悪路■Bad


地に伏した身体がビクリビクリと小さく痙攣する。

拳条朱桃は眼下に果てていく命へと腕の形を取る「力」を叩きつけた。
生きようと踠く動きはなりを潜め、バイオリズムには沿わない不自然な死の震えだけが残った。
静止した少女の瞳はそれでも朱桃を見つめ続けている。
瞬きをしない瞼は存外に気味が悪いので、下手人は早々に現場を立ち去った。

冷たいアスファルトの地面に頬を付けながら、まだかろうじて意識の残されていた少女は体温が大都会の大地へと流れ出るのを感じていた。
視界の端に、血が波のように打ち寄せるのが分かる。
「赤い血潮」という言葉は、生きている間ではなく死にゆく際でのみ実感できる表現なのだろう。
満ちてゆく潮のように、赤は遠くへ、遠くへと広がっていく。

ビル街の狭間、波を立てる風もない。
夜を過ぎても冴えていた意識が、急速に闇へと包まれていく。

鬼姫殺人の生命はこうして閉ざされた暗がりに吸い込まれた。


 1.一画一点(アポイント)


「併しその「赦し」といふのは悪に対して無頓著なインダルゼンスとは全く異なり、悪の一点一画をも見遁さず認めて後に、そのいまはしき悪をも赦すのである。」(倉田百三『善くなろうとする祈り』)


「家出した放蕩娘を連れ戻して下さい」

千寿野(せんじゅの)夫人は椅子に座るなりそのように切り出した。
湯気を立てる緑茶を盆から手前のローテーブルへと移し、端間一画は続きを話すように促した。

「うちは共働きで、普段から娘にはあまり構うことができないんです。それでも大切な一人娘ですし、都内でも有名な全寮制女学校の姫代学園で不自由なく学ぶことができるように骨を折ってきました。その娘はこの連休中に一時帰省の届を提出して我が家で過ごすことになっていました。しかし連日朝から家を出ては夜遅くに帰って来ると言う始末。理由を問えば友達との付き合いなどと申すではありませんか。詳しく聞いてもそれ以上は口に出さないばかりか、昨日から家にも帰っていないのです。学園にそれとなく問い合わせた所、寮へと帰った様子もございません」

伸びた背筋や身に付けた服飾、化粧や表情はデキる女、という風情を醸し出しているが、混乱し差し迫った表情を併せると家庭内の問題を行政や国際政治の如きものに錯覚してしまう。

「端間先生のことは名高い探偵として聞き及んでおります。そのご年齢でいくつもの難事件を解決していて、探偵としても上位の社会的名声を得ていると。お願いします、どうか娘を見つけ出して下さい。悪い友達に唆されているだけで、本当は良い子なのです」

少し肩書に誤解があるようだ。
現在の一画は相談屋であり、探偵を名乗っていた頃と同種の依頼でも受け付けてはいるが、それはどちらかと言えば副業に近い。
そのことを夫人に説明し、相談屋としてのオプションを一画は提案することにした。

「探偵としての人探しはそう難しいことではありません。ただし、娘さんがまた家出してしまう可能性を考えると、これは対症療法としかならないでしょうね。どうでしょうか、発見した後、娘さんを暫くの間私の下でお預かりさせて頂けませんか。親の心子知らず、子の心親知らず。お母さまと娘さんの会話が上手く行かなくなる原因を見つけ出して、再び蟠りなく心中を語り合える関係を取り戻せるように尽力しますよ」

夫人は探偵としての一画の栄光にすっかり心酔しているようで、二つ返事で仕事を取り付けることができた。
事務所の外へ彼女を送り出すと、一画はすぐさまインターネット上の地図をタブレット上で起動。
東京23区周辺を3×3=9マスの正方形に切り分け、大体正方形の頂点と重なる座標に位置する建物や店舗、交差点や道路、そして千寿野家のお嬢様を脳内に思い浮かべる。

一画方を発動。
地図上の位置座標と重なる値の変数を千寿野娘にも適用。

どの小正方形内に対象がいるのか割り出したなら、その正方形をまた9分割、さらに座標を割り出して9分割、という作業を繰り返して5分。

詳細位置確定、準備は完了した。

ここしばらくは悪天候が続いており、今日もやはり雨が降り続いている。
黒いベストの上に、ダークオレンジのレインコートを重ね、事務所一階の駐車場へ向かう。
一画は白いコンテに乗り込み、目的地を入力した。

一画方が描いた脳内カーナビと実物のカーナビの内容を合成し、15分程度で目的地へは到着する。

JR秋葉原駅電気街口からメロンブックス方向へ進んだ先の路地裏に、目標人物はいた。
傘もささずに身なりの良い学生服の女子が、あっちこっちとふらついている。
あまりにも浮きすぎていることが功を奏しているのか、悪い人間に食い物にされた様子はない。

車は駐車を済ませてある。
一画は濡れ鼠へと接近し、持参した傘を差しだした。

「千寿野ツボネさんですよね? 私は端間一画、相談屋さんです。親御さんからお話を聞いて迎えに来ました」

千寿野ツボネは怪訝そうな顔をしている。
初対面の相手から急に自己紹介されたならば無理もないことだ。
傘を受け取る様子が無いので、少女が濡れないようにその場で開いて雨粒を弾く。
立ち去るという反応も見せないが、一画の正体を推し量っていると言った所か。

「相談屋ではありますけども、探偵のような仕事も受け付けていましてね。あなたのお母様から娘探しを引き受けたんですよ」
「ええと、あの……」
「はい、なんでしょう」

少女はようやく会話に反応を見せ始めた。
一画は戸惑いながらも何かを話そうとしている相手の次の言葉を待った。

「アタシにも、探してほしい人がいて……」

一画とはっきり目を合わせると、千寿野ツボネは決心した様子で言葉を続けた。

「拳条朱桃さんと、鬼姫殺人さんという人を探したいの」
「その相談、承りましょう」

一先ず、このままでは風邪を引きかねない。
少女を一画宅まで送り届け、強引にシャワーを浴びさせる。
びしょ濡れになった制服も簡単に洗い、室内で干しておく。

「……お湯をいただきました。ありがとうございます」

リビングへと湯気を立てながら現れたツボネ嬢は不服そうな顔をしていた。
その理由は大方分かる。
今彼女が着ているのは、そこそこマイナーなBL作品のイラストとセリフで埋め尽くされたTシャツなのだから。

「私の見立てに間違いはありませんね、よくお似合いですよ」
「ええ……」

適当に恰好を褒めそやすと、少女は余計に困惑した表情を浮かべる。

「これってアレじゃないの。軟禁してる相手が恥ずかしがって逃げないように裸にするとかそういう類の……ウシジマくんで見たことあるけどね」

先程まで丁寧語を使おうとしていたらしい痕跡もあったが、口調は早速学生の素の姿らしいものに戻っている。
そして彼女の邪推は一画の思惑とは全く異なっている。

「そんな軟禁だなんて。よく見て下さい私だって色違いを着ているんですから」

帰宅して着替えた一画の姿を見て少女は絶句した様子だった。
実の所これは全く知らない相手に優しくされた後に恥ずかしい服を着せられてその上ペアルックという二重の悪戯であり、反応を楽しみたいと言う以上の意図は無いのだがそれを一々説明する必要も無い。
一画にはそのような漫画趣味はないが、そういう趣味だと思い込ませるだけでもターゲットの行き場のない感情は萎んでいくのだ。
他にも一応女児アニメ柄、特撮柄、古臭いスポコン漫画柄、萌え系、デスメタルのバンドT、特に有名人のものでは無い格言Tシャツ、どこぞの学校のクラスTシャツ、各種コスプレ、その他色々を取り揃えてはいるが今回はBLTが調度いいという判断だった。

頭上に?を浮かべる少女をソファに座らせ、一画はダイニングテーブルの横に置かれた木製のチェアへと腰かける。
その膝には銀色の羽毛のシャンテクレールが収まっていた。

「先程お話しした通り、私はツボネさんの捜索を依頼されていました。その上でこちらにしばらくあなたを預かる許可も貰っています。お母様へは娘の更生目的とも聞こえるように話しましたが、実際にはあなたの悩みを聞くための措置です。家出の経緯をお話ししてくれますか」


千寿野ツボネが語る所によると、事の発端は都内の有名な女学校、姫代学園の生徒、拳条朱桃の失踪にある。
拳条朱桃は中等部三年生の魔人であり、学園内に蔓延る暴力や不正を自主的に取り締まる活動を行っていた。
学園内には風紀委員会という正式な治安組織が存在しているが、その威容に関わらず問題を起こす生徒は絶えなかったというのだから、拳条の活動にも意義はあったのだろう。
拳条自身、無許可での治安活動は校則を鑑みれば問題児側に属していたが、活動に義と利が伴っていることを見越した風紀委員会からは御目溢しされていた。
風紀委員会全体に比べれば個人の活動で解決できる問題の数はたかが知れている。
しかし個人であるがゆえに、その活動はよく目立つ。
校内の不良の一部は恨みを募らせ、彼女を罠にかけることに決めた。
実際に重大な事件が引き起こされる裏で偽の事件を引き起こし、現場への到着を遅らせ、不良への攻撃が周囲の無辜の生徒への損害も引き起こすような仕掛けを作る、悪評を流す、等々……
姑息な作戦の集積ではあったが、個人対集団での闘いとなると、集団側に軍配が上がった。
拳条は学園での居場所を失い、欠席が目立つようになった。
拳条の現状を調査し、問題があるようなら逮捕して連れ帰る役割を仰せつかったのは、高等部風紀委員会の二年生、鬼姫殺人だ。
彼女は校内で拳条に関する情報を収集して外での居場所に当たりを付けようとしたが、行き詰まった所で千寿野ツボネの証言を得る。
ツボネはかつて親友の苦境を拳条に救われた過去があり、拳条へ人一倍強い憧れを抱いていたのだと言う。
彼女は自主的に拳条の行方を追っており、秋葉原でその姿を発見していた。
生徒会長直々に強大な捜査権限を与えられた鬼姫は、ツボネと共に拳条を追った。
しかし、その鬼姫は拳条と接触したというようなメッセージをツボネに残した後に失踪。
風紀委員会への定期連絡も途絶え、行方不明扱いになっているのだそうだ。

「鬼姫さんは色々な事情で心身を削りながらも他人のために闘うことができるカッコいい人でね。後を追うばかりで直接の接触はあまりなかった拳条さん以上にアタシは憧れてたんだ」

語りを終え、懐かしむように宙を見つめるツボネ。

「なるほど、憧れの人を二人も見失ったわけですね……家出というのは、詰まる所その娘達を捜索するために出歩いていたのですか」

一画の確認に対して少女は頷いた。
ツボネ本人も彼女が探す相手も母親の危惧していたような不良では無さそうだ。

「雨の中制服であのような所を歩くのは感心しませんよ。体調にも良くないですし、夜も捜索活動を続けていたというのならば秋葉原でも物騒ですからね」
「でも我慢できなかった。拳条さんには問い詰めたいことがあるし、鬼姫さんのことは心配でね」
「もう安心なさい。私はツボネさんのことも依頼を受けて30分弱で発見した人探しのプロですよ」

この言葉にはツボネも驚いたようで、目を見開いた。

「お母さんが依頼したって言うし変なTシャツ着せられるしロクな人間じゃないかもしれないって疑ってたけど、もしかして端間さんって凄い?」
「その言葉の一部は否定しませんが自分でも優秀だとは思っていますよ。それよりも本当に親子仲悪いですね……」
「昔仲良くしてた友達と無理矢理縁を切らされてさ。その子の親の職業が理由だったかな、詳しくは知らなかったけども。その子がアタシと疎遠になってからしばらくしていっちょ前のワルになったって噂が耳に入ってきたのね。お母さんは縁を切っておいて良かったとか言って成功体験扱いだよ。それ以降も普段は日常会話もほとんどないくせに交友関係には口挟んできてばかりで嫌になっちゃう」

親子関係の不具は相当古い過去に根があるらしく、良好な関係を今から築かせるというのは中々大変そうだ。
しかし、親子の問題に第三者である一画の力を求めたというのはわずかに希望が残されているとも言えよう。
家庭外の他人の言葉ばかりを鵜呑みにして家族本人の言葉を聞かないというような事態が起きれば最悪だが、一画が時間を掛けさえすればそこのバランスは調整できる。

「ちょっと失礼」と一声を掛けるとツボネはスマートフォンを操作した。

「ネットで調べたけど有名人だったの? 端間さん。お母さんもこういう情報見て信用したんだろうね」
「お母様のように権威に弱い人にも私は優しいですから安心して下さいね。カモにするというような真似はしませんから」
「ええ~、変T着せる人が言っても信用できないよ?」

信用は、失踪者二人を見つけてからでもいいのだ。

「そうだ、端間さんには見てもらった方が良いよね。二人の写真があるんだ。拳条さんの奇抜な格好も、鬼姫さんのヤンキーみたいな恰好も、お母さんが嫌いそうな感じがするでしょ? 二人とも本当は良い人なんだけどね」

差し出されたスマートフォンの画面を覗くと、とにかく全体的に赤い女子と、目つきがキツめの女子の写真がそれぞれ表示された。
後者の写真はただ目つきが悪いというのではなく、疲労困憊の捜索の合間に撮った唯一の写真なのだとか。
ツボネも真横に映っているが、確かに揃って顔色が悪かった。

「頑張ったんですね。私がいれば何とかなるとは思いますので、もう気負う必要は無いですよ」

今日はもう遅い。
犯罪者や不審者が活発になる夜の秋葉原は予期せぬ危険に巡り合う危険があり、本格的な捜査は明日のことになるだろう。

既に一画方で二人の位置は特定しようとした、が一方は何故か一画方で捉えられないという異常事態が起きている。
用心してことにかからなければ、何者かの思惑に絡めとられかねない。

ツボネを寝かせ、一画自身も寝床の準備をする。
絶対に波乱が起きる、そのような予感を抱えながら横になり、目を瞑った。


 2.Show正義


朝の6時、シャンテクレールがけたたましい鳴き声で起床を促した。
この利口なニワトリは、前日に起床時間を伝えておけばその時間ピッタリに起こしてくれると言う世にも珍しい特性を持っていた。
本当は他にも何らかの才能を秘めている可能性があるが、一画は今の所これ以上のヒミツを解き明かせてはいない。

「おはよございます」
「おはよお」

起き出した二人は朝飯の準備を始めたが、ツボネは今になってあることに気が付いた。
昨晩、彼女は一画にシチューを御馳走になっていたが、料理した本人はコップに入れたシチュー以外の何かしら以外に飲んでいなかった。
その時は夜の食事を減らす健康法でも実践しているものかと勝手に想像していたのだが、今朝同じコップにおかしなことをしている彼女を見て、認識を改めるはめになる。
一画は、生卵と野菜ジュースとヨーグルトとオートミールと魚粉をコップの中で掻き混ぜていた。

「何やってんの……?良い大人が食べ物で遊んじゃダメじゃないかね」
「何って……朝ごはんですけど」

一瞬顔をしかめてグロテスクなゲル状のものを飲み下す一画。
ツボネは冷蔵庫の野菜で作ったサラダとコーンフレークで朝食を済ませたが、同居者の奇行を目にしてすっかり胸を悪くしてしまった。

「端間さんってマゾなの? それともまだ中二病患ってるの? やっぱり変態だったの?」
「そんな、心外ですよ。味の良し悪しの判断は付いても、美味しい食事を楽しめないだけです。楽しめないならば、適当でいいと考えていたら今の食事に近づいてしまってですね。ああ、他人に見せる者ではありませんでしたね。気分を悪くさせていたら申し訳ないです」

一画が調理したシチューは普通に美味しかったし、味覚が崩壊している訳でないのはツボネにも分かった。しかし冷蔵庫にはそれなりに食材が揃えられているというのはおかしいのではないかと問うと、料理に関する相談が近く予定されているのでそのためだと答えが返ってきた。

「えー……なんか色々と勿体ないんじゃないの」
「美味しくなくても楽な食事と言うのはそれはそれで良いものですよ」
「そうかねえ、そうだ。アタシが今日は料理作るからさ、端間さんそれ食べてよ。アタシ料理は結構得意だからさ、それなら少しは楽しめるかもしれないよ」
「好意を無碍にするわけにも行きませんし、期待して待っていましょう。冷蔵庫の中身は後で買い足すので好きに使って良いですからね。御馳走までには人探しも済ませてきますから」
「それじゃあ今日は留守番&料理版してるからさ。早く終わらせてきてね。できればあの二人にも御馳走したいな」

ツボネとシャンテクレールを家に残し、一画はコンテに乗車した。
暖房を起動すると窓が真っ白に曇った。
異常気象レベルの大寒波が接近していると天気予報では言っていたような気がする。
結露した窓を拭き取り、車を発進させる。
早朝ではあるが、尋ね人に関して何か掴んでるという知人はこんな時間から待ち合わせを要求をしてきたのだ。

車を走らせた先にあるのは、古びた喫茶店だった。
このような時間から空いている貴重な店だ。
奥のボックス席から一画を呼ぶ者がいる。
壮年の厳めしい男性。
彼は万世橋署の生活安全課に勤める興福寺という名の刑事だ。
一画は紅茶を注文すると、彼の向かいの席へ腰を下ろした。

「久しぶりだな端間さん」
「しばらくぶりです。拳条朱桃と鬼姫殺人に関する情報を共有して頂けるというお話でしたね」
「ああ、アンタが探せば絶対見つけてくれるだろうし、悪くない取引だと思っている」

一画は鬼姫殺人の位置情報が確認できないことについては伏せながらも彼から話を聞いた。
ツボネから聞きそびれていたが、鬼姫とツボネの二人は先日拳条の情報を収集する最中に興福寺と接触していたらしい。

「何日か前に大捕物があってな。ここら一体のワル達が一斉に逮捕されたんだが、そいつらは精神に重大なキズを抱えていてな。そいつらが転がってる場所を教えてくれたのが鬼姫の嬢ちゃんだったから、多分あの娘の仕業なんだろうさ。おかげで少しだけだがこの一帯の治安はよくなった気がするよ」

鬼姫は興福寺に精神崩壊した大勢の悪人に関する情報を伝えた後で姿を消した。
しかし、その現場近くから何十mも離れた地点まで、断続的な破壊痕が残されているらしい。
終点となっている路地裏とその周辺は、大都会であるにも関わらず廃村の一画のようになっているという。

恐らくそこで拳条朱桃と鬼姫殺人は血で血を洗う決闘を繰り広げた。
その日以降拳条朱桃は秋葉原で姿を現していないため、決着や勝者、敗者の末路に関しては警察も掴めていない。
その現場からあまり離れていない場所にどちらか片方はいると警察は睨んでいるが、現状新情報の発見待ちという所だ。

「現場を見に行くか?」

決闘があったと見られる地域周辺では大規模の通行止めと封鎖を行っており、現場には今、警察とその関係者以外の立ち入りが禁じられているため、興福寺と一緒でも無ければそこには近づけない。
鬼姫殺人の位置情報の消失など気になる所ではあるので、提案にはありがたく乗ることにした。

キープアウトと書かれた黄色いテープを越えて、話にあった場所へ到着する。
アスファルトは干ばつがあった地域の地面のようにひび割れ、周辺の電信柱や街灯がねじ切られている。
そしてそれらの柱は地面や周辺のビルへと上下逆さになって突き刺さっていたり、横倒しになっていた。

砕けたコンクリートやモルタルが風に攫われて塵を飛ばす。
空気が一気に悪くなったように感じられる、酷い砂ぼこりが吹き荒れる。
視界が一気に悪くなるが、興福寺はまるでそんなこと気にしていないかのように話しかけてくる。

「なあ端間さん、何かわかったかい? 探偵パワーで気付いたことがあれば教えてくれ」
「警察も検証は粗方終えているでしょうに無茶言わないで下さい」

そもそも視界が覆われている今、気付くことなど何も……
レインコートの袖口で鼻と口を押える一画の視界に何か妙なものが映りこんだ。
それは一画自身の顔である
否、鏡面である。

鏡面の向こう側から腕が伸ばされ、一画は何か深いところまで引きずり落された。


「ようこそ、端間一画さん。僕の名前は鏡助、転校生です。突然ですみませんね」

そこは、無限の深い闇が足元に広がり、頭上に細い線状の仄かな光が差し込む妙ちきりんな空間であった。

「転校生ですか、実物を見るのは初めてです」
「実物で無いならば何で見たというのですか?」
「ムーの転校生特集号とニュートンの転校生特集と学研の転校生図鑑は見たことがあります」
「ああ、ありましたねそんなものも。転校生に関する情報は市井に広まっているものだとガセネタも多いですよ」
「召喚方法に関しては定期的に変な嘘が流されますからね」
「一般人が簡単に召喚できるようであればとっくにこの世界は終わってますよ全く」

転校生談義に花を咲かせつつ、一画は空中に浮遊する鏡面に関する既視感、その正体を思い出そうと試みたが、あと少しの所で出てきそうにない。
そんな彼女を見透かしたように、鏡助は闇の奥深くを指し示した。

「僕達、完全に初めましてというわけでは無いんですよね。アレに見覚えはありませんか?」

指が示す方向、目を凝らすとそこには横たわる男性の姿がある。
暗くて顔はよく見えない、しかし、一画は遂にその正体を思い出した。

山ノ橋一人。

かつてイチと出会ったあの日に、一画が出会った魔人だ。
その身体が何故ここに?
否、あの時死体は鏡面の出現と共に一瞬で消失した。
鏡面を通してここに収納されたのだ。

「『虚堂懸鏡(きょどうけんきょう)』というのが、僕の魔人能力です。本来は鏡面の中に鏡像の世界を作り出してそこへ侵入、脱出する能力だったんですけどね。観念上完全な合わせ鏡を完成させた時、その能力は次のステージに進化しました。鏡の反射面と反射面同士を隙間が生まれないように接触した時、それでいて光が熱や他の形状のエネルギーに変化しない条件が揃った時、光は完全に停止します。時間の流れと光の速さは比例しますが、この空間においては時間が原則として流れていません。故に、通常の時間が流れる外の世界とこの空間は完全に隔絶され、どこにも存在しない場所となるのです。ここは、あらゆる観測能力を逃れ、あらゆる因果から自由な場所なのですよ」
「原理が屁理屈にしか聞こえませんがそこはスルーしておきます。あなたの目的を話して下さい。山ノ橋一人を何故ここに隔離したのですか」
「時が止まっているからですよ。厳密に言えば、山ノ橋は完全には死亡していない。しかし治療するにはすでに手遅れ。ここはそのような人々を格納するための空間です」

鏡助は一画を連れてゆっくりと下方へと向かい下降を始めた。
深い影の中、山ノ橋だけではない。
もっと多くの人々が、無数に横たえられている。
そして、その中には鬼姫殺人の姿もあった。

「山ノ橋が以前あなたに説明したことがありましたね、山ノ端一人に関する話ですよ。あれは厳密に言えば間違いです。彼が別世界から来訪した人間であるから別の原理を内包していた、という可能性は無きにしも非ずですが」

彼はこの世界における山ノ端一人の真実の一端を語った。
曰く、山ノ端一人の死と呼応して、確かに大きな歴史的事件、戦争即ちハルマゲドンは巻き起こされる。
しかしその渦中で得られる栄光は、山ノ端一人に由来するものでは無い。
山ノ端一人の死亡から一定の範囲内、期間内の殺人を死因とする死亡者数こそが、戦争勝者の掴む栄光に直結するのだ。
そして、山ノ端一人死亡から死者数カウントが行われる範囲と期間の大きさ、長さは山ノ端一人死亡直前の殺人を死因とする死者数合計に決定される。

殺人事件が連続した直後、あるいは戦争の渦中か終戦後に山ノ端一人が亡くなれば、ハルマゲドンは激化するということらしい。

そして現在、都内で大量殺人事件を引き起こして後に山ノ端一人を殺害しようと目論んでいる人間が存在する。
その者は『死神』を自称し、虎視眈々とチャンスを狙っている。
鏡助は現在殺人被害者が完全に死亡するよりも早く静止した空間へ運び、厳密には死んでいない状態を作り出すことでその動きを封じているのだと言う。
一画の暮らすこの世界は、転校生としての鏡助がその権限で組み上げた理想の世界であり、大きくバランスを崩壊させようとする『死神』に彼は手を焼いていた。

「端間さんにもどうか『死神』の狙いを阻止してもらいたいと僕は考えています」
「どうして私なんですか」
「かなり便利な能力を持っていたはずですよね、あなた。それに相談屋と言うのであれば僕の話も聞いて欲しいですしね」
「相談屋としての私に仕事を依頼したいのであれば報酬はあるんですか」
「ないよ」
「えっ」
「僕は言ってみればこの世界の神ですよ? 出会うことができただけでも光栄に思うべきでは」
「急に凄い横暴ですね……」
「『死神』の相手だけでも手一杯なのにこれ以上世界をいじってバランスを崩したくないんですよ」
「リセットしたり作り直したりしないんですか。『死神』はとりあえず排除すれば良いじゃないですか」

一画の言葉に反応して、鏡助の拳が空を殴った。
何もなかったように見えた薄闇にヒビが入り、無限深度へ向けて僅かな光を反射する欠片が落下していく。

「ここが! 今が! 僕の理想の世界なんです。僕が何度戦場で転校生の仕事に邁進したか、何度世界を作り直したか、それを知れば今のセリフは絶対に言えない筈だ!」

暗黒の中では二人の会話の他に音が存在しない。
合わせ鏡の一部が破砕した今の今であっても、響くものは何も存在しなかったのだ。
そこに、急に異物が割り込んだ。

「もー(笑)、なんかお子様みたいじゃん鏡助くんてば」

その声は、鬼姫殺人の死体(厳密には死んでない)から発されている。

「お、ビビってる? 鏡助ビビってる(煽)。そりゃそっか、こんな美人のお姉さんが部屋に入ってきたらドギマギしちゃうよなー、今身体無いんだけど(笑)」
「まさか……」

鏡助の顔から一気に血の気が引く。

「馬鹿な、召喚は行われていない筈です……」

彼は恐る恐る、確認するかのようにその者の名前を呼んだ。

「鬼姫……災禍!」
「せいか~~い(笑)、覚えててくれてお姉さん嬉しい(真剣)」

時間の止まった空間の中、無重力スペースシャトル内の水滴のように、鬼姫殺人の体表面を染める血飛沫は小球を形作っている。
まるで作り物の模型のように、血の玉は皮膚の上に浮遊している。
そしてそれを気にする様子もなく、鬼姫災禍は殺人の身体を動かすのだった。

「愛しい妹ちゃんの身体が攫われてるんだもんねえ、そりゃオイタをするやつにお仕置きしなきゃでしょ……ってのは冗談だけど、止まった時の中で動けるのもいまここに私がいるのも迷宮時計とかいうアイテムのパワーだろうね。それとさっき鏡助くん、あんたの言ったどこでもない空間って言うのが召喚の手間を免除したっぽい」
「そんな、滅茶苦茶な……」
「つーか流石にさっきのはそこの人可哀想だったわ。別にゴッドパワー振るえとまで言わないんだから誠意でもお金でも渡しなよ」
「ぐうぅ……」
「ってかこの身体借りものなんだよね? 外では時間が経過してるんでしょ? 持ち主の殺人ちゃんに返さないと延滞料金大変だからさっさとここから出してくれる? 駄目って言ったら鏡助くんと一緒の転校生パワーでこの中グチャグチャにするかも(笑)」
「帰って下さい」
「うん、じゃあ早く出して。この身体別に死なないから」

鬼姫殺人の身体が光明に包まれ、暗黒世界からその姿を消した。

「あっ私も帰して下さい。外では鬼姫さんを探してる途中でしたから今なら見つかるはずですよね」
「……分かりました。『死神』の対処をしてくれたならば、何か僕も考えておきます。なので、どうか先程伝えたことを忘れないでいてくれるとありがたいです」
「努力します」

一画の身体も光明に包まれる。


気が付くと、いつぞやの砂嵐の中に戻っていた。
鬼姫は?
近辺にいる様子はないが一画方で今は反応があった。
秋葉原周辺の地図座標で描いた正方形群、その中で、拳条朱桃と鬼姫殺人の距離がどんどん縮まっている。
予測される合流地点は、JR秋葉原電気街口北側。

走ればそう時間はかからない。
興福寺にこれから向かう場所を告げ、一画は駆けた。


 3.悪路■Bad


息が白い、空も白い、風も白い。
気が付けば空からは雪が降り始めていた。

JR秋葉原駅電気街口前。
タクシー乗り場や遊歩道の設置された広場からは人影が消えていた。
理由の一つは危機を察知した人々は遠くまで避難したから。
もう一つの理由は、逃げ遅れた者は死にかけて鏡助に連れ去られたからである。

拳条朱桃は能力で増設した細腕を歌舞伎の蜘蛛の糸、あるいはパーティー用ラッカーテープのように伸ばし、イソギンチャクのように周囲の物を絡めて引き込んだ。
細い腕は千切れやすいが、太く作るよりも小回りが利く。
朱桃自身の視界を塞ぐこともないため、正面へはこれを展開するというのが、師匠である『死神』から提案された戦術だった。

朱桃は姫代学園で、陥れられ、悪に一度は破れた。
それだけではない、彼女を陥れたメンバーの中には、朱桃とこれまで仲良くしていた数少ない友人すらも含まれていたのだ。

この事実は、既存の正義に疑問を差し挟む呼び水となったのだ。

まず、正義として戦い悪に負けた中で気付いたこと、それは悪人というものが思いのほか多く、その中には当たり前のように正義の側にいると信じていた者までもが含まれているということだ。
多数派こそが善だとは思わないが、仮に悪が多数派となった時、悪を倒すだけの正義に生き残る場所はあるだろうか。
と、言うよりも誰も言い出さないだけで、既に悪は多数派に近い組織を築いているのではないだろうか。
それならば、正義は何故生かされ続けてきたのだろう。

悪に生かされる正義、その意味を知ることができなければ、きっと朱桃は正義の意味を真に理解したとは言えないのかもしれない。

学園出奔時に抱いたのはそのような思い付きだったと思う。
そうして校外を彷徨い、悪や正義に関して考えている中で『死神』と出会った。
その人は明白な悪だったが、何よりも強かった。
朱桃は、その人物の下で真に正義を学ぶことにしたのだ。

最大径、最大長の腕を増設し、その周辺を編み込むような大量の細腕で包む。
大きく作った腕は最高速度や重量は強力だが、自らの重さに振り回されるため、コントロールには難がある。

細く編み込んだ腕で太腕を補助し軌道に修正を加える。
細腕は無理をすれば千切れるが、その時は交換するだけのことだ。
『ハンドレッドハンド』の利点である手数がこの戦術の使用時には失われるが、少数の相手を倒すつもりであれば、半端にコントロールの利かない中威力攻撃を乱発するよりもずっと勝率は高くなる。

正面には細腕触手による侵入不可領域を築き、背面から生やした太腕は領域外へも即座に攻撃が可能になっている。

『死神』の指示はここでできる限り多くの人間を殺戮することだった。

何人かは潰せたはずだが、死体は残らなかった。
死体を残せと言う指示は無かったからそこに問題はないはずだ。

問題は、今朱桃の足を止め、一般人への接近を阻んでいる二人の魔人だ。

一人はダークオレンジのレインコートを着た若い女性。
どのようにしてか、細腕領域の射程ギリギリから切り込み、腕同士を結び合わせ絡みつかせてコントロールに不具合を出して徐々に領域範囲を狭めてきている。

もう一人は数日前に殺したはずのスカジャン。
太腕の攻撃を蹴り返し、少しずつ接近を続けている。

新しく悪の下で学んだ正義は、今度こそ負けない筈だったのに。
悪であっても時に受容する、そのような正義を発見するつもりだったのに。

正義の反対はまた反対の正義、などという馬鹿らしい言葉遊びを好むような人々が、悪と正義の真の距離感を間違えさせている、と『死神』は言っていた。

正義に対抗するものは必ず正義であり、正義の反対には正義でないものは含まれていない、ということはこの世にあるものはおしなべて正義である、という論理が導き出される命題、これは正義を恐れる人々が正義の効力を弱めるために巡らせた浅知恵だ。

正義とは道だ。
価値観や生き様を主張したその後に拓かれた足跡だ。
隧道を掘り進め、直角に近い坂を登り、海を通るとしても、渡り切りさえすればそれは道だ。
あらゆる悪路は、正義を志す者の前に切り開かれる。

悪は善の反対語ではあるかもしれないが、正義の反対語ではない。
きっと悪と正義が交わる場所はあるのだ。
小罪に怯え、正義を名乗ることに怯える者達、汝らは果たして善を目指して道を切り開いているのか。
もしそのつもりもなく、ただ怯えて惑うだけなのであれば、そのような者らに正義の名を汚す権利はない。

我こそは拳条朱桃、正義を志し、悪との融和を目的とする者なり。


——拳条朱桃は戦いの最中にも組んだ腕を解かず、正義に関する独特の理論をぶちまけ続けた。

腕を絡ませ、巨腕を支えるひも状の腕をデザインナイフで刈り払い、一発芸のような銭投げで腕の隙間から本体を攻撃したり、一画は切り込み、前進を続けた。

別世界から来た自分の残した記憶、赤い腕に殺される記憶をその加害者自身の脳に多重に焼き付けることで、己の能力に対して潜在的な恐怖心を沸かせ集中力を削ぎながら、殺人は進み続けた。

あと少し、あと少しで届く。

その距離間を、拳条朱桃は譲らない。

最初に比べるとずっと近づいたはずなのに、二人がこれ以上拳条朱桃へ接近するのは困難を極めた。

朱桃は余裕を取り戻し始めている。
多腕での戦闘には体力的な疲労が少ないと言うのもあるだろう。
対する二人は全身運動を継続し続けているのだ。

「正義は! 勝つ!」

勝利を確信した朱桃、その腹部から突如として大量の血液が流出した。

訳の分からない表情を浮かべ、彼女は蹲る。
増設された腕は、すべて消滅していた。


「え、お、おい、逮捕、確保だ」

風紀委員会支給の対魔人手錠を持ち、鬼姫殺人は拳条朱桃の元へ駆け寄ると脈や瞳孔を確認した。

「まだ大丈夫だ。死んじゃいない」

朱桃の背後はツボネがいた。
彼女は血だらけの包丁を手にしている。
それは、一画の家に置かれていた包丁だ。
料理のために手にした包丁だ。

ニュースで朱桃の暴挙が放映され、彼女はこうすることを決意したのだ。

憧れの人が、失望の対象となり、あまつさえもう一人の憧れの人、自分を助けてくれようとした人を殺そうとしたのだから、こうする他は無かった。

「……正義、は」

蹲る朱桃が言葉を漏らす。
すかさず、一画は彼女の首をデザインナイフで切り裂いた。

今は死んでいなくても、やがて死ぬ出血量だ。
ツボネを殺人犯にしたくはない。

死んで喜ばれるような人間にしてはいけない。

鬼姫殺人が、一画へ組み付いた。

雪が、積もっていく。

鏡面が、現れる。

血の赤は、掻き消される。
最終更新:2022年02月28日 22:32