――これは、100年前から続く物語だ。

「……描きあがったかい、好の字」

時は大正。
とある療養所(サナトリウム)の一室を、久方ぶりの見舞客が訪れていた。
その部屋は、言われなければ療養所とわからぬ有様である。
何本もの絵筆が乱雑に転がり、床には絵具のシミが飛び散り、ベッドのシーツにはテレピン油の匂いが染みついていた。
そして、中央には大きなイーゼル。そこに掛けられた絵に、最後のサインを書き入れて――好の字と呼ばれた青年が、客の方を振り返った。

「おかげさまで、なんとか」

青年の名は、俣野好太郎。
わずか一月後、病でこの世を去ることになる画家だ。
だが、今の彼は死の影を感じさせないほど充足したような表情を浮かべていた。

「……いい絵だね」

キャンバスの中の絵を見て、見舞客の老婆――口舌院予言(くぜついんよげん)が目を細める。

「先が見える、なんてのも難儀なもんだね……
 老い先短い老婆に力を貸してくれる、立派な友達を救えやしないだなんて」

口舌院予言は、最後になるであろう作品を描き上げた好太郎のほうを悲しげに見た。

「……僕のことはいいんです。僕には過ぎた、良い人生でしたよ」

好太郎は、予言の悲しみを拭うかのように――爽やかに微笑んだ。

「それに、貴女がいてくださったから……希望が持てた。
 そして、この絵に希望を託せる。あなたが視た(・・・・・・)100年後――きっと、この絵が皆の助けになるはずですから」

100年後。
俣野好太郎最後の絵――作品No.101『あの夏の日の赤い君』をきっかけに。
渋谷を揺るがす大騒動が始まることを知る由もなかった。

~~~


二月。
業務命令で『龍殺し』に挑んだり、こだわり系殺し屋との奇妙な縁ができたり、
日々迫りくる謎の敵とバトってみたりと、師走どころか新たな年のスタートであるはずの睦月すら走り去り、気づけばもうバレンタイン商戦で大わらわの如月である。

そんな中、僕たちは渋谷の町にいた。
具体的には、緑色の看板と特徴的な手のマークでおなじみのDIYショップ、東急ハンズ渋谷店に。

僕たち。そう、複数形だ。
人数は三人。僕、鍵掛錠と、クラスメイトと……あと一名。

「やー、やっぱハンズはテンション上がるねえ」
「その意見に同意しないわけではないけれど、女子高生のセリフじゃないと思うんだ……」

クラスメイトの女友達、山乃端一人が自分の買い物カゴにアレコレと商品を詰め込む。
ラッピングセット一式に、システム手帳、多種多様なハーブティーから金属製パズルまで、エトセトラエトセトラ。

僕はというと、もう一つの顔――Vtuber『棺極ロック』の配信用の機材を新調すべく
ヘッドセットとタブレット、デジタルフォトフレームなどのちょっとした小物をカゴに入れている。

「キィちゃんもほらほら、遠慮しないでなーんでも買っちゃいなよ。
 お兄ちゃんがおごってくれるってさ!おごれる平家も久しからず!」
「僕まだ壇ノ浦で入水とかしたくないんだけど!?」
「……ん。じゃあ、これ」

キィ、と呼ばれた――便宜上、僕の『妹』ということになっている少女はというと、
物珍しそうにあちこちから無造作にモノを引っ張り出してきては僕のカゴに詰め込んでいく。

便宜上の妹。どこぞの名探偵漫画に登場するいわくありげな幼女のような肩書だが、あちらよりも事情はもっとブッ飛んでいる。

その諸事情とは、冬休み最後の日に起きた――

「鍵掛くーん、そろそろ会計しようよー」

……人の回想シーンをぶった切るなあ、山乃端さん。
まあ、ここで語るようなことではないか。

さて、今更だがなんで僕たちが渋谷の街にいるのか。
その理由は、今一つ空気を読む力に乏しい我が友人――山乃端一人のお誘いである。
といっても、デートなどでは決してない。よくある高校生の日常という奴である。

「やっほー。今度の休みヒマだったら、みんなで買い物に行こうよー」

と二月の頭にクラスの皆に呼びかけ、みんなで渋谷やら原宿やらをキャッキャとぶらつく計画を立てた彼女だったが、
その後誘いに乗った面々が、次々とインフルでダウンしたり用事が入ったりして、気づけば参加者は彼女と半ば強引に誘われた僕だけという非常に気まずい展開と相成ったのだった。
いや、気まずさを感じているのは僕だけなのだろうが……
そういう意味では、キィの存在に感謝しなくてはならないかもしれない。
キィにはキィで、随分と振り回されているのだが……。

~~~

「いやー、買った買った。やっぱアレだね、お年玉には人の金銭感覚を麻痺させる成分が含まれてるね!」
「だとしたら法律で規制されそうなものだと思うけど……僕はお年玉はちゃんと貯金してるし」
「鍵掛くんはスパチャで稼いでるじゃーん。そういや例のパトロンさんは元気なの?
 身体とかエロ自撮りとか要求されてない?相談に乗るよ?」
「妙な想像をたくましくしないで!?あとパトロンとか言わないで!?」

ハンズを出て、タピオカ屋でミルクティーを買って街を歩く。
山乃端さんはトロピカルレインボーティー(青からピンクへ色が変わるハーブティーらしい)、
キィはギガトン烏龍ミルクティー(いわゆる悪ふざけ大盛りメニューだ)を両手で抱えて無心に飲み歩いている。

「ところでさ、この近くの施設でなんか記念展?みたいなのやってるらしいね」
「ああ、なんかチラシがいっぱい貼ってあったね……俣野好太郎、だっけ」

俣野好太郎。あいにく芸術方面には明るくないので今の今まで知らなかったが
渋谷に生家があったとかで、没後100年を記念して大々的に展示をしているらしい。

「静物画では知られた人物っぽいねー」

山乃端さんが買い物袋から、そこそこ厚みのある書物を取り出す。
『俣野好太郎の世界』――この記念展に合わせて発行されたとおぼしき画集のようだった。

「画集なんか買ってたんだ……絵とか好きなの?」
「んにゃ、気づいたら買い物かごに入ってたんだよねー」
「も、もう少し計画性のある買い物をしたほうがいいのでは?」
「まあまあ、せっかくだし行ってみようよー……ってあれ、キィちゃんは?」
「ん?」

山乃端さんとの会話に夢中になっている間に、先行していたキィがいなくなっている。
その姿を再び捉えたところから、今回の面倒は始まるのだった。

~~~

東京旅行、二日目。

渋谷の人込みの中を、小走りで歩く幼い少女の姿があった。
少女の名は――山乃端一人。またの名を、アインス。

「むー、じょーちゃんも来られればよかったのになー」
「仕方なかろう、あやつにも予定があるのじゃからな」

胸ポケットに収まった赤いドレスの人物――アヴァ・シャルラッハロートが答える。
東京タワーでの未来探偵紅蠍寿司との騒動ののち、同行していた空渡丈太郎と別れてホテルにチェックインし、ホテルで早い朝食を楽しんだのち、本日の目的地へと向かうところであった。

「して、今日は何を見に行くのじゃ?」
「んーとね、またのよしたろう、って人の絵の展示会があるんだって!」
「ほう、美術館か。そういえばこちらの芸術をあまり見たことはないのう……」
「えー。あたしの絵は芸術じゃないんですかーそうですかー」

ぷく、とほほをふくらませて不満を表す一人。
それに同意するように、一人の身体のあちこちから「そうダ!」「アヴァさまひどい!」「謝ったほうがいいのデは?」とささやく声が続く。
アヴァ・シャルラッハロートが誇る『第二伏魔殿』――アヴァによって人の姿を与えられた獣たちの軍勢、その選抜精鋭部隊の皆である。

「言葉の綾じゃろうて……それに、儂が他の絵を褒めたところでお主の絵が貶められるわけでもあるまい」
「もー。乙女心がわかってないんだからー」
「そう言われてものう…… んん?」

アヴァが帽子の上から頭を掻こうとしたところで、妙な気配に気づく。

「……じー」

一人……否、アヴァら『第二伏魔殿』を興味深そうに見下ろす長身の女がいた。
流れるような黒い艶のある長髪と、メリハリのある身体つき。
十人が見れば十人が振り向くような美貌とはアンバランスな幼さを感じさせる、無垢な瞳。
そして手には、デカいバケツ……否、ギガトン烏龍ミルクティーの容器。

「あ、あの、何か用ですか?」

一人が思わず聞き返す……が、謎の美女の視線は一人の服からはみ出たアヴァ達に釘付けだ。
アヴァが思わず警戒し、胸ポケットから飛びかかろうとしたところで、遠くから声が投げかけられた。

「あっ、キィ! ダメだろ、知らない人に近づいちゃ……」
「……あ、おにーちゃん」

背後から呼びかける声に、キィと呼ばれた女性が振り向く。
その拍子に力加減を間違えたか、手にしていた器がきゅっと歪み――
ストローからタピオカもろともミルクティーが溢れ、飛びかかったアヴァを直撃したのだった。

「がぼがぼがぼっ!?」
「きんととーっ!?」

~~~

数分後。

「やー、ごめんねあたしの連れの妹ちゃんがご迷惑かけちゃったみたいで」
「……ごめんなさい」
「えっ、妹さんだったんですか!? そっちのお兄さんがその、弟さんかな、って」
「そのリアクションにはもう慣れたけど……やっぱ堪えるなあ」

キィが絡んだ小学生とその周りにいる小人たち、そして僕たち一行はハチ公前の広場にいた。
キィが危うく溺死させかけるところだった小人のリーダーらしき人物、アヴァ・シャルロットハート……あれ、ロールシャッハだっけか?

「アヴァ・シャルラッハロートじゃ」
「……なんで心を読んだかのようなタイミングでなんで名乗り直したんですか」
「目を見ればわかるわい」
「前髪で隠してて見えないと思うんですが」

ともあれ、アヴァさんはミルクティーで濡れた服を乾かしながら、スペアのドレスに着替えている。
山乃端さんと女の子――アインスちゃん、そして他の小人の皆とキィは隣に座ってお互いに和気あいあいとしゃべっている。
あそこまで女子が密集してると話題に入りづらいな……と考える僕は、もしかしたら(もしかしなくても)相当な陰キャなのかもしれない、とぼんやり思ったところで、アヴァさんの声色が少し変わる。

「……お主に一つ確認したいことがある」
「何ですか? クリーニング代はもちろん払いますけど、流石にそれクリーニング店に出して数千円ってのはヤですよ?」

着替え終わったアヴァさんに、詫びつつも冗談を返したが――
ふと彼のほうに視線を落とすと、アヴァさんは剣を抜いていた。
切っ先はもちろん、僕に向いている。

「そうではない。……お主、アインスの命を狙っておるのか?」
「は? ……いやいやいやいや、なんでですか!?」

一瞬大きな声を出しそうになったが、すんでのところでこらえる。
どう考えてもアインスちゃん本人や、山乃端さんらに聞かせていい話題ではなさそうだからだ。
幸いにも、二人は女子同士の交流に夢中でこっちには気づいていない。

「お主からは、人を殺めた者特有の気配がする。上手に隠して繕うてはおるがの。
 ……お主の考え次第では、血を見ることになろう。アインスの前で争うのは、悲しいことじゃがのう」
「……わかるもの、なんですかね。
 安心してください、あいにく僕は偶然出会った小学生を殺すほど鬼畜じゃありません。
 それに、大事なクラスメイト……山乃端さんの前で争うほどバカじゃないですよ」
「? 待て、なぜお主がアインスの名を知っておる?」
「? いや、僕は山乃端さん……え?」

剣呑な雰囲気が一転、アヴァさんも僕も困惑する。
その答えは、すぐ隣のにぎやかな声で明かされた。

「へー! 山乃端一人ちゃんって言うんだ!奇遇だねー、あたしも山乃端一人って言うんだよー」
「そうなんですか!? びっくりです……同じ顔の人は三人くらいいるって言うけど
 同姓同名(・・・・)だなんて、すごい偶然ですね!」

素敵な偶然の符合にキャッキャと喜ぶ女子二人(と、わけもわからず喜ぶキィと他の面々)を尻目に、僕たちは顔を見合わせた。
自己紹介のとき、アヴァさんが(勝手に)代わりに名乗ったので、アインスという名前を疑わなかったし本人もなぜか訂正しなかったのだが……

「え、あの子の名前、アインスちゃんじゃないんですか?」
「うむう、その理由は話せば長くなるが……問題はそこではなかろう。
 そうか、お主も『山乃端一人』を守る者、か」
「まあ、そんなところです。……何事もないと、いいんですがね」

あいにく、僕はこの素敵な出会いをあまり素直には喜べなかった。
一か月前の、望まぬ再会と新たな出会いで思い知ったことだ。
だが、アヴァ・シャルラッハロートは――不敵に微笑んでみせた。

「弱腰じゃの。何事も起こさせぬために、儂ら『第二伏魔殿』がおるのじゃ!
 この旅行を楽しい思い出でいっぱいにするために、仮に何事か起こったとしても
 それも思い出の一つにできるようにの!」
「……ふふ。見習わないとですね、そのメンタリティというかバイタリティは」

自信に溢れたアヴァさんの表情――唯我独尊と言わんばかりの笑顔に、僕も思わず微笑む。

「よーし、そんじゃ一緒に俣野好太郎展行こっかー!」
「よ、よろしくお願いしますね!」
「いこっかー」

僕とアヴァさんがあれこれやっている間に、どうやら女子三人らも打ち解けまくったらしい。
というわけで、僕ら総勢5名+『第二伏魔殿』ご一行で行こうとしたのだが――
結果として、僕たちが俣野好太郎の絵画をじっくり楽しむのは相当後のことになった。

109方面から、人々の悲鳴が響き渡る。

「……さっそく、面倒ごとが向こうから飛び込んできたみたいですね……」
「かかっ、こういうのをこちらでは『飛んで火に入る夏の虫』と言うのじゃろ?」

~~~

二月。
Bunkamura6階、ル・シネマ。
渋谷を代表する芸術のるつぼ。

どうしても見たい映画があった私は、キーラと共に姫代学園を離れてはるばる渋谷へとやってきていた。
私の命を狙う有象無象への対処のため、準備を整えている最中である。そんな中で街まで外出というのは、流石に身勝手過ぎるかとも思ったが……キーラは意外にも快諾してくれた。

「私が読書を嗜むように、一人にも趣味を楽しむ権利はあるわ。
 命を狙われていることは、趣味を放棄する理由にはならないのだから」

読書家であり愛煙家であるキーラにとって、映画館という空間が少なからず我慢を強いる空間であることを思えば、私の我が儘は相当に重いものだ。それでも、キーラは私を尊重してくれている。

『偶然』をテーマにした、オムニバス形式の群像劇。
今の私が置かれている状況、必然的な戦いに巻き込まれる流れとは正反対に、様々な老若男女が出会い、別れ、そして影響を与え合う。
蝶の羽ばたきのように出来事が収束していく結末は、人を選ぶところはあるかもしれない。
けれども、私はもちろんのこと、活字派のキーラすら唸らせ、心を揺さぶらせたという事実がその映画の素晴らしさを端的に物語っていると思う。

「さて、映画一本見て終わり、じゃ流石に寂しい遠出だと思わない、キーラ?」
「そうね、せっかく芸術の総合施設まで足を運んだのだから……
 美術鑑賞というのも悪くはないかもしれないわね」

キーラの表情も、心なしか安らいでいる。それは安堵と、自信からきているのかもしれない。

私は知っている。この映画鑑賞の下準備として、ブルマニアンさんとの連携で
渋谷近辺から脅威の目を徹底的に逸らしにかかったことを。
その結果、敵の襲来がないと言い切れるからこそ――映画を楽しむ余裕を捻出できたのだと。

だから私も、キーラ達の好意に甘え、報いるつもりでいた。
芸術鑑賞が終わったら、少し早いバレンタインプレゼントを選んで送ろう、と。

だが、そんな私の思い付きは木っ端みじんに砕かれることになる。

目的のフロアに到着し、エレベーターの扉が開くと同時に……
人がなだれ込んでくる。その人たちの中には、あちこちから血を流している者がいた。

「! ち、ちょっと押さないで!」

キーラがとっさに私を引き寄せ、群衆から遮る。
エレベーターのブザーが鳴り響く中。
人込みとキーラの背中の向こうに、明らかに絵の具ではない紅が床や壁面に散っているのを見た。

俣野好太郎作品No.101『あの夏の日の赤い君』。
渋谷を混乱に陥れた切り裂き魔事件の犯人が、私たちが見に行こうとした絵画であることを知るのは――
すべてが終わったあとだった。


~~~

渋谷駅前。

「ペーラペラペラ、今日は絶好の悪事日和だなあ!」
「悪事日和ってどんな天気ですか……」

仙道ソウスケとの一件から、数日後。
私、山乃端一人はというと……飼い怪人ことウスッペラードさん、そして『兄』の山乃端零人と共に渋谷に来ていた。
先日の一件以来、代わる代わる『味方』の人たちに守られながら生活をしていたのだが、流石に気が塞ぎ気味になってきていた。
乙女のプライバシーも最低限は守られていたが、最低限というのは満足という意味ではないのだ。
そこで、兄とウスッペラードさん同伴という条件のもと、久々に街に繰り出すことを許されたのだった。

「さあ、今日はこれから何をする? 
 わるいことの代表格と言えば……ゲーセンで台パンしながら格ゲーでもやるか?」
「マナーが悪いだけじゃないか。妹にあまり変なことを吹き込まないでくれ」
「ペーラペラペラペラ! 過保護すぎると世間知らずになっちまうぜ?
 音ゲーやってる奴に振り向かれて舌打ちされるくらいの経験はしとくもんだ!」
「絶対にされなくていい経験だと思います……」

ウスッペラードさんの、相変わらずどこか薄っぺらい提案に呆れていると、突然どこかから悲鳴が聞こえてきた。
人の波の流れが加速し、広場へと混乱が伝播する。

「んん? ……おいお嬢ちゃん、お兄さんのそばから離れるな」
「え?」

やがて、混乱の出所から人の姿がモーゼの海割りのごとくに離れ――きゃははははは、と女性の高笑いが響く。
その声の主は――返り血をところどころに浴びた、白い通り魔だった。

「まだだわまだよ、まだまだぜんぜん赤くないわ!
 もっともっと赤くなくっちゃ!だって私は『赤い君』だもの!」

くるくると踊るように、逃げ惑う人々を手にしたナイフで切り付けていく通り魔らしき人物。
その表情は、笑っているようにも、困っているようにも、焦っているようにも見えた。

逃げ遅れた男性が、腕を切られて倒れ込む。
飛び散った血のしぶきが、女の服を、肌を朱に染めていく。

「やったわ、また少し赤くなれたのだわ!
 でもまだね、まだまだだわ」

倒れ込んだ男に見向きもせず、今度は腰を抜かした老婆へと向かう――

だが、そこに割って入る影があった。

「おおっと、そこまでだお嬢さん!
 アンタの悪事は見事なもんだ、しかし日本じゃ二番目だ」

(相変わらず、セリフが妙に薄っぺらいなあ……)

ウスッペラードさんが、白い通り魔の女性の前に立ちはだかり――ペストマスクの嘴を展開する。
突っ込んできていた通り魔はあっさりと飲み込まれ、紙となって吐き出された。
初めての出会いのリフレイン……とは、ならなかった。

「そんじゃあとは折って畳んで…… のわあ!?」

ウスッペラードさんが紙を拾い上げようとした矢先、紙からナイフを持った腕が突き出てきた。
そしてそのまま頭が、身体が、全身が。
何事もなかったかのように、飛び出てきたのだった。

「びっくりしたわ、びっくりしたのよ。
 額縁もないのに絵になるなんて、こんなの初めてなのだわ!
 ああでもどうしましょう、また白くなってしまったわ!」

きゃあきゃあと騒ぐ女性、その衣服は彼女の言う通り――シミ一つない、白一色だった。
あちこちに飛び散っていた返り血は、きれいさっぱり消えている。

「また赤くならなくちゃ、ああもうなんでこうなるのかしら!」
「ウソだろなんで出てこられるんだ!? アンタ一体何者だ!?」

ウスッペラードさんも、まさか紙から自力で飛び出して戻れる相手がいるとは思っていなかったのだろう。
通り魔の女性ともども、混乱に巻き込まれていた。

「あら、私かしら?私は作品No.101、『あの夏の日の赤い君』なのよ!」
「いや白いじゃねーか!」
「そうよそうなのそうなのよ、私ってば真っ白なの!
 だから赤くならなくちゃいけないのよ!だって赤い君なんですから!」
「微妙に会話が通じてそうで通じてな  あっぶな!」

会話だけ聞いていると頭が痛くなりそうな漫才めいた光景だが、その間にも女性はウスッペラードさんに斬りかかっていた。
ウスッペラードさんもとっさに戦闘員の皆さんを吐き出して、臨戦態勢に移る。

「ええい上様がこんなところにおられるはずがない!切り捨ててしまえぃ!」
「イーッ!」「イーッ!」「イーッ!」「いやそれ時代劇のセリフですよ?」
「あらあらすごいわ不思議だわ、私みたいだわ。
 せっかくだから赤くしたいわ、そのほうが美しいわ!」

女性が振り回すナイフを自慢のペーパーナイフでさばきながら、ウスッペラードさんたちが移動する。
注意を引き付けてくれているのだろう。

「で、どうしますこれから!」「人込みから引き離すんスか!」
「すまん、ノーペランだ!もとい、ノープランだ!あとは任せた!」
「そんな無茶な!」「いつものことだ!」「あっ女が逃げるぞ!」

……違ったようだ。
ともあれ、残った戦闘員Aさんと兄とともに、反対方向に逃げることにした。

そんな中、広場に一人残っている銀髪の男の子を見かけた。
……逃げ遅れたにしては、なんかぶつぶつ言っているようだったけど……構ってる暇はない。

~~~

明らかに美術展どころじゃない事態が発生している光景を目撃した。

朝の特撮にもよく出てるペストマスクの怪人、ウスッペラードが女を丸飲みにしたかと思った矢先――
その女が紙から飛び出て怪人に襲い掛かっていた。……通り魔か何か、だろうか。

ともあれ、対処できるものなら対処しておきたい。
だがそのためには――まずは山乃端さんたちを逃がすのが先だ。

「アインス、お主は安全なところへ逃げるのじゃ!よいな?」
「キィ、山乃端さんと……一人ちゃんを頼む!」

キィが「ん」と頷くと、山乃端さんと一人ちゃんの手を握る。
だが……アインス、いや一人ちゃんが逃げるのも忘れて何か伝えようとする。

「待って、きんとと。……なんだか、あの女の人……きんととに似てなかった?」
「んん?何を言う、儂のほうが格好良いに決まっておろう」
「んー、論点はそこじゃないと思うけどねー。
 でも確かにアヴァさんそっくりだったよね、服の色以外は」

反論するアヴァさんに対し、山乃端さんも一人ちゃんに同意する。
そして僕も同意見だ――偶然だ、と片付けるにはあまりにも色々と重なりすぎている。

「そういやさっきあの人、『あの夏の日の赤い君』とか言ってたよね。
 確かそれって、今から見に行こうとした絵のタイトルだったような……あ」

山乃端さんが、答えながら気づいたようだった。

「赤い服を着てたら、それこそアヴァさんそっくりってことだよね?
 ……アヴァさん、絵のモデルになった記憶は?」
「アインスに赤いぐじゅぐじゅで描かれた記憶ならあるが、
 こっちで絵のモデルになんぞなったことはないわ。
 なにより儂がこっちに来たのは、12年ほど前じゃ。100年も経ってはおらぬ」

なら、本人ということはないか……じゃあ、この妙な符合はなんなんだ?

「ひょっとしたらこの画集になんかヒントがあるかもねー」

と、山乃端さんが例の画集を皆に見えるようにして開く。

そして、そこに掲載された作品の写真を見たアヴァさんが、驚きの声をあげる。
不遜な表情が、驚愕に彩られる。

「な―― 馬鹿な!こ、このサインは……」
「んー?俣野さんの作品にはみんな入ってるサインっぽいけど?」

山乃端さんの呑気な返事を意に介さず、アヴァさんは目を見開いていた。

「確かに”マタノヨシタロウ”と書いておるわ――儂の世界の文字で(・・・・・・・・)
「え、きんととも読めるの(・・・・・・・・・)?」

アヴァさんの驚きの次は、一人ちゃんの戸惑いだった。
まだ幼さの残る疑問の声を聞いた瞬間、アヴァさんの表情がさらに凍り付く。

「――アインス、まさか――いや。
 ……ともかく、お主らは早く離れるがよい! 頼む、キィとやら!
 先程の無礼は不問に付す、早く安全な場所へ連れていくのじゃ!」
「……ん、わかった」

アヴァさんが取り繕うようにキィに命じると、キィが二人の手を引っ張っていった。
一人ちゃんはどこかうろたえながらも、山乃端さんらと共に広場を後にした。

「……アヴァさん、聞かせてくれませんか?
 貴方があそこまであからさまに狼狽した理由を」
「……初めて会うたお主にさえバレてしまうか。やむを得ん。
 あの絵の描き主に、心当たりがあっての――」

そして、アヴァさんが語ってくれたのは――彼がこの地を訪れるよりも、もっと前の物語だった。

~~~

それは『伏魔殿』が、まだ『円卓列強』と本格的な交戦状態に入る前のことじゃったかの。
儂が領地の外れの森を、気まぐれに見回っていたときのことじゃった。

「んん? こりゃお主、誰の断りを得てここに居る?」
「ああ、申し訳ありません。私、旅の画家でして――」

柔和な笑みを浮かべる青年は、この地を統べる超越者を前に、媚びるでも侮るでもなく、自然体のまま絵を描き続けておった。
描かれていたのは、何の変哲もない岩じゃったが――

「ふむ。なかなか良い絵じゃの。愛い!気に入った!」

儂はこの絵を、そして風変わりな画家をいたく気に入っての。
儂の専属画家に取り立てようと話を持ち掛けたのじゃ。

だが、『伏魔殿』の主たる儂の誘いを、やんわりと断りおった。

「僕は気の向くまま絵を描くのが性に合ってますから、お気持ちだけ頂きます」

普段なら不敬者として、斬って捨てるところじゃが――この時ばかりはなぜか腹も立てる気にならなんだ。
どころか、面白い奴よとますます気に入ってな。

会うごとに、他愛のない会話を繰り広げていったのじゃ。

「ほれ、食事の差し入れじゃ」
「ありがとうございます。久々に草以外の食事にありつけます」
「……寝食を忘れるのもほどほどにするのじゃぞ、この辺りは魔獣もうろつくのじゃから」


「今度の絵はなんじゃ?」
「あそこに見える朽ちた館です。でも、どこか力強さを感じるんですよね」
「そりゃそうじゃ、なにしろありゃ儂の別荘じゃからの」
「も、申し訳ありません……」
「良い良い、もう何年も使っとらんかったからの。折角じゃし久々に行ってみるか」


「そういえば、お主の絵は静物画ばかりじゃのう」
「ええ、人を描くのは……ちょっと苦手で」
「人嫌い、というわけでもなかろ。こうして儂と話せておるのじゃから」
「そうですね……折角ですから、今描いている絵が仕上がったら
 アヴァ様を描かせていただいてもよろしいでしょうか」
「お、ようやく儂の肖像を描く気になったか?愛い!」
「ふふ、楽しみにしていてください」


「ところでお主、家族はおらんのか?」
「いることにはいますが……勘当も同然の身の上です。
 一族代々騎士の家系のはみ出し者、って奴ですよ」
「そうか……いらんことを聞いたの、すまぬ」
「いえいえ。お気になさらず。
 ただ、年の離れた妹のことだけが気がかりです……」
「ほう……して、妹の名は」
「アインス、と言います」


そして、ある日。
あやつは――いなくなってしもうた。
描きかけの儂の肖像画を残して、忽然とな。

肖像画の周りには、絵筆やら荷物やらが散乱しておった――血痕とともにな。
儂は『伏魔殿』総出で行方を探したが、骨一つ見つからなんだ。

この時ばかりは、儂も己を悔いた。
なぜもっと強引にでも、儂の元に連れ込まなかったのか、とな。

じゃから――せめてあやつの妹のことは気にかけてやろうと思ったのじゃ。
それが敵であっても、の。

それが、儂があやつに――ヌルにできる、せめてもの餞じゃとな。

~~~

「う゛お゛お゛お゛お゛お゛~~~~~ん! がんどう゛じだあ゛あ゛あ゛あ゛~~~~~!!!!」

アヴァの昔語りに割り込むように、言葉のわりに軽薄さしか感じない泣き声が響く。

ウスッペラードが、完全にこちらの話を盗み聞きしていた。

「なあ、こやつ斬っても良いかの?ちょっとイラッとしたぞ儂」
「いいんじゃないですかね。やられ役の怪人だし」
「ちょちょちょちょ、待って待って!?
 こんな広場の真ん中で身の上話始めるほうが悪いと思うなー?」

悪びれる様子もなく、というか自分で通り魔に絡んでおいて
あとを部下任せにして盗み聞きして勝手に泣きわめくあたりタチが悪いと思うんだけどな……

「で、つまりアレか。
 そのヌルとか言うにーちゃんの生まれ変わり的なアレがアレして、
 その俣野好太郎って画家になったわけだな。俺は詳しいんだ」
「お主が言うと妙に重みがなくなるんじゃが……おそらくは、そうなのじゃろう。
 因業の女神殿の気まぐれで、この世界の過去に飛ばされたのじゃろうな」
「……だから、アヴァさんにそっくりなのか。
 かつての記憶の中の肖像だから(・・・・・・・・・・・・・・)……」

『あの夏の日の赤い君』の謎が一つ明らかになった……のは良いのだが。
それがあの絵が暴れていることにどうつながるのかはピンと来なかった。

「儂らも向かうとするかの。これ以上儂の顔で暴れられてはたまらぬからのう……
 ……もう猫をかぶらんでもええぞ、鍵掛とやら」
「猫をかぶったつもりはありませんけど……
 ここからは罠師(トラッパー)全開でいけるのは確かですね」
「よーし、あとは任せた!」
「お前「貴様も来い」」

山乃端さんたちが離れたことを確認して――『あの夏の日の赤い君』が走り去った方へと、俺たちは向かった。

~~~

さて、ここで俣野好太郎について――僕について、語るべきだろう。
僕の数奇にして、波乱の運命と出会いと最期について。

僕がまだ、俣野好太郎という名前ではなかった頃――ヌル、という名前の頃。
僕は『円卓列強』の騎士の一族に生まれながら、剣の才覚に恵まれず
引き換えに絵の才能に恵まれた、一族の変わり種として、半ば疎まれていた。

絵を嗜みにするくらいであれば、親族もうるさくは言わなかったのだろうけれど、
生業にしたいと決意を固めたことが良くなかったらしい。
両親、そして幼い妹は僕の味方をしてくれたけれど、そのせいで大好きな家族の皆が責められることが、僕には耐えられなかった。
だから僕は、数点の絵を残して実家を遠く離れ、放浪しながら気ままに絵を描く道を選んだ。

そして僕はアヴァ様と出会い――アヴァ様の肖像を仕上げるまさにその直前で、魔獣に襲われたのだった。
千切られた腕を横目に、冷たくなる身体で――僕は、すがるように祈った。
『どうか、アヴァ様の肖像を描き上げさせてほしい』と。

因業の女神の生あくびが、聞こえたような気がした瞬間――僕は意識を失った。
そして、この世界で時を遡ること、100余年前。
僕は俣野好太郎として、この世界に生を受けたのであった。

因業の女神の気まぐれもあって、僕が記憶を取り戻すまでには相当の時間が流れた。
それでも、無意識のうちに――かつての世界の言葉で、己の名をサインするようになっていった。
そしてこれも、願いの影響だったのかはわからないけれど……静物画以外に、筆が動かないという悪癖も抱えてしまっていた。

画壇デビューから、売れない時期が続く。
街角で出会った占い師の老婆、口舌院予言と交流を持ったのはそのころだった。

予言さんは、不特定のある日時の未来を垣間見るという『ありふれた未来視(フェアリーフォーチュンテイル)』なる魔人能力を持っていた。
手をつなげば、その相手にも未来の光景が見える――この力を占いに活用し、悩める人々を救っていたのだった。
そんな彼女と触れ合ううち、僕もまた魔人として開花し、互いによく話すようになった。
年のころは孫と祖母ほどの開きがあったが、対等な立場としてお互いを尊敬しあっていた。

たまに僕が習作として書いた酒瓶を、飛び出す絵画(トリックアート)で取り出しては
ささやかな酒盛りをして、夜が明けるまで話に花を咲かせることもあった。

そんなある日のことだった。
予言さんが、真っ青な顔をして――僕に、一つの未来を見せた。

100年後。僕たちの時代では考えられないほどの建造物が立ち並ぶ中で――
巨大な赤い影が、街を破壊しつくす姿を見た。街だけではない。人もだ。

そして、その中に――僕の見知った顔があった。

アヴァ・シャルラッハロート。
『伏魔殿』の主が、無残に敗れ去り――事切れている姿を。

その瞬間、僕はようやく思い出したのだった。
もう一つの人生、ヌルとして生きたあの日のことを。
そして、まだ叶っていない約束を。

それだけではなかった。
アヴァ様のそばで、同じく命を落とした少女が――アインスだということを、無意識に感じ取っていた。
顔も姿もまったく別人のはずなのに、確信があった。

「……すまないね、嫌なものを見せちまった。
 だが――あんたが思い出してくれたから、未来を少しばかりだがいじれるかもしれない」

予言さんもまた、己の遠い子孫が同じくこの地で死を迎える場面を見ていた。
そのために、僕の力が必要なのだ、と語ってくれた。

「100年後、彼らに伝えるために――どうか、力を貸しておくれ、好の字や」

僕は友人の頼みを快諾すると共に、かつての約束を果たすために筆をとった。
だが、その時すでに――僕の身体は、病魔に侵されていた。

俣野好太郎の生涯で唯一にして最後の人物画となるであろう、
アヴァ・シャルラットロートの肖像画。
彼と初めて出会った夏の日を思い出しながら、必死に、懸命に描いた。

僕がアヴァ様と会うことは、きっともうないのだろう。
でも、この絵がアヴァ様の目に留まったならば。
きっと、彼には伝わるはずだ――僕は約束を果たしたのだ、と。

そして、願わくば。
この肖像が、皆の危機を救うことを――そして、愛されることを。

~~~

俣野好太郎の想いを乗せた作品、『あの夏の日の赤い君』は。
100年後の未来へと向けて、眠り続けた。
その過程で、本来のアヴァとは異なる人格を得たことは、予言ですら視えていなかった。

『あの夏の日の赤い君』(アヴァ・シャルラッハロート)として描かれた肖像の人物のドレスは――純白であった。

(なぜかしら。なぜ私は赤くないのかしら)

託された想いは、曲解され、ねじれてしまう。

(そうだわ、赤くならなくっちゃ。でもどうすればいいのかしら?)

飛び出す絵画(トリックアート)で生み出された彼女には、脳がない。血液もない。
だから、人間を無意識下で羨んだ。

(そうだわ、ヨシタロウも口から赤いものを出していたわ。
 人間の中には赤が詰まっているに違いないのだわ!)

もし、俣野好太郎が病床での執筆作業をしていなければ、彼女はこんな不幸な思い違いをせずに済んだのかもしれない。
人と相容れなくなるであろう、狂気の発想――返り血で紅く染まろう、などと。

~~~

「んもう、嫌よ嫌だわ、困ったわ。
 貴方たち、そろそろ私を染めてくれないかしら?」

俺たちが後を追って駆け付けたときには――戦闘員三人はすでにヘロヘロだった。
無理もない、相手は女性(?)とはいえ、刃物持ち相手に徒手空拳では三人がかりでも大変だろう。

「ヒャッハァーッ! 染まりたいんならテメエの血で染まりなァ~~~~ッ!」

ウスッペラードがバトンタッチと言わんばかりに、デカいペーパーナイフを二刀流で構えて斬りかかる。
ざん、と『赤い君』の右手首がナイフごと切り落とされて飛んでいく――

さく、とナイフがウスッペラードの脳天に突き刺さった。

「あ痛ああぁぁぁぁぁ!?」

無造作にナイフを抜いて、傷口に触手で器用にツバをつけるウスッペラード。いやそんなんで治るのか?
というか普通即死しそうな部位にナイフ刺さってたけど!?

いや、薄っぺらなアホのことはどうでもいい。
『赤い君』はといえば――血の一滴すら流していない。
手首の断面はのっぺりと、絵の具を固めたように滑らかな肌色をしていた。

「あらあらあら、大変だわ大変よ。
 手首がどこか行っちゃったわ、早く直さなきゃ!」

言うが早いか、切り落とされた手首には見向きもせず――『赤い君』は近くの喫茶店へと逃げ込んだ。
まずい、喫茶店ということは客が狙われる!

急いで店に飛び込んだが、幸いにも喫茶店は無人だった。
どうやら騒ぎですでに皆逃げてるようだな、と安堵するのも束の間。
『赤い君』の姿も見当たらない――

「しゃがめ!」

俺の胸ポケットに場所を移したアヴァがいきなり命令する。
とっさに反応した俺の頭上を、デカい花瓶が通過して、店先の道路に叩きつけられて割れた。

「あら避けられちゃったわ、やっぱり切らなきゃダメかしら?」

声のした方を見ると、店に飾られた絵から上半身を突き出した『赤い君』がいた。
その両手はなんともない――

「成程、絵の中のものを取り出せるのじゃな。
 おまけに、絵に潜れば己の負傷や汚れも元通り、とな。なかなかに厄介じゃの」
「しかも、おそらく肉体は全部絵の具製っぽいですね。
 全部溶かすとか燃やすとかすりゃ勝ち目はありそうですが」
「論外じゃ。ヌルの奴がこの世に転生してまで遺した絵じゃ、できることなら
 穏便に絵に戻ってもらいたいものじゃがな……」

今回も面倒な付帯条件がついた。撃破するだけなら地雷なり何なりいくらでもやりようがあるが、
あの絵の由来を聞いてしまうと、どうにか戻してやりたいとは思ってしまう――

そんなことをボンヤリ考えていたのが良くなかった。
『赤い君』は俺たちの脇をすり抜け、また街中へと舞い戻ってしまった。

「くっ、絵に潜り込める奴をどうにかするなんて……ん?」

自分で口に出してみて、何か引っかかった。
だが、その疑問の答えを形にする前に――異変がさらに続く。

『アヴァさま! た、タいへんでス!』
『とりがたくさン、みんなをおそってイます!』

アヴァの胸元から通信の声が響くと同時に。
大量の鳥が、突如渋谷の空に現れた――

~~~

「はぁっ、はぁっ……」

息を切らせながら、私とキーラは渋谷の街を走る。
キーラがとっさにパイプを燻らせ、煙を吐く。
刹那、煙は炎へと転じ――突っ込んでくる鴉の群れを怯ませた。
もし、ブルマニアンさんが路上喫煙を見ていたら咎めただろうか。

東京都内にいる鴉の数がどのくらいか、数えたことはないけれど。
少なくとも、渋谷の街を埋め尽くすことはないはずだ。

「映画も良いものだ、と思ったけれど撤回しようかしら。
 少なくとも、もうヒッチコック映画を見る気はしなくなったわね」

実体験と創作物を混同するのは良くないわよ、と言おうと思ったけれどそんな余裕はなかった。
炎で追い払う端から、鳥たちは空を舞いながら人々のもとへと群れていく。
そんな中、新たな鳥の一団が通りすがった女性たちを襲っていた。
小学生と思しき子供に、私達と同じ年頃の女性が二人。
そのうち、長身の女性が鳥を追い払っているが……焼け石に水といったところだろう。

「……無益な殺生をする気はなかったけど、やむを得ないわね」

キーラが、深く息を吸う。パイプの中の古書が熾り、煙を噴き出す。
煙が一段と勢いを増し、鳥の群れを包むと同時に――獄炎と化した。

羽根ごと鳥が焼ける匂いが、辺りに充満――しなかった。
どちらかというと塗料を燃やしたような不快な化学臭と共に、鳥が骨一つ残さず焼け落ちた。
待て待て、我が友人の炎はそこまで容赦のない炎ではないはずだ。地獄の釜の火の番(ウコバク)でもあるまいし。

しかし炎の効果は抜群と見えて、鳥たちはさあっと飛び去って行く。
いずれまた舞い戻ってきそうだけれど、少なくとも今は安全な隙間の時間が生まれたようだった。

キーラが私のほうを振り返り、心配そうに見つめる。

「一人、大丈夫?怪我はない?」
「あっはい、大丈夫ですけど……ん?」

その返事は私の予想外のところから放たれた。
さきほど助けた女性が近づいて、お礼を言いに来ていたのだろう。
……ではなぜ、私に問うたキーラの質問に、返事をしたのか?

「あっ、もしかして貴方も山乃端一人、って名前だったりして?
 いやいやまさかー、二度あることは三度ウィッチマンって言うしそんなことないかー」
「二度あることは三度ある、なら起きているのよ?」

からからと笑う女性に、キーラがどこか冷めたようにツッコむ。
内心、私も頭を抱えそうになってしまった。

同姓同名(やまのはひとり)と、ここで出くわすとは思ってもみなかった。
いや――想像力が足りていなかったのだろう。一週間前に、脅威への対策を練った際にも言っていたではないか。
『同姓同名の女性がごまんといるから手が回り切らない』と。
ならば、街歩きをすれば偶然に出くわさない保証などないのだ、と。

そして、二度あることは三度ある、という諺を引き合いに出したということは。

「……そちらの方も、山乃端一人というわけね?」

キーラが、ため息をつきながら鳥を果敢に追い払った女性のほうを見た。

「? キィ、ちがう。キィはキィ」
「あ、ごめんなさい、山乃端一人は私です」
「やー、一人ちゃんが謝ることじゃないって。間違うほうが悪いよ、ぷんぷん」
「……同じ名前でもここまで違う人間とはね」

山乃端さん(自分の同姓同名に敬称をつけるのは妙にこそばゆいが、そう呼ぶ他ないだろう)のどこか抜けた反応にキーラがますますため息をつく。
なまじ手助けをしたばかりに、突き放すわけにもいかなくなった――されど固まっていれば余計なとばっちりを食う公算は高まっていく。

どうしたものか、と悩んでいた矢先。
またしても鴉の群れが路地裏から飛び出してくる。

飛んできた鴉の群れに、思わず防御行動を取るが――
その前に鴉たちが燃え尽きていった。

「……どうやらいたようね、この騒ぎの元凶が」

キーラが冷たく呟く。
その視線の先、路地裏に隠れるようにして――
ペストマスクをつけた不審な人物(・・・・・・・・・・・・・・・)が、走り去っていった。

~~~

「ぺぺぺぺ、次から次にどうなってんだこりゃ?」

ペストマスク姿の怪人――ウスッペラードは、ドタマの負傷から立ち直った矢先に起きた
スリラー映画顔負けの事態に困惑しつつも、向かってくる鳥たちを飲み込んでは次々に紙に変えていく。
嘴を大きく開き、あるいは両手を解き放ち――さながら食虫植物だな。

「……んん? こいつら、本物じゃない……?」

むぐむぐと、咀嚼しながらウスッペラードが首を傾げた。
本物じゃない、ということは――

「『赤い君』が、絵から取り出したのかもしれぬな。
 流石にこの無数の鳥まで元に戻す余裕はなさそうじゃの……」

マジか。つくづくあの時逃がすんじゃなかった……
責任取るためにも、俺も一肌脱ぎますか。

『TrapTripTrick』――”カスミ網”。
今や猟の手段としては禁止されてるが、緊急事態ってことで見逃してほしいね。

渋谷のビル街中に張り巡らせた網に、鳥が次々とぶつかっては絡めとられる。
そこをウスッペラードに紙にしてもらって、とりあえず鎮圧……というわけだ。

「ペーラペラペラ、流石に胃もたれしそうだぜ……」

ウスッペラードが一息ついた、その瞬間。

ウスッペラードの頭のてっぺんが炎上した。

「ギャーッ!? み、水水水ーっ!」

大慌てで紙を吐き出し、解除――大量の水を頭から浴びて、ウスッペラードが水浸しになる。
……胸ポケットのアヴァがなんかギュッと服掴んでる気がするのは気のせいか?

「見つけたわよ、エセヒッチコックさん?」

どこか怜悧さを感じる女性の声に、そちらを見やると――
パイプをふかしたべっぴんさんがお出ましと来た。

「いきなり仕掛けてくるとは、随分……って、え?」
「あれ、鍵掛くん?」

問題は……どうして逃げたはずの山乃端さんと一人ちゃんとキィが
物騒なクールビューティーについてきてるんだろうな?

「きんとと、大丈夫だった?」
「ああ、儂は平気じゃが……こりゃ、そこの女子」
「……キーラよ。何かしら、小さな方」
「そこのアホウは確かに色々鬱陶しいが、いきなり火を放つとはどういう了見じゃ」

アヴァが表情を硬くして、キーラと名乗った女性に問う。
キーラはパイプを一吸いすると、とぼけないで、と前置きして語る。

「そこのペスト男が、この鳥たちを操っていたのを追いかけてきたのよ。
 ……まさかとは思うけど、貴方たちもお仲間なのかしら?」
「まさか。通りすがりに過去話を盗み聞きされていい迷惑じゃ」
「さっきから情けない場面しか見かけてないよくわからん人です」
「ちょっとー!? いくら俺が薄っぺらくても薄情すぎない!?」

こいつと仲間だと思われるのは心底心外なのだが……しかし、引っ掛かる。

「いや待ってくれ、追いかけてきた(・・・・・・・)
 数分前からずっとここで鳥とわちゃわちゃしてたんだが……」

そうだ。ウスッペラードに俺にアヴァ、三人はずいぶん前からこの場所を離れていない(・・・・・・・・・・・)

「『赤い君』の仕業じゃろう。
 ペストマスクとか言うたが、流石に斯様な格好の奴が二人もおるまい」
「『赤い君』?」
「かいつまんで話すと、生ける絵画(リビングピクチャー)ってトコさ。
 白いドレスを着てるせいで赤くなりたがって通り魔騒ぎまで起こしてるが、な」
「! あの展示会の……そういうことだったの」

キーラにも何か思い当たる節があったのか、どうにか誤解は解けそうだった。
と安心できたのが良かったのか、やっと引っ掛かりが解消した。

「……なあ、みんな。『赤い君』、捕まえられるかもしれない」

奴が絵に潜るというのなら――その習性を逆に利用してやろう。

~~~

数分後――
すっかり人気のなくなった表参道をほっつき歩く、白いドレスの猟奇お嬢さまをようやく再発見した。

「変よ変だわ、どうして誰もいないのかしら――あら?
 貴方は見たことあるわね、貴方にしようかしらそれがいいわ!」

うわごとのように呟いて、ふらりふらりとステップを踏みながら、
のこのこ姿を見せた俺目掛けて襲い掛かってくる。オーケイ、計算通り。

「悪いけどお嬢さん、実はそこには罠が!」

『TrapTripTrick』で仕掛けた即席の罠――有機溶剤噴出トラップが発動する。
とっさにかわしたようだが、吹き付けられた溶剤で表面がわずかに溶けて動揺しているようだな?

「あらあらあら、何かしらこれは! 大変だわ、早く直さなくっちゃ」

逃げようとする道筋に、すかさずトラップを仕掛ける。
とはいえ相手もさすがにバカじゃあない、見えてるトラップをさらに踏み抜く(・・・・・・・・・・・・・・・・)なんてミスはしない。
……当然だ。わざと見えるようにして、誘導してるんだからな。

「あったわあったわ、早く入らなくっちゃ――」

そして、逃走先にあった額縁へと飛び込む――
俺が事前に仕掛けたデジタルフォトフレーム(・・・・・・・・・・・)へと!

『赤い君』が飛び込んだ瞬間、俺がスマホで即座にデジタルフォトフレームの電源をシャットダウンする。

「おーっし、捕獲完了っと……」

フレーム(がくぶち)の画面が暗転しているのを確認、待っても『赤い君』が飛び出す気配は一向にない。
流石にこれで始末できたとは思わないが、電源を入れない限りもう出ることもできないだろう。

これで絵から飛び出したアレコレも元に……


……戻ってるようには見えなかった。
相変わらずビル街に張り巡らせたカスミ網には明らかに東京にいちゃいけない鳥が多数引っ掛かっているし
あちこちでまだ鳥の鳴き声が聞こえてくる。

「どういうことじゃ! 解決しておる気配がないではないか!」

アヴァの叱咤が飛んでくるが、確かに妙だ。

「ね、ね、鍵掛くん。ちょっといい?
 ……いくらなんでも、静かすぎない?」

建物の影からついてきていた面々――口火を切ったのはまたしても山乃端さんだ。
……キーラさんの友人も山乃端一人だから、もはや誰をどう呼んでいいのかわからなくなってきたが……
だが確かに、今の今まで気になっていた。

渋谷から人気が完全に消えるなんてことがあるのか?(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
たかだかナイフを持った通り魔が暴れているだけで、ここまで人が念入りに避難するなんてことが本当に起こるのか?

そんな中――
俺たち以外に人がいない大通りを、向こうから二人の人物が走ってくる。

「!? おい、戦闘員A!それに一人ちゃん!? どうした!」

ウスッペラードが、驚いた様子で向こうから走ってくる人物に声をかける。
……おい待て、コイツも山乃端一人がらみなのか?マジで?うわあ。

「今なんか失礼なこと考えなかった? ……いやそれどころじゃない!
 零人の兄ちゃんはどうした? はぐれたのか?」

ようやく俺たちの元にたどり着いた『山乃端一人』が、怯えたようにこちらを見る。

「! ウスッペラード、さん…… じゃあアレは、誰だったの!?」

ウスッペラードと縁が深いであろう、四人目の山乃端一人は驚きに目を見開きながら叫ぶ。
「いきなりウスッペラードさんが現れて、零人さんを飲み込んじゃったんですよ……!
 そんなワケないと思いたかったけど、俺たちにも襲い掛かってきたから大急ぎで逃げてきて……
 なんとか撒いてきたところなんスよ!」

戦闘員Aが代弁するように、乱れた息で語る。
キーラが表情を険しくし、再びウスッペラードを睨みつける。

「やはり貴方……どこまで私たちを愚弄する気?」
「それは俺じゃねえっての! だとすると……俺のニセモノがいるってことか!?」

ウスッペラードが慌てたように思い付きを口走る……否。
それは思い付きなどではなかった。現実だ。

「ゲーッスッスッス! ニセモノ(・・・・)だと? 少し違うな!
 貴様の方がニセモノ(・・・・)なのだ、ウスッペラード!」

ビルの上から、生理的嫌悪感を催すような笑い声が響く。
一同がそちらを見上げると――全身赤ずくめの(・・・・・・・)ペストマスク姿の怪人がいた。

「俺の名はゲスッペラード!紙の月(ペーパー・ムーン)の精鋭たる尖兵なり!
 そこの出来損ないとはワケが違う!」

「安直な名前じゃの」とアヴァが正論を吐き、
「ネーミングセンスが皆無だわ」とキーラが毒づき、
「むしろお前の方が出来損ないっぽそう」とウスッペラードが嘲笑い、
「やられ役のオーラが染みついてるねー」と山乃端さんが呑気にこき下ろした。
……いや俺にもなんか言わせてくれよ。

「……き、貴様ら調子に乗るなーッ!これでも食らうがよいわ!」

心なしか、さっきよりも赤い顔になったゲスッペラードが
どこからか集めてきた絵画や写真、ポスターの紙束に触れた瞬間――
描かれたものたちが飛び出してくる。

「これぞ、完成形・紙造りの世界(ペーパー・ラヴ・クラフト)の力よォーッ!ゲェーッゲッゲッゲ!」
「さっきの鳥の大暴れは……コレか!」

なまじ『赤い君』が絵からモノを取り出すシーンを見ていたせいで混乱したが、元凶が別人だったらそりゃあ消えないはずだ。

「今度は鳥ではないぞ、猛獣どもが貴様らを遠慮なく貪り散らかすのだ!」

言うだけあって、今度はライオンやらトラやらサイやらキリンやら……
上野動物園をひっくり返したような百獣の群れが、表参道を埋め尽くした。

「さあ行け、ゲスッペラードアニマル軍団!」

猛獣軍団が、こちら目掛けて進撃を開始し――
3秒後、全頭が表参道のド真ん中に開いた落とし穴(・・・・)にハマって戦線離脱した。

「……あ?あれ?なんでそんなところに落とし穴 があづづづっ!?」

困惑するゲスッペラードのドタマが派手に燃え盛る。
キーラがたっぷりと煙をふかして、赤い怪人を睨みつける。
……ここまでの鬱憤がずいぶんと溜まっているようだな……。

「悪いけど、遊んであげる暇はないの。
 今すぐ灰になって燃え尽きるか、消し炭になるか選んでくださる?」

ゲスッペラードが海のポスターを吐き出して頭上にかざし、海水を取り出す。
頭を消火し終えたところで、キーラの二の矢を遮るように叫ぶ。 

「……ま、待て! それ以上俺様に手出しをするな!さもなくば……これを見ろ!」

大仰そうに、ゲスッペラードが口から新たな紙を吐き出す。
折りたたまれた紙が展開し、畳数畳分サイズにまで広がっていく。
そこには、大勢の人が描かれている――その中には、皆の見知った顔がある。
山乃端零人が、『第二伏魔殿』の者たちが、ウスッペラードの戦闘員が!

「ゲーッスゲスゲスゲスゲス!
 貴様らが混乱している隙に、この街の人間どもをこの通り紙に封じ込めさせて貰った!
 当然、この紙が破損すればコイツらの命はない!
 そして、コイツらを元に戻せるのは俺だけだ!この意味がわかるよなあ?」

ゲスッペラードの下卑た高笑いが響く。
渋谷にいた人達が――まるごと人質に取られたということになる。

「貴様らも紙に変えてやるつもりだったが……気が変わった。
 ここまでコケにされたのだ、叩きのめさねば気が済まん……!」

ゲスッペラードが広げた巨大な人質入りの紙が、折り紙のごとく畳まれ、折られ……
巨大なティラノサウルスめいた形状へと変化する。
その背中に、下半身を紙状に変えたゲスッペラードが合体する――!

「完成……ゲスッペラドン! ゲェーッスゲスゲスゲス!」

ゲスッペラドン、という気の抜けたネーミングとは対極に位置する、圧倒的暴力。
渋谷の道を埋め尽くすほどの巨体。紙でできたとは思えないほどの重量感が、地面を揺らす。
体表には、渋谷の人々が紙から出せと訴えかけるように泣き叫ぶ姿が無数に浮かんでいる。

「これで貴様らはズタボロに踏みにじられるのを待つだけの紙人形よォーッ!」

キーラの力があれば、紙製の怪獣ごとき敵ではない。
だが、それは渋谷の人々を犠牲にすることになる――!
俺の罠で足止めはできるかもしれないが、やはり紙が痛む。
アヴァの軍勢はかなりの人数が捕らえられている上に、肉弾戦しかできない。
そして、目の前の怪人が『上位互換』と名乗る以上、おそらく奴の能力をウスッペラードが破ることはできない。

ベタすぎるくらいの、ピンチってやつだ。
だが、そんな中で――

「……ペーラペラペラペラ! 笑わせる!
 悪いが俺には今、最高の策がある!」

ウスッペラードが堂に入った高笑いを披露する。
自信満々と言わんばかりの大見得。
だが、現状でここまで大口を叩くってことは、相当自信があるのだろう。

「……聞かせてくれ、この状況を打開する方法を!」
「オーケイ任せろ、こういうときはな……」

ぺっ、と紙でできた軽トラを吐き出し、さっさと助手席に乗り込むウスッペラード。
……まさか。

「ボサっとするな、早く乗れ!
 ……今から逃げながら考えるんだよ、最高の策をな!」
「ウソだろ平然とジョジョパクりやがったコイツ!」

あまりにも薄っぺらい、しかしコイツなら当然やるであろう行動と言うであろうセリフが
そのまんま飛び出てきたことに思わず心の声が漏れた。
せめてワゴンなりスポーツカーなりにしろよ!

だが、もうそんなツッコミをする気力も余裕もない。
俺たちが折り紙軽トラの荷台に乗ると同時に、運転席の戦闘員Aがアクセルを全開にして逃げ始める。
……おい待て、運転すらできねえのかアイツ?

「ゲーッゲッゲッゲッ、逃がすと思うか?」

乗り心地がお世辞にも良いとは言えない軽トラと、大怪獣とのチェイス。
追いつかれる前に、なんとかコイツを打破する方法を考えねば――!

~~~

「うぬぬ、我が配下を虜囚にするとは、万死に値するぞ……!」
アヴァが、悔しさに歯軋りを立てる。

「……つくづく嫌になるわね、あんな下衆相手に何もできないなんて」
キーラが、こちらが気の毒になりそうな程の落胆ぶりを見せる。

「んー。絵の中からひょいっと助け出す手段があればいいんだけどねえ」
山乃端さんは相変わらず楽天的に……

「……それだああああ!!!!」
思わず叫び声が漏れる。

「な、どうしたんですかお兄さん?」
一人ちゃんがびっくりしたように、残った『第二伏魔殿』の皆と共にこちらを見る。

そうだ。奴を倒さなくても――方法はある。
だが……そのためには、クリアしないといけない課題がある。
そのためには――

「なあ、運転手さん。
 途中下車、高校生1名と超越者1名、お願いできるか?」

~~~

追いかけっこから、早数十分。
渋谷の街を駆けずり回る鬼ごっこも、そろそろ限界が近づく。

事前の打ち合わせで選んだ合流地点――渋谷の大ランドマーク、109前。
最終決戦といこうじゃねえか、クソ怪獣。

ゲスッペラドンは己の優位を疑わず、いたぶるように軽トラを追う。

「ゲスゲスゲスゲ、逃げても無駄だ……のわっ!?」

ズシン、と力強く足を振り下ろしたところに、落とし穴――だが。

「小癪な! だが残念、大きさが足りてなかったようだなあ!」

言う通り、ゲスッペラドンの右足がすっぽりハマる程度の幅しかない穴だったために
動きを封じることは叶わない。踏み外した右足を落とし穴から引っこ抜き、俺の方へと向き直る。

だがまあ、仕方がない。
広く掘りすぎてその巨体が穴底に叩きつけられたりしたら――
穴の底に隠れてた奴らが、潰されかねなかったからな(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

「ん? 何だ――」

ゲスッペラドンが異変に気付くが、もう遅い。
次の瞬間、ゲスッペラドンの体表から――深紅の衣に身を包む『赤い君』が飛び出してきた。
その右手は、ナイフではなく――アヴァ・シャルラットロートの小さな手が握られ、そしてその手は『第二伏魔殿』の面々に、そして囚われた人々に次々と繋がっていた――!

~~~

さて。逃走劇の途中、俺とアヴァは密かにトラックから降りて、近くのネットカフェに来ていた。
適当な個室を借りて、買いたてホヤホヤの機材と俺のスマホをPCに接続しながら
アヴァの立ち姿をスマホで全方向から撮影する。

「よし、そんじゃやりますか」

撮影した写真データをトリミングし、3Dの服データにして『棺極ロック』の3Dモデルと共にスクショして保存。これで準備はおおむね完了。

「服だけではいかんのか?」
「比較対象を横に置いて『この服はこんくらいのデカさだ』って思わせないとダメだろうかんな」

デジタルフォトフレームの電源を入れ直す。
と同時に看板倒れのお嬢さん、『赤い君』が飛び出てくる。

「ああ、良かったわ明るいところに出られたわ!
 わたしびっくりしたのよ、いきなり暗闇になるんだもの……」

先程までの見境のなさは、どうやら今は暗転(ブラックアウト)の恐怖でだいぶ抑えつけられているようだった。
また斬りつけられるかと思ってたから、内心相当ビビってはいたんだが……

「それについてはすまなかったが……アンタ、赤くなりたいんだよな。
 ちょうどアンタにぴったりの赤い服をプレゼントできるかもしれない」
「え? え? でも何度染めても白くなるのよ?」
「ああ、外の世界でいくらやってもアンタは赤くなれない。
 だが、絵の世界なら(・・・・・・)――服を着替えることくらい、できるだろう?」

デジタルフォトフレームに、先程のスクショ画像を移して表示させ『赤い君』に見せる。

「アンタにプレゼントだ。絶対似合うはずだぜ」

なにしろ、絵のモデル本人から取った服だからな。

「あら、素敵だわ!そっちの小人さんとお揃いなのね!」
「小人て。儂のほうがオリジナルなんじゃがのう……」
「まあまあ。で、良かったら試着してみてくれないか?」

言うが早いか、『赤い君』は絵画の中に潜り込み――
次に飛び出てきたときには、アヴァとお揃いの深紅のドレスに身を包んでいた。

「ああ!ああ! すごいわ、しっくりくるのだわ!
 これが私の待ち望んだ姿だわ――!」
「かかっ、よく似合うておるわ! 『赤い君』よ!」
「馬子にも衣裳ってか?イイネイイネ、最高じゃねーか!」

赤に彩られた、超越者と肖像。二人が歓喜に満ちる中――
俺は驚愕するしかなかった。

『赤い君』の横に、もう一人。俺がよーく見知った顔の人物が立っていた。
ギザギザウルフヘアに、トラバサミ型のヘッドフォン。
ギザ歯に不敵な笑み、毒舌の煽り口調。

棺極ロック(・・・・・)が、そこにいた。

「……あの。なんで、こいつが、ここに」
「えっ? 絵の中のものは取り出してよかったのよね?」

『赤い君』の多大なる勘違いのせいというか、俺が余計な気をまわしたせいというか……
こうしてVtuber、棺極ロックが現実世界に飛び出してきたという次第である。

~~~

ゲスッペラドンから囚われた人々が一人、また一人と抜け出ていく。

「おのれ!逃がすくらいなら我が触手の餌食に……」

ゲスッペラードが触手を展開するが――そいつは悪手だぜ。

「!? な、動けん!?網だと!?」

先程のバードパニックの際にも使ったカスミ網だ――恐竜級の巨体なら力任せに引きちぎれたんだろうが、怪人の触腕程度じゃあ破れない。

「オーケイ、これで全員脱出完了!やっちゃえ野郎ども!」

棺極ロックが、最後の一人の手を掴んで逃げる。
ゲスッペラドンは色彩を失い、白紙の折り紙になり下がった。

「ぐぐぐ…… なら皆まとめて踏みつぶすまでよォーッ!」

悪あがきで、力任せに暴れようとするゲスッペラドンだったが――
つくづく忘れっぽいようだな。

人質がいなくなった、ということは。
皆が本気を出せる、ということだ。

「……踏みつぶす?それは無理ね。
 その前に、貴方が真っ白な灰になるのだから。それとも消し炭がいいかしら?」

キーラがふぅ、と紫煙を燻らせる。
刹那、ゲスッペラドンの巨体が炎に包まれていく。

「あづ熱あぢゃアアアッ!? ま、まずい、消火を――!」

ゲスッペラードがとっさに水を具現化して消火を試みる。
だが、炎は消えるどころかさらにじわりじわりと広がって紙造りの恐竜を包む。

「『クトゥルー神話小辞典』くらい読んでおきなさい。
 生ける炎(クトゥグア)が水ごときで消せるわけがないでしょう?」

「くそくそくそッ! やむを得ん、パージッ!」

ゲスッペラードが燃え盛る怪獣から分離し、再び怪人の姿に戻る。
向きを変え、完全に逃走態勢に入ろうとするが、逃げられると思うなよ?

「『シュテルクスト・カメラート』!!」
「げぶぁっ!?」

待ち構えていたアヴァ達『第二伏魔殿』の面々が、手を取り合い逃げ込んできたゲスッペラードを取り囲んで蹴り上げる。
無様にブッ飛んでいった赤い怪人は、上空のカスミ網に完全に絡めとられた。

「ぐぐ、おのれ!ならばこれで街ごと吹きとべェーッ!火気厳禁だッ!」

がぱ、と口を開いて直接紙からレトロな丸爆弾を出現させる。
導火線は間もなく尽きる……だが、心配無用。

「キィ、任せた!」
「……わかった」

キィが、爆弾を一瞥する。

キィ――かの“絶黒龍”の落とし仔たる新たなる『龍種』。
その視線が、死線となって爆弾を『殺す』。

爆弾は炸裂することなく、塵となって風に流されていった。

「あ?あ……?」

「ペーラペラペラ! ここで俺の必殺技!パート2!」

呆然とするゲスッペラードを尻目に、ウスッペラードがここぞとばかりに二振りの剣を取り出し、大仰に構えて――
アヴァになんか耳打ちしてから、剣をゲスッペラード目掛けて投げつけた。

「く、まだだ、そんな剣ごとき弾き飛ばしてくれる……!」

ゲスッペラードも、口から同じデザインの剣を取り出して構える。
剣と剣がぶつかり――合わずに、ウスッペラードの剣が突如不可解な軌道で飛び回る。

「は!? ゲギャッ!?グハッ!?」

剣がひとりでに剣舞を演じる――わけがない。
なんのことはない、『第二伏魔殿』の連中のうち、飛べる奴らが剣を支えて飛び回っているだけである。
ウスッペラード、己の見せ場のためだけにいらん手間をかけるつくづく薄っぺらい奴だな……
まあ、その薄っぺらさがゲスッペラードを自尊心もろとも切り刻んでるわけだが。

「ゲ、ゲゲ……ガ……」

全身をズタズタにされ、体中から血飛沫ならぬ紙吹雪を舞い散らせていくゲスッペラード。
そんじゃ、最後は怪人らしく散ってもらおうか。

空飛ぶ剣の運び手が離脱し、重力に従ってゲスッペラードの脳天目掛けて剣が落下する。
その剣はゲスッペラードを貫く前に、奴のペストマスクに設置された特製地雷へと激突する。
四種類目仕掛けたんでカスミ網は消えたが、誤差の範疇だ。

やっぱ怪人の最期は、爆発だよな。

「ぺ、紙の月(ペーパー・ムーン)に栄光あれェェェーーーーッ!」

こうして、渋谷の街を混乱に陥れた赤衣の怪人は、爆発四散したのだった。

~~~

さて、その後の顛末について。

『あの夏の日の赤い君』はその後、解放された人々に丁寧に頭を下げていった。
不幸中の幸いと言うべきか、負傷した者達もゲスッペラードに紙にされて元に戻る際に
傷はすっかり治ってしまったし(おそらくは『赤い君』の能力の副作用なのだろう)、助けに来てくれたことでだいぶ心証も良くなっていたようだった。

そして、この一連の事件を俣野好太郎のせいに、『赤い君』のせいにしないように――
今回の一部始終を、俺のチャンネルで流すことになった。
……というか、勝手に動画がアップロードされていた。棺極ロック(もうひとりの俺)によって。
山乃端さんやら捕まった人やらが断片的に撮影していたスマホ映像を勝手に編集して、全てがゲスッペラードの仕業に見えるようにしていた。
(一人一人から素材を借りる許可を俺が取る羽目になったのはまた別の話だ)

「やー、絵を好き放題いじくるヤバい怪人だったわー怖かったわー」

勝手なことを、とは言えなかった。
このまま『赤い君』が絵に戻れば、血を吸った呪いの絵画だのと変な尾ひれもつきかねないし、俺もたぶん似たようなことはしていただろうから。

ともあれ、紆余曲折あったが『あの夏の日の赤い君』は、元の絵へと戻っていった。
もちろん、その名にふさわしい紅い衣と共に。

俣野好太郎の作品No.101。
この上なく眩しい、超越者を思わせる佇まいの『赤い君』は、穏やかに微笑んでいた。

~~~

「ところで好の字、この絵のタイトルはどうするんだい?」
「そうですね――『あの夏の日の赤い君』、ですかね」
「『赤い君』ねえ……だったら白くちゃ締まらないんじゃあないかい?」
「いいんです。あの赤は――僕の遠い遠い情景の中にしかない、決して描けない色です」

俣野好太郎が最期に取り戻し、遺した想い。
それは100年後の未来に果たされることとなる――

「……ふふ。そうさね、それがいい」
「あ、ひょっとして……視たんですか?この絵の行く末を……」
「かかっ、見てみるかい? なかなかいい光景だよ?」
「いえ、遠慮しておきますよ。……悔いが残っちゃいそうですから」

~~~

これにて、渋谷での事件はめでたしめでたし……と言うには、少しばかりほろ苦い結果となった。

キーラ嬢と彼女の連れの山乃端一人は、事件解決後そのままふらりといなくなっていた。
キーラが最後に見せた、どこか上の空のような表情が気にかかったが――
それについては、僕たちがどうこうできる問題ではなかった。

ウスッペラードとその飼い主の山乃端一人、そして兄の零人さんは僕たちと一緒にファミレスで軽い会食をして別れていった。
ウスッペラードについては、ゲスッペラード(色違い)のせいで風評被害を受けないか心配だったが――動画の反応を見る限り、むしろヒーロー扱いのようだった。
実際の状況を見てた僕としては、すごく複雑な気分なのだが……活躍したの『第二伏魔殿・飛行部隊』だし。

そして、件の『第二伏魔殿』の主、アヴァ・シャルラットロートとそのお連れさんの一人ちゃん。
会食の場でもご一緒させてもらったのだが……『赤い君』を間近で鑑賞してからというもの、一人ちゃんの様子がおかしかった。
もっとも、それにいち早く気づいたのは山乃端さんだった。

「一人ちゃん、どったの? デザート食べる?鍵掛君のおごりだよー」
「待って、勝手におごりにされてる!?」
「……おごれる平家もひさしからず」
「キィ、それは覚えなくていい。あとしれっと追加注文をするなウスッペラード」
「ペーラペラペラ、今回の功労者をいたわるくらいしてくれたまえよ」
「いや、それを言うなら軽トラで逃げ回った私を労わってほしいですな」

会食の大賑わいの中でも、なんだか浮かない顔というか……気まずそうな雰囲気だった。
そして、それはアヴァさんも同じだった。何か、思い出してはいけないことを思い出したような居心地の悪さ。
だが、二人ともこちらに気遣わせまいとしていたので深入りするのはやめておいた。今は、まだ。
キィも『第二伏魔殿』の仲間に(いつの間にか)なっていたので、そのお礼もしたい……また機会があればいいのだけど。

そうそう、『棺極ロック』のことを忘れるところだった。
『赤い君』が元の絵に戻る前に、きちんと元のアバターに戻ってもらった。
抵抗されて面倒ごと第三幕の開幕になるかと思っていたけれど……そこは腐っても僕ということか、素直に戻ることを了承した。
ただし、去り際にこんなセリフを残していった。

『いーかげん素直になれよ、俺?』

素直に、ね。
……簡単に言ってくれるぜ、俺。

そして皆が帰路につき、山乃端さんを自宅まで送り届けるころにはもう日が暮れていた。

「やー、今日は大騒ぎだったねえ」
「大騒ぎ、で済ませていいレベルじゃないと思うけどね……色々ありすぎて疲れたよ」
「んー。そんなお疲れMVPの鍵掛くんに、プレゼントをあげようではないか」
「へ?」

山乃端さんが、買い物袋から包みを取り出す。

「はい、チョコ。一応数日後にも配るけど、一足お先に特別版」
「あ、ありがと……え、特別版……って」
「あははー、深い意味はないない。増刊号が毎月出るのと同じ理屈だよ」
「その理屈とは一緒にならないと思うんだけど」
「……じー」
「あー、ごめんねキィちゃん。それは鍵掛君にあげたものだからね。
 ラピュタに出てくるヤギみたいな顔してもダメだよー」
「……それ、トトロじゃないかな」
「あはは、ジブリ映画って時々混ざっちゃうからねー。
 ……そんじゃ、また今度学校でねー」
「ん、おやすみなさい」

……女子から義理ではないかもしれないチョコを受け取ったとき、僕はどう反応すれば良いか今一つわからなかった。


この時の僕は、まだどこか呑気に構えていたのだろう。
なんだかんだで日常を守れたのだ、と。
それが誤りだったことを痛感するのは、あの恐るべき『転校生』を前にしたときだった――

(To be continued)
最終更新:2022年03月26日 23:29