだ?
――コチラ、いけぶクろ。ゲンザイ、いじょウなし。
――こチら、うミぞいヲ かンシしていル。いジョうハナイ。
――コウそくどうロ、じゅうタいはッせイ。よクあるコウケいダ。
――いジョウなシ。
――イジョうなし。
――いじょうナシ。
――…とうキョうとなイ、ぜんいキヲいじょウなシとはんテい。かんシヲぞッこウせヨ。
――おーばー。
◇ ◆ ◇ ◆
「はい、これは"じょーちゃん"の分!」
「お、おぅ。ありがとうな」
…と、そこで、通路側の席に座っていた人物がようやく口を開いた。
どこかぎこちない手つきで、容器からチョコ菓子を摘まみ出す。
「でもさぁ、私ずぅーっとじょーちゃんは死んじゃったんだって、勘違いしてたんだよぉ」
「仕方なかろうて。事故と葬式と儂らの引っ越しが重なったからのぉ。お主が落ち込んでおるから、話題にもし辛かったし」
「ねー、また会えて良かったねぇー。今度どこの学校に通うの?」
「…羅漢じゃ」
「へぇー、あっちかぁ!私は希望崎に行くんだぁ、また離れちゃうねぇ」
「……」
「これ、昔はよく二人で食べたよねぇ」
「げにな」
「童が昔を語るのかえ」
「いーじゃん別にぃ」
からかう様な口調のアヴァに、頬を膨らませる一人。『彼女』は菓子を口に放り込み、また黙りこくってしまった。
つい先刻の話。事前に予約した指定席を探している途中、その一つ前の席に座っていた"幼馴染"の顔に、一人が気付いたのだ。何故かだぼだぼの学ランを着ており、髪も昔より伸びてはいるが、その双眸には昔の面影が色濃く残っている。
彼女も東京へ向かうのだと言う。では丁度良いと自席の隣(アヴァの分として一緒に購入していた)へと引っ張り込み、こうして並んで旅をしているのだ。…が、
先程からぽつりぽつりとしか喋らない同行者を、一人は改めて心配そうに見つめる。
「…何かじょーちゃん、顔色悪くなぁい?痛い所ある?」
「オレは平気だから。心配せんでいい」
「えー、ちょっと待ってよー。顔赤いよ、熱計ったげる」
「待て"はじこ"、い、いらうな」
一人が身を乗り出して、直接額と額を合わせようとする。慌てた『彼女』は手の置き場所を間違えたらしく、突然背もたれが後ろに倒れ込んだ。
「きゃっ!?」
「きゃぁっ!!」
上にのしかかる形となった一人を、体で受け止める『彼女』。だが両手は所在なく彷徨い、虚しく空を掴むだけである。
『第二伏魔殿』の面々は想定外の物音に警戒し、その場でぱたぱたと倒れ始めた。アヴァも座席の上に飛び降りて、仰向けに寝転んだ。
一人はというと、気恥ずかしさか、あるいは親友と再会した喜びが今更湧き上がってきたのか、明らかにテンションが上がっているようだ。熱を測るとは一体何だったのか、彼女の頭に両手を回して頬ずりをし始める。
「あはは、びっくりしたぁ!うりうりうり、じょーちゃんじょーちゃんイエーイ!」
「わ、わ、わ、わ、わぁ!」
少女は、二人だけでも姦しい。その騒がしさは先程の比ではなく、きっと他の乗客も何事かとこちらを振り向いているだろう。床や座席で寝転ぶ小人たちは『人形の擬態』も解けず、なりゆきを見守る以外に無い。
アヴァはどうした物かと考えていたが、救いを求める視線に気付くと、ひとまず彼女をおちょくっておく事に決めた。
「久方ぶりの再会ではあるがの、"丈子ちゃん"よ。男らしゅうて、似合うておるぞ?」
「―――――――――だから、じょうちゃんって呼ぶんじゃねぇ!」
雄々しい叫びは、少女のほっぺた攻撃で甲高い悲鳴へと変わる。
アヴァ・シャルラッハロートは、苦々しく溜息を吐いた。生来の傲岸不遜が根元にあるとはいえ、常に微笑みを崩さない彼が、である。
新しく仕立てた紅緋色のドレスが着崩れても良い。房付きの帽子を目深に被り、そのまま眠ってしまおうか?…眼前で繰り広げられている茶番は、正にそういった類の物であった。
(本当にこ奴は、昔と変わっておらんのぉ…)
ともあれこうして、『彼』と『彼女』は邂逅を遂げた。
東京旅行初日の事である。
◆ ◇ ◆ ◇
――!こチら、とウきょうタワー。なニやら、タワーのいちぶニ、きミョウな…おぶジェ?ガ、つけラレタ。
――オオキい…まるイのヲ、ほそナガくしタようナ…あかクて、シロくて…。
――アー、なンだっケ…ムカーしむかシ、タベたようナ…
――オレ、シラない。
――あたしモ、タベタこトなイ。アヴァさマにアうまえノはなシ?
――まっテ、いマおもいダす。アレはタシか、ヒとりちゃンのたンじょウビのコト…
――ずるイ。
――……ずるーイ!
◇ ◆ ◇ ◆
丈子との再会は、思わぬ僥倖であったと言えよう。聞き慣れたアヴァの説教よりも、親友の「次ぃ降りるぞ」という誘いの方が、一人に対しては有効であるらしい。おかげで駅も降り損ねずに済んだ。
「はぇー、何か裏山の野っぱらみたいだねぇ。虫とか沢山捕れそう」
「天皇さんも、自宅が田舎扱いとは思わんじゃろなぁ」
「いやいや今時、緑豊かな家は都会ですよ都会。…あ、衛兵さん?だ。こんにちはー」
「そがにせくな、腕が痛いって!」
「珍しい虫とか居らんかのぅ…」
東京観光のパンフレットを片手に、"おのぼりさん"な発言をこぼす一人。彼女に右手を絡め取られ、あまつさえずんずんと前に進まれるせいで体幹が傾きっぱなしの丈子。
アヴァと同胞たちは、一人の胸ポケットやリュックサックの隙間、パーカーのフードなどに入り込んで、思い思いに周囲の景色を楽しんでいた。
都会の地を無事に踏んだ一行は、当初の"目的地"を目指し、日本の中枢を歩いていく。
――旧法務省、赤れんが棟。
「きゃー、何あれ可愛いぃー!あんな家に住みたいなー!」
「オレには豪華過ぎて、ちぃと落ち着かんな」
「えー、ほら。あの縞々になってる所とか、可愛くなぁい?」
「まぁ言われてみれば、そう見えん事も…」
「儂には地味じゃな。ドレスが映えんわい」
「「えぇー?」」
――経済産業省付近。
「はじこー、スケッチまだかかるか?」
「んー」
「ほうかぁ」
「…………」
「…………」
「…アヴァさん、この看板の文字は、誰が彫って作るんじゃろか。あれ、アヴァさん?」
「聞いてみよっか」
「え」
「すみませーん、ここの職員さんですかー?ちょっと聞きたい事があるんですけれどー!」
「あー…」
「知らないってー」
「ほうかぁ」
「中々侵入が難しい場所じゃのぉ、隙が無いわぃ」
「何しとるんじゃオノレは!」
――愛宕神社。
「ご利益は防災だってさー」
「丁度えぇな、お参りしておくか」
「ふむ。三女神とは異なるが、この地の神なら詣でておきたいのぉ」
「ゴキー?」
「あ、そこの階段は出世の石階段って呼ばれていてぇ」
「ゴキー!?」「チュ゛ゥゥゥゥ」
「チュチュチュチューン!」「ヤモジャァ!」
「カブゥゥゥゥーッ!」「クワワックワワックワーッ!!」
「お弟子さん、全員やる気みたいじゃぞ」
「ええい、神に対して欲張るでない!まずは防災が先じゃ!」
「恋愛のお守りは無いのかなぁ」
――コンビニの前にて。
「今日は冷えるねぇ」
「ホットが嬉しい時期じゃのぅ」
「じょーちゃんはブラックなの?すごーい」
「おぅ」
「無理するでないわ」
「無理しとらん!」
「しておるのぉ」
「しとらんっちゅーに!ワレェたいがいにせんかい!」
「けーんーかーしーなーいーのー」
「チュゥ」
…などとのんびり歩きつつ、一行は昼前に目的地である東京タワーへと到着した。
「うほほーい!じょーちゃん、あれが噂の!?」
「ほうじゃのぉ、あれが噂の東京タワーじゃけぇ」
「見て見てきんととー!東京タワーだよぉ、同じ赤だよぉ」
「儂の方が鮮やかじゃ、同じに考えるでない!」
「先端が流石に高いな、上に行きよるんはどこじゃろ」
「イェーイ!じょーちゃん、ほらほらピースピース!」
「い、いぇーい?」
「ほら、きんとともピースピース!じょーちゃん、もう一枚いくよー。イェーイ!」
「「いぇーい!」」
公園に着いた時の一行は、明らかに盛り上がっていた。別に遠くからでもタワーは見えていたし、何なら生で見るのも初ではない。
しかし、『親の同伴なし』に子供だけで続ける旅は、また違った視点を与えるのだろう。アヴァも同胞もお目付け役には違いないが、今回は時間以外で五月蠅く言う事はしなかった。全ては、楽しい思い出の為に。
タワーの真下に設けられた商業施設『フットタウン』の入り口を潜る時、一人が完全に舞い上がった調子で喋り始めた。
「東京タワーはねぇ、一九五八年に完成したパリのエッフェル塔よりも高い三三三メートルもある大きな電波塔でぇ、その年のクリスマスイブに一般公開されてから年間三百万人が訪れる東京のシンボル的存在なんだよぉ!鉄塔の根本にあるここフットタウンから、普通はエレベーターを使ってメインデッキ、あの塔の高い位置にある展望台がある場所まで上がるんだけどね?体力に自信のある人は、土曜祝祭日にだけ開放されている五百九十段もある外階段を登って、東京タワーの高さを存分に味わう事が出来るんだよ!途中リタイアは出来ないから注意しないといけないけれど、登り切れた人には記念の認定証が配られているんだって!その他の屋内店舗や、もちろん展望台からの景色も素晴らしい物であるに違いはないと思うんだけど、このタワーの一番の目玉は、何と言っても"タワーたいやき"だね!あるいはメインデッキで売ってる"タワーどら焼き"に違いないねぇ!楽しみだねぇ!」
それをぽかんとした表情で聞いていた丈子だったが、
「ねぇねぇじょーちゃん、どう?」
「何が」
「ほらほら、ねぇーどう?」
唐突にその顔を覗き込み、ウインクをしてみせる一人。名詞の出ない会話に戸惑う丈子。
アヴァはそんな丈子に向けて、ドレスの胸元をぱたぱたと扇ぐような仕草をした。
「あ、あぁー、えぇ匂いじゃな。その香水」
「香水はチュウ太郎さんのだねぇ」「チュゥ」
「あぁ?」
「うーん、駄目だなぁじょーちゃんは。五十点!」
「甘いのぉ」
肩をすくめて大げさに首を振る一人とアヴァ。その点数が何を意味しているのかも分からない。
いつの間にか乗り移ってきた何匹かの同胞に、丈子はぽんと肩を叩かれた。
「…何じゃい」
「ドンマイ」「バーカ」「ヘタレ」
「えへへ、へへへへへ!あ、たい焼き早く買いに行かないと!ねぇねぇじょーちゃん、たい焼き食べない?」
「待てアインス、昼食は佳作の懸賞金で豪勢にすると言っておったじゃろうに!」
「甘い物は別腹じゃーん。私、先に行ってるねー」
とか言いながら、一人は既に駆け出していた。同胞たちが一人のパーカーに慌てて飛びつき、一緒についていく。
「…ふぅ」
二階へ登る一人を見送ると、丈子は入口横の壁にもたれかかって息を吐いた。
先程一人が話した通り、東京タワーを訪れる観光客は数多い。家族連れが仲良く二階へと上がっていく。
だが丈子は壁によりかかったまま、入口を――まるで監視するかの如く、睨むように見据えた。
「全く、浮かれおって」
「おわっ!?」
その足元に、アヴァが立っていた。てっきり一人の胸ポケットに入ったままだと思っていたのだが。
「この分だと、まぁた太りそうじゃな」
「オレは別にえぇよ、甘いモンくらい」
「ふん。汝は昔から、あ奴が食うのをよぉく見ておったからな」
「え、そうだっけ?」
「かき氷だの何だの、よく半分やっとったじゃろうに」
「そうだったかなぁ…」
「ふん。キャラが崩れとるぞ。随分と外見"は"変わったようじゃがな」
「うぐ。…んじゃワレ、ちぃと刺々しいのぉ?」
偶然近くに誰も居ないとはいえ、恥をかかされたには違いない。やや恨みがましい目でアヴァを睨むが、当の本人はすました顔だ。
「汝、東京で何をするつもりだったのじゃ?」
「……知らん筈なかろうが。『オレ』が知っていて、『アンタ』が知らねぇって事はありえん」
「やはり"助っ人"じゃったか、あれが五月蠅いせいで確認も出来なんだ。…じゃが、汝も見たじゃろう?あれには我が精鋭たちが」
「十分じゃない。アヴァさん、アンタ人に見られんように気ぃ使こうて、地元の近くしか知らんじゃろ?」
そこで丈子は向き直り、アヴァの瞳を正面から見据えた。この真っすぐな姿勢には、彼も懐かしい思いがある。
「オレは関西で多くの魔人を見た。アンタの守り方は想像が付くけぇ…東京中にお弟子さんを散らばして、見張らせて、危ない奴らからずぅっと逃げ続けるつもりじゃろ?それで良いなら、監視カメラで十分じゃろが。魔人の不条理さはなぁ、それだけでどうこうなるモンじゃねぇぞ」
「ほほぉ。儂の軍勢に不足があると?玩具と同列とは、随分な言いようじゃなぁ丈子よ」
「じょーちゃんって呼ぶな!」
叩きつけるような、丈子の怒声が響く。何事かと振り返る従業員にも構う事はない。
「オレは、魔人になったんだ!漢になったんだ!力もアンタより何倍も強い、あの時とは違う!」
アヴァが舌を打つ。傲岸不遜だが、常に微笑みを絶やさないアヴァが。
「昔と変わらんのぉ、汝は。言いたい事を抱え込むせいで、妙なところに気を回す…あれはどうしようもない事故じゃと、親御さんにも言われた筈じゃろうに?」
――あの夏の日の事は、今でも思い出せる。
早くはじこと遊びたくて、自分たちだけで大丈夫だと意地を張り、大人との約束も聞かずに飛び出したオレ。
公園の目前でこちらに突っ込んで来た暴走トラックを前に、オレははじこをかばい、オレとはじこを巨大な肉の壁が守ってくれた。
「坊主、あらましい真似したらいけん。じゃけん、その心意気でら”漢”じゃ」
だがその直前に、あの車はもうひとりの人間を跳ね飛ばしていたんだ。オレと、はじこの後を追ってきた…
「遊びたがりの汝がおり、仕事を早く終えて帰宅したあ奴がおり、寝不足の運転手がおった…それだけじゃ。あ奴が死んだのはただの縁、汝が生き残ったのもただの縁ぞ」
「……オレがもっと強ければ、あの場所に"漢"が二人居ればっ」
「不遜じゃな、そういう輩は早死にするぞ。童の分際で全てを救おう、取り返そうなどと、思い上がりも…ッ」
『アヴァさマァ!』
その時、アヴァの胸元から突然声が鳴り響いた。それはざらつきが多く途切れ途切れだが、緊迫した状況を伝えてくる。
『す、スシが!たいリョウのスシがイキ……はッせイし、フキんの……ゲんをオソッテいまス!』
「何じゃとぉ?詳細は!」
『スシでス!ホントうに、タイりょうノおスシがァーッ!』
アヴァがジャンク品から組み上げた、『第二伏魔殿』連絡用の小型無線機。極力小さくした為に通信距離が短く、そこを数でカバーする寸法だった。
通信の内容からして、不明の集団に奇襲を受けたらしい。非常時の通信要員は隊の内側に居る筈。敵にそこまで食い込まれているというのか。
「多分あれじゃ!」
丈子が外に飛び出し、叫ぶ。見ればタワーの頂上付近から、大量の小さな飛翔体が雲霞の如く膨れ上がっていくではないか。風向きは逆風。その中には、僅かながら湿った酢の香りが混じる。
加えて、建物の中にも異変が起こる。上階が声が上がった途端、急いで階段を駆け下りる幾人かの姿があった。
『す、スシのおぶジェだとおもッタも…ガ、テキでしタ!うかツ、ウカつデごザイまス!』
『オオくのドウホうがセントウちゅウ!アヴ…は、ひトリちャんヲつれておニゲ……い!』
「謝罪は要らぬ、行動で示せ!付近の部隊は東京タワーへ集合。防衛と生存を最優先に、逐次陣形を変えて迎撃せよ!」
『りょうカイでス、おーばー!』
「護衛班よ、そちらはどうじゃ?」
『こちラ、ヒトりちゃンごえいぶたイ!すごイでス、もウごコもタベていマス!』
「何よりじゃ、豚になるぞと脅しておけ!」
通信を切ったアヴァは未だ状況を把握しきれていなかったが、丈子の脇をすり抜けて屋内に突っ込んできた飛翔体に気付いた。
赤、黄、白色の弾丸が、まっすぐ屋内を突き進んでいく。
瞬間、アヴァが丈子の腕に飛び乗る。丈子は彼を肩に乗せ、疾風のように駆けだした。戦闘の前に、言いたい事は山の様に在るのだけれど。
――どんな想いがあろうとも、
――どんな理由であろうとも。
「…っさせてたまるか、そうだろう!?」
「あぁそうじゃ、走れ丈子!」
「じょぉぉーちゃんって呼ぶんじゃねぇーっ!」
弾丸のように飛ぶ寿司。それよりも速く、一歩でも早く。
その叫びさえも置き去りにして。
「オレの名前はあぁぁぁーっ!丈太郎だああぁぁぁーっ!!!」
◇ ◆ ◇ ◆
DANGEROUS SS EDELWEISS
"AVA・SCHARLACHROT(or KINTOTO)" with "JOTARO・KARAWATARI"
VS "Future Detective KOKATHU・SUSHI(floating attribute)"
BattleField:Tower of TOKYO!!!
Title call……
『EINS IN WONDERLAND』
『#02 Back to Tha "SUSHI"bar!』
Show up!!!
◆ ◇ ◆ ◇
「スシシィー!小さ稲荷に頑張っていますが、この史上最強の名・探・偵!紅蠍寿司さまに勝てるとお思いですかぁ~っ!?」
「ヘラッシャィッ」
東京タワーの先端に、二メートル越えの巨大な寿司が立っていた。手足が生え、眼鏡をかけた男の顔が乗った巨大な寿司が。その顔と手足の関節の向きから、どうやらネタ部分が腹にあたるらしい。
と、その綺麗な赤身に、細い切れ目がすぅっと入った。瞼を開けるように左右へと広がると、巨大な女の顔が姿を現す。普通なら美形と言える顔立ちだが、サイズのせいで違和感が強い。男の頭の方が、大きな声で「ァニシャショッ!」と叫ぶ。
タワーの周囲には、ネタから翼を生やした寿司たちが、マグロがコハダがウニがアカガイが、クルマエビからサーモンさえもが、群れを成して飛んでいる。不運な観光客たちは、窓ガラス越しに激突を繰り返す無数の寿司ネタに発狂・失禁し気を失うであろう。
麓では既に、近隣から駆け付けた『第二伏魔殿』の同胞たちが戦闘を繰り広げていた。空を飛び、塔を駆け上り、紅蠍寿司を止めるべく立ち向かう。しかし未だ誰も、その足元にさえ辿り着けていない。
スズメバチの同胞がヒラメの握りと舞い踊る。鉄柱を確実に這い上るムカデ男たちの部隊が、アナゴの放つ濃厚なタレに足をとられて落下した。手練れのリスが放つ毒入りドングリが、ズワイガニの鋏で受け止められる。
軍勢vs軍勢、技巧vs技巧の対決。『第二伏魔殿』は熟練の戦士である。しかしこの寿司たちもまた、手練れの領域にあるのだ!
「スーシッシッシッ!これで"山乃端 一人"を寿司殺し、もう一度私は『物語』の主役へと返り咲くのですぅ~!」
「ゴチュモンドゾッ」
巨大な女の顔の哄笑に、男の愛想良い声が追随する。その右目から零れ落ちた一粒の涙は、都会の風に撫ぜられて、誰に気付かれる事もなく散り消えた。
◇ ◆ ◇ ◆
東京タワーの足元にあるフットタウン二階。そこは逃げ惑う人々と飛び交う寿司によって、阿鼻叫喚の地獄寿司と化していた。子供を抱えた親、悲鳴を上げる老夫婦、寿司を懸命にはたき落とそうとする従業員たち。
その狂乱の中をアヴァと丈子――否、"丈太郎"と、集結した数十体の同胞たちが駆け抜ける。
「横列陣形、突撃ぃ!征くぞ、『シュテルクスト・カメラァート』ッ!!」
「チュゥーッ」「チュチュー」「チュウ!」「チュウウ」「チュ゛チュ゛」「チュウ」「チュチュウ」「チュチュ」「チューッス!」
横一直線に並んだ鼠の群れが、階段へ続くフロアの道を突き進んでいく。列の中央には鼠たちと手を繋ぎつつ、号令を飛ばすアヴァの姿があった。
鼠たちは左手で隣の同胞の肩を掴み、右手には釘を削った小型の投げ槍を構えている。数舜後、総勢二十体を越える群れから無数の槍が放たれた。それは今まさに幼い少年へと襲い掛からんとするイカの握りに命中…したが、イカは方向を変え、慣性のまま横列へと向かい落ちてくる。
アヴァはその突進を華麗に躱し、すれ違いざまに髑髏剣で横腹を薙ぐ。後方に落ちた白い残骸を、酢飯まみれのスニーカーが踏み潰した。丈太郎の足だ。
「オラオラオラオラオラァッ!」
『彼』が少年の鼻先まで迫ってきたイクラの軍艦隊に対し、連続して拳を叩きこむ。旗艦たる卵が砕けても前進を止めなかった果敢な軍艦たちは、軌道変更が間に合わず次々と吹き飛んでいった。
しかしその一瞬前、粒よりの粒々が海苔のフチから弾けるように飛び出し、最後の悪あがきとばかりに彼の口元目掛けて射出される。だが、
「無駄だぜ、『崖っぷちの漢気』……イクラはちぃと苦手でな」
すぱりと二つに両断されるイクラ。丈太郎の右手に絡みつく"より透明になった釣り糸"が曲がりくねり、糸鋸の要領で切り裂いたのだ。
丈太郎は振り向かないまま、今しがた守った少年へ声をかける。
「いけ、"漢"じゃけぇ…ここからは平気じゃな?」
「…うん!」
まだ動転している様子は見えたが、少年は気丈にも頷くと、階下を目指して駆けて行った。
アヴァは横列の一員として歩を進めながら、通信機から聞こえてくる状況に耳を傾ける。やはり状況は芳しくない。
「すぐに集まれる同胞は百体ほど、か…汝の異能は糸を作る力か?」
「いーや、『触れた』か『触れる事がある』なら、細長い物を何でも呼び出せる」
「成る程、そうか。認めよう、儂には確かに平穏があったとな。人間の大きさにばかり気を取られて、小型兵の使役には思い至らなんだ」
「はっ、楽しそうじゃのぉ!」
状況は芳しくない。にも関わらず、アヴァの笑みは変わらなかった。
丈太郎は昔、共にボードゲームで遊んだ時を思い出す。あの時も彼は負けたというのに、悔しがりもせず次の対策を練るのに夢中だった。
逃げ惑う群衆を抜けると、今度は床に倒れた人間たちに出くわす。全員喉をおさえ、あるいはかきむしり、もがき苦しんでいた。
やがてその口がパカリと開くと、中からなんと同胞たちが顔を出したではないか。先んじて出されたアヴァの命令により、唾液や嘔吐物に塗れながらも、喉に詰まらせた凶悪な寿司を掻き出す緊急部隊である。再び酸素を得た人間たちは、何が起きたのか分からないまま、直前までの恐怖に突き動かされて逃げていく。
だが場所によっては、同胞の救助が間に合わない者も居た…一行の目前で、不運な男が階段から転がり落ちる。ように男が倒れる。その腹を丈太郎が蹴りつけると、「ふっ」という呼気と共に酢飯とかんぴょうを吐き出した。
あまりの惨状に、眉を顰める丈太郎。ひとまず男の口に、『崖っぷちの漢気』で呼び出したギャグボールを噛ませる。これならば、寿司が侵入しても途中で潰れて動きは止まるだろう。
「アヴァさん、多分この寿司は『自動操縦型』じゃ。人間相手に無理やり食われようとしちょる、この手の能力は複雑な動きが効かんけぇ」
「同胞にぶつかってくるのは、単に口のサイズが合わんだけか。他にはないか?」
「あー、無理やり食わせたがる奴ってのは相手の反応を伺いたい筈じゃ。"死亡非解除"とは考えにくい」
コノハダの群れを絡め取りながら、丈太郎が顎でしゃくる。その先は天井、正確に言えば更にその上を。
「寿司の発生源に敵が居る、オレにアンタの"力"を使えんか!?身体強化で今の何倍かにして貰えりゃあ、寿司より早く鉄柱を登れるぞ!」
同胞のゴキブリが寿司に飛び乗り、ネタを剝ぎ取っていく。だが寿司は体を回転させ、そのまま壁へ自分ごと叩きつけた。床に落ちて、動かなくなる同胞。
酢飯の雨を潜り抜けながら、丈太郎の言葉にアヴァは否定の意を示した。
「気持ちの問題ゆえ、許せ。儂はまだ汝には使えんよ。それに、飛べる者が高所に陣取っているのじゃ。例え使えても、危険過ぎるわい」
「かといって、このままだと寿司はどんどん握られるじゃろが」
「慌てるな、優先すべきは『死者・負傷者を出さない事』ぞ。避難誘導に割いた故、上に向かえる同胞は二十体ほどしかおらぬが…」
アヴァがちらりと、売店の奥に視線を送る。中から数匹の同胞が現れ、腕で大きく丸を形作った。
「そこの電話から警察に電話をさせた。タイムリミットがあるのは敵も同じよ」
「あぁー…」
一人を保護しつつ、警察の助力が得られるまでの間、ここの客や従業員たちの命を守る。
それはつまり、より困難な道を進もうと言っているのだ。その意図も分かる。
「「泣かれるのが面倒じゃからな」」
二人の男は同時に呟くと、三階への階段への一歩を踏み込んだ。
目的地はフットタウン三階お土産コーナー、一人が真っ先に向かった"たい焼き売り場"である。
その瞬間。大きな爆発音が鳴り響き、フットタウン全体を揺らした。
「はじこ!」
「アインスよ、無事か!?」
階段を一気に駆け登った丈太郎と、同胞の背に乗って宙を征くアヴァ。
震源へ辿り着いた二人の眼前に、
「あー、ひんほほ!ほーひゃん!」
特大の"巻き寿司"に巻き付かれた、一人の姿が映った。
床に倒された机やお土産品を踏みにじり、直径九十センチは超えるだろう極太の『恵方巻』が、一人の腰に巻き付いて天井近くまで持ち上げていたのだ。
どす黒い巨大な蛇のようにのたくる恵方巻は、その端が破れた窓ガラスの外へ、建物のより上層へ向かうように続いている。
やがて恵方巻は、獲物を真冬の空へと引き摺り出すように後退を始めた。護衛役につけた同胞たちは懸命に恵方巻を攻撃しているが、海苔を破き酢飯を掘り返しても、一向に動きが止まる様子がない。
そんな中で一人は、口元に迫る無数の寿司を次々と食べ続けていた。
「い、いきなりお寿司が襲いかはっへふふほんははは、ほうはっへもがががががゴクン」
頬がリスのようになっても構わず、一気に飲み下していく。顔は赤らみ、目元には涙が浮かんでいた。
「はむっ、はもっ、はふっ、もがぁ!」
「何をしてるだぁーっ!」
一瞬で激昂した丈太郎が、一気に天井近くまで跳躍する。同時に能力を発動させ、幾本ものピアノ線を召喚した。
炭素鋼で作られた金属線は恵方巻へと幾重にも絡みつき、食い込んでいく。丈太郎は線を引くと、自身の足を恵方巻の側面に付け、あらん限りの力で引き絞った。
大蛇の身体がいくつもの断片に切り裂かれ、輪切りの断面を晒す。
「どおおおりゃああああああああっ!」
「アインスの下へ移動!構えろーっ!!」
崩れ落ちる蛇の下、一人が落ちる丁度その真下へ、同胞たちが駆け寄る。自身を足場にし、その上に乗った同胞が更なる足場を作り、即座に二十体の同胞による塔が完成した。
その頂上に立つのはアヴァ本人だ。その表情は成功すると信じた不敵な笑みだが、同胞たちの頬を冷や汗が伝う。
たい焼き、寿司、そして一人が持つ元々の質量。
果たして僅か二十名の塔で、受け止める事は出来るのか――!?
(可哀そうな光景なので割愛)
「はじこ、苦しくなかったか!?」
「サビが効き過ぎ、もうひとつだったね」
存外余裕な様子の一人を、アヴァが言いようのない目つきで見上げる。あの後、突然回転した恵方巻の輪切りと死闘を繰り広げたのである。怖がらせるのは本意ではないが、ここまで堂々としているのも癪然としない思いがあった。
だが何はともあれ、ひと時の危機は脱したようである。床を駆け巡る同胞たちが、屋内には既に人が居ない事を知らせてきたのだ。
ちなみに、恵方巻の断面には"にやりと笑う女の顔"が表現されていた。
「どこまでも癪な奴よのぉ、じゃがアインスは取り返した。今の内に階下へ避難を」
「スーシッシッシッ、そうは問屋の三枚オロシ!」
その時!
割れたガラスの向こうから、背に羽を生やした影が、こちらを見下ろすように舞い降りた!
直立する二足歩行の寿司、前方に向いたネタの中央に咲く女の顔が、怨嗟の眼差しと共に唸りを上げる。未来探偵・紅蠍寿司だっ!
「うわあああ何ぞこ奴キモッ!」
「怖えぇぇぇぇぇぇっ!」
「不味そう」「チュウウッ!?」
三者三様の感想が上がる中、紅蠍寿司は笑った。緑色の唾が飛ぶ。
「今朝早くから漁港で仕入れ、丹精込めて握った私の可愛い寿司を…よくもよくもよくも、踏んで潰して切り裂きやがってっ!漁港のおじさん達が苦労して捕まえてくれたんだぞ、イクラ何でも酷いとい雲丹!」
「アラヨッ!」
殺しに使おうとしている時点で酷いも何もないが、この怪奇生物の中では罪悪感に結びついていないらしい。
「ふん、寿司の親玉は貴様であったか。わざわざ地の利を崩してくれるとは、有難い限りじゃのぉ」
アヴァが紅蠍寿司の瞳を睨み、わざとらしく肩をすくめて挑発する。その仕草は同胞たちへの無言の合図であり、力自慢のカブトムシやクワガタたちが、店舗から拝借した包丁やペンを担いで出撃に備える。
丈太郎もまた、透明な釣り糸を召喚して、いつでも紅蠍寿司の全身を切り刻めるように構えていた。
「あーっ!」
突然一人が、驚きの声を上げる。その視線と指の先は、紅蠍寿司の女ではない方の顔、直立した寿司の上に乗っている眼鏡をかけた男の顔に注がれていた。
「あれはもしかして、魔人ルポライターの架神 恭介先生じゃないかなぁ!?私、あの人の作品読んだ事あるよぉ!
昔希望崎学園で起きた魔人生徒同士の抗争を題材にしたノンフィクション『戦闘破壊学園ダンゲロス』、天道高校で発生した魔人による同校の生徒・教職員に対する殺戮事件を軽妙な筆致で描いた『恋愛飛行学園ダンゲロス』、関係者への綿密な取材を元に東大安田講堂事件の真相を暴いた『ダンゲロス1969』、東京地下に発生した迷宮事案を取り扱った『ダンジョン&ダンゲロス』といった魔人に関する記事で、ピューリッツァー賞を受賞した事もあるんだ!だけど先生の執筆活動はルポだけに留まらず、
- 完全パンクマニュアル はじめてのセックスピストルズ
- よいこの君主論
- もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら
- 作ってあげたいコンドームごはん
- 仁義なき聖書美術
といった音楽や宗教の解説書、料理本などの様々なジャンルにも挑戦し続けるマルチなクリエイターなんだよ!近年は漫画原作やボードゲームの制作にも取り組んでいるんだって!私はまだ拝読してないんだけど、ねぇアヴァ、この『作ってあげたいコンドームごはん』のコンドームって食材?それとも調理器具の事?」
アヴァが言いようのない目つきで男の顔を見上げる。少なくとも、人権を持つ者に向けるそれではない。
「スーシッシッ!よく知っているようですね、山乃端さぁん?確かにこいつはそんな感じの名前だったが、今はただの寿司機関ですよぉ!」
「ォアイソッ!」
「そ、そんな!架神先生、正気を取り戻してよぅ!」
「はじこ、下がれ。悲しいが、寿司は殺さんよう手加減出来る相手じゃねぇ。"センセイ"諸共、ぶっ飛ばさにゃならん!」
丈太郎が一人の前に立つ。彼は今この時だけ、一人よりも少しだけ背が高い事を幸運に思った。
だが意外にも、男の生を望むのは一人だけではなかった。先程誰よりも地獄の存在を願っていた、アヴァも思考を巡らせていたのである。
(…アインスが尊敬?する作家か、可能な限り殺したくはない…が、仕方ないのかのぉ…?)
"生きて帰る事"は、アヴァの中では既に確定事項である。
だが"東京旅行を楽しい物にする"という目的は、達成できるか分からなかった。
それでも諦めるつもりは無い…何せ、『泣かれるのは面倒だから』。
「先生、先生ぃ!」
「海苔い芝居で呼びかけても無駄無駄無駄ぁ!しゃシャリ出てくる悪い子には、とっておきのネタをプレゼントしてあげましょうねぇ~!」
「ァニギリヤショッ」
涙ながらに呼びかける一人を、嘲笑うかのように浮かび上がる紅蠍寿司。アヴァは溜息を吐くと覚悟を決めた。丈太郎の覚悟は、とっくに決まっていた。
その時だった。
アヴァの掲げた右手が振り下ろされ、同胞たちが一斉に飛び掛かる直前に。
丈太郎の右手に鎖付き鉄球が現れ、渾身の膂力で投げ付けられる寸前に。
「う、う、先生…ダンゲロスの新刊、待ってるのに…!」
男の双眸から、一筋の涙が零れ落ちたのだ。
「…先生!?」
「…ァ、ギリ…ラ、ラッシャァ…う、ううう…カ、カレー南蛮…!?」
――それは、奇跡と呼べる出来事であった。
男の、否、"架神 恭介"の瞳に、光が灯ったのである。
「キ、キーマ…タイ風…ご当地カリー…甘口、中辛、スープカレー…っ!」
「先生!」
「クミン、シナモン、コリアンダー…クローブ、ナツメグ、ガーリック…!」
「架神先生!」
「センセェ、"漢"なら根性みせんかぃ!」
「お。お、おおお…っお、俺が…俺が本当に作りたい物は、こんな寿司なんかじゃなかった…っ!」
「何という奇跡じゃ、これが神の御心か…!?」
「スパイスを持ってこい、俺が特製カレーを作ってやる!インド人もびっくり辛さマシマシのそいつをたっぷりよそったご飯にかけて…女子高生の直腸にぶちこんで食べたい…っ」
「え」「は」「ん?」
時が止まった。世界が止まった。
「俺は本当は!女子高生の女体盛りが食べたいっ!女子高生が二人居て、片方がレズでもう片方はノンケだけどムードで押せばイけそうな感じの子でっ!その二人にカレーをぶっかけて啜りてええええええええええええええんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!」
「…酷い。先生にこんな事言わせるなんて」
「死人を弄ぶのは品が無さ過ぎるのぅ」
「ワレェ、ちぃと度が過ぎとらんか?」
「え、え、え、え、え?こ、これ私じゃ…」
「ああああああああああああああもういいやっ!この際寿司でもいい、女子中学生でもいい!寿司で菊門突き破って悶絶する涙で特上喰ってやらぁ!」
――背部から生えた翼が、一際大きくなる。同時に顔が奇妙に引き攣り、白目を剥く紅蠍寿司の顔。
最早、架神 恭介は狂気であった。長い舌を大きく突き出し、口角が限界まで吊り上がり、その端から幾筋もの涎が垂れ落ちる。
「な、何故…私が握れない物など、……いや、まさか……私は最初から、握られていて…?」
その言葉を最後に、女の顔は沈黙した。
元紅蠍寿司の身体が、割れたガラスの隙間から外に出る。その後を、痙攣し、顔を青黒く変色させた無数の人々が、先に避難させた筈の子供までもが、背中に羽を生やして追随していくではないか。
「なぁっ!?」
慌てて身を乗り出す丈太郎。その目に更なる壁が立ち塞がる。
巨大な蛇だ。いくつもの頭を持つ巨大な蛇が、東京タワーの中程から頂点にかけて、とぐろを巻いているのだ。
全長を視野に収める事さえままならない威圧感。これぞ未来探偵紅蠍寿司の最期にして最高傑作、『恵方巻の大蛇』!八方どこを向いても恵方になるをテーマに作り、途中で道を見失った至高の寿司である!
架神 恭介は嗤った。これから起きる悲劇の予感に、喜劇の確信に、心底からその身を震わせて。
「は、は、ははは、はぁーはっはっはっはっはっはっ!さぁ最終ラウンドだ、泣いて叫んでお小水を漏らせっ!女子中学生共ぉーっ!」
そう叫んだのが合図だったのか。
はたまた、元からそういう能力であったのか。
空を飛ぶ幾人もの人質から、羽が消えた。
◆ ◇ ◆ ◇
――あの夏の日の事は、今でも思い出せる。
「はやくいこ!」
「えー、"きんとと"がまっててって、いってたよぉ?」
そう言って渋るはじこの手を引いて、外へ連れ出した。
二人きりだった。
子供だけだった。
束の間の自由があった。
いつも親たちに連れられて行く道も、その時は冒険の主人公になったみたいに、ワクワクして通ったんだ。
あの時、何があれば良かったんだろう?
『糸』か?
『包帯』か?
『規制線』でも張れば車は来なかったのか?
『ゴム紐』を結んでおけば、咄嗟に後ろへ飛んで回避できたのか?
子供らしい空想は膨らみ、オレはいつしか魔人となっていた。
それでも、"漢"にはなれなかった。
夢の中で、はじこの親父さんが手を振っている。
オレとはじこの下へ駆け寄ろうとして、そしてまた。
……オレは思わず駆け出していた。
フットタウンの割れた窓から上へ飛び、タワーの鉄骨に足をかけると、勢いのままに駆け登る。
軽い体と魔人の筋力を持ってはいるが、自分でも信じられない程の速度が出た。
途中で、落ちていく人々の顔が分かった。
子供を抱きかかえた親子連れのお母さんが落ちていく。
優しい、よく似た顔つきの初老の夫婦が落ちていく。
まだ大学生くらいの、若い従業員が落ちていく。
あの時助けた少年が、落ちてくる。
少年に手を伸ばすが、その直前にどす黒い壁が立ちはだかり、オレの身体を弾き飛ばした。
体勢を崩したが、諦めずに少年を掴もうとする。だがその指先、ほんの数センチ先を少年の身体が通り過ぎた。
窒息して弱り切った体には、空中で手足をばたつかせる程の力も残っていない。
高所三三三メートルからの落下が加われば、哀れな犠牲者はネギトロにされてしまう。
あの時のように。
「―――――――――うおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」
何か。
何かないか。
この事態を打破出来るような、何かそんな物は。
能力で時空の境目を越えた指先が、様々な"ひも状の物"を撫でていく。
"針金"
"バンジー用の紐"
"緊急避難用の縄梯子"
"ひもグミ"
"鎖付き鉄球"
"長い黒髪"
無い。
無い。
無い。無い。無い!
一体何なら助けられるんだ。
『東京タワーの一番高い所から落下する』、『幾人もの人間を同時に助けられる』、『十分な長さと丈夫さを持った"ひも"』!
この能力を得てから、オレは古今東西のひも状の物を調べ上げた。無い!
(何か、何か、何か!頼む、何か出てきてくれ!)
"ゴムホース"
"金色のネックレス"
"携帯電話の充電コード"
"はちまき"
"綱引き用の綱"
(お願いだ、頼む、頼むよ、オレの体が砕けても良い!今、この人たちを助けさせてくれ!!」
"延びた餅"
"手術用の糸"
"破れた手拭い"
"何かの配線コード"
"点滴用のチューブ"
「頼むよ、お願いだよぉ!嫌だ嫌だ嫌だ」
"三色のミサンガ"
"革製のベルト"
"豚の大腸"
"毛糸玉"
"ミミズの死体"
「何か何か何か何か何か嫌だ何か何か何か嫌だ嫌だ何か何か嫌だ何か嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ何か嫌だ何かああああああぁぁぁぁぁぁーっ!」
「ギャハハハハハハハハハハハハーッ!やはり女子の涙は格別だああああああああああああ!これなら寿司も悪くないかもなあああぁーっ、どぉれ舐めさせてごらんよ塩加減みたいからさぁ、最近健康が気になって仕方ないからさああああぁーっ!」
その瞬間、架神の口に何かが侵入した。
それは口の中で動き回り、口腔内の奥へ奥へと潜り込もうと試みる。
一つだけではない。三つ、四つ、五つ…何か分からないが、手足の生えた何かが舌根の先へ、気管支の先端へと…
「ガボガバッ、グェッ、ゲッ!?」
『…慢心は敵じゃと、今回よぉく思い知ったわい。慢心したつもりも無かったのじゃがなぁ』
喉の奥から、声がする。酷くざらついた、耳障りな声が。
「ゴッ、オ゛…ッ」
『ふふん。だが結局は儂らの勝ちじゃ。貴様は死に、皆は助かった。』
「…ッ……ッ!」
助かった?何を言っている。あの女子中学生は今しがた、泣き叫んでいたじゃないか。
恵方巻の大蛇はどうなった?どうやってあの巨体を潜り抜けてきた。
何が起きたのか、架神 恭介には分からない。
こんな突然、脈絡もなく、伏線もなく、起伏もなく、種明かしさえもなく、自分の人生は終わるというのか?
『探偵、いや作家じゃったかの?まぁどう考えてもあれ貴様の素じゃろうな。アインスは悲しむが、考えてみればこれを乗り越えて"一作"描けそうじゃなぁ、かんらからから!』
――俺の死を
彼の脳は、それ以上思考する事が出来なかった。
東京タワーに、サイレンの音が鳴り響く。
駆け付けた救急隊員が心肺蘇生を施した結果、少年やその他の被害者たちはかろうじて意識を取り戻せたようだ。そのまま救急車へと運び込まれると、近くの総合病院まで運ばれていく。
残された三人は、心肺蘇生の結果が出た辺りでこっそりと逃げ出していた。特にアヴァたちの存在を勘付かれるのは避けたいと、アヴァ自身が主張した為だった。
一人は最初ぶーたれていたが、今は『何も言わずに立ち去るヒーローっぽくて恰好いいね!』などと前向きに捉えている。
「そういう意味ではもー、じょーちゃん!あなたが一番、最ッ高に恰好良いよ、もー!」
タワーから少し離れた、芝公園のベンチにて。丈太郎の肩に一人が抱き着き、興奮のあまりキスをした。
その胸ポケットに入っているアヴァもまた、通信機をしまうと"からから"と笑っている。
当の本人はといえば、ただぼぉっとした顔でその手元を見つめるばかりであった。
『崖っぷちの漢気』で呼び出した物。それは直前に触れた"恵方巻の大蛇"。アヴァの同胞たちが寿司怪人へ真っすぐ飛ぶのが見えたので、咄嗟に呼び出したのだ。
そして、もう一つ。今、空渡 丈太郎の手に握られている"ひも"。
柔らかく粘着性があり、先が無数に枝分かれしており、十分な長さと頑丈さを持ち、手元のコントローラーで自由に操れる、"もの凄く都合の良いひも"。
ボタンが付いた面の隅には『2072年製造』と表示されており、商品名は『Sky☆Walk・DX』と銘打たれていた。
それは、未来から取り寄せた品。
――あらましい真似したらいけん。じゃけん、その心意気でら”漢”じゃ。
これから先の未来で、空渡丈太郎が生涯をかけて開発する事になる、未来から過去へと続くもの凄い"ひも"であった。
◇ ◆ ◇ ◆
(空渡 丈太郎 決着。)
(アヴァとアインスの決着まで、後二日)