――月が墜ちてくる。


 東京都、江東区、上空二万メートル。
 巨大な岩の塊が空から落ちてくる。地表へ、日本、東京へ――山乃端一人を目掛けて。

 ……厳密に言えば山乃端はそこにはいない。先ほど“おつきさま”との邂逅を経てこの場を離れたから。
 だがそのようなことはもはや些事。あれが地表に落下すれば山乃端が逃げ込んだ先を優に巻き込んで一帯を崩壊させるだろう。

 牛歩のようにゆっくりと。だが着実に。岩塊は空から地へと迫る。

 迫る。

 迫り――。


 ジェット機が激突した。


「―――」

 民間用個人飛行機、いわゆるプライベートジェットと呼ばれる物。
 それが掬い上げるような軌道で地表へ迫る月へと向かい、正面から衝突した。

 当然のことながらジェット機は大破。操縦席に座っていた奇妙な風体の人物――ピエロごと、木っ端微塵となり。

 そして、搭載されていたトラップが起動する。

 トラップの性質は単純だ。『スイッチを踏んだら、上から物が落ちて来る』。
 この場合“上”とは宇宙を指し、“物”とは金属棒を意味する。

 人工衛星から大質量の金属棒を地上へと射出する単純質量兵器。

 ――『神の杖』という。


 衝突の衝撃により“踏まれた”スイッチは自らを“踏んだ”月に目掛けて幾つもの『神の杖』を振り下ろした。

 穿つ。突き刺さる。

 地獄のような轟音が空に響き、岩塊はハリネズミの如く。
 幾本もの金属棒によって貫かれた月は、最後の一撃を受け堪え切れないように砕け散った。

 砕け散った、とは言えどもその一粒すら巨岩と呼べる大きさで、それが降り注ぐ地表に破壊の痕跡が増えていく。
 かつての街並みであればそれは痛々しい傷跡となっていただろうが、“絶黒龍”ルージュナによって破壊され尽くされた現在では廃墟が廃墟になったところで今更という言葉が先に出ることだろう。

「……プライベートジェットとか、どこから手配したんだよ」

 破壊の結果を見届けて、少年は半ば呆れた様子で隣の男に声をかける。

「昔、私が依頼を完遂したにも関わらず報酬を渋った挙句こちらを殺そうとした輩が居てな。代わりに貰っておいた」

「さいですか」

 何でもないことのように言う月ピに鍵掛は諦めたように答えた。今の一瞬で何十億円が消し飛んだやら、考えるだけ無駄だろう。

「しかし流石はロック謹製の神の杖。ルージュナを倒しただけはある」

「やめろよ、結局あれ倒せたの俺の力じゃないだろ」

 それに、と鍵掛は空を見上げ。

「今ので三つ。まだまだ先は長い」

「そうだな」

 その言葉に月ピは頷く。二人の男が視線を向ける先――東京都の上空にそれはあった。


 ――月が墜ちてくる。


 空にはいつもの変わらぬ月の姿。上弦の月、新月から満月へと移り変わる丁度境目、半分の月。


 それとは別に。

 悪意のように、悪夢のように。
 東京都の上空を、光を受けているわけでもないのに自ら満月のように煌々と輝く『もう一つの月』が。


 それとは別に。

 月と比べれば小石のような、それでも一つ一つが大地を抉り得る大きさの『小さな月』が、まるで隕石のように両手の指で数えきれないほどに降り注ぎつつある。


 普段と変わらず本物の月。
 着実に迫りつつあるもう一つの月。
 先ほど破壊した三つを含めて十数個の小さな月。


「――ひとまず、神の杖で小さな月は何とかできるのは分かった。月ピ、次からは俺の射出(カタパルト)トラップを使えよ。生身だと死ぬけど、お前の分身ならスイッチ抱えて突っ込めるだろ」

「そうだな、流石にプライベートジェットはもう在庫が無かったところだ。……ところでロック、どうだった?」

「試したよ」

 言いながら、鍵掛は先ほどの光景を思い出す。神の杖の起動スイッチを搭載したプライベートジェットを突っ込ませ、小さな月目掛けて起動する作戦、それ自体は上手く行った。
 神の杖を雨のように降らせることで結果的に小さな月を三つほど撃墜することに成功した。撃墜までは至らなかったものの、神の杖が命中はしたケースを含めればもっと多い。

 だが。

「――あの『もう一つの月』にも多少は命中した。だけど刺さるどころか傷ついた手応えすらなかった」

「……転校生、か」

 鍵掛の答えに月ピは唸った。思い返すのは自分達に接触してきた転校生・鏡助の言葉だった。



『「自己の認識を他者へと強制する力」――それが魔人の能力の本質です』

 りんごを見て赤いと認識する者がいる。同じりんごを見て濃い赤だと認識する者や赤黒いと認識する者もいるだろう。
 仮にその同じりんごを青いと認識する者がいたとして、それを主張したところでただの戯言と思われるだけだ。
 だが、りんごが青いという認識を以て――本当に青くしてしまう者。自己の認識を他者の認識に上書きし、世界を歪ませることができる者。

 それができる者こそ魔人であり、その認識によって世界を歪める力こそ魔人能力である、と。転校生たる鏡助はそう語った。

『そんな魔人の中でごく稀に――試練を乗り越えることによって「自分は魔人を越えた特別な存在である」と、そう認識する個体がいます』

 認識によって世界を歪める存在が、魔人を越えたと自己を認識した場合どうなるか。

 ――本当に魔人を越えた存在となるのだ。

『それこそが転校生、魔人を越えた魔人。……私がどのような試練を乗り越えたかは、残念ながらお教えできませんが』

 故に転校生に対してはただの魔人の攻撃は通用せず、そして転校生の攻撃に対してただの魔人の防御は通用しない。

 文字通り、存在の階位が違うのだと。



「あのもう一つの月が転校生“おつきさま”だと言うのならロックの神の杖が通じないのは理解できる。……だが、それならば逆に小さな月が破壊できるのは何故だ? あれはもう一つの月が生み出した分身のような物だろう?」

 重々しい表情で殺し屋は呟く。説明こそ聞いたものの、正直なところ月ピ自身は魔人と転校生の関係を十全に理解できたとは言い難い。
 そんな彼に鍵掛は、多分だけど、と断りながら。

「延焼みたいなものじゃないか」

「……どういうことだ?」

「鏡助の話によると例えば転校生は爆弾の爆発に巻き込まれても平気なわけだよな。だけどそれって巻き込まれた本人は無事だけど服は吹き飛ばされて素っ裸、ってなったりすると思う?」

「いやそうはならないだろう。……そうか。服、つまり装備品も自分の一部だと認識している限り転校生の保護に含まれると言いたいんだな」

「そうそう。それで魔人能力や火炎放射器なんかで『自分が放った炎』を自分の一部だと認識することはできるだろうけど、『自分が放った炎によって発生した延焼』まで自分の一部って認識できるかというと」

「難しいだろうな。なるほど」

 得心が行ったと月ピは頷く。

「つまりもう一つの月は“おつきさま”にとって装備品のような物として認識できるとしても、もう一つの月が生み出した小さな月までは“おつきさま”も自分の一部として認識できないってことか」

「推論だけどな。でも俺の攻撃が通ってる以上は大きく外れてはいないと思う」

「――いやはや、大した物だなロック。先生とか向いてるんじゃないか?」

「生き延びたら考えておくよ」

 苦笑混じりに返しつつ、鍵掛は能力によってカタパルトとスイッチを展開する。

「つまるところ俺達は小さな月には対処できるがもう一つの月を止めるには“おつきさま”の本体(・・)をどうにかしないといけなくて、それはそれとして小さな月も放置はできないってわけだ」

「前途多難だな。ならばそちらは彼女(・・)に任せて、私達はできることからコツコツとするとしよう」

 そう言って、月ピは歌い始める。能力発動、ピエロが召喚され、神の杖のスイッチをいくつも抱えながらカタパルトへと騎乗する。



 ――月が墜ちてくる。

 月の光に照らされながら、ピエロは一人宙に舞う。




 斬撃。

 徒手に見える少女から放たれたそれは、一息に四連。
 その勢いのまま弧を描くように獲物――転校生たる銀髪の女性――の周囲を回る。

 一拍を挟み、一息に四連。
 さらに一拍を置いて、一息に四連。

 あひる侍の速剣。御首級てがらの歩法。
 剣の扱いにおいてただの素人だった少女が柳生注入によって無理やり戦闘力を得ただけの存在。それが卓越した剣士との幾度の修羅場を経て見違えるほどの使い手となっていた。

 その剣士の名を柳煎餅と言う。

(腕、胴体、後頭部)

 無刀による十二の斬撃。それらは目の前の“おつきさま”へと狙いを違えることなく全て命中した。

 “おつきさま”の銀髪の一本すら切り裂くことができなかった。

(……これが、転校生!)

 柳は“おつきさま”の背後で腰を落とし腕を引く姿勢を取る。そして“おつきさま”が振り返るのに合わせて全身をバネのようにして腕を伸ばす。

 刺突。

 敵までの最短の距離を最小の動きで攻撃する最速の一手。
 狙いは顔面。“おつきさま”の目・口・喉を目掛けて三連打。常人であれば顔がグチャグチャになった上で首が飛んでいる。
 だが初撃は瞼に止められ、次撃は唇に阻まれ、三撃目は無造作に振るわれた左手に容易に弾かれた。

 “おつきさま”はいつの間に取り出したのか、右手に持ったナイフを振りかぶり反撃を仕掛けた。柳は三撃目を弾かれた勢いに逆らわず反転しながらのサイドステップ。

 ナイフが背後を過ぎったのを感じる。何の変哲もないただのナイフの振り下ろしが、まるで重機が通り過ぎたかのような威圧感。

「ハッ!」

 恐怖を振り払うように柳は叫ぶ。裂帛と共に放つは後ろ回し蹴り。
 胸部へと蹴りが突き刺さった“おつきさま”は、当然のように動じない。まるで岩を蹴ったような手応えに、しかし柳はその反動を初速に距離を取った。

 翻り、空中にて無刀を最上段へと構える。

「『剣禅一如』――!」

 着地と共に振り下ろし、放たれるは白く輝く閃光の斬撃。剣の理の果てを以て非物理的領域に干渉する極限技。

 閃光は三日月を描きながら、空を飛ぶ隼のように“おつきさま”へと肉薄する。
 “おつきさま”は手に持ったナイフを構え、閃光を迎え撃つ。

 一閃。

 ただのナイフによる斬撃と極致へと至った剣禅一如の交差。
 本来であれば前者が敵うはずも無いが、ナイフは“おつきさま”の一部として転校生の保護を受けている。

 故にナイフは閃光を受け止めても傷一つ付くことすらない。

 ――傷一つ付くことはなく、光に包まれてナイフは消滅した。

「!」

 武器の消滅に、“おつきさま”は目を見開き驚きを隠せない。
 そしてその無防備な転校生にナイフという(せき)を失った剣禅一如の閃光が襲い掛かる。

 ――極致へと至った柳の剣禅一如はただの物理的破壊に留まらない。

 非物理的領域に干渉し、論理的整合性を取り繕い、架空の因果関係を成立させる。

(『転校生は』『異世界の存在』)

 ならば。

「――『この世界に存在するのはおかしい』!」

 物理的破壊が通じないのは織り込み済み。
 本命は異世界の存在がこの世界に居るはずが無いという論理的破綻(ロジックエラー)

 実際に“おつきさま”が異世界から持ち込んだであろうナイフは因果関係の矛盾によりこの世界から排除された。それこそが転校生にも――転校生だからこそ通用するという証左。
 この世界の存在には全く効果が無く、しかし異世界の存在に対して威力を発揮する柳の新たなる切り札。

 閃光が収まる。

 ……その中からは全くダメージを受けた様子のない“おつきさま”が姿を現した。

「……」

 剣禅一如が効果を発揮しなかったことの動揺を押し殺しながら、柳は無の刀を構え直す。そんな少女を見て“おつきさま”は少しだけ感心したように口を開いた。

「哲学的エネルギーによる形而上領域への攻撃、ですか。その奥義、人の身でよくそこまで至ったものです」

 綺麗な声だ、と柳は少しだけそう思った。

「……なんで効かないの? ナイフはちゃんと消えたのに」

「確かにあなたの奥義は転校生には特攻、致命傷にはならなくても多少なりの損害は与え得る……ですが」

 そう言いながら“おつきさま”は場違いに――自嘲するように――微笑み。

「私は“御憑様(おつきさま)”。精神を侵し、形無きモノを支配する魔()。あなたの力が転校生に対して特攻であるように、私の力もまた形而上領域への干渉に対する特攻を有しています。私の一部に対してならともかく、私本体に対して通用するとはお考えの無いように」

「ムカつくなぁ。その、自分は他と違います、みたいな言い草」

「ええ勿論。――私は転校生ですから」

「……斬る」



 ――月が墜ちてくる。

 無形を携える剣士は、無形を侵す神に刃を振るう。



 斯くして舞台に役者は揃った。


 殺し屋、月光・S・ピエロ。

 仕掛け人、鍵掛錠。

 護り手、柳煎餅。


 彼らの願いは一つ。『山乃端一人を殺させない』ということ。



 転校生、おつきさま。


 彼女の願いは一つ。『山乃端一人を殺す』ということ。



 そして舞台裏には。



「私が死んだら、ハルマゲドンが起こる……? 私の命を狙って、何十人何百人もの魔人が殺し合い……?」

 とっくに誰も居なくなった崩れかけの洋服屋。

 姿見の前で少女――山乃端一人は膝を付き絶望の表情を浮かべていた。

「なにそれ……なんなのよ、わけわかんない! ずっとずっと、私は死ねって思われてたの!? 死ぬことを望まれていたの!?」

 少女の慟哭は、しかし轟音に飲み込まれる。それは魔人達の戦いによって月が破壊される音、月の欠片が地面を叩き付ける音。

「そんなの……私、何のために生きてきたの……私、何のために生まれてきたの……?」

 涙を流す少女を――姿見の中に映るスーツ姿の男は、悲しそうに見つめていた。




 ・ ・ ・




 ――山乃端一人の意識はそこで目覚めた。

「……」

 なんてことはない。自宅のベッドの上、当たり前の朝、いつも通りの光景だ。

 ただ妙に寝汗をかいていて、気持ちが悪い。

「……」

 ベッドの脇の時計を見る。針は既に11時過ぎを指している。
 前夜は23時前にはベッドに入っていたはずなのに眠気が晴れない。

 夢見が悪い。それがずっと続いている。

 山乃端はいつも知らない誰かとの夢を見ている。


 温泉旅行に行く夢を見た。

 イタリア料理を食べに行く夢を見た。

 美術館に展覧会を見に行く夢を見た。


 そしていつも――魔人に命に狙われている。


 学校で教師に襲われる夢を見た。

 武装したアウトローの集団に襲われる夢を見た。

 死体を操る少女に死体にされそうになる夢を見た。


「……眠い。けど起きなきゃ」

 気怠い体を無理やりに起こす。今日は日曜日だが、だからと言って昼過ぎまで寝過ごしていたくはない。

 ――それに、寝たらまた悪夢を見そうで。

 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを呷り一息を吐く。少しだけすっきりした、顔を洗えばもうちょっと良くなるだろうか。

「出かけないと……」

 そうだ、今日は出かける用事がある。

 ……どこに?

 ……だれと?

「……出かけないと」



 電車に揺られる。今日は人が少なく座席にかなりの余裕があってゆったりと座ることができた。

 ……眠い。揺れもあって気を抜くと意識が遠のきそうだ。

(五分だけ……寝ようかな)

 そう思って、山乃端一人は目を閉じた。


 ――山乃端さん。

 ――お嬢ちゃん。

 ――一人。

 ――はじこ。

 ――我が花嫁。

 ――ひーちゃん。

 ――一人さん。

 ――アインス。

 ――ヒットリサン。

 ――山乃端一人。


 知ってる声と知らない声がする。
 知ってる呼び名と知らない呼び名が混ざる。

 夢と、現実が、重なる。




 ・ ・ ・




 気が付けば。
 山乃端はスカイツリーの前に立っていた。
 スカイツリー『だったもの』の前に立っていた。

「……あ、れ?」

 ぱちくり、とまばたきを繰り返す。周囲を見渡す。
 誰もいない。当然だ、いるはずもない。

 発破されたかのように崩れ倒れているビル、無造作にひっくり返されたかのような道路。
 半ば廃墟と化したこの地域は先日の事件のせいですっかり避難地域となっている。
 そしてその下手人が目の前にいた。

 ――折れたスカイツリーが墓標のように突き刺さっている、巨大な怪獣。
 全身のほとんどが朽ちて塵となり、上半身のみの死体となった漆黒の龍。

 “絶黒龍”ルージュナ。

「……」

 少女は気圧されたように数歩後退りする。

 どうして自分はこんなところにいるのか。
 そもそもどうやってここまで来たのか。

「時間……そうだ、今は何時だろう」

 ぼんやりとした頭でそう思い至ってスマートフォンを取り出そうとする。そこで気付いた。

 スマートフォンが無い。というよりも手荷物が無い。
 ポーチくらい持って出ていたはずなのに。

 代わりに――代わりと言えるような物ではないが。

「……懐中時計?」

 いつの間にか首に提げられたシルバーチェーンの先、いかにもアンティークという様子の古めかしい銀の懐中時計があった。

 思わず手に取りまじまじと見つめる。それは妙にしっくり来るように感じられた。


 ――この懐中時計は山乃端家に代々受け継がれる銀時計。

 ――銀時計には魔神(デミゴッド)を封印し、使役する力を持つ。

 ――それを引き継いだ当代の持ち主こそ、


「ひっ!」

 慌てて銀時計から手を放す。チェーンによって首に提げられている懐中時計は手の支えを失い少女の胸元へと収まった。

「なに……今の、頭の中に」

 銀時計? 山乃端家? デミゴッド?

「違う、違う知らない。私の家は普通の家だし、この時計だってどこかで買ったただのアンティークだし」

 まるで誰かに言い訳をするように、少女は自らを抱きしめるように蹲りながらぶつぶつと呟く。

「やっぱり帰ろう。そうだ、帰って寝よう。最近寝不足で疲れてるから、変なことばかり考えちゃうんだ」

 ……だけど、眠ったらまたあの変な夢を見てしまうのではないか。

 心が落ち着かない。気分が悪い。頭の中が自分のものではないみたいだ。


 自分のものではない?

「……だとしたら、誰なのよ」

「――それこそ『山乃端一人』でしょう」

 声が聞こえた。
 頭に中に響く夢の話ではない、現実での呼びかけ。

 ハッと頭を上げる。龍の死体の方向から誰かが歩いてきている。
 それは女性だった。一目見て思わず美しい、と山乃端は思った。

 年齢は二十代半ばだろうか。銀色のロングヘアが目を惹く。
 山乃端を見つめる彼女の目をよく見れば、深い赤色の瞳をしていた。

「……あなたは、誰」

 山乃端は銀髪の女性にそう問うた。初対面の相手にするにはいささか失礼ではあるが、女性はそのような細かい常識の外にあるような不思議な雰囲気を携えていた。

 少女の言葉に女性は、しかしはっきりと応じないままどこか愁いを帯びた瞳で山乃端に向けて広げた右手を差し出した。

「山乃端一人」

 それは少女の名。山乃端は、彼女が自分の名を呼んでいるにも関わらず、自分ではない誰かを呼んでいるかのように感じた。

「あなたを待っていた。あなたが――あなた達“山乃端一人”が重なる時を」

 山乃端はふと、目の前の女性から視線を外した。何故か分からないまま空を見上げる。



 ――月が墜ちてくる。



「――どうか死んでください。今のあなたが死ぬことで、これからの未来から“山乃端一人”は全て消滅する。全ての“山乃端一人”が死の運命から逃れられ、もう苦しむことは無くなる」

 唖然としたまま山乃端は視線を女性へと戻した。彼女の赤い瞳に強い感情が宿っている。
 ……少女はその感情が何を意味しているかを読み取ることはできなかった。

「唯一の“山乃端一人”を、私だけが手に入れる。それが私の望み」



 閃光。

 言葉を失った山乃端に代わり、銀髪の女性へと反応を返したのは一条のビームだった。

 それは女性が山乃端に向けていた右手を振り払うかのように横殴りに叩き付けられ、その衝撃に思わず少女は両腕を自分の頭を守りながらしゃがみ込んだ。
 撒き上がる砂煙に思わずせき込む。

「世界を越えて山乃端さんのストーカー? そういう手合い、うちの柳生でイヤってほど間に合ってるんだけど!」

 ふと聞こえた聞き覚えのある声におそるおそる顔を上げる。砂煙の向こうに見えるその人物は。

「……柳さん!」

 柳煎餅。山乃端一人にとっての恩人。
 つい先日も魔人剣士に襲われた時に守ってくれた。

(そういえば、あの時もこんな風に柳さんに会ったっけ)

 見知った相手と再会できた安堵感か少しだけ気が緩む。しかし柳は油断なく構え。

「ごめんね山乃端さん。――ちょっと余裕無いや」

 柳の姿が消えた。
 山乃端にはそう思えた。

 実際には柳は常人には見えない速度で踏み込み、砂煙の中にいる女性に向けて無刀取りの刃を振るっていた。
 鋭い音と共に空気に響く衝撃。その余波で砂煙が晴れる。
 柳の無の刀と女性のナイフが鍔迫り合いのようにぶつかり合っていた。

「……ッ!」

 切り返し、柳は女性がナイフを握っていない側から突き・払いで攻め込む。

 相手の肩と脇腹を的確に穿った二撃――しかし女性は全く気にも留めずにナイフによる反撃、軽やかな斬撃は柳のそれと比べれば脅威は低く見える。

 見えるだけだ。

「ぐぅ……!?」

 無刀でナイフを受けた瞬間、柳は目を見開く。

 牽制程度にしか見えない攻撃が――御首級てがらの首級返しを次々と撃ち落とした柳の無刀取りの刃を、容易く打ち砕いた。

 止めきれない。柳は胸元へと迫るナイフが到達する直前に全身のバネで渾身のバックステップを行い、間一髪で攻撃を回避した。
 無理やりな体勢での回避だったため下がった先で不格好に地面を転がる。追撃を恐れすぐさま立ち上がるが、しかし予想外に女性は追撃を行わなかった。

「……ああ、大した魔人ですね。ですがあなたの攻撃は私に通じませんし、私の攻撃はあなたには防げませんよ。何故なら」

「――転校生、でしょ。鏡の人とかに聞いたよ」

 無刀取りを再発動し、砕かれた刀を生成する。

「逃げて! 山乃端さん、ここからすぐに!」

「だ、だけど柳さんは」

「いいから! 邪魔だよ!」

 柳の叫びに、山乃端は一瞬視線を銀髪の女性に向け、踵を返し泣きそうな表情で駆け出した。

「……それでいい。キミは死んだらダメだ」

 背中越しに走り去る気配を感じ取りながら、柳はそっと呟く。その様子を見送りながら、女性は口を開いた。

「無駄なことを。空のあれが見えませんか? ここであなたが抗ったところで、山乃端一人が逃げられるわけが……」

 轟音。

 思わず銀髪の女性が空を見上げる。プライベートジェットが月へと突撃し、作動した幾多の神の杖が空に降り注ぐ光景が見えた。

「悪いけど、こっちも一人じゃないんで」

「……なるほど。思っていたよりも、山乃端一人を守ろうとする魔人は多かったようですね。例の転校生の仕業でしょうか」

「さて、ねェ!」

 ・ ・ ・




 走る、走る、走る。

 空から地獄のような轟音が響く。背後では剣劇の音が聞こえる。

「どう、して……どうし、て……!」

 何故か溢れる涙を拭って、みっともなく逃げ回る。

 わからない。わからない。どうして。

 周囲には誰もいない。山乃端一人は独りぼっちだ。
 だけど、そういった物理的要因以外の理由で、少女は深い孤独を感じていた。

『危ない、止まって!』

 突然の鋭い声。反射的に身を震わせ足を止めた。声を主を辿ろうときょろきょろと視線をさ迷わせ。

 ――直後、前方で岩が落下し砕け散るのが見えた。

 悲鳴と共に思わず目をつぶる。頬に熱。恐る恐る目を開きながら左手で頬を擦って、手を覗く。
 左手に血が付いていた。どうやら落石の衝撃で小石が飛んで来たようだ。目に当たらなくて良かったと少し安堵して。

(……あのまま走っていたら、私潰れて死んでいた?)

 その事実を理解して背筋が冷える。数歩後退りして、そういえば先ほどの声はと思い出し。

『こちらです。あなたから見て右手側の洋服店』

 再度、声。言われた通りに右側を向く。そこには入口のガラス扉が砕け散っている洋服店があった。当然のように誰もいない。

『外で無防備にしているよりは建物の中の方が安全です、ここはまだ崩れる様子はありません。どうか入って来てください』

 ……当然のように誰もいないのに声はする。声はするのに人の気配が感じられない。

「……」

 先ほどの落石を思い返す。確かにここで突っ立っているよりは中に入る方が安全かもしれない。しかし少女は店の前で躊躇する。

『……申し訳ありません。不審なのも不安なのも分かります。それでも私はあなたの味方です』

 どうか信じて、と何故か声の方が懇願している。山乃端は大きく息を吸って、吐いて、洋服屋へと足を踏み入れた。

『ありがとうございます、山乃端一人さん』

「……私の名前も知っているのね。あなたは誰? どこにいるの?」

『あなたから見て左手側前方の姿見です。このような形でしか挨拶できないことをお許しください』

 警戒しながら、言われた通りに姿見を探す。それはすぐに見つかった。

 そして、姿見にスーツ姿の男の人影が映っているのが見えた。当然ながら、鏡の前には誰もいない。

「……」

 少女の体が緊張で固くなる。鏡の中の男は安堵させるように声をかけた。

『お察しの通り、私は魔人です。能力を使ってあなたに姿を見せています。信じて貰えないかもしれませんが、私はあなたを守る勢力の人間です』

「それは……柳さん、みたいに?」

『はい。柳煎餅さんにあなたの護衛を依頼したのは私です。山乃端さんはご存じでは無いと思いますが、彼女は以前あなたを守ったことがあり、それを知って今回スカウトいたしました』

 護衛。依頼。

 確かに柳の登場は少しばかり都合が良いタイミングではあったと思う。だが改めて言葉にされるとなんだかモヤモヤとした気持ちが山乃端の胸中に過ぎた。

『ああ、自己紹介が遅れましたね。私は鏡助、転校生……別の世界から来た魔人です。目的は山乃端一人さんを守ることです』

「他の世界? それに、私を守るって」

 鏡の中の男――鏡助は少し気まずそうな表情をして。

『……あなたは命を狙われています。そして私はこちらの世界に来ることはできますが、深く干渉することができません。そのため、協力者を募りあなたの護衛を依頼していました』

「協力者……いや、それは今はいいよ」

 それよりも、と少女は姿見に食って掛かるように。

「どうして私が狙われているの? 私はただの女子高生だよ? さっきの銀髪の女の人も……よく分からないし」

『……アレは“おつきさま”と呼ばれる怪異の一種です』

 聞きなれない言葉に、山乃端は出鼻を挫かれたように「かいい?」と繰り返した。

『“御憑様(おつきさま)”。その名の通り《憑りつき、支配する神》。アレは形而上領域へ干渉することで周囲の知的生命体の精神を浸蝕し自らの傀儡へと仕立て上げます』

 鏡助は目の前の少女がポカンとしているのを見て、一旦言葉を止め、改めて口を開く。

『簡単に言うと周囲の生き物を洗脳して自分の一部にしてしまうという怪物です。空に浮かぶあの“もう一つの月”も“おつきさま”が自らの世界の月を浸蝕した産物です』

「……月は、知的生命体じゃないと思うんだけど」

『おっしゃる通り。厳密に言うと、あの月は“おつきさま”が操る傀儡の魔人の「無機物に自我を与える能力」と組み合わせて無理やり知性を持たせた上で洗脳されています』

「その組み合わせができるならもうなんでもありじゃん。……あれ、でも」

 げんなりした様子だった山乃端は、ふと気付いたことに首を傾げた。

「その割には私はあの……“おつきさま”? と会っても平気だったけど。人を洗脳しちゃうんだよね?」

『“おつきさま”は月という強大な存在を支配するために能力のリソースをほぼ使い切ってしまい、新たに支配する対象を増やせない状態になっているのです。そこだけは明確なデメリットですね』

 ――もしかしたら、それが目的なのかもしれませんが。

 蛇足のように付け加えた鏡助の一言は、山乃端の耳には入らなかった。

「いやちょっと待って、話が脱線してる。そうじゃなくて、私が狙われてる理由は何?」

『……“おつきさま”があなたを狙う理由はあなたを手に入れるためです。その、転校生の事情になるのですが……転校生は他の世界の人間の遺体を持ち帰ることで、その人物のコピーを入手できます。それが目的でしょう』

 鏡助の説明に、山乃端は生理的な不快感を覚えた。
 人間の遺体を持ち帰る、その人物のコピーを入手する。どちらもまるで意味が分からないし、ましてや今回は自分がその対象とされているのだ。不気味だと言わざるを得ない。

「じゃあ、私の命を狙う他の人たちも同じ理由?」

『それは……』

「違うよね? だって、全員がその……転校生っていう異世界人なわけじゃないんでしょう」

 鏡助が口を閉ざしたのを見て山乃端は自身の推測が合っていることを確信する。
 性格か何か別の理由があるのかは不明だが、目の前の男は「嘘を吐かない」ようにしている。

「『私が狙われる理由』と『私が転校生に狙われる理由』は別。あなたは私が狙われていることは言いつつも何故狙われているのかは微妙にボカしている」

 それは。

「……私が最近変な夢を見ることと関係があるの? 夢の中で知らない人たちが出て来て戦っているのは本当にただの夢の話なの? そして、これが関係しているの?」

 言いながら、山乃端は首のチェーンを外し銀時計を姿見に向けて突き付ける。鏡助は言葉を選ぶように慎重に口を開いた。

『……それらは直接的に関係はありません。私も想定外の出来事ではありましたが』

「想定外?」

『私も完璧に把握できているわけではありませんが……あなたが見ているのはおそらく他の世界における山乃端一人さんです』

 先を促す。

『つまり他の世界……並行世界における山乃端一人さんも同様に命を狙われており、そして私が同じようにその世界の魔人に護衛を依頼して回っています』

「じゃあ……私が魔人の殺し屋に襲われた時に柳さんが守ってくれたみたいに」

『はい。似たような戦いが起こり……その記憶が世界を越えて混線してしまいあなたに流れ込んでしまっているのだと思います』

 くらくらする。

 自分のことでも精一杯なのに――並行世界でも自分は同じような戦いに巻き込まれていて、そして自分自身の記憶にも巻き込まれているというのか。

「……でも、私が命を狙われているのに直接的に関係は無いって言ったよね」

『その、それが理由で命を狙われているというよりは、命を狙われた結果としてそのようなイレギュラーが起こってしまったと言いますか』

「いや、わかんないんだけど」

『……すみません、謝罪します。白状をすると、本当はあなたに声をかけた時点で全てをお話するつもりだったのですが、つい躊躇をしてしまって』

 鏡の中で、男は大きく息を吐く。

『――この世界には奇妙なルール、あるいはジンクスがあります。“山乃端一人が死亡すると、ハルマゲドン――魔人による大規模な戦いが発生する”というものです』

「……は?」

 思わず呆けた声が漏れた。勿論言っていることが突拍子も無さ過ぎて理解が追い付かないというのもあるが。

「なにその、風が吹いたら桶屋が儲かるみたいな……私ただの女子高生だよ?」

『そこは重要では無いのです。“山乃端一人が死亡する”という事実が起こった時点で論理的整合性が取り繕われ、ハルマゲドンという因果関係が成立してしまう。それこそがあなたが背負っている宿命なのです』

「……」

 正直に言えば。

 山乃端は自分の命が狙われていると聞いて、“自分はただの女子高生なのに――”と言いつつも少しだけ何かがあることを期待していた。
 例えば自分が何か特別な血を引いているとか、自分が何か重大な秘密を持っているとか。

 そんな、漫画みたいな話を想像していなかったと言えば嘘になる。

 だって。


 ――そんな理由でも無ければ、納得できないじゃないか。


「……じゃあ、みんなは。私を狙い人たちは、そのハルマゲドンを望んでいるということ?」

『そうです』

「なんで?」

『ハルマゲドンまでは共通の目的ですが、その先はそれぞれです。例えばハルマゲドンの発端に由来する何かを望むもの。ハルマゲドンによって集まる魔人能力者を望むもの。あるいは、ハルマゲドンという戦いそのものを望むもの』


 ――それじゃあ、なんだ。


「ハルマゲドンの先に何か目的があって。それを手に入れるためにハルマゲドンを起こしたくって。そのためには私を死なせるのが手っ取り早いから殺そうって」

 山乃端一人は能面のような表情で、鏡助の顔を見た。

「……そういうこと? 私がどうのこうのというより、便利だから、都合がいいから――とりあえず、って?」

『……』

 鏡助が口を閉ざしたのを見て山乃端は自身の推測が合っていることを確信する。
 性格か何か別の理由があるのかは不明だが――目の前の男は「嘘を吐かない(・・・・・・)」ようにしている。

『……私はそれを止めたかった。そのために何十人という魔人に掛け合ってあなたを守るように依頼しました』

 力が抜ける。山乃端一人は洋服屋の床に膝を付いた。

『目論見としては現状成功しています。ただ、あなたを守る魔人とあなたを狙う魔人が“山乃端一人”を中心として集まったため、副産物として“山乃端一人”の記憶の混線が起こってしまったのでしょう。おそらく一時的なものですし、それ自体に直接的な害は無いはずです』

「――私が死んだら、ハルマゲドンが起こる……? 私の命を狙って、何十人何百人もの魔人が殺し合い……?」

 少女は呆然と呟いた。

 その表情には絶望が感じ取れた

「なにそれ……なんなのよ、わけわかんない! ずっとずっと、私は死ねって思われてたの!? 死ぬことを望まれていたの!?」

 ――それは違います。

 ――そんなことはありません。

 鏡助はすぐにでもそう声をかけたかった。
 だが、口を開いても言葉を紡ぐことはできなかった。

 “転校生は嘘を吐くことができない”

 故に事実を否定する慰めの言葉をかけることができない。

 山乃端一人が死を望まれているのは――どうしようもなく、本当のことだから。

「そんなの……私、何のために生きてきたの……私、何のために生まれてきたの……?」

 子供のように喚きながら、子供のように涙を流す少女。

 鏡助はすぐにでも抱き締めてあげたかった。背中を擦ってあげたかった。
 できない。この世界において、鏡助は鏡の中の住人でしかないから。

 慰めの言葉をかけることも、触ることもできない。
 絶対無敵の存在たる転校生は、今この場において誰よりも無力な存在でしかなかった。

『……山乃端一人さん。私は』

 それでも。

 それでも男は口を開く。

『私は、あなたに伝えなければいけないことがあります』

 使命を果たさねばならない。




 ・ ・ ・




「――月ピ、ルージュナと戦った時に話したことを覚えてるか?」

 時は少し遡る。

 転校生と呼ばれる存在がこの世界に山乃端一人を狙って現れると聞いた二人は、次の戦いのため準備をしていた。

「流石にそれだけでは分からんよ。ベイクドモチョモチョの件か?」

「いやあれの呼び方について話したことじゃねーよ。……無敵のルージュナに通用するトラップについて」

 手元のペンライトを点灯させる。LEDライトの光は部屋の隅、影となっていた部分を照らした。

「俺の最大火力である神の杖はルージュナには通用しなかった。……あいつに効かなかったのは、言うならばルージュナのHPと防御が高過ぎるせいで『ノーダメージでは無いが当たっても別に支障が無い』程度に抑えられていたからだ」

「――だが鏡助の説明によれば、そもそも転校生は『そもそも神の杖自体がノーダメージ』ということになるようだな。できれば一度、同じ転校生である鏡助で試してみたかったんだが」

「あいつ泣くぞ」

「ロケハンは大事だぞ?」

「ロケハンで神の杖ぶつけられるのどういう状況だよ……」

 ともあれ。

「だけど、一切合切攻撃が通用しないってわけでもないらしい。なら何が通じるかって考えてたんだけど」

「――ルージュナに閃光弾を使った時の話か」

「ああ。目で見ているってことは光の反射を受け取っているってことだから、単純な光自体は無効にできない……って理屈だったよな」

 明るい、暗い、を感知できる以上はその延長線上も感知するはず。

「なら同じように、音を聞けるなら音響兵器だった通じるよな。つまり、狙うは光と音だ」

「故に音響閃光弾(スタングレネード)ということか」

「そうそう。勿論これで倒せるとは思ってないけど、目と耳を封じられれば多少なりとも動きを阻害できるはず」

「そういえばロックもゲームで作ってたな。それ自体にはダメージは無いが、プレイヤーの動きを阻害することで操作ミスによる落下死を誘発させるステージ」

「ああ、自信作の一つだぜ」

「クソステージと評判の」

「やめろよ」

 リスナーからの「は?」コメントで埋められたこと回を思い出し少々げんなりする鍵掛に、月ピはふむと考えこみながら。

「いいアイデアだと思う。それなら、ロックの能力でこういうことはできないだろうか」

「え? まぁ、できると思うけど……」




 ・ ・ ・




 いくつもの修羅場を乗り越え練り上げられた柳の斬撃は、その一つ一つが並の剣士を容易く殺傷せしめるほどの鋭さを有する。
 もはや彼女は無理やり押し付けられた力をただ漠然と振るうだけの柳生もどきではない。

「う――おおぉぉぉぉ――!」

 正面からの踏み込み。振り上げの姿勢に“おつきさま”は抑え込むべくナイフを振り下ろす動きを見せる。
 当たらない。互いの手がすれ違うように空を切る。柳の武器は「徒手に見える無の刀」であるが今は本当に徒手を振った(・・・・・・・・・)

 想定外に生じたであろう一瞬の空白に、柳は反対の手に生成した無の刀で追撃する。

 横薙ぎ。“おつきさま”の両目をなぞる。
 視界を封じ逆胴、袈裟斬り、逆袈裟、唐竹割り、突きの反動でバックステップ。反撃を回避。

 左右の動き――フェイントだ。歩法によって右からの動きと左からの動きを錯覚させてから右から回り込む。
 歩幅と膝の伸縮をコントロールして相手にペースを悟らせない。タイミングをずらしてすれ違い様に爪痕のような三連斬。

 背後に回り込む、“おつきさま”の視界から外れた刹那、如何なる技術か柳は音も無く逆上がりのように跳躍した。
 振り返った“おつきさま”は柳を見失う。相手は頭上にいるというのに。

 空中でVの字を描くように眼下の“おつきさま”の両肩を切り裂く。本来であれば肩ごと腕を切り飛ばしている攻撃だ。
 猫のように体勢を入れ替えて足から着地、低い姿勢のまま“おつきさま”の踝、膝裏、腿をジグザグに斬撃した。

 目、脇腹、上腕、下腹部、額、鳩尾、首筋、鎖骨、肘、肩、踝、膝裏、腿。

 全てを攻撃した。全てが効果が無かった。

(分かっては――いたけれど――)

 “おつきさま”のナイフを回避する。こちらの渾身の攻撃を連続で直撃させてもかすり傷も無いのに、相手のこのふわりとした攻撃が当たれば大ダメージなのはまるでリスクとリターンが見合っていない。

(だからと言って、止まる算段も無いけども!)

 ナイフの振り終わりに合わせて“おつきさま”の手の甲を無刀で打撃する。
 ダメージは無いとしても一切の物理的影響が無いわけではないようで、“おつきさま”は衝撃にナイフを手放した。
 地面に落ちたナイフを即座に蹴り飛ばす。無意味だとしても一手一手を積み重ねるしかない。

 無刀を握り直し、再び攻撃を体勢を取ったところで――“おつきさま”が無造作に手を伸ばして来た。
 反応が遅れた。だって、徒手の相手が無防備を晒したまま絡んで来るなんて普通はあり得ないから。

 だが。

(しまっ――)

 “おつきさま”の細指が、柳の左上腕をそっと握る。

 そして、ぶちぶちと肉が千切れる音がした。

 後退るのがあと数瞬遅かったなら左腕が引き千切られていたかもしれない。

()ぁ……!」

 肉が抉られた左腕を庇いながら、まだなんとか動かせることを確認する。

 ――まだ常識に囚われてしまっていた。

 転校生にとって武器の有無に大きな差は無い。ナイフだろうが素手だろうが、容易くこちらをバラバラにできるのだから。

 “おつきさま”は握り取った柳の肉片を興味なさげに放り捨てた。

「ハンカチくらい用意しておくべきでしたね」

 そう言いながら、血で濡れた右手に再び取り出したナイフを握る。さらに今度は反対側の手にもナイフが握り込まれていた。
 少なくともこれで四本目のナイフのはずだが、あの衣装のどこに隠したいたのだろうか。

「へへっ……なに、お嬢様気取り? ストーカーの癖に」

「――さて、どうでしょう」

「……?」

 挑発にもならないただの軽口に、しかし一瞬“おつきさま”の感情が揺らいだように柳は感じた。

 しかしその意味を考える間もなく。

「――ハッ」

 短い呼気と共に、両手にナイフを構えた“おつきさま”が踏み込む。歩法も剣術も柳に比べれば決して優れたものではない。

 だがその動作の一つ一つが致命的な威力を有しているのなら。

「ちっ、くそっ、このぉ!」

 二刀による斬撃を首を逸らし、体を捻り、脚を曲げ、全身を伸ばし回避する。

(左腕――動く、けど流石にいつもと同じようには無理。それに何度もは刀を振れない――!)

 バックステップで距離を取り、詰められる前に右手の刀を閃かせる。ここはまだナイフの距離じゃない。

 狙いは“おつきさま”の左手の甲。『せめてナイフを減らす』という意図で放たれた一閃は、しかし左手に握られたナイフを器用に返し、“おつきさま”は逆手に持ち替えたナイフの刃で無刀を迎撃した。

「流石に狙いが見え見えで」

 ガン、と“おつきさま”の言葉は物理的に止められた。
 『せめてナイフを減らす』という意図が見え見えなのは当然、そのための見せ札なのだから。

 ――ダメージが通らないなら武器を狙う。
 ――左腕は損傷があるから温存する。

 それらを踏まえた上で、右手の刀を囮にした左手の本命。

 強烈な突きが“おつきさま”の顔面に叩き込まれ――白く発光する。

「『剣禅―――一如』」

 柳の奥義が、“おつきさま”の顔面で炸裂した。

 至近距離での『剣禅一如』。その哲学的エネルギーの奔流は流石に反動を抑え切れず、柳の体を吹き飛ばした。

「ぐ、が、ああああぁぁぁぁ!」

 左腕を庇いながら地面を転がり、堪え切れずに苦悶の声を上げる。
 損傷した左腕で突きを放ち、炸裂させた反動をもろに受けたのだから当然だ。むしろ腕がまだ千切れていないのが幸運とすら言える。

「本当に――大した人間ですね、あなたは。素直に賞賛に値します。」

 ――閃光と砂埃が収まった中から姿を見せた“おつきさま”は当然のように無傷だった。

「本当に……相手が私ではない、ただの転校生であればもしかしたら倒せていたかもしれないのに。哲学的エネルギーによる干渉も、浸透する前に浸蝕してしまえば――このように」

 銀髪の女性は肩を竦めて柳を見遣る。

「そもそも、私が持ち込んだあの月はどうするつもりですか? まだ距離があるから大丈夫だと思っているのかもしれませんが……」

 空を見上げる。小さな月を迎撃すべくロックと月ピがカタパルトで分身(ピエロ)を射出し、神の杖を起動。降り注ぐ金属棒が巨大な岩塊を砕いて行く。

 その奥に見えるもう一つの月は未だに傷一つ付けることができていない。

「引力の関係上、あの月はこの地球に近付けば近付くほど加速します。閾値を越えたらあっという間に終わりです。どうしても止めるのなら"最後の一線”を越えるまで留めておくしかありませんね」

「……あんた本体には通じないって言ってたけどさ」

 柳は無刀を杖代わりにしてフラフラと立ち上がる。その目の闘志はまだ消えていない。

「じゃあ、剣禅一如をあの月にぶち当てたら? それなら消えるんじゃない?」

「無理ですよ」

 転校生は断じた。

「まず大前提として射程が足りません。あなたのビーム、何キロ先まで届きますか?」

「……」

 歯噛みする。何キロ先どころか数百メートルすら怪しいだろう。

「仮に射程の問題が解決したとしましょう。ですが、そもそも出力不足です。存在の大きさという観点では私本体よりもむしろ月の方が大きいですからね。月だけでは私のように哲学的エネルギーの干渉そのものを無力化することはできませんが……まぁクレーターを開けるくらいはできるんじゃないですか?」

 見下して過小評価をしているのではない。“おつきさま”本人が互いの力量を見た上での見解がそれだった。

「繰り返しますが、あなたは大した魔人ですよ。お仲間の二人も頑張ってはいます。――でも、それだけです。実力者が最適解を選び続けても必ず勝てるわけではありません」

「……」

 無言のまま、柳は無刀を上段に構えた。光が、白い閃光が刀へと収束する。

「『剣禅』――」

「だから、効かないと言っているでしょうに」

 そう言いながらも“おつきさま”は柳の狙いを考える。この剣士は自棄になって奥義を振り回すような半端者ではない。
 牽制であれ、目くらましであれ、この局面でそれを撃つことに何らかの意図があるはず。

「――キャンセル」

 だから、その光が消えて柳がバックステップしたのを見た時、“おつきさま”は思わず呆けた反応をしてしまい。



 頭上からの岩塊に圧し潰された。



「……あんな力技で岩を破壊してるのに、ここまで精密に落とすとかどんな操作技術してるのよ」

 眼前で、“おつきさま”が小さな月の欠片の下敷きになるのを見届けた柳は、それをやらかした二人の手腕に呆れとも賞賛とも取れる言葉を漏らした。

 つまりこういうことだ。鍵掛と月ピの二人は小さな月の迎撃作業の最中、“おつきさま”の相手をしている柳の旗色が悪いのを察し、落石によって援護攻撃を仕掛けたのだ。

 ――空中で迎撃した岩塊をピンポイントに敵の上に、そして柳が巻き添えを喰らわないように落とすというのがどれほどの技術を要求されるのかは想像もできないが。

(とはいえ。これであの女が死んだとは思えない)

 空を見上げる。もう一つの月が地球に迫ってきている。

 ――ですが、そもそも出力不足です
 ――まぁクレーターを開けるくらいはできるんじゃないですか?

 先ほどの会話。“おつきさま”は柳の剣禅一如でもう一つの月を消滅させることは到底不可能だと断じた。

 “攻撃が通用すること自体”は否定しなかった。

(転校生に私達の攻撃が通じないのは私達が転校生じゃないから。だったら、転校生の力を有している“もう一つの月”を一部だけでも破壊して、その欠片で“おつきさま”の本体を攻撃できるかもしれない)

 当然ながら、それは困難に困難を重ねた蜘蛛の糸のように細い細い仮定だ。
 それでも理屈を繋ぎ合わせる限りは不可能だという証拠はない。

(やろう。ここでこいつを延々と相手しているよりも、まだ勝機が見え)

 そして、ぶちぶちと肉が千切れる音がした。

 左足の肉が爆散する音だった。

「――は?」

 体の支えを失って不格好に倒れる。

 見れば、柳の左足の腿肉が飛び散り、骨が剥き出しになっていた。流血が止めどなく溢れている。

 しばし、その意味が理解できず――視線を動かして前後を見遣って。

「……うわぁ、マジかぁ」

 己の迂闊さを悟った。


 背後の地面にナイフが突き刺さっていた。

 “おつきさま”を圧し潰した岩塊に、ちょうどナイフ一本分の穴が開いていた。


「岩の中からナイフを投擲したってコト? いくらなんでも……パワープレイ過ぎるでしょ」

 考えてみればナイフを主武装としておきながらナイフ投げを一切行わなかったのは布石だったのか。

 岩を押し退けて脱出するのではなく、岩自体を隠れ蓑にして安全に狙撃できると気付いたのか。


「――可能性は、潰しておくべきです」

 ナイフで文字通りに岩を切り開きながら“おつきさま”が現れる。彼女は足に甚大なダメージを受け横たわる柳を見て満足そうに頷いた。

「結局のところ、転校生に干渉できるのはあなただけ。先ほどは不可能だとは言いましたが、それでも月に攻撃を通す目があるのはここではあなただけ」

 故に。

「あなたさえ殺せば、もう私を止める手段は無い」

 ――正真正銘、柳には手詰まりだった。

 この脚ではもはやまともに立ち上がることすらできるかどうか。

 そしてこの出血量。

(ああ、これは死んだな)

 どこか冷静に、柳は自分を分析した。
 仮にこの場を無事に離脱できたところで、適切な処置を行わなければもうすぐ死ぬ。
 適切な処置が行える頃にはこの地球が終わっている。

 そして眼前には自分にトドメを刺そうとしている転校生。

(あーあ、ごめんね山乃端さん。最期の言葉が「邪魔だよ」になっちゃった)

 それでも。

(あなたを守りたいという、約束は守るよ)

 柳は自身が持つ全てを、ありったけを、集中させるイメージを組み上げる。

 最後の最期。柳煎餅という人生を掛けた渾身の『剣禅一如』。

 ――例え全てを費やしても、容易く無効にされ何の成果も遺すことができないかもしれない。

 それでも。

(それが億に一つの可能性でも――それ未満だとしても構わない)

「――何かを企んでいますね」

 “おつきさま”の警戒した声が聞こえる。流石に察されたようだ。

(……相手を油断させることはできない、不意打ちもできない。可能性はさらに狭まった)

 それでも。

 千切れかけの左腕と剥き出しの左脚を奮わせて立ち上がる。

「……これが私の最期の一撃だよ、転校生」

 白く輝く閃光の刃を構え、あえて堂々と宣言する。

「どうやらそのようですね。……それが分かっていて、わざわざ不用意に受けるとでも?」

「まさか。でも、これで斬るよ」

「できませんよ、そんなこと」

「斬る」

「……」

 もはや互いに言葉は不要。

 柳は剣禅一如の構えのまま動かない。

 “おつきさま”はナイフの投擲と回避行動をいつでもできる姿勢を取る。

 外せば、無駄死に。

 当たっても、おそらく無駄死に。


 そして。


 そして。


 そして――。



 カタパルトで射出されたピエロが“おつきさま”へと飛び掛かった。


「――!?」

 突然の闖入者に流石の“おつきさま”も動揺を隠せず、猛烈な勢いで自らへとしがみ付いて来たピエロに地面に引きずり倒された。


 絶対的な隙。

 剣禅一如を放つなら今しかない。


 なのに。

(――まだだ(・・・)

 柳本人も理由が分からない。

 なのに何故か、まだ放つべきではないと本能が叫んでいる。

 故に、それに従った。


「いい加減に……!」

 “おつきさま”の左手がピエロの顔を掴む。ピエロの顔はメキメキと潰れていく。

「止まりなさい!」

 そのまま右手に握ったナイフをピエロの胸部へと突き刺した。
 それはバターのようにまるで抵抗を感じさせずに深々と貫き。

 そして、ピエロの懐に入っていた箱状の装置をも貫いた。



 ――つまり、狙うは光と音だ

 ――それなら、ロックの能力でこういうことはできないだろうか


 ――落雷のトラップ



 バリバリバリバリ――――

 装置が作動し、天より夥しい雷が落ちた。
 それは、強烈な光と音を伴った電撃。


 転校生であろうとも、一時的に視覚と聴覚を奪うほどの。


(これ、は)

 “おつきさま”の視界が真っ白に染まっている。何も見えない。
 他方で感覚以外には肉体的損傷を受けていない。そこは転校生の守りを破れなかったようだ。

 だが、“おつきさま”を動揺させたのは。

(この攻撃――味方ごと(・・・・)――)

 そうだ。この攻撃は間違いなく同じ戦場にいた柳すらも巻き込んでいる。

 既に半死半生の身。防ぐことも躱すこともできるはずがない。

(ならば、瀕死の味方を見限りましたか。――愚かな。あの剣士の奥義は、限りなくゼロであっても私に届き得る唯一の手段だったのに、それを放つ前に死なせるとは)

 ――放つ前?

(……そもそも何故彼女は隙だらけの私を撃たなかった? 通じるかどうかはともかく、千載一遇の機会だったはずでは?)

 撃てなかった?

 撃つ必要がなかった?

 ――これから撃つつもり(・・・・・・・・・)だから?


 視覚と聴覚が封じられた最中。

 “おつきさま”は確かにそれを感じ取った。


 かつて立花道雪は、雷と共に現れた雷神を斬り、その刀に“雷切”の名を与えたという。


 ――切っ掛けは墓地で戦った隼侍の技だった。

 ――為したのは駐車場で戦った御首級てがらの奥義を討った時だった。


 無を刃をするのなら。

 雷を手にできぬ道理はなく。


「――“無刀取り”」

 柳煎餅は、己の身を焼く雷を刃として留め、その右手にしっかりと握り込んでいた。

 自らの全てを、ありったけを込めた。そこにさらに雷の力を注ぎ込む。

 姿勢は低く、体をやや左に捻りながら、右手に握った刀を構える。


 ――柳煎餅

 ――お前を

 ――『感電死(・・・)』で殺す


(律儀というか、まどろっこしいんだよ、殺し屋!)


 解放。

 全身を発条にして雷刀を逆袈裟に斬り上げる。


「“剣禅一如”―――――!!」

 ・ ・ ・




 “おつきさま”は攻撃が放たれたのを感じ取った。

(このエネルギー……一体何の小細工を。いいえ、それでも私には通用しません)

 両腕を交差させて盾にする。無防備に受けても防ぐ自身はあるが、懸念材料は一つでも潰しておくに越したことはない。


 果たして。

 攻撃は来なかった。

(……?)

 攻撃は間違いなく放たれたはずだ。なのに“おつきさま”の身は何も受けていない。

(正真正銘、彼女の最期の、最大の攻撃だったのでは)

 そこまで思考が至ったところで。

(――しまった)

 “おつきさま”は自分の中で何かがごっそりと失われたような感覚を覚えた。

(狙いは……私じゃない)

 気付いた時には既に遅かった。


 剣禅一如。

 柳煎餅が最期に放った白き雷光の斬撃は空を裂き、天に昇り。

 “もう一つの月”へと、到達した。


 ――極致へと至った柳の剣禅一如はただの物理的破壊に留まらない。

 非物理的領域に干渉し、論理的整合性を取り繕い、架空の因果関係を成立させる。


(『月は』『自我を』)

「……『持たない』」

 転校生の否定が通じないのは織り込み済み。
 本命は月が知性を持つはずが無いという論理的破綻(ロジックエラー)

 その結果どうなるのか。

 “おつきさま”による精神侵蝕を受けることでもう一つの月は彼女の一部として認識され、転校生の保護を受けている。
 “おつきさま”による精神侵蝕は知性を持つものにしか通じない。
 “おつきさま”の傀儡の魔人によって自我を与えられ、精神侵蝕の条件を満たしている。

 それが、剣禅一如によって否定される。

 もう一つの月は自我を持たない。
 もう一つの月は精神侵蝕を受けない。
 もう一つの月は“おつきさま”の一部と認識されない。

 もう一つの月は、転校生の力を失う。


「……待ってたぜ。これでようやく、本命が行ける」

 一部始終を見届けた仕掛け人――鍵掛は不敵に笑い。

「どこから手に入れたか知らないけどよ、月ピ、ありがたく使わせてもらう。――ぶちかませェ!」


 ――もう一つの月に、カタパルトトラップによって射出されたスペースシャトルが衝突した。


 当然のことながらシャトルは大破。
 そして、内部に可能な限り詰め込まれ搭載されていたトラップが起動する。

 いつもは空から地上へ向けて。今回は空から宇宙へ向けて。


「“神の杖(ロッズ・フロム・ゴォォォッド)”―――!!」

 ――地球へ迫るもう一つ月へと放たれる数百を越える神の杖。

 それらは次々に月の表面へと突き刺さり、宇宙へ向けて押し返していく。

(これで破壊できるとは思ってない。これで無限に押し留められるとも思ってない。――だけど、時間稼ぎはできるだろ!)

 鍵掛は月を見上げながら拳を握る。彼ができることはやった。後はもう、託すしかない。

「――頼む」




 ・ ・ ・




 “おつきさま”は、もう一つの月が自分の支配から離れたのを理解した。

(ですが、それでも――例え転校生の力を失ったとしても、もう一つの月は単純な質量でこの世界を滅ぼし山乃端一人を殺害します)

 そうだ、彼女の寿命が少しばかり延びただけ。

 なのに、“おつきさま”の胸中に何とも言えぬ不安感が過ぎる。

「いいえ、いいえ……いいえ! 転校生に対応し得るあの剣士はもういません。これで、今度こそ」

 終わりだと、そう言葉にしようとして。

「――《Au clair de la lune,Mon ami Pierrot(月の光と、我が友ピエロ来れり) 》」

 落雷の影響から回復しつつある聴覚に、そのような歌が聞こえた。

 打撃。

(これは――攻撃を受けている?)

「――《Ma chandelle est morte, Je n'ai plus de feu(私の灯は消えてしまった) 》」

 まだ視覚が回復し切っていないためはっきりと認識できていないが、“おつきさま”の周囲を誰かがすれ違いながら攻撃を仕掛けている。

(これは……二人。主に攻撃しているのは一人ですが、他の一人も攻撃の機会を伺っている)

 とはいえ。先ほどの剣士とは違い、行われているのは単純な物理攻撃。これならまだ先ほどの方が危機感があった。

「――フッ!」

 接敵に合わせて腕を振り回す。攻撃者と“おつきさま”、互いの攻撃が互いに命中したが結果の差は歴然。“おつきさま”はかすり傷一つなく、攻撃者は素手の一撃で引き裂かれた。

「――《Ouvre-moi ta porte, pour l'amour de Dieu.(頼む友よ、扉を開けてくれ) 》」

 そのはずなのに。
 引き裂いたはずの攻撃者が、すぐさま復帰して再度切りかかる。

(これは……召喚能力? なるほど、分身を生み出して安全に攻撃を行っているわけですか)

 先ほどと同じように、攻撃に合わせてカウンター。また現れた分身に攻撃に合わせてカウンター。
 何度やってもキリが無い――それを相手も感じ取ったのか、攻撃が止んだ。

(この気配は……三人? タイミングを、合わせているようですが)

 少しずつ視界も戻ってきた。ぼんやりとだが周囲が見えるようになっている。

(連携攻撃でどうにかしようと……そういうつもりですかね。努力は認めますが、無駄なことです)

 ――左前方、右前方、少し遅れて後方。
 三方向から攻撃者達が飛び出してくる。

 “おつきさま”はあえてそれを受けることにした。どうせ当たったところで被害は無いのだ、おそらく本命であろう最後の一発に合わせてカウンターを繰り出す。

 左前方、ナイフ攻撃か。投擲と、すれ違いながらの斬撃。無防備のまま受ける。

 右前方、鎖に繋がれた鈍器。振り回し、“おつきさま”の胸元へと振り下ろす。無防備のまま受ける。

 後方、これが本



 ――ドス。

 攻撃が突き刺さった。



「―――え」

 後方はまだ来ていない。これは二人目の攻撃。鎖に繋がれた鈍器による振り回しが“おつきさま”の胸元へと深く喰い込んでいた。

「なに――え、なにが……」

 理解できない。理解できないまま数歩たたらを踏む。

 視覚が回復しつつある。

 視界が戻りつつある。

 “おつきさま”は、顔を上げた。二人目の攻撃手の姿を見た。


 泣きそうな表情をしていた。というより、実際に涙の痕があった。
 震えていた。恐怖か、不安か。顔は真っ青だ。

 それでも、その目には決意が秘められていた。
 その手には、鎖が握られていた。

 鎖の先には、銀時計が繋がれていた。


「あ……」


 それが、誰か分かった。

 “おつきさま”は呆然としたまま、その少女の名を呟いた。





 最終話 山乃端、一人





『私は、あなたに伝えなければいけないことがあります』

 洋服店の中で、姿見の中の鏡助は泣きじゃくる山乃端にそう言った。

「……聞きたくない」

 蹲ったまま、少女は子供のようにイヤイヤと頭を振って拒絶する。

『いいえ、聞いてもらいます。何故ならそれが私がこの世界に来た理由だから』

「聞きたくない! それって、いい知らせなの!?」

『……』

 転校生は嘘を吐くことができない。鏡助は山乃端の言葉に少しだけ逡巡して。

『……それはあなた次第です。この“伝言”自体に深い意味はありません』

「伝言……?」

『――“山乃端一人”のご両親からです』

 その言葉に、少女はハッと顔を上げる。だがすぐに眉をひそめて。

「それって……“どの”山乃端一人?」

『……私の世界の山乃端一人です』

「なら、先に教えて。あなたの世界の山乃端一人と……そのお父さんとお母さんは、どうなっているの」

『――死にました』

 ……半ば予想していたことではあった。そもそも並行世界の自分とその家族だなんて、下手な他人よりもよっぽど縁遠い、無関係の存在だ。

 それでもその端的な言葉は少なからず山乃端にショックを与えた。

「……そっちの山乃端一人も、ハルマゲドンのせいで?」

『そうですね……ハルマゲドンを目論む勢力に狙われ、刺客を差し向けられました。両親は彼女を守るために立ち向かい……殺され、最終的に山乃端一人本人も』

「……」

『私はご両親の最期に立ち会いました。ですが、山乃端一人さん本人は守ることができず……』

「――バッカじゃないの」

 吐き捨てるように、山乃端は言った。

「なによそれ。それじゃああなた、娘に伝えられなかった言葉を、赤の他人(・・・・)である私に伝えようとしているの?」

『……結果的にはそうなります』

「それじゃあ尚更嫌よ! そんなの聞かされたってあなたの自己満足じゃない!」

『――その通りです!』

 突如響いた男の大声に、ヤケ気味だった少女がびくっと震える。
 ――鏡助がここまで感情を露わにしたのは初めてだった。

『そうです、私は! 私は……ただの自己満足のために世界を渡り、山乃端一人を守ろうとしています。そのために、何十人もの魔人を巻き込んで!』

 だから。

『私は最低の存在です。結局は、あなたを殺してハルマゲドンを起こそうとしている人達と同類かもしれない』

 だけど。

『――それでも! それでも私はあなたに“違う”と言います!』

「……“違う”? 何が違うっていうの」

 迫力に気圧されながらも、山乃端はそう返す。鏡助は大きく息を吸って、その言葉を紡いだ。

 ――私、何のために生きてきたの
 ――私、何のために生まれてきたの

「それって、さっき私が……」

『そうです、あなたの絶望です。そして――』

 ――私の世界の山乃端一人の絶望でもあります。

「……」

『――“違い”ます。“違う”んです。だって……生まれたことや生きていることに、あなたが思い悩む必要なんて無い!』

 叫ぶ。

 鏡助は、かつて勝利数0(正義)だった男は叫ぶ。

『生きてください! 理由なんていい、ただ生きていて欲しい! edel(高貴)でなくても、weiß(潔白)でなくても! 生きていることは……尊いことなんですから』

「……」

 純粋なまでの想い。それを受け止め切れず、山乃端は俯いた。

「……ダメだよ。だって、"山乃端一人”は……ずっと死を望まれて、死を願われて……」

『――これでようやく、最初の話ができます』

 え、と少女は顔を上げる。二人の目が会う。

『山乃端さん。私は、あなたに伝えなければいけないことがあります。“山乃端一人”のご両親からです』




『”一人”』




『“うまれてきてくれて”』




『“ありがとう”』




 ・ ・ ・




「――わあああああああああああ!」

 山乃端一人は叫びながら銀時計が繋がられたチェーンを振るう。

 銀時計は鈍器のように、“おつきさま”の肩に叩き付けられた。

「あああああああああああああ!」

 技も術もなく、子供のようにチェーンを振り回す。

 銀時計は“おつきさま”の脇腹に突き刺さった。

「うううううううううううぁぁぁぁ!」

 山乃端本人も何をしているのか分かっていないかもしれない。

 それでも、繋がられた銀時計は“おつきさま”の顔面に打ち付けられた。


 その打撃の全てが“おつきさま”に明確なダメージを与えている。


 原則として転校生に攻撃が通用するのは同じ転校生だけである。

 ならば、山乃端一人は転校生になったのか?


(――違う。この山乃端一人は、転校生は愚か魔人能力者ですらない)

 銀時計を何度も打撃されながら“おつきさま”混乱し切った頭で思考を続ける。

(ただの一般人が、転校生を相手に攻撃を通している……!?)


 それはあり得ないはずのこと。
 だがそもそも何故あり得ないのか?

『「自己の認識を他者へと強制する力」――それが魔人の能力の本質です』
『そんな魔人の中でごく稀に――試練を乗り越えることによって「自分は魔人を越えた特別な存在である」と、そう認識する個体がいます』
『それこそが転校生、魔人を越えた魔人』

 自分は特別な存在であると自己認識することによって、認識によって世界を歪めるという魔人の在り方をさらに高い階位で為している存在。
 それが転校生。それに対抗するには世界を歪めるほどの影響力と、自分は特別であるという自己認識。その双方が無ければ足りない。


 だがそもそも、試練を乗り越えることでしか自分を特別だと認識できないのだろうか?


『うまれてきてくれてありがとう』

『理由なんていい、ただ生きていて欲しい』


 彼らが真にその言葉を贈りたかった山乃端一人は彼女ではない。

 それでも。
 世界を越えて彼女にその言葉を贈ることに躊躇いも迷いも、間違いも無い。

 それは"祝福”だ。
 例え生まれたことの意味に苦悩し、生きることの理由に絶望したとしても。

 生まれたことを、生きることを。
 意味もなく、理由もなく、肯定すること。


 ――それを、愛と呼ぶ。


 あらゆる世界、あらゆる時空において、その死がハルマゲドンの引き金となるほどの影響力を持つ山乃端一人が。
 あらゆる世界、あらゆる時空を越えて、「自分は大切な人に愛されている」のだと自己認識をしたのなら。


 ――たかが神(・・・・)に認められた程度の転校生が、どうして無敵であると言えるのか。


 それでも、本来は辿り着けない領域だった。

 ただ山乃端一人が自己認識をしただけでは転校生に敵うまでは行かなかった。


 ――ここに、さらに二つの要素が重なった。


 一つ。それは山乃端が武器にしているのが銀時計であるということ。

 この世界の山乃端一人にとってこの銀時計はただのアンティークだ。
 だが並行世界の“山乃端一人”が混線したことにより、「山乃端一人の銀時計は、山乃端家に代々受け継がれる魔神(デミゴッド)を封印する魔器である」という“認識”が適用された。
 それは魔神である“おつきさま”にとって特攻武器に他ならない。

 もし山乃端が扱う武器が刀剣や銃器であったのなら、それが優れた物であっても攻撃は通らなかっただろう。


 そして、二つ目の要素。それこそが、山乃端が“おつきさま”に到達する最大の理由。


「わあああああ! わあああああ! ああああああああ!」

 少女は無我夢中に銀時計を振り回す。魔神(デミゴッド)封印の魔器は“おつきさま”の存在を一撃ごとに削り取っていく。

 その気になれば“おつきさま”は抵抗ができた。月ピが備えて反撃を潰す構えこそ取っているものの、転校生である“おつきさま”が本気で抵抗すればただの魔人など障害にもならない。

 なのに。もはや“おつきさま”は戦意をほとんど失っていた。

(……どうして。目の前に山乃端一人がいる。目標がいる。この少女を殺して持ち帰れば、私の願いが叶う。なのにどうして私の体は動こうとしない)

 “おつきさま”は自問を繰り返す。……答えの分かり切った問いを。


 ――“おつきさま”は山乃端一人を見る。

 美しいというよりは愛らしい整った顔立ち。

 戦いの恐怖に震えながらも逃げずに立ち向かう勇気。

 倒すべき悪であっても力を振るうことに躊躇う優しさ。


 ああ。

 ああ――。


 空を見上げる。そこにはもう一つの月。“おつきさま”が自分の世界から持ち込んだ――かつて誰かと一緒に見上げた月が。


 振り下ろされる銀時計は、“おつきさま”の心臓を目掛けている。


 “おつきさま”は無防備にそれを受け入れた。


 最期に。目の前の少女を見て思い出した、目の前の少女ではない誰かのことを口にしながら。


「―――お嬢様(・・・)


月が、綺麗ですね(I love you.)―――」



 二つ目の要素。

 転校生(おつきさま)自身が、山乃端一人を愛していたということ―――




 ・ ・ ・




 ――告別式はつつがなく行われた。

 故人は夫に先立たれており、自分の葬式は盛大にやる必要は無いと生前からこぼしていたようだが――縁の多い彼女らしく参列者も中々の数になってしまったようだ。
 長男が喪主として立派に役目を果たし息子夫婦と娘夫婦がそれぞれ式を取りまとめていた。

 テルは娘夫婦の第三子、今年で八歳になる小学生だ。
 祖母のことが大好きだった兄や姉はお別れに泣きじゃくっていた。勿論テルだって祖母のことが大好きだ。
 だけど、祖母の遺体の遺体と面会した時。

「――おばあちゃん、おつかれさまでした」

 なんてことを言い出したものだから、周りから不思議がられていた。実はどうしてそんなことを言ったのか、テル自身もよく分かっていなかった。
 ただ、祖母はずっと頑張っていたのではないかと思ったのだ。

 火葬の最中はしばらく暇になってしまい、テルの兄や姉は親戚たちとお話をしているようだが、テルは手持無沙汰に斎場の入り口をうろついていた。
 そうしてテルは、斎場の入り口に立っていた喪服姿にサングラスをかけた男性を見つけた。

「……?」

 まだ子供のテルにもその人が不思議な恰好をしていることくらいは理解できた。
 もしかして不審者だろうか?

 だけど、この喪服という黒い服は葬式で礼儀正しい服装であると聞いていたから。

「こんにちは、おじさん。おばあちゃんに会いにきたの?」

 きっとそうなのだろうと思い、声をかけた。

 男は少し驚いた様子で、しかし膝を曲げてテルと目線を合わせて口を開いた。

「そうだな。故人に……君のおばあさんに挨拶に来たんだ」

「なら、中に入らないの?」

「それが、おじさんはちゃんとしたお客さんじゃないから入ったら怒られてしまうんだ。秘密にしててくれないか」

「うん、わかった」

「ありがとう」

 頷く男に、テルはこの人は悪い人ではないと思った。

「おじさんはおばあちゃんの知りあいなの?」

「昔、仕事で少し関わりがあってな。強い人だったよ」

「それじゃあ、おじさんも先生だったの?」

「先生? ……そうか、彼女は最終的に希望崎学園の教頭になったのだったか」

 因果な物だ、と男は呟いたがテルにはよく分からなかった。

「私は先生ではない。実を言うと、今日は以前の仕事の完遂を見届けるために来たんだ」

「かんすい?」

「仕事がちゃんと終わったかを見に来たってことだ」

「ながいお仕ごとだったんだね」

「本当にな」

 男は肩を竦めた。

 ――本当に長い仕事だった。

 何せ、最初に依頼を受けてから彼女の死を見届けるまで三年も(・・・)かかったのだから。


 結局、あの“おつきさま”と呼ばれる転校生を撃破してから、山乃端一人が命を狙われることは無くなった。

 死の運命に付き纏われた女性。果たして、「ただの一般人が転校生を撃破した」という事実が因果にどれほどの影響を与えたのか。


 不思議なもので山乃端一人はあの戦いの日々をはっきりと覚えていないようだった。

 かく言う月ピ自身も、気を抜くと山乃端一人に関する記憶が表向きの歴史の情報――享年八十二歳――にすり替わることがあった。


(それだけ彼女の運命は世界に影響する数奇なものであったということ。そしてその宿命を他でもない、彼女自身が自ら打ち破ったんだ)

 だとすれば。山乃端一人があのカードを選び取ったのも当然のことだったのかもしれない。


 男は立ち上がった。

「さて、それじゃあ私はそろそろ帰る。少年、ちゃんと私のことは秘密にしておいてくれよ」

「うん。……だけど、もう帰っちゃうの?」

「仕事が立て込んでてな。それでもちゃんと来れて良かった。――君に会えてよかった」

「? そっか、よかったね」

 よく分からないが、男が嬉しそうだったので多分良いことなのだろうと思った。


 男は踵を返し、斎場の入り口から去っていく。
 バイバイ、とテルは手を振って見送った。男も背を向けたままヒラヒラと手を振って応えた。

 そろそろお母さんに呼ばれるかもしれない。
 テルは足早に、家族が待つ広間へと歩いて行った。




 Au clair de la lune,Mon ami Pierrot.(月の光と、我が友ピエロ来れり)

 Prête-moi ta plume pour écrire un mot.(言葉を記すため、ペンを貸してくれないか)

 Ma chandelle est morte, Je n'ai plus de feu(私の灯は消えてしまった)

 Ouvre-moi ta porte, pour l'amour de Dieu.(頼む友よ、扉を開けてくれ)



 Mais je sais qu'la(――ああ、そうか)

 porte sur eux se ferma.(扉はもう、開かないのだな)
最終更新:2022年04月23日 23:05