ふらり、ふらりと幽鬼のような男が夜の繁華街を歩いていた。
長く着替えていないであろうジーンズとコートは薄汚れて悪臭を放ち、髭と髪は長く無造作に伸びている。何より異彩を放っていたのは、右手に握られた長ドスであった。

ドン、と男に何かがぶつかった。酩酊したサラリーマンがよろけて姿勢を崩し、男に寄り掛かったのだ。
先ほどまで幸福そうな表情をしていたサラリーマンが、表情を変えて怒鳴り始める。

「何してくれやがるんだこのジッ」

サラリーマンが言い切る前に、その首は高く切り離されていた。残された胴体は血しぶきをあげて倒れこむ。賑やかな周囲は一瞬沈黙し、直後に悲鳴が上がる。
抜き放った長ドスを男はゆっくりと白鞘に戻し、騒ぎ立てる周囲を一瞥せず再びふらふらと歩き始めた。

男にとって全てが無価値だった。男の矮小な世界は長年の稼業である殺しと何よりも愛した恋人、その二つだけで構成されていた。恋人が亡くなった今、世界は半分失われたも同然だった。

男は今、ただ一つの可能性に縋っていた。

ダンゲロス。

とある事象をきっかけとして発生する、魔人による大規模な抗争。或いはトーナメント、或いは争奪戦。様々な形態を以て開かれるダンゲロスには、共通する特徴が2つ存在する。

1つ、最後まで生き残った者には願いを叶える権利が与えられる。

そしてもう1つ、

ダンゲロスは「山乃端一人」の死によって引き起こされる。

出所不明のこの情報は瞬く間に都内を駆け巡り、数多の猛者の元へ届いた。男もそんな猛者達の一人だった。

男にとって、それが真実かどうかなどは大した問題ではなかった。

愛する人を諦める選択肢など、男の中には存在しないのだから。

性を黒桐(こくとう)。名を起座無(きざむ)。職業、殺し屋。

東京屈指の魔人剣客である。


◆◆


黒桐(こくとう)起座無(きざむ)が山乃端一人の場所を特定するのに時間は掛からなかった。
深夜零時、シスター服の少女は荒廃した礼拝堂、その中心に跪いていた。
目を閉じ、両手を組んで祈る。沈黙こそが神への言葉だとでも言うかのように、ただ穏やかな姿がそこに在った。
起座無は礼拝堂を無音で歩く。殺し屋として何度も繰り返してきたその技術はもはや習性として染みついている。

周囲に敵影無し。長ドスを抜き放ち、山乃端一人に近づく。
噂によれば山乃端一人は既に数々の魔人に狙われ、東京中を逃げ回っているらしい。一箇所に留まることも出来ず、こうやって無人の場所を転々としているのだろう。

それがどうした。山乃端一人を殺せば、あの人に会うチャンスが得られる。そのためならば俺は何だってしよう。

少女に悟られることなく、男は長ドスを振りかぶり、

ガンッ。

長ドスが強く弾かれ、軌道を逸らされる。起座無は咄嗟に後方へ跳躍し、構え直す。
感づかれた? 或いは魔人能力による自動防御? 起座無は思考を巡らせる。しかし、直後に起座無は理解した。

山乃端一人の影が揺らぎ、渦巻き始める。
男だ。白いスーツの男がぬるりと、影の中より姿を現したのだ。

「随分とまぁ、懲りずにやってくるものだなお前達は」

男は気だるげに欠伸をしながら立ち上がった。すらりとした長身を華美なスーツが引き立てる。その顔立ちは非常に美しく、だが同時にそれが人ならざるものであることを理解させた。

起座無は流れてきたもう一つの噂を思い出す。

『山乃端一人は悪魔に呪われている』

なるほど、あの話はどうやら真実であったらしい。僅かな立ち振る舞いからも、影より現れた男が常人でないことは理解できる。少なくとも『魔人』、或いはそれに相当する力を持つ存在であろう

山乃端一人が祈りの姿勢を解き、ゆっくりと振り向く。
その少女が16にも満たないことは容易に見て取れた。しかし、彼女の瞳は力強く、真っ直ぐと起座無を見つめていた。

「私には悪魔が憑いています。それもとびきり強大な悪魔が。貴方も無事では済まないでしょう。お願いです、どうか諦めて頂けませんか」

彼女の澄んだ瞳が、本当に争いを望んでいないのだと訴えていた。
起座無はその瞳から目を逸らし、そして首を振った。

「どうか、俺のために死んでくれ」

枯れ果てた幽鬼の如き男は長ドスを片手に構え、身を深く沈めた。

「交渉決裂、だな。いつものことだ」
「……ごめんなさい、ジョン・ドゥ」
「何、構うまいよ。ここからは俺の時間だ」

長身の伊達男は、両手をポケットに入れたまま、山乃端一人を庇うように一歩前へ出た。
実に奇妙な光景であるが、腕の立つ者ならば即座に理解するだろう。
礼拝堂に、プレッシャーと死の気配が広がってゆく。

「――シャッッ!!」

起座無の踏み込みが大気を震わせ、恐るべき速度でジョン・ドゥに迫る。

最短経路、最小動作、最高速度で放たれる初手にして渾身の一刀。魔人の身体能力を存分に駆使し、首を狙って刎ね飛ばす致命の一撃。
背後の山乃端一人が驚くように息を飲んで、

「おっと、こいつは」

それをジョン・ドゥは、そのまま首で(・・)受け止めた。

「お返ししようか」

ジョン・ドゥは起座無に胴回し蹴りを叩き込み、大きく吹き飛ばす。起座無の体は直線の軌道を描き、壁に叩きつけられる。

「まだやるか? 今なら逃がしてやるぞ」

軽口を叩きながらジョン・ドゥはにやりと笑い、ゆらりと構える。
起座無は即座に跳ね起き、無言で長ドスを構え直す。
先ほどの一撃の感触から察するに概念防御の類いではない。ジョン・ドゥの魔人能力は「肉体の強化」。厳密には耐久力と威力の向上といったところか。
ならば、問題はない。

雷鳴の如き踏み込みと共に両者が激突する。
放たれる神速の上段斬りを交差した上腕で受け、大きく弾き返す。刃と拳が高速でぶつかり合い、薄暗い礼拝堂に火花の軌跡が引かれる。
一合、十合、百合。数を重ねていくにつれて二人の動きは加速し、攻撃の軌道は複雑さを増してゆく。
ジョン・ドゥの動きは起座無のように武を修め、合理を極めた者のそれではない。だが、振るわれるその拳は速く、重い。力によって敵をねじ伏せ、非合理を以て合理を砕く。ジョン・ドゥの在り方は強者のみに許された在り方だ。

そんなものは関係ない。何の問題ともならない。
相手が誰であろうとも、山乃端一人は必ず殺す。

二人の攻防が目まぐるしく入れ替わる。あらゆる動作がコンマ1秒で刻まれる。
獣の如き低姿勢より放たれる一文字をジョン・ドゥが軽やかな跳躍で躱し、続けざまに顎を蹴り上げる。起座無は脱力によってそのまま受け流し、再び地を蹴って逆袈裟に刃を走らせる。長ドスが白いスーツを裂き、血を滲ませた。

(浅かったか……! ならば!)

起座無が弾けるように加速する。三次元機動で刃が空中を舞い、そして抉り取るように悪魔に迫った。ジョン・ドゥはそれらを全て弾き、流し、四肢を躍動させ反撃に転じる。放たれる拳が起座無の体を掠め、骨が軋み上がる。だが、放出されるアドレナリンが痛覚を麻痺させる。

起座無は確信を得ていた。ジョン・ドゥは攻防において起座無の刃を四肢でのみ受け止めている。恐らくジョン・ドゥの魔人能力は全身に適用できる訳ではない。最初の一撃を首で受け止めたのは、その箇所を集中的に強化したためであろう。
超高速の攻防の中で強化する部位を瞬時に見極め、全ての刃を捌く技量は神業の一言だ。だが、
祈るように手を組み、ジョン・ドゥを見守る少女と目が合った。

「迂闊だな」

起座無は僅かな隙を突き、無防備な山乃端一人に向け短刀を放つ。

「チッ!」

ジョン・ドゥは咄嗟に身を乗り出し、短刀を弾き飛ばす。
それが確かな隙を生んだ。起座無はジョン・ドゥの懐に飛び込み、首を掴む。ジョン・ドゥは振り払おうとするが叶わない。起座無はジョン・ドゥの腕を対の手で抑え込み、足の動きを爪先で縫い留める。
動きを止められる時間は僅か数秒。だが問題ない。
準備は整った。

魔人能力『ハローサマー・グッドバイ』

右手で5秒以上触れた生物を内側より爆破する能力。条件は既に満たされている。防ぐことは叶うまい。
起座無は勝利の確信を以て能力を発動し――

「!?」

直後、起座無は膝から崩れ落ちた。
左腕はあらぬ方向に捻じ曲がり、膝関節が破壊されていた。何より起座無が困惑したのは魔人能力が発動しなかったことだった。
発動条件は確実に満たしていたはずだ。不発などありえない。まるでこれは――

「「視界共有」「肉体強化」「思考加速」そして「魔人能力の無効化(・・・・・・・・)」。我が「大公爵」は4つの魔人能力、その行使を可能にする。残念だったな」

『大公爵:視覚共有』。初めからジョン・ドゥは山乃端一人の視界を共有していた。それ故に、起座無の意図を即座に看破し、敢えて乗ることによって起座無を罠に嵌めた。
『大公爵:能力の無効化』。ジョン・ドゥはこれまでの戦闘から起座無の能力を「常時発動型の能力」或いは「発動条件に接触が含まれる能力」、このどちらかであると絞っていた。故に超接近戦を誘い、この状況に持ち込むことに成功したのである。

そして、悪魔が拳を振りかぶる。

『大公爵:肉体強化』発動。強化範囲を限界まで絞り、威力を上昇させる。
『大公爵:思考加速』発動。起座無の回避軌道を見切り、全て潰す。

「褒美だ。冥土の土産にくれてやる」

ジョン・ドゥが放つ、最大最速の一撃。
その一撃は長ドスごと起座無を貫き、吹き飛ばし、容易く破壊した。


◆◆


黒桐起座無は粉々になった五体を広げ、天を仰いでいた。
視界は霞み、意識が朦朧としていた。口から血反吐が溢れ、呼吸もままならなかった。体温がゆっくりと失われていくのが感じられた。己はここで死ぬのだと、黒桐起座無の全てが告げていた。

黒桐起座無は死を恐れていなかった。彼の世界は生業たる殺しと、愛した人の2つで構成されていた。その中に己自身は含まれていなかった。黒桐起座無を含む2つ以外の全てが、彼にとって無価値なものだった。

もう一度だけ、あの人に会いたかった。
起座無の心中はそれだけで埋め尽くされていた。

ふと、冷え切った掌が温かいものに包まれるのを感じた。
そちらに振り返ることも叶わなかった。指の一本も動かなかった。
ただ彼は静かに、その温もりに浸っていた。

暗くなってゆく世界の中で彼は思い出す。
初めて彼女と出会ったあの夏の日を。
雨上がりの坂の上で向日葵のように笑う君は、眩しいほどに美しかったのだ。


◆◆


山乃端一人はただ静かに、黒桐起座無が息絶える瞬間まで手を握り続けていた。
自分が生きることを望む限り、多くの命を奪っていくことになる。故に、それは彼女なりのけじめのようなものだった。

「終わったか?」
「ええ。もう大丈夫です」
「随分と真面目なことだ。お前に非など何一つ無いだろうに」
「分かっています。でも、こうでもしないと命の重さを忘れちゃいそうで」
「ハハハハ! そうかそうか!」

影の中より悪魔が笑う。

「ちょっと! 何がおかしいんですかジョン・ドゥ!」
「やはり面白いなお前は! 安心しろ。この俺がいる限り、誰一人として傷つけさせはせんよ、我が花嫁」
「また花嫁って……。ですから私は……ってひゃっ!」
「そこまでだ」

いつの間にか影より姿を現していたジョン・ドゥが、山乃端一人の体を抱き寄せ、顔を近づけていた。

「俺は欲しいものは必ず手に入れる。まずはお前を狙うあらゆる敵を、元凶たる『転校生』を、この俺が全て打ち砕く。考えるのはそれからでも遅くはあるまい?」
「転校生……」

転校生。異世界より現れる、魔人を超越した存在。
メッセンジャーを名乗る男。鏡介が言うには、その転校生は『山乃端一人の死体』を求めてこの世界へと来訪したのだという。
絶大な力を持つ転校生は世界に歪みをもたらした。「山乃端一人が死ぬことでダンゲロスが引き起こされる」。無数の並行世界から手繰り寄せられた縁が、山乃端一人に死と破滅の運命を強要する。
解決するための手段はただ一つ。転校生を打ち倒し、世界の歪みを修正することに他ならない。

「ええ、それならちょっとだけ考えてあげます。本当にちょっとだけ。ですから、頼りにしています、我が悪魔」
「ああ、任せたまえよ。我が花嫁」


◆◆


エーデルワイス。気高き白を意味し、純潔を象徴する。それは天に近い場所でのみ花を開かせる。

花言葉は『高潔な勇気』『大胆不敵』。そして、『大切な思い出』。

これは、悪魔と共に旅をした3日間の物語。
最終更新:2022年02月05日 20:44