二月二十二日、場所は伏す。
 二人の人影が山の中を歩いていた。
 花田和泉と花田浅葱、兄妹である。
 二卵性双生児だが顔立ちはよく似ている。
 強いて違うところをあげるとすれば、右の目尻にホクロがあるか、口元にホクロがあるかくらいだった。
 風は冷たいものの、気持ちのいい晴れた日。
 散歩がてらのちょっとした山登りであった。
 それを見ていた獣が一匹。
 狐だ。
 美しい毛並みのその獣が二人の前に飛び出して、誘うように森の奥へと消えていったのが昼のこと。
 二人の生命の火が消えたのが夕方のことである。
 狐は影の中にいるものだった。
 動物ではあるが思考する力はある。
 しかし自分が落ちた影がいつからあったのかは知らない。
 自分が落ちる直前に現れたような気がするし、自分が落ちるよりもずっと前からあったようにも思える。
 ただ、己の縄張りである山の中にあってあまりにも異質な存在であることは感覚的にわかっていた。
 それなのに、落ちた。
 いつのまにやら誘われていたのだ。
 なんということはない、餌を食おうと山を駆けただけなのに。
 ……擬餌状体というものがある。
 チョウチンアンコウの持つ餌を誘き寄せるための器官だ。
 はっきりと言ってしまえば狐が餌だと思ったそれは、影にとっての擬餌状体であった。
 影は影でありながら思考し、狐を誘うものは何かを選んだのだ。

「お兄ちゃんこっちだよー!」
「待てって! 危ないだろ」

 しかしこの兄妹はそれを知らない。
 狐が自分たちを影の中に誘っているということも。
 大きさも場所も、何一つ定かではないものが口を開けていることを。
 かつて深山幽谷、禁足地とも呼ばれたような山の中に潜んでいる化生、それは人が怪異と捉えるであろうものであった。

 ───そんなものから、浅葱和泉は生まれたのである

◆◆◆ 

「……」

 部屋で一人、昔のことを思い出す。
 ソファに座り、部屋に置かれた姿見を見つめる浅葱和泉は服をまとっていなかった。
 一糸まとわぬその姿を人間は『生まれたままの姿』という。
 しかし、人間というものは確かに全裸体で産まれてくるが、ひとつの取りこぼしもなく成長していく。
 その点で言えば、浅葱は真の意味で生まれたままの姿である。
 影より吐き出されたあの夜の時と、ほとんど変わらない。
 白く、血の気が引いているかのようにも思える雪のような肌には生傷が生まれている。
 窓から差し込む月明りのみが照明であり、自身の体に落ちる影のみが浅葱の体を隠していた。
 息を吐く、息を吸う、それを繰り返す。
 心。
 魂の動きと、熱と、この呼吸のみが自分が生きていることを証明している。
 鏡に映る左の腕はもはや肉と骨の混ざりものというほかない。
 指のひとつだって、自分の意思で動かせないのだ。
 腕の中の腱やら神経やらはズタズタで、腕らしい形を保ってもいない。
 二度の戦闘を超えて、大きく壊れたのが左腕一本だというのなら儲けものであろう。
 それでも、完全な肉体であればとは思う。

「キミは誰だい?」

 虚ろな目が己の体を見つめている。
 いつからか始めた一人遊びだ。
 鏡に向かってお前は誰だと問い続ければ、人間は発狂するらしい。
 己という認知があやふやになって、崩壊していくのだそうだ。
 狂ってしまうほど己を見つめれば、自己というものが生まれるだろうか。
 浅葱和泉はそう思った。
 だが、今日までその結果というものは見えていない。

「……ヒトリちゃん」

 会いたいな、と弱気な言葉を吐く自分がいることに少し驚きつつも、浅葱は左腕を影で包む。
 痛みというものも、ほとんどない。
 これを動かすのと、糸に吊るされた人形を操ることは本質的には変わらないだろう。

「……浅葱さん」

 姿見に、鏡助の姿。

「やぁ、キョウスケちゃん……見た?」
「いえ。なにも」
「そう、それは残念。ワタシがどんな形をしているか、確かめるいい機会だったのに」
「浅葱さんは……それを望まれていないでしょう?」

 姿見に背を向け、窓からの月光を体で受け止める。
 戦いの時が来たのだろう。
 きっと、もうじきすべてが終わるのだ。

「やっと終わるなのか、もう終わるなのか」
「いずれにせよ……お気をつけて」
「ふふ……死んだっていいさ」
「……」
「ワタシは人間じゃあないんだ。生に執着なんてしないさ、きっとね」

 そう言って、口元のホクロを撫でた。

◆◆◆

 山之端一人の家の近くには公園がある。
 彼女と浅葱はそこで出会った。

「あの、浅葱さんですよね?」
「そうだけど……誰かな?」

 ジャングルジムの上に座っている浅葱に山之端はそう声をかけた。

「クラスの子が話してたんです」
「ワタシのことを?」
「はい。不思議な先輩だって」
「ふふ、よく言われるよ」

 影の伸びる夕暮れ。
 二人の影が重なって、視線と言葉をかわしていた。

「私、山之端一人って言います」
「ヒトリちゃんっていうんだ。変わった名前だね」
「そうですか? 変です?」
「変わってるけど、変じゃあないよ。素敵な名前だ」

 思えば、そこから始まっていた。
 二人の縁、繋がり、感情のやり取り。
 それがスタートだった。

「……」

 そんな思い出の公園はいま夜の帳に包まれている。

「千手橋拳平だね?」

 ブランコに座る少年を見下ろす。
 学ランに学帽、そして腰には銀の懐中時計。
 それは山之端の持っているものによく似ていた。

「……誰」
「浅葱和泉。キミをここで止めないといけないって聞いてきたんだ」
「……じゃあ、僕の敵ってことになりますか?」
「うーん……キミがヒトリちゃんを狙うのをやめてくれたら見逃すかもね」

 その言葉に反応するように千手橋が立ち上がる。
 二人の視線がぶつかる。
 浅葱は、全身の毛が逆立つような感覚を知った。
 今まで相対した何者よりも強い。
 人間の枠に収めるには、あまりにも強すぎる。

「……『てのひらをたいように』」
「……『影の形に従うが如し』」

 突如として公園にある並木から飛び出してくる手首たち。
 千手橋の魔人能力である。
 対する浅葱は影をいくつもの触手に分裂させる。
 手首と触手が衝突する。
 一つ一つ手首を落としていく。
 数が多い。
 初めに浅葱が感じたのはそれだった。
 手首は早いわけでも強い訳でもないが、数が多くなればそれだけ反応に意識を使わされる。
 それを突いたのは千手橋だ。
 徐々に距離を詰め、そして地面を強く蹴る。
 大地を抉りながら急加速し、二人の距離が近くなる。
 包丁の形に影を変化させ、持ち手を握る浅葱。
 相手の腹に目掛けて、それを突き出した。

「なるほど……」

 だが、それは到達せず。
 千手橋が腹と刃の間に手のひらを割り込ませる。
 そして刃を握った。
 マズイ、と思った浅葱が手を離し、触手で自分の体を引っ張る。
 それを追うように投げられた包丁が自身に刺さっていたと気付いたのは、足が再び地面に着いた時だった。
 右足に痛み。
 根本まで深く突き刺さる。
 機動力を削いだ浅葱の体めがけて手首が殺到する。
 また打ち落としていくが、それは完璧ではなかった。
 初めよりも数が多い。
 数を偽り、隠していたのだ。

「は……ぁ、っ……!」

 手首が腹を打ち、包丁の持ち手を握って抉り、首を絞める。
 体の表面に影を這わせ、手首と肉体の間に割り込ませた。
 爆発、そんな衝撃を外側に発して無理やりに手首を落とす。
 仕切り直しだ。

「……なんでヒトリちゃんを狙うのか、聞いてもいいかな?」
「……一人は僕のだ」
「ははっ……ワタシのだよ」
「……どちらのものでも、ないッ!」

 白い影が視界の端から飛び込んでいく。
 諏訪梨絵。
 居合抜きのように箒を振りぬこうとしている。
 ゴッ、と鈍い音がする。
 箒は脇腹の辺りに当たったもののビクともしない。

「こんなのじゃあ……殺されない……殺されない……殺されない……」
「リエちゃん。その子……」
「分かってる」

 即座に身を離す諏訪。
 追うように伸びた手をかわしていく。

「……相手が悪いよ」
「私の能力であいつを倒せるレベルまでいく」
「……出来る?」
「やるしかない」

 頼んだ、と視線を合わせる。

「この程度……」

 手首を箒や丸い盆で打ち落とす諏訪。
 浅葱は千手橋の体や手首たちに触手を打ちつける。
 しかし、致命打どころか有効打すら与えられている雰囲気がない。
 単純な力や防御では勝負にならない。
 時折、千手橋自身が距離を詰めて攻撃を放ってくる。
 二人ともそれを何とかかわすものの、それによってリズムが崩れれば手首の攻撃を受ける。
 辛うじて保たれていた均衡が崩れたのも、手首の一撃からである。

「ぐっ……む……!」

 諏訪の視線が泳ぐ。
 焦った訳では無い、生理的な現象だ。
 手首が顎を打ち、脳が揺らされてしまったのだ。
 即座に食らいつくかのように手が喉笛に飛び込み、締め上げる。
 頸動脈を押えられ、眠るように諏訪の意識は飛ばされる。

「リエちゃん!」
「……他人のことばかり」

 接近、そして喉を打たれる。
 手首ではなく、開いた千手橋自身の手が肉を、その奥の骨を掴んでいる。
 ミシ、と身体の奥の方で音が響いているのがわかる。

「は……ぁ……っ!」

 冷たい目がこちらを見ている。
 死の予感が浅葱を包んでいく。
 影に落ち、すでに死を迎えたはずの己が二度目の死を迎えようとしている。

「なんのために生きてるんですか」
「な、ん……」

 なんのため。
 なんのためだ。
 なぜ、浅葱和泉は影から取り出された?
 それは取り込むためだ。
 深山幽谷の怪異が、己のために取り出したのだ。
 これここに至って、浅葱和泉は自分の原初を思い出していた。
 それはきっと走馬灯というものなのだろう。
 死の間際の集中が、己の生きた道を振り返っているのだろう。

「ち、が……」

 違わない。
 浅葱の持つ生命は影によって与えられたものだ。
 山之端一人の救出は回り道なのだ。
 己の使命ではない、気付いていたはずだ。
 己の逸脱に、そのはずだ。

「ワタ……シ……は……」

 首の奥底で、骨が砕ける音がしたのはその後すぐのことだ。

「ヒト……リ……」

 手が離され、その体が地面に落ちてすぐ、意識が薄くなる。
 視界に闇が落ちていく、夜が訪れるように。
 意識を失うまでにそう時間はかからない。
 眠りにつくように、意識を手放すのだ。
 浅葱はまた、影に落ちていくのだろう。
 浅葱和泉の正義はここで行き止まりだ。
 もう取り込むという役目を果たすことをできはしない。












 勝手なことばかり言うね。

















 ワタシはワタシの意思でここにいる。







 でもそうだね、浅葱和泉の正義がダメなら。





















 『バケモノ』の正義ならどうだろう?














 もういいだろう?
 ワタシの物語は、正体も知れぬナニカじゃなくて、ワタシが語らないといけないのさ。









「ッ!?」
「あはぁっ……!」

 ワタシは目覚めた。
 それを確認した彼がワタシを踏み潰そうと足を上げた瞬間、影の触手が彼の足を縛って振り回す。
 どれだけの防御力があろうと、踏ん張ることが出来なければ物理法則に引っ張られるらしい。

「ほら、遊ぼうよ」

 彼を放り投げ、ワタシ自身の体に影の触手を這わせる。

「もっと、自由に」

 彼自身の射程から離れたところに私を放り投げる。
 追いかけるように向かってきたのは手首の群れだった。
 当然、そうされるのはワタシにも分かっていたことさ。
 だから的を増やさせてもらおう。

「『影の形に従うが如し』」

 影が浮かぶ、今までのように触手にするんじゃあない。
 ワタシが選んだのは放出だ。
 ワタシがどこから来たのか、出所は明らか。
 この影じゃあないか。

「おいで『転校生たち』」

 あの三対三の戦場で飲み込んだ転校生たち。
 それが影からあふれてこぼれていく。
 何十、何百という数の人間が影から這い出ていく。
 ワタシ同様、影から取り出させてもらった。

 だけどそんなことにはこだわらない。
 ワタシにとって興味があるのは、今この場で彼を殺してしまうことなのだから。

「ちぃっ……!」
「手が足りないかな?」
「うるさい……!」

 彼が動く。
 転校生の一人を殴り倒して……手にはどこかから取り出したらしいナイフ。
 なるほど、手首を切り離そうという気持ちらしい。
 でも、それも。

「……っ!」
「あぁ、そうだよ」

 手を切らせてもらった。
 だから彼が自由にできる手首なんて一つもない。
 そこにあるのは包帯代わりの影だけだ。
 そして、影がそこにあるのなら。
 ワタシはそれを自由にできる。

「代わりのものをあげようか」

 タァン、と乾いた音がする。
 彼の体にぶつかったのは銃弾。
 図書館で戦った、あの影の持っていた武器を取り出したんだ。
 でも彼は平気でいる。
 当然だ、彼の体は尋常じゃあないくらいに頑丈だから。
 だけどいいんだ、これでいい。
 彼を倒せなくても、彼の操る手首を破壊することはできるから。

「ふ、ふふ……はははは」

 ワタシは笑っていた。
 こうしてもなお、ワタシと彼の戦力差は開いている。
 どうしようもないとすら思える。

「この程度で……!」

 事実、彼は近寄る転校生たちを一撃で仕留めながらワタシとの距離を詰めてきていた。
 汗が流れる、心臓が早くなる。
 ワタシに血が通っているなんて、今は信じられはしないのに、確かに流れているらしい。
 嗚呼、嗚呼、嗚呼。
 もうこの体が無くなったっていい。
 今日この日、この夜に、ワタシという存在が消えてしまったっていいんだ。
 ワタシはワタシの足元にある影の意思で動く操り人形じゃあない。
 誰かの体を借りているんだとしても、人間じゃあないんだとしても。
 他でもないワタシが、浅葱和泉がやると決めたんだ。
 ワタシは今までになく、ワタシという形を認めることが出来ている。
 この一瞬がここで終わるのは惜しいけれど、目の前の彼を殺せるのなら、ワタシはワタシをやめたって構わない。
 矛盾している。
 ヒトリちゃんのせいだ。
 あの子がワタシにこんな気持ちを教えてくれるから。
 ワタシの興味を引いたから。
 あれやこれやと理由が湧いては消えていく。
 ひとつ明らかなことは、ワタシはワタシの存在なんかよりずっとずっと、山之端一人という少女が大事だということだ。

「行くぞ化物」
「来なよ人間」

 慌てなくていい。
 彼が凄まじいのは攻撃と防御、速度そのものは魔人と変わらない。
 あの影のヒトガタに比べればまだ素人だし、ずっと遅いんだ。
 よく見て、対処したらいい。

「っ!」

 彼が地面を蹴る。
 地面が抉れるのが視界の端で見えて、彼の体はワタシに肉薄する。
 横振りに顔を狙う右拳。
 触手ごと穿たれるだろうからそういう防御はできない。
 体を後ろにそらし、攻撃をかわす。
 攻撃を打つ……ふりをする。
 攻撃が当たっても相手に大した痛みはない。
 それどころか、ワタシの腕や足が掴まれて終わりだ。
 だから、打たない。
 けれど、見え見えじゃあいけない。
 当てる直前までは本当に殴ったり蹴ったりする気があるように見せかける。
 それにだって意味があるのかは分からないけれど、不気味に思ってくれればいい。
 彼が真面目な男だと、ワタシは信じている。
 なにかこの形勢を逆転出来る一手があって、それを狙っているのだと考えているはずだ。
 彼がワタシのことを化物と呼んだのはワタシの正体に気付いたからじゃあなく、首の骨を折られるという状況から目覚めたからだ。
 それが魔人能力に起因すると思ってくれたなら、ワタシはきっと優位に立てる。

「……ッ、んっ!」

 彼の拳が頭を掠める。
 完全に当たったわけでもないのに、拳がワタシの皮膚と髪を引き裂いて削っていく。
  血は流れるけど、痛みはない。
 ワタシはもう、人間の機能を飲み込んだ。
 心臓が止まろうが関係はない。
 ワタシの死は、ワタシの終わりは、頭や心臓がなくなることではないはずだ。

「……この……」
「あぁ……楽しいねぇ」
「そんなわけ……ないだろ……!」

 彼の目の奥が揺れた。
 その隙をつくように、ワタシは左の拳を伸ばす。
 この腕が動かせないという事実も飲み込んだ。
 失われた部位は影で置き換えて、何事も無かったかのように動かす。
 反射的に、といった様子で彼が腕を掴む。

「『影の形に従うが如し』」

 ワタシの左手首が飛ぶ。
 浮き上がった影が剣となって切り落としたのだ。
 これで、彼に操られはしない。
 そして手首の切り口が彼に向けられて。

「……ッ!」

 影が殺到する。
 顔を覆おうとするそれを彼は引き剥がそうとする。
 それを待っていたかのように飛び込んでくる人がいる。

「……待ってたよ、リエちゃん。彼を倒せるくらいになった?」
「言われるまでもない……! 私は一人を……」

 本当のところは、リエちゃんが彼を倒せるほどにまで強化されたのかは分からない。
 リエちゃん自身もわかっていないだろう。
 けれど、敵を倒そうと立ち向かうその目の奥の意思は本気だった。
 だから彼は動いてくれた。

「この程度でェ……ッ!」

 箒を振りかぶるリエちゃんに向かって拳を向ける。
 交差する攻撃、勝負はすぐに着く。

「……まさ、か……!」

 どちらの攻撃も到達はしない。
 ワタシは奥の手を切った。

「……さようなら」

 影で彼を取り込む。
 足から順に体を落とすのでは遅い。
 危険を察知して飛び逃れたらきっと逃げられる。
 だから確実に通せるように顔も影で触れて、取り込む速度を早めてあげないといけなかった。

「僕は……ぼく……は……!」

 体を影に絡め取られながらも、彼は腕を振るった。
 踏み込みも何も無い、腕を振るだけの一撃が、ワタシの体を打った。
 彼なりの最後の抵抗だったのだろう。
 腕だけとは言え、ワタシの体は飛ばされ、宙に浮く。
 ワタシが地面に落ちる直前に見たのは、影の中に飲み込まれながら、恨みの籠った目をワタシに向ける彼だった。
 彼は彼なりの理由があったのだろう。
 そこまでの気持ちを持って、ヒトリちゃんを狙ったのだろう。
 だけど、それでも。

「ヒトリちゃんへの気持ちだけは、負けなかったよ」

 地面に体を預ける。
 起き上がろうとするけれど、どうにも腕が上手く動かない。
 どろりとした物が頭からいくつもこぼれている。
 それが何かは分からないけれど、多分人間からすればきっと大切なものなんだろうな。

「生きているか?」
「なんとかね……ねぇ、ワタシの頭どうなってる?」
「抉れている。よくそれで生きていると思う」
「はは……ワタシは人間じゃあないからね」

 なんだか疲れた。
 視界の端がなんだか暗い。

「……人間でない、か」
「そうだよ」
「……一人は和泉のことを人間だと思ってる」
「そう?」
「確かめてみろ」

 そう言って差し出されたのはスマホで、画面には発信している旨のメッセージ。
 電話、かけている先は。

「……もしもし。梨絵?」
「……もしもし」

 思わず、起きてしまった。
 あんなに寝転んでいたかったのに不思議だ。
 体と魂が繋がっていないみたいだ。

「浅葱さん? 梨絵といるんですか? 大丈夫ですか? 何してるんですか?」
「いやぁ……何もしていないさ。もう終わっちゃった」
「……そう、ですか……」

 その言葉の色が酷く青ざめているのが分かる。
 嫌だな、困ったな。
 これじゃあまるで人間じゃないか。
 なんで最後の最後で飲み込めないんだろう。

「ヒトリちゃん。大丈夫、エリちゃんは生きてるし、ワタシだって相変わらずさ」
「浅葱さん、そこにいますよね?」
「いるよ」
「梨絵から場所は聞いてます。だから、待っててください」
「……」

 顔は見たいけどワタシの顔を見られたくない。
 と、いうのが正直なところ。
 本当に困った。
 こんなこと、今まで思わなかったのに。
 自分はバケモノだと思えば思うほど、この魂の中の人間を証明するようじゃあないか。

「ダメだよ」
「なんで……っ!」
「夜は危ないよ。敵は倒したけど、リエちゃんと夜明けまでいた方がいい」
「浅葱さんは」
「ワタシは疲れたからね。休もうかな。なに、家にはいるんだ。ご近所さん同士だし、何かあれば電話でも電話でも」
「……なら、梨絵と来てください」

 今日は普段より食い下がる彼女。
 心臓が早くなる、頭からこぼれる黒っぽい赤の色が見える。
 ワタシはちゃんと笑えているだろうか。
 いつものように、意味ありげに。

「あぁ、行くよ。約束」
「……約束です……よ……」

 泣きそうな声でそんな事を言っている。
 なんだろう。
 キミには笑って欲しいのに、どうして上手くいかないんだろう。
 どうして今日は、騙されてくれないんだろう。
 なんだか、それが悲しい。
 どうしたってワタシはヒトリちゃんの求めるものを渡してあげられないから。

「ねぇ」
「はい」
「ワタシが人間じゃあないって言ったら、どうする?」
「……」

 沈黙。
 それから、鼻をすするような音が聞こえて。

「知ってます」
「おや」
「いつも大事なことは隠して……その癖に、知ってほしそうにして……」

 正解。

「浅葱さんは、人でなしです……」

 それも、正解。

「ごめんね」
「無茶してるのだって……分かってますから……!」
「うん……うん……ごめんね。そうとしか、言えないけど」

 守られてるだけの女の子じゃあないって分かってたはずなのにね。

「浅葱さんは……なんでそこまでしてくれるんですか……?」

 それはね。

「キミの事が好きなんだよ」

 多分、きっとね。

「なんで今、そんなこと言うんですか……」
「なんでって……」
「……」
「伝えないとと思ったから」

 我ながら酷い話だけれど。
 バケモノらしからぬ、これじゃあ人間だ。

「……答え」
「ん?」
「答え、用意しておきますから……ちゃんと来てください」
「……後日でもいいよ?」
「いいですから!」

 ワタシが何か言う時間も与えず、電話が切れる。
 どうしようか、と顔を上げるとリエちゃんは呆れたような目をしていた。

「もっとほかに言うことは無いのか」
「いや、他に思い浮かばなかったし、不安がらせたら良くないでしょ? 肩貸してくれるかい?」
「……あぁ」

 体を起こされて、立ち上がる。
 ほとんど彼女に引きずられるみたいに進んでいく。

「……いいの?」
「なにがだ」
「リエちゃんの聞きたくない答えが待ってるかも……あ、靴脱げちゃった」
「置いておけ……別に、一人がなにをどう思おうと私は構わない」
「メイドだから?」
「……あぁ」

 嘘つき。

「雨、降りそうだね。いつもより暗い」
「あぁ。そうかもな」

 また、嘘をついた。

「なんだか、肌寒いね。冬みたいだ」
「日が落ちるとそうなる。夏まで続く」

 優しいね、リエちゃん。
 ワタシなんか、全然敵わないよ。
 今夜の天気くらいワタシは知ってるんだよ。

「……なんだか、幸せだよ」
「……あぁ」
「やっと、自分の生まれた意味というのを自分で見つけた気がするんだ」

 うつらうつらとまぶたが落ちたり上がったりする。
 なんだかとっても眠くなってきた。

「リエちゃん。ヒトリちゃんのこと、守ってあげてね」
「……」
「あのコが……えがお、なら……いい……んだ……きっ、と……」

 眠りに落ちるように、目を閉じる。
 そうするとふわりとリエちゃんの体を透過するみたいにワタシの意識も下へと落ちていく。
 嗚呼、そうか。
 ワタシはワタシを手放してしまうんだ。
 戦いの最中に思ったように、なくなってしまうんだ。
 でも、これは死で終わりでもない。
 ヒトリちゃんがワタシのことを覚えてくれていれば、ワタシは死なない。
 ……もし。
 もし、奇跡が叶うなら。
 次の浅葱和泉もこの心を持ったままであるならば。
 山之端一人の幸せを願える者であるならば。
 きっと幸せだ。

「……心配なら、ちゃんと生きて帰れ。馬鹿者」

 その声に応えるものはもうそこにはおらず、水溜まりのような影がそこにあるだけだった。

◆◆◆

 数ヶ月が経ち、山之端一人は歩いていた。
 諏訪梨絵と遊びに出かける予定で、駅で集合することになっている。
 家まで迎えに来ると諏訪は言ったもののそれを断った。
 諏訪はその理由を知っている。
 しかしそれでもメイドとして彼女の身を案じて毎度それを提案していた。
 山之端の足は、まっすぐ自分の家から歩いて少ししたところにある公園に向いている。
 ブランコやジャングルジム、いくつかの遊具と並木とベンチ。
 そんな公園に足を踏み入れる。
 誰も、いない。
 それでも山之端はその公園の中を歩く。
 毎日、欠かすことなくそうしている。
 そうしたら、会えるような気がしている。
 あの不思議で謎めいた先輩に。

「はぁ……」

 あの夜に消えてから、まだ会えていない。
 足を公園の外に向ける。
 予定がある、いつまでもここにはいられない。
 少々の騒動があったものの、平和な日常が戻ってきた。
 それで、十分だ。














「ヒトリちゃん」
「っ!」

 丸くなった目がこちらを向く。
 瞳の中に映っている人がいる。
 血の気が引いたような白い肌と、濡れたような艶やかな黒の髪。
 右の目尻に泣きボクロ。
 そして意味ありげに笑う口元。
 そう、ワタシだよ。
 前とは少し違うけど、同じ魂のワタシだ。

「浅葱さん!」
「ただいま、ヒトリちゃん。答えを聞きに来たよ」
「え、えええ!?」
「ふふふ」
「……帰ってきたら、そんなこと言う……イジワルな人ですね、浅葱さんぬって」
「あぁ、そういう人間だよ。ワタシは」
















 ……ヒトリちゃんがいてくれる間は、ワタシはワタシでいられるから。
 だから、二人でいてくれると嬉しいな。
 ねぇ、ヒトリちゃん。
最終更新:2022年04月23日 20:08