「津波です。逃げてください。
 津波です。逃げてください」

深夜東京メトロポリスで個人個人が持つ通信機器が一斉に警告を放つ。その合唱に人々は戸惑うも、日常や将来と同じように、感覚麻痺、無視、その仔細を気に止めなかった。
 恐ろしいことが起こるとしても、それを正視することは、しない。耐えられない。
 台風の日に田んぼを見に行くようなマネがどんな結末をもたらすか、さまざまな物語を通して知っている。
 日常の枠は人ひとりの形をしており、一寸でもはみ出しまえば、冷たい闇が無限大に広がり、生命の熱はまたたく間に霧散してしまう。
 深淵を見てはならない。
 祟る神に触れてはならない。
 津波のときに、海岸にいてはならない。



 冬の湯河原海岸に、一人の女性が佇んでいる。月星は雲の中、しかし彼女の輪郭は闇夜より遥かに黒い。
 彼女の名は逢合死星。
 全身は海水に濡れており、まさに、津波と共に現れたとしか思えない。
 彼女の足元に少女が伏している。
 少女の名は山乃端一人。
 どことなく幸薄い貌をしている。

 死星は少女を、慈しむように髪を整えてのち、潮の上にゆっくりと横たえた。
 突如、二人の姿が強い光で照らされる。
 死星は強い目の刺激に、眉をひそめる。

「おーい! 浜から離れろォイ!」

 ライトの元、高台から声。
 自治体の見回り隊の警告むなしく、二人は波に飲まれる。

「ひぃ!」

 男が声をあげたのは二人が波に飲まれたからではない。
 波の中に黒い影を見たからだ。人の手のようのな影が数十、青ざめた少女を攫ったように見えたからだ。

 男が恐怖を覚えたのは、影を見たからではない。
 波の中の影たちが、黒ずくめの女を避けたからだ。彼女は波が来る前と引いた後、寸分違わぬ姿勢で留まっている。
 そばの少女は、波の中へと消え去ったというのに!

 死星は立ち上がり、ゆっくりと男に近づく。
 大きな潮風が吹く。まだ海は荒れそうだ。雲が動き、月が現れる。
 死星の目、濁った灰色の瞳があらわになる。塵芥一切、何も映さないような瞳。
 昏い海の向こう、さらに大きな影が近づいてくる。それが波なのか(本当にただの海水の塊だけなのか)、男には確信が持てない。いずれにせよ逃げるべきだと思うのだが、体が動かない。震えている。

 死星は海岸を離れ、男のすぐそばに立っている。
 光ない海が、近く大きく見える。
 男は、死星の姿をどうにも捉えられない。彼女を見ようとするのだが、己の眼球が、それに逆らう。眼にすることで、網膜に、脳裏に、意識に呪印が焼き付いてしまい、肉体と精神がばらばらに解け、二度と常世に地足つけられぬと悟っているように体がすっかり抵抗しているらしい。
 がくがく震える男を、死星は、じぃっと見ている。彼の次の行動を、見極めるつもりだ。特に何かを考えてはいない。待っている。人は行いによってその生命を証明するものだから。

 男が起こした行動は、念を込めた祈りだった。

「南無阿弥陀仏……」

 それはクリスチャンである死星にとって宣戦布告でしかない。
 死星は男の首根っこを掴み、引き寄せる。その力、その速度は人の肉に耐えかねるもので、彼の首はしなり、折れて曲がってしまった。
 即死だ。

『赦サレム巡礼』

 男の折れた首が、何事もなかったかのように、まっすぐ、きちんと根を張っている。
 これが死星の魔人能力。『赦サレム巡礼』。殺害したときそれを取り消し代わりに死星自身に返す――。
 死星の頭がしなる。
 グンと加速して、死星の頭骨が男の頭骨とかち合い、砕く。額から耳までをぐしゃぐしゃに砕くヘッドバット。当然男は即死。

『赦サレム巡礼』

 首のしなりと頭のかち合いでプラマイゼロとなった死星のぼんやりとした眼。
 そして二度の死体験を味わった男の眼。

 『赦サレム巡礼』は殺害の結果を跳ね返すものではなく、殺害の過程だけを跳ね返す。男が2度死ぬような衝撃も、死星にとっては、別にどうということもない。
 そして、殺害過程が消えたとて、死した心持ちだけは、魂が覚えている。

 男は、言語化不能な女の不気味さとシチュエーション、という抽象的な恐怖ではなく、魂に刻みつけられた死の記憶によって、心底から死星を恐怖することができた。
 もっとも、彼女に恐怖するには遅すぎたが。

 死星は邪教徒に587回の死をもたらしたあと、その場に放擲した。
 翌日、そこには男の死体だけが残った。検死の結果は自然死もとい衰弱死と判断された。
最終更新:2022年01月31日 05:39