じゃらり。
指に引っ掛けるようにぶら下げた鎖の下で、ゆらゆらと揺れる銀時計。
文字盤を覆う上蓋にはうっすらと割れた痕が残っている。
修理は完璧と言える。
外装だけは溶接して使いまわし、中の部品は総入れ替え。
カチカチカチカチ。
内部機械の駆動音は絶え間なく。
針は正確に時を刻む。
「どう、使えそう?」
隣の一人は時計ではなく俺の顔を覗き込む。
心配そうな表情を作らず平静を保とうとしている様子。
かえって気遣われてる感じがする。悪い気はしない。
俺は口角を上げて頷いた。
「ああ、これで時刻がバッチリわかる」
外装だけを引き継いだ、完全なる新品だ。
テセウスの船。
この時計は親父から貰ったあれとは違う。
つまるところ、俺の魔人能力はもう完璧に使えなくなったと理解できた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
DANGEROUS SS EDELWEISS : Last Episode of Yamanoha Bamma / TOKYO ZAPPING
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それから。
鍵を回す。ガチャリと鳴る。
ステンレスのドアノブを掴んでゆっくりと扉を開く。
久しぶりの玄関口からは冷たくて埃っぽい空気が流れてきた。
そしてなにより暗い。
家の中には誰もいない。
一人は一人の家に帰ったし、親父はどこに行ったかわからない。
憑坐操との戦いの後、色々と事情が変わった。
まずは一人に関する差し迫った危険がなくなったこと。
一人の能力を知っている奴がいなくなったわけではないし、今でも警察や裏社会の人間が注視しているそうだが即座に殺そうとはしていない。
それどころかハッピーさんを始め一人を守る側についてくれた人たちがいる。
つまり俺だけが戦う必要がなくなったわけだ。今までも色んな人に助けられていたけれど、今後は特に魔人警察異質犯罪課が一人の警護を主導することになっている。
その一方で俺は能力が使えなくなった都合で一人に張り付く役目をいったん降りた。
なにかあれば力になるつもりはある。できることだけのことはしたいと思うが、戦力としてはどうしても力不足だ。だからひとまず戦いからは離れるのだ。
親父については俺もよくわからない。
いつの間にか研究設備と共に地下牢から姿を消していたそうだ。
実のところ、親父と最後に会った時、日本を離れるつもりはあるかと聞いてきた。
もう連絡はつかないが国外へ行ったのではないかと思う。
俺は日本から出たことはないが親父自身の本拠地はマンハッタンだと聞いたことがあった。
「アレでも飲むかな……」
自室に落ち着いてからすることがなく、なんとか思いついたのがそれだった。
いつもの完全栄養食だ。
一人は今頃家族と餅でも食べているだろうか。
年が明けたら餅とお節を食べるのだと一人は話していた。
正直に言えばちょっと寂しい。
いつでも遊びに行っていいとは言われているものの、別れてすぐに訪ねるというのもなんだかなあという感じだし。
今日のところはLINEで連絡を取るだけにして会いに行くのは明日以降にしよう。
そんなことを考えているとドアチャイムが鳴った。
●
ばちばちと音を立てて蛍光灯が明滅する。
寿命だろうか。LEDか有機ELに交換するべきかもしれない。親父と連絡が取れない以上、金遣いには慎重になったほうがいいとも思うが。
それはさておき来客だ。
自室のドアを開くと蝶番の軋む音がした。
白い壁に囲まれた幅の狭い廊下の先に玄関がある。
「どちら様ですか」
返事はない。
静かだ。
じゃら、じゃら、じゃら。
廊下には俺の足音と鎖のこすれる音だけが響く。
魚眼レンズののぞき穴から外を見る。
曇り空の昼下がり。湾曲した玄関口。
人の姿はない。気配もない。
いたずらか?
一応はドアを開けてみる。人気のない住宅街。
塀の内側に植わったシュロの木が風に吹かれて葉を鳴らす。
ドアを閉め、鍵をかけて廊下を振り返る。
見慣れた空間が妙に寒々しい。
また一人にLINEでメッセージを送ろうか。
小走りで廊下を渡り、自室へ。
じゃらり。
ドアの前で足を止める。
なんの音だ?
俺の鎖じゃない。部屋の中から聞こえた。
深呼吸を一回。
ドアノブに手をかける。
鉄臭い。
手に嫌な汗がにじんでいた。
ドアを押す。ぎい、と蝶番が鳴る。
部屋の中では、ばちばちと音を立てて蛍光灯が明滅する。
人の姿はない。
気のせいか?
とりあえずは部屋に入る。
テーブルの上に置きっぱなしだったスマホを手に取ろうと――。
――俺のスマホがない。
代わりのように見覚えのないスマホが1台。
困る。それに不気味だ。
恐る恐るそれに手を触れ――。
――誰の手だ、これは。
妙に色が白い。
どう考えても今見えているのは俺の手のはずだが。手を握り、開く。
やはり俺の手らしい。
なにかおかしなことが起こっている。
そしてこの世の中で「おかしい」ということは魔人能力の影響とみてまず間違いない。
狙いはなんだ?
能力を使った魔人はどこにいる?
「お前、変わってるな」
「うおっびっくりした」
いつの間にか、その少年はそこにいた。
赤と白が混じった髪、シティ感溢れるパンクなファッション。
じゃらりと腕に巻いた鎖にほんの少し親近感を持った。
「山乃端万魔、東京とピクニックに行かないか?」
そいつはそう言ってぎりりと笑った。
うん、ぎりりという感じだった。
〇
昼間であれば日光が灰色の町を照らす。
極彩色のネオンが輝く夜の街の方がかえって眩しく思えた。
街を歩く人々のサイバーサングラスや義肢の金属パーツもちらちらと光を反射する。
眩しさはともかくそこら中から漂う人工的な香料の香りは好きになれない。
「いや、待てよ。さっきまで昼じゃなかったか? というかこの辺ってこんなんだったか?」
「ああ、東京には無限の可能性がある。こうであってもおかしくない」
「……お前がなにかやったんじゃないのか?」
こいつ、名前は東京都 東京というらしい。それ以外のことはよくわからない。
なんとなく誘いに乗って外に出たが敵か味方かもわからない。
普通じゃないことは確かだ。
「ああ、正解だ。東京がやった」
東京はつまらなそうな顔で答えた。
「東京は嘘がつけない。正直に話すがこれが東京の魔人能力だ。『絶対夢幻都市-東京』。平行世界の東京の可能性を現実にする。世界のテクスチャを張り替える。風景も文化も記憶も人間もだ。元の東京を覚えているお前がおかしいんだぜ」
「そう言われてもな」
確かに俺自身の体の様子も変わっている。肌の色はまた褐色に戻ったが、手首や指の関節部分で皮膚の下の内部機械がむき出しになっている。
上着も黒と蛍光グリーンのレインコートに変わっていた。レインコートの下は普段と変わらないしハイセンスすぎるサングラスもかけていない。
……俺の体、機械じゃなかったよな?
「元の記憶が残ってるようだが、この東京の山乃端万魔の記憶はどうだ? 山乃端一人はどうしてる?」
「一人? 一人なら――」
実家に帰りました。それは元の東京の話だ。ここでは違うのか?
この東京の万魔の記憶。さっきの感覚を思い出せ。俺の体に機械が埋まっていることを自然だと感じていた俺。
意識を集中する。
確かに俺ではない俺、ネオン輝く未来都市、機都・東京で日々を過ごした俺の記憶が頭の中にある。
「――一人は、全身を機械化してる。キツネ型から人型に変形するんだ」
「……次、行くか」
●
がたがたと音を立てて揺れる。
俺たちは東京を横断する長距離列車のコンパートメント席に向かい合って座っていた。
「またお前の能力か? 色んな平行世界の一人を探してる?」
「ああ」
東京は不機嫌そうに窓を見た。
閉め切ったガラスの向こうで排煙が空を黒く染めている。
この列車だけではない。都市中から煙が空へと昇っている。
ここはそういう東京なのだ。
蒸気力灯の暖色の光が目の前の少年を橙っぽい色に染めている。
彼の服装は最初に会った時のままだ。
俺の方はいつの間にか茶色のツーピースドレスに変わり、それに合わせた帽子も被っている。ジャケットとスカートには革とベルベットの縁飾りがついている。
そして銀時計。なぜか妙にごついシルエットになり謎のメーターが増えている。
鎖はいつも通りだが。
「一人を探す理由は? 一人の味方なのか?」
「東京は嘘をつけない。だからその問いには答えない」
「おい」
敵だと言っているようなものじゃないか、それは。
「だが、東京は山乃端一人の『生』の可能性が存在する世界を探している」
「一人は、生きてるだろ?」
元々俺がいた世界でも、さっきの機械的な東京でも。
「……前提として、山乃端一人は死ぬ運命にある」
「人はいつか死ぬだろ」
「そういうことじゃない。世界の都合で殺される。元々東京がいた世界でもそうだった。転校生って知ってるか?」
そんなもん俺だって今の学校に二回転入したよ。
そう言おうかと思ったがそういうことでもないらしい。
「別の世界からやってくる魔人を超越した魔人。そして山乃端一人に関わる転校生のほとんどは山乃端一人を守れなかった魔人でもある。だから別の世界の山乃端一人を殺して自分と山乃端一人がいる新たな世界を作ろうとしている」
「『だから』のあとが意味不明なんだが」
「そういうことができる奴らで、そういうことをしようとしている。それだけわかればいいさ。だがな、その企みには欠点がある」
「……とりあえず言われたままを飲みことにする。で、欠点って?」
「新しい山乃端一人を手に入れてもだ。世界だか運命だか別の転校生だかがすぐに殺しに来るのさ。だからどんな世界なら山乃端一人は生きられるのか、それを探るのが一番先だ。全身を機械化するのは東京の世界には合わない。たとえ生き残れてもな」
「お前も転校生なのか?」
「……東京が世界を渡るのは東京自身の魔人能力によってだ」
「うん、ごまかせてないからな」
質問に「はい」か「いいえ」で答えないのは大抵の場合ろくでもない。
こいつが一人を狙っているのだとしたら。
俺はどうするべきだろうか。普通に戦うのはきついんだが。
「俺の世界の一人はお前から見て死にそうなのか?」
「似たような世界を見たことがある。守り切ったと思って油断した後、戦力が不足したタイミングで殺されるのはよくある流れだ」
「おいおいおいおい、ヤバいじゃないかよ。俺は元の場所に戻れるんだよな?」
「ああ、戻れる。それにそんなにすぐどうこうなるわけじゃない。鏡助もいるしな」
「鏡助?」
親父も名前は出していたが。詳しいことは聞いていない。
「山乃端一人を守ろうとしている転校生だ。それぞれの世界で護衛として有望な奴に声をかけてる。少なくとも死ぬのを先延ばしにすることはできてる。今のところは」
「俺はそいつ知らないんだけど」
「お前は有望じゃないんだろ」
「そんなことは……」
否定できない。今は魔人能力も使えないし。
餅子やハッピーさんだったら接触があったのだろうか。
餅子、餅子か。
そういえば……。
「おい、それよりこの世界の一人はどうしてる」
なんだよ考え事してる時に。
「なあ、俺を誘ったのってそれをいちいち聞くためか? 俺が記憶を持ち越せるのを知ってたのか?」
「いや、知らなかった。なんでそうなってるかもわからん。お前と会ったのも偶然だ。最初に会った時、世界を切り替えた前後で戸惑ってたろ。あれで気づいた。自分で山乃端一人を探すよりこいつに聞いた方が楽だってな」
「いいけどさあ」
俺もこいつに会ったことで転校生に関する話を聞くことができた。
なにも知らずにいるよりはよかったと思おう。
さて、ここでの一人は、と。
「普通の学生だな」
学校で扱う学科自体が工学に偏っている気はするが。
「居場所は?」
「隣のコンパートメントにいるけど」
〇
湿っぽい、暑苦しい風が吹く。
眼下には複雑な形を重ねた緑の隆起。鏡のように空を映す青い平面。
森林と河川だ。
なんで見下ろす形になっているのかというと。
「肩痛ぇ!」
「ゲギャーッ! ゲギャッゲギャッ!」
頭の上で怪鳥が鳴く。
鉤爪が肩に食い込んでいる。
要するに捕まっている。
東京の姿は見えない。
「ふざけんなよマジで!」
ここから逃れる手段はあるか?
魔人能力さえ使えれば脱出は簡単だ。
だが時計がない以上は――。
――この世界ならあるのか。
迷彩服のズボンのポケットに銀時計が入っている。
能力を使えば鳥から逃れることはできる。
その後どうする。地面に落ちる直前に時計を投げ上げて再度能力を使用するか。
できなくはないが絶対に安全というわけでもない。
今の俺はなにか役に立つものを持ってないか?
集中して記憶を探る。
ヒュン、と空を裂く音。
バァン、と破裂音。
鉤爪は肩に食い込んだまま、ふわりと体が宙に浮く。
気のせいだ、落ちてる。
空気抵抗で浮いた気分になっただけ。
背中に生暖かいものが張り付く。鳥の血や肉片だろう。
背負った鞄から伸びたコードを引くとパラシュートが開いた。
展開したそれの扱いや着地の仕方も自然に思い浮かぶ。
比較的木々の少ない方向へ体を流し、草原の上に五点接地。
なんとか助かった。
「生きてるか?」
地面に伏せる俺を東京が見下ろした。
こいつの投石が鳥を仕留めたらしかった。
「生きてるよ。生きてるけどさ……」
心臓に悪いというか、なんというか。
「なんで急に能力使った?」
「本人に直接会うのはまだ早い」
こいつヘタレか?
「行き先がこんなだったのはわざとじゃないんだ。実際に切り替えるまで平行世界の様子は東京にもわからない。一応は山乃端万魔という存在を目印にしてそれぞれの世界のお前の近くに東京が行けるように調整してはいるが。今回は少し距離があったな」
「おーう……」
なんでもいいからいきなり能力を使うのはやめてほしい。
「ちなみにこの世界の一人はこのジャングルで巨大なゴリラと暮らしてる。あのゴリラがいれば大抵のことからは守られると思う」
「次に行くぞ」
●
熱風がぼろ布のようなマントを揺らし、巻き上げられた砂がゴーグルを叩く。
今度の風はひどく乾いていた。
「……ここの一人は病気だ。長くないかもしれない」
「そうか」
そもそも人が生きるのに適していない世界らしい。
大規模な戦争の後、滅びゆく世界に残された最後の都市、それがこの終都・東京だ。
「なあ、お前はこの世界に用はないんだろうけど、ここの一人のためになにかできることはないかな?」
「人はいつか死ぬ、と言ったのはお前だ」
「言ったけどさ」
冷たい。
「山乃端一人に会ったとしてもだ。東京たちは医者でもなんでもないだろうが」
「それはそうだけどさ。お前だって一人には生きていてほしいんじゃないのか?」
「さあな」
「さあなって」
転校生は別の世界の山乃端一人を殺すことで自分の山乃端一人を取り戻そうとしている。そういう話だった。
結局こいつらは自分がいた世界の一人でなければなにも思うことはないのだろうか。
名前が同じだけの他人なのだとしても、その人が山乃端一人だという認識があるならば。
本当に無感動に殺せるものだろうか。それがどうしてもわからない。
「……そうだな。放っておいても死ぬならその死体を持ち帰るか」
「おい」
「殺すわけじゃない。それにこんな世界じゃ死体も満足に弔えないんじゃないのか?」
「それはそうだけど」
この世界の俺の記憶はそれを肯定する。
人が死ねば穴を掘って埋めるだけ。葬式もなにもない。
この世界の一人には家族も残っていない。
「でも、まだ死んでない。自分の手で殺さなかったとしても死ぬのを期待するのは間違ってる。それに俺が悲しむよ。この俺がだ」
この俺の体も心も山乃端一人の友人だということに変わりはない。
「そう思うなら」
赤茶けた風の中で東京が俺を睨む。
「お前に見せたい東京がある。東京は前に一度見た場所だ」
東京の顔はなにかを恨むようにぎりりと歪んでいた。
〇
暴風が唸り、稲妻が閃く。
そういった自然現象とは全く無関係に、万魔殿の謁見の間は混乱の最中に会った。
突如、どこの誰とも知れぬ人間の少年が現れたからだ。
豪奢な玉座から俺はその少年を見下ろした。
配下たちの出払った隙を狙って現れるとは、愉快な客ではあるまい。
「……そうじゃないな。お前は東京都東京。俺は山乃端万魔。大丈夫、わかる」
この世界の万魔は他の俺とは相当に差異があった。
ちょっと混乱する。
「そうか、この俺は一人の敵だったんだな」
そういう可能性もある。当然と言えば当然かもしれない。
俺だって最初はそのつもりだったんだから。
「山乃端一人と敵対した記憶があるんだろう。それは絶対の悪なのか? お前はそれを後悔しているのか?」
「自分のことだからって、はっきり言葉にできるわけじゃないぞ」
一人と戦うという選択をした俺のことはやはり理解しがたい。
世界自体が平穏じゃないとか、万魔殿の主という立場だとか、そういうことを理由として挙げることはできなくもない。
それでも、それを俺が言葉にすると、的を外した言い訳にしかならない気がした。
同じ山乃端万魔のはずがどうしてこんなに違うのだろうか。
「後悔はしていない。それだけはわかるけど」
「山乃端一人を守ることだけが全てじゃない。それがわかればいい」
「いや、一人は守るが……」
ふん、と東京は鼻を鳴らした。
●
こつ。こつ。こつ。こつ。
宇宙の暗闇に点々と光が浮かぶ。
巨大な影が二つ。腕と思しき部位を振りかざす。
影が闇に黒と白のなにかを叩きつける。
「なあ、これも東京なのか?」
俺たちは今宇宙にいる。明らかに東京の枠を飛び越えている気がする。
「そのはずだが……お前の方がわかるだろう」
「うんまあ、ここは間違いなく『航宙移民首都とうきょう』の中だ。それはわかるんだけどさ……」
例によってこの世界での記憶も辿れる。
初めて見る世界ならばかえって東京よりも俺の方が詳しくなる。理屈ではわかるが不思議な感覚だ。
で、今俺たちが乗っているこれが東京の地盤そのものを改造した宇宙船だというのはわかる。
聞きたかったのはこれも能力で現出させられる範囲内なのかということだ。
こうして実際にできてるんだから聞くまでもなくそうなんだろうが。
「それよりもあそこに見えるあれはなんだ?」
東京は困惑した様子でモニターを指差した。
「映画か?」
「現実だ。外の様子を映してる」
白と黒の巨大な影、この世界ではゲノムとミームと呼ばれている。
「星を作ってるんだ。神様みたいに」
「そうか」
東京は食い入るようにモニターを見ている。
彼はどのような感想を抱いているのだろう。
俺もまた魅入られたようにその光景から目が離せない。
星々を作るということはそれらの並びも作るということだ。
ほんの少し、囲碁に似ている。この世界の囲碁の発祥は星座づくりを真似たものという説もある。
碁石と違って一つ一つに一等星や六等星の違いがあるのだが。
「……ここの山乃端一人は?」
数十分眺め続けた後に、東京はやっと口を開いた。
「別の区画で囲碁を教えてるよ。なあ、会ってみないか?」
特に考えがあったわけではない。その時はただそうするのが自然に思えたのだ。
〇
こつ。こつ。こつ。こつ。
「……負けました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
東京はそんなに強くなかった。
囲碁に関しては。
この場合、重要なのはこいつが大人しく碁を打ったということだ。
「なあ、おかしなことはやめようぜ」
「それを決めるのはお前じゃない。……決着をつけるか」
「ああ、いつでもいいぜ」
碁盤中に広がる碁石を碁笥に戻す。
それから一度立ち上がり、改めて正座で座りなおした。
「囲碁じゃねえ」
●
テーブルの上に置きっぱなしだったスマホがある。
間違いなく俺のスマホだ。
間違いなく俺の元居た東京だ。
「この東京での山乃端一人の居場所はわかってる。東京はこれから山乃端一人を殺す。それが嫌なら、来いよ。東京の全てで相手してやる」
東京はそう言い残して部屋を出た。
本気なのか。引っ込みがつかなくなっただけか。
あいつのことはそんなに深く知れたわけじゃない。
それでも、俺が一人のためにすることは決まっている。
最初は混乱して気づかなかったが、俺が平行世界の東京で自分の人格を保つことができたのは、最初に訪れた東京の山乃端万魔が原因だった。
俺と似たような家で暮らし、俺のとは違うスマホを持ち、俺より肌の白い万魔。
違いはもう一つある。その身に備わった魔人能力だ。
すべての肉体を一人の万魔の一部だと考えた俺とは逆。
異なる人格を持つ一人一人の集合が山乃端万魔だという認識。
魔人能力『一人ならざる一万の魔人』。
この力が書き換えられた世界において全ての俺の記憶を保持した。
そしてもう一つ。
俺とはもっとも異なる俺。
万魔殿の万魔もまた全く別の能力を持っていた。
親父は魔人能力についてごちゃごちゃとうさん臭い説を述べていた。
はっきり言って親父の考えていることはわからない。たとえ頭蓋骨にのぞき穴を付けたってわからないだろう。
魔人能力とは認識だ。
俺は万魔殿の万魔を受け入れられない。向こうだってそうだろう。
それでも一人の山乃端万魔だ。
切れない鎖で繋がっている。
玄関から外に出て、銀時計を手に取る。時間を知りたいわけじゃない。
大事なのは鎖の方だ。
魔人能力『檻の中の親、鎖の先の子』。
鎖を振るう。
ヒュン、と空を裂く音。
鎖はどこまでも伸びていく。あり得ないほどに。
ピンと張った鎖を引き戻す。手応えあり。
戻った鎖の先には、ぐるぐると鎖に巻かれた女子高生。
「万魔? これはあなたがやったの?」
いつも通り、変なところで図太いというか。
のんきそうな顔で一人は首を傾げた。
万魔殿の万魔の能力はあらゆる因果を乗り越えて山乃端一人を捕まえる能力だ。
用途が限定され過ぎているが、その為だけに生きていた奴だから仕方がない。
「逃げるぞ」
……そういえば。隠れ家に籠っていた頃、二人でどこかに逃げようか、と話したことがあった。一人自身は戦いに向いていない、そう思って俺から言い出したのだ。
それもいいかもね、と一人は言った。
一方で。俺はその場にいなかったのだが。池袋での騒動の時、一人は餅子に「殴りに行きましょう」と言ったそうだ。
俺とは一緒に逃げる。餅子とは一緒に戦う。その違いはなんだったのだろうか。
そのことがちょっと引っ掛かっていた。過去形。
多分、そんなに大した理由はない。
一人はきっと、自分のために友達を戦わせるのが嫌で、友達のために一人が戦うのは構わなかった。それだけのことだったのだと思う。
俺自身は、一人のためだけに戦っていたというつもりはない。
「逃げるの?」
「ああ」
鎖を解いて手を引き走る。
東京もすぐに気づくだろう。
どこまで逃げればいいのか。逃げてどうにかなるのか。
わからない。
それでも殴る蹴るで決着をつけるのは嫌だった。
〇
東京を走る。
汗をかいて、息を荒げて。
風が吹き、足音が響く。
それ以上に心臓の音がうるさい。
箱根駅伝じゃないんだぞ。
住宅街を走る。河川敷を走る。
見知った道を抜ける。知らない道に出る。
俺と一人と東京は馬鹿みたいに走り続けた。
「万魔、大丈夫?」
「……!」
川沿いの土手の上。
足が、止まる。
ひゅう、と声にならない息が漏れる。
なんで一人は余裕があるんだ。
やっぱり食べてる物の違いか?
「お前、ふざけるなよ、お前……!」
東京は数十メートル後ろを追いすがっている。
こいつは俺と大差ないな。
進まなければ。
そう思うが体は思うように動かない。
せめて一人だけでも逃げてくれ。
そう口に出すこともできない。
じゃらり。
俺のものではない鎖と足音はすぐそばに。
そして、とうとう。
「捕まえたぞ……!」
東京が俺の肩を掴んだ。
いや、なんで俺だよ?
そう言おうとしたのだが。言葉は出ずに、足ももつれて。
「あ」
「なッ……!」
「コヒュー」
俺は転んだ。
東京はそれに巻き込まれた。
一人は後を追って器用に滑り降りた。ずるくない?
「お前、どういうつもりだ……」
草と泥にまみれた奴がなんか言ってる。
どうもこうもないんだよ。
「お前こそ、一人を殺そうとすれば、簡単にできただろ」
あの怪鳥の時みたいに。石でも投げれば一発だった。
東京は苦々し気に黙り込む。
「ええと、あなた初対面よね? 私を殺したいの?」
一人は多少戸惑っているようで、実はそんなに驚いている風でもない。
東京は一人から目をそらした。
というかこっちを見た。
「おい。これがこの世界の山乃端一人か?」
「そうだけど」
「クソッ」
本当に悔しそうに悪態を吐く。
作ったような表情ではない。
本当になにか大切なものを失ったような顔に見えた。
「全然似ていないぞ。俺の知ってる一人には、全然似ていない……」
ぐしゃぐしゃに歪む顔面は汗でびしょびしょに濡れている。
雫がぼたぼたと地面に落ちる。
俺たちの戦い、というほどでもない追いかけっこはそれで終わった。
しまらない結末だが、それで終わったのだ。
●
春ではなく、秋でもなく。
西ではなく、北でもなく。
山乃端一人は冬の東京に死ぬ。
東京が見てきた限りの平行世界群ではそうだった。
熱風が赤い砂を巻き上げる、この東京でもきっとそうだ。
そもそも人が生きるのに適していない世界。
大規模な戦争の後、滅びゆく世界に残された最後の都市。
ここで生き永らえることになんの意味があるのだろうか。
「重い……」
あの馬鹿のいた東京から引き取った機械はかなりの大きさがある。
人間一人が余裕をもって入り込めるスペースの他、動力装置も内蔵している。
転校生とはいえ身体機能、体力は通常の魔人と変わりないのだ。
……砂嵐を越えた先。
やっと目的の人間を見つけた。
薄々わかっていたことではあるが、やはり東京の知っている人間には似ていない。
その女は不思議そうに東京を見た。
東京に対する悪意は感じない。
逆に東京が悪意ある人間だと疑っている様子もない。
そもそも他の人間と出会うことが珍しいのだろう。
「……こいつは、治療カプセルだ。なんとかいうバイオテクノロジーの権威が造った代物だ。もしもお前が、こんな世界でも生きていたいと思うなら……」
砂だらけの見慣れぬ顔が、花のように微笑んだ。