太陽の色は白か黄色か。
妙に暗い青空に浮かぶそれが赤くも眩しくもないのは確かだ。
見えるもの全てに暗い影がかかっている。
背にアスファルトや小石が刺さるのを感じながら、体を動かすこともできず、ただ空を見上げている。
私を庇うように覆いかぶさったお母さんの体が段々と冷えていく。
こめかみの辺りが不意に熱くなる。目尻から涙が零れていた。
お父さんとお母さんが死んだからか、これから私が死ぬからか。
痛いとか、怖いとか。寒いとか、悲しいとか。
それだけじゃない気もしていた。
寂しい。悔しい。
大声で喚く男の声が聞こえる。
魔人だ。
私たちを襲った魔人。
両親は億万長者と言えるほどではないけれど、間違いなく裕福ではある方で、慈善家の面もあった。
雇用拡大とか差別解消とか、そういう福祉に取り組んでいた。
支援を受けた人から感謝の手紙が家に届いたこともあったし、友人とか、学校や習い事の先生とか、ご近所さんからも「神凪さんのご両親は立派な方ね」なんて言われたりして。
社会問題の何もかもを解決できたなんて言わないけれど、魔人の人たちにとっても幾らかの助けになっていたはずだ。
襲われる理由なんてない。
彼は私の両親が何者かなんて知らないのだと思う。
知っていたのだとしたらこうはならなかった。私はそう思いたい。
実際はどうなのだろう。
魔人とか非魔人とか関係なしに人を傷つけたいという気持ちがわからない。
自己表現として理由なく力を振るうとか、自分でも制御できないとか、そういうケースもよくあると聞くけれど。
力が欲しい、みたいな妄想をする人が魔人になりやすいとか。
そういう人は最初から誰かを傷つけるつもりで魔人になるのかな。
私だったら。どんな力が欲しいかな。
力があれば、なにができるかな。
考えても、意味ないか。
もう、将来もなにもないのだし。
視界がどんどん暗くなる。
力とか、命ではなく。
光が欲しい、そう思った。
――そして、目が覚めた。精神的に。
相変わらず肉体の自由はない。正面に投影されている映像は憑坐操による他人事。
この精神の体とでもいうべき今の私も檻の中で椅子に縛り付けられたままだ。
昔の夢を見ていた。眠っていたと言えるのか、気絶していただけなのか、この精神世界でその差は曖昧だ。
少なくとも疲労感は取れていない。
体に食い込む拘束の痛みも癒えない。
いくらもがいても、どうにもならない。
誰か助けて、と口にはせずに歯を食いしばる。
言葉にしてもそれが聞こえるのは憑坐操だけだ。
正義の味方はやってこない。
私がそうなることもできなかったし、他の誰かをあてにすることもできない。
悔しい。私が魔人になった時とは別の種類の、そして同じくらい強い感情。
どうにもならない。
それはわかっているのに、考えずには、祈らずにはいられない。
悪とか、不幸とか、悲しみとか、諦めとか、そういうものを吹き飛ばす、都合のいいなにか。
神様とか、正義の味方とか、多分現実にはいないなにか。
そんな妄想をやめられないのは、やはり私も魔人の気質があるからなのだろう。
意味があるかはわからないまま、私は今ももがき続ける。
●
その刑務所の最奥、その階層に収容されている者はただ一人。地下牢の彼を知る者は多い。
山乃端一人の命を狙う者。山乃端一人の利用価値を測る者。山乃端一人をただ守ろうと戦う者。あるいは、鏡に潜む異界の魔人。
彼を真に理解する者は少ない。
彼の思考。彼の技術。彼の願望。
たとえ彼が娘と呼び、そのように扱う子供であっても。
かつて彼のために山乃端一人を捕えようとし、既にそれをやめた彼女。
父と呼ぶ彼との縁が切れたわけではないものの、その脳髄に張り巡らされた計画の全容を把握することはできていない。
だから、そこを訪れた山乃端万魔は、怒りと困惑、そして疑問をぶつけることしかできない。
「親父。仙道ソウスケがやったことについてどれだけ関わってたんだ?」
「私は依頼をした。手段を考え実行したのはあの男だ。上手くいったな」
「上手くいったじゃねえよ」
肩までの白髪。褐色の肌。首や手足を飾る鎖。鉄格子の前に立つ少女の顔には素直な感情が浮かんでいる。
スキンヘッド。筋肉質の巨体。男は豪奢な椅子に座ったまま眉一つ動かさない。
「死傷者の六割はお前にとっても敵だったはずだ。現状で山乃端一人の命を狙う勢力はあれで大方が消えた」
「いいことみたいに言うなよ」
万魔はがしがしと頭をかいた。
「関係ない人も巻き込んだし、敵だって死んでほしかったわけじゃない。なんのためにここまでするんだ」
「研究のためだ」
二人はしばしにらみ合い、やがて万魔が首を振って視線を外した。
「なんのための研究だよ。前にも聞いたけどさ」
「うむ。二回はその話をした」
「俺が生まれてすぐの時と今年の夏休み前だ。最初は『最高の生物』に近づくため、二回目は単に探求心を満たすためだって言ってたよな? どうして答えが変わったんだ。本当の目的はなんなんだよ」
「その二つは同じことだぞ」
クリスプ博士はやおら立ち上がり、壁際に備えられた棚へゆっくりと歩く。
地下牢にはひどく場違いな、奇妙なほどに優し気な音楽が流れている。
ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』だ。
「虫を愚かだと思ったことはあるか」
博士は出し抜けにそう尋ねた。
「蜂とか蟻は頭いいんじゃないか」
「だが人間並みの思考力があるわけではないだろう。人間は虫の行動を観察し理解することはできるが虫が人間を理解することはない」
「そりゃあ脳の大きさが違うし」
「大きさなら人間もクジラに劣る。もっとも割いている機能が違うのだがな。物理的な脳の機能の比較ならば体重比や表面積の方が重要だ。これを見ろ」
彼は一つの瓶詰を手に持ち万魔の正面にやってきた。
薄黄色い液体の中に拳ほどの大きさの脳が浮かんでいる。
「これはお前の予備から採った脳だが――」
「なにやってんの!?」
「――基本的な構造は人間の脳と変わらない。だがお前の予備である以上これは魔人能力を持ちうる脳だ。そして魔人能力については現代の科学でも推し量れないところがある。確かだと言われているのは『自己の認識を他者に強制する能力』だということだ」
「魔人能力は認識から生まれるってことだろ。それはわかる」
万魔自身の魔人能力。彼誰時。予備の体を召喚して意識を乗せ換える力。
予備の体とされているそれらが全て同一の自己、それらの総体が山乃端万魔であるという認識に基づいている。
「ふむ、では『卵が先か、鶏が先か』。聞いたことはあるだろう。この問いについてはどう考える?」
「その話はちゃんと繋がってるのか?」
じゃらり。少女が疑わし気な目を向けて首を傾げると鎖が鳴った。
「……卵が先だろ。鶏っていう種は進化の中で生まれてきた。最初の鶏の両親は鶏とは別種だったことになる。でもそこから生まれた卵は鶏という新種の遺伝子情報を持っていたはずだ」
「だが卵の見た目はその両親と大差あるまい。そしてそれまで鶏という種がなかった以上それが産まれた時に鶏の卵だと認識できた者はいなかった」
「それは、別の問題だろ。その時はわからなかっただけで卵の中身の遺伝子が後から変わったわけじゃない」
「では魔人能力もそうだとしたら?」
「なに?」
万魔は顔を歪めて一層の不信感を現した。
「認識を他者に強制する――認識によって現実を書き換えているのではなく、まだ誰も気づいていないが確かに存在する現実を認識して広めることができる者が魔人だとしたら? 魔人にとっての人間は人間にとっての虫に等しいのだ」
「本気かよ。魔人能力はめちゃくちゃなやつばっかりだぞ。非魔人が気づかないってのはないだろ」
「だが中二力というエネルギーにより認識が現実を変えるなどという言説とあり得なさでは大差あるまい」
「……とりあえず親父がそう考えてるのはわかったよ。それで親父がしたいことは?」
厳めしい口角がわずかに上がる。
「うむ。より高次の生物はより高い視点から世界を見ることができる。私の目的はただの魔人よりも高い視点に立つことだ。そのために私自身を魔人よりも優れた生物に改造する。あるいはお前の様にこの私とは違う要素を加えた上で、望月餅子のように私の記憶を持った人造人間を作るということになるかもしれん。今は通常の魔人の範疇を逸脱した者を調査するという段階だ。山乃端一人、山居ジャック、そして『転校生』も期待外れではあるが……」
「転校生?」
「ああ、奴らは案外同類が多い。つまり特別ではないということだ。今の私よりは上位なのだろうが最終目標足りえない」
「いや、まず転校生ってなに? 普通の意味じゃないんだよな?」
「ふむ」
今度はクリスプ博士が怪訝な顔を向けた。
「鏡助という男はお前の所には現れていないのか?」
「それは……仙道ソウスケの偽名じゃなくて?」
「別人だ。お前が山乃端一人を守るつもりなら接触があっておかしくないはずだが」
「知らない。そいつは一人の味方なのか?」
「そのようだな。奴は立場を変えることもあるまい」
「まあ、敵じゃないならいいよ……待ってくれ。奴はってなんだよ。味方から敵になりそうなのもいるのか?」
「もとより味方というわけでもなかったが」
博士の視線は万魔の背後に向いた。
分厚い鉄の扉。
その先は。
「親父と取引した奴らか? ハルマゲドンが起きないように一人を親父に殺させる案を保留にしているっていう」
「奴らにはまだ伝えていないが私が一人を殺してもハルマゲドンは止まらないことがわかった。あれは死後発動する能力ではなく生前の内にそうなりうる状況を作りだすという能力だ。前提が変わったのだ」
「マジか。でもそれなら殺す理由はなくなるはずだ。ハルマゲドンを防ぐのが目的ならむしろ一人が死んだら困るだろ?」
「無闇に殺すことはないだろうが放置するとも思えん」
「……親父は一人の能力についてそいつらに伝えてないのか?」
「この環境は悪くないのでな。それに私と敵対している者も全て片付いたわけではない」
「大方死んだんだろ? 池袋に来なかった奴ってことか?」
「生き残った者は小物だ。問題ではない」
太い眉の間に皺が寄る。万魔はあまり見たことのない様子だった。
この男が普段見せる顔は厳めしい無関心か理解しがたい哄笑のどちらかがほとんどだ。
「問題は死が終わりではない者だ」
「蘇生する能力ってことか」
「そう言える面もあるな」
「具体的な心当たりがあるならどんな奴か教えてくれよ」
「ふむ」
不快感、だろうか。万魔にはその表情の意味をはっきり読み取ることができない。
ただ、研究対象に向けるものとは違う特別な感情が込められているように思える。
稲妻型の髭の下、嚙み締めた唇が開かれた。
「憑坐操。奴はそう名乗っているはずだ」
○
冷たい風の吹く乾いた青空の下で。
少しづつ減ってきているらしい瓦礫に向かって俺はそっと手を合わせた。
撤去作業中の池袋には近づけず、なんとか視界に入るくらいの距離から拝んでいる。
一人は連れてきていない。
流石に親父の言っていたことが気になる。
危険があるとわかっているなら隠れ家で待ってもらっていた方がいい。
危険なのは俺も一緒だということで一人は難色を示したが、独りで考えたいことがあるのだと言うと一応は納得してくれた。
嘘も方便というのではなく、実際考えたいことはある。
こちらから憑坐操を探す当てもないのだし、とりあえず目についた喫茶店に入る。
店員に促されるまま、席の下の箱に下ろしたての上着やマフラーを入れた。
今日は学校の制服ではないのだ。
制服。一年後には着られなくなる。
俺はその後どうするのだろう。
いや、それ以前に一人を守る戦いに決着がついたら、俺はそれから何をすればいいのだろう。
憑坐操を倒して、一人の安全が保証されて、一人が普通の生活に戻ったら。
最初は一人を捕まえるために造られた。自分の意志でそれをやめることができたのは、一人に死んでほしくないと思えたからだ。
やりたいこと、進みたい道、就きたい仕事、そういうものが思いつかない。
もっと普通の人間だったら、生まれてから高校を卒業するまでの約18年の間に色々なものに触れて、漠然とでも自分の進路を思い描けるのだろうと思う。
「まだ生まれて二年だしな」
愚痴っぽい言葉が口を吐く。
マジで何も思いつかない。
少なくとも親父の手伝いをしたいとはもう思えない。
落ち込んだ気分で熱いカフェオレをすする。
「お嬢ちゃん。相席いいかい? それからもう一つ――ハッピーかい?」
不審者がテーブルの向かい側に仁王立ちしていた。
黒革のジャケット、ドクロのプリントされたTシャツ、ジーンズにブーツ。
なんとなくメタラーっぽい。
鎖をじゃらじゃら付けてる俺に言えたことじゃないが。
妙に親しげだが完全に初対面だ。
「ああ、安心してくれ、怪しい者じゃない」
魔人警察刑事局 異質犯罪課 警部 遠藤ハピィ
差し出された名刺にはそう書かれている。
「えーと、遠藤警部、ですか?」
「ハッピーさんと呼んでくれ! お嬢ちゃんは山乃端万魔で間違いないな?」
親指で自分を指してそう言った。
物凄くうさん臭かったが俺も頷いて答える。
「お嬢ちゃんたちの事情はある程度聞いている。警察としても俺個人としても放っておけなくてな」
「聞いてるって、親父からですか?」
「ああ。例の表沙汰にできない取引の関係でな」
確かにある程度の事情は知られているらしい。
親父がどういうつもりで話したのかはわからないが。この人と協力しろということだろうか。
こっちは遠藤警部について何も聞かされていないのだが。
「あー、信用できないって顔だな。気持ちはわかるぜ。とりあえず俺が山乃端一人について知ってることを話す。間違ってたら訂正してくれ」
一人自身は普通の女子高生。ただし一人が死ぬとハルマゲドンが起こるという魔人能力を持つ。一人には様々な死の危険が迫っている。
大筋は俺の知っている通りではある。
「差し当っての危険は憑坐操という魔人だ。こいつについてはどれだけ聞いてる?」
「名前と能力の概要は聞きましたけど」
「そうか。奴とは異質犯罪課としても前々から因縁がある。継続して調査もしてるし現在憑依されている被害者についても目星はついている。襲われるのを待つんじゃなくてこちらから仕掛けるつもりだ。お嬢ちゃんにも協力してほしい」
そう言われ差し出された右手を見つめる。
この手を取るべきだろうか。
俺にとって最も重要なのは一人を守ることだ。
一人のいない所で戦いを始めるのは悪くない。
問題があるとすれば、やはり遠藤警部のことをよく知らないということに尽きる。
それでも。
「とりあえず、よろしくお願いします」
俺よりも少し小さいくらいの手を取った。
瞬間。
「ッてぇ……!」
腕が焼けるような痛み。
握った手から肩までを光剣の切っ先が貫いていた。
「くそっ」
手を振りほどき席から転げ落ちるようにして距離を取る。
転がりながらズボンのポケットから手錠を取り出し立ち上がる。
改めて敵を見てみれば。
黒革のジャケット、ドクロのプリントされたTシャツ、ジーンズにブーツ。
俺と見た目上の年齢は大して変わらない女。
髪は黒っぽい茶髪。
三つ編みのおさげではないが髪型を変えるのは簡単だ。
そして刺されたはずの俺の手に傷はない。
痛みは間違いなく現実だったにもかかわらず。
つまり生物を斬っても傷をつけない光剣。そういう魔人能力。
親父から聞いていた情報は四つ。
一つ、その名前。二つ、他者に憑依するという能力の概要。そして三つ目、最後に確認された憑依能力の被害者、神凪ひかり。
こいつがそうか。
「お前が憑坐操だな」
「よく知っているな。狂ったハゲ親父から聞いていたのか?」
「ああ、親父と同じくらいイカれてるらしいな」
それ以上会話に付き合う気はないらしい。
チリチリと肌を刺すような悪寒が走る。
正中線めがけて振り下ろされる光の刃。
半身になってかわす。
その刃すれすれに、相手の腕と交差させるように手を伸ばす。
池袋で仙道ソウスケが俺の一撃を止めた時、こういう動きをしていた。覚えている。
でもここから先は俺のやり方。
手首を掴む代わりに手錠を押し当てる。
かしゃんと音を立てて鉄輪が閉まった。
ぐるり。
勢いを殺さず腕を引っ張りながら相手の背に回る。
「大人しくしろよっ……!?」
そりゃあ抵抗はするだろうが。
想定以上に激しく藻掻く。
手錠がみしみしと音を立て捉えた手首に血が滲み始めた。
――確かこいつが感じる痛みは憑依元の人間に押し付けられるんじゃなかったか?
思わず力が緩む。
「甘いんだよ人間もどきが!」
「ッ!」
体の負担を考えない剛力で振り払われ、さらに光剣の追撃。
速い。そして躊躇がない。
首に激痛。
この剣は生物を斬らずにすり抜ける。しかし斬ったのと変わらない痛みはある。
つまり、肉や骨で止まらず両断されたのと同じ痛みだ。
やられる場所によっては痛みのショックで倒れかねない。
実際、俺は覚えていないが一度倒れたことがあるらしい。
親父から聞いていた四つ目の情報。あの夏の日、俺を不意打ちで倒したのが他ならぬ憑坐操だ。
「今度は勝つ……」
「お前には無理だ。諦めな」
目の前の女の笑顔は悪魔に似ている。
●
子供の頃から妙なモノを見ていた。
世間の魔人が引き起こす異常な事象ともまた違う、怪異と呼ばれるモノの類。
それは時には恐ろしく、時には美しく、忘れようもないいくつもの記憶を俺の中に残していった。
妖そのものだけでなく、それらに関わる人々との出会いもそうだ。
俺に怪異との向き合い方を教えてくれた人たち。
師、友、好敵手。間柄は様々。
武器、傷、呪い、想い。残されたものも様々。
今俺の手の中にある一つの箱もそうだ。
「こいつを使うことになるとはな……」
生きていれば良いことはある。
死んではどうにもならない。
そうは言っても、いつでもどこかで、死ぬ者は死ぬ。
だがしかし。だからこそ。
今も生きている俺が、やらねばならないことがある。
「死を約束されている少女、少女に迫る死。やるべきことは二つだが、一つの道の上にある!」
ビル街を駆ける男の姿は魔性に牙剥く獅子に似ていた。
○
諦めるつもりはさらさらないが状況はかなり不味い。
ガラスをぶち破った喫茶店を後にして土地勘のない街を走る。
憑坐操が俺を襲いに来たのはやはり次の憑依先として狙っているからだろう。
奴は憑依した相手の習慣化していた行動をトレースできるらしい。
今の隠れ家を使い始めてそれほど長いわけでもないが慣れてきてはいる。
つまり俺が憑りつかれてしまえば、奴はそのまま一人が待つ家に直行してしまうわけだ。
こうして知らない道を走るのは万一の時に俺の体が帰れなくなればいいなというささやかな期待がある。
もう一つ、なるべく人気のないところに行きたい。
奴の狙いが俺だとしてもその過程で他人を巻き込むことに抵抗を感じるとは思えない。
こうして一旦逃げること自体は悪くない。
奴も目視できる距離でしっかりついてきている。
この辺りもまだ無人ではないがさっきの店の中よりはましだ。
ちょっと不味いのは手錠を奴の手にかけたまま手放したこと。
俺の能力で次の体を召喚すれば手錠もついてくるのだが、それをすれば今の体は意識を失った状態でこの場に残る。奴の前にそれを出せばおそらく憑依されるだろう。
能力を使わず手錠もなしで戦う必要がある
かなり不味いのは勝利条件が思いつかないこと。
なにをどうすれば奴が止まるのかわからない。
憑坐操に実体はない。
神凪ひかりを傷つけることに意味はないし、仮にそれでどうにかなるとしても彼女を犠牲にしたくはない。
有効な攻撃手段がこちらにはない。
「通りすがりの悪霊退治の専門家とかが助けてくれないかなあ!?」
口から出た言葉に大した意味はなかった。
愚痴だとか弱音ということでもないが益体もない無駄口の類。
誰にも聞かれず宙に消えるはずの言葉。
しかし。
ずん、と力強く響く足音。
正面に立つ人影一つ。
「ああ、今――」
俺自身、なんの期待もかけていなかったその言葉。
それに応える者があった。
「――『助けて』ってそう言ったかい?」
それを聞き逃さない者がいた。
黒革のジャケット、ドクロのプリントされたTシャツ、ジーンズにブーツ。
服装はどこかの誰かとよく似ている。
その他はまるで違う。
腰に差した一振りの太刀。
背に負う古びたずた袋。
都会のビル風になびく金髪。
俺よりもずっと大きい筋骨隆々の巨漢――まあ男だろう。顎鬚生えてるし。
そして笑顔。俺にはわかる。作り笑いだ。
騙そうとしているのではなく、俺を安心させるための。
「言ったよな!」
獅子の如きその人が俺とすれ違うように駆け抜けた。
振り返る。
彼は刀を抜き放つ。
「おいおいおいおい!」
慌てて追いかける。
体格がいいだけあって足も速い。
俺を置いてけぼりにして光剣を振りかざす憑坐操と切り結び始めた。
双方ともに上段に構え、袈裟切りに振り下ろす。
鏡合わせのような軌道で二つの武器が鍔元でかち合いそのまま鍔迫り合いとなった。
力では男が上か。
鋼の塊が光の刃を押し込んだ。
瞬間、光が掻き消える。
憑坐操が倒れこむように前に出る。男の刀をくぐり抜けて組み付き、その手から再び光が伸びる。
男は光剣に貫かれながら膝蹴りを繰り出す。
膝が憑坐操の顎を揺らす。
頬が波打つ衝撃。女の小さな体が浮き上がり組みつきが外れる。だが表情は変わらない。
不気味な嘲笑。
男は歯を食いしばりながら一歩引きさがり、剣先を降ろし下段の構え。
そこにやっと追いついた。
「ちょっと待ってくれ!」
無手のまま両者の間に割って入る。
「おっと! なんだ!? どうしたお嬢ちゃん!」
戸惑う男に呼びかける。やはり厳ついがいい人っぽい。
「この人は傷つけないでください! 操られてるだけで――」
「――あーあーあーそのことか! 大丈夫だ! わかってる!」
「わかっててやったの!?」
「いや対策がある!」
「対策!?」
「対策! ……おい逃げたぞ!」
「エッ!?」
振り向けば憑坐操はこちらに背を向けて走り出していた。
逃げた?
この人が言う『対策』に信憑性があるってことか。
憑坐操もその対策を危険視している、もしかしたら内容を知っている?
明確な弱点が周知されているのか?
「ええと」
追いかけますか、と言いかけたのを飲み込む。
まずこの人は誰なんだ?
憑坐操を知っていて敵対しているらしいが。
「ああ、俺はこういう者だ」
納刀した後、両手で差し出された名刺には。
魔人警察刑事局 異質犯罪課 警部 遠藤ハピィ
「すみません、あなたが本物かどうか警察署に電話して確認してもいいですか?」
●
『クソがっ!』
「うぐっ……」
みぞおちの辺りに鈍い痛み。
相変わらず姿もないのに好き放題してくれる。
けれど聞こえる声の様子は明らかにいつもと違った。
苛立ち、焦っている。
「無様ね……っ……」
顔が歪むような衝撃。
今度は無言のまま不可視の暴力を振るわれた。
『なぜ東京に来た……いや、それよりも対策が問題だ。あれを使う気か? 奴に使えるはずがないが……そうか、山乃端万魔か……そう組み合わせれば……』
これは、多分チャンスなのだ。
さっき出会った二人の人物。
あの人たちを憑坐操は恐れている。
憑坐操を倒す鍵を握っている。
そして私を傷つけないようにと考えてさえいる。
助けを求める声は誰にも聞こえなかったはずなのに。
それでも。
そんなことができるだろうか。
そこまで都合のいいことが本当に上手くいくだろうか。
憑坐操は何かに気づいた様子だった。
彼らの用意した対策は不発に終わるかもしれない。
だとしたら。
私にできることはないだろうか。
彼らの後押しになることは。
もしも。
もしも私が生きていることが、私を助けようとすることが、彼らの足枷になるのなら。
憑坐操を倒せるのなら私は諸共に死んでもいい。
この意思を伝える方法はない。
それでも、できることは……。
○
「対策は二つだ。まずは俺の魔人能力。そしてこの妖刀武骨だ」
本物の遠藤警部は急いで追わずとも憑坐操の居場所はわかるのだと言う。
なので歩きながら彼の言う『対策』についての説明を聞いている。内容を知らなければ俺も安心して戦えないからだ。
「能力名は『 時よ止まれ、君は。』。傷つけたものの時間を止めて箱に閉じ込める。ただし命のある者は対象外。そして武骨は怪異に干渉できる刀だ。こいつを組み合わせることで憑坐操だけを箱に閉じ込めることができる……あいつ自身は既に死人だからな」
なるほど、うまい話だ。
でも、なんだろう。何か引っかかる。
「リスクはないんですか? それ、神凪ひかり自身はどれくらい傷つくんです?」
「髪の毛の先をちょっと斬るくらいで十分だ。呪術においては髪一本にさえ魂が宿る。呪いの藁人形って聞いたことないか? あれにも髪を入れるだろ」
「それは知りませんけど」
話を聞く限り問題はなさそうだ。
しかし、それならばなぜ、本物の遠藤警部の顔が陰って見えるのだろうか。
「どうした、そんなにじっと見て。なんか食べるか? 歩きながら食えるものは――」
「――いりません。食事は苦手なので」
「そうか? ……摂食障害か、それは?」
「どうでしょう。医者からちゃんとした診断を受けてはいないですけど」
強張っていた彼の顔はまたこちらを気遣う笑顔に戻った。
「うん、じゃあ話の続きだが。もう一つの対策は――」
「――え? 二つじゃなかったんですか?」
「二つだぞ?」
「能力と妖刀で二つじゃ?」
「ああいや、それはセットで一つだ。もう一つある」
「ああ、セット。なるほど」
「おう」
なんとなく、嚙み合わない。
「二つ目は呪具だ。口寄せってわかるか? 霊能力者が死者の霊をその身に呼び寄せる。その応用だ。死者の魂を呼び寄せて生きてる人間に憑りつかせることができる、そういう呪具だ。つまり憑坐操の居場所がわからなくなってもその場に呼び出せるわけだな。今回はさらにその応用で奴を呼び出さずに居場所だけ探る。繋がりは作るが呼び出すまではしない。向こうにもこっちの位置がバレるんだけどな。本来の使用方では使いたくない」
「憑りつかれる役が必要だから?」
「いや、それよりも神凪ひかりが心配だ。憑坐操が引き剝がされた時に無事でいられるかわからん。今まで奴に憑りつかれた人間が解放された時は必ず廃人にされていた。奴にとって用済みだから、そして憑りつかれていた間に知った情報が俺たちのような捜査員に渡らないようにするためなんだろうが。奴が人の精神を壊すのにどれだけの手間をかけているかはわからん。俺の能力での封印なら何もさせず一瞬で済むが、通常の呪具ならある程度は抵抗されると見ている。今の奴は悪霊だが生前から一端の呪術師でもあるんだ」
「そりゃあ……使えないですね」
コメントに困る。神凪ひかりを助けられないのでは片手落ちだ。
「ああ、お嬢ちゃんがそう言える人間で良かった」
顎鬚の上で口元が綻ぶ。彼自身の安堵の笑いのようだった。
「奴の方で憑依先を乗り換える可能性はありませんか?」
ふと思いついた疑問だ。こちらとしてはそれが一番嫌だ。
「それはないな」
本物の遠藤警部は首を振る。
「奴からすれば神凪ひかりは人質だ。人質を無下に扱えばこちらも強硬手段に出ると考えるだろう。それに神凪ひかりの能力は優秀だ。この辺りはそこらのビルを探せば人はいくらでも見つかるだろうが一般人との交換は可能な限り避けるはずだ。そもそもの奴の目的は強い体を手に入れることだからな」
「『最高の生物になる』ってやつですか」
それもどこかで聞いたような話だ。
イカれた親父と同類か。
俺は、やっぱりあいつには負けたくない。
●
そして。
とあるビルとビルの狭間で相対する。
路地裏というには広い裏道だ。
俺たちが奴を追い詰めたのか。奴が俺たちを待ち受けたのか。
憑坐操は神凪ひかりの体でうすら寒い笑いを浮かべている。
勝つのはこちら、そう思っているのはお互い様だ。
じゃらり。
緩んだ鎖を腕に巻きなおす。
手錠がないのだからこの鎖を使うしかない。
神凪ひかりの光剣は生物を傷つけずにすり抜け、無生物なら斬り捨てる。
しかし本物の遠藤警部の妖刀武骨とは鍔迫り合いをして見せた。
実際の剣でも斬れない程度の強度があれば持ちこたえることができる。
鎧と呼ぶには頼りないが鎖帷子代わりというわけだ。
守りを固めているのはこちらだけではない。
神凪ひかりの能力は光剣に限ったものではないらしい。
大通りでは気づかなかったがビルの影がかかるここならわかる。
全身を淡い光の膜が覆っている。
その強度が光剣と同等であるならば、こちらは鎧と称して差し支えないだろう。
本物の遠藤警部の能力はわずかでも傷つけることが条件だ。
光の守りを突破する一撃を与えなければならない。
「それじゃあやるか」
位置取りは俺が本物の遠藤警部より前。
俺が憑坐操の動きを阻害して彼が十分集中できる状況を作れさえすれば斬鉄の剣技を繰り出せるらしい。
俺に大した攻撃ができない以上はそれを当てにさせてもらおう。
憑坐操は八双に構えた。右手首に手錠がぶら下がったままだ。
振り下ろし、振り上げ、左右を入れ替えて繰り返す。持久力に優れた守りの構え。
そう構えるだろうと本物の遠藤警部から事前に受けた助言通りだ。
先ほどの戦いを見た時から気になっていたが、二人の剣術はどこか共通するものがある。
それが憑坐操が身に着けたものか神凪ひかりのルーチンに属するのかは不確かなのだが。
俺に呼吸の間などはわからない。
ただ覚悟を決めたその瞬間に地を蹴った。
魔人の脚力で駆け抜ける。
30メートル、20メートル。
敵とはまだ距離がある。奴は微動だにしない。
10メートル、5メートル。
その刹那、光剣の間合いに入ったその時。
一閃。
袈裟懸け。
俺はより強く踏み込む。
足元でアスファルトが悲鳴を上げる。
それでもなお。
俺の手は奴の体に未だ届かず、光剣はその刃渡りの中に俺の全身を収める間合い。
それでもかまわない。
奴の光剣に速度が乗り切る前に、俺は鎖で固めた腕をその刃に衝突させる。
鎖が軋む。俺の骨も。だが斬れてはいない。
そのまま光剣を抑え込もうと両腕を使い挟み捻る。
ひゅ、と無抵抗に腕が空振った。
光剣は消失。
奴の手元で即座に再生成。
腹を刺される痛み。
痛いだけだ。傷はない。
奴が俺にかかりきりになっていることに違いはない。
刺された腹は刺されたまま。
距離を詰める。全身で抑え込む。
俺と神凪ひかりの身長は大差なく、やや俺の方が大きいくらい。
背後からの圧力にぞわりとうなじが泡立つ。
妖刀武骨が俺の頭上をかすめた。
幾筋か、白髪と茶髪が宙を舞う。
あっけなく。狙いは成った。
「ふ」
女が笑う。
「ハッハッハ……!」
憑坐操が神凪ひかりの声で嘲笑っている。
『 時よ止まれ、君は。』による箱ではなく、彼女の中に奴はいる。
――そもそも箱が作られていない?
「そうだ、お前にできるわけがない……! 遠藤ハピィ! お前は今でも俺が死んだと思えていない!」
「何を……!」
獅子の如き男が歯噛みする。
認めたくはないが。なぜ彼がそう思えないのかはわからないが。
現実に起こっていることを考えれば、奴の言う通りなのだろう。
どうする?
憑坐操をどうにかできるという前提が崩れてしまった。
逡巡する間に奴は喋り続ける。
「お前の負けだ! 二重にな!」
叫ぶ奴の手元に鈍い光。
光剣ではない。何の変哲もないバタフライナイフ。
体を覆う膜が輝きを失った。
ずぶり。
神凪ひかりの腹にナイフが突き刺さる。
そして。
彼女の目つきがまるで別人のように変わった。
その表情は明らかにひどい苦痛に襲われている人間のそれだ。
彼女の口が開かれる。
悲鳴でも嗚咽でもなく。
切れ切れと、恐らくは本心からの言葉。
「構わずに、奴を、追って。私は、ここで、死んでもいい」
憑坐操は彼女の中からいなくなった。
獅子の如き男は空中の何かを目で追った。
「諦めるな」
彼の目の眼光は消えない。
彼はもはや見えない何かには目もくれず、倒れた少女に寄り添った。
「お嬢ちゃん! 手伝ってくれ!」
「……はい!」
矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
袋から言われるままに幾つもの箱を取り出す。
箱を開ければ清潔なタオル、圧縮されていたらしい毛布、なんだかよくわからない薬。
「本来なら失血死の恐れがあるからナイフは抜かない。が、この河童の万能膏がある。合図したナイフをまっすぐ引き抜く。お嬢ちゃんは同時に薬を塗ってくれ」
「はい!」
「3、2、1、今!」
ナイフが抜けると同時に血が迸る。神凪ひかりは声にならない悲鳴を上げて痙攣し、狙いが定まらない。
だが綺麗に塗るより早さが大事だ。べったりと広い範囲に塗りたくった。
「それでいい。どうしても血は抜けちまう。お嬢ちゃん、足を持ち上げてくれ。下に毛布を敷く」
「はい!」
ショック体位という奴だ。指示に従い、ついでにベルトを緩めておく。
「救急! ナイフで刺された! 止血はしたが傷が深い――」
「大丈夫だ! すぐに助けが来るからな――」
彼が電話をしている間、俺は神凪ひかりに声をかけ続けた。
「どう、して」
彼女は何とか意識を保っている。
俺には声をかけることしかできないが。
「あいつを、止めないと」
「そんなのは後からどうとでもなる! 今は生きることを考えろ!」
その声に迷いはない。奴に有効打を与える当てがなかったとしても、決して諦めないのだとわかる。
「あなた、何者……?」
「ハッピーさん、と呼んでくれ」
神凪ひかりの青ざめた顔が、ほんの少し笑った気がした。
そして力なく目を閉じた。
「おい、しっかりしろ! ……そうか、これは――」
「どうしたんです!」
「あの野郎、ナイフで刺しただけじゃない。呪いを残していきやがった」
「どうにかならないんですか」
呪術に関して俺はなにもわからない。
「俺が進行を食い止めることはできる。だが俺も結局は刀で斬る方が得意だからな。野郎をぶちのめした方が確実なんだが」
「ハッピーさん」
そう呼ぶと怪訝な顔でこちらを向いた。
ハッピーさん。警部よりはよく似合う呼び名だ。心からそう思う。
「俺が奴を追うよ。考えがある」
「……できるのか? 一人で?」
「ああ」
頷き応える。
出会った時の彼のように力強く。
「さっき会った時、『助けて』って言ったか聞いたよな。今言うよ。ハッピーさん、神凪ひかりを助けてくれ」
「助けて、か。それを言われちゃあな……」
彼はなにか噛み締めるように目を閉じ、開いた。
「……ああ、行ってこい、万魔!」
その声に背中を押されるように俺は駆けだす。
ここから先は別行動だ。
だが、俺たちやっといいコンビになってきた。
そうは思わないか?
○
昔からハッピーエンドが好きなんだ。
それはあくまでも「お話」の中でだ。
現実じゃあ、終わり自体が気に入らねえ。
『人魚姫』というお話は嫌いだ。
あれに出てくる人魚のお姫様は好きだ。
恋に破れた人魚姫はお姉さまたちにナイフを渡された。
王子か姫かどちらか死ななければならないと選択を迫られた。
そして彼女はナイフを遠くの波間に投げ捨てた、それができる人魚姫が好きだ。
死んで泡となった彼女は空気の精として生まれ変わった。
人間には見えないモノになって、新たな世界に旅立つ前に、恋敵だった花嫁の額にそっとキスして自分を選らばなかった王子に微笑みかけた、それができる人魚姫が好きだ。
物語の続きを考える。人魚姫はそれからきっと、空気の精として幸せになったのだろう。
暑い国に涼しい風を送り、両親から可愛がられる子供を見守り、やがて神様の国へ行ったのだろう。
ヘイヘイ、アンデルセン。
お前の書いた物語は、きっと世界で一番美しい。
それでも、俺とは趣味が合わない。
それだけのことだ。
人魚姫がそれから幸せを手に入れたのだとしても、それまでに望んだ恋は叶わなかった。
そんなことが気にかかる。
それになにより。
死んだら終わりだ。
俺は結局死後の幸せを信じられない。
「だから、お前も生きろ。神凪ひかり」
妖刀武骨を抜き放つ。
呪いの進行を食い止める。それだけで済ますのは妥協ってやつだ。
呪いを斬る。できるはずだ。今度こそ。
俺と武骨で大妖の呪弾だって斬ったじゃないか。
できるわけがない。脇腹から背にかけて、まとわりつくそれがネチャネチャと蠢く。祓えず受け止めるしかできなかったものは幾らでもある。
憑坐操とは深い深い因縁がある。
戦ったことは数知れず。そして奴が今ものうのうと過ごし新たな犠牲者を生み出そうとているのは、一度として勝つことができなかったからだ。
新たな呪いを背負うつもりか。今度こそ潰れるであろうな。
諦めろ。諦めろ。ぶるぶると震えるそれが囁きかける。
だが、諦めろなどと言われれば。
「絶対に嫌だね!」
躊躇なく、妖刀武骨が閃いた。
再び舞い散る髪が一筋。
さあさあ幾度も繰り返されたるこの物語。
恐るべき悪霊呪術師と獅子の如き怪異殺し。
これぞまさしく現代に生まれし御伽噺。
果たして此度の結末は。
●
考えはある。
それは嘘じゃないんだが。
問題も一つ。
憑坐操に肉体はない。
その本体は青白い魂魄。
親父からも、ハッピーさんからもそう聞かされた。
先ほど神凪ひかりからそれが抜き出ていたのだろう。
俺には見えなかったんだが。
どうやら俺には霊感というやつがないらしい。
ヘイヘイ、神様。
ここにきてそれはどうなんだ。
まあそれでも作戦を実行できないことはない。
主導権があっちに移るというだけで。
「おい憑坐操! 逃げ出した死にぞこないの負け犬め! 俺の体が欲しいんだろう! 欲しけりゃ自分で取りに来いよ!」
とりあえず奴が消えたと思われる方角に叫んでみた。
後は待つしかない。
いや、待つまでもなかった。
「フッ、遠藤ハピィならば敵として戦いにもなっただろうが。狩られるだけの獲物が一人でノコノコやってくるとはな。……おっと人間もどきは一匹と数えるべきだったかな」
見知らぬ男だ。目は虚ろ。ひくひく動く口元は人を小馬鹿にしている。
「無条件で憑依できるのは非魔人の人間だけでな。お前に殴られたら大怪我してしまうかもしれない。抵抗するなよ」
ごつ、と鈍い衝撃。
口の中に鉄の味が広がる。
いきなり顔を殴りやがる。
ぐい、と髪を引っ張られる。
慣れない質の痛み。
頭も腹も遠慮なしに殴り、蹴る。
反撃はできないが意識を失うわけにもいかない。
能力を使うのも今は無意味だ。
「一応言っておこう、能力を使っても無駄だ。俺はお前の意識が宿る体を痛めつける。お前が気絶するまでな」
「お前の能力、『精神牢獄』。憑依先の精神を牢獄に閉じ込める力。つまり相手に本来の精神が前提だな。死体なら蘇らせることもできるらしいが、俺の体は事情が違う」
「ほう、それも遠藤ハピィから聞いていたか」
そう、空の体を奴の前に出せばそれに乗り移るというのは俺の勘違いだった。
実際にはどう転ぶかなんとも言い切れないが、不確定要素のある行為は避けるだろう、というのがハッピーさんの見立てだ。
「つまりお前はこう考えているのだろう。このまま能力を使わず意識を失った振りをする。そして俺がお前に憑依するタイミングでお前の力を使う。そうすれば俺とお前の意識は別々の体に宿り俺の能力はエラーを起こして無能力と同然になる、とな。馬鹿が! 俺はお前らみたいに甘くはねえ! 確実に殺してから乗り移ればいいんだよ!」
「……そりゃそうだ!」
狙いがばれたならしょうがない。
顔を狙う打撃を今度は腕でガードする。
腹も、首も、できる限り身を固める。
「そんな時間稼ぎに何の意味がある! どうせ俺には手出しできねえだろうが! 死ね! 死んじまえ!」
ガード。ガードだ。
奴の拳をよく見ろ。
弧を描く軌道で顎。
下からすくい上げるように鳩尾。
大丈夫だ。防げる。
「意味はある。お前は賭けに出ざるを得ないさ。神凪ひかりに残した呪いが原因でな」
「ああん?」
「俺はハッピーさんに『神凪ひかりを助けて』って言ったんだ。ならそうするさ。ハッピーさんは呪いを破る。そしたら呪術の世界には呪詛返しってのがあるんだろ。お前は相応のダメージを受ける。普通の体じゃ死んじまうだろうな。それを防ぐ方法は一つだ。俺は一人で一万人分の体を持ってる。俺に憑依して呪いが予備の体に分散するのを期待するしかない」
「はっ」
馬鹿にしたように吐き捨てる。
「確かに呪詛返しがあればそうかもな。一万分の一の足りない頭でよく考えたじゃねえか。だが絶対にそれはない。感覚でわかるぜ。神凪ひかりに残した呪いは既に遠藤ハピィに移っている。そして奴はもう死ぬ寸前だってな! お前の希望はとっくに潰れてるんだよ!」
「いいや!」
笑顔を作る。否定する。
憑坐操の顔は嘘をついている顔じゃない。
それはわかる。それでもだ。
「死ぬ寸前ってことはまだ死んでないってことだ! 俺もハッピーさんもまだ生きてる! そして俺たちは諦めが悪い!」
○
ビルとビルに挟まれた場所。
影が覆うその場所で。
人知れず、どろりと闇が広がり始めた。
闇の起点は地面の上だ。
他の場所よりやや盛り上がっている。
悪夢のような色彩の闇。
よく目を凝らせばその下に獅子の如き巨漢が横たわっているのが見える。
正確に言えば、彼の背から闇があふれ出している。
今までどれだけのモノを背負っていたのか。
彼が立って動いていた時の見かけよりも、ソレはずっと重く深いモノであった。
彼に向かう呪いであったそれは最早なんの方向性もなく、無秩序に広がりこの世を侵し始めようとしていた。
元は一人の人間に向けられたモノであっても。
そもそも呪いの主も求める禍の質も違う。
結果、掛け合わされたそれは方向を見失い混沌となった。
彼を見逃すのではなく、彼を含む世界全てに仇なす混沌に。
それを止める者はいない。
悪とか、不幸とか、悲しみとか、諦めとか、そういうものを吹き飛ばす、都合のいいなにか。
神様とか、正義の味方とか、そういう者は。
現実にはいない。
当たり前のことだ。
私自身がそれを知っている。
私はそれになれなかったし、私のところにそれがやってくることもなかった。
だからこそ、立ち上がる。
そういう者じゃない、ただの人間でしかない彼らが、そういう者のように戦ったのを知っているから。
光は今もこの手の中にある。
光剣を杖に立ち上がる。
怪異に干渉するという刀に手を伸ばす。
二つの刃を重ね合わせる。
どれだけの意味があるか分からないけど。
闇の中に浮かぶ無数の目が無機質な目線を私に向ける。
不思議と嫌悪感はわかない。そんな気力もないというのが正しい。
傷んだ体中から搾りかすのような力を集めて両手に込める。
ただ一度、振るう。
一閃、などとはいかない。
水たまりを棒でかき回したように、一瞬よりも短い間引いた闇はまたすぐに寄せて返す。
構わない。
もう一度、振るう。
彼の背から闇が離れるように。
振るう。
闇は周囲に広がり、波打って帰ってくる。
振るう。
闇は世界中へと広がっていく。
振るう。
ただの私にできるのは、諦めないことだけだ。
振るう。
振るい。
振るって。
いつの間にか、闇は見えなくなっていた。
決して消えたわけじゃない。
ただ彼一人の背に集まっていたものが世界中に広がったことで薄まっただけ。
きっと、何かが解決したということはないのだろう。
むしろこれから、あれらの闇が世界中のどこかで新たな怪異となるのかもしれない。
それでも。
遠藤ハピィは生きている。
「……やるじゃねえか、神凪ひかり」
ぼろぼろの彼は倒れたまま、視線だけを衣こちらに向けて、私を安心させるように笑った。
●
「なんだ……?」
憑坐操は動揺していた。
「なんだ、この感覚は。奴はまだ死んでいないぞ。なぜ呪いが拡散する」
「俺の言った通りなんだろ」
「馬鹿な」
憑坐操は恐れている。
呪詛返しをだ。
正直に言えば俺も正確な状況はわからない。
だが、押し通す。
「さあ、呪詛返しが始まるぜ。その人を解放するなら、俺はお前の魂魄を無抵抗で受け入れてやる。あとは賭けだ。どっちが正確なタイミングを掴めるか。お前が俺を精神の牢獄に捉えるか、俺がお前を空っぽの体に置き去りにするかだ」
「馬鹿な、馬鹿な……! 嘘だ!」
こいつは恐らく精神的には強くない。
体の苦痛は他人に押し付け、強くなるためにすることが他人の乗っ取り。
そんな奴が強いわけがない。
こいつは絶対に恐怖に負ける。
俺に人魂が見えなくても問題ない。
なんなら目を瞑ってても賭けに勝てる。
「嘘だあぁぁぁ!」
男の顔から表情が抜け落ち崩れ落ちる。
今回は呪いを残して精神を壊す余裕もなかっただろう。
奴は今、少しでも安全な可能性に逃げこむことしか考えていない。
俺は余裕綽々で能力を使う。
……銀時計が光った後に、俺は制服姿で立っていた。
手錠もポケットにしまってある。
一方、先ほどまでの俺の体は。
私服姿の俺は地面にはいつくばっている。
「ひっ」
こちらを見るなり悲鳴を上げた。
きっちり入っているらしい。
「どうだ。お前の能力、もう使えないんじゃないのか」
「……っまだだ! 俺自身はそもそも魂魄体となっている! この体を殺せば抜け出せる!」
なるほど。新たに憑依するにはその体を殺すプロセスを踏む必要がでてきたと。
対象を精神牢獄に閉じ込めるのと憑依するのと、あくまで一セットの能力ということか。
立ち上がる様子のない憑坐操を一発殴る。というか軽く小突く。
「うわあぁぁぁ!?」
思った以上の反応だ。
無理もないのかもしれない。
先ほど散々攻撃を食らっていたから全身が痛んでいるはずだ。
こいつは痛み自体に慣れていない。
「お前自身が痛みを感じるのは何年ぶりだ? 多分死ぬのはもっと苦しいぞ。お前に耐えられるのかよ」
「あ、ああ……」
地面に伏せたままの憑坐操ががくがくと震える。
ちょっと可哀想になってきたがもう一押し必要だ。
その体を引き起こして首にかかった銀時計を掴み取った。
「そ、そうだ。お前の能力。俺にも使えるはずだ。体を入れ替えればこの痛みもなくなる」
「……根本的な解決になってないが。それに――」
ぐっと手に力をこめる。腐っても魔人の力だ。
銀時計が音を立てて割れた。
「――俺の能力を使えるならその制約も受けてもらう。起点になるこの銀時計がなくなればもう能力は使えない」
ばらばらと、砕けた部品が手から零れた。
大事な時計だった。
親父からもらった時計。
寂しいような、悲しいような、なんとも言えない気持ちになる。
「な、な……」
憑坐操は先ほど以上になにか恐ろしいモノを見るような目をこちらに向けた。
「あ、あり得ない……自分の、魔人能力を、こんな……」
そして。それだけ言って、白目をむいてぶっ倒れた。
「まあ、わからないかもな。『最高の生物』を目指してる奴らには」
だが俺にとっては問題ない。
戦いはついに終わったのだ。
多分、呪詛返しは来ていないのだが。
○
それから。
すぐに救急車だの警察だのがやってきた。
神凪ひかりは病院に連れて行かれたが、ハッピーさんは俺の事情聴取に付き合っていた。
体を入れ替えた俺と違って彼もさっさと治療を受けるべきなのだが。
まあ、ありがたいことではある。
で、夕方には事情聴取も終わり。
「送っていくぜ」
「いや、病院行きなよ」
「じゃあ病院への分かれ道まで」
「しょうがないな」
そんなわけで二人で歩く。
「そういえば、あの使わなかった呪具な」
「そういやそんなもんあったね」
「昔、師匠から貰ったんだよ」
「師匠って?」
「怪異との付き合い方を教えてくれた人だ。あっちは呪術師で俺はちょっと違うわけだが」
「どんな人だったの?」
「ヒーローみたいな人だった。助けを求める人のために日本中の怪異と戦ってた」
「立派な人だ」
夕日がハッピーさんを照らしている。
落ちかけた日のオレンジの光は顔の片側だけを照らしている。
「ああ、だが戦いの中で力を求め始めた。みんなを守るには強い力が必要だってな」
「まあ、弱いと大変だよな」
「そのままでも十分強かったんだがな。ある日ついに人間を超えると言い出した。寿命が近かったのもあるが、本来禁じられてる術に手を出して不滅の存在になるっつってな」
「……おい」
「で、その時に『もしも心まで人間でなくなってしまったらこれを使って止めてくれ』と託されたのが例の呪具だ」
「ひでえな」
「ああ、後始末を押し付けられた。……結局師匠は死んじまった。ずっと昔に」
「そうか」
「だからさ」
ハッピーさんはガシガシと頭をかく。鬣のようなオールバックがふわりと乱れた。
「ずっと前に終わっちまってたんだよ。師匠の命はな。それでも、終わったものだけじゃない。俺が師匠の教えを覚えている限り」
「……その呪具、大事にしなよ。使い道はもうないかも知んないけどさ」
「ああ」
ハッピーさんはニカっと笑う。
獅子に似ている、ただの人間のおっさんだ。
「小腹すいたな。なんか食うか? 箱の中には色々あるんだ」
「いや俺は食べ物食わないから」
「あ、あーそういや、そうか、悪い――」
「――ああいや、そうだ。カフェオレある? 飲み物は平気だ」
「ああ! それならコーヒー牛乳! 十勝平野の大清水牧場の牛乳とイタリア産コーヒー豆『ネロ』のエスプレッソを合わせた――」
●
「万魔、ずいぶん遅くなったじゃない? どうしたの? LINE見なかった?」
「ああ、いやまあ色々あって――スマホ上着の中だ」
「上着もそうだけど、マフラーもどうしたの?」
「……喫茶店に忘れた」
戦いは終わり、日々は続く。