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 捻れた因果の果て──────此処(ここ)は光と影の狭間に在って、眼と耳と心で感じる世界。



 ──────ギシリ。  廻る。

    ──────ギシリ。  廻る。

      ──────ギシリ。  廻る。


 瀝青(れきせい)方尖塔(オベリスク)たちが右廻りに捻じくれてゆく。
 ゆっくり、ゆっくりと悪魔の指のように天に挑み、掴みかかっていく……。




 ──────形とてない黒いネメシス。
 一点の光差さぬ心を蝕むような右も左もない完璧なクローズ・ド・サークル。
 その何者にも知覚され得ない深い闇の最中に独りの女が(うずくま)っていた。
 濁りきった(くろ)水面(みなも)にはおおよそ人間のものとは思えない頭蓋骨や脱け殻たちがそこかしこに。
 けれども、彼女は一人じゃない。暗中に刻まれる異様な分割線から鉄が火を吹くような音をたてて、門が開く。
 死魚のような眼差しを闇が吸い込むと、その視界を左右からの光が引きちぎった。


「ああ……ッ!わざわざのご入来……なんと!」


 そして、おお!何やら走りまわる音が聞こえるではないか!
 闇を通し、真実を通し、闇のベールの向こうから奇妙な木霊と脚音が響いてきた。
 強いていえば、馬の蹄のような。それはやって来る。
 この女は何が待ち受けているか知り抜いている(、、、、、、、)せいだろう。
 虚ろなはずの女の視線は、その存在に粘り、灼きついた。
 悪夢を封じ込められたような視線が殺到するただ中で、それは黒い波涛のように迫ってくる。下界の衆生に君臨する覇王のように。


 汝、大いなる名も無き者よ(    Tibi.Magnum...Innominandum...)

 ソレ(、、)は狂おしい章句を復誦する。その(うろ)から吐き出される言語は、他の誰にも理解できないだろう。
 吃音出来ぬ声音に、俯伏する女の頬はぴくりと痙攣する。全身が震え、歯茎が浮き出す。
 その恐怖は彼女に剣よりも深い傷を作った。
 いくら獣であった石器時代から、ホモ・サピエンスとして進化を遂げたとしても、弱肉強食はこの世界の理。
 その絶対的な理の中では、弱者に(ゆる)される(みち)は強者へ付き従うか逆らって死ぬのみなのだから。

''──────時が死を打ち負かすまで、永遠に眠るものは死んでいない(es ist nicht tot, was ewig liegt, bis dass die Zeit den Tod besiegt.)''

 墓地の中から立ち上る瘴気のような声が言った。
 常闇に融けて蠢動(しゅんどう)する祀わぬ者たち(真の神)
 黒い影が妖々と彼女の方へ歩み寄る。
 名を『嵐の王(ワイルド・ハント)』呼ぶ──────。
 黙示録の獣。今まさにこの世の終末に相応しい黒い颶風の吹き出す空洞の眼窩へと突き堕とされたのだ。

『私は知らなかった……私は知らなかった……私はなかった……』

 虚ろな声が、三度響く。
 侘しく垂れ下がる(こうべ)は、次の瞬間には踏み潰れるのか。
 彼女のような蒙昧。下等な猿。矮小で低級なホモ・サピエンスごときにも、理解出来るように訓練されていたのかその巨大な瞳は、次の瞬間、大きく見開かれた。


……蒼ざめた血を助けよ、我々の狩りを全うするために

 天宙で低く告げられる最終警告。
 無様に這いずり回るその躯は、既に頭まで真っ黒なナニかに浸かっていた。
 もはや抵抗する力は残っていない。

「────はッ」

 足元に眼を凝らせばいつの間にか自分自身がおぞましい触肢の上に立っていた事に気づかされ、耳元には肉と手繰り寄せる鎖のような音がする。白い燐光にまみれた深海魚のように頭を掠めた。
 ……その貌、
 この世の中で視てはならない光景というのがあるなら、それは────これではないか?



『ところで──────君の方の(、、、、)

 艶っぽい滴が垂れるような声。ゾクリとするような毒の刺激であった。
 この悪夢の黒海の中を泳ぎ、波を叩く正体は虚ろに濁った十四対と六の視線。
 狂気、夢、現実のいずれによるや知りもせず、その真っ黒な口だけは大きく開く。
 顕れた深淵なる淵──────飢えた猟犬の瞳。
 (こたえ)は簡潔明快。






山乃端一人には一体ナニをしたの?(、、、、、、、、、、、、、、、、)


 何か──────ではない。それは▆▇▅▇▃▇▇▅(ルルハリル)だった。

 女は次に何をされるかは。もう、判りきっていた。


 ──────死よりも重い、血の洗礼である。


「あぁ……そんなぁ!」


 潮のひくような圧搾。女のその口から恐ろしい叫び声が轟いた。
 腐りきった木の根のごとき手が女の首と肩に巻きつき、引き倒す。
 瞬く間に夥しい手が一瞬で彼女の身体中に張り付くと豊かな肢体を絡め取り、純黒の衣に包まれたその身体を暴いた。
 そして、全裸の彼女に纏わりつく夥しい氷のような冷たい包容。
 されるがままに。暗闇の中で剥き晒しの肌がくたりと横たわるさまはどこか艶めかしい。
 抱き心地、舐め心地ともに申し分ないだろう。


太古の昔に交わっただけの階梯が……贖って貰うぞ。それでようやくこの女の罪は洗い流されるのだ



 ──────辱しめを。

    ──────辱しめを。

       ──────辱しめを。


 数えきれない唱導の声。姿の見えぬ貪欲な大衆たち。
 公平無私に死を越ゆるこの女も絶望と憔悴に駈られる。
 汚水の中で、▆▇▇▅(ルルハリル)は彼女を跪かせた。彼女は精神は抵抗力は失せていたが、彼らは急がなかった。


『赦サレム────


 女が何かを言おうとする。
 どうもがく余地もない。
 もつれ合うように容赦ない爪がもがく乳房にめりこむ。ベル型の乳房が勢いよく飛び出す。

 乳房を伸ばして柔らかく掴み、で硬く膨らんだ乳首を愛撫しながら、情熱に蠢く肉はただ、生々しい。
 血の気のない唇にからとめどなく流れ落ちた唾液が豊かな曲線をぬらぬらと滴り、皮膚の上に抽象的的な線を描いていく。
 自分の声を彼女は遠いもののように聞いた。

『赦サレム巡礼』

 歪んだ顔と肢体に淫らなものを注いでいた。その視線たちが彼女を呪縛する。
 彼女の蒼い唇がキュッと吊り上がり、笑みを形作り、
 彼女を覗きこんだ凍てついた▆▇▅▇▃▇▇▅の瞳に、己の薄笑いが映っていた。
 すぅ、と女は色を失う。


『赦サレム巡礼』


 絶鳴は、次の絶鳴を呼ぶ。
 その言霊が狂気に拍車をかける。それが魂の恐怖だとは、彼女にも知りようがなかった。

 舌捌きは激しさと淫らさを過激に増していった。
 女は▆▇▅▇▃▇▇▅の舌が這いやすいように白い喉をのけぞらせる。


 生温かい──唾液とは違うものが下腹にかかって、のけぞった。
 生々しい粘稠(ねんちゅう)音。それとともに、彼女のヒルのような唇は吸われ、口腔を生温い舌に掻き回されながら、女は自分から舌を与えた。
 襟元から熱い肌へ走り、女の内部(なか)で蠢く蛇と花。甘い果肉を貪る虫たちのようにそれは襲い()()い泥沼をかき廻している。

『ぃ……あぁ』

 女の全身を痙攣させながら秘所へと潜り込んだ。舌先を刺し込んだだけで、女は獣のようなよがり声を放った。
 唇が震えてまともに返事が出来ないでいれば、捕まえていた▆▇▅▇▅が顔に触れて、口を割って侵入してくる。
 自然な流れでそれをしゃぶると、背後から不満足そうな声が漏れるのが聞こえてきた。


────辱しめを。辱しめを。辱しめを。


 狂気に浸された脳髄では、口腔を交わした正体が▆▇▅▇▃▇▇▅だったことに気づかなかったであろう。
 愉悦に狂わされた夥しい鞭毛が、その全身を覆う注射針ような鱗だということも知らずじまいだったろう。
 衰弱と死滅の外傷的交尾は彼女の罪を洗い流す。
 先走りの液が涙のように伝って、薄い(くさむら)を濡らし、直立しているものたちが切なくひくつきながら、てらてらと卑猥な光を放つ。
 それはとめどなく腐敗する膿汁のごとき毒を孕んだカタツムリの恋矢(ペニス)のような器官だった。
 震えるような絶望を性欲に変えて女は口戯に意識を集中した。
 突き立った乳首が無情に噛り盗られる。
 どうやら彼女には永年の快楽より、刹那の痛みの方が好みらしい。


────辱しめを。辱しめを。辱しめを。


 俯瞰する視界は恐怖のどん底と叡知の高みの狭間に存在する。幾つもの夢と現実が絡み合って混乱して見境をなくして──────。


────辱しめを。辱しめを。辱しめを。


 陶然と見上げる彼女の眼は潤んでいた。
 口に入れると、▆▇▅▇▃▇▇▅は腰を引いた。
 喉仏が何度も動いた。先端は食道に達しているだろう。興奮したのか女は夢中に頬をすぼめた。
 音をたてて外れた恋矢(れんし)を前にして、荒い息を吐いた。
 針の先端からおびただしい散液を吹き散らせる。
 命令に女は従った。▆▇▅▇▃▇▇▅のものを飲む(、、)のは初めてではなかった。

 飲んでも飲んでも、また次々と新しい粘りを弾けさせる。
 肉汁を鼻ですすり上げては咳きこんだ。目の隅から涙が頬を伝わり、汁と混じり合った。
 口から溢れる液を▃▅▃▇▃▅に見てほしかった。
 彼女をうつ伏せにし、そのまま腕を獣の形へ押し付けた。(けだもの)たちの声と息が耳にかかると、彼女の背筋が粟立つ。




──────今度は其方が証をたてる番だ




「赦サレム巡礼」

 粘液はくっついた部分から沸騰するがごとき音が鳴りはじめると同時に、肌を蛆が孵ったように肌を灼け爛らせていく。
 顔になすりつけられると女はそれを顔中に引きのばした。それすらも甘美だった。
 瞼を喪った血走った眼が『赦サレム巡礼』と呟いた。
 意識も、感覚も、何もかも掠め盗られている。
 生命の破片まで使い果たしたか、今にもここから零れ落ちそうになる。
 顔の皮を剥がれた真っ赤な筋組織が戦慄くたびに結合の音を響かせ何度も痙攣する。
 女は一気に昇りつめた。搾り出させた器官が、間断のない痛みを送り込んでくる。

『赦サレム巡礼』と呟いた。

 足の先から頭の芯まで、緩やかに、毒のように、熱が巡る。そんな循環がもう何度繰り返されたことか。
 死の断末魔にわななく女体を抱きすくめられ、骨格が湾曲し全身が震える。



 ──────ナニをしてもいいから。


     ──────犯しても殺してもいいから。


          ──────▆▃▇▇▅だけはやめて。





『──────赦サレム巡礼』

 融け崩れるヒトガタの側で、双つの角をもつケモノの影が激しく腰を振っている。これも妄想に違いない。





 ──────どうやら此処には神は居ないらしい。




──────辱しめを、辱しめを。



 このダンゲロスに──────神は介在しない(、、、、、、、)



──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。


──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。


──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。



『赦サレム巡礼』


 完全な闇が周囲を覆う寸前、女は絶叫を放った。
 ▇▃▇▇▅の者とは到底信じ難い──────魂を汚されるような叫びであった。
 再び闇から闇へ、この深くて昏い海に女は力尽きて流されて、融けるように沈んでいく……。
 しかし、魚が溺れなどするものか。
 けれども、女の何かを求めてもがくその様はきっとそうに違いない。
 何も見えない。
 もはや彼女もこの巨大な宇宙の無限に潜む小さな部品にすぎない。


──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。


──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。


──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。



 もはや呼びかけに応じるものは、虚空の呻き。



──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。



──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。



──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。



『赦サレム巡礼』

 これもきっと狂った妄想の産み出した(こえ)に過ぎない。




──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。




──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。




──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。




 これは神の道を踏み外した外道への手向けである。




──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。




──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。




──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。




 きっとあの方も御座(みくら)の最前列でこの光景を見物しているに違いない。




──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。



──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。



──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。



──────辱しめを、辱しめを、辱しめを。















『────辱しめを』



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   / Stand by me








 十代の頃は、みんな頭の中で人類の絶滅(オール・デリート)地球滅亡(アポカリプス)を願ったり考えたりしたり、その後に現れる新しい世界の主導権を握る自分を想像したりするでしょう?
 だけど、スパイ、諜報戦、戦争といった単語を素直に楽しむのは、年端もいかぬ中高生だけ。
 この世の終わりは映画みたいなポール・シフトによる地球規模の超自然的災害でも、某国の(潜伏工作員(スリーパーセル)たちがばらまいた殺人ウイルスでもなかった。
 ましてや宇宙怪獣でも……まぁ、都内には出現したけど自衛隊が出動するのは当分先の話になる。
 私が見てるこの世界は法則に従う者は誰も居ない。
 文字通り窮極。

 今すぐにこの東京を脱出したい気分だが、現実は私をここに押し止めている。

『後ろばっかり見てたら遅刻するよ。次の発車まで残り2分』

『わかってるわよ』

 冬場のロングコートがどうしても殺し屋を連想するせいだが、それらしい影も形もなく、平凡な人間たちの群れが通り過ぎるばかりだ。
 山乃端一人は気だるい倦怠を漂わせてながら、それでもきびきびと歩いた。

『ぁ゛ぁ゛~~!ホント朝から最悪……!』

 月曜日の東京──────喧騒(ざわ)めく中野新橋。
 秩序の保たれた交差点。赤に変わる信号。
 明けやらぬ空は雲に蓋をされ、泥のように濁りきっていた。
 改札を通過する人々とその人混みに交ざらないピアノの鍵盤のようなモノトーンとちょっとだけ灰汁の強い紅──────それはセーラー服。

『ホント!(あったま)オカシいんじゃねーのこの国。東京スカイツリーにでかいドラゴンが居座ってるのに何故に登校?学校休みたいよ!なんのためのオンライン授業よ!?』

『この東京に怪獣が出現()たのに通常登校とか誰もシン・ゴ●ラとか観てないワケ!?あの映画の都民は一体どうなったのよ!?』

 父親は父親で昔の報道カメラマンからクる(サガ)なのかなんなのか知らないが、組んでるYouTuberとその巨大なドラゴンの居座る東京スカイツリーからライブ生配信をするという。もはや体当たりどころかライオンの檻に自ら入る自殺めいた行為に母も猛烈に反対。
 昨今の地上波放送の低迷にカメラマンをリストラされて生活も厳しいのもあり身体を張る理由も判るが朝から家庭崩壊同然の夫婦喧嘩になっている。
 そんな山乃端一人のいつも通りの朝──────。

『あーぁ。私も銀の龍の背に乗って、どっかに行きたいなぁ』

 すると常に傍に立つ灰暗いヒトガタがまろび出る。

『コッチの方には被害は来ないから、君のお父さんは大丈夫だよ』

 雪と同化してしまいそうな肌の色をしている小さな子供となった。
 最近服を着て、ようやく宗教画から飛び出てきたような真っ裸からやっと正視できる状態となってくれた。
 彼女は死の糸で繋がれたその名を忌々しく紡ぐ。

 ル
 |
 ル
 |
 ハ
 |
 リ
 |
 ル

 と、


 ──────あの銀時計は世界の終末(アルマゲドン)を報せるトリガーだった。
 そこから(あら)れた、私を護る(パワー)ある幻像(ヴィジョン)
 これ以上なく黒々して艶のある髪。
 細い首。
 シルクシフォン二重仕立てにサスペンダーと半ズボン姿。
 これは……どう見ても、虐められている、育ちのいい、坊っちゃんである。

 だが、その落差を恐れた。米国陸軍特殊部隊(デルタフォース)を秒殺した、光景を今もはっきりと記憶に灼きついている。
 この世に有り得ない純然たる殺意の結晶。超常の暴力装置。
 これが私の幽波紋なら、今すぐ名前を付けるとこ『全然違うから、全然』

 ……独り言が漏れたのを、よく聞き取っていたようだ。今日もルルハリルの声が、ひどく大きく耳につく。


『ちょっと、なんで倒しに行かないのよ?』

 圧縮空気の噴射音をたててドアが開き、動き始めた山手線の車窓の風景が絵の具のように流れはじめると、ルルハリルが無味乾燥な話し言葉で語りかける。
 通行人たちは見ないふりをして通り過ぎていく。案外、気がつかないのかもしれない。

『僕は君の好きな映画みたいな見世物じゃないし。それにアレ(、、)は僕と同じ鞘の豆だからさ』


 豆?と、山乃端はクエスチョンマークを頭上に点滅させながらホームを降りる。

『そう。豆』阿保なことは訊くな、そんな口ぶりであった。
 あとは何を伺い知ることも叶わぬ無色が張り付いているのみであった。

 『姫代学園前』行き。アナウンスもそう告げた。
 私はいの一番に乗り込み、ドア横のシートに腰をおろした。
 黙念とガラスの向こうの白い町並みを見つめていた。山乃端一人は世界の未来ついて考えている。

『どうしてみんな逃げないんだろう?』

 上り電車と下り電車が同じタイミングでホームに入り込んできて、乗客を降ろして去っていく。
 繰り返されるその光景をルルハリルは呆れ返っていた。

『この国の勤勉さも度が過ぎれば脳無しも同然。彼らはガラス瓶の虫たちだ。まるで死ぬまでぐるぐる廻って歩く蟻たちみたいに……』

 ルルハリルの言葉は虚ろな眼窩より響くものがあった。

『こんな調子じゃあ、君の好きな映画みたいに熱光線が都市を焼け野原にして破壊するまでずっと……死ぬまで目を覚めないんじゃあないかな?』

 嘲る皮肉に山乃端は愛想半分に、まさかぁ~、と言ったもの、ルルハリルは眉ひとすじ動かさなかった。
 山乃端一人は何度か眼をしばたたいた。

『そんなワケ……』






 また訳のわからないことをやらかしそうな、訳のわからない人が増えた。


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(────気になるじゃないか)

 見てはいけないだろう。いや、絶対観ちゃ駄目だ。

 車内の支配者からは近寄るのさえはばかられる泥の匂いがした。
 ぬったりした緑色のその姿はまるで海水に浸かった廃車のようだった。
 恐る恐る山乃端は相手の天辺からつま先まで視線を動かし、また息をついた。

『…………』

 これは単に酔って浮かれて川に落ちて這い上がった可哀想なOLに違いない。そうに違いない。絶対土左衛門じゃない。彼女はそう心に念じる。

『あの────何処のどなた様です?』

 山乃端は脅えを出すまいとして、薄い笑みを頬に刻みながら、その黒い瞳は一切笑ってはいなかった。

 けれども、山乃端が動く前に、濡れ女の方が明らかにルルハリルを凝視し、顔面をひきつらせる。
 本能が全力で拒絶するような存在が、私の隣に居る坊っちゃんを見て、泡を吹いて逃げていったのだ。


『只の(いや)しい狂信者だよ。今のは……』

 何の感概も喚び起こさないルルハリルの声音に山乃端一人はあえて聞かなかった。

『あっ……そう』

  山乃端はあくびを挟み込み、寝る体勢に入る。

『私、降りる駅までちゃんと生きてるのかぁ……?』

 動く車窓を覗き見るルルハリルの蛇か鮫のように底のしれない黒瞳は大きく見開いた。




Yeahhhhhhhhhhhhhh(イャァァァァァァァァァァァァァァ)────!」




 東京の空に化鳥のような影がルルハリルの黒瞳によぎった途端、全ての事象が山乃端一人の死に収束する。
 生殺与奪の権利は既にあちら側にあったのだ。
 この車内は紛れもないハンターたちの縄張り。
 これは狩りだ────此処は餌場────獲物は……。




『ねぇ。起きて、一人。死ぬよ?──────』




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 空っぽの舞台に少しだけマヌケな声が虚しく響いた。

「安心しろ、峰打ちだ」


 男は満身に生々しく刻まれた斬切跡がその闘の激しさを物語っていた。
 男は呻き続ける尼の上衣の裾で剣の血を拭った。


 残存部────都営大江戸線線、4号車に破壊の痕跡は見られない。電車の中はガラガラどころか消えてなくなったしまったのだ。
 電車の機関部を傷つけずに客車そのものを食いちぎっていた。その神がかった精度とカッテェングは精密工作機械のそれと相違ない。
 それでもなお疾走し、外気に曝される剥き出しの車両の中では山乃端一人の運命に新たな黒い一ページをつけ加えるべく、現れた剣人が飛び降りていた。
 その右手はなおも稲妻を引き寄せている。
 開襟のシャツにスラックス姿のこの男。
 たっぷりしたサイズの上衣だが、隠された肉体の強靭さと血を吐き、骨を削る鍛練の激烈さは素人にも判る。
 そのくせ、異国でも誰も警戒心を抱かないのは、この男の全身から沸きあがる明朗快活な雰囲気のせいだ。
 この男が太陽剣の遣い手として、山乃端一人を殺す者。


 ────日よった日の本に武士の魂などもはや存在しない。
 (サムライ)の魂は今や海を渡り、コマ伝師からブラジルの柔術家たちへと伝承され、息づいているのである。この(おとこ)の血の中にも。

 名をカマド・タンジェロ──────またの名を悪魔を倒す者(デーモン・スレイヤー)


 ──────今、世界は残酷な殺意に満ちている。



 幸い、ルルハリルが、山乃端を救っていた。
 この時、二つの出来事が起こった。
 驚声をあげて立ちすくむ山乃端一人。その頭上へと飛来する諸刃(もろは)の刃。紛れもない断頭の輝線は山乃端一人の半ば開いた口の中を横断する。
 勿論、わずかな羽織の袖の動きもルルハリルは見逃さなかった。
 斬り裂かれたのは彼女は玉虫色の残像であった。


『留年してでも休めば良かった』

 自らを両腕で抱きしめてそう独り言を洩らすと、再び彼女は身を震わせて笑う。

『呆れた……』

 ルルハリルの人皮がズルズルと剥げ落ち、中から折り畳まれていた蛇腹の胴体が反り返り現れる。
 小さな小瓶からトロリと滴る蒼い液体が徐々に膨れ上がり、剛体と化す蠢動する肉塊。元の輪郭すら定かではない躯体。
 タンジェロは山乃端一人にまとわりついているモノを見て息を呑む。
 先ほどもそうだが、音もさせず、空気も動かさず、どうやって消えたのか。

「蒼い魔性の精が……」

 タンジェロの顔から笑みは崩れない。この笑いだけで、信頼に足ると判断する人間も多いだろう。男なら誰でも持ちたいと思う慈顔だった。
 物理的強度。戦闘能力。生理的耐性。どれも優れていて高い水準の証である。
 その証拠にルルハリルの触手は今の一撃で何本か断たれ、ミイラと化し、彼のブーツの裏では土塊と化していた。

 金属(かね)のガチッと鋭い音がしてオレンジ色の火花が散った。

 吹き消すような風にもなお止まぬ疾風に躍る焔の魔。
 太陽の呼吸の稼働である。
 退魔な業火と叫喚と、否応なく、太陽剣があがる────

「我が刃、見事──────(かわ)してみろ」

 肉を斬らせて、魔性を──────、

「HAAAAAAA────!」

                 ──────断つ。









 結果は────と出た。
 彼は次の瞬間、悟った。

「影か────斬ったのは」

 太陽剣の突きは空気だけを斬り裂いた。
 タンジェロはあの怪物の持つ恐ろしい『法則性』にか気づいてしまったのだ。

次元(、、)が違う……か」

 あるいは、もっと別の世界か──────、
 闇の(うろ)が太陽の光を断ち斬ったのだ。
 結果──────滑らかな切り口を残して、タンジェロは左半身を大きく消失させた。

 右手は持ち主を残して、遥か彼方のビルの谷間でやっと停止した。
 腕は離れても、刀は離さなかった。
 文字通りの木偶と化し、脱力して、ずるずると壁を伝
いながら床へ崩折れる。


「いけ…ねぇ。ジゴクで…センセーに……叱られ……ちゃ…ぁ…」

 低く詫びて────絶望の牙が意識を刈り取る。
 見る者も讃える者もなく、カマド・タンジェロは死闘に果てた。





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 少しして────遠くパトカーのサイレンが近づいてきた頃

 今だ、脂に濡れたような感覚が残る。
 山乃端は制服のポケットから携帯を取り出し、デジタルの時刻表示を確かめる。

『完全に遅刻だ……』

 改札に続く階段を下り、

『いけね、遅延証明書貰って来なきゃ…』

 慌てて踵を返す山乃端にルルハリルは首を傾げ、

『なにそれ?』

『あとで教える』

 溜め息をついて、山乃端は歩きはじめる。雑踏の中に溶けていった。
 山乃端一人は自分の図太さを思い知らされた。平穏な日常に張りついてきたアブノーマル要素を、一晩眠れば忘れ去ることが出来るのは、彼女に備わった本質的な強さかもしれない。

最終更新:2022年02月27日 00:04