目覚めてまずシャワーを浴びるのは、己の輪郭を確かめるためだ。
体の上を滑っていく温かな雨。
その流れに逆らうように、ゆっくりと指が上っていく。
下腹部、腹部、胸部、肩と脇、寄り道をするように腕に渡り、戻って、首。
そして最後に顔に触れる。
いつも疑問に思うことだが湯を炊けば蒸気が生まれるというのにどうして風呂場に鏡を置くのだろうか。
曇らないようにする技術だとか、あるいはそれを軽減する方法というのがあるかもしれないが、この家の主はそれを知らずまた興味もなかった。
浅葱和泉。
いま風呂場から出て、体を拭っているものの名前である。
「やぁ、ヒトリちゃん」
「おはようございます!」
ここに少女が一人。
山乃端一人、浅葱和泉のご近所さん。
いつもより早く家を出るらしい。
「学生さんは大変だね」
「浅葱さんも学生でしょ……?」
そう言われてけらけら笑っている。
セーラー服からのぞいた浅葱の白い足が陽の光を跳ね返しているようにも見える。
「そういえば、そろそろ教えて欲しいんですけど」
「何を? 口座の暗証番号とか?」
「そうじゃなくて……」
ぴっ、と向けられる指。
人を指ささない、とは言わない。
自分が何者であるかくらい、浅葱和泉は理解しているからだ。
「浅葱さんって結局男の人なんですか、女の人なんですか」
「ふふふ」
「あ、意味ありげに笑って誤魔化さないでくださいよ!」
浅葱和泉がよくとる手段だ。
意味ありげに、あるいは妖しげに笑ってみせる。
山乃端一人に対してだけでなく、自分が対峙してきた人物の多くにそれを見せてきたのだ。
黙秘、肯定でも否定でもなくただそのままにして質問の答えを見送る。
あるいは。
「ワタシの性別を知って、どうしたいのかな」
「どうって……別にどうもしませんけど」
「ほら、なんだっけ。ジェンダーレス? ジェンダーフリーだっけ。そういうのだってあるんだろう? それとも何かな」
浅葱和泉は時折、質問を返す。
「ワタシが男か女か分からないと、困る事情があるのかな」
距離を詰め、相手の顔を覗き込みながらそう囁いた。
「自分の気になる相手が女の子だったら、とか思う?」
くすくすと笑う。
その笑みはやけに鼓膜に張り付いてしまう。
思わず、といった雰囲気で山乃端は体をこわばらせる。
恐怖というよりは緊張の色が見える。
息が触れるほどの距離に顔が近づけば、年頃の少女としては当然ともいえた。
「そんなんじゃありません!」
「そう。別にワタシはなんだっていいんだけどさ。ヒトリちゃんがそれを気にする理由なんてね」
赤くした頬をからかうように、ふらふらと下がってみせる。
上目遣いで、口元に笑みを浮かべながら。
それから、すぅっと浅葱の指が自身のスカートに触れる。
「似合ってるでしょ」
「似合ってはいますけど……」
「じゃあ、いいじゃあないか。それ以上は今は」
「むう……」
「うふふ……そうだねぇ。まぁ、気になるっていうのは大事さ。好奇心がないと植物と変わらないだろうからね」
ただ、と付け加えて。
「もしも本気で気になるのなら、ワタシは構わないよ。ヒトリちゃんが、本当に気になってしまうなら」
スカートがゆっくりと持ち上げられる。
膝の上でその動きは止まる。
山乃端はそれを制止しようとしつつも、喉元まで上がってきているその言葉を吐けずにいる。
その心中にあるものがどういう感情なのか、浅葱和泉には分からない。
もっと言えばその感情の色に興味がないようにも見えた。
「明かすことだってやぶさかじゃあないよ」
笑みと共に吐き出した言葉に、山乃端は頷くしかなかった。
「それじゃあ行ってらっしゃい。気を付けて」
「……お、同じ学校ですよね!? 一緒に行きましょうよ!」
人の噂も七十五日。
そんな言葉があるが、現代においては人の興味の移り変わりというのが早すぎる。
ひと月と持てばよく持ったほうだろう。
しかし、人の噂を七十五日続ける方法があるとしたら、細く長く語られることだろう。
大きな事件でなくていい。
日常の中に溶け込む違和感のような存在であるならば。
じわりと滲むように伝播するのなら、問題なく七十五日続く噂話となる。
それを現実とするのが浅葱和泉だった。
この人物にまつわる噂はいくつかある。
夜の繁華街で誰かと歩いているのを見た、資産家の子供であり一人暮らしをしている資金の出所はそれである、どのクラスにも在籍していない、卒業しても新入生として入学してきている。
そんな噂をされつつも、浅葱和泉はそれを肯定も否定もしなかった。
山乃端一人にそうしたように意味ありげに、あるいは妖しげに笑っているのだ。
毎日ではないものの、時折思い出したかのように誰かが語りだす。
それが浅葱和泉の噂話。
しかしそんな浅葱の噂をかき消してしまう噂というのがある。
退屈な日常のアクセントとなる刺激、転校生の噂である。
(いやまぁ、なんてことはないけどね)
放課後、あてもなく校内に残り続けている。
部活動にも委員会活動にも縁がない。
ならさっさと帰ってしまえばいいのだが、帰っても特にすることがあるわけではない。
なんとも退屈な日常が常に続くばかりなのだから困ってしまう。
目下、興味があることといえばこんな冬にやってくる季節外れの転校生くらいのものだが、それもそこまで大きな興味を起こすものでもない。
川の中に石を投げ込んだ時とそう変わらない、波紋は起きども川の流れを変えるに至らない。
退屈で、なんともつまらない日々である。
「浅葱さん?」
「あぁ、ヒトリちゃん。どうしたの」
「ちょっと委員の仕事で……浅葱さんは部活……じゃあないですよね」
「そうだね」
廊下を歩いている山乃端と出会った。
一方の浅葱は開けた廊下側の窓枠に腰掛けて座っている。
「……窓枠に座る時ってそういう座り方はしないんじゃないですか」
そもそも窓枠は座る場所ではない。
山之端一人は真面目ではあるもののそれを咎めるほどではないらしい。
本来窓が納まっているフレームに背を預け、レールの上に尾てい骨を乗せている。
なんらかの絵画か、出なければレコードのジャケットのようにも思えた。
窓枠に押し付けられた窮屈そうな右足と、その枠からこぼれた左足もなんとなくそれらしいものに見える。
「家に帰ってもすることがなくてね。誰もいないし」
「でももうすぐ下校時刻ですよ」
「そうだっけ。そんなのもあるんだったね。そういえば」
「またそんなこと言って……浅葱さんが知ってようと知らなかろうと、そういう決まりですからね」
「ワタシが知らなくても勝手にやってくる?」
「そうです……え、なんでそこで黙り込むんですか」
静かにした浅葱は人形のようだ。
見目の良さ、というのもあるがどこか伏し目がちにしている浅葱は冷たい血の温度を見せるからだ。
人間や生物の持つ温度、その温かさが極端に低い。
白い肌が陶器で、艶やかな黒い髪が夜の水面で、光の少ない瞳は黒曜石だったなら、きっと納得できただろう。
けれど浅葱和泉はそれらが組み合わさって人の形をなしている。
低くはあるが、確かにそこにある温度がそれを生物足らしめている。
だから、山乃端一人は息をのんでしまう。
一方で見られている浅葱自身はそんなことを気にしない。
そういう形で、そういう在り方であることを意識しないのと、いま浅葱の思考は別のところに巡っているからだ。
「下校時刻って何時?」
そう聞くと、山乃端は銀の腕時計を見て確認する。
「六時ですよ。部活動とかがあるときは多少見逃してはもらえますけど」
「そっか。もう帰らないとね。ヒトリちゃん、一緒に帰る? どうせ途中まで一緒だし」
「え、いいですけど……」
「じゃあ、お先どうぞ」
「一緒に帰るっていいましたよね!?」
その反応の何が面白いのかまた浅葱がくすくすと笑い始める。
いつもと変わらない反応なのに、笑ってしまうのだ。
「荷物をね、取ってこないといけないから」
「それくらい待ちますよ」
「待たないで欲しいなぁ」
「……?」
「プレゼントを用意してないと思って」
「もう……先行ってますからね」
そういって、山乃端が歩いていく。
足音が遠ざかっていくのを聞いて、浅葱は教室の方へと滑り落ちる。
ぺたり、と猫がそうするように四足で教室の床におりていく。
「とはいえ、女の子に何かを渡すとなると花かんむりくらいしか思いつかないね。キミは何がいいと思う?」
そう語りかける。
視線の先、真っ黒なものに拘束されている男子生徒が一人。
「ねぇ、答えて欲しいな」
手錠のように黒い影が固まり、窓の下の壁に手首を磔にしている。
体も同様に黒い影が固まっており、こちらは床に縛り付けられているようだ。
そんな人物の体にまたがって浅葱は問いかける。
とはいえ、肝心の口にも黒い影が詰め込まれているのだが。
「あぁ、そっか。そういうものだよね」
真っ黒な塊をずるりと指で引き出すと、唾液にまみれた影が口から離れていく。
「さぁ、答えて……」
「て、め……ぇ……!」
ぶつり、と音がした。
力任せに引きちぎられた手首の影。
「なんだ、元気じゃないか。心配したんだよワタシは。キミが不能になっちゃったんじゃないかって」
「うるせぇ!」
一瞬、世界から音が消えた。
それが魔人能力によるものだと直感的に理解したのは浅葱自身も魔人であったからだ。
いつの間にか立ち上がっていた男子生徒が椅子を振りかぶっている。
「危ないよ」
沸騰するように影が膨らんでいく。
「もう一度、躾をしてあげないとね」
膨らんだ影が破裂し、枝分かれしていくつかの触手に変わっていく。
「それともおしおきがご所望かな」
浅葱和泉は焦らない。
「ッ!」
少し時間をさかのぼって振り返るなら男子生徒が浅葱に拘束されたのは油断のせいであった。
彼の目的は別にあって、浅葱和泉という存在はノイズではあったものの特に気にするようなものではなかった。
だが浅葱和泉は彼の目的を知っていて、それを先んじて潰そうと動いたのだ。
教室の中で待ち伏せをする算段だったのだろうが、その彼自身を待ち伏せするものがいたわけである。
以上が彼が拘束されるまでの顛末だ。
「ふふ」
椅子と触手が交差する。
二本のそれが椅子を受け止めて、その隙をつくように彼の足元で触手がうごめく。
「いいねぇ」
男の口に入っていた影の塊を口の中に放り込む。
次に浅葱が口を開けた時にはその影は刃の形に変じていた。
唾液と血が混ざった歪な液体を身にまとわせながら切っ先が落ちて、続くように持ち手が構築されていく。
包丁。
器用に落ちていく包丁を掴んで相手の腹に押し込もうと進む。
「舐めるな……」
また、世界から音が消えて。
今度は男が浅葱の眼前にいる。
「っ……!」
男の拳が浅葱の顔を打つ。
続いて、胸倉を掴まれて乱雑に投げ飛ばされた。
机やら椅子やらを弾きながら教室の廊下に浅葱は打ち付けられる。
男の魔人能力は『神速の初動』であった。
一方向のみかつ短い距離ではあるが、強烈な速度とそれにふさわしい勢いでもって移動する。
その速度は音を置き去りにする……と本人は思っているが、詳細なことは分かっていない。
「計画が……狂っただろうが……!」
また、音が消えた。
腹を踏まれ、馬乗りになった男が顔を殴りつける。
包丁となった影を持った手を踏みつけ、何度も浅葱の肉体を叩き続けた。
「こんな……! ことが、できるなら……ワタシの拘束なんっ、か……振り切ればよかったのに……さ……がっ……!」
血が流れる、温かな温度が抜けていく。
生の実感であり、生物であることの証明。
浅葱の口元に笑み。
「案外……マゾなのかな、キミって……」
挑発だ。
男は分かっている、山乃端と話している間の拘束の強さを。
自分と二人になってやっと拘束が緩んだことを。
そして、そのうえで目の前のこいつは自分を煽っているのだと。
今までよりも強くその顔を殴りつけ、握られていた包丁を奪い取る。
刺す。
そう思った。
そしてすぐにでも山乃端に追いつかなければならない。
そんなことを考えていた。
「ダメだよ。ワタシのことだけ考えないと」
悪寒。
背に走った冷たい予感。
それは即座に現実へと変わる。
「『影の形に従うが如し』」
なにかまずい。
早々にこいつを始末しなければならない。
そう思ったのだろう、包丁が振り下ろされる。
喉に突き立てたはずの刃先。
しかし血は流れず、喉には真っ黒な影の穴が生まれただけだ。
「ワタシの影でワタシは殺せない」
浅葱和泉の輪郭が曖昧になる。
陽炎のようにぼやけ、薄れ、崩れていく。
白い肌が少しずつ黒く染まり歪んでいくのだ。
「顔が青いよ」
耳に囁く声が届く。
自分の下にいるはずの浅葱の声が背後から聞こえていた。
影の触手が伸びていく。
「ほら……おいで……」
体が絡めとられていく。
「影が抱きしめてあげよう」
影に体が食われていく。
ゆっくりと体の自由が奪われていくのを感じながら、男の意識は闇の中へと消えていった。
「……」
意識を失った男が自身の影に飲み込まれていくのを浅葱和泉は見ていた。
服についた汚れを払い、血のにじむ顔や体に指を這わせると、傷が消えていく。
完全に癒えたわけでない。
自己保管の範囲内で元の形に見かけだけ戻しただけである。
「うん。まだ下校時刻は来てないね。それじゃあね、狭いところだけど楽しいところだよ」
そう言って沈んでいく男に向けて、浅葱和泉は笑いかけた。
「遅かったじゃないですか」
校門に歩いていくと、山乃端一人が待っていた。
先に帰られてもおかしくないと思いもしたが、付き合いがいい。
「いやぁ、忘れ物をしているような気がしてさ」
「それにしてもですよ……あ」
「なにかな。人の顔をじいっと見て」
「血色、良くなってません?」
「ぷっ……あっはっは!」
思わず笑ってしまった。
確かに血の巡りはよくなったかもしれない。
血を流したからなのか、血を持ったものを飲み込んだからなのかはわからないが。
さしたる興味もない。
「もう……そういえば、プレゼントとか言ってましたけど」
「あぁ。色々考えたんだけどね、平和な日常ってどうかな」
「なんですかそれ」
「特別で大切なものだよ」
浅葱和泉にとって、それがどれほどの価値があるかわからない。
価値を感じるものなどほとんどないからだ。
影より出ずる化人であるが故。
「ワタシには必要ないからね」
放課後、浅葱和泉が山乃端一人と出会い、帰ろうと誘う前のことである。
「浅葱さん」
階段の踊り場、そこに設置された姿見から声がする。
鏡の中に映る人物に向かって浅葱は笑う。
「キョウスケちゃん」
「どうも。ご無沙汰してます」
「ワタシより真面目なのに、出席日数足りてなさそうだよねキミ」
「……まぁ、そうかもしれないですね」
「本気で受け止めた顔をされると困るよ。で、何か用事?」
「……用事というか、一つ聞いておいて欲しいことが」
鏡助の顔は真剣であり、それを見ると多少は浅葱も真剣になるべきかと思った。
いつものような笑みが少し消えて、聞く姿勢になる。
廊下を走る生徒たちの声、ミーティングをしているらしい運動部、あらゆる音にかき消されてしまいそうな密談。
「山乃端さんは狙われているかもしれません」
「狙われてるって何? 恋愛? キョウスケちゃん好きなの?」
「そうじゃあないでしょう……」
「ふふふ。まぁ、冗談としておくとして。そうかそうか、あの子狙われてるんだね。人気者だ。嫉妬しちゃうね」
うそぶいた言葉を吐いて足を動かす。
「彼女を狙う人間が校内にもいるかもしれないのでお気をつけて」
「キミも嗅ぎまわって鏡割られないようにね」
どうしてそんなことをするのか、浅葱和泉には理解ができない。
詳細な理由を聞いてもきっと同じように答えるだろう。
興味を持てないのは、きっと価値を感じられないからだ。
「ヒトリちゃんに消えられると困るな」
浅葱和泉が価値を感じるのは……例えば、自分に興味を持ってくれる女生徒とかそういうものだ。
「あの子、笑うと可愛いしね」
最終更新:2022年02月05日 21:54