通学路の並木道は葉桜ばかりで、ツツジの甘い香りはどこか別の場所から漂ってきたらしかった。
花の甘さには砂糖菓子とも違う爽やかさがあって私はなんとなく気分がよくなる。
浮かれるというよりは落ち着く感じ。
以前はこの匂いを嗅いだらそちらへ向かって花を摘んだりもした。花びらの根元を吸うとほんの少し蜜の味がするのだ。
高校二年生にもなってそんなことはしないけれど、通学途中でなければ花を探して眺めるくらいはしたかったと思う。
「ツツジの蜜っていつから吸わなくなった?」
隣を歩く友人にそう尋ねる。
深い意味があるわけでもない。この香りから連想した世間話だ。天気の話をするのと大差ない。
あえて言えば、出会ったばかりで小さい頃のことなんか知らないから彼女がどんな子供時代を過ごしていたのか少し興味はあった。
「ツツジって花だよな? 吸うって?」
しかし彼女は虚を突かれたような顔をした。
ツツジの花を吸う経験は誰にでもあると思ったのだけど私の思い込みだったらしい。
「吸ったことない?」
「ない。逆に聞くけど吸うもんなの?」
「小さい頃はね。私だけじゃなくて友達も吸ってたし」
「マジ? なんでそんなことするんだ?」
「甘いから子供は好きなんだよ」
「そっかあ、俺もあとで吸ってみよ」
ごく真面目な顔でそんなことを言うのが面白い。
私にそっくりな顔だからなおさらだ。
もっとも私は本当の私自身の姿をよく知らない。
それは誰でもそうだと思うが、普段見る機会が一番多いのは鏡に映る反転した像だからだ。
だから理屈では鏡よりもむしろ彼女の方が近い形をしているのだと理解はするけれど、他人から似ていると言われる度に違和感を覚える。
確かに癖のない髪を肩まで伸ばしたところや、妙に光を反射する切れ長の目は似ているけれど。
違うところも結構多い。まず色が違う。
私の髪はよくある黒で、彼女の髪は綿毛のように真っ白。
私の体は日本人にしてはちょっと色白なくらいだけど、彼女の肌はカフェオレのような褐色をしている。
それから話してみればすぐにわかることだけれど、中身の方はまるっきり違う。
表情も豊かだし性格は全然別。
もちろん今まで過ごしてきた環境が違うのだからそれが自然なのだ。
そう、彼女はつい最近まで私が生まれ育ったこの町とは全く別の場所で過ごしていた。
彼女、山乃端万魔が私の前に現れたのはほんの数日前、高校二年生の一学期始め、始業式の日のことだった。
●
「初めまして、山乃端万魔です。新しい生活にまだ戸惑っていますが、まずはこの学校に早く慣れたいと思っています。よろしくお願いします」
挨拶は当り障りのない内容。それでもクラスメイトはざわついている。
「親戚?」
「いえ、知らない子だけれど……」
「本当? ただのすごい偶然?」
「だと思う」
隣の席の山田君は首を傾げているけれど本当に知らない。
確かに容貌は似ている。さらに苗字まで同じなのだから案外調べれば近い血縁だという可能性もあるけれど、私とあの子という個人同士の関係性でいえば完全に初対面だ。
ぎし、ぎし、ぎし。ジャラ、ジャラ、ジャラ。
上履きの靴底が軋む音がする。
戸惑っている間に万魔さんが近くまで来ていた。
「心臓に悪いわ」
「ん、そうか?」
「あ、ごめんなさい。あなたが悪いわけじゃなくて」
思わず目を見張る。間近で見ると本当に似ている。
すごい偶然、なのだろうか。
制服は学校指定のものだけれど、鎖のアクセサリーをあちこちにつけている。
ジャラジャラ鳴っていたのはこれらしい。
「気にしてないよ。よろしく」
「ええ、よろしく」
黒板の前で彼女が紹介される前から、教室の座席表には私の一つ前にその名前が書かれていた。年度初めは単純に五十音順に席が並ぶ。
万魔さんは彼女の隣の山蘇君だけでなく、私にもちょこっと頭を下げた。
私は本当に驚いていたのだけれど、万魔さんは気さくに笑うだけ。
平静な様子に見えた。
もしかしたら、名前も見た目も似ている奴がいるぞ、と先生から前もって聞かされていたのかもしれない。
その時はただ、そんな風に考えていた。
〇
こつ、といい音を立てて碁盤の上に黒石が打たれる。
「あら」
すぐに取られる場所に石を置いたが、そのままこれを取るとそれ以上に取り返されるウッテガエシの形になっている。
随分とやるようになってきた。
今学期が始まってからの一週間、万魔は新入生と同じように部活動の勧誘を受けていた。
結局は私と同じ囲碁部に入った。
部員の数は多くはない。しかし廃部の危機があるほど少ないとうこともない。
やりたい人だけやればいいというスタンスで、高い目標を掲げているわけでもない。
熱心に勧誘するような特別な事情はなかったけれど、単純に仲間が増えるのは嬉しいことだ。
期末テストが終わり二週間ぶりの部活動だけれど相変わらず緩い雰囲気でやっている。
部員の誰も都大会は勝ち上がれず全国大会はみんな無関係だから、もうすぐ訪れる夏休み中の部活動については各自の自主性に任せるということになっている。
勝手にやれという言い方だけれど空き教室を利用している活動だから、実際に学校でやろうとすればちょっとした手続きが必要になる。
碁を打ちたくなったら相手をしてくれそうな友人に連絡して家でやった方が面倒がない。
もしも万魔を誘ったら、彼女は付き合ってくれるだろうか。
あまり経験はないと言う割にルールはちゃんとわかっていたし、実力もそこそこ、私よりちょっと下くらいの力があった。
普段の態度を見ても囲碁は好きなのだと思う。
盤上の石を崩さないように部活動中は鎖を外しているし。
こつ。
ウッテガエシは未然に防ぐべきもので、この形に持ち込まれた時点でこちらの石は助からない。
ここは諦めて他の離れた弱所を補強する。
「万魔、どうして囲碁部に入ったの?」
「好きなんだよ。チェスやオセロよりはさ」
「どういうところが?」
「どうって、チェスとの違いはまず石に差がないことだろ。ポーンとかクイーンとかじゃない。黒石は全部が黒石。一つ一つの石じゃなくて石の繋がりが作る陣地に意味がある。そうして盤面にできる模様が綺麗だと思う。オセロとの違いはひっくり返らないところだ。黒は黒のまま、白は白のまま。そうじゃなくなるのがなんか嫌なんだよな。ややこしいし」
「碁が綺麗なのはわかる」
こつ。こつ。
今もこうして模様が少しづつ出来上がっていく。
まだ白が優勢だ。
万魔は吸収が速いけれど私もちょっとは上達している。
アキレスと亀の差はまだ埋まり切ってはいないのだ。
こつ。こつ。こつ。こつ。
「……負けました。ありがとうございました」
「ありがとうございました」
なんとか万魔の投了で決着がついた。
しかしやはり強くなっている。
うかうかしていると夏休みの間に追い抜かれてしまいそうだ。
「ねえ万魔、夏休みも碁の練習はするでしょう? よかったら一緒にやらない?」
「それは、二人でってことか? ……ちょっと考えさせてくれ」
「あ、夏は忙しい? 無理はしなくていいからね?」
「……ああ」
少し意外。部の仲間で集まる時は誘いを断らないのだけれど。
言葉も珍しく歯切れが悪い気がする。
いや。というか。ちょっと待って。『二人でってことか』って言った?
私と二人になるのが嫌ってこと?
確かに思い返せば万魔といる時はほとんど周りに誰かがいた。
通学の時くらいだろうか。待ち合わせているわけではないけれど、毎朝学校のすぐ前の並木道で顔を合わせて二人で歩いている。でもその時も周りで他の生徒が通学してはいるから万魔の中では二人きりではないのかも。
少人数が寂しいのか。私とだから嫌なのか。
それが問題だ。
「万魔って寂しいのは嫌?」
「なんだよ急に」
考えてもわからない問題は直接聞いてしまった方がいい。
聞いても許される相手に限るけど。
眉を八の字にして困ったような苦笑を浮かべる万魔に言葉を続ける。
「あなた、大勢でいるのが好きでしょう。やっぱりその逆は嫌なのかなって」
「大勢の逆? 俺が嫌かって?」
そう思う根拠はいくつかある。
今はそうでもないけれど四月の初めごろはまだ万魔はクラスメイト達から質問攻めにあっていた。
前はどこに住んでいたの、とか、前の学校はどんなところだったの、とか。そういうやつだ。
なんでも過疎化が進んだ場所にいて、学校も万魔しか生徒がおらず廃校になってしまったそうだ。
その話をするとき万魔が少し辛そうに見えたから、私もクラスのみんなもその辺りの話題は避けるようになった。
それでもそれ以外の質問には愛想よく答えていたし、自分から色々な子に話しかけていた。
うん。寂しいのは嫌だよね。それは私にもわかるつもりだ。
「ねえ、確かにいつもの部活と違って私たちだけになるかもしれないけれど。二人だけでも独りよりはいいと思わない?」
「それは……」
万魔は何かを言い淀む。私はそれをじっと待つ。
「それは、あれだよ。今は一人に勝つのが目標だから、一人には秘密の特訓をしようと思ってさ」
万魔はぎりりと笑って見せた。
そう。ぎりり、という感じ。
私と違って表情豊かな子ではあるけれど、顔の作り自体はほとんど同じだから。
それが私が鏡の前で練習するような固い笑みだとわかってしまった。
「……じゃあ囲碁以外の誘いは受けてくれる? 嫌なら断ってもいいけれど」
「駄目ってことはないさ。もちろん」
今度はちょっと諦めたような顔。
うん。決めた。
夏休みの間にもうちょっと仲良くなってやろう。
●
澄んだ夜風が吹いていく。
昼はじっとりと暑かったのに、今は少し冷えるくらい。
火薬が燃えた匂いも徐々に薄らいでいった。
「花火、凄かったね」
「うん、俺、ああいうの見たの初めてだ」
今年の夏祭りもおしまいになって、もうみんな帰るというところで私は万魔に声をかけた。
他の友達とは別れて二人きり。
嫌がるかとも思ったけれど、打ち上げ花火が終わったあとの万魔はどこか上の空で、案外あっさり居残ってくれた。
「それで話があるのだけれど」
「そうだったな」
こちらに向き直った万魔はいつもと違う感じがした。黒い浴衣を着て髪を上げているからだけではない。身にまとう空気が張り詰めている。
「俺も話がある。でも、まずはそっちからどうぞ」
万魔が固い笑みのまま、手のひらを上に向けて差し出した。
今日一日一緒にいたけれど目が合うのはこれが初めてだ。
わずかな街灯の明かりを受けてうるうると光る綺麗な目。
妙に緊張感がある。
「万魔って私と二人きりになるのを避けてるよね? 理由を聞きたくて」
意を決して話す。なるべく平静を保ち、責めるような調子にならないように。
もしも嫌われているのだとしたら、そう思うと怖いのだけれど。
他の人もいる時は普通にしているのだし、わざわざ聞く方が藪蛇なのではと思わなくもないけれど。
それでも気が付いてしまったからにはこのわだかまりを解消したかった。
「なるほどな」
万魔はふっと息を吐く。
「確かに避けてた。理由はあるけど、その説明のために俺の話を聞いてくれ。まずは、俺は一人が魔人だって知っている。それから俺も魔人だ」
「それは……私が魔人だから避けていたってことではないのね?」
私が魔人だと知られていた、というのは予想していた。
秘密にしていたことではあるけれど、学校の先生や友人の一部などには伝えていたし、私が他人から忌避される理由として真っ先に思い当たる点がそれだった。
しかし万魔も魔人だというなら話は違ってくる。
積極的に他の魔人と関わりたいわけではないけれど、ある程度以上に仲の良い友人が自分と同じ秘密を持っているとしたら、かえって連帯感が生まれるものではないだろうか。
「ただの魔人なら問題なかった。確認だけど一人は自分の能力がなにかわかってるのか?」
「一応は。自由に使える能力じゃないから実際に試したことはないけれど」
「俺はその能力も知ってる。一人が死んだらハルマゲドンが起こる」
ハルマゲドン。世界の終わり。最終戦争。そう呼ばれるほどの、魔人たちによる大きな争い。
ごくりと息をのむ。
万魔の言うことは正しい。
中学二年生の夏、私は魔人に覚醒し、この能力について直感的に理解した。
しかし能力の内容について、そこまで詳細には誰にも話していないのだ。
両親にも私が死んだら発動する能力で、周囲の人に被害が出るかも知れないとしか教えていない。
「まあ、そういうの知る方法はあるんだよ。他人の能力を知る魔人能力とかでな。で、俺の親父の情報網に一人のことが引っ掛かったわけだ」
「危険だと思われたの? 近づかない方がいいと」
「違うんだ」
万魔は首を振る。話しづらいことなのか若干の間が開いた。
「逆なんだ。親父にも魔人能力がある。親父が直接殺した相手の魔人能力を反転させる力だそうだ。対象は死んでも解除されない能力か死をきっかけに発動する能力。それで一人が狙われた。親父が一人を殺せばこの世界でハルマゲドンが起こらなくなるってことらしい」
「そんな」
話が随分飛んでしまった。友達との距離感の話をしていたはずなのに。
私の命が狙われていたということ?
「ひどいよな。とにかく親父は俺に一人を捕まえるように命令した。だからそもそも俺が一人と同じクラスに編入したのも親父の差し金で。いや、それ以前に俺の存在自体が一人を捕まえるためのものだったんだ」
「存在自体がって――」
「俺はお前の遺伝子を使って作られた人造人間なんだ。俺の親父、クリスプ博士って言うんだけど、そういうバイオテクノロジーの研究をしてるんだよ。知らない?」
「知らない。いや、なんて?」
人造人間?
本当に話が飛んでいる。
「ええと、ちょっと待ってね。ということは、万魔、あなた今何歳? 私の魔人能力が目当てで生まれたってことは、私が魔人になってから、ここ三年の間に生まれたってことよね?」
「気になるのはそこか?」
「ちょっと待ってね、話が上手く飲み込めない」
「疑問に思うべきはこうだろ。一人を攫うのが目的ならむしろ積極的に二人きりになるべきだった」
「ああ、そうね?」
そういう話だった。そうだっけ? そうだよね?
「最初の内は単純に二人きりになるのが難しかった。いつもクラスメイトや囲碁部のみんなが俺か一人のどちらかの傍にいた。でも途中からはそうじゃない」
「夏休み前、二人で囲碁の練習をしようって誘った時はあなたから断った」
「ああ。正直言って俺自身が迷ってたんだ。親父に従うか、逆らうか。一人は自分の人生を何のために生きるか考えたことはあるか?」
「人生とまで言われると」
将来について漠然とした不安はある。
囲碁は好きだけど仕事にするほどの力はないし。
就きたい職業も特にはない。
それに自分が魔人ということもある。それを明かして生きるのは辛いだろうけど、隠して生きるのも窮屈だと思う。
高望みでなければ普通の生き方がしたい。
そこそこの収入とそこそこの余暇があって、プライベートの楽しみをいくつか持っているような。それは囲碁でもいいし、今は縁のない何かでもいい。
家庭を持つかはわからないけど、趣味の合う友達が何人かいればそこまで寂しくはないと思う。
「何のためって簡単には決められないよ」
「でも自分で決めることだと思ってるだろ。俺は違う。生まれた意味は初めから与えられていた。それを拒否するのは俺が生まれなくてもよかったって認めることになる」
「それは、違うよ。私は万魔と友達になれてよかった。攫われたら困るってだけじゃなくて、今まで一緒にいて楽しかったよ」
「俺もだ。ありがとう」
やっと万魔の顔から力が抜けた。
「でも、もう結論は自分で出したんだ。俺自身のことじゃなくて、親父と一人どっちが大事か考えた。親父は家族で一人は友達だ。どっちも大事なんだ。親父に従えば一人が殺される。だけど親父に逆らっても親父が死ぬわけじゃない。一人だって生きてる。そうだろ?」
「それは、そうね。私は万魔のお父さんがどんな人か知らないのだけど、仕返ししたいとか死んでほしいとは思わない」
それが万魔の本心であることを疑う気はしない。
そもそも彼女が私を狙っていたというくだりを聞いた時も、不思議と危険を感じてはいなかった。
「だから、やめた。親父には嫌われるかもしれないけどな。これから話してみることにする」
「大丈夫なの? お父さんは優しい人?」
殺されようとしていたらしい私がそう聞くのも変だけど。
ハルマゲドンを起こらなくするのが目的というなら物凄く悪い人というわけではないのかもしれない。
とはいえ私の命と引き換えにというのは、命を数字で考えるような冷たい印象の話ではある。
万魔には似ていないのだろうか。
「変な人だよ。怒るか呆れるかはわからない。それより一人は自分の心配をしてくれ。親父が知ってたってことは他にも一人の能力を知っている奴がいるってことだ。ハルマゲドンを起こしたがってるようなヤバい奴なら殺しに来るだろうし、他の意味わかんない理由で狙ってくる奴だっているかもしれない。逆にハルマゲドンを防ぐために守ろうとする人間もいる可能性もあるけど、知らない人をあてにはできないだろ」
「危なくなったら助けに来てよ。万魔も魔人なんでしょう?」
「そんなに強くないぜ、俺。とにかく話したいことはそれだけだ。俺はもう行くよ」
「そう、それじゃあ、またね。万魔も気を付けて」
と、別れる前に。
「ねえ、もう二人きりになるのを避けなくてもいいってことだよね? だったら明日にでも碁を打たない?お互いに言いたいことを言ったのだから気まずい思いをする必要はないでしょう?」
「そうだな。でも明日は急すぎるな。親父との話し合いがまとまったら俺から連絡するよ」
街灯が照らす万魔の顔はもういつも通りの笑顔だった。
万魔はひらひらと手を振って、ジャラジャラと鎖を鳴らして、それから暗い夜道へ向かていった。
〇
そして山乃端万魔は姿を消した。
●
LINEの既読がつかない。
メールとか電話とか他のSNSとかでも、とにかく万魔と連絡がつかない。
囲碁部やクラスの友達に聞いても同じ。
あの夏祭りの後は誰も万魔にあっていないし話もしていないらしい。
さすがに心配だ。
気になることはもう一つ。
最近テレビで見かけたニュース。
クリスマス・スプラウトという魔人が違法な研究を行ったとして逮捕されたという事件。
万魔はお父さんのことをクリスプ博士と呼んでいた。同一人物なのだろうか。
だとしたらどうしてそうなったの?
話し合いがうまくいかなかった?
だとしても万魔がお父さんを警察に突き出すだろうか?
万魔とは関係なく逮捕された?
その場合だと万魔は無事なのだろうか?
研究が法に触れたというのなら人造人間である万魔の存在も問題になるのだろうか?
万魔の家を直接訪ねようにも住所を知らない。学校の先生にも聞いてみたけれど今はそういう個人情報は教えられないのだと言われてしまった。
どうにもできないうちに夏休みが終わり、今日から二学期が始まる。
私の一つ前の席には誰も座っていなかった。
全校集会が終わり、ホームルームの時間になって、ようやく一つ連絡を受けた。
先生が言うには、万魔は転校したそうだ。
「えー、寂しくなりますけども、家庭の事情ということなのでね。今日はこれで放課ですが明日からはまた授業が始まります。皆さんも来年からは受験生になりますのでますます勉学に身を入れて……」
〇
相変わらずLINEの既読がつかない。
アカウントがなくなったわけでもないから今でもたまにメッセージを送っている。
文章ではなくて通学路の途中や少し外れたところにある季節の花の写真。
コスモスとか、バラとか。
花だけではなく色づいた葉もいくつか。
万魔はあまり見たことないのではないかと思って送り始めたのだけど、メッセージというよりはアルバム代わりみたいになってしまっている。
今日も何か見つかればいいな、と思っていたのだけれど。
取り立てて良さそうな被写体がない。
赤い葉のポインセチアは以前にも撮った。
冬の草花はあまりない。
そもそも通学路という範囲が狭いのだ。目につくものは既に撮りつくしてしまった。
休日ならば少し離れた場所へ探しにも行けるのだけれど。
庭園の綺麗なお寺とか、池のある公園とか、近場のそういうところへよく出かけるようになった。
次の土曜にはどこへ行こうか、教室に入って自分の席に着いてからもそんなことを考えていた。
そして、朝のホームルーム。
「数か月ぶりですが、また皆さんと同じ学校に通えるようになりました。またよろしくお願いします」
白い髪と褐色の肌。色以外は髪型も、目つきも、当然制服も私と同じ。
ジャラジャラつけた鎖は違うけれど。
「心臓に悪いわ」
照れたような、困ったような、へにゃっとした笑い顔も。
今は私も同じ表情をしているのだと思う。
●
コツ、コツ、コツ。
俺の足音は碁石と違って随分冷たく響く。
場所が場所だからしょうがない。
一人は付いてきたそうだったが親族の俺しか会えないのだから今回は諦めてもらった。
仮に許可が下りるとしてもあまり会わせたくはない。
この魔人刑務所に収監されている親父、クリスプ博士、クリスマス・スプラウトと面会するのは俺だけだ。
「特例となります。彼は居室から出ることを許されておりません。あなたには面会室ではなく彼の居室で面会していただきます」
刑務所の職員は妙に恭しい態度だった。
説明だけでなくそのまま付き添いを担当するらしい彼と階段を下りていく。
親父は一般の受刑者から隔離された最奥の地下牢にいるそうだ。
独房ですかと聞いたら単独室と言うのだと教わった。
階段を下りた先には頑丈そうな分厚い鉄扉があり、それを開くと見張りなのか何なのか数人の職員が詰めている小部屋に出た。
「この先がもう居室です。鉄格子で仕切られてはいますが」
なるほど。入口の反対側にも似たような鉄扉がある。
親父に会うのは数か月ぶりということになる。
大丈夫。心の準備はできている。
ゆっくりと、しかし音もなく滑らかに、職員の手によって扉が開け放たれた。
目に入るのは一本一本が俺の腕の太さほどもある頑丈そうな鉄格子。
わずかな照明のともる暗がり。
その奥には。
壁には深紅の布帛が垂れ下がり殺風景なコンクリートを隠している。
異様に広いその部屋の中には至る所に巨大な機械が置かれ、今も何かの計算を走らせているらしく七色のランプを明滅させごうごうと稼働音を鳴らしている。
その音に被さるクラシック音楽。部屋の一角に設置されたアンティーク調のラッパ型レコードプレイヤーから流れている。
そして髑髏の装飾と赤い宝玉がはめ込まれた玉座とでも表現するべき豪奢な椅子。灰色がかった地の部材は象牙だろうか。
そこに座すのは見慣れた大男。
浅黒い肌。スキンヘッド。ゴルゴ13似の山形の眉毛。つぶらとは真逆の直線的な奥目。稲妻型の左右の口髭。
黒一色のカーゴパンツ。異様にでかい襟を立てて前を開いたロングコートも生地は真っ黒。なぜか黄金の肩章が装着されている。中にシャツを着ておらず屈強な胸筋や腹筋を見せびらかしている。
「フハハハハ! 久しぶりだな山乃端万魔! わが娘よ!」
「親父! おかしいだろ!? なに、この部屋、全部……おかしいだろ……なにもかもがっ……!」
「何がおかしいものか。 最後に会った姿と変わりあるまい?」
「そこは変われよ。親父の趣味が悪いのは気にしないけど少しは囚人らしくできないのかよ」
「うむ。互いの状況を把握する必要があるな。親子二人でゆっくり話すとしよう。君、席を外したまえ」
「はっ」
職員さんは鉄格子の前に俺のためのパイプ椅子を置くだけはして、言われるままに小部屋に引っ込んでしまった。
「ええー……」
優遇されているどころか命令している。どう考えても受刑者の態度ではない。
「音楽はラフマニノフのままで構わんな?」
「好きにしてくれ」
「うむ。ではこの私の状況についてだが、お前ほど愚かな娘であってもさすがに察したことだろう。逮捕されたというのは偽装だ。ある取引をしてこの場所を借りている。身の安全のためにな」
「いや、まず順番に話してくれ。あの夜、俺は親父に一人を狙うのをやめるよう言ったよな。そのあとの記憶が曖昧なんだ」
実際のところ、話し合いがどうなったかも覚えていない。
気が付いた時には親父の隠れ家の一つにいた。
親父の研究所やら俺の予備体の保管場所やらが世界各地に隠してあるのだ。
目覚めたのが日本の施設でよかったと思う。
見覚えのない機械の中で寝かされていたのはわかったが、自分でそんなものに入った覚えはない。
親父の姿も見えないし、俺の私物も制服と手錠と鎖と銀時計の他はなにもない。
家の鍵と使用済みの札束と簡単な書置きだけが残されていた。
書かれていたのはまず学校のこと。表向き転出の手続きをしてあるが俺が目覚めたら元の学校に通えるよう話は付けてあるという内容。
もう一つは親父のこと。この刑務所にいるから会いに来い、とそれだけ。
隠れ家を出たところで季節が冬になっていると気づき、近場の図書館でここ数か月の新聞を調べて親父が逮捕されたという記事を見た。
途方に暮れながら電車を乗り継いで家に帰ってもやはり親父はいない。
家具はあったが親父の研究に使う機械や資料は全部消えていた。
ただ、俺の教科書や通学鞄はそのまま残っていた。
それらを見ると妙に安心して、その日はそのまま眠ってしまい、次の日目が覚めると俺の足はごく自然に学校へと向かっていた。
本当に元のように通えるのかやはり不安で、生徒の誰にも会わないように朝早くからいつもは使わない道を通った。
職員室に入ると先生たちは何も知らない様子で驚き戸惑っていた。
やはり駄目なのかと思ったが、校長がすっと俺の横から職員室に入ってきて、先生方を集めて何か小声で話しあった後、俺は今日からまたここの学生なのだと言われた。
そうして数か月分進んだ授業に苦戦しながらなんとか放課後まで過ごし、色々と話を聞きたがる一人を置いて、わざわざ親父に会いに来たのだ。
フン、と親父は鼻を鳴らした。
「あの夜に我々は襲撃を受けたのだ。お前は不意打ちを食らい気絶したから覚えていないのだろう。私は敵を撃退してからお前を治療カプセルに入れた。お前に意識があれば能力で体を換えて済んだものをな」
「襲撃って誰から?」
「ハルマゲドンを目的に山乃端一人の命を狙う者どもだ。私とは一部共通の情報網を有していたがこちらの狙いに気づいたらしい」
「親父の能力がばれたってことか?」
それがあの夜というのはできすぎたタイミングだ。
「まさか俺が一人に話したのを聞いていたのか?」
「そうだろうな。私が山乃端一人の殺害に失敗するまで手出しをしないという約束で奴らはこちらを監視していた」
「俺のせいか……」
「遅かれ早かれといったところだ。山乃端一人の能力を知ったように私の能力を調べる手段もある。我々は互いに牽制しあい内情を探りあっていた。その結果、私は奴らにとって裏切り者ということになったわけだ」
「それで、親父はそいつら全員倒したのか?」
「その場にいた者はな」
とりあえず俺が寝ていた機械が治療カプセルだったのだろう。
他にも気になることはあるが。
「お前の心配事はわかりやすいな。想像通り山乃端一人を狙う者の全てを片付けたわけではない。だがさっきも言ったように奴らは互いを牽制している。特に残った者は慎重派だ。この数か月は山乃端一人を狙う動きは見せていない。しかしその状況がいつまで続くかはわからん。あるいは奴らとも無関係の者が全く別の理由で山乃端一人を襲うこともあるだろう」
「でも今は俺が目覚めた。そういうことなら俺は一人を守るよ。俺や親父が一人を傷つけないだけじゃなくてさ。親父も俺にその話をしたってことは一人をどうこうするつもりはないんだろ?」
「今のところはな。元より山乃端一人など私にとっては数ある研究対象の一つでしかない。死後に残るどころか死してから発動する能力。興味がなくなったわけではないが今はより優先順位の高い研究がある。そしてその手掛かりもすぐに手に入る。フフ、フハハハハハ!」
親父は高笑いをしながら空をつかむような仕草をした。
「ハルマゲドンが起きないようにするのが目的だったんじゃないのか?」
「ああ、それは我が研究の過程でそうなるというだけだ。目的ではない。だがそれを目当てに私が山乃端一人を殺すことを望んでいるの者共は確かにいるぞ」
「どういうことだよ」
親父が一人を殺せばハルマゲドンの発生を防げる。
ハルマゲドンのない世界、魅力的な響きの言葉ではある。
しかしそのために一人を殺すのか。
理屈としては、それを良しとする者もいるのか。
「現在私と取引をした勢力がそれを選択肢の一つとして考慮している。そちらもそちらで一枚岩ではないのだがな」
「この地下牢を貸した奴か」
刑務所を自由に使える勢力ってなんだよ。警察か、政府か。
随分大きな話になってきた。
「ハルマゲドンを起こしたがる者共は私を襲うことに関しては団結している。それに遅れを取るわけではないが万が一もある。なにより煩わしい。そう考えているところで私連中が取引を持ち掛けてきた。奴らも山乃端一人を平和のために殺すべきか否か決めかねているようだが、まずは前提となる私の能力を確保しておきたいとな。私はその提案を受け入れ、その時もまだ眠りこけていたお前は隠れ家に移したのだ」
「なるほど、それで大体わかったよ」
一人の狙う奴らはまだまだいる。いつ襲って来るかもわからないし、それぞれ目的もバラバラ。
治療中の俺を隠したのは今取引している勢力からの干渉を避けるためだろう。
親父は俺が一人を守ることに文句はないと考えていいよな。手伝ってもくれないだろうけど。
「そうだ、俺の私物はどうしたの?」
「ここに箱詰めしてある。元の家はまだ襲撃の可能性があったからな。お前は別の隠れ家に行け」
そう言って親父が差し出した紙には簡単な地図が手書きで書かれていた。
不親切な書き方だがそれでもなんとなくわかる。
そう離れた場所ではない。
学校と同じ町の中だ。見覚えのある道だと思った。そう思える自分が少し誇らしい。
「鍵は今までの物と共通だ。さっさと荷物を持っていけ。今は電源が切れたようだがスマホの通知音がうるさかったぞ」
「ああ、ありがとな、親父」
一人がメッセージをずっと送っていたと言っていた。
相当溜まっていると思う。
親父は当然のように鉄格子の扉を開き、牢の中から一つの段ボール箱を押し出した。
俺は抱えるようにそれを持つ。
これでも一応魔人だから持てないほどの重さではない。
それでもこの箱にはずっしりと色んなものが詰まっているのだ。
〇
鏡写しの少女の片割れが新たな居場所へと向かって行った。
私はそれを鏡の中から見送った。
「クリスプ博士、ありがとうございます」
「互いに契約を守っただけだ。感謝される筋合いはない」
「そうですね。あなたはあなたの探求心を満たすために行動している。今はその対象が『山乃端一人』から『転校生』へと移った。そういう話でしたね」
「わかっているのなら次はそちらの情報をよこせ」
「ええ、約束は守りますし嘘は吐きません。それが『転校生』ですから」
私は願う。
山乃端万魔という人間について。
鏡写しに作られた命。一人ならざる一万の魔人。
自身の生を歩み始めた彼女が白い希望となることを。
私は祈る。
山乃端一人という人間について。
数多の世界で手折られた命。無数に連なる世界において一つの運命を背負う魔人。
定命はいつか尽きるのだとしても、その別れの日がどうか、人として当然に重ねた年月の先にあることを。